篆刻のわが師父二人(日本語クラブ27号 2007年11月号)
瀋陽薬科大学
山形 達也
1.わたしの趣味は何?
中国に来てからはいろいろな人たちに出会う。日本にいる頃と違って、同業の研究者仲間に会うのはきわめてまれである。会うのは中国人のこともあるし、日本語の先生たちのこともあるし、何処でどうなっているのか説明もし難い人たちに会うこともある。そのような時、「先生は何が趣味なんですか。暇な時は何をしているんですか。」と訊かれることがある。
日本にいる時は訊かれても困らない。仕事場を離れてうちにいる時は休養と決めているから、音楽を聴くか、ビデオで映画を見るか、本を読んでいる。私の育ち盛りの頃はテレビがなくいわゆる活字世代として育っているので、どんなジャンルの本でも読むことが好きである。映画は大好きだけどマンガは苦手で、読むのは文字である。
さて、中国にいると仕事以外に何をしているか。音楽はない。聴くことも演奏することも、歌うことも出来ない。DVDは何枚か持ってきたけれど、コンピュータのDVD-ROMが壊れていて、観ることも出来ない。本は日本に帰るたびに物色して面白そうな小説を買ってくるけれど、長持ちしない。あっという間に読み切ってしまう。あとは教師会の日本語資料室の本だけが頼りである。
本は、資料室から何時も借りて来られるわけではない。それじゃ、どうするか。夜うちに帰って食事をすませたあとの時間が問題である。殊勝にも中国語の勉強をしようと思ったのは、ごく初めの時だけだ。覚える端から忘れる中国語にとても付き合いきれなくて、投げ出すのに時間は掛からなかった。
2.師父加藤さんに導かれて知った篆刻
日本語クラブ目次
17号 2004年6月
18号 2004年11月
19-1号 2005年4月
19-2号 2005年4月
20号 2005年6月
21号 2005年11月
22号 2006年4月
23号 2006年6月
24号 2006年11月
25号 2007年4月
26号 2007年6月
27号 2007年11月
28号 2008年4月
29号 2008年6月
そして何時のことだったか、薬科大学の日本語教師の加藤正宏さんに篆刻を勧められたのだった。石も買った、篆刻刀も買った。それでもなかなか始めなかった。やがて加藤さんの彫った石を見て、そして妻の彫った石を見て、やっとそれなら、私もやってみるかという気になったのだ。それ以来時々彫ってみる。加藤さんが中街の路上市で見つけて買ってくれた「篆刻書」を見ながら、篆書を彫るのである。 【写真は師夫・加藤正宏さんと文子夫人】
大昔から印章は人々の生活に使われてきたことは想像に難くない。実際、博物館に行くと有史の頃の印章の発掘品が出土している。交易の時に品質保証というか、中身はちゃんとしていますよ、すり替えていませんよと保証するために物品に封印をした時に使われた封泥が、印章の起源だとあるものの本に書いてあった。容れ物を縛ってそのひもの結び目に泥を付けて印鑑を押す。泥は乾いて紐の結び目にくっついている。これを壊さないと紐は開けられない。つまりこの紐を開けていないという印に、封泥は使われ、その目的で印鑑が出来たという。このとき押された印章は、名前であるのも残っているし、模様もある。
ものの本によると中国の漢代に封泥がよく発達したけれど、紙が発明されて以来、封泥の必要性が薄れてしまったという。それまでの木簡・竹簡は、表面をけずれば容易に字を書き換えることができたので内容保証の封印が必要だった。しかし紙になると文書が簡単に改ざんできなくなるので、封泥による封印の必要は薄れ、印鑑が発達するようになったようだ。
でも、この封泥は最近までも使われていた。私の父は弁理士で、戦前から欧州相手の国際特許事務所を経営していた。例えばドイツから日本で特許を取りたい時に先方から書類も来るし、発明品の実物も送られてくる。これがボール紙の円い筒に納められ、紐が掛けられて結び目に赤いベークライト様の固まりがついてこれに印章が押してあった。開ける時にはこの印章は壊れるので、壊れていなければ中身は入れた時のままの本物の保証になるわけだ。この仕組みが今も世界で使われているだろうか、私は寡聞にして知らないが。
印章は自然発生的に必要に迫られて始まったものに違いないが、篆刻という言葉となると、芸術品を意味するらしい。調べてみると「古璽を研究対象とした宋の金石学を出発点に、元の趙孟頫らが刻印をこころみて印学を再興したのが篆刻のはじまりとされます。じっさいには明の文彭・何震に実作が存在して篆刻の専家としての始祖とされ、篆刻芸術の第一頁がひらかれることになります。」(遠藤昌弘著作選)
別の引用をすると「明時代になると,多くの文人が盛んにこの印章を私印として制作するようになり,これが徐々に芸術性を帯びてきて“篆刻”と呼ばれるようになりました。その後,この篆刻の印影は,書画の落款の一部として使用されるようになって,次第に書道や絵画と並んで,一つの独立した芸術となりました。そしてこの“篆刻”を含んだ“書道,絵画,落款”の芸術は,三位一体となって古代中国の伝統的な芸術の一つとなりました。」(古代文化研究所 古代の印章篆刻)
つまり、印章というと実用で、篆刻というと芸術作品になるのだという。同じ字を書いても、板に書いて店先に掲げれば「看板」で、紙に書いて部屋に飾れば「書道」というようなものらしい。
3.師父加藤さんに連れられて石漁り
篆刻に使われる石は巴林石(内モンゴル巴林右旗の山麓より産出)、寿山石(福建省寿山郷より産出)とか青田石(浙江省青田県産出)などよく知られた石がいろいろとある。むかし子供の頃、道の舗装や敷石に書く時に使った蝋石よりも少し堅いが、玉ほどには堅くない。なお蝋石は岡山県の東部から今でも産出されていて、今では落書き用としてよりも、タイル、耐火物、建材用の素材として使われているようだ。
中街の路上市に行くと、そのような篆刻用の石と並んで練習用の石が山積みで置いてあり、一つ1元で売られている。道ばたのござに商品を拡げたおじさんに訊くと通常は2元という言い値で売っている。
でも、ひとつ1元と言ってはいけない。加藤さんは元来高校の世界史の教師で、特に中国の近現代史に興味があって、中国に滞在して古物商を巡って、今は特に民国の頃の教科書を探している。雨が降る時以外の毎週土日には必ずこの辺りを徘徊して、ここに店を出している人たちの誰彼となく知り合いになっている加藤さんが「そんなことを言わないでよ。私はあなたの朋友でしょ。だから連れも朋友なんだから1元にしなさいよ。」と言ってくれるので、一つ1元になるのだ。この石を13個選んで「これで10元にしてよ。」と勇を鼓して頼むと10元になったりするわけだ。加藤さんは宿舎で暇な時には篆刻をしているそうで、加藤さんから篆刻の手ほどきを受けたのだった。
加藤さんにここで篆刻用の石を選んで買うのだと言われて石の山から選り分けるが、初めの頃は石の綺麗さにだけ目を惹かれて選んでいた。やがて石に彫るようになってから、石の肌理に注意し、いろいろの色が混じっている時は、彫る時の障害にならないかなどに気を配って選ぶようになった。
石を彫っていて失敗しても、紙ヤスリで底面をごしごしと擦って平らにしてまた彫り直すことが出来る。と言うことは、失敗してもやり直しが利くけれど、そのたびに石の高さが減っていく。だから背の低い石は買ったらあとで困るとか、だんだん知恵がついてきたものだ。石の質を見て篆刻用の石として細長く整形してあるものも買うようにもなった。2元くらいのはまだまだ練習用の石だけれど、道ばたではなく古玩城の中に入ってちゃんと店を構えたところに行くと、30元くらいから始まってあとは天井知らずである。
篆刻を始めてから、素人として一番気を遣うと言うか、一番大事だと思ったところは、石の上に裏返しの字を書き込むところである。道ばたで注文に応じて篆刻をしている人たちがいる。彼らは注文されると細い筆を使って篆字をいきなり初めから裏返しに石の上にさっさと書く。さっと書いたらできあがりでたちまち彫り始める。こう言うのはプロだから出来ることだ。
この最初をいい加減にすると、いい作品にはならない。もちろん、私にとって裏返しの字を石の上に書き込むというのは大変な作業である。正字を篆字で調べて納得するまで何度も紙に書く。次はこれを左右裏返しにして書く練習である。これが書けるようになったら石の上に書いてみる。私は水性インクの細いフェルトペンで薄い色から書いていって、気に入らないと濃い色を重ねて字を修正してから、彫り出す。つまり彫り出すまで一晩や二晩を遣ってしまう。一旦彫り出すと、2-3時間の集中作業である。
【写真:薬科大学ともお別れの加藤夫妻と並んで】
4. 師父小林さんは博覧強記
「山形先生お二人を見ていると、とってもいいですね。お二人の仲が良くって、何ともほんわかとした気分になるんですよ。それで先生たちに印章を掘って差し上げたいのですが、どちらがお好みですか。」と教師会の仲間から言われたのは2006年の春の頃だろうか。
私たちに印章を彫ってあげようと言われたのは、遼寧大学に2004年秋神奈川県から派遣されて来た日本語の教師の小林豊朗さんである。1年の滞在では満足できずさらに県教育委員会に申し出て2年目の延長を申請し、めでたく聞き入れられてその時は二年目の滞在後半に差し掛かっていた。小林さんは現役の高校の国語の先生で、国語だけでなく漢文にもめっぽう強い先生である。このような先生に教わる学生は幸せだし、ご本人も中国で生活できて幸せに違いない。小林さんはさらに書も良くすることは側聞していたが、それだけではなく篆刻の大家でもあったのだ。それだから、中国の生活がますます気に入っているわけだ。 【篆刻を手にした師夫・小林豊朗さん】
教師の会で毎月出会うだけの付き合いでは、そこまでは知るよしもない。小林さんが博学で、話し好きで、というのは大勢と一緒でも食事をすれば分かるから、いや、大した物知りの先生だと思っていた。ちょうど食べながらの雑談の時、誰かが言い出して高校野球の話になったことがある。2004年第86回大会、2005年第87回大会の夏の甲子園を連覇した駒大苫小牧高校が、また2006年の第88回大会にも出るかなあという話となった。
まだその時はやがてその2006年の夏が来て、田中将大投手率いる駒大苫小牧高校が3連覇を掛けて、決勝で早稲田実業の斉藤佑樹投手と真っ向からぶつかり、史上二度目の1-1で決勝戦引き分けを演じたあげく、早実が4-3で勝利をもぎ取り、駒大苫小牧高校が涙をのんだことはまだ誰も知るよしもない。もちろんハンカチ王子なんて言葉はまだなかった。
話し好きの人の特徴で、話がとぎれた一瞬、それまでの話に何の関連が無くても自分の話で皆の注意を引く。小林さんが言い出した。「高校野球って言うとね。世界不思議発見の板東英二ってタレントがいるでしょ。」「ええ。」と大抵の人は板東英二を知っている。私でも知っている。「いえ、あの板東英二はね、徳島商業から高校野球に出て、1958年には夏の83奪三振は高校野球選手権の大会記録になっているんですよ。準々決勝では魚津高校と延長18回の息詰まる投手戦をしてね、語り草でしたよ。」
みな「ほーっ」といってびっくりしている。だれも知らないらしい。しかし私の妻の貞子は、もともと野球大好きである。「だけど、小林先生。板東さんが活躍した時は知らないでしょ。私はちゃんと放送を聴いて覚えているわ。板東さんはあと中日にいましたよね。」と発言した。年が大分若くてまだその頃は生まれていなかったに違いない小林さんは、これに動ぜずに続けた。「選抜大会では作新学院の江川卓が1973年に三振を60奪ってね、大会記録になっているけれど。板東が83奪三振をした年は、1試合で25三振を奪ったんですよ。その年の1958年以来野球の延長は15回までと変えられたので、板東の記録は参考記録にされちゃいました。だけど板東の83個の奪三振というのは今も輝く大記録なんですよ。」
私たちはテレビで剽軽な語り口を見せる板東英二おじさんが、高校野球の颯爽たるエースで今も残る大記録を持つなんて信じられない気持ちでいる。「その後の野球人生は短かったけれど、タレントとして板東さんは凄い勘の冴えを発揮していますね。」
「一緒に出ている黒柳さんや野々村くんに憎まれ口を利いているけれど、関西弁の強みか、ちっとも嫌みじゃないですね。おまけに博識だし。」という小林さんは、板東さんに負けない博覧強記の人である。野球選手だけでなく、芸能界の人たちの動静にも詳しい。私は芸能界の誰のことも知らないから全く話について行けない。もちろん専門の国語の話になる小林さんの話は止め処がないけれど、ここは日本語教師の集まりなので、お互い優劣を競うことになってはいけないのだろうか、意外にあまり国語の問題は話に出ないものだ。
この小林さんが、篆刻もしていてその道の専門家なんてことはついぞ知らなかった。そういえば数ヶ月前に私が生まれて初めて彫った印章の印刻を教師の集まりに持っていったことがある。それを見て、私が篆刻を始めるきっかけを与えた加藤さんは「何だ、先生。うまいじゃない。」と口惜しそうに言っていた。すくなくとも私は、初作品で加藤さんを凌駕しようと精魂傾けて彫ったのだった。妻のために「貞子」と彫ったのである。まず最初に妻の字を彫っておけば、あとは誰のを彫ろうと文句は出ないだろうと、私にしては知恵を働かせたのだ。我ながら良くできた作品だった。加藤さんが悔しがるのも無理はない。
小林さんは印章を眺めて「やや。初めてにしては意外にいいですね。ここのところはどう彫っています?一寸印鑑を見せてみて」と言って私の初めての作品をとって眼に近づけて見ていた。「あ、このどぶさらいをもう一寸丁寧にやるといいですよ。」と言った。「どぶさらいって言っているのは、字の盛り上がりのないところですよ。そのための道具もあるんです。」と言ってくれたので、小林さんはこの道の先達くらいには思っていた。まさか専門家はだしとは思わなかった。
その小林さんが私たちのために印鑑を彫ってくれるという。「どちらがお好みですか。」というのは印章には陽刻(朱文)と陰刻(白文)があって、陽刻は押した時に字が赤く浮き出る印刻、陰刻は字が白く抜ける彫り方である。印鑑というと直ぐに自分の実印を思い浮かべるくらいだから、陽刻が印鑑だと思っていた。しかし小林さんは「男は陰刻がいいんですよ。奥さんは陽刻にしましょう。」とあっさり決めてくれた。字体は「篆書でいいですね。」と言う具合にこれもあっさり決まった。 次の教師の会の集まりのあと、小林さんから別れ際に印鑑を渡された。底面には陰刻で「山形達也」と彫られている。側面の四面と頭には彫刻が入っている立派な印章用の石である。側面には「為山形達也先生 長寿 豊朗謹刻 二○○六年卯月」と刻んである。印鑑を押してみても、印刻そのものを見てもプロとしか思えない立派なものである。おまけにこの印章は、石欠け防止に「はかま」を穿いている。この袴も小林さんのお手製なのだという。おひな様の衣装みたいに立派なものである。小林さんという年若の友人に対する私の友情はたちまち尊敬の念に変わった。
小林さんに教わって篆刻刀も新しく買い直した。何よりも印肉には凝りなさいと言って私の無知蒙昧を啓いてくれた。それまで私は大学の生協で買った5元という印肉を使っていたのだった。印肉(朱泥)にいろいろの程度・階級があるなんて全く知らなかった。印鑑専門の店に行くと、ここでは小林さんが篆刻でいろいろと教わっているという人が出てきて、印泥170元というのを小林さんの口添えであっさり100元にしてくれた。大観印泥という印肉である。
この日、一緒に歩いていた小林さんに「もし先生の気に入った篆刻の石があったら、それにも彫ってもいいですよ。」と言われて、別の石専門の店に入った時に、私は気に入った石を見つけてしまった。濃い紫というか濃い茶色で、白い紋が入っている。感じとしては乾燥させた高価な腸詰めの色に近い。高さは7センチ、底面の長径は4.5センチ、短径は3センチくらいで、彫ればかなり大型の印鑑となるだろう。
店のお姉さんに訊くと150元だという。ここは一切値段の交渉に応じない店だと聞いている。小林さんを呼んで「この石だけど、これに彫れそうですか?」と確認した。小林さんは石に眼を近づけて指でさすりながら丹念に眺めて、「いけると思いますよ。」と言ってくれた。私はこんな高価な石を買うのは初めてで、どきどきしながらも150元を払って石を手に入れ、直ぐに小林さんに手渡してお願いした。「『山大爺』という字で彫って下さい。字体は先生にまかせますから、好きに彫って下さいな。」
お願いした石への篆刻はなかなか出来てこない。小林さんは「あの石は一寸堅いんですよ。」ということだった。大きな石だから、堅ければそれだけに大変な手間だろう。
やがて出来てきた「山大爺」は字体も彫りも素晴らしいとしか言いようがない。気宇壮大な字で、それぞれの字がのびのびと自分を主張している感じで、わたしにぴったりである。私は眺めながら身体が震える喜びを噛みしめた。おまけに側面にも字が彫ってある。信じられないほど細かな大変な作業である。 「山大爺之記」「山形達也先生嘗向学生而自告其名曰吾山形達也学生聞之以大笑先生問曰何笑学生対曰先生謂非達也而大爺也先生大喜以後自称山大爺是大爺由来也 豊朗謹告 二〇〇六早月」
この文章は小林さんの自作で、あえて日本語の平文にすると「山形達也先生が嘗て学生に向けて自分の名前は山形達也だと言ったところ、学生が大笑いした。いったい何で笑うんだと訊いたら、学生は先生の発音では達也でなく大爺ですよと答えた。先生は大いに喜んで、それ以降は山大爺と自称している。これが山大爺の由来である。」というところだ。驚きの文章力と、それに並ぶ刀捌きだ。天は二物を与えずと言うが二物を与えた例がこの師父であろう。
「是非、印鑑をいつも使って下さいよ。使って貰って始めて意味が出るんですからね。」と小林先生に言われて、わたしは飾ってあった印章を取り出して、研究室にある本を端から取り出してこの「山大爺」を押した。妻の本にも押した。あとで教師会に寄付するつもりの本にも押しまくった。
この持ち重りのする「山大爺」の印鑑は私にしか意味がない。私が生きているうちが使い時なのである。大学内で発送する公文書にも小林さん作成の印鑑を押して使うようになった。しかし、本や文書に押すだけでは物足りない。どうしたらいいだろう。いっそ、書道でも始めて落款として使おうか。今や私の趣味は、篆刻から書道へと向かわないと収まらないかも知れない。
6. ひと迷惑な私の趣味
小林さんの篆刻は本人は「いえ、素人ですよ」と謙遜されるが、これで金を稼いでいないだけで腕前はプロ級である。中街の路上で時に彫って貰うプロよりも遙かに腕前は上だ。小林さん自身も、「何時か篆刻作品展をする時には、この『山大爺』も貸して下さいね」ということなので、本人も自負があるに違いない。
このような小林さんの「私の趣味は篆刻だ」というのに比べて、あまりにもお粗末だけれど私も篆刻が趣味だと言うことにしている。ただしこの趣味には問題がある。というのは、以前妻が陶芸に励んでいたことがあった。毎週陶芸教室に通って皿を焼いていた。皿を土からこねて釉薬を掛けて焼いて次々とできあがると、どうなるか。
妻の作品ができあがるたびに、我が家の食器棚は次々と彼女の作品に浸食されて、それまでの食器が片隅に追いやられていった。好きで買いそろえた皿が使えなくなり、彼女の作品が食卓を飾るようになった。最初は違和感があった。でも、十何年を経るともちろん彼女の作品に愛着が出て来て、今では何の文句もない。妻の皿を使うのが嬉しいのだ。妻が趣味で造った作品が実用品として立派に活躍して生活の中に居場所を得たわけだ。
さて、篆刻である。石を握って字を彫る。この字はもちろん名前である。自分の名前は小林さんが先に彫ってくれたから、自分では彫らなかった。妻の名前を最初に彫ったあとは、学生の名前を彫ってみて、上げた。知人の名前で彫って、それを上げた。
そうなのだ、篆刻は印章を彫るとその人に上げることになる。小林さんみたいに上手ならいい。貰えば誰でも大喜びだし、実印にすることだって出来る。でも、私の印鑑では、上げた人はきっと迷惑に違いない。芋に彫った印なら上げてもご愛敬で済むけれど、石に彫った印は貰った方だって始末に困るに違いない。
というわけで、彫り上げたらその印鑑を上げたいけれど、きっと困るに違いない。練習するにしても元気が出ない。そうかといって彫らなければ腕が磨けない。というわけで、上達するまではこの趣味はもてあましものである。
この頃は篆字を彫るだけでなく、新境地開拓を考えて、相撲文字あるいは寄席文字に似た江戸文字の篆刻の練習を始めた。下手くそでもいい、名前が何本あってもいい、山形の篆刻の上達に力を貸したいという奇特な方があったら、どうか申し出て下さいな。
瀋陽薬科大学で働く私たち (日本語クラブ28号 2008年4月号)
瀋陽薬科大学
山形 達也
私と妻の貞子は日本で定年を迎えたあと、幸いにも中国の大学で職を得ることが出来た。5年目に入った瀋陽薬科大学の研究室には現在、博士課程2人、修士課程6人、卒業研究生5人の13名がいる。セミナーの時にはよそから来る学生が増えて、私たちも入れると15名を越える。
1.中国で世界的な研究をしよう
薬学では特色のある瀋陽薬科大学だが、悲しいことにその地位は北京大学、清華大学に遙か及ばないようだ。中国の大学番付では100番にも入らない。だからここのいる学生は、「自分は北京に行きたかったのに試験に落ちてここに来た」と言うようなコンプレックスがある。瀋陽薬科大学の名前も中国ではほとんど知られていないので、彼らは自嘲気味である、「俺たちどうせ三流なのさ」。
北京大学の学生と薬科大学の学生は、入学試験に通ったか落ちたかというだけの、ときには運命のいたずらだが、学生個人にとって見るとこのような意識の差になる。だけど、人間の能力にはさしたる違いはない。人の一生はどれだけ努力するかが違いを生むし、人の評価もそこで分かれるのだ。
と言っても就職試験で人を見分ける時には、一人一人をじっくり見て評価するのは簡単ではないから、「ああ、あなたは北京大学卒だから(優秀ですね)」とこっちに入れられ、薬科大学卒なら「ああそうですか」というだけで終わってしまうことになるわけだ。実際中国は非常に激しい学歴社会で、有名大学を出ていないと婿さんとしても鼻も引っかけて貰えないらしい。自分たちは三流大学にいるのだと思って心が萎えている薬科大学の学生たちに元気を与え、やる気を出させるのは、自分たちがここで仕上げた研究が一流誌に載ることである。そのために私はここでの存在意義があると思っている。
私たちは彼らに一流の仕事をさせたい。一流の研究をして、良い論文を発表していれば、それは個人の業績として評価される。北京大学の出身者よりも質の高い論文を発表していれば、いくら薬科大学出だと言って無視されることはない。それを無視したとしたら、それは愚かなことであることを誰でも客観的に指摘できることだからだ。
2.一流のジャーナルに論文を載せると言うことは
私たちが研究をして成果がまとまると、論文という形で発表する事になる。論文を書いて発表するのに適切なジャーナルを選んで、その編集部に送る。論文の原稿が到着すると、雑誌の編集長が同業の研究者に送ってその査読を求める。
研究内容が二番煎じだったら即座に却下である。研究は最先端であること、つまり新しくなければジャーナルに載せてもらえない。研究が新しい成果を含んでいても、論文の主張を裏付けるに足る十分かつ適切な実験がなされているか、その研究に意味があるかを、同じ分野の研究者(レフェリーという)が匿名で厳しく評価する。このような審査を経て受理されれば、それはその研究に新規性があり、その成果に耳を傾けるに十分に意味のあるものであることを保証している。
つまり、一流のジャーナルに論文を投稿して発表することが出来れば、良い研究であるというお墨付きを貰うと同じである。だからここの学生に、良い研究をすれば将来は明るいと言うことを示すには、一流のジャーナルに載る研究が出来るよう指導すればいい。
と言うわけで学生には良い研究をやらせたいが、超一流の研究をしようと思えば優れたアイデアが要るし、金も掛かるのが普通だ。私たちには優れたアイデアはもうないし、潤沢な研究費もない。あるのは人並みのアイデアと長年の経験だけである。
私たちが長年携わってきて得意とするところは生化学的な研究だが、それには設備や細々とした、そして膨大なノウハウがいる。この薬科大学でそのような機材を揃えたり、研究室の学生の間に実験のノウハウを蓄積していくのは至難の業である。それでここでは、分子生物学の初歩的技術を、そしてそれだけを使うことに徹することにした。
3.ここでは分子生物学の技術を使おう
分子生物学の進展により、それまでブラックボックスだった生命の働きを、分子の働きとしてとらえることが出来るようになった。実験もマニュアル化されて、原理も意味も知らなくても、マニュアル通りに手を動かせば、場合によっては重要なデータを出すことが出来る時代になっている。
今世紀の始めにはヒトのゲノム解読が終わった。いまでは、ほかにも何十という種類の生物のゲノムが解読されている。解読したと言うことは遺伝子の設計図を手に入れたと言うことである。でも、遺伝子の設計図はわかっても、その遺伝子が指令して作るタンパク質の役割はまだまだわからないことが多い。さまざまなタンパク質の協調的な働きがあってこそ、生命がつつがなく動いているのだ。この働きを知るにはタンパク質の機能を知らなくてはならない。
どうやって機能を知るかというと、タンパク質の発現を変えてやるのである。そのタンパク質を発現させなくしたらどうなるか、あるいは沢山発現させたらどうなるか、と言うやり方でその役割を知るわけだ。
口で言うのは簡単だが、昔は簡単なことではなかった。しかしいまでは、その抑制はRNAサイレンシング(siRNA)でごく簡単に行うことが出来る。このRNAサイレンシングの原理は2005年のノーベル医学生理学賞に輝いている。1996年の研究なのにそれが10年しないうちにノーベル賞受賞となったことは、この原理がいかに大事な発見であったかを意味している。今ではこの技術なしには生命科学の研究・発展・応用は考えられない。
細胞のそれぞれのタンパク質の発現の消長(発現したかどうかとか、どのくらい作られているか)を見るのは抗体を使うのが一番確実だけれど、1種類の抗体が平均5万円するので容易には買えない。それで私たちはタンパク質の発現の消長を、タンパク質を指令するメッセンジャーRNAの発現に置き換えて、RT-PCRという分子生物学的手法を使って調べている。もちろん、mRNAの増減とタンパク質の量の増減は同じではないので、どうしても必要という抗体は買って、ウエスタンブロッティングという手法で調べている。
あるタンパク質がどこかの経路の途中に位置して大事であることを証明するのに、いくつかの別々の方法がある。しかし、この頃の研究では、その方法の全部を使わないとなかなか論文が受理されない。
そのタンパク質の働きを抑える阻害剤を使う、そのタンパク質の発現をRNAサイレンシングで抑える、機能を破壊したそっくりなタンパク質を入れてそのタンパク質の働きを無効にする、さらには刺激がなくても機能し続けるように改変したタンパク質を作るcDNAを細胞に入れる、などの方法をすべて用いて、つまり文句が全くでない方法でそのタンパク質の関与を証明する必要がある。
一つのことを言うためには、様々なアプローチをして、そこに疑問の余地のないまでに実験をしないといけない。大金がかかるわけである。私たちは阻害剤であたりをつけて、そしてRNAサイレンシング(SiRNA)を行ってそのタンパク質の関与を調べているけれど、目的の mRNA がいつも100%抑えられないこともある。siRNAのターゲットの選び方が悪かったのだろう。それに、発現を抑える実験だけではなく、目的のタンパク質のmRNAを大量に増やして、その結果を示す必要もある。
4.すべてはよい学生を育てるため
と言うわけで目的とする遺伝子を細胞に発現させるという技術も私たちは使っている。大腸菌の中で自律的に増えるプラスミドというDNAの中に、目的の遺伝子(正確に言うとcDNA)を入れる。このときにDNAを切ったり、張ったり、繋いだりするわけである。これは分子生物学的技術の基本中の基本と言って良い。これを大腸菌の中で増やして目的の遺伝子を入れたプラスミドを取り出す。この中には哺乳動物細胞の中でこの遺伝子を発現できるベクター(運び屋)が入っている。
こうやって細胞に目的の遺伝子を発現させ、RNA silencingで抑えたときの効果と逆のことが起こるのを確認するのである。遺伝子の発現を抑えたり、あるいは強制的に発現させたりすると、予想もしていない分子の発現が急増したり、抑制されたりする。細胞の中のまだ知られていない制御機構に触れた瞬間である。こういう事で私たちの研究のまた新しいページが開かれる。
私たちは生命科学の世界で、誰にもよく知られた技術を使っているだけである。それでもそれなりの仕事をするためには、それなりの研究費が掛かるわけだ。大学が用意してくれる年間5万元(約75万円)では足りない。それで私の給料のすべてを研究に注ぎ込んでいる。しかしそれでも足りない。私どもの年金の出番である。幸い日本の発展時期に働いていたから、それなりの年金が貰える。二人の年金を合わせた半分は中国での研究費に使っている。
ここで私たちが使っている技術はこの世界では常識の、しかも初歩的なものだがそれを使ってやっている研究は、それこそ世界に二つとない、言ってみれば最先端の研究である。だから研究の結果は論文となり一流の雑誌に投稿論文が掲載される。 瀋陽に来て4年半で私たちは6編の論文を発表した。いま次の3編を書いている。
私たちの研究室で修士課程を終えた胡丹くんは、一昨年日本政府奨学金を得て東京大学の博士課程に留学した。昨年博士課程を終えた王璞くんは、アメリカの名門中の名門であるThe Johns Hopkins Universityのポスドクに採用されて、もうすぐ渡米するところである。今年修士課程をでる王毅楠くんは、日本政府奨学金を得て慶応大学の博士課程に入ることが決まった。こうして研究室の学生たちは良い論文を書いたという勲章を胸に付けて、私たちの研究室を巣立っていく。
5.中国の学位乱発に在米科学者が苦言
最近読んだRecord China(20080303)によると、『在米科学者の王鴻飛博士は 、9月に中国教育部と国務院学位委員会が博士課程の学位に関する調査を始めると発表したことを受け、自身のブログで「中国の博士と指導教員の90%がアメリカの三流大学でも不合格」と、学位のレベルの低さを批判した』という。
『王鴻飛博士は米コロンビア大学の化学博士で、中国科学院科学研究所の研究員でもある。「コロンビア大のレベルで言えば、中国で最もハイレベルな大学の博士と指導教員の99%が不合格」だ、「アメリカの三流大学でも中国国内の博士と指導教員の90%は学位に届かない」と痛烈に』批判している。
薬科大学では博士課程卒業のためには、発表論文2報が要求されるが、そのうち1報はSCI(Science Citation Index)で評価されているジャーナルに載ることが必要である。速報誌でもBBRCやFEBS Lettならこの要求を満たしている。と言うことは、もう一つはどこかの、つまり中国語でローカルな雑誌に書くだけで良い。
これでは情けない。それで私たちは別の基準が設けていて、うちの学生には発表論文の2報ともSCIで評価されているジャーナルに載ることを要求している。しかしこれを今までに果たしたのは先ほど書いた王璞くんだけである。
今年博士課程を出る予定の学生は、2報以上書けるだけの材料がありながら、BBRCに1報書けば、あとは中国語の論文を何処かに投稿して博士号の請求をするつもりである。そんなレベルの低いことでは駄目と言っても通じない。他の人がそれで博士号を貰っているのに、自分が何故駄目なのかということだろう。
これを認めれば、王鴻飛博士が『研究が不十分な段階での学位乱発で学位レベルが低下し、研究者も中途半端なままで学位の看板だけを背負うことになる』と言う通りである。王鴻飛博士は『看板を背負った者は虚勢を張り、謙虚に学び研究分野へ貢献する気風も失われる。同じ分野の研究者同士が互いに評価し高め合う土壌が必要』と言っている。そのためには大学の教授も学生も考えを改めなくてはならないが、その人たちのレベルが低いと言われているわけだ。何時になったら、この流れが変えられるだろうか。
コピペ文化に思う (日本語クラブ29号 2008年6月号)
瀋陽薬科大学
山形 達也
1.日本語の卒論指導
日本人教師の会では月に一度の定例会がある。瀋陽日本語弁論大会、日本語文化祭などの活動のための準備、報告など、会としての活動を話し合うことが多いが、日本語弁論大会の分類と同じように分かれて、そのグループの中で日本語教育の悩みなどをお互いに話しあっている。
分類というのは、日本語学科などが置かれている大学I部、日本語を勉強しながらも別の専門を学ぶ大学II部、高校の部などの分類である。弁論大会では、高校生の部の日本語が一番上手いと言うことになっている。ついで、日本語専攻科のある大学I部からの参加者。薬科大学などの大学II部からの参加者は、内容はバラエティに富んでいて面白いものの、日本語力は一番下にランクされる。しかしもちろん、これは先生たちの実力とは全く関係がない。
私は日本語教育に携わっていないので、この集まりの時にはあちこちに顔を出して皆の話を聞いているだけである。前回の集まりの時には、大学I部の先生たちの集まりに顔を出した。
日本語教育の苦労や苦心など、それぞれに話が出ていたが、卒論指導をしているんですよという話になった。大学I部の先生たちは日本語学科で日本語を教えているから、卒業の学生が日本語で卒論を書くときのテーマ選び、卒論の指導、判定に関与しているのだ。日本語の話し方、書き方を教えるだけではなく、言ってみれば日本文化の様々な局面を扱うことになるわけだから、並大抵の苦労ではないと思う。
卒論のテーマは「若者の敬語の使い方」とか「マンガの中の言葉遣いと実際」など色々あって楽しそうだ。しかし、卒論指導の際の一番の悩みは、テーマ選定ではなく、書かれてきた卒論がオリジナルなものか、コピーペーストで出来たものなのかを見分けることだそうだ。
ほとんどの学生はコピペで卒論を仕上げてくるし、内容の95%以上がコピペという学生はざらにいると言う。先ず、どうやって見分けるかというと、元の文章をコピーするとき、「われわれは、これこれこうした。」というのを、そのまま写してしまうのだそうだ。読んでみれば、ここでこんな主語が出てくるはずはないと言うことでたちまち分かる。文章の書き方は人によって違うから、文章のトーンが変わることで、ここからは別の文章のコピペだと言うことも分かる。
今はインターネット時代で、大抵の欲しい情報は手に入り、コピペのし放題である。「そんな状況になったのだから卒論を止めたらいい」という意見と、「それでも卒論に向き合うという時間を持つことが大事なのだ」という意見が分かれて対立しているという話だった。おそらく日本の文系の卒論でも 状況は同じだろう。
最近のYahooでコピペを発見するソフトを金沢工大教授が開発 したという記事を読んだ。 [5月26日15時45分、J-CASTニュース 20080526]
『インターネット上の情報を「コピー・アンド・ペースト」(コピペしたものかどうかをチェックするソフトを、金沢工大知的財産科学研究センター長の杉光一成教授が開発中だ。2008年2月に特許申請を終え、来年早々にも産学連携の形で発売するという。杉光教授によれば、ネット上の情報をコピペしてレポート(宿題)を提出する学生が急増。中学生でも、ネット上にある「自由に使用できる」と謳った読書感想文をそのままコピペして提出するなど教職員を悩ませている。杉光教授が開発中のソフトは、学生などが提出した文章を翻訳ソフトに使われている「形態素解析」という技術で分解し、インターネットで検索。類似したものが検出されればURLを表示するというもの。』
これはすごいことだ。コピペがじゃんじゃん摘発できるわけだ。日本の大学の卒論では、こうやってコピペを見つければ、「あかんぜよ」と言って落第にすればいいかも知れない。自分の力で文章を書かなくては卒業できないとなると、卒論の本来の意味に戻ることが出来るだろう。
しかし、中国でコピペを見つけて、「これでは駄目だ」なんて言ったら、卒論の通る学生はいなくなってしまうのではないか。集まりの時に大学I部の先生に、「卒論が提出されて、実際にコピペを見つけたらどうするんですか。」ときくと、「コピペと分かっても、論旨が通っているかどうかを重視してみます。破綻なく自分の主張を論理的にしていれば良いことにしています。」と言う返事が多かった。
「コピペをしても良いけどね。自分の意見をちゃんと書きなさい」と、指導しているという先生もあった。「論文の40%は自分の主張を自分で書きなさい。そしたら残りはコピペでいいよ」と、もっと具体的な指導もあった。
コピペを根絶することはもはや不可能になってきたようだ。それに中国では元来が自分と他とをきびしく峻別しない文化のようである。自分と同じ意見なら、それをそのまま持ってきて何故いけないんですかと、コピペが悪いという考えが根本的にないらしいのだ。卒論指導の日本人の先生たちのフラストレーションはまだまだ続くことだろう。
2.英語の論文の場合
いままでに何度も書いているけれど、私たちの勝負は英語で発表する研究論文である。 様々な分野とグレードの国際誌があるので、論文を書き上げると内容にあわせて、一番通りやすい、あるいは一番適したところに送る。
この世界でも盗作、剽窃、捏造がある。一説によると1%くらいの論文はこのようなインチキなのだという。今ここで取り上げたいのは、このような盗作、剽窃、捏造におけるコピペではない。悪いに決まっているコピペを云々するのではない。ここで問題にしたいのは、盗作、剽窃、捏造ではない正常な論文で、起こる可能性のある日常的なコピペのことである。
コンピュータが発達して、論文、データその他が正確に記録保存できるようになったことは科学の世界では大変結構なことである。手で書き写すと間違える可能性もあったのだから、ディジタルコピーほどありがたいことはない。以前は何かの記述を読めば、要点を手でメモ書きにして残すしかなかった。今は、そのままコピペして自分のPCに取り込んで、寸分の間違いもなく、その時のままの文章を読んで、記憶を確認することが出来る。
自分の発表する科学論文では、いきなり自分の研究の話をはじめても、誰も付いてこられない。最初に研究の背景から書き始める。このジャーナルを読む人なら、読めば理解できるレベルから書き始めるわけだ。と言うことはその世界では常識になっていることから説き起こすことになる。言ってみればコピペで足りるわけだ。
論文を書くのに例を出してみよう。たとえば、カレーに黄色を与えているターメリックの主成分クルクミンが癌の転移を抑えるという論文を書いているとしよう。前文をまず「カレーに黄色を与えているターメリックの主成分クルクミンは」と書き出すわけである。このクルクミンの構造、そして今までにどんな薬効が知られているか、誰がどんな実験をしたかを書いて、自分が何故これに興味を持ったか、何を解決しようとしてどんな実験をしたかを書いていく。背景を説明して理解して貰い、自分の実験にどんな意義があるかに話を持っていく。
クルクミンの説明はコピペで十分どころか正確を期するならコピペ以上のものはない。しかし、自分の書く論文でコピペをしたのでは恥ずかしい。外国のあれこれの友人の顔が思い浮かぶ。彼らに見られてコピペじゃない?なんて言われたくない。それで、投稿論文を書くときには何時も自分の言葉で書き始める。
しかし学生が卒業論文、修士論文、博士論文を書くときは、このような前文を書くときにはコピペを暗黙に認めている。前文(と言って全5章のうちの第1章である)はどうせ飾りで、論文の本質には関係がないことがひとつ。コピペをするなと言っても、論文を膨らませて飾るためにコピペをするからと言うのが一つ。そして一番大きな理由は、その部分の英語を私が直さなくて良いと言うことである。それに、こう言うところは人の研究を引用しているので、元がたどれるように文献を引用している。
学生の論文が全部彼らの書いたものであるとき、これを直すのは一苦労どころか、何を言いたいか考えあぐねて、すっかり消耗してしまう。単数・複数形や定冠詞・不定冠詞などの問題だけではない。例えば、書かれている通りなら、学生は人の実験を述べていることになるはずなのに、読んでいると彼の実験でなくては意味が通じない。この英語なら、そうなっちゃうんだよ、と思いながら、読んでいて一応は意味が通じるように直していく。
人の英語を直すと、私の英語を人が直すときも苦労するのだろうなと言うのがよく分かる。長年英語を使ってきて、未だに正しい英語表現だけで文章が書けない。日本語で言うなら、現代文を主な階調として、その中に女子高生の表現が飛び込み、さらには関西弁、江戸弁だけではなく、古文や漢文がちらちら混じっているおかしな英語を書いているんだろうと思う。思い当たるのは高校の頃の怠慢である。日比谷高校1-2年生の英作文の宿題はきつかった。一つ違いの姉がいたので、1年前の彼女の英作文をそのまま写して出していたのだ。つまり大事なときに怠けたおかげで英語力が身につかなかった。
だから、学生には、前文に当たる第1章以外は決してコピペをするな、どんな下手な英語でも、どんなに苦労をしても自分の力で英語を書けと言っている。自分の苦い経験で言っているのだから迫力がありそうなものだが、どうだろうか。
ところで、言葉というのは模倣から始まる。中国に来て中国語の勉強をはじめて、語学の勉強では暗記、つまりコピペが先ず基本の基と言うことを理解した。暗記、つまりコピーがきちんと出来ていないと、ペーストはもちろん、応用が出来ないのだ。コピペこそ語学上達の早道であるが、学問に王道なし、最終的には自分の言葉を自分の力で語るしかないのだ。
なお、カレー粉の黄色の成分クルクミンが健康によいことは様々の研究によって示されています。このクルクミンは辛みとは何の関係もありません。激辛カレーを食べることが健康によいなどと思わないでくださいね。