2004/07/03
為しても成らぬ山大爺
私たちの研究室は、英語と日本語を公用語にしている。日本語の分からない学生もいるのに、日本語が公用語というのは私たちのわがまま以外の何ものでもないので、毎週2回のセミナーは英語でやっている。研究室の学生の英語能力は、日本の学生よりも遙かに高い。日語班出身の学生は英語も十分出来るのだ。
英語も使えるけれど彼らの日本語能力は抜群なので、日常の話はもちろん日本語でやっている。したがって私たちは日本語の通じない外国にいるという疎外感が全くない。しかも外との交渉は彼らがしてくれるから、とても助かる一方で、使わないので私たちには中国語の能力が身に付かない。
薬科大学と私たちの交わした契約には、中国語が話せなくてはいけないという項目はないけれど、この国で暮らす以上、中国語を話すのは礼儀であるし、当然のことだろう。ここに来る前の1年間カルチャー教室に通って,毎週1回1時間ずつ中国語の基礎の基礎を学んだだけなので、昨年の秋以来、研究室の胡くんに毎週1回の割合で中国語を教わっている。
中国語がちっとも上達しないけれど、使わないからいけないというので、研究室の学生たちは私たちが中国語を使わなくては食事もできないよう仕向けて始めた。昼になると「食事に行きましょう。学生食堂に一緒に行きますか?」と私たちに中国語で尋ねる。「どうしようか、いつものように大学の外に行ってパンを買ってこようかな」と考えていても、もしそう言おうものなら「どうしてですか?どこで買うのですか?何を幾つ買うのですか?」と立て続けに聞かれて、立ち往生してしまう。
行きつけのパン屋では、店の中に置いてあるパンを、路に面している窓越しに指さして、何個欲しいと言えばよいのだから実に簡単で、しかも美味しいので気に入っている。
しかし、なぜパン屋に行くかを中国語で説明するくらいなら、この際「一緒に行く」と言って出掛ける方がよほど楽だ。と言うわけで炎天下の外に出て建物の陰をぬいながら食堂を目指す。巨大な学生食堂は5階建てでそれぞれの階で特徴ある料理を出している。エスカレーターに乗って「何階がいい?」と聞かれる。「どこでもよい」と答える。「何を食べたいですか?」と聞かれても、答えられないでいるうちにエスカレーターは5階まで行ってしまう。おかげで「(食べるものは)何でもよい」という万能の言い方をしっかりと覚えることが出来るという次第である。
送別会などの時は、ここは中国なのだから中国語で何か気の利いたことを言いたくなる。先日研究室の卒業生の送別会のときに使ったのは「有志者事竟成」という言葉だった。これは文字通り、何かやる意志が有れば必ず何か成し遂げると言う意味で、以前教科書で覚えた言葉である。
これから人生に踏み出す若者に向かって教訓を偉そうに垂れて、ついでに、日本では「為せば成る 為さねば成らぬ なにごとも 成らぬは人の 為さぬなりけり」という古歌がありますと、これもはなむけの言葉に添えた。
次の日の朝王麗さんがやってきて、あの日本の歌をもう一度言って下さいと言う。あの和歌を覚えたいらしい。こちらも喜んで、再度口にしたところ彼女は直ぐに覚えて「為せば成る・・・。」と言っている。まったく大したものだ。
中国語の授業では、最近胡丹くんはやり方を変えて、教科書を使って本文を暗唱することを要求し始めた。結構大変どころか、おおいに苦労している。
疲れ果てて「もうダメだ、こんなの覚えられるわけがない。今日の授業は延期しようよ」と呻くと、それを聞きつけた王麗さんはニヤッとして「為せば成る 成らぬは山大(シャンダー)の 為さぬなりけり」と唱え出すのだ。ヤレヤレ、とんだことを教えてしまったもんだ。
2004/07/10
今の憲法は日本の唯一の誇り
第20回参議院議員選挙の投票日が近づいてきたけれど、今回は棄権することになってしまった。今までの何十年間の自分の歴史のなかで、アメリカ留学の時以外は地方選挙ですら棄権したことがないのだから、私の普段の言動からはとても信じられないほど、実は真面目な小市民であることが分かる。
たった一票かも知れないけれど、ひとりひとりが全体の意見を作るのだという意識は昔から変わらない。この民主主義の原点は、私たちが1945年の敗戦を小学校の3年生で迎えたところにあると思う。私たちは物事の善悪の判断が付く年齢の時に、すべての価値観がひっくり返るのを目の前にした世代である。
敗戦後の混乱のなかに、クラスの自治会はかなり早く導入されたように記憶している。学校側が決めた級長はなくなり、その代わりクラス全員の投票で選ぶ級長のリードする中で、小さなことでも自分たちで討議して物事を決めるという経験することになった。
小学校が教育の実験校だったためか、敗戦の直ぐ次の年には四十数人いたクラスが6人単位の班に分けられて、そこが勉強の単位であり、意見を言う単位ともなっていた。私の班の班長は、落ち着いて面倒見の良い、そしてしっかりと自分の意見を持って人を導くことの出来る、いってみれば兄貴みたいな田宮務という男だった。
その後何年も経ってお互いが青年となって再開したとき、彼の方が背が低いことに大変驚いた。私たちの信頼と尊敬を集めていた田宮は、それほど記憶の中では際だった大きさだったのだ。人の偉大さは身体まで大きく見せるというのは本当のことだと思う。
クラスの自治会では身の回りに関わることは皆で議論して決めていたけれど、クラスの担任の加藤先生はよくトピックスを持ち出して、私たちの発想と議論の訓練をした。あるとき「戦勝国が負けた国の指導者を戦争犯罪人として裁いて良いか」という題が示された。この時はクラス全員が班とは関係なく、YESかNOの自分の意見に従って実際に教室の右と左に分かれて、意見を戦わせたのである。
私は「日本が負けたのは軍部が独走したからだ」というその時の時流の意見を信じていたからYESの方に座った。しかしNOの方には兄貴とも頼む田宮も、その後大蔵官僚になった図抜けて頭の良い大須敏生もいて、戦犯裁判を是認する側は言い負かされてしまい、結局クラスの総意は、戦勝国が敗戦国を裁くのは間違っているという意見となった。これは戦犯を裁く東京裁判の行われているその頃でも、表だっては言われなかった意見だと思う。
私は理路整然と裁判是認側を論破する二人に聞き惚れて、ついぞ彼らへの反対意見が心中に浮かばなかったことを覚えている。「大国の横暴」という言葉も「アメリカ帝国主義」という言葉もまだ使われていない時代だったが、軍部が悪いという単純な図式だけで世の中は動いていないことをこの二人は理解していた。一方で人の世の複雑さが分かるには私は幼すぎたということが、今振り返ってみると良く分かる。
東京裁判の判決よりも平和憲法公布の方が先だった。憲法の内容をクラスで討議したかどうかの記憶はないけれど、自我の形成期をこのように自由に意見の言える雰囲気で過ごしたので、個人個人が自分の意見を持つと同時に、集団全体のために知恵を出し合うことが全体の利益であり、したがって個人が選挙権を行使するのは当然の義務であるという考え方が、しっかりと身に染みついたに違いない。長じては、ほとんど無駄に思える一票ですら、棄権出来なかったのだ。
私たちの持つ憲法の宣言に反して、日本の国は軍隊を持ち、アメリカの意向に沿ってその軍隊を外国に派兵し、アメリカの敵と戦わせようとしている。小泉首相を頂く日本の政党は、この状態では最早どう言い繕っても憲法違反なので、憲法を変えようとしている。この憲法を持つことこそ、資源も金も知恵もない日本の唯一の誇りなのに、である。
国民を戦いの場に駆り出せるように今の憲法を変えたい政府の意図を阻止できなかった、ということが今回私の棄権で起こらないよう、ひたすら祈って已まない。
2004/07/19
男は女に理解できない異星人
夏至を挟んで1ヶ月位の瀋陽は夕方の8時でもまだ明るい。一日の仕事を終わりにしてうちで食事にしようと二人で大学を出て、広い通り沿いにうちまで10分くらいの道のりを歩いていると、隣にいる妻がすれ違った誰かに会釈をしている。「えっ、誰だったの?」
「となりの研究室の先生よ。」
ここは職住近接なので、昼も夜もうちに戻って食事をする先生が多い。私たちは二人で帰って食事を作って食べてまた出てくるのは時間の無駄みたいに思えるので、昼は近くでパンを買ってきて済ませている。夜は大概8時頃まで研究室にいて、うちに帰ってから食事を作る。
いま出合ったのは夜の食事を自宅で済ませて、また出てきた先生だったのだ。勿論私が気付いて振り返ったときには、その先生は人混みに紛れて後ろ姿だけである。夕方の散歩を日課にしている人たちも多く、日本と違って夕方路上に出歩いている人々が結構いる。飲食店が立ち並んでいるせいか夜10時になっても、繁華街でも何でもないのに大学近辺の路はにぎやかだ。
つぎにまた隣で妻がにこやかに誰かに頷いている気配がする。はっと思って振り返ると、私の講義に出ていた人たちの一団で、中には熱心な質問で私の注意を惹いていたあでやかな女性がいたことが後ろ姿で確認できた。
私は道を歩いている時は、前方に人がいることは認識するけれど、それが誰であるかにはほとんど注意を払っていないみたいだ。歩きながら考え事をしてみぞに落ちたギリシャの哲人を気取るつもりはないけれど、いつも何かが頭の中を占めていて、周囲をほとんど観察していない。
妻とは小学校から高校までずっと同じ学校の同期生なので、昔の学校の同期会には一緒に出ることがある。うちに戻る道すがら、今出会ってきた友達の話を自然とすることになるけれど、誰かがこういっていたよという時、私は要点しか言えないけれど、妻は相手が話したとおりの言葉を繰り返して話すことが出来る。「一から十まで喋らないで、言いたいことを早く言ってよ?!」といらいらするけれど、逆にこちらは逐一細かく述べる能力はないのである。
このような違いを言い出すときりがないくらい、互いに違っているけれど、数年前のベストセラーの「話を聞かない男、地図が読めない女」を読んで、目から鱗が落ちた思いだった。
大 脳生理学が専門ではない私たちでも生命科学の研究者の端くれとして、男女の脳のできが違うことは二十年くらい前から常識として知っていた。しかしこの本に書かれているように生活の実際の場に即して、どのように男女の振るまいが違うか書かれているのを読むと、「初めてそうだったのか、私は男だから妻とは全然違うんだ」といちいち納得できたのだから、さすがに偉大なベストセラーである。
何よりも嬉しかったのは、私に生きる自信をもたらしたことである。何しろ妻の言っていることはほとんど聞かず、自分のやりたいことだけをやって今まで生きてきた私だ。定年に近づくにつれ、背筋を冷たく這い登ってくる恐怖とともに頭に浮かぶのは「定年離婚」あるいは相手にされないまましがみつく「濡れ落ち葉人生」という言葉である。
「こんな自分本位な人にはもう付き合えない、私はもう自由にするわ」と言われても仕方ないほど自分勝手にやってきた人生をもうやり直すわけにも行かず、絶望的なお先真っ暗状態のときに、この本に出合ったのだった。
この本に依れば、世の中の男性の90パーセントは私と同じGoing-my-way人間なのだった。これなら、私一人、気が引けて悩む必要はない。隣の柿が赤く見えたって、実はうちの柿と変わらないのだ。取り替えたって、同じ味がするに違いない。自分一人が欠陥亭主だと思って悩んでいたけれど、女性から見れば男は誰もが理解不能の異星人なの だ。もう遠慮することはない。
この本は天下御免の免罪符を私に与え、私は生きる自信を取り戻した。人生を幸せに送るためには己を知り敵を理解することが肝要だ。それ以後私は、これから結婚しようかという二人には見境なく「この本もう読んだ?」と勧めて廻っている。
2004/07/23
豚も歩けば棒に当たる
いつものように大学に行くために朝7時にアパートの外に出たら、中庭に多数のアキアカネが飛んでいた。もう秋なのかと思わず空を見上げた。曇天である。日本では梅雨明け以来、連日記録更新の猛暑が続いているというけれど、瀋陽にはまだ夏が来ない。
そうは言っても瀋陽では5月半ばからはT-シャツ1枚で過ごせる暖かさなので、真夏が間近まで近づきながら足踏みしていると言える。瀋陽は6月半ばからまるで日本の梅雨みたいにはっきりしない天候が続いている。ほとんど曇りか、曇りのち雨という毎日である。
薬科大学では7月に入ってから試験週間があり、第2週が終わったところで夏休みに入った。今は構内の人通りも少なくなり、研究棟でも人影が減ってとても静かである。私たちの研究室の陣容は今では私たちを入れても5人だけとなった。夏休みだけれど、皆いつもの通り出てきて実験をしている。なかでも麦都さんこと王麗は特に実験をよくする人である。
昨日は実験結果をPC に入れて、結果が予想通りではないといって悩んでいる。訊くと結果が予想とは違っているという。大体実験というのは、業仮説を立てて、それを実証する過程である。誰が見ても納得できるような実験を組み立てて、それぞれの実験結果が論理の積み重ねとなって、自分の主張したい結論を導くということになる。
思っていた結果が出ないと言うのは、どこかに操作上の間違いがあって実験が成功しなかったか、あるいは作業仮説が間違っていて、実は実験の失敗したことが真実を告げているかのどちらかである。40年前私たちが大学院にいた頃、「実験が失敗したときは喜びなさい、なぜなら、新しいことを見つけたかも知れないのだから」と指導教官の江上不二夫先生に何時も言われたものだ。
実験の作業仮説はその時の叡智を尽くした最上のものかも知れないけれど、人の考えることだから限りがある。実験の失敗は其の前提が間違っていて、自然がちらりと真実を告げたのかも知れないのだ。その失敗を単なる失敗と片づけるか、そこから真実を見抜くことが出来るかが研究者の運の分かれ目である。
王麗さんの実験結果を検討して見ると、予想も付かない実験上の間違いか、あるいは今までの常識を覆す新しい発見のどちらかである。このどちらであるかはこれから実験条件をいろいろと変えることで分かるだろう。今、大事なことは、王麗さんが手数を惜しまず実験をするから、このような、ことによると新しい発見に結びつく実験結果を手にしたのである。実験が面倒で、出来るだけ手も身体も動かさないようにしていると、このような運には恵まれない。
私たちが大学院の学生だった頃、指導教授の江上先生が貴重な警句(いまでは江上語録として知られている)を残されたのを真似するわけではないけれど、今私たちが全力を挙げて取り組んでいる中国の学生の指導のために、何か記憶しやすい言葉を作りたい。
王麗さんは彼女を「掌中の珠」として可愛がって育ててくれたお祖母さんから「珠」というニックネームで呼ばれていたという。珠は猪(日本の豚のこと)と発音が同じZhuである。麦都さんは「珠」と呼ばれているうちに、何時しか豚が大好きになってしまった。だから自分のことを「麦都」と名乗っている。ちなみに「麦都」は中国でポピュラーなアニメ映画に出てくる豚の名前である。
日本の「犬も歩けば棒に当たる」というのを下敷きにして、彼女に敬意を表して「猪走探食」という言葉が、王麗さんの助けを借りて出来上がった。「豚も歩かなくては餌にありつけない、歩きさえすれば餌が見つかるのだよ」という意味だ。「手数を惜しまず実験をすれば、新しいことが見つかるよ」という寓意である。
中国では対聯が普通である。対聯には作り方に難しい約束があるそうだが、この際それを無視すると、「胡臥待果」というのがまず頭に浮かんだ。「胡丹くんは寝ころんで結果を待っているけれど、それでは新しいことは見つからないよ」ということになる。しかし、いくら何でもこれはひどい。胡くんだって実験を一生懸命やっているのだ。恋愛の初期だから彼女のことが気になって王麗さんほどは実験に身が入らないだけである。
すると王麗さんが助け船を出して、「誰臥待果」という形になった。「豚が一生懸命働いているのに、一体誰が寝たままで良い結果が出ると思っているんですか。ちゃんと実験しなさいよ」という意味である。しかしもう一つの意味は、「研究室で学生を働かせて自分ひとり寝転がってぶつぶつ言っているのは誰だ?」という、私に対する強烈な当てこすりにもなる。
と言うわけで、「猪走探食 誰臥待果」という研究室の対聯ができあがった。私も自分で実験を始めようかしらん。
2004/07/24
その後の彼女たち
私たちの研究室で卒業研究をした女子学生3人は、残念なことには卒業した後私たちの研究室の大学院に進学しない。ふくよかだけど泣き虫の沈春莉さんは、広州にある日本有数のバイオ企業に就職した。泣き虫というのは、彼女のセミナーの時にせっかちな私が話しの先回りをして彼女は頭が混乱してしまい、泣きだしたことが何度かあるからだ。
聞いた話によると、彼女の初任給はこの大学の先生の給料よりも大分良い。ここの大学の先生の給料は、講師の基本給が800元らしい。講義をすると1時間何元という計算でこれに加算される。講義代も講師、助教授、教授と地位が上がっていくと単価が高くなる仕組みだ。大学を出て直ぐの講師でも、3000元くらい貰っている様子である。これは日本円に直すと4万円くらいにあたる。
中国国務院の今年4月の発表によると、企業で働く従業員の7割以上の人口が平均給与800〜2500元に収まるという。だから大学の先生の給与は決して低い水準ではない。それでも、就職する学生はそれよりも格段によい給料を貰うことになる。自分の所の卒業生がよい企業に就職できて高給を取ることは喜ばしいことだが、大学の先生よりも高いというのが気に入らない。学生の間に拝金主義がはびこってしまい、誰も安い給料の大学に残って研究を続け、教育に当たろうとしなくなる。
このように給与の逆転はあるけれど、私たちは大学の給料で十分に生活できる。実際上妻の給料で毎月暮らせるので、私の給料は研究費の足しにしている。研究には金がかかる。研究費を申請して獲得するためには論文を書かなくてはならない。論文を書くには研究をしなくてはならず、そのためには研究費が要る。足りないところは自分の月給を投じ、さらに日本で貰う年金も使うしかない。
それはともかくとして、すべてに亘ってスマートな学生の煩煩さんは上海にある国立研究所に行って併設されている大学院に入り、給料(奨学金?)を貰いながら研究をして学位を取るという。日本の国立研究所と大学院大学の関係と同じようなものらしい。この瀋陽薬科大学からこのような国立研究所に進むのは、言うまでもなくエリートコースに乗ると見なされている。
瀋陽だよりに良く登場する沈慧蓮さんは日本の一流大学の大学院に進学を希望している。既に先方の教授と話が決まっていて、大学院の入学試験を受けてそれに通れば、めでたく日本の大学院に進学することになっている。
私の研究室には3人の華やか娘がいたけれど、6月限りでそれぞれが巣立っていった。研究室に来てから3ヶ月半実験をして、6月に入ってからはPCに向かって発表のためにPowerpointでスライドを作り、そのあとは卒業論文の作成にいそしんだ。
煩煩さんには上海の研究所に一緒に進学する同級生の恋人の葛くんがいる。彼は2月からそこで卒業研究をやっていたけれど、ここよりは2週間くらい早く片が付いたらしく6月には瀋陽に戻って来て、毎日私たちの研究室に顔を出し、煩煩さんの実験を手伝っていた。
沈春莉さんにも同級生の恋人がいて彼は北京の医科大学に進学するという。彼はこの瀋陽薬科大学で卒業研究をやっていて彼女を手伝えなかった。その代わり同じ頃に終わったので、あとは晴れて二人そろって毎日どこかに遊びに行ったらしく、6月後半は姿を見かけなかった。二人はすぐに南北別れ別れの生活が始まるから、無理もないか。
というわけで、研究室は9名のメンバーだけど、私たちの歓送会はメンバーの恋人たちも呼ぶので十数名にふくれあがる。中国では割り勘という習慣はないから、こういうときは全部わたしたち持ちである。もっと給料があってもいいなあと思うのは、こういう時である。
2004/07/28
胡くんのすてきな恋人
ちょうど春節休みに私たちが東京に帰っている間に、胡丹くんは灼熱の恋をした。二月はじめに瀋陽に戻ってきたら、待ちかねたように真っ先に訪ねてきて紹介してくれたのが彼女だった。彼女は同期の学生で、私たちの同じ建物の1階上の研究室にいる。その頃は毎日、時間になると彼女と待ち合わせて昼と夜のご飯を学生食堂に食べに行っていた。
恋人同士の男の方は、「護花使者」を呼ばれているそうだ。女性を花に見立てて、その恋人のことを「花を守る人」というのは、綺麗な言葉でさすがに文字の国だと思う。ただし煩いことを言うと、女性を男と対等の立場に置いていない表現かも知れない。
胡くんたちの激しい恋もこの頃は少し落ち着いてきて、それぞれの実験の都合を優先するようになったみたいだ。昼夜いつも一緒に食事に行くことはなくなったけれど、彼が幸せであることには変わりない。
彼が実験で忙しく昼食に一緒に出掛けられないときは、彼女が食堂でお弁当を買って届けてくれる。午後の一時頃にやっと実験が一区切りついて、教授室に来てひとりで食べることになっても、胡くんは愉しそうである。
今日も昨日に引き続いてひとりで弁当を食べている。「いいねえ。仲が良くて羨ましいねえ。彼女は胡くんの女神ですね。」と水を向けると、胡くんはニコニコと無邪気な笑顔をする。心の底から幸せが溢れ出る笑顔だ。こちらも思わずつり込まれて頬がゆるんでしまう素敵な笑顔だ。こんな豊かな笑顔を向けられれば、彼女の心は彼の虜になったまま未来永劫彼から離れることはできないだろう。
「でも、喧嘩をするんです」とご飯を食べながら胡くんが言う。「まさか。どうしてなの?」と話の聞き上手な妻の貞子が言う。「喧嘩する位じゃなければ、長続きしないさ」と分かったようなことを言うのが私。
「この頃、朝寝坊して起きられないものだから、彼女が昨夜ケータイを貸してくれて、そして今朝電話を呉れたんですよ」と胡くんは話を続ける。そういえば胡くんは自分のケータイを持っていない。ちなみに、研究室のメンバーはそれぞれの連絡先を私のところに登録してあるけれど、彼の連絡先は以前から彼女のケータイとなっている。
緊急の用があってもまさか彼女のところに電話するのも気の毒なので、つい彼のところには電話をしない。だから、培養に必須な機器が壊れて直そうというときも、教授室の床磨きが始まりそうで急いで部屋の中の机を廊下に出さなくてはいけないというときでも、うちの研究室の彼女たちの恋人はたちまち集まるけれど、胡くんだけはいないのだ。
彼の寝室は寮の4人部屋である。中国で「寝室」というと寮生活の部屋を指し、普通の住宅の寝室のことは「臥室」と呼ぶそうである。その彼の寝室には、同じ研究室の魯くんもいるし、王麗さんの恋人の馬さんもいる。朝起きるときに友達に起こすよう頼まないで、わざわざ恋人に電話を掛けて貰うところが可愛い。この心理は、自分の大昔を思い起こしてみれば、よく分かる。
「ところが今朝電話があって起こされたんですけれど、起きてから歯を磨いたり、着替えたりしてぐずぐずしているうちに、寮の廊下で放送があって、彼女が待っているとことがわかりました。あわてて出てみると、彼女はずっと外で私を待っていたのです。直ぐに出て行かなかったので、怒っていました。」
「彼女が怒っているのが分かったのですぐに『ごめんね』と言ったけれど、彼女は、『別に何でもない』と言うのです。でも、あの固い顔を見ると、本当に怒っているのですよ。」
「わかるう」と思わず貞子が目の前にいるのも忘れて、私は口を挟んでしまった。「女性が、その頬を白く引きつらせ、視線を彼方にそらして『別に。何でもないわよ』と口にした時の怖さは今までに何度も経験しているよ。本当にやばいんだよ」と思わず言ってしまって、妻の固まった白い顔に気付いたところで危うく思いとどまったが、もう遅い。
口は災いの元。男はつらいねえ。
2004/07/31
不思議の国の山大爺-3
3月の終わりの頃だった。昼食のためのパンを買いに出掛けようとすると、学生の沈慧蓮さんが「先生、ケーブルテレビのお金を払いに行くのですか。一年分まとめて払いますね」という。藪から棒で面食らったが、よくよく聞くと、以下のようなことだった。
今私たちは大学の敷地に隣接して建てられた教授楼という名の高層16階のビルの8階に住んでいて、部屋には巨大な35インチのテレビがある。この新しいテレビは、冷蔵庫、台所用品一式、家具、などと一緒に、新しく入る私たちのために大学が用意してくれたものだ。チャンネルを回すと合計40チャンネルくらい見られるが、一つを除いて全部が中国語である。初めは珍しかったけれど、今は英語によるCCTV9というCNNの中国版しか見ていない。結局、猫に小判、豚に真珠、山形に中国語テレビなのだ。
今聞いた話によると、どうもこれは有料のいわゆるケーブルテレビらしい。半年以上もお金を払わずに使っていたわけだ。ほかの立派な家具と同じように大学が費用を払ってくれたかと思っていたけれど、それは甘いというもの。なるほど。それなら払わなくてはいけない。だけど、うちの住宅番号が分からないのにどうやって払ったらよいのだろう?
半年も住んでいて自分の住宅番号が分からないと言うのは妙な話だが、本当なのだ。ガス代はうちに固有の番号が付いてその番号で請求されているし、固定電話にはもちろん電話番号がある。だから銀行に行って、日本の銀行のcash dispenserみたいな機械に銀行カードを通すと、ガス代とか固定電話代などの名前が並んで画面に出てくる。どれかを選んでその番号を入れた上で自分の口座の暗証番号を入れると、銀行通帳からその金額が引かれるという半自動の仕組みになっている。
この番号がないと払いようがないわけだ。私たちのアパートは最初入居するときに208号だと聞いていたが8階にある。1階の入り口にある私たちの郵便受けには2-8-2と書いてある。そして日本式に数えれば、部屋は8階の端から二番目なので802号室だ。しかし、入って間もない暑い夜にクーラーを全開にしてフューズを飛ばしたときに対面したうち専用のフューズボックスには806と書いてあった。したがって何番がうちの正しい番号か知らないし、さらに同じアパートの住人に聞いても分からないのだ。
誰が払えといってきたのか分からないが、ともかくテレビ代を払う場所を沈さんに調べて貰って、私たちの住所が大学になっている居住者証を持って払いに行こうとした。するとそれまでの様子を見ていた魯くんが「支払いにはカードが要るはずだ」と言って、大学の管財課みたいなところに電話を掛けてくれた。それによると、テレビ代を払うためには私専用のカードを持っていないと、どうやらテレビ代を払えない仕組みのようだ。
しかしそれならば、どうして最初から「これこれこういうわけだから、これを持って何処そこにテレビ代を払いに行きなさい」と言ってそのカードが私の所に送られてこないのかだろうか。さらに言えば、テレビ代を払えということが、どうして当の本人に直接ではなく、学生を介して何となく伝わってくるのか、ここは不思議なところである。
さて電話した結果、そのカードが貰えることになったというので「それじゃ、そのカードはいつ来るの?」と、当然の疑問を発したのだが、「不知道(わからない)」という返事が返ってきた。そして私はテレビ代を払いに行くためのカードの到着を、ただじっと待っている。有料であることが分かってからは、見なきゃ損するテレビを文字通り目一杯眺めながら、もう四ヶ月も。
2004/08/07
中国人はなぜ逞しい?
うちの料理はいつもは私が作るので、材料も自分の管理下に置きたい。ということは材料を探しに自分で買い物に出掛けることになる。時期の良い今頃は、朝早く近くの青空市場に野菜、果物を買いに出る。ここは朝だけ出ているので文字通り朝市だけれど、土佐市みたいな観光用のではなく、市民生活の必需の場所である。
瀋陽薬科大学のアパートから200メートルくらい離れたところにある普通の路の両側に、リヤカー(荷台が前に着いているので、日本式に言えばフロントカーになる)、オート三輪車の荷台、地面に拡げたござなどの店がぎっしり並んで、食材が売られている。ほとんどの店は地面の上のござだ。このような店が両側に1ブロックに亘って並んでいる。朝7時頃になると買い物客で混んできて、道を歩くのもままならない位になるが、8時頃には綺麗に片づけられてしまう。
自分の畑から持って来るのか、卸から買ってくるのか分からないけれど、それぞれの店に置いてある種類は大して多くない。野菜を置いている店は、今だとトマト、インゲン豆、なす、椎茸を置いているところや、ニンニク、ショウガ、ジャガイモ、ブロッコリ、ピーマン、唐辛子など、大体似通ったものを数点ずつを置いている。店番はひとりないし数人いる。 スパイスだけ置いている店もあるし、魚を売る店、肉を売る店もそれぞれ固まっている。肉に朝日が当たろうが、埃が付こうがお構いなしにむき出しだ。こういうところでは大体肉の由来も大丈夫かどうか分からないので、買うのは敬遠している。
あちこちのござの店の上のトマトを見比べてから、しゃがみ込んで「いくら」と声を掛ける。「1 元1斤(1Kgが2元、つまり約27円になる)」と返事を貰ってOKなら、売り子さんの呉れる薄いビニール袋に一つずつ自分で入れてそれを秤量して貰い、金を払う。この自分で選ぶというのが、この青空市場の良いところだ。納得して金が払える。椎茸だって1個1個気に入ったものを自分で選べるのである。桃はさすがに自分で選んでも良いところもあるけれど、触って怒鳴られたこともあった。仕方なく触った分は全部買ってしまった。と言っても1Kgで1.5元(20円)くらいのものである。
こういうところでは値段は交渉次第の自由経済である。私たち日本人は駆け引きがとても苦手だけれど、ものを見て交渉の挙げ句、双方が納得して取引するというのは商売の大原則に違いない。
中国の研究室で学生相手に生活していると、日本の学生と彼らの違いが沢山あることに気付かされる。その一つに、普段の行動で彼らは何かと自信を持っているように感じることがある。生きる逞しさといってよいだろうか。
中国の大学の講義は「教師が教え、学生は覚える」というパターンになっているから、学生はものはよく知っている。しかし研究上の発想では彼らは日本の学生には及ばない。ある研究結果を別のものに応用して考える、自由に発想する、発想を飛躍させる、こういったことは苦手である。しかしそれ以外の日常的なことだと、学生といえども教師と全く対等に話をしている。これは日本の学生には見受けられないことだ。彼らに比べると日本の学生は、自分自身の考えに自信がない。 この違いはまさに文化の違いに起因しよう。様々な要因が考えられるだろうけれど、日本の学生と中国の学生の違いを、物の値段は買い手と売り手双方の交渉で決まるという中国伝統文化の中で彼らが育つ、というところに求めるのは無理だろうか。
物を買うときに売り手のいいなりに高値で買えば、家族の金に迷惑を掛けるし、自分の評価にも傷が付く。したがって彼らは小さいときから物と人をしっかりと見る訓練して自分を磨いて きたはずだ。やがては物と人を見て下す自分の評価に自信を持つようになる。自分の判断力に対する自信があるから、若い学生も日常生 活では大人と対等に渡り合えるのではないかと思う。
日本の教育も、小さいときから(せめて)一芸を磨かせてそれに自信を持たせることがすごく大事だと言っている。しかし一芸に秀でてもそれは他人に対する優越感になりはこそすれ、自分の判断力に自信を持つことにはつながらないのではないだろうか。
青空市場で野菜を買うことで、この歳で私もやっと自分の判断力涵養を始めたところだ。私の説が正しいかどうかを試すには、ちょっと遅すぎる気もしないでもないが。