2009年03月03日(火)
山寨文化について
前回は、細胞の培養が昨年の11月頃からおかしいことになって、いろいろと原因を探っていたら細胞の培地が偽物だったと書いた。何時も試薬を買っている代理店がこの偽物を持ってきたわけだが、「これはおかしいじゃないか」というと、正規のものと思われるものをちゃんと持ってきた。
写真を撮って本物の発売元のInvitrogen社に送ったら、一つは偽物で一つは本物と言ってきた。それなのに「正規のもの」ではなく「正規のものと思われるもの」なんて言う回りくどい書き方をしたのは、ラベルが本物と同じだからと言って中身が本物かどうか分からないじゃないか、と今や手痛い学習をした身としては思わざるを得ないのだ。
前回、『 2009年1月25日、 山寨(さんさい=パクリ)が中国の08年の流行語の1つに選ばれた。春節(旧正月)には国民的年越し番組「春節晩会」(春晩)の「山寨版」まで登場し、話題を集めた』と言う記事を載せた。その時に私の理解不足から誤解を生じているかも知れない。ここに再度書いておきたい。
というのは、培地の偽物のために迷惑を被った学生の陳陽が非常に憤っている。怒るのはもちろん当然だと思うけれど、つい「だって中国では山寨文化が花盛りで、皆にもてはやされているじゃないの。」と私は言った。
すると陳陽は憤然として「あれは山寨ではありません。偽物なのです。偽物を作って売るなんて非常に迷惑です。」と言う。
それでよくよく聞くと、山寨はそっくりさんのことを指していうのだそうだ。一方偽物は假货という。Pradaに対するParadiの、 iPhoneに対するHiPhoneは、そっくりだけど別のもので、消費者を瞞しているわけではない。消費者は別のものと知っていて、それを選ぶのだという。本家本元よりも消費者の人気を集めるところがもてはやされる山寨文化なのだ。なにしろ『米Apple社「iPhone」の山寨版「Hiphone」は1台1000元(約1万3000円)で売られて、世界で1億5000万台を売り上げる大ヒット商品に』なったという。
つまり山寨はヒーローであり、『権威や権力に真っ向から立ち向かう「知恵や勇敢さ」が国民から支持されている』のだ。私はこの山寨の精神と、偽物を平気で作る気質を一緒にしていたが、中国人にとっては別物というわけだ。
となりの部屋の池島老師にこの培地の偽物の話をした。池島老師は自分の研究室を調べて、今まで偽物は入っていなかったと言うことだったが、ついでに面白い話を聞いた。
昔はタンパク質というと実際にそれを含む材料から抽出するしかなかったが、今では遺伝子を大腸菌に入れて好みのタンパク質を作らせることができる。問題は大腸菌が持つ細胞壁の一部のリポ多糖の一部であるリピドAで、これが私たちの体内に取り込まれると致死性ショック、発熱を引き起こし、内毒素と呼ばれている。
したがって生物製剤に内毒素が含まれていては危険なので、この内毒素の量をカブトガニの血液からなるリムルステストで 調べる。池島老師はある時内毒素を調べる必要があって、このアメリカ製品のテストキットを日本から買って持ってきたが、中国製品が安いのでそれも買って比べてみたという。すると、中国製品は感度が米国製に比べて10分の1だったそうだ。
つまり、内毒素があっても、中国製品では白という答えが出ることになる。注射薬は原則的にはすべてこの内毒素のチェックが行われる。内毒素によりエンドトキシンショックを起こすと大ごとだからである。中国製の試薬で調べて合格した注射薬でも、ことによると危険かも知れないわけだ。
注射薬のエンドトキシンのチェックをするということが義務づけられていても、それで大丈夫かどうかを問うことがないという姿勢は心配だが、これは日本でも同じようなものだ。耐震強度の偽装問題にしろ、ちょっと古いが雪印ミルクの集団中毒事件にしろ、検査態勢がいい加減でひどいことが頻発してきたから日本も中国に対して偉そうな顔はできない。
日本人よしっかりしてよ、と言いたいのだが、エコノミックアニマルに徹すると、 ミートホープ牛肉偽装事件をはじめとする牛肉産地偽装や、船場吉兆の刺身の使い回し、不二家の生菓子、石屋製菓の白い恋人、伊勢の赤福、比内鶏、 博多っ子本舗の明太子、最新では竹原田ファームの餅などの生産日付偽装、などがぞろぞろ出てくるわけだ。
儲けることが幸せの尺度である限り、人は嘘をついても儲けようとするだろう。数十年前の日本は貧しかったかも知れないが、人を瞞しても自分だけは儲けようと言う風潮はなかったと言っていい。幸せを金ではない別の尺度を計る社会を目指さないと、人に対する不信に溢れる情けない社会のまま、結局は自分の首を絞めることになるだろう。
2009年03月07日(土)
修士課程の入学試験
中国の大学院入学志願者は毎年1月半ばに中国全土で一斉に行われる入試を二日間に亘って受ける。全国統一試験である。ただし大学ごとに一定の人数が成績優秀と言うことで入試を免除される人もある。彼らは推薦で志望の大学院に入学希望を出すことが出来る。
薬科大学でも推薦を受けて私たちの所に進学した胡丹みたいな学生もいるが、大抵はこれぞ好機会とばかりにほかの有名大学あるいは国家の研究所に行くことが多いようだ。
学部の最終学年に在学している張笑さんは、この秋に始まる修士課程で私たちの研究室に進学することを希望して入試を受けた。彼女のほかの同学年の学生で、日本の大学院に進学することを決めている二人の学生は、受験勉強をしなくて良いから昨年の10月から研究室に来て実験を始めていた。張笑は彼らを尻目に毎日必死で勉強したに違いない。2月27日になって入学試験の結果が発表されたが、それによると張笑は私たちの研究科では1位の成績だったという。入学試験の終わったあとの晴れ晴れとした彼女の顔は、それはもう輝いていて、「そうか、そんなに頑張ったのだね」という感じだった。
朱彤は大学院で薬理の研究室に行くので、私たちの所を受ける張笑とは専攻が違う。朱彤も彼女の専攻では入試一番の成績だった。その彼女が私の所に来て言うには、「大学院は別の研究室に行くのにここで卒業研究をさせて欲しいと言うわがままを聞いて呉れてありがとう。大学院の入試を終えて自分の将来をいろいろと考えてみたけれど、大学院は先生の研究室に進みたいと思う。受け入れて貰えるだろうか?」
大学院の進学先の研究室を選ぶのは学生の権利である。彼らは好きに選んで良い。ここに来たいと思い、そしてこちらが良ければそれでよい。もちろん 呉老師が納得なら、朱彤を私たちの研究室に受け入れることはOKである。
事情を聞いてみると、彼女の家系は糖尿病を発症していて、そのために糖尿病の薬理を研究したいという大きな目的を抱いて来た。しかし彼女も糖尿病関連遺伝子疾患を持っている可能性は零ではないので、両親とその主治医は、 糖尿病の薬理を研究したいと思い詰めずに好きな研究を選んだらどうかと勧められたのが大きいという。
呉老師も納得だと言うことだったが、もう一つ問題が出てきた。それは、この薬大では教授一人あたり7人の学生が採れるが、その中で学費免除の学生は4人までなのだという。朱彤がよそに出てしまうのにこの権利を使うと呉研究室では学生が一人はみ出てしまうことになるらしい。
それで彼女を形式的に受け入れる別の教授を捜して、その上で私たちの研究室に派遣される形にすることになった。と言っても私たちはこの大学の薬理の教授を殆ど知らないから、彼女が自分で見つけてきた。こう言うところは日本とは違う。学生は行動力がある。
所属の院生の数に応じて研究室には少額ながら人頭別研究費が配られる。これを別の研究室に派遣する学生に付けてやるかどうかは、そこの教授の考え次第である。名目の指導教官になっても配られた研究費は手元に入るし、悪いことではないのだろう。私たちもこのシステムを利用させて貰って良い学生が確保出来るというわけだ。
2009年03月08日(日)
瀋陽市図書館を見に行く
1月27日に「 新年快楽 万事如意」と言う題で書いたように春節休暇中に資料室問題に展開があった。
それで休暇を終えて戻って来た私たちは3月7日に集まって今後の相談をした。集まったのは:石原、松下、土屋、伊藤、池本、有川、山形で、集まった場所は薬科大学の山形の部屋。
1月21日の会合は、すべては松本盛雄総領事が中国語を用いて初めから最後まで集まりの話を仕切って下さったと言うことである。教師の会の本を市図書館が受け入れることについて話がスムースに進んだのは松本総領事のおかげである。
休暇中に領事館の平柳領事から、この先は出来るだけ早く先方の瀋陽市図書館の周副館長と連絡して今後のことを教師の会の主導で進めて欲しいと言われていた。 つまりもう、領事館の手を離れた問題としてとらえられていると理解して良い。レールは敷いて上げたのだから、あとはちゃんとやりなさい。
それで私たちは集まって、今後の対応を相談した。もめる話でもないので1時間ちょっとでこの先図書館と会って話す内容の骨子が決まった。そのあと、夕方日本人会の中の九州人会に出席する池本、有川先生たちと別れて、残りの5人は市図書館を観に行った。
入試の成績がよいと、推薦入学者を含めて上位40%に入ると学費免除である。おまけに毎月200元のお小遣いが大学から貰える。これで毎日二食分はまかなえる。修士課程の学費は1年間13,000元なので、為替レートで計算すると、日本円で181,000円となる。日本人の感覚なら年間学費がこれなら大した ことはない。日本の国立大学大学院の年間授業料は確か55万円くらいだから。
でも年間の一人あたりのGDPを見ると、日本では $34,312に対して、中国では$2,460と、日本の14分の1である。それで、同じ価値になるように先ほどの18,100円を14倍すると253万円になる。これは凄い額である。日本でも、子供の大学院の1年分にこの金額を快く出せる家庭がどのくらいあるだろう。わたしは今日本では無職だが、勤めていた頃だってとんでもない額だと思う。つまり学費はとても高い。
と言うわけで、学生が大学院を受けるにしてもただ合格すれば良いというのではなく、良い成績を取るために必死で勉強をする理由が分かっていただけると思う。
今 年度の卒業研究生は私たちの研究室には4人いる。4人の顔ぶれの中で 最後になる朱彤さんは、大学院では呉老師の研究室に入って薬理学を勉強したいけれど、卒業研究は私たちの研究室でやりたいという。他所の研究室に行ってしまう人に半年間の基礎研究の手ほどきをするのは労多くして効少なしだが、彼女は私の分子生物学の試験で考えないと答えられない問題を出したのに、抜群の成績を取った学生である。
試験で記憶だけに頼る問題は余り出したくない。記憶している三つ以上のことを有機的に結びつけて考えないと答えられない問題をこちらも考えた。すると90人いる学生の中で完全に答えられたのは彼女だけだった。半分の点を上げられたのが3人。あとは軒並み駄目で、中国の学生は記憶するのが勉強と思っているけれど、考える力は殆ど養われていないことが如実に示された。
生化学の講義で朱彤は私の間違いを指摘したし、分子生物学の講義では私には答えられない質問をした。こういう学生は私のお気に入りである。だからたとえ半年で逃げられようと卒業研究はここでOKと答えたのだった。
エレベーターで上がってその部屋にはいると、届け出なしに本を帯出すると ピーッとなる柱が立っていて、その中は開架式である。係は一人が机に座っていたので、互いに会釈を交わした。部屋の広さは80平方米くらいだろうか。書庫は背の高さより低いくらいのスチールの本棚が10列くらい並んでいる。奥行きは4メートルくらいかな。
見ると日本の本は1列の両側に並べてあるだけで、新しい本はない。教師の会の本が加われば、それなりに日本の本の所蔵として瀋陽市図書館の株が上がるのは確かだと思う。
薬科大学から約1kmくらい南に向かって歩くと科普公園という広大な公園がある。この公園の中に市の図書館が建っている。幅70メートルくらい。奥行き200メートルくらい。階段状になっていて、一番高いところで6-7階の高さである。横から見ると三角形の積み木である。 この階段は東に向けて開けていて、つまり東側から階段を3階分くらい上がっていくと入り口に到達する。ここは2階と言うことになっていて、入ると広いホールがあり、受付を回り込むと建物の中央には天井までオープンの広い空間があり、その端をエスカレーターが、更に3階、4階、5階と上がっていくのが見える。 広場の北と南の両側にそれぞれ広い閲覧室が開けている。ともかくブッたまげるほど広い。
私たちは見学に来ただけで、ある意味で不審な行動を取っていたわけだが、誰も気にしない。2階にある社会科学の閲覧室に入って、外国語の本は何処かと聞くと3階の南の部屋だと言われた。
しかし、私たちの公称6千冊の本は段ボール70箱に入っているが、ここに並べたら書架幾つ分になるだろう?2-3列の書架で本がすべて収まってしまうなら、教師の会寄贈の本として特別の部屋を用意して貰えないかも知れない。
私たちの活動を支えるために日本の新しい本を含めて私たちは必要として来たが、本を手に入れるのはとても困難である。何度も日本から本を送って経験しているが、本は重くて、送料がかかる。日本の方々に本の寄贈をお願いしても、送料まで自分で持って送って下さいとなかなか言いにくい。
日本の出版業界も景気が悪くなっているという話だが、次々と出る新刊本は依然として早いサイクルで店頭から取り去られて断裁の憂き目を見ている。政府機関が予算を付けて一定の冊数の新刊本を買い上げ、中国を含めて諸外国の図書館に寄贈すると言うことにならないだろうか。日本の出版業界を救い、世界日本の文化を伝える立派な事業になる。
私たちの資料室の本を瀋陽市図書館に寄贈しても、ここに日本の本を置くことで、日中交流の種が蒔かれたと言うことだ。これからもどんどん本がここに増えるようにしたいし、それを願っている。
この時期に2兆円を納税者にばらまくという史上空前の愚行をするよりも、もっとましなことを考える首相が日本を率いて欲しいものだ。つくづく、情けない。
2009年03月09日(月)
瀋陽日本人教師の会・第2回同窓会が開かれた
2009年2月7日京都の妙心寺花園会館で、瀋陽日本人教師の会の第2回目の同窓会が開かれた。これは2005年度の前期に会長を務めた多田さんが幹事役を引き受けて企画されたものである。
なお、第一回は2008年5月5日京都で開かれた。2005年度後期から2年半の間会長を務めた南本卓郎さんが提案して、京都在住の若松さんも手伝って開かれたと聞いている。
同窓会が2月に開かれたので春節休暇で日本に帰っていた私と妻も参加することが出来た。瀋陽現役組は私たちのほかに、遼寧大学(遼陽)の渡辺文江さんで、合計31人の参加という盛大な会となった。
7日12時半、花園会館で集合。私たちは新幹線京都で下りて山陽線を探した。
山陽線のホームに着いてしばらくすると、高山さんご夫妻(薬科大学03秋~06夏)が現れた。懐かしい二人に出会って、もう早速同窓会の開始である。お二人は昨年の6月に教え子の卒業に会わせて瀋陽を訪れているので、その時以来だ。電車がだんだん西の山並みに近付き、大文字焼きの大の字が見えたと喜んでいるうちに4つ目の「花園」駅に着いた。
駅を下りたところで、澤野千恵子さん(東北育才01秋~04夏)と一緒になった。生まれ故郷の瀋陽で日本語教師をしたあと北京の学校に移って中国語の勉強をされた先生だ。今は日本で英語、フランス語、中国語の勉強を続けておられると言うことだった。
花園駅から京都妙心寺までは指呼の間。その妙心寺の東隣にある花園会館は妙心寺と強い関係のあるところのようだ。フロントにいた人が、お坊さんの格好をしてその午後妙心寺見学を希望した私たちを案内してくれたのだから。
ロビーでは受付の多田夫人、稲田さん(医科大95-97年、遼寧教育学院02-03年)に会って「やあやあ暫く振りですね。」もうそれからは次々と懐かしい顔を見いだして、お互いに興奮気味。話が止まらない。
正式の同窓会は、3階の一部屋で5時から食事をしながら開かれた。参加者は:
石井康男(遼寧大学)、稲田登志子(遼寧教育学院)、大久保千恵(瀋陽朝鮮族第一中学)、岡田重美(遼寧大学)、加藤正宏(瀋陽薬科大学)、加藤文子(瀋陽薬科大学)、鉄本羽衣(瀋陽大学)、桐山吾朗(瀋陽師範大学)、桐山恒子(瀋陽師範大学)、河野美紀子(遼寧省実験中学)、斎藤明子(遼寧省実験中学校)、酒井和重(東北育才学校)、沢野千恵子(東北育才学校)、沢野美由紀(瀋陽薬科大学)、沢野瑠璃(瀋陽薬科大学)、高山正義(瀋陽薬科大学)、高山敬子(瀋陽薬科大学)、多田敬司(東北大学)、多田敏子(東北大学)、田中義一(瀋陽大学)、辻岡邦夫(東北育才外国語学校)、中道秀毅(瀋陽師範大学)、中道恵津(瀋陽師範大学)、南本卓郎(瀋陽薬科大学)、南本みどり(瀋陽薬科大学)、峰村洋(瀋陽薬科大学)、峰村尚代(瀋陽薬科大学)、山形達也(瀋陽薬科大学)、山形貞子(瀋陽薬科大学)、若松章子(東北育才外国語学校)、渡辺文江(遼寧大学)
企画・準備の多田さん、南本さんの挨拶のあと、今の瀋陽教師の会の状況を山形達也が報告。必然的に2008年春から日本語資料室が閉鎖されていること、そして在瀋陽日本国総領事館の松本総領事の奔走で本を瀋陽市図書館に寄贈してある意味で存続する目処が立ってきたこと。 このあと司会を斉藤さん(遼寧省実験中学03春~05春)、峰村洋さん(薬大03秋~07年夏)がひきうけて、参加者それぞれが挨拶。人数が多いので一人の挨拶は30秒限定という注文だったけれど、誰もが瀋陽時代の話したい想い出が沢山あるし、瀋陽を去ってから今までの話したい事柄もいっぱいあるので、とても終わらない。終わるわけがない。 終了予定時間はどんどん伸びて、最後に峰村さんの作った替え歌「瀋陽教師の会」を歌い、これも峰村さんの替え歌「鬼のパンツ」を男どもが所作を付けて歌い、女性陣の爆笑を誘った。最後に次回の同窓会幹事を中道さん(瀋陽師範大02秋~06夏)が引き受けて、記念写真を撮って9時過ぎ終了。 こうやって集まって懐かしい顔をみると、たちまちあの時代の教師の会の雰囲気に戻って、濃密な時間を過ごしたような気になった。しかし、それぞれの人たちと個別の話を十分にする時間はほとんどなく、終わってみるとそれが心残りだった。 同窓会の人たちとまた来年伊豆で出会う約束をして、私たちは翌朝10時に会館を出て、京都大学に留学している中国の学生二人に会うために京都に向かった。 同窓会のHPは: http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/dousoukai0.html
2009年03月10日(火)
にせもの培地の続き
中国の私たちの研究室では、マウスなどの実験動物を使うことは考えたくないので、動物細胞を培養して実験材料として使ってきた。培養をするために培地が必要だが、これが偽物であるとはついぞ思わなかった。
培地は今はGIBCOが作ったRPMI-1640やD-MEMなどの粉末培地が世界標準で、それを買って来て純水に溶かして滅菌して、それに血清を加えて培養に使っている。GIBCO社は今では買収されてInvitrogen社から発売されている。
昨年の秋から細胞の成育が具合悪くなった。血清を疑い培養ディッシュを疑い、いろいろと調べたけれど、Invitrogen社の培地を疑ってみることはなかった。私たちの使っている培地が偽物ではないかといわれて、こっちが本物だよと違う外観の包装の培地を見せられるまでは、細胞培養の具合の悪いのは最終的には培地の(しかも偽物の)ためだなんて思いもしなかった。
本物と言われる培地を使うと細胞の増殖が良くなった。昨年秋からおかしかった問題が解消した。日本にあるInvitrogen社に二つの培地の外装の写真を送ってお伺いを立てると、私たちの使っていたのは偽物だという。もう一つは外観からして本物だと言うことだった。
私たちはほかの種類の細胞も使っていて、このときの培地はRPMI-1640ではなくてGIBCOのD-MEMである。もしやこれは偽物ではないかと思ってじっと粉末の外装を見ると、ロット番号の桁数がRPMI-1640の偽物と同じで怪しい。バーコードの筋が汚くていかにもコピーを重ねたみたいだ。印刷してあるInvitrogen社の字体が綺麗に揃っていない。
それでこの写真を日本の Invitrogen社に送って聞いてみた。「これ、本物に見えますか?」すると返事は、これは偽物ですというものだった。やれやれ。(写真の左はにせもので、右は本物と言われたもの)
この代理店は北京にあるInvitrogen Chinaによると、正規の代理店ではないという。そう聞くと偽物を扱っていても不思議はないと思わせるところがある。しかし不思議なことに、私たちが北京のInvitrogen China に電話して瀋陽にある代理店を教えられて、そこからRPMI-1640を持ってきて貰ったら、何と包装の外観は偽物と同じだったのだ。これはその場で突き返したが、あとになると、証拠として手に入れておけば良かったと言うことになる。
日本のInvitrogen社で聞くと、この北京推薦の代理店は正規のものではないという。一方アメリカのInvitrogen経由で連絡が付いたInvitrogen Chinaのひとは、その代理店から買えという。
情報が混乱している。一体どこで買えば本物が買えるのだろうか。どれが本物なのだろう。それぞれ中身を分析してみたい。中国にはかなり大がかりな偽物造りの組織があるのだろう。中国で発表される論文数と比例しているはずだが、ここで本物のInvitrogen の培地はちゃんと売れているのだろうか?
私たちがここで過去5年半使っていた細胞が、本物ではなく、偽物育ちだったかも知れないと言う可能性に思い至っている。培地を買っていた店の言葉からすると、ずっと偽物だったのではないか。
この先は本物の培地を手に入れて細胞培養をしよう。それにしても今までのことを、どう考えたらよいのだろう。日本とは細胞の具合が違うと思いつつも、それを使って研究をして論文を書いてきたのだ。
2009年03月11日(水)
瀋陽の朝
2月の末に春節休暇を終えて戻ってきたら、瀋陽は一週間前に降った大雪が溶けやらず、まだ零下の世界だった。それでも、ドロヤナギの細い枝先では芽が膨らんでいる。
大学に行くために朝7時にうちを出て、凍り付いた道を気をつけながら歩いていると、大体朝の太陽の昇る位置が大分左に寄ったし、12月のこの時間にはまだ地平線の下にいた太陽はもう大分高く昇っている。光が明るく踊っている。気温は零下だけれども、もう春の気配だ。
私たちの住んでいる16階建ての教授楼の西側は片側4車線の大通りに面していて、バスは11系統が通っている。系統が違ってもあるところまでは共通の経路を通るから、乗れるバスは11本に一つと言うことはない。だから一つの停留所にバスが来る度に大勢の乗客で大混雑である。
昨年の北京のオリンピックを契機にバスには並んで乗ろうという運動があった。瀋陽でも一時言われたみたいだが、全く定着しなかった。だって、どのバスが自分のバスなのか分からないのだから、並んで待つなんて無意味である。バス停はバス乗り場という一つの入り口があるわけではなく、自分の乗りたいバスが来たら、ともかく我勝ちなのだ。礼儀をわきまえようなんてお題目は吹っ飛んで、ともかく自分が我先に乗ろうと思わないと、中国では生きていけない。
ところがこの春の瀋陽の驚きは、バス停に改革があったことだ。道路に沿って柵ができて4カ所の乗り場が作られていた。乗り場というのは柵が出来て、道に面して人一人分の通り道が空けてあるのだ。その高い柵の上にはそれぞれのバスの系統が書いてある。
大体11系統のうちバスの3系統くらいはこの近辺で共通の経路を通るから、一緒にして良いわけだ。これだけで、大混雑が少し解消した。あとはバスに乗るときは並んで一人ずつと言うことになって欲しいもので、見ているとちゃんと並んで順番に乗っているではないか。もちろん柵を回り込んで道に降りて横から割り込む人もいるので、やはりここは中国と一安心したのだが。
もう一つの発見はうちの面している両側8車線の道の、交差点ではない場所に昔からある横断歩道に起こったことだ。世界花博覧会が瀋陽で開かれたときには、この横断歩道では両車線の真ん中に、一時は段差が出来て歩行者保護が図られたことがあったが、今はない。
道の向こうのスーパーに買い物に行くとき、剥き出しの身で道を渡るときは恐怖にアドレナリンが奔出し、うちに帰ると近場に行ったのにかかわらずひどい疲れが出る。
瀋陽に戻って気付いたのは、この横断歩道の直前に、走ってくるクルマに対して大きく赤色で「停」とあってその下に「譲行人先行」と添えてある。クルマにここは「停まれ、歩行者優先」と言っている意味だと、私にも分かる。
これは凄いことだ。クルマを乗り回す人たちは特権階級であり、歩く人はアリみたいにしか思わない意識が変わろうとしているのだ。クルマに乗る人たちが増え、クルマに乗っている人たちもクルマを降りればただの人だと言う、ごく当たり前のことに気付いてきたと言うことだろうか。
ただし、人がこの横断歩道を渡っていても、あるいは渡る気配で歩道にいても、クルマは止まらないし減速もしない。それでも、横断歩道に「歩行者優先、クルマは止まれ」と書いて知らせるようになったのだから、これは凄い進歩だ。
それでも、歩行者が横断歩道を自分が歩いているとクルマが止まると信じるようになるのにあと何年かかるだろうか。
大学のキャンパスに入ると、大学の構内にはまだ掻いて積み上げた雪が沢山残っている。この時間はまだ人影がないのに、構内のあちこち(つまり庭と言っていいだろうか)で英語のリーダーを大声で読む学生がいる。
日本から来る先生たちが先ずびっくりして、中国の学生は勉強熱心だと思って感激する風景だ。私たちももちろん最初は驚き感激した。しかし分かってみれば、学部の学生は全寮制の生活が強いられている。4人一部屋の寮生活である。いくらなんでも、部屋の英語を大声で暗唱する訳にはいくまい。
あっちでは階段の上に一人が立って、それを一クラスとおぼしき25人くらいの学生が囲んでリーダーの言葉を繰り返して英語を暗唱している風だった。英語劇でもやるのだろうか。白けないで一生懸命に何か取り組むというのは、中国の大学生に見られる特徴である。日本では今の高校生でも無理かも知れない。私の青春と重ねてつい共感の好意を持って彼らを眺めてしまう。
2009年03月12日(木)
にせもの培地で考える
動物細胞を培養するとき、培養している動物細胞の成育の悪い原因は第一に用いている血清にある。動物細胞の培養に、仔牛血清を使うのは百年くらいの歴史があるはずだ。この血清の中の有効成分は今では細胞の成育因子(成長因子)であることが分かっている。
正常の細胞は決して自然に増えていくものではなく、外から「増えなさい」というシグナルとしての成長因子が来て初めて細胞はそれに反応し、DNAを倍加して 細胞分裂に乗り出すのだ。ガン化した細胞では細胞自身が細胞増殖のシグナルを出すから、外の成長因子に依存していない。
この仔牛血清は生まれる前の仔牛を無菌的に取り出してその血清を搾り取る。もちろん仔牛は死んでしまう。だから、かなり高価である。日本にいた頃、500ml の一瓶が3万円くらいだった。これで5リットルの培養液が出来る。普通に細胞培養を研究に使っていて、一人が2ヶ月に血清を1本を使う程度だ。
ここの大学で貰っている年間研究費は5万元(約70万円)である。日本並みの血清を使っていたのではそれだけで研究費を使い切ってしまう。幸い、中国では値段が約10分の1の血清を売っているので、私たちはこれを使ってきた。最初は恐る恐るである。日本と同じ条件でなくなっても、細胞が私たちの目的にとって同じ性質を保持するならそれでよいと割り切ったのだ。もちろん割り切るしかなかったわけだが。
血清が替わると細胞の成育には影響がある。日本にいると、こう言うときは試薬会社から様々なロットの血清を試験用に手に入れて、細胞の増殖と性質を調べて、一番良いと思うロットを決める。それを少なくとも2-30本は買い入れて冷凍庫に保存する。
中国ではロットという概念がないから、その血清が良いか悪いか、当たるも八卦、当たらぬも八卦というか、神頼みである。細胞の成育が悪いときは大抵血清を替えると良くなると言うのが私たちの経験である。
細胞を培養するときのディッシュも細胞の成育に大きな影響を与える。プラスティックの皿の表面に加工がしてあって、そのおかげで本来はプラスティック表面には生えない細胞が育つ。しかしこの加工が時たま悪いことがある。これも経験で知ってきたことだ。
しかし培地そのものが偽物であるとはついぞ思わなかった。
そうなると今までここで買って使っていた粉末培地がすべて偽物だった可能性がある。日本と比べて細胞の成育が良くないと思っていたがその原因は血清のためだと思っていた。日本で使っていたような高価な血清は買えないのだから仕方ないと思っていた。そして昨年の秋になるまでは、偽物の培地かも知れないが、細胞は曲がりなりにも育って、研究に使われてきたわけだ。
私たちはこれらの培地を同じ代理店から買っている。この代理店は、私たちがRPMI-1640の偽物に気付いたときに、本物を持ってこいと言ったら本物を持ってきたところだ。そこで今度は、D-MEMの本物を持ってこいと言うことで学生の陳陽が電話をした。
すると先方が言うには、「確かに今まで売ってきたGIBCOの培地は偽物でした。しかし、Invitrogen社製の本物は高くて中国では売れません。出回っているのは殆どが偽物です。でも、これは安いのでどこでもこれを使っています。」
「・・・」未体験ゾーンに放り込まれてただ呆れるばかりである。
私たちはこの店からずっと偽物を買っていたらしい。先方の立場になってみると「私たちは安いのを買っているのだから、当然偽物と言うことを承知しているだろう」と思って偽物を売っていたのではないか。私たちはここが安いと認識したことはなかったし、培地が偽物かも知れないとは思いもしなかったのだが。
中国のインターネット利用者は2008年6月末現在で2億5300万人に達し世界一なのだそうだ。しかし総人口13億人としても、人口比で行くと一部国民しか利用していないと言える。日本では2007年、ブロードバンド世帯普及率は50.9%と全世帯の半数を超え、全人口の6割以上がインターネットを利用している。
経済力が上がるにつれて利用者は増加し、その人たちの要求も増えていくだろう。政治的な抑圧の中で爆発を防ぐための落としどころを探す当局の試みの中で、インターネットの規制はいろいろと揺れていくにちがいない
腹の底には、この平和が何時まで続くかというどうしようもない不安があるが、実際どうなるか誰にも分からない。不時に備えて別のところにも作っておけばいいけれど、教師の会のHPくらいのサイズになると、もう実に面倒である。
インターネットの規制は気に入らないが、中国の政策である以上、「入郷随俗」である。中国に滞在して仕事をしているお客の身としてはそれに従わざるを得ない。
教師の会のHPは中国当局が問題にするようなことには全く触れていないから、規制する必要はないはずだ。希望としては当局の技術が上がって規制がますます巧緻になり、いっぱひと絡げにgeocitiesを規制するのではなく、問題のサイトごとに遮断するようになって欲しいものである。
2009年03月17日(火)
幻の香港行き?
温かい人柄と知性がにじみ出たような笑顔を持った若い女性が私たちの部屋を訪ねてきた。中国語で何か言い出したが、通じないと分かると即座に綺麗な英語に切り替えた。彼女は郭さんと名乗った。学長の研究室で講師をしているそうだ。
「6月にこの大学と中国薬大、それに香港と台湾の薬学研究者が香港に集まって会議を開くのですが、学長が、山形先生にも出てご自分の研究を発表して欲しいと仰っています。どうでしょうか?」
「ええと、6月の何時なのですか。一つには、6月は日本から薬科大学に講義に訪れることになっている先生が二人いるんですよ。6月9日から16日の予定です。 それとぶつかるとまずいですね。それに6月は卒業月だから、私たちのところでも修士4名、卒業研究生4名の発表があるときでしょ。とっても難しいんじゃないかなあ。香港は行ったことがないから、行っても良いとは思うけれど。」と、会議参加の要請を断るつもりなのに、美女を前にニコニコする私。
彼女は「時期は6月12日-15日です。向こうの宿泊はフリーです。」という。
「何しろちょうど、訪問時期と重なりますね。日本から講義に訪ねてくる先生は都合を付けて、やっと9日から16日までなら瀋陽に来ることが出来ると言うことになったのですよ。時期をずらせるかどうかわからないけれど、聞いてみるしかありませんね。」と言った上で、更に聞いた「旅費は大学から出るのですか」。
ところが無料のHPのサーバーでは、容量に限りがあったり、使い方の規制があったり、Yahooに慣れていたので使いにくい。それで12月の教師の会の集まりで状況を訴え有料でも良いだろうかと尋ねてみた。
すると月千円を上限として探して良いと言うことになった。
さて、1月末からは休暇で日本に行ったが、このHP立ち上げも宿題の一つだった。実際上は新しく立ち上げる以前に、現状のHPにまだ載せなくてはいけないことが山積みになっていた。日本に行けば、今まで通りYahooに作ったHPを見ることが出来る。それで、先ず未完のところに注力しようと思って、休暇の終わりはYahooでHPの内容をちゃんとしたものにすることに頑張った。
だから、別の有料サイトを試すゆとりもなかった。もちろん日本で有料サイトを始めても中国でそれが見られなかったら全く意味がないので、日本で始めることに躊躇したのも事実である。
それが2月の末に中国に戻って、ここからでも見られることを見いだし、おおいに喜んだ。YahooのHPに力を入れたのでコンテンツが充実したのだから。と同時に、5ヶ月近く中国ではアクセスが遮断されたので この先、この平安が続くという保証はないと言う不安がある。
『中国のインターネット規制システムは世界でもっとも洗練された、完成度の高いものであると言われている。』「中華的雑記帳」による(http://chenyu.seesaa.net/article/12582250.html#comment)
『アメリカ国務省の調査によれば、中国にはインターネット規制のために少なくとも3万人以上の専門家が政府職員として雇われており、政府の意図に反するインターネット利用者(政府・共産党への批判など)を取り締まっている。更に当局にとって好ましくないネット使用者を取り締まるために、全国に警察要員が配置されており、ホームページや個人メールを検閲して、政府・共産党にとって有害な情報を探し、その当事者を取り締まっているという。』
『国外サイトについては、直接的な閉鎖命令は不可能なので、途中でアクセスを遮断する方法がとられている。中国国内からインターネット経由で国外のサイトに接 続する場合、政府が管理する6つの仲介コネクションを経由しなければ中国から外にでることができないようになっている。
そこで、このゲートウェイと大防火壁(グレート・ファイアーウォール)といわれるシステムを利用して、特定のサイトへの接続を遮断したり、電子メールに政府の好まない特定用語があった場合にそれを自動削除したりしているとのことである。』
そして偽物製造が事故か何かで、ちょっとおかしな内容になった。その結果細胞がおかしくなり研究が出来ず私たちが原因を探り始めて、とうとう、中国で買う細胞培地は殆ど偽物らしいと言う壮大な出来事にぶつかったというわけだ。
動物細胞は贅沢で、培養には細部が生きていくために必要なものすべてを与えなくてはならない。おかしなもの(毒物と言ってもいい)の存在に細胞は敏感である。
書き出すときりがないが中国で手に入れられる普通の試薬は純度という点で不安がある。
たとえばタンパク質の銀染色がどうしてもうまくいかない。炭酸ナトリウムが不純でタンパク質の銀染色が出来ない原因となっていることを見つけたこともある。
これは銀染色に必要な試薬をすべて日本から持ってきて一つ一つを取り替えて見つけたのだった。
中国の偽物の培地で5年以上ここでやってきたと言うことは、偽物培地は私たちと、私たちの細胞を長年に亘って欺けるほど、本物そっくりだったわけだ。
そのくらいなら別のブランド名を付けて売ったらいいのにと思う。前にも書いたが、Pradaのブランドに対してParadi、Panasonicに対してPenesamiG、iPhoneに対してHiPhoneを作って、堂々と本物に対抗して山寨文化を築いているのが中国なのだ。本物に対して明らかに偽物だが、ここまでいくと喝采を叫んで応援する一般庶民の気持ちも分かってくる。
Invitrogen社の偽物のGIBCOの培地が、Invitrogene社という名前で出ると、これは山寨文化になるはずだ。そしたら買うかって?いや、買うわけはない。だから、全くの偽物を出して私たちを瞞してきたわけだ。
ともかく今回の件では、 『怒ると言うより笑っちゃうくらい、ただただ呆れている』ってところだ。中国人のしたたかさに、私たちは明らかに負けている。
2009年03月14日(土)
中国のインターネット規制
教師の会のHP、研究室のHP、さらには野呂先生のHPが中国から見られなくなったと前に書いたが、2月末に休暇を終えて瀋陽に戻ってくると、驚いたことに、そして嬉しいことには瀋陽から見られるではないか。
中国でYahoo.geocitiesのサイトが軒並み見られなくなったのは昨2008年10月初めからだった。遮断される経験は何度もあったがそれまでは数日で元に戻ったので楽観しているうちに、一月二月と経った。
HPをネットで見られないまま内容を更新していくのもやり難い。しかも中国にいるのに見られないHPでは教師の会のHPとしては失格である。それで別のサイトを探して新たにHPを立ち上げることを試みた。
彼女は「いえ、自分の研究費から出してくださいとのことです。」という。それなら答えは簡単だ。私たちの研究室には外国に出掛ける余分の金はない。「それなら無理ですよ。研究費は研究に手一杯ですもの。」と、私はこの段階で参加要請を断ったつもりだった。
美しい彼女は眉をひそめて「とても残念です。」と言って帰っていったが、すぐに戻ってきた。そして「学長は大学から旅費を出すから是非参加して欲しいといっています。」
断る理由の一つが潰されたわけだ。旅費が出ることになったのだから、その時期に訪ねてくる友人の先生たちが時期を変更してくれれば,生まれて初めて香港を訪ねることが出来る。「それでは、メイルを書いて先方に聞いておきますね。」
ところが、6月に訪問予定の先生にメイルで時期を変えられるか尋ねたところ、直ぐに「とんでもない、やっとその時期に瀋陽にいけるよう遣り繰りを付けたのだ」という返事が返ってきた。うむ。仕方ない。香港行きは断るしかない。
一方でとなりの部屋の池島先生が私たちの部屋を尋ねてきて、「6月に香港で学術会議があるので参加するよう大学から頼まれました」と話し始めた。先ほど女性が尋ねてきたとき、池島先生はほかの用事で私たちの部屋に来たので、彼女とのやりとりを耳にしていたのだ。
池島先生は続ける。「私は何時でもべらぼうに忙しいけれど,ちょうどその時は、毎週3日間やっているセミナーにぶつからないし、中国語で40時間も持っている免疫薬理学講義も終わるところだし、時間を空けて出掛けることが出来るんですよ。」
「昔の香港は面白いところが一杯あって、今まで3回行ったことがありますね。でも返還後はすっかり綺麗になってしまって、つまらないただの大都市になってしまったから、遊びに行って面白いところではないですけどね。」
「台湾や香港の先生たちは、いい研究はしているかも知れないけれど、自分たちはアメリカと提携してやっているんだと言うことを自慢げに話すんですよ。よそと組んでいることが自慢なんですね。こっちはそんなものなしでやっているのにね。」と池島先生。
ここのところは彼の意見に私も全面的に賛成だ。「この大学でも何処かよそと組んでいることが自慢になりますね。自分たちに力がないことを告白しているようなものです。池島先生がほかのところと組んだりしないで自分の力だけでこれだけの成果を出していることこそ、この大学が先生の存在を自慢して良いことですよね。どうか先生も会議で十分に研究成果をショウオフしてください。ついでに、先生、会議で香港を楽しんできてくださいな。」
池島先生はもう中国に来て11年経つが、60才になったばかりである。まだまだ中国でよい仕事をして、中国に根を張って中国の薬学界に大きな力を持つことが出来るだろう。小柄だが体中にエネルギーが満ちあふれている。こちらは何時も彼のことを精神的にだが、心から応援しているのだ。
2009年03月20日(金)
教師の会のHPで新機軸?
瀋陽で日本語を教えている日本人の先生たちが作っている集まりに私も入れて貰っている。この会の特徴は会員それぞれが何かしらの役に参加することだ。
毎年4月に開かれる弁論大会の係り、5月に開かれる日本語文化祭の係り、12月に開かれる日本人会主催のクリスマス会の準備委員、書記・会計の係り、研修・レクリエーション係、日本語クラブ編集係、資料室係り、ホームページ係など。
私は日本語を教えているわけではないので、会の中では弁論大会とか文化祭とか、日本語教育と大きな接点のある役は遠慮してずっとホームページ係を引き受けてきた。PCには詳しくないし、ずっとMacを使ってきたからWindowsなどこの仕事以外触ることもないので、適任とは思えない。しかし、この中国で日本語の教育に献身している先生たちの少しでも役に立ちたいという思いが強かったので、これなら出来るだろうと志願したのが2003年9月だった。
実際には初めてWindowsを触ったので最初のハードルはとても高かった。翌年の2月に相棒だった河野先生が日本に戻ってしまい、否応なしに自立して教師の会のHPを作らなくてはならなかった。
引き受けたときには前年度までのHPは出来ていたので、そのあとの更新が出来れば良かった。弁論大会の更新や、会員情報の更新が出来るようになるにつれ、日 本語クラブも載せたくなったし、瀋陽で暮らしていくためのノウハウも載せたいしと、だんだん欲が出て、 教師の会のHPのコンテンツはどんどん膨らんだ。
2000年6月に瀋陽に開設されて教師の会が活動の拠点にしてきた日本語資料室が、2006年春には閉鎖されてしまった。それで新しい場所探しや、引っ越しを一緒に経験することで、教師の会の会員は互いにとても仲良くなった。
これには2004年からは私のいる薬科大学の日本人教師の数が一挙に6人に拡がったことも大きい。そのまま翌年、翌々年も同じキャンパスで一緒に過ごす先生たちが増えたので、薬科大学の中でも親しい仲間が増えた。
この仲の良かった人たちが2007年の夏にはごっそりと抜けてしまった。2007年にはその年度初めにいた先生たちのうち18人が瀋陽を去ったのだ。教師の会の集まりに行っても,親しい人たちがいない。まるで初めてこの会に出たときのようだ。それで私にとって教師の会の活動は大して身が入らないものとなってしまった。
うちの事情もあって、弁論大会、文化祭、バス旅行にでなかった。従ってそれらの記録もすべて更新の作業を怠っ た。係りの日記も、 教師の会の活動の一部として発信しているだけではなく,講師の会の記録ともなることが分かっていたにもかかわらず、2007年暮れを最後に更新しなかった。
そうこうするうちに2008年10月からは教師の会のHPが瀋陽で見られないという異常事態になった。これはとてもまずいことだ。代わりを立ち上げなくてはならなくなって,この春、休みで日本に戻ったときは怠っていたコンテンツの更新を始めた。
こうやって久しぶりに教師の会のHPに身を入れて作業をしているうちに、定例会議事録もブログを利用すれば、係りが直接打ち込めることに気がついた。
何も記録係りがメモからPCに打ち込んで電子ファイルを作り、それをHP係りがホームページビルダーをつかってhtml文書を作るという手間を掛けるまでもなく、係りが直ぐにブログに書き入れて完成という段取りになる。記録係の思いを書くことも可能である。
同じように、HP係りの日記も,今まではホームページビルダーを使っていたので面倒だった。係に勧めても私以外には面倒がって誰も書こうとしなかった。これもブログを利用すればいい。写真を載せるのも至極簡単にできる。
というわけで、教師の会のHPの中で,今は「活動記録」と、「HP係りの日記」がブログとなった。この考えを推し進めれば、文化祭係も,弁論大会係も、レクリエーション係りもそれぞれのブログを持って、それぞれの活動を自由に書き入れることが可能になるではないか。日常的な活動を発信すると同時に、それがそのまま教師の会の活動の歴史となって残る。
良いことを思いついたと言って、自分のことを褒めてやりたい。ブログを作れば、あとはそれぞれの人たちが,それに抵抗を感じることなく日常的に書き入れることが出来るようになるだろう。瀋陽の日本人教師の会の活動はますます華麗になる。
このことを妻に話したら「そうは言うけれどねえ。。。」と難を示す。
「たいていの人にとっては書くと言うことは大変なことなのよ。しかも、いろいろな思いが自分の内にいくらあっても書きたくない人だっているだろうし、プライバシーの問題だってあるし。何でもかんでも直ぐに書きまくってしまう人(私のこと)なんて珍しいのよ。」と言う反応が返ってきた。
さて。どうしたものだろう。ともかく、ブログを用意して勧めてみることにしよう。
2009年03月20日(金)
日本語文化祭の盛り上がり
3月14日土曜日午後2時から薬科大学食堂で、2008年度第5回定例会が開かれた。1年前の3月に日本語資料室が閉鎖されてからは、教師の会は毎月の定例会の場所を探してさまよっている。
2008年9月は遼寧大学。10月は遼寧師範大学。11月は文化セミナー開催という大義名分があったので、領事館を貸していただくことが出来た。 12月は航空学院。そして2009年の3月は瀋陽大学の予定で、借りられることになっていたのが、直前になって瀋陽大学は瀋陽市の管理下にあり、「市が何というか分からない、正式の申請書を出すと何時返事が来るか分からない」と言うことになった。つまり体の良い断りを食ってしまったのだ。
やむなく5月の会場に考えていた薬科大学を当たって、OKが取れて開催となった。以前、薬科大学は係りの伊藤先生と一緒に当たったけれど会議室に使える場所なんて思いつかない。図書館内には立派な会議室があるが、ここを借りられそうなんてとても思えなかった。それで食堂に小部屋が幾つかあるのに目をつけて、伊藤先生が食堂の係りに中国語で、これを借りられないかと頼んだ。「その食事の前に一寸した会合をするけれど良いですか?」
そう。大学当局は全く絡まずに会合のための場所が取れたのだった。8-10人が囲むことの出来る丸テーブルが大小3つ入った部屋である。30人足らずの教師の会の集まりにちょうど良い。
中日両国の交流と親善を目的とする。
2006年と2007年は領事館の主催で開かれた。総領事は領事館の主導で続けますと言ってくれたというが、総領事と文化担当領事が変わって考え方も変わったらしく、2008年は領事館は財政的支援は一切考えないと言うことだった。それで2008年の日本語文化祭は、急遽、教師の会主催として開くことになり、それでも場所だけは総領事館ホールを借りて開催された。
いよいよ2008年度、2009年5月予定の日本語文化祭である。今回の日本語文化祭は教師の会が全面的に主催しないと成り立たないということを全員が認識していた。一方で係りの高澤先生の発案で、先生たちが言い出したのでは真の意味での学生の祭典とはならない。学生の自主性にまかせようではないか、と言う新機軸が打ち出された。それで2008年度から「瀋陽日本語文化祭」は:
高校、大学で日本語を学ぶ学生が、日頃の学習の成果を発表し、日本語学習の更なる習熟をめざす。
日本語を学ぶ学生が一同に会し、他校、個人と互いに親交を深める。
学生が日本語文化祭を計画・立案しその活動を通して、協力し合い互いの親睦を深め行動力、協調性を高める。
と言う目標を掲げ、 遼寧大学(学生2名・藤平)、瀋陽薬科大学(学生4名・田中)、瀋陽航空工業学院(学生3名・中野)、瀋陽大学(学生2名・高澤)が実行委員会を作って12月から動き出したのである。
私たち全員の前に学生の4人がやってきて、初々しい挨拶だった。今後の実際の日本語文化祭の準備が進む状況はブログで見ることが出来る。(http://blog.livedoor.jp/kyosikai2009/)
2009年03月22日(日)
ちっとも飽きない
瀋陽では毎日朝は5時半頃起きる。早起きはもう10年続いている習慣だ。東工大を定年で辞めたあと友人の入江伸吉さんが所長をしている研究所に拾って貰って仕事を続けたが、この研究所が千住にあったためである。
家から電車を乗り継いで京成電車の町屋にある研究所に行くのに2時間一寸掛かる。普通に行くと道中ずっと朝のラッシュで混んでいる。家を出て朝一番のバスに乗ると、5時57分市が尾駅発車の電車に乗ることができて、これなら座って行かれる。と言うわけで、毎朝5時45分発のバスに乗るために早起きの習慣が身についた。
ところで妻と二人の交通費は毎日3500円掛かる。これならクルマで往復した方が安い。私の持っていたクルマは赤いトヨタハイラックスサーフで、その時もう10年近く乗っていたから、高速代金を入れても交通費だけ考えれば電車に乗るよりも安く付く。
横浜から都心を抜けて千住に行くので、往復86kmもある。普通に家を出たのではまともにラッシュにぶつかってしまう。それでクルマの時にも5時40分には家を出た。高速を走り抜けるので、だいたい1時間もあれば研究所に着く。うまくすると6時半には研究所に着いた。
そんなわけでその頃は毎年2万キロメートル以上走っていた。このディーゼルのサーフは、クルマを買うときにカタログに赤いサーフが海岸に止めてあって、その周りにビキニ姿の若い女性が群がっている写真が載っているのを見たので、その色にしたのだ。しかし、結局私と16年も付き合ったがこのサーフは可哀想に、いっこうに良い思いをさせて貰えなかった。
朝の研究所はまだ空気が綺麗で気持ちがよい。この朝の時間はもっぱら書道のために使った。早起きは三文の得というのはこういうことかなと思いながら
研究所にはいろいろのクラブがあった。先生はバツイチのたおやかな女性で、 和やかな集まりである。試しに私が手本を見ながら書いていたら「こうやって筆を動かすのよ」と言って私の後ろから手を伸ばして私の肩越しに私の上から手を掴み、すらすらと字をなぞって書き直してくれた。
私は手先よりも、もっぱら背中に感じる柔らかい感触に注意が行っていたことを白状するが、書道部が気に入って直ぐに入会したのは言うまでもない。ただし、この体験がその後繰り返されなかったのは残念なことだ。これが新人獲得の手法であることを、この美人の辻先生はとっくにご存じだったのかも。
書道部に入ったからには練習をしなくてはならない。幸い、こうやって朝早く研究室に着くので、この朝の時間は、もっぱら字の練習に使った。最初は楷書で歐陽詢の書いた「九成宮醴泉銘」がお手本である。6級から始まって、三年がかりで1級まで行ったところで、飽きてやめてしまった。
私は昔から飽きっぽい。この性格はどんなことをしても直らない。何を始めてもものにならず、三年経つと放り出して中途半端のままで終わる。
そう言う意味では瀋陽に来て「瀋陽日本人教師の会」に入ってHPを担当し続けているのは希有のことと言って良い。飽きっぽい私の性格に反して飽きさせない「教師の会」って、ある意味では凄い存在だと言える。
春休みだけでなく、瀋陽に戻ってからも資料室の今後の問題にかかわっているし、HPのブログを思いついたりして教師の会のために最近は結構時間を使っている。ただ、以前に比べて決断に時間が掛かるというか、あれこれ考えて時間を消費することが増えて、時間の割には進みが遅い。時間ばかり掛かっている。
このことをぼやいていたら、妻の貞子が言う。「それって、でも、前よりずっと慎重になったってことじゃない?いままでは何時も、思いつくと直ぐに目隠しした馬車馬みたいに猛然と走り出すでしょ。いまでは少しは考えるようになって、進化したんだわ。いいことよ。」
「それって、褒めているみたいで、実は馬鹿にしてんだね。」と私。いつも私はこうやってからかわれているのだ。
「何時だって私は良いところを見つけて、良い方に励ましてるんだから。」と妻はにやにやしている。
ホットケーキに、メープルシロップは高価なのでもっぱら蜂蜜を掛ける。今日口を開けた蜂蜜はずっと信用して買っているメーカのものだが、水飴の味がするような気がする。蜂蜜よ、お前もか。
瀋陽にもう6年近くいる。でも、ちっとも飽きないのだ。瀋陽の暮らしは魅力が一杯である。
2009年03月28日(土)
たばこの害
川崎の医師が講演会で「たばこをどんどん吸って早く死んで」と言って問題になったという(2009年3月12日 毎日新聞)。
崎市立井田病院の男性医師(55)が、7日に富山市で開かれた講演会の質疑応答で「禁煙が進むと医療費がかさむことは明らか。どんどん吸って早く死んでも らった方がいい」と発言していたことが分かった。禁煙推進団体は「人の命と健康を守る医師の発言とは思えない暴論」と抗議した。市民団体「たばこ問題情報センター」は10日、関田院長と医師に発言の真意などについての公開質問状を提出した。』
『医師は取材に対し「真意が伝わらず誤解を生んだ」、「自分もたばこを吸うので、喫煙は自己責任だと言ったつもりだったが、誤解されてしまった」と説明。さらに「禁煙よりも、医療や介護を受けられない人たちへの対応に力を入れるべきだという思いがあった」と釈明している。』
この記事を読んでみると、一言でまとめれば「たばこを吸って早く死ね」と言ったということになるかも知れない。しかし、それを本気で言ったのではあるまい。まともな講演の時に、そして誰が聴いているかも知れない講演の場で、本気で「たばこを吸って早く死ね」と言うなんて信じられないからである。
この医師は、たばこを吸えばたばこの害で寿命が短くなることを言いたかったのだと思う。「でも、皆が禁煙すると寿命が延びて、結果的には医療費が嵩んじまいますけれどね。」と言えば冗談めかして真実を述べられたのに。
つまり禁煙推進団体が言いたいことと同じことを、別の言い方で言おうとしたのだと私には思える。言葉尻をとらえて激しく抗議するのではなく、「そのように言ってしまうと{たばこを吸って早く死ね}と言っているみたいに聞こえてしまいますよ。もっと違う言い方をした方が、先生の真意が伝わるでしょうね」とやんわりと話し方を指導したってよいのだ。
禁煙推進団体がきつく抗議したと言うけれど、言葉の遊びがない世界は、表面的な言葉のやりとりだけはぎすぎすした対立関係を産みだし、味気ない世の中にしてしまう。
しかし、冗談は同じ立場に立っている人たちの間でないと通じないことは良く経験することだ。これも、そういうことだったのだろう。
ところで幸いなことに私たちの研究室にはたばこを吸う学生はいないが、中国は「喫煙人口3億人超、世界最大の喫煙大国」である(サーチナ2009-03-13)。
『2009 年3月10日、フランス通信社は中国とインドの喫煙人口が世界最多であることが判明したとの記事を掲載した。米国がん協会(ACS)と世界肺財団による「タバコアトラス」第3版の統計データによれば、中国には約3億1100万人、インドには約2億9900万人の喫煙男性がおり、また喫煙女性は中国が1400万人、インドが1200万人と、世界でも喫煙人口がきわめて多い国になっている。』
『2010年には600万人が喫煙により死亡すると見られており、2030年には800万人が死亡すると予測されている。また、発展途上国では教育水準が低いほど喫煙者が増える傾向にあり、とくに女性の健康被害が深刻化しているという。(翻訳・編集/岡田)』
中国のレストランで禁煙を明示しているのは、私の知っている限りだが、Pizza Hut、Kentucky、McDonald以外では見たことはない。だれもが喫煙には鷹揚である。喫煙により人々の健康が損なわれていることに関心がないみたいである。
中国のGDPはドイツを追い抜いて今や世界3位につけている。日本が追い越されるのも間近らしい。しかしこのGDPをひとりあたりに換算すると、中国は日本のまだ十分の一以下である。
このGDPが日本並みになったら、そりゃ凄いことだけれど、「中国人全部がティッシュぺーパーを使うようになれば世界中の木が丸裸になる」という密かに囁かれている冗談が現実化するかも知れないのだ。
日本が抱えている問題の多くは人口が多すぎることにある。中国においても同じことだ。人口が多すぎるのが多くの問題を生み出していると言っていいだろう。
中国は世界に冠たる喫煙大国だが、中国の人たち自身が「たばこをどんどん吸って早く死んでもらった方がいい」と思っているわけじゃないだろう。たばこ、排煙、黄砂などの空気の汚染源を減らす方向で、生活の質の向上、GDPのアップを目指して貰いたい。
2009年03月30日(月)
わがこころの王麗
王麗が理化研のポスドクに採用されて、3月29日朝日本に向けて発った。ご主人の馬さんも一緒である。二人で80キログラムの荷物を持って。
王麗は私たちが瀋陽に来て研究室を持ったときの最初の修士1年生である。
彼女は修士2年、博士3年を私たちのところでやって、学位論文を昨年6月に提出して無事に理学博士になった。博士になったあと、日本でポスドクとして働くところを捜していたのである。
私たちの瀋陽に於ける歴史と重なるから、私たちの研究室を考えるとき、王麗抜きの山形研究室は存在しない。彼女が去った研究室を見て、瀋陽の研究室の第一世代が終わったことを感じる。あとは残った人たちが頑張って欲しいものだ。
私たちの来た2003年夏はこの新実験棟と呼ばれる建物が出来たばかりで、夏休みの間に多くの研究室は移転作業を終えていた。私たちが本格的に瀋陽に来たのは8月の終わりで、研究室のセットアップは先ず研究室の掃除から始まった。
それまでに3年間毎年講義に来ていたので、顔見知りになった学生たちが掃除に駆けつけてくれた。小張老師は教えている学生の一連隊を寄越してくれた。私たちの貰った三つの部屋は直ぐに綺麗になった。
綺麗になった実験台に実験機器を並べようにも、まだ日本から送った機器は着いていなかった。瀋陽で買える機器をカタログで選んでは大学の管理室と交渉する時間が続いた。
掃除を手伝ってくれた主に65期の学生たちは修士課程1年生に入ったところだった。この大学では修士の1年生は主に講義だけで1年間を過ごすので時間をもてあましている。その彼らから要望されて毎日一寸した講義を始めることにした。
その時、それまで中心になって働いていた65期の学生の胡丹が、同期生で講義に参加したい人がいますと言って連れてきた一人が、王麗だった。今でも覚えている。応接の椅子にちょこんと、取り澄まして座っていた王麗を。
からかわれているのが見え見えだ。
ちょうど日曜日の朝である。日曜日の朝食にはホットケーキを作ることになっている。今までは日本からホットケーキミックスを運んでいたけれど、今は家楽福に森永のホットケーキミックスが置いてある。この数年の間に、とても暮らしやすくなったと言える。
今朝のホットケーキはミルクの味が強い。まるでミルクを沢山入れすぎたみたいだ。今のミルクにはメラミンの代りを入れているのだろうか。まさかと思いたいけれど、何でもありなのがこの愛すべき中国なのだ。
あまりにも取り澄ましていたので、そのあとこんなに賑やかに、そして元気に、ある意味ではワイルドに研究室の皆を引っ張っていく中心になるとは思いもしなかった。
理化研の新しい研究室に行って、またちょこんと静かに澄まし込んで座っている彼女を想像して思わず笑ってしまう。
ま、そうだとしても、きっと、そうしている のは最初の数時間だけだろう。王麗は、長い間おとなしい殻を被っていられる人ではないのだ。彼女はエネルギーとカオスの塊である。
2003年の11月までに日本から送った機器が着いて細胞培養が始められるようになった。妻の貞子から胡丹や、王麗たちは細胞培養のやり方を教わりながら、神妙に 生まれて初めて動物細胞の培養、言ってみれば初めての生命科学の実験を始めたのである。実験と言っても、細胞培養するという練習実験だったが、これを繰り返すか繰り返さないうちに春節休みが来た。
休みが終わると次の代の66期の卒業研究生が3名入って来た。65期の王麗たち3人はたちまち上級生である。細胞培養を1-2回やっただけなのに、私たちの「腫瘍生物学研究室」で彼らの大先輩となったわけだ。
それでは、王麗、元気でね。何時の日にか瀋陽で再見!!!2009年03月31日(火)
在瀋陽日本国総領事
日曜日は日本人会総会があった。瀋陽日本人会は法人会員が88社、個人会員が212名、教師会・学生会員20名くらいの会で、大連の日本人会と比べると規模に雲泥の差がある。しかし、大きさから言うとちょうど良いくらいではないだろうか。全員集合のクリスマス会だって一つのホテルの会場で出来るのだ。
私たちのこの日の目当ては総会ではなくて、総会のあとの懇親会である。日本人会総会は例年州際酒店(Interconntinental Hotel)で開かれてきた。ここの懇親会は、ホテルのバイキングで、普通にこのバイキングで食事をすると確か110元である。
日本人会の会費は年200元なので、家族会員となる妻と一緒にこの総会に参加して懇親会に出ると、会費の元が取れてしまう計算である。教師の会の会員として日本人会に入ると年会費は100元だから、ひとりでもこの食事に来る価値がある。
こんなことを冗談めかして言いながら、私は教師の会で会員に日本人会にも入るよう誘ってきた。会員の一人の渡辺文江先生は、瀋陽の南に約100km離れた遼陽キャンパスで仕事をしているので、日本人会には入っても、日本人会総会には出たことがなかった。毎月の日本人教師の集まりに出るだけでも結構な旅行だからだ。
ちょうどその頃から私はODNのホームページに「瀋陽だより」を書き始めたので、その後のことはもう何度も書いている。王麗のことも書きまくっている。日本に行った王麗が私たちのところよりも(比べて書くのも烏滸がましいくらい)遙かに進んでいる研究に触れて、謙虚な気持ちで、そしてどん欲に新しい学問を学んで欲しい。
王麗にはきっとそれが出来る。彼女は一寸した新知識で直ぐにのぼせ上がって天狗になるような人ではない。向上心と他人に優しい心を持つ可愛い女なのだ(実際、彼女が人の悪口を言うのを一度も聞いたことがない)。
新しい土地と環境で、新しい生活を始めるに当たって心配なのは健康だが、幸い「恋女房」ならぬ「愛しい亭主」である馬さんも一緒だ(「恋女房」に相当する言葉がないね)。たとえ一寸くらい厭なことがあっても、二人の間でぼやいているだけで心配事は吹っ飛んでしまうだろう。
その渡辺先生が今年に限ってこの日本人会総会に参加したのは、在瀋陽総領事館の松本盛雄総領事に、遼寧大学・遼陽キャンパスでの講演をお願いしていたので、その打ち合わせのために実際に会う必要があると言って、この会に出てきたのだった。
商貿酒店で開かれた今年の総会では、教師の会の石原会長が出席しなかったので、会の最後の発言の機会に、私が代わりに資料室のその後の経緯を報告した。というのは、昨年3月に教師の会は資料室を失ったので、総会の時に石原さんは教師の会の苦境を訴えて日本人会の会員に資料室探し手伝いをお願いしたのだった。
「皆さまからいろいろと 情報を頂きましたが、無料で教師の会に部屋を貸すと言うところは見つからず、私たちは6千冊の本を抱えて途方に暮れたままでした。年末に、教師の会が総領事公邸に招かれた時、苦境を知った松本総領事が瀋陽市図書館に話を持っていこうというアイデアを出されて、それを実行してくださいました。それで今図書館側と話し合いが進んでいます。ありがとうございました」と私
総会には約100名の会員が出席していて、そのあとはとなりの珈琲庁に移って食事となり、そこで渡辺先生と一緒になった。昨年まで州際酒店の広々としたレストランとは違って、この会場はとても狭い。私たちがやっと見つけた4人掛けのテーブルは、角を曲がり込んだところにあって、司会者やマイク、メインテーブルからは見えず、切り離されている。
テーブルではもう一人の渡邊京子先生ともいっしょで、妻も入れて瀋陽6年組の私たちは互いに良く知り合っているので、くつろいで食事をした。遼陽の渡邊先生は、総領事を招いて開く講演会のことを話題にして、一区切りついたら総領事を彼の席で掴まえて詳細のお願いをすると言っていた。
ところがそうこうするうちに松本総領事がこちらの席に現れたのだ。総領事は「渡辺先生」と真っ直ぐ彼女に声を掛けた。渡辺先生が、総領事を招く行事の詳細を書いた紙を慌ててカバンから出して立ち上がったのは言うまでもない。そしてこんどの遼陽行きの話が二人の間で始まった。私は二人の話が終わってから、総領事に妻を紹介したのだった。
渡辺先生はそのあとずっと興奮気味である。「11月に公邸に招かれたときに一度会っただけですよ。それなのに、名前と顔まで覚えておられて。しかも先方から挨拶に来られて。。。」
総領事としての公務を考えればべらぼうな人数に毎日出合っているはずだ。重要な人もあり、一見で終わる人もあるだろう。私たち教師の会の会員なんてVIPか ら遙か遠くに位置しているはずだ。それなのに、名前も顔も覚えて、しかも自分ひとりでわざわざ会いに来られたのだ。確かに遼陽に講演に行くという約束はしてあったかも知れない。でも、待っていれば渡辺先生の方から挨拶がいくのは分かり切ったことである。
この腰の低さ、ざっくばらんさ、気取りのなさ、もっと言うと全く威張っていないところが、日本を代表する総領事が私たち庶民に見せている顔である。感激と言っていい。
先日、杉山信行氏の「大地の咆吼」という本を読んだ。上海総領事を務めた筆者の中国に対する思いの丈を込めた本である。惜しくもこれが絶筆となってしまったが、日中関係のあるべき姿を真摯に追い求めた杉本信行氏の情熱と姿勢は、外交官の鏡と言って良い。
松本総領事は昨年春の着任以来、講演に、会談に、寧日ない忙しい毎日を送っておられる。その中で、教師の会の資料室問題の解決のために市図書館との会談をアレンジして、総領事のほか領事館から3名、市文化局副局長、市図書館長、副館長、教師の会から2名が集まった実際の会合の時に、中国語で自ら会合を仕切ったのだ。松本総領事を知るにつけ、杉山氏に抱いたイメージは松本総領事と重なるものがある。
彼のような総領事がおられる瀋陽の私たち日本人と日本の国、瀋陽を中心とする東北三省、そして中国は幸せなのだと喜びを噛みしめている。
2009年04月04日(土)
インターネットって凄い・恐い
日本人総会が日曜日にあって、そのときの 話をここの「瀋陽だより」に書いたのが火曜日の朝だった。このODNのmypageは閉鎖システムらしく、いくら書いていてもインターネットの検索に殆ど引っかからない。つまり会員内部の仲良しクラブみたいな感じである。それはそれで良いのだが、私は教師の会の「HP係りの日記」にも、さらには「山形研究室日記」にも書いていて、これらすべての自分の書いたもの何時か一カ所にまとめてみたいと思っていた。
ちょうど、教師の会のHPに元気になって欲しいと思っていて、活性化するためにいろいろな係りに直接ブログを書いて貰おうと思いついて、それを始めたところだった。それでついでに適当なサイトのブログを見つけて、この三つを統合して載せることにした。
ODN のmypageでも写真をふんだんに使ってきれいな画面にできる人たちもあるけれど(たとえば、http://mypage.odn.ne.jp /home/tossyroom)、私にはうまく載せられなかった。さいわい、今のブログは写真が簡単に載せられるようになっているのが嬉しい。というわけで、ODNの載せたと全く同じものを、ただし写真を入れてこのブログにも載せたのだった。教師の会の日記もこの頃は書いているので、それも一緒に載せる。
総会のあとのエピソードとして松本総領事を取り上げて書いたのが火曜日だった。その翌日の水曜日の午後、医科大学の渡邊京子先生が私たちの研究室に訪ねてこられた。主な用件はもちろん別なことなのだが、渡邊先生は「驚きましたよ。杉本信行と大地の咆吼をインターネットの検索に入れたら、山形先生のブログが出てきたんですよ。松本総領事の写真付きですよ。渡辺文江先生と高木さんも載っているし。」と仰るので、こちらもびっくり。
京子先生は、日曜日に同じ日本人総会で一緒になって、そのあと一緒に食事をした。だから松本総領事が渡辺文江先生に会いに来られたときには、もちろん私たちと一緒のテーブルで、その場に立ち会ったのだ。その場のことが書かれていて、それが昨日のことなのにたまたま調べた検索でヒットして、思いも掛けず出て きたというのが興奮を呼んでいる。
前の朝書いて載せたブログの内容が、その夕方の検索に引っかかったという訳で、これには私もたまげた。悪いことは出来ないもんだ、いや、悪事千里を走る、と言うところかなあ。
こんなに早く、検索エンジンが拾うと言うことは、非常に頻繁に、そしてほぼ完璧にインターネットの世界が調べられていることになる。昔聞いた話ではYahooの検索エンジンは半年に一回が良いところだったと思う。隔世の感がある。
インターネットの世界の反応の早さが信じられなかったので、自分でも検索をしてみた。「杉本信行・大地の咆吼」では私の書いたものは出てこなかった。しかし「杉本信行・松本総領事」として入れてみると、1件がヒットして、まさにこの前日書いたのが出てきた。ともかく半日で検索エンジンに拾われているのだ。
試みに「松本総領事」を入れたら沢山出て来て、その中の初めの20件の中には私が書いたものがずらりと列挙されて出てきた。
私のHPだったり、教師の会の日記だったり、議事録だったりで、教師の会の資料室のことでいろいろとお世話になっているから、折に触れて書いている。それで、それぞれ別々の9件がヒットしていた。これはGoogle検索エンジンで調べた結果である。
Yahoo を使って調べてみると、沢山のヒットの内の最初の20件では、一つだけが拾われていたが、これはGoogleでは無視されていたODNの日記だった。昨年11月に薬科大学で松本総領事が講演されたときの話である。つまり検索エンジンにはそれぞれ得意があると言うことだろう。労を惜しまず調べまくっているという点を汲んで、私はGoogleを贔屓したい感じである。
なお少し拡げて調べてみた。ExciteではYahooと同じ検索エンジンのようだし、LivedoorとNiftyはGoogleと同じ検索エンジンを使っているようである。
試しにGoogleで「自分の名前」を入れた。驚いたことに沢山出てきたので、最初の60件を数えてみると60のうちそれぞれ違う自分の出てくる記事を55件ヒットしていた。
一方同じことをYahooを使ってみると、60件中自分をヒットしたのは41件と少なかった。同じ名前で見ているので、ヒットの違いは 検索エンジンの好みというか偏向によるとしか言いようがないと思う。
自分を沢山ヒットするのが良いということにはなるまいが、やはりGoogleをこれからは贔屓にしよう。
それにしても、インターネットに載せると言うことは、自分から発信すると言うことだから、確実に検索されて探す人の手元に届くのが良いことのはずだ。
載せて直ぐに検索エンジンに拾われていると言って驚いているのは、なんだか筋違いだと自分では思う。それにしても、だ。あんまり早くて、まるで監視されているみたいな気になってしまったというのが実感である。
2009年04月07日(火)
王麗の日本の1週間
王麗と馬さんは3月29日に瀋陽を発って成田に着いた。その日の内に彼女からメイルが入った。
We have arrived at Narita safely and enjoyed the delicious Japanese food. Do not worry about us; we love you all!
そして4月1日になった。この日から王麗は理化学研究所に正式に勤務するはずである。大丈夫かな。きっと王麗のことだから朝早くから理研に行っているだろ う。そして私たちのところに来たときと同じように、背筋を伸ばして畏まって鈴木匡先生に会い、そのあと皆に会うよう引き回されて、そのたびに上品に挨拶を しているのだろうな、などと思っていた。
朝10時過ぎにメイルを見ると、その鈴木先生からメイルが入っている。
何と、「王さんの連絡先は分かりませんか。まだここに来ていないのです。彼女のe-mailは知っていますが応答がありません。こちらの電話は教えているのですが、何かが起こったかと思うと心配で堪りません。途中何処かで落ち合うようにしておけば良かったのですが。。。」
妻も私もびっくり仰天である。王麗が最初の日にそこに行かないはずがない。確かに彼女ものんびりしているところがあるし、約束は守るものとは必ずしも思っ ていない中国人のひとりだが、私たちと5年半付き合ったのだ。何か悪いことが起きたのかとたちまち心配になる。ともかく鈴木先生には「これから調べます」 と、とりあえずメイルを入れる。
王麗たちが理研の宿舎が空くまで夫の馬さんの友達のところに暫く泊まると聞いただけで、連絡先を知らない。しかし、私たちのところの卒業生で東大に行っている胡丹、慶大にいる王毅楠たちが迎えに来るようなことを行っていたから、彼らに電話をすると分かるかも知れない。
さあ、日本に電話しようと思って出したカード(たとえば100元の国際通話料の入ったカードを25元で売っている)は期限切れだという。陳陽に大学の正門の外に立っているカード売りの男からカードを買うようお金を預けた。
戻ってきた陳陽は慶応大学にいる王毅楠と電話で話したという。王毅楠が馬さんの友人に電話をしたら、もう二人は出掛けています。そしてその友人の ケータイを持って出掛けた馬さんに電話をしたら、彼らはもうとっくに理研に着いたけれど鈴木先生に会えていない。そのうち新人の説明会があると言われたの で王麗はその講習に出ているという。そして馬さんはその講習会の外にいて、王麗とは一緒ではない。
なるほど、王麗は理研に行ったけれど、鈴木先生に会えないうちにどうしてかは知らないが、新人講習会に出てしまったらしい。ともかく理研には無事に行っているわけだ。
それで鈴木先生に私が直接電話をしようと思って、陳陽に買ってきたカードはと聞いた。すると陳陽は自分のケータイにこのカードの全額を入れたという。
なに、それ。そんなの、ありかよ。人の金なのに、何で自分のケータイに入れてしまうんだい?
と言うわけで、陳陽のケータイを使って(なに、わたしの金なのだ)日本の鈴木先生に電話をした。陳陽は、基本料金は自分のだとぶつぶつ言っている。(一体どういう神経なんだ、きみは?困ったもんだ。) 電 話が鈴木先生に無事に通じて、今までに分かったことを報告する。状況は分からないが、先ず謝る。娘の不始末を詫びる親の気持ちである。鈴木先生は「出る必 要はないのですが、そういえば、新人の説明講習会があるはずですね。そっちに出ているのなら、行って調べてみましょう」と言うことだった。
あとで、鈴木先生と王麗から聞いた話では、王麗は言われていたとおりに9時前には理研に行った。ところがそこで別の建物にある Glycobiologyの研究室を紹介されてしまって、別のところに行ったのだった。そこはまだ誰も来ていなくて、通りがかりの人に聞いたら、鈴木先生 の名前は知っていてもどこが研究室か分からない。建物の守衛にも分からない。
そうこうするうちに鈴木梅太郎ホールで新人の説明会があるというアナウンスがあって、これに出ないわけにも 行くまいと思って出たのだという。結局のところ、「大丈夫よ、自分で探して会いに行けるわ」という王麗の自信過剰が一寸あったかも知れないが、理研が広すぎたことが原因らしい。
ともかく12時過ぎに二人が無事に会えたことが分かってホーーッ。
そのあと毎日王麗からメイルを貰っている。4月2日にはここでやった研究を皆の前で日本語を使って話したこと。今まで日本語を使った発表の経験が一度もないので「うまくいかなかった」と落ち込んでいるらしいが、皆に「良かったよ」と励まされてもいるらしい。
夜は歓迎会で私も知っている大勢の人たちと会って楽しかったみたいだ。3日には仕事のことで鈴木先生に会おうと思いつつどうやって会ったらよいか分 からないうちに(秘書もいることだし、何しろここに比べて大きいラボだから)夜になってしまって帰ったら、その夜鈴木先生からメイルで、何時でも会いに来 なさいと書いてあった。だからまだ先生はラボだったことを知って具合が悪かったよう、と書いてあった。
王麗にすれば出だしは悪かったと言うことらしいが、禍福は糾える縄のごとし。悪いこともあればいいこともある。人生これからが勝負なのだ。
2009年04月08日(水)
レストラン探し
先週の土曜日、私は学生の陽暁艶さんを伴って瀋陽市図書館に出掛けた。ごらんのようにすらりとした長身のお嬢さんである。心も同じように伸びやかに育っていて、私たちを相手に良く気を遣ってくれる。
1月27日にここに書いたように、一年前集智ビルの貸し主の都合で日本語資料室の閉鎖という憂き目に会い、大量の日本語図書を抱えたまま行き場を失った教師の会の資料室問題に、松本総領事が解決の道を与えて下さって、市図書館との間に下記の合意が出来た。
1.資料室の図書は、市図書館に寄贈し、保管・管理の一切を図書館に任せる。
2.資料室からの寄贈ということが分かるようにする。一室に瀋陽日本人教師の会寄贈と看板を書いてそこに本を置く。
3.教師会の定例会の集まりのために会議室を使うことができる。
4.2月下旬、瀋陽に教師の会の会員がそろった時点で、図書館の担当者・周さんに連絡して、資料室の蔵書リストを作成する。
実際に教師の会の関係者が瀋陽に揃ったのが3月で、先ず私たちはこのことで打ち合わせをしてから市図書館の副館長と3月13日に面談の約束をした。 1月21日の総領事主導の下で瀋陽市文化局、図書館、領事館、教師の会が集まったときは、春休みで教師の会の責任者がいなかったのである。
約束をしてあったのに副館長は会議を理由に現れず、李主任が私たちの対応をした。いろいろと話し合ったが、副館長に伝えると言うだけで、手応えなは なかったけれど、「日本語の本を図書館のコンピューターに登録するソフトがない。手書きで記録を保存するというわけにはいかないので、そのソフトを発注し て手に入れるまで、本の搬入は待って欲しい。」ということだったので、姿勢は前向きなのだという感触を得ることが出来た。
早速4月の定例会から会議室を使わせて欲しいと私たちは申し入れた。しかし先ず、中国語の分かる中国人(と言うのもおかしい表現だが、教師会の日本人のほ かに誰か中国人ということ)が会議にいてくれないと困る、という。たとえば地震があったら困るというのだ。そりゃ、困る。このような人がいてもいなくて も、申し訳みたいな数の鉄筋を入れただけの建物に地震が襲いかかったらひとたまりもないのだ。
4月11日に会議室を貸してくださるようお願いしますと頼んだ。もぞもぞ言っている。やっと一応良いだろうと言うことになった。しかし、また連絡してくれと言うことだった。
会談が終わって外に見送られた私たちは、互いに不得要領な顔を見合わせた。話は総領事の仕切った方向に進んでいるみたいだが、大丈夫なのかなあ。あとで話を聞いた副館長が、何も反対を言わずにそのままOKを言ってくれるのだろうか。
と言って、私たちの出来ることは、総領事に話の進行を報告することだけである。3月27日に平柳領事と会って会談事項を報告し、4月に入ったところで係り の先生が、中国人の学生を介して図書館の李主任に電話をした。その結果4月11日は会議室を使って良いと言われたが、また前の日に確認をして欲しいとい う。
大丈夫かなあ。前の日に電話をしたら、「あ、もうほかのことで使うことになりました」なんて言われるのではないかなあ。どうしてか考えは悪い方に行ってしまう。
余計なことだが、中国で「大丈夫」は「我が家の主」という意味である。家の主は大丈夫でなくてはならないということから、日本で今使う意味になったのだろう。
ともかく、市の図書館を使って会合を開くなら、そのあとの懇親会もそのあたりで開かなくてはならない。瀋陽市図書館は青年大街と言う市の目抜き通り に面して建っている。向かいはシェラトンホテル、ホテルマーベロットが建ち並び、横には瀋陽の企業勤めの日本人が好んで住む河畔花園という住宅団地があ る。つまりこのあたりは超一等の最高級地なのだ。
このあたりで私たちが行ける場所をあらかじめ探しておかないと、時間の無駄になる。というわけで、土曜日の午後を使って、食事の場所探しをしようと思ったのだ。
図書館を出て西に真っ直ぐ文体路を進むと40階建てくらいのビルが壁みたいに並んでいる。その下には豪華なレストランがある。何時か日揮の陳さんが 連れてきてくれた福健省の「竹林」何とかもここにある。でもそのならびの店に、覗いてみるとまあ入っても良いくらいの値をつけた料理が並んでいるのが見え た。暁艶と入ってメニューを見せて貰う。一人あたり40元くらいで何とかなるかも知れない。でも教師の会の人たちに勧めてここに来るなら味も見ておかない といけない。
と 言うわけで、まだ午後3時にならないのに、つまりまだ食べたばかりの昼ご飯が消化していないのに食事をすることになった。二人だけでは足りないので、図書 館で出合った薬大の学生二人にも電話をしてきて貰った。二人は盛んに照れているけれど、こちらは食事をする人口を増やすことに関心がある。
味はまあまあ。値段もまあまあ。店はきれいと言うことでこの店を定例会のあとの食事の店として推薦しよう。
(最後の写真は、江文くんとそのお友だち。江文はこの春から私達のところで卒業研究をやって、秋には日本の岡山大学の修士課程に入るため日本に行った)
2009年04月10日(金)
CATVでBBCや外国映画が観られなくなった
私たちのアパートには入ったときから大型テレビが備えてあった。テレビの普通の番組はCCTVと言う国営放送だけで約12チャンネルがある。それ以外はケーブルテレビを契約すれば見られるという。それでケーブルテレビに毎月100元を払っている。
そのお蔭でBBCが見られるほか、National Geographicsがあるし、外国映画をHBOや、Cinemaxが(中国語字幕付きで)放映しているのを見ている。あとはゴルフ、テニス専門局がある。夜うちに帰って食事をしたあとはこの局が私たちのお気に入りである。
テニスを見ては、ずっと長い間スイスのFedererの強さに挑戦し続けるNadalを応援してきた。昨年、Federerが5年続けていた世界No.1の座から降りてしまうと、可哀想でこんどは彼を心から応援している。
NHKを見るには毎月500元を払わなくてはならないので、これは遠慮している。中国語が不自由な身としては、テレビを見るのにも不便が強いられてしまう。
さて、4月1日になって気が付いた。HBOがTitanicを放映している。CinemaxがトムハンクスのPrivate Ryanをやっている。HBOでTitanicが終わると、Private Ryanに変わる。一方のCinemaxでは Private Ryanが終わるとTitaniになる。
それが数日経ってもそのままである。HBOとCinemaxは、TitanicとPrivate Ryanを交互に延々と繰り返している。チャンネルを廻してみた。Axon、National Graphics、Fashion TV(法国時装)、BBCなど、洋物をやっているところはすべて状況が同じである。TitanicとPrivate Ryanが出てくるだけだ。
どうしてだろう。何処か機械がおかしくなったのか、あるいはひょっとしてテレビのお金が切れてしまったのかも知れない。それで学生の陳陽に来てみて貰った。 あれこれケーブルテレビの操作ユニットをいじって陳陽は、テレビのお金かも知れませんね。払いに行って貰いましょうか。と言うことだった。
今まで王麗や陳陽など日本語の巧みな学生によって私たちの瀋陽の生活が支えられてきたが、王麗は3月末に日本に行ってしまったし、陳陽も夏にはここを去る。 代わりになる誰かを育てなくてはと言うことで、今日は黄澄澄がその役を買って出た。彼女は日本語班の出身で今修士課程の1年生である。笑顔がそれはそれは素敵な、可愛い子である。
ケーブルテレビで膨大な数の局を見る必要もないので、幾つかを選んで、これらが見られるようにして呉れればよいと言ってお金を預けた。やがて街に出 掛けた黄澄澄から電話があったと言って陳陽がやってきた。彼が言うには「いまは3月28日から、外国の局が見られなくなりました。」
私は唖然として返事も出来ない。突然すぎて理解できない。一体どういうこと?情報の制限など最近聞いたことがない。北朝鮮ならまだしも、だ。いや、 北朝鮮ならはじめから外国の放映は見られないだろうから、「急に当局の方針で見られなくなった」と言って驚くはずもないか。
中国がBBCに払うお金を渋ったので放映が中止になったのか。いや、今や世界一の外貨持ちになった中国では起こりそうにもないことだ。
HBOやCinemaxの映画は無許可の海賊版だったので、当局の取り締まり強化により、放映中止になったと言う可能性があるだろうか。これには仮定が二つ入っている。外国映画の無許可の海賊版放映をしてきたなんて思えないが、それもありかもしれないし、わからない。
インターネットで「中国 遮断 外国放送 (あるいはテレビ 放映)」を入れてみた。昨年のオリンピック前の国境なき記者団の抗議を当局が取り上げず放送遮断したことに関する記事が多い。でも、その先はインターネットでつながらない。規制が掛かっているようだ。
「日本からのアクセスを遮断して国大手動画サイトで日本のTV番組見放題」など言うのもでてくるが、今、瀋陽のケーブルテレビで外国映画あるいはニュース(BBC)放映を遮断しているという話は出てこなかった。
だから、まだ何かの間違いで一時的にうちのテレビでBBCや、外国映画番組が見られないのかと思っているのだが。。。
2009年04月12日(日)
チャイナドレス
米経済誌「フォーブス」の中国版が3月17日に発表した「2009年中国有名人ランキング」で女優の章子怡(チャン・ツィイー)が2位にランクインしたと いう。チャン・ツィイーは「初恋のきた道 (我的父親母親 ・1999)でデビューしその可憐さには目を惹きつけられた。グリーン・デスティニー (臥虎藏龍 ・2000)では、これはただ者ではない、凄いぞと思わせた。
インターネットによると、今年の初め米娯楽サ イトに「ハリウッド女優チャン・ツィイーの全裸写真が多数流出した」という。でも、幸か不幸か、沢山出ているサイトをここでいくらクリックしても、「接続が中断されました」と言う掲示と同時に接続が切断されてしまう。
中国で大きな物議を醸したと書いてあるから、いっときは中国でも見られたのだ。いまではこれらのサイトが中国からアクセスできないように中国当局により切られてれているのか、この大学内からアクセス不能になっているのかは、分からない。
書きたいのは彼女を巡る騒ぎではなく、中国服姿の似合うツィイーのことである。彼女を思い浮かべると、細身の彼女にはチャイナドレスがぴたり似合う。このチャイナドレスは旗袍(チーパオ)のことである。
調べると、『中華民国時代に旧来の旗袍のデコレーションを洋服に適用したもので、いわゆる伝統的な民族衣装とは言いがたい。また、深いスリットやボ ディラインを強調した一部のデザインは実際の中国または華僑社会の女性の日常服に採用されたことはない。高襟、スリット、装飾用ボタンの3つの特徴を備え たものをチャイナドレスと呼ぶ( Wikipedia)』と書いてある。
どうして旗袍と言うかというと、 『清の時代、満州民族・蒙古民族の武士階級は旗人と呼ばれた。元々彼らが身につける服であった為、「旗人の着る長い上着」から旗袍(チーパオ)と呼ばれる ようになった』そうだ。清朝を支配した満州族固有の服装を今ではチャイナドレスと呼んで、中国人特有の衣服として認識しているわけだ。
しかしこの旗袍は誰でも着ているわけではない。私たちが中国でチャイナドレスを目にするのは、レストランのウエイトレスが着ているからである。高級なレストランに行くと、すらりとした肢体の彼女らが旗袍を実に優雅に着こなしているのに出合う。
この旗袍はスリットが深い。彼女らがお辞儀をするのを見るときは、はらはらどきどきしながら目を走らせることになる。これは、満族の女性がこの服で馬に乗ったためである。スリットが深い理由が分かる。
妻がこの旗袍を作ると言い出した。教師の会の先生方がこの旗袍をうまく着こなしておられるのを見たからだろう。旗袍でも長いロングドレスでなく、短いジャケット風のものである。
瀋陽の街の中心に奉天街という通りがある。裕福な日本人目当てのナイトクラブなどが多いところだ。教師の会の仲の良い渡邊京子先生に案内されて出掛けたのは、この奉天街にある旗袍の店だった。
入るとずらりとマネキンが素敵な旗袍を纏っている。衣服かけにも彩り華やかに沢山の旗鵬がぶら下がっている。妻と渡邊先生は早速手にとって拡げてみてい る。奥の方の衣服かけには男物がある。渡邊先生のおかげで服の制作費が割引になると言う。それなら妻だけでなく私も作らなきゃ損だ。
女性の旗袍と似た感じの男物もあるが、もっとなじみに感じる服があった。それを試着してみて直ぐに思い出したのは周恩来だった。つまり人民服だった のだ。折角の一つなら人民風ではどうもねと思って、もう少し静かで穏やかな感じの衣服を着てみた。なかなか感じがよい。しかし試着したうぐいす色が無くて 黒色になってしまうと言う。それでも、私だって作らなきゃ損だと言う気持ちだから、ホイホイと決めてしまった。
1 週間で仮縫いである。こんどは通訳として学生の暁艶に来て貰って店に行った。みごろを合わせ、袖をつけてみて、更に襟も合わせてみるというやり方で丁寧で ある。元々の鶯色の服の胸のポケットにはコウモリが刺繍してある。蝙蝠の蝠は福に通じるので縁起がよいとされている。薬科大学も夕方になると暗を縫って蝙 蝠が飛び交うのでなじみの動物となった。瀋陽のぴったりした想い出になるだろう。
このお針子さんは最初に服を選ぶところからここにいて、私たちが作ると決めたら採寸をした人である。つまり裁縫はよそに出さずにこの店でやると言う ことなのだろう。それで480元で(6500円くらい)で出来てしまう。こういう時の計算は日本円に換算して、安いよねと思ってしまうのだ。
それでも、このフォーマルな上等な絹織物のチャイナドレスが出来たら、どこでどうやって着たら良いのかまだ思いつかない。
講義をするときに着る? チョークの粉が付いて悲しくなるだろう。。。
領事館のパーティで着る? 一人だけ注目を集めてしまい顔が火を噴くだろう。。。
教師の会の集まりに着ていく? 皆から無視されて、泣きたくなるだろう。。。
さあ、どうしよう。
2009年04月17日(金)
伊藤俊洋博士の脂質ワールド
一週間前のこと、日本の伊藤俊洋博士の大学院向けの講演があった。伊藤氏は現在北里環境科学センターの理事長を勤めている。古細菌(Archeae)の脂質分析で油化学の世界ではたいそう著名な人だが、もう30年近く付き合っている友人である。
講演の題目は『「脂質ワールド」と古細菌の脂質』というものだった。この「脂質ワールド」というのは一般には見慣れぬ言葉だが、「RNAワールド」という のが昔あった。今の世の中はDNAが遺伝子の本体として威張っているけれど、30年くらい前、リボソームのRNAに酵素と同じ機能が見つかったとき、実は RNAがすべての生命の世界の始まりだったと言う説が出たのだ。その後の進化でRNAの持つ酵素の機能はもっと優れたタンパク質が登場してその座を奪い、 RNAよりもより安定なDNAがRNAの遺伝子としての座を奪ったという説である。
これは、今は恐らくその通りだったろうと認められている。生命の始まりの「RNAワールド」はその後ひとときの騒ぎは静まったけれど、1990年代 の終わりにタンパク質の配列をコードしないRNA (もちろんその時までに沢山の種類があることが知られていた)が、遺伝子発現の制御をすることが知られるに及び、またこの言葉に火が付いて、今や研究の ホットワールドである。2006年にMicroRNAの発見で Andrew Z. FireとCraig C. Mellの二人がノーベル賞を貰っている。
「脂質ワールド」は、だから「RNAワールド」を下敷きにしている。聞いた途端にその位置づけが分かるわけだ。伊藤氏は、実証が困難な世界だから無理のない説と思わせれば占めたもの、先に言ったもの勝ちですね、と言ってにっこり笑っている。
生命の起源には化学進化説というのがあってその先駆はオパーリンである。
Wikipedia によると、「原始地球内部で炭素と金属からカーバイドが生じ、それが噴出して大気中の過熱水蒸気と反応、最初の簡単な、しかし反応性に富む有機物である炭 化水素が大量に生成された。その相互間の、また過熱水蒸気やアンモニアとの反応により一連の低次の有機物質群が生成された。これが地球の冷却に伴い水蒸気 が凝結した熱湯の雨に溶かされて地表に降り注ぎ、低次有機物質を含む海となり、この海洋中でタンパク質を含む複雑な高分子の有機物へと化合が進み、それら が集まってコロイド粒子ができ、周囲の媒質から独立し、原始的な物質代謝と生長を行うコアセルベート液滴ができた。このコアセルベートの進化と自然淘汰と によってやがて原始的有機栄養生物が発生し、ついで原始的無機栄養生物が発生した」というものである。
オパーリンの時代にはまだ細胞の形質膜の組成と意味は理解されていなかったが、物質をその他から囲い込むコアセルベートという考えは新鮮で、その後しばらく一世を風靡した。
今では一方の端に親水性の基を持ち他方に親油性(疎水性)の基をもつ分子を水に混ぜると、親油性の基どうしは水から排除されて集まり、外側に親水性の基を並べたミセルを作ることが知られている。細胞の形質膜 はこの原理で出来ている。
このような分子はリン脂質、糖脂質などで、親油性(疎水性)の基は脂質である。従って脂質が先ずコアセルベートの臨界膜を作って生命を誕生させたに違いない。生命の誕生の最初は脂質ワールドというわけだ。
伊藤先生の講演は、先ず学生に向けて直径25センチくらいの地球儀を手に持って実際に見せることから始まった。「これが地球です。地球儀には各国の 境界が沢山書いてあるけれど宇宙から見た地球は陸と海だけしか見えません。海の深さは0.1mmくらいですし、この大きさだと大気の厚さは僅か表面を覆う 厚さ1mmの層です。私たちが人類の発展と取り替えっこに、この大気と海の環境をどんどん汚染して取り返しが付かないほど痛めつけて来たことに、今やっと 気付いたのです。この汚染を減らしてもとの環境にするのはあなたたち若い力なのですよ。しっかり勉強して将来の大事な問題に取り組んでくださいね。」
さらに、同じ大きさで半分に割れる殻の球が用意してあり、殻の内外は青色(親水性)で、そして切断面の中間は黄色(疎水性)で塗ってある。細胞膜のイメージである。
そしてこのようなリン脂質を実際に水面に垂らして拡げて単分子膜になることを実験で示したLangmuirの実験を皆のまえでやったのだ。単分子膜 の拡がるのは目で見えないから、水面に浮かべたカーボンの微粒子(水に混ざらず水面に浮いて拡がる)がリン脂質が拡がって排除されるところを見せたのだ。 教壇を囲んで集まった学生たちから思わず拍手が出る。
伊藤氏はこれらをすべて日本で用意して運んできた。講義に懸ける熱情が分かる、教える方もこうでなくてはいけないという見本だ。
学説としてやっと受け入れられるようになってせいぜい15年くらいのことだが、生物には大腸菌のような細菌、私たちのような真核生物のほかに古細菌 (Archeae)という大分類があることが分かってきた。この古細菌は、細菌よりも私たちに近い存在だが、見かけは細菌そのものなのだ。
病原性がないためにその研究が遅れていた新参者なのだが、100度の温泉の中でも生きている耐熱菌などからは、耐熱性の酵素が取られて今は工業的な用途がどんどん開けている。伊藤氏はこれらの古細菌の細胞膜の分析が専門で、最後にこの話になった。
古細菌でも耐熱性のものでは細胞膜が二重膜ではなく一重膜なのだ。二重膜のリン脂質が膜の中で脂質同士が結合している姿を考えるとよい。そうやって耐熱性 を増しているらしい。おまけにグリセロールと脂質の結合がエステルではなくエーテル結合となって安定性を増している。でも、このような特殊なリン脂質では ない普通の膜を持った細菌にも耐熱性のものがあると言うから面白い。どうやって耐性を持ちうるのだろうか。学問は果てがない。伊藤氏は聴いていた人たちに 興奮を残して翌日瀋陽を発って帰国した。
2009年04月20日(月)
こんなことを書きたくない
中国の学生は良くできる、と思われている。少なくとも彼らは良く学習する。朝は薬科大学の校庭の隅で教科書片手に暗唱に励んでいる彼らの姿を見ることは日常的である。彼らは試験でよい成績を取ることに目の色を変える。
ここは試験の成績がよいと奨学金が貰える仕組みの強烈な競争社会である。学校で頭角を現すには、成績が良くないと話にならないのだ。
そうやって勉強するのは結構だ。でも知識は使うためのものではないか。頭に詰め込んでも使えなくては意味がないのだ。
しかし、こうやって詰め込んだ頭の中の知識を使えなくては意味がないというのは、中国以外の国の考えらしい。ここでは試験に通るためには丸暗記が必要と思われ、事実、教科書丸暗記で良い成績を取って一流の大学にはいるのだ。
実際、分からないまま教科書を丸暗記しようとすると、試験はこなせても直ぐ忘れてしまう。もしも内容がしっかり理解できたなら、そのあと覚えておこうと思わなくても、ちゃんと頭の中に残るものだ。
私たちは毎週土曜日に交代で新しいジャーナルから面白い論文を選んで皆のまえで紹介する。この日の学生の紹介した論文は、脳腫瘍が作る物質が脳の清 掃・正常化に精出しているミクログリア細胞をおかしくしてしまうという内容だった。その腫瘍が作る物質はなんだろうというわけで、予想されるファイブロネ クチン、ラミニン、コラーゲンを使って実験をしていた。
これらの物質は間葉系の細胞が作って細胞の外に出すもので細胞外物質(ECM)と呼ばれている。細胞はこれらを細胞の外に出してそれらを足場に接着し、成育することが出来る。
うちの研究室にもこういう一番、二番の学生ばかりが来ている。でも、ここでは成績が良いというのは、暗記が得意と言うだけのことだ 研究者、科学者になるには、頭に詰め込んだ知識を互いに有機的に連関させて使う必要がある。それで私の生化学あるいは分子生物学の講義では、大事なのは暗記することではない、「考えることが大事」なんだよという教育をしているつもりだ。
実験ではこれらのほかにPDLを使っていた。PDLはなんですか?と私がきいた。私は論文を読むときにこのような略号をそのままにはしておかない。正式の名称は何か、その化学的性質は何かが分からないと、機構を理解しないでそのまま鵜呑みにすることになる。気に入らない。
学生はそれを知っているからちゃんと調べている。Poly-D-lysineですと返事がある。じゃ、それは何ですか?と私は訊く。
すると、ECMの一つでしょう、と言う返事が返ってきた。「とんでもない、違うでしょう?」でも、皆しんとしている。
じゃ Poly-L-lysine だから、リジン(lysine)が沢山重合したものでしょ? それじゃ、リジン(lysine)てなに?
するとアミノ酸ですという返事があった。じゃ、そのアミノ酸のcharge(電荷)はなに?プラスなの、マイナスなの?と訊くと、皆自信を持って答えるのだ。マイナスです。アミノ「酸」だからマイナスと思っている。ブーーッ。
冗談じゃないよ。3年の生化学で、そして4年の分子生物学で繰り返してアミノ酸のことを教えているのだ。塩基性アミノ酸ってあるでしょ?それはなに?電荷はどっちなの? 学部でしつこいまでに教わり、そして修士に入って研究に従事してきて沢山論文を読んでいて、リジンが塩基性アミノ酸で、プラスに荷電していることも答えら
れないのだ。良し、じゃあ、プラスに荷電した物質だね。じゃあ、何故これをここで使うの?と訊くとまた誰も寂として声なし、だ。
じゃ、細胞の電荷はなに。細胞を一つの球と見立てて、これはプラスなの、マイナスなの?と訊くと、またこれにも皆クチナシである。
さっきの、ひとり前の学生が紹介した論文は何だったの?細胞表面の受容体が糖タンパクで、その糖タンパクをシアリダーゼで処理したら、受容体の活性が下がったという論文だったでしょ?糖タンパクをシアリダーゼで切ったら、どうなるの?
シアル酸が外れるんでしょ?シアル酸はどっちなの?そう、酸でしょう?これが外れなければ細胞表面の受容体は、どっちなの、プラスなの、マイナスなの?
そうマイナスに荷電している訳だよね。それに、ガングリオシド(これこそ私たちの研究室のメインテーマである)はシアル酸があるからマイナス電荷を 持っているでしょ?細胞膜にはガングリオシドが沢山あるでしょ。このシアル酸を外側に持つ糖タンパク質とガングリオシドのために細胞表面はマイナスに荷電 している訳だよね。
みんな知っていることでしょ?どうしてそれらを結びつけて考えようとはしないの?
頭の中にいい加減な知識を詰め込んで寝かせておくだけでは、君たち、まともな科学者になれないよ。しっかりして呉れよ、本当に。
2009年04月25日(土)
インターネットのお蔭で
私は研究者の端くれである。人によっては学者と言う分類に入れてくれるし、自分でも学者だと思いたいけれど、本物の学者とは言い難いことを自分でよく知っている。
学者とは、あることについて深く学究し、従ってそのことなら何でも頭の中に詰め込んでいて、何でも知っている人である。専門のことなら何を訊かれてもたち どころに答えられる。その領域の研究の全貌を知っているわけだから、こういう研究がありますが、と訊かれれば、それが新しい研究かどうか、そして意味があ るかどうかについて評価を下すことが出来る。
もちろん誰でも、頭に納めた記憶が劣化してくるのを避けられない。だから学者は文献を読めば、それをきちんと整理してしまっておいて、必要なときに 何時でもそれを参照できるようにしている。整理してしまってもそれを必要なときに呼び出すためには、適切なキーワードをつけて何時でも探しだせるようにし ている。これがちゃんと出来て初めて一人前の学者・研究者になれるわけだ。
自分がそうなので生命科学の研究者としての視点として書いているけれど、同じように正確な記憶を頭の中に溜め込んでおかなければならないのは、法律家をはじめほかのどの職業でも同じだろう。
私が生化学の大学院に入って研究の論文を読み出した時、文献カードを書くものだと教わった。初めて500枚が束になっている市販の文献カードを買っ たときは嬉しくてわくわくしたものだ。この文献カードに書き込んで適切なキーワードを入れること、そしてコピーした文献(半世紀前にはピーをするというこ と自体が大変なことだった)にも、あとで見つけられるよう印を入れておく。これがあっという間に何百と溜まっていく。
研究を続ける内に興味も変わり、必要なキーワードも変わっていく。全部を間違いなく、遅滞なく、管理することは至難の業である。そうなのだ。私は研究者を やっている途上の何時しか、文献整理を諦めてしまっていた。頭の中にある資料だけが頼りというわけだ。もちろんコピーを取って読み散らした文献は机の上や 本棚に文字通り山積みになっている。
私の定義では、本物の学者は自分の頭の中に読んだ文献を整理して仕舞っておけるだけでなく(もちろん有機的なつながりで取り出せなくてはならない が)、その文献そのものに何時でもアクセスできるようなきちんとしたシステムを自分の傍に作っておける人である。つまり本物の一流の学者は、自分の頭のほ かにきちんと情報が整理されて何時でも使える大容量のコンピューター、あるいは外付けのHDDを持つことに成功した人と言って良い。几帳面でないと学者に なれないのだ。怠けものの私は、外付けのHDDの構築に失敗して自分の頭だけが頼りの二流学者になってしまった。
文献整理を諦めて、しかしそれでも研究者の端くれとしてあがいている頃、嬉しいことには、PCが普及し始めた。このPCこそ、この文献管理にぴったりだと思って私はこれに飛びついた、1980年代の終わりから90年代の初めである。File Makerを使って文献のキーワード、抄録を入れて、検索できるようにした。しかし、探そうと思っても最初に用意したキーワード以外は受け付けてくれないのだ。これではアバウトな人間にとっては、いくら自分で作ったものでもとても使いにくい。
しかも、キーワード検索をするソフトだけが別で、文献はほかのところに仕舞ってあるわけだから、これらを探すとなるとまた面倒である。文献を画像にして PCに取り込むことが出来て、キーワード検索と一緒に見つけられるともっと良い。それで、これにも挑戦した。しかし、この頃のイメージスキャナーは高価だ し、ハードディスクの容量は小さくて私の思うようにはいかなかった。つまりここでも挫折したのだ。実際は、何とかして自分のデータベースを構築しようと、 何時でも空しい努力はしていたのだが。
MacではEndnoteと言うソフトウェアが出ていた。自分の読んだ論文を整理して、自分が書く論文に適切に文献を選んで納めることの出来る優れたソフ トウエアである。これは後述のPubMedのデータと連動して使いやすくなったが、一方で、論文に不必要に(自分で読んでもいないと思われる)引用文献を 増やすという悪弊も生んでいる。
コンピューターとインターネットの世界で、世界的なレベルで学術文献がコンピューター管理下に入ったのは20世紀の終わり頃だろうか。生命科学・医学関係 の研究論文はPubMed・Medlineで簡単に検索できるようになった。このことが、自分で読んだ文献をきちんと整理・管理できない私みたいな似非学 者にどんなにありがたい恩恵をもたらしたか、ここまで読んだ方々には分かっていただけるだろう。
頭の中の容量が小さくてぐちゃぐちゃでも、誰でもアクセスできるPubMedは適切な検索を行えば瞬時に私を助けてくれるのだ。PubMedで調べて必要 としている文献にたどり着いてその文献を読む。読んだあとその文献を整理して置いておく必要もない。また必要ならすぐに探せるのだ。
つまり今まで、自分で探して手に入れて読んできた文献を、どうやって整理したらそのあとも直ぐに探し出せて使えるかという、長年に亘って私を悩ませ、ついに答えのでなかった難問に向き合う必要が無くなったのだ。
電源の入ったPCにPubMedのURLを呼び出して、必要なキーワードを入れる。更に検索絞り込み、そして文献のAbstractを見て必要なら全文に目を通す。文献の必要事項をコピーペースとして保存する。あるいは文献そのものをPDFで自分のPCに保存する。
おまけにMacが凄い進化を遂げたのだ。MacのOSが10.4(Tiger)になった2005年から、自分のコンピューターに入っているものは瞬時に検索 で引っかかるようになった。文献のタイトルだけでなくその文章の中の一語でも検索出来る。PCの中に整理していないで取り込んであるPDFの文献が必要に応じてキーワードで探し出せるのである。
これはもう、べらぼうな進化である。月の上に人類が降り立ったよりも大きな進歩である。自分の持っている文献をどうやって整理して、使えるようにしようか と悩み続けてきたのに、今ではすっかり解決してしまい、全く悩む必要がなくなった。頭の中の情報をいかに有効に用いて、新しいアイデアを生み出すかに力を 注ぐことが出来る。
さあ、こうなると、鬼に金棒だ。似非学者でも本物の学者に対抗できるようになるのだ。自分の頭の容量が引き比べると一寸小さいのが引け目だが、討論で直接対決するのではなく、時間を掛けて論文を書くのなら、違いは殆ど消えてしまう。
長年の間苦労はしたものの、本物の学者でいられるためのシステム作りには成功しなかった。しかし今はインターネットが助けてくれるのだ。インター ネットが使える限り私の世界はバラ色である。衰えては来たけれど自分の頭をインターネットの情報で補強して、まだまだ科学の世界で頑張っていけるのではな いか。この素晴らしい科学の進化の恩恵をもう一寸だけでも味わっていきたいものだ。
2009年04月28日(火)
第13回瀋陽日本語弁論大会
2009年4月26日は日本語弁論大会の日。この日までの1週間は途中の一日を除いて連日の雨。そして気温はどんどん下がって前日は最高7度で最低 3度だった。それが当日はからりと晴れて、最高13度、最低5度と言う予報だった。街中まで出掛けるのだから、お天気になって良かった。
会場は四つ星ホテルの商貿飯店で、300人くらい入る広くて雰囲気の良い会場がある。会場ロビーを挟んで役員や出場者が集まることの出来る小部屋も沢山ある。
主催者として日本人会のほか、瀋陽教育局などが名前を連ねている。在瀋陽日本国総領事館は後援で、瀋陽日本人教師の会は協力となっている。お手伝いしていますよという感じだが、実質の運営は教師の会のメンバーである。
今ではみんなが、特に教師の人たちは中国に来ているのだから当然のことデジカメを持っている。だから大して期待していないけれど、カメラ掛りにでもしておくか、位のところで割り当てられたと思っていた。
私も昔の銀塩カメラの頃はNikonのいろいろの一眼レフカメラを持っていたが、時代がデジカメになるに及び、私もデジカメに変わってしまった。ソニー、カシオ、ミノルタ、そしてリコーと変遷している。デジカメのお蔭で写真を撮るのが実に手軽になったのが嬉しい。
昨年買ったリコーR6は半年もしないうちにレンズ鏡筒を出したまま首からぶら下げていたときにガラス戸に激突して、カメラを壊してしまった。修理に 出して価格を聞いたらほぼ3万円かかる。それならばその後継機を買った方がずっと安い。それで、今持っているのはリコーR10である。個人のスナップ用 だ。このような大きな大会の記録用に責任を負って使うものではないと思うが、期待されているわけではないし、ま、いいか。
教師の会の実行委員会では藤平さんがもう3年越しでこの弁論大会に関わっているうえに昨年から実行委員の代表をしているから、運営体制は盤石と言って良 い。あらかじめ詳しい担当表、仕事の内容、時間刻みのスケジュールが用意されている。開会は9時だが私たちは8時前には会場に集まった。 私の今年の係りはカメラである。一昨年前までは毎年司会をやっていたが、そろそろ他の人がやっても良いかなと思って司会役を辞退した。実行委員としては私にも何かの役割をあてがわなくてはならない。
会の始まる前に、忙しい藤平さんの手の空くのを待って訊いた。カメラでどのような記録がいるのですか?すると彼が言うには、発表者一人一人の写真が欲しいという。 これは大変なことである。一般のデジカメでフラッシュを焚いて鮮明に写せるのは3-4メートルくらいまでである。壇上の発表者とフロアの最前列とは5トル くらい離れている。個人の顔をアップにするにはズームを使えるけれどフラッシュが届かない。どうしても、のこのこと前に出て行ってカメラを構えなくてはな らない。
やれやれである。最前列の正面脇に椅子を貰って、そこから写してみるとやはり暗すぎる。どうしても前まで出て行かなくてはなるまい。こんな撮影者は人々にとって目障りそのものだが仕方ない。
二回くらいこうやって写真を撮りに出て行くと、実行委員の中の高澤さんが気付いたらしく、「スタッフ」と書かれたカードを首に掛けてくれた。これで公式というお墨付きになったわけだ。
後ろの邪魔になるから前に出て行ってはひざまずいてカメラを構える。一人一人ちゃんと写すためには数枚は撮らなくてはならない。大学一部15名、高 校生14名、大学二部15名。合計34名。それに祝辞、講評、表彰式すべてを撮ったので、その度にしゃがんだり立ったりで、私の膝はがくがくになった。こ ちらは古希をとっくに越えている。撮るのが大変そうだから替わろうと考える力が、今の若い人たちには全くなかったようだ。
日本語と言う点で一番見劣りするのは、薬科大学も入っている大学二部になる。ここは日本語を勉強した上でほかの専門科目に取り組んでいる日本語非専 攻の人たちだ。日本語専攻の大学一部に比べて劣るけれども、日本語を始めてまだ丸2年にもならない人たちも参加してこれだけ話せることを考えると、これま た凄いことである。内容だって、さすが専門分野があると思わせるだけの、ステレオタイプでない視野の下に作文を書いている。
とても疲れた一日だった。参加者、そして会の運営に与ったすべての人たち。皆さま、お疲れさまでした。
2009年05月02日(土)
東北育才学校に行く (1)
高 等部は市内と言っても中心から外れて南の方の新興地域に作られている。中高それぞれに日本語クラスというのがあって、ここでは日本から来た先生たちが日本 語を教えている。現時点で、3人の先生が高等部と中等部のそれぞれの学年を受け持っている。国際部と言うところでは2人の先生が日本語を学びたい帰国子女 や日本人子女のために日本語教育に当たっている。
東北育才学校の卒業生は、中国では精華大学や北京大学の一流大学を目指し、アメリカではハーバード、プリンストン、日本では東大、京大に入って世界 中に散っていくと言うことである。今年の春学期が始まったとき日本語クラスを受け持っている梅木愛先生から、何でも良いから人生の先輩として彼ら学生に何 か話して欲しいと頼まれた。梅木先生は富山県の高校の国語の先生で、富山県派遣の現役教師である。
数えてみると私は今まで招待学術講演を110回こなしてきたけれど、この数年はそのようなことは絶えてなく、「中国人学生気質」みたいな話しをする よう招かれることが多い。中国の日本語学ぶ高校生に「日本の大学に行く意義」を話すのも面白そうだと思って、しかも大分先のことだしと思って引き受けてし まった。
「何時がいいですか」と梅木先生に訊かれて、「4月の後半が良いですねえ」と私は答えた。4月のはじめの瀋陽はまだ寒い。5月が一番良い季節だが、こちらとしては講義の最盛期となるし、6月には卒業を迎える修士4人と卒研生4人を抱える身としては4月のうちに済ませたい。
梅木愛先生に尋ねてみると、クラスには約30人いるそうだが、昨年は東大に7人、京大2人、阪大1人、北大1人、その他を入れて13人が日本の大学 に入ったそうだ。と言うことは東大指向だから、大学としては東大に焦点を合わせることにした。東大に入るとどういう利点があるかという話をすることにして 資料を集めよう。
大学に入ると、いずれ出ることになりそれから社会人としての長い人生が始まるわけだ。つまりどのような人生を目指すかを自分の経験を交えて話そう。
話しの後半は、中国から日本に留学するわけだから、二つの国の違いを述べよう。このためには、「日本を訪れた高校生のブログ」や「ブログ:中国と日本の違い」などが参考になる。と、だんだん思いつく度にインターネットで資料を集めて話の筋を作った。
大学受験生の数とか、大学を出るといくら給料を貰えるかとか、今ではインターネットのお蔭で即座に資料が手に入る時代である。しかも中国の瀋陽にい て、である。感心しながら講演のPPTを作っていく。今までの自分の中に蓄積したものとしては、自分はこうやって生きてきたという記憶があるだけで、 見せるための資料は全部インターネット由来である。
さて、当日は妻と一緒にタクシーで南の浑南新区にある南校舎を目指した。瀋陽は瀋河(別名が浑河)という大河の北にあるので瀋陽という名前で呼ばれ ている。つまり市の南にこの大河があり、浑河を渡るとオリンピックのための巨大なサッカー場のある地域に入り、林立する高層マンションの数に思わず驚きの 声が出てしまう。半端な数ではない。これだけの立派なマンションに住むことの出来る沢山の人たちが瀋陽にはいるわけだ。
東北育才南校に着くと、薬科大学よりも広い敷地に美しい校舎が綺麗に配置されているのに目を見張る。迎えの梅木先生と高等部のビルに入ると、見事な石造りだ。同じ公立と言っても薬科大学の建物は比べものにもならない。
瀋陽市に東北育才学校という英才教育を行っている学校がある。公立校だが中国東北三省で断トツ一番の進学校だ。その昔日本が満州を侵略して瀋陽が奉天と言 われた頃、瀋陽駅に近い場所に作った千代田小学校の建物の一部がそのまま残っていて、それが東北育才学校中等部になっている。場所は瀋陽市内の一等地にあ る。
残っている建物には、「元は奉天千代田小学校」というプレートが付けてある。「瀋陽市不可移動文物」というのは「保存建物」ということか。
直ぐ横には時計塔が建っていて、ここで学び教えた日本人が東北育才学校創立45周年の1994年に寄付したと書いてあった。国家誕生と同じ年だから、東北育才学校は今年60周年記念を祝うことになる。
壁には中国の大学が成績順で1から50まで張り出されている。学生は毎日これを見て、自分は精華大学に入るんだという決意を新たにするのだろう。最後までも見ても瀋陽薬科大学は載っていない。
ちょうど午後の授業が始まる前で多くの高校生を廊下階段で見受けたが、各階の階段のところには斜めに襷を掛けた男子学生がきちんと立っていた。お目付役の学生委員なのだろうか。
梅木先生に連れられて教室にはいると、広くてこれも薬科大学と比べて綺麗だ。梅木先生が私たちを紹介し、学生がかけ声を掛けて「起立」そして「礼」である。薬科大学で見掛ける大学1年生よりも皆大人びて見える。
(つづく)
2009年05月05日(火)
東北育才学校に行く(2)
梅木先生は毎週二回この高校3年生のクラスで午後2時間半ずつの日本語の授業をしているという。毎回まず最初に生徒二人が日本語の5分間スピーチをするという。題材は自由なのだそうだ。
最初の男子学生の話しは一緒に罪を犯して捕まった囚人がふたりいる。それぞれが取り調べを受けるが、最初に自白すると証人扱いとなって減刑されて10年の服役。相棒は15年の刑になる。もしも否定を続けている間に相棒が白状すると罪に問われて15年の刑になる。 さあ、あなたがその囚人の一人だったら白状しますか、しませんか?と言う問いだった。生徒がそれぞれ訊かれて、絶対仲間を売らないという人もいたが、大半が最初に白状すると言っていた。心理ゲームの質問だ。
次の女子学生の話しは、若い二人連れが田舎にやってきて、村の人たちにお墓の前で私たちが祈祷すると死者が蘇りますと言って祈り始めた。するとどの家から も、死んだあの人をもう蘇らせないでくれと言ってお金を持ってきて祈祷を止めさせたという。この二人はそれで大儲けして田舎をあとにしました、と言うもの だった。死者をどんなに悼み、偲び、懐かしんでいても、死者にはもう戻る席がないという現実を考えさせる話しだった。
二人とも結構難しい内容の話をいとも楽々と日本語を操って話すのだ。驚きである。
そのあと改めて梅木先生から紹介された私は、先ず私の履歴から話し始めた。小、中、高、大学、大学院。そのあとのスライドでは妻の履歴を見せる。 小、中、高と順にスクリーンに出てくる度に生徒のどよめきの声が大きくなる。二人とも小学校から一緒だからだ。どよめきで楽をして先制点を稼いだ気分であ る。
今ここにいる育才の学生たちは、来年は日本の大学を目指しているから、今の目的は大学に入ることだ。しかし、大学は目的ではなく通過地点である。その先どのような人生を送るかが問題だ
今までの、そして今の中国でも、人は金持ちになることを目指し、金をどれだけ儲けたかが人の価値になっている。成功した人生とは金を儲けた人生というわかり やすい基準が幅をきかせているし、今の日本でもその風潮がある。しかし、私の若い頃はそのような考え方はなかったと思う。自分のやりたいことをやるというのが職業の選択の基準だった。
どのような職業を選び、どんな人生を送るのがその人にとって一番良い選択であるかどうか、誰にも分からない。私は自分が何故研究者になったか、そして研究者になる、あるいは研究者をしていると言うことはどういう人生かと言う話しなら出来る。
私が若い頃はとても生意気だった。人から使われる自分の姿は想像できなかった。つまり会社員にはなれなかった。一方で研究すると言うことはとても面白そうだった。刺激的な毎日を送ることが出来そうだった。それで、迷うことなくその道を選んだ訳だ。
今では好きだから研究者を選んだと言うだけでなく、もう一つ違った言い方をすることが出来る。
昔誰かの文章で読んだのが頭に残っていて、つまりこれは誰かの受け売りなのだが、研究者になるというのは、芸術で身を立てるのと違ってとても楽なのだ。た とえば瀋陽の出身で郎朗と言う有名なピアニストがいる。彼は毎日7-8時間の練習をしてここまで来た。同じように、あるいはもっともっと練習をしなら、コ ンサートピアニストになれなかった人は山ほどいるはずだ。個人個人は零から始めて必死にトレーニングを重ねないと、芸術家として身を立てられない。 一方、科学の成果は様々な研究者が出して、その成果は毎日積み上がっていく。今日何か研究をしようと思えば昨日までの成果は万人の前に等しくアクセス可能 なものとして置かれているのである。つまり科学の成果の前では誰でも対等なのだ。今日この世界に入った若者であろうと、50年研究を続けて来た老学者であ ろうと、学問の成果は同じように門戸を開いている。
新人と老学者の間の違いは、老学者に経験があるだけで、目の前の利用できる学問成果は同じなのだから、あとはその成果に立って新しいことを開発する (あるいは新しい方向に気付く)能力が研究者を振るい分けていくだけである。つまり芸術家になることから見ると研究者になることは遙かに簡単なことなの だ。
そして、研究が好きならば、好きなことをやっていて給料が貰えるわけだから、こんなに素敵な商売はなかなかないのではないと思う。多くの人は職業を生きる 手段として選ぶ。毎日の職業生活を、生きるための糧を得るためと思って耐えなくてはならない。研究者にとっては毎日が楽しい生活なのだ。
と言うわけで「学問のすすめ」でなく、「研究のすすめ」が私の話の一つの中心だった。お金は儲からないかも知れない。でも、苦心を重ねて、知恵を絞って研究をしてその結果の出る喜び、これほど胸躍るものはない。と言ってもほかのことを知らないからかなり主観的なものだが。
2009年05月06日(水)
研究室の入っている建物の緊急閉鎖
5月4日月曜日の夜アパートに戻って食事をしているところに、お隣の池島老師から電話が掛かってきた。今私たちのいる実験棟にラット出血熱がはやっていて、今週末の木曜か金曜から三日間は建物を封鎖して滅菌するという連絡が入ったところだという。
先週半ばには1階のエレベーター乗り場に張り紙が出ていた。ここで使う実験動物、実験動物の試料、ダスト、の運搬にエレベーターの使用を厳禁するというも のだった。エレベーターで動物飼育のダストと一緒に乗り合わせると臭くて堪らないが、臭いからと言って禁止するとは思えない。
うちの学生に訊くと、今この建物でラット出血熱が見つかったためらしいですよ、と言う。今から3年前にも、これがここで流行って大騒ぎだった覚えがある。 ラット出血熱に罹った学生が出たので、実験動物屠殺の命令が出た。ところが実験をやっている人たちにしてみると、動物を一挙に殺してしまったら実験が中断どころか破棄になってしまう。それで、殆どの学生がネズミをこっそりと何処かに避難させたのだ、建物消毒の前の日に。
つまり、ラット出血熱のウイルス駆除に手抜かりが出た。それを知った瀋陽市衛生局は激怒して、飼育動物を即時に殺すよう厳命が出た。そして建物に立ち入り禁止二日間の措置をして建物の消毒が行われた。
私が昔いた民間の三菱化学生命科学研究所では研究棟の半分の面積に匹敵する動物飼育施設を建てている。建物の実験動物区域に入るには、手術をするみたいに 手を良く洗って、専用の実験着を着てエアシャワーを浴びる。そして実験動物を扱うと、あとは一方通行で建物を出て行く。動線は決して交叉しない。
このような設計で実験動物を決して汚染しないようになっている。
実験動物も、世界的には The Jackson Laboratories、日本では日本チャールズリバーから信頼できる実験動物が入手できる。中国でもこれに相当する信用できる機関があるらしいが、そ こから買うと高価なので、ご多分に漏れず山塞コピー、インチキ動物の出番である。その頃は大学の近くで粗末な飼育施設の中でマウスのいろいろの系統を飼っ て実験室の要望に応じて売っていたらしい。この動物が汚染していたにちがいない。3年前にはそこからは決して買ってはいけないという通達がでていたが、何 時まで守られただろうか。
ラット出血熱は、昔は韓国型出血熱と言っていたけれど、特定の国名を使うのは良くないと言うことで、いまは流行性出血熱、腎症候性出血熱、流行性腎 症:nephropathia epidemica (NE)、 出血性腎症腎炎:hemorrhagic nephroso-nephritis (HNN)などと呼ばれている。『ハンタウイルスを原因とし、不顕性に持続感染したげっ歯類が糞尿中に排泄するウイルスを感染源とする人獣共通感染症であ る。』
『本症はユーラシア大陸全域で現在なお年間10万人以上の患者発生が報告されている。旧日本陸軍(関東軍)が旧満州(現中国東北地方)において致死率 15%の奇病の流行に遭遇したものは、濾過性病原体による流行性出血熱であるとされ、後に韓国型出血熱と同一のものであることが判明した。』
『1950年代の朝鮮戦争の際に、朝鮮半島に駐留した国連軍兵士2,000人あまりの間で不明熱患者が発生し、症状と剖検所見から旧満州・旧日本軍の間で流行した流行性出血熱と同一疾患であることが判明したことによる。』
日本では『1970~80年代に医学生物などの生物系研究室で、実験目的で購入したラットがウイルスで汚染されていて、22機関で126名のハンタウイル ス感染患者が発生し、1981年にはラット飼育者が死亡した。現在では、施設の改善と飼育販売業者によるウイルスの事前チェックと感染排除策により、感染 者は出ていない』そうだが、今ここで騒ぎになっているわけだ。幸い人から人への感染は報告されていないが、不潔な環境がその一因である。
大学ではその後口から口へと何度か混乱した情報が伝えられたが、結局木曜日朝、建物を封鎖して消毒滅菌する。その影響を受けないよう、金曜、土曜も建物を封鎖するという。日曜日には来ても良いけれど窓を開け放して風を良く通すようにと言うことだ。
ただ、毎度のことで驚くことはないが、今回の建物閉鎖と消毒の通知も、私たちは特に知らされることはなく、それでどうしてこれを知ったかというと、 隣の池島老師が聞き込む度に親切にも教えてくれたからである。このルートなしには私たちはつんぼ桟敷だった。大事なのは隣の友人であることを痛感した。
この三日間は大学に行けない。PCが使えない。アパートからはインターネットにアクセスできない。つまり何も出来ない。弁論大会の写真撮影で痛めた足腰を休めるのに、天の情けの休日と言うところである。
2009年05月13日(水)
東北育才学校に行く(3) いい男とは
どんな人生を送るかは、それぞれの人たちの自由である。しかし、目の前にいる東北育才学校3年生の彼らは、今は宝の山を前にしているけれど、実際に 選ぶことの出来るのはただ一つだけの自分の人生だ。私は研究者になると言う視点から一つの人生を述べることが出来るが、もっと何か言えないかと思ってイン ターネットを見たところ、『ますい志保が明かす「偉くなる男、ダメになる男」』と言うのを見つけ た。(http://president.jp.reuters.com/article/2009/02/15/62645C56-F0ED- 11DD-92EA-EAF13E99CD51.php)
その消毒液は金属腐食性なのだそうだ。滅菌の影響を受けないようPCや重要な機器はビニールでラップするようにとの通告である。鍵の掛かる引き出しまで開けておくようにと言うことはないが、大事なもの、貴重品はここに残さないようにとも言われている。
彼女は1992年明治大学仏文科卒の若さで、いまは銀座クラブ「ふたご屋」のママをしている。『いい男の条件』と言う本を書いて、30万部を超えるベストセラーになったという。今、世をときめいている人である。
銀座のクラブなど私にはまるで縁がないけれど、人生の成功者が好んで出掛けるところと言う位は知っている。実際、ある年の忘年会の帰りだったか、研究所の職員の何人かと一緒に私も連れられて社長がご贔屓のクラブに一度行ったことがある。
大学を定年で辞めたあと世話になった研究所は、某企業のものだった。昭和の初めには財団法人の研究所を作るくらい景気が良かったらしいが、その後急 速に変化する世間について行けず、業績は下降線だった。その中で私を拾ってくれたのだから、研究所の所長をやっていた友人に感謝し続けている。
今思い出しても夢の出来事くらいにしか思えないが、豪華な広間で美女に囲まれて私は声がうわずってしまった。その社長がここの常連で、しかもほぼ毎 日ここに現れていると聞いた。オーナー社長だから当然なのかも知れないが、朝11時頃やっと会社に現れて、夜は夜でこんなところで遊んでいるのだから、言 いたくないけれど、会社が左前になるのも無理ないことだろう。
人もうらやむ人生の成功者というと、銀座のクラブに現れるのが当たり前というのが世間に認知されているようだ。しかし一方で、だいたい人生の成功者 とは何だろうと思ってしまう。私は人生の大半を終え、今さらどう考えたって別の人生を歩むことは出来ない状況だから強くそう思うのだろうが、ステレオタイ プの人生の成功者の成功物語なんて、あまり聞きたくはない。
ともかく、彼女によると、『これまでは「俺についてこい」というような強力なリーダーシップを発揮する人が成功者でした。しかし今は、周囲の共感を得ながら進むタイプのほうが成功を収めるようです。』
『成功する人は、必ずいいブレーンを持っています。つまり人こそが財産です。義理人情に厚く、謙虚で誠実だからこそ、ますますいい人が寄ってくるのでしょう。』
『伸びる男は、謙虚です。むやみに敵をつくりませんし、敵だった人たちでさえ味方につけてしまうものです。いい意味で妥協することも必要でしょう。ビジネスを成功させるには、ときには意見の違う相手にも歩み寄れる部分は歩み寄ることで、力が倍になります。』
なるほどなあと思う。耳が痛い。
私たちの世界では自分の研究に懸けている個性的な人が多いが、研究班のまとめ役になったり、学会の会長に選ばれたりする人は 敵の少ない人である。学問は真実であることを検証するために相互の厳しい批判に曝されるはずだが、人の研究を批判する人は大抵敬遠されている。私の友人にはこのような人が多い。と言うことは、つまり私も敬遠される口というわけだ。
インターネットを調べているときに、『会社で部下からの信頼が篤い上司とは』というのもあった。皆から支持されればそれはその人の「成功」につなが ると言えるだろう。これによると、「責任感が強く、 判断が的確で頼りがいがある」、「 仕事に精通し部下の力になる」、「誠実・公正に部下に対応する」、「オープンで率直である」人たちが上司として部下から信頼され、支持を受けている。もっ と細かく言うと、「自分に不利になっても部下をかばう」、「部下の言葉に真剣に耳を傾ける」、「約束を守ってくれる」、「分け隔てなく誰に対しても公正で ある」、「部下の評価に偏見を持たない」、など沢山出てくる。(引用は『嫌われる上司の共通点「事なかれ主義、陰険、保身」プレジデント 2007年12.3号』)
『部下から嫌われる上司とは』では、「事なかれ主義で頼りない」、「仕事にやる気がない」、「部 下の尊厳を傷つける」、「権力を笠に着ている」、「下には威張り上にはペコペコする」、「自分の保身と出世しか考えていない」、「部下の手柄を自分の手柄にする」、「自分の失敗を絶対に認めない」、「有能な人を陥れようとする」、というのが書かれている。
経営者になるための資質とは別にしても、「部下から嫌われる上司とは」と見比べると、上に立つ人に必要な資質が分かる。「責任感が強く、判断が的確」、「公平である」、「オープンで率直である」。
これは日本の社会の話であって中国には通じないかも知れない。それに今この若さでは「成功するための」条件などまだ考えたことはないだろう。それで も、こんな話も、これから人生に取りかかろうとしている目の前の中国の高校生がものを考えるのに役立つのではないかと思って取り入れた。
2009年05月18日(月)
東北育才学校に行く(4) 日本に留学した高校生
日本には国際交流基金と言う組織があって、もちろん金の出所は私たちの税金だが、国際親善に役立ちそうなことを色々やっているようだ。毎年、瀋陽日 本人会が主催して、教師の会が総出でお手伝いをしている瀋陽日本語弁論大会にも、会からの申請に基づいて費用の一部を援助している。
2006 年からこの国際交流基金は中国の高校生を日本に招待を持っている。長期招待のプログラムでは、日本の家に11ヶ月間ホームステイし、日本の高校に通って日 本語で勉強する。第1期生の37名の中国人高校生は2006年9月から、第2期生の37名は2007年9月に日本での生活を開始し、全員無事にプログラム を終了して中国に帰国した。そして第3期生は26名が2008年9月からいま現在、日本各地で高校生活を送っている(井出敬二外務省大臣官房参事官のブロ グによる)。
今このクラスルームに30人くらいの高校3年生が座っている。梅木先生に伺ってみると、この中の数人はこの国際交流基金のプログラムにより日本の高校に留学の経験があるという。訊いてみると4人が手を挙げた。
インターネットで調べてみると、前出の井出氏がまとめた記事として「日本人と中国人との習慣のちがい-日本留学した高校生の感想-」というのがあっ た。これが面白い。日本を訪れた中国人も感想をいろいろとブログに載せているけれど、これまでの教育のためか、日本の良いところを素直に良いと書くのには 大変なプレッシャーを先ずはね除けないといけないように見受けられる。それに比べると高校生の感想はまことに率直である。
『クラスメートは、とても友好的で、陽気で活発で柔和でかつ包容力があった。さびしい時、困った時にも、日本人の友達が親切に助けてくれた。学校の クラスメートの他に、近所の友達もできた。困ったとき、日本の先生は一生懸命話してくれ、一緒に泣いてくれた。日本人の優しさに強く心を打たれた。』
『四川大地震の時、みんなが助けてくれた。学校で集めた寄付金を赤十字社に渡した。日本人の暖かさに本当に感謝した。』
『勉強については中国の高校生の方ががんばっている(中国の数学教育は遙かに進んでいる)。しかし課題に取り組む時のチームワーク、家庭科での実技勉強では、日本の学生は本当にすばらしい。』
『日本の高校は、授業の雰囲気が自由で、おしゃれも自由、男女交際も自由。 日本の学校と中国の学校は大きく違う。日本の教育理念は総合的な資質養成なので、知識教育と素質教育とを同時に進める。』
『日本では子供の生活や将来は子供が自分で選ぶ。勉強だけではなく、部活をやって、楽しく学生時代を過ごす。子供の特技を伸ばして、自分が理想とする人に なるように育っている。中国ではみんな勉強して、大学へ行かないと良い仕事が見つからないと考えている。でも勉強だけがその人の特技ではない。』
『日本人のマナーのすばらしさ、清潔さに感心した。きれいな青空にびっくりし、ごみがひとつも落ちていないことに気づいた。』
『町の人は環境を守り、お祭りを皆で楽しみ、文化遺産を受け継ぎ、人との関係も益々親しくしている。こうした意識はとても貴重だ。 日本人の精神生活、日常生活はとても多彩である。』
『日本人が付き合うルールの中で一番大事なのは、周りの人に迷惑をかけないこと、そして、相手の立場で考えることだと分かった。正しい立ち振る舞いをし、誰に対しても誠実に接することで、発展し、大国になれたのだろう。』
こうやって日本に留学した高校生の感想を読んでいると、中国を離れて異文化の体験をすることは、自分自身を知る上でもとても良い経験となることを知らされる。是非機会を捉えて、曇らない目で日本を見ていらっしゃい。それは今後のあなたの心の成長の大きな糧になりますよ。
『日本という外国に来て、ますます中国を愛する心、祖国愛が強くなった。母国中国を冷静に客観的に見る事もできるようになった。』『中日両国の文化、生活習慣の違いを体験した。この世界は他国との接触がだんだん盛んになっていくとともに、異文化の影響も受けている。私たちは自分の国の文化に基づいて、その良い部分を吸収すべきと思う。』
『日本に来て気づいたことは、文化の違いを認めること。自分の国の文化を紹介する時は、他の人に無理に受け入れさせるのではなく、尊重を求めることだ。他の文化に対しても、完全に受け入れる必要はないが、客観的に理解し、尊重することは交流の前提条件だ。』
『中国人とは違う日本人の世界観にふれて、この世界で、ただ一つの絶対正しい考え方があるわけではなく、さまざまな人のそれぞれの考え方が共存して いることがわかってきた。自分の意見とは違う意見を尊重すべきだ。社会は人々の違う考え方のいいところを結合して進歩していく。』
2009年05月20日(水)
田中義一さんの来訪 その一
5月17日教師の会の元会員だった田中義一氏が瀋陽を訪ねてきた。田中さんは2006年9月から一年間、瀋陽大学でたった一人の日本語の教師だった。
昭和の初めに世界の金融恐慌を受けて辞任した若槻内閣に替わって組閣したのは田中義一で、かれとは同姓同名であるが関係ない。この時の田中義一は従来の穏 健な中国政策と国際協調を破棄して、軍事力によって満州への権益を確立しようとした。これが張作霖事件につながり、泥沼の侵略戦争に引き継がれる。
4月中旬今の田中義一さんから連絡があった。彼は瀋陽で1年間日本語教師をしたあと日本に戻って金沢で仕事をしている。以前の金沢大学時代に知り 合った内モンゴル出身の友人が故郷で結婚するので、その結婚披露宴に招かれているという。それに出席がてら、ついでに瀋陽にも寄りたいという連絡だった。 来瀋日が分かったら一緒に集まりましょうと返事を出しておいた。
『いよいよ、5日に成田から瀋陽に飛び、到着後、直ぐに通遼に高速バスで行きます。瀋陽にはいつ戻るかまだ決まっていません。モンゴルの友人の結婚式後の 予定がまだ決まっていませんが、せっかく中国に来るならのんびり遊んで行け、との事ですので、気長に過ごし瀋陽に戻る前日に先生方にお電話したいと思いま す。日本人のように、事前に計画を立てず、気ままに過ごすのは、モンゴルの広大な平原が、その人間性の形成に影響を与えているせいか。何はともあれ、今か ら、異国情緒に、恋焦がれております。』
やがて、内モンゴルの三カ所の結婚披露宴に出たあと瀋陽に来るけれど、私たちに会えるのは日曜日17日の夜だけだという連絡が入った。彼が教師の会 にいたのは2年前のことで、その時の会員で今もいる人は6人くらいしかいない。このうちの何人かに連絡すると日曜日の夜の集まりに出られるという返事だっ たので、教師の会全員に集まりを連絡して誘った。
田中さんはまだ来ない。
日曜日朝の6時半に私の携帯電話が鳴った。朝早くの電話は不幸な内容のことが多い。恐る恐る電話をとると、田中さんだった。「通遼に戻ってきてい る。夕方そちらの集まりに出るので、周りが心配してくれて、、、」と言うから、午後5時着ではなくもっと早いバスに乗るのかと思ったら、「午後2時発のバ スに乗り、そちらには午後6時半に着くことになったので、皆さん6時半から始めてくれませんか」という内容だった。
なんだか日本語がおかしいんじゃないか。「心配してくれて」遅いバスに乗るなんて、使い方が間違っている。始める時間を遅らせろと彼が言ったって、店は予 約してあるし(おまけに、店の方は梅木先生が予約した日に私たちが来ると思って席が取ってあったそうだ。今ここで時間を変えると印象がますます悪くな る)、出席者全員に連絡するのは手間が掛かる。
と言うことで予定は変えずに、6時に店に行った。集まった顔ぶれの中で、梅木、山本、中田さんたちは田中さんを知らない。藤平、宇野、松下さんたち は当時からの会員だ。まだ渡邊(京)、宇野さんが現れていないけれど、田中さんが7時に来るならともかく始めようと言うことになった。この店は豆腐料理と 鍋の店でそれらは美味しいけれど、私が選ぶのは牡蠣の天ぷらである。28元で皿に山盛りになっていて、とても美味しい。
6時半になって渡邊さんが現れた、あれ、6時半ではないのですか?という。田中さんから始めるのは6時半から始めようというメイルが来たという。田中さん がアレンジしたのでもないのに、勝手な連絡をしたりして困ったものだ。と私たちはぶつぶつ言いながら、皆は青島ビールをがぶがぶ飲み、私はこの店サービス の豆乳をごくごく飲みながら、お喋りの合間にひたすら食べ続けた。
場所は、先日東北育才学校の先生たちと食事をした砂鍋居という店が気に入っている。田中さんは午後5時に瀋陽北駅近くにバスで着くと言うから、集まりは6 時からにしよう。そこで8人分の席を予約するよう育才学校の梅木先生にお願いした。彼女は田中さんを知らないけれど、きっとこの集まりに出てくれるに違い ないと私は信じていたのだ。 結局田中さんを知っている会員が私を入れて5人、田中さんを知らない会員が3人、田中さん込みで合計9人が日曜日の夜集まることになった。
2009年05月23日(土)
田中義一さんの来訪 その二
田中さんは何と8時過ぎになってやっと到着した。バスが1時間遅れて7時半に瀋陽に着いたのだという。やれやれ。それでも久しぶりに会う田中さんは モンゴルの日焼けを顔に留めて、つやつやと顔を輝かせて元気である。教師の会の集まりで 一年という時間を共有しただけだが、輝く顔の仲間に会えて嬉しい。
モンゴルの経験を聞いていると、田中さんはすでに現地で二回お見合いをしたという。話しを聞いてみると、友人の結婚披露宴に出席するだけではなくその両親の用意したお見合いをするのも中国再訪の大きな目的だったようである。 彼は青森県の出身で、周りの農家では嫁の来手がなくて中国人と結婚している人もあるという。
それを聞いて篠原節子の「ゴサインタン」と言う本を思い出した。代々つづく庄屋の次男坊だったのに、長男はアメリカに行ってしまい、やむなく跡取りとなっ て農業を営んできたが、嫁の来手がなく、業者のアレンジに乗って 集団見合いしたのがネパールから来た娘だった。結婚して淑子と言う日本名を付けたこの嫁の異様な行動で財産、土地家屋すべてを手放すことになってしまっ た。そのあと、ふらりと消えてしまったこの妻を追ってネパールまで訪ねた男は、多くの困難を乗り越えて妻を捜し求める。やがて妻のいるゴサインタンと言う 白い神の宿る山の麓で妻の自然な笑顔をみて、人生で大事なものを見失っていたことに気づく、と言う壮大な小説である。
本に書いてあるような日本で開かれたお見合いではなく、田中さんは現地入りして、本気でお見合いをしたみたいだ。私たちは戸惑い半分、興味半分で、田中さ んにいろいろと訊く。何しろ2時間待っている間にだれもが体内には十分アルコールを行きわたらせている。「お見合いしてどっちかに決めたのか?」
「いやまだまだ」でも、別れる前に彼女には耳輪を上げてきたという。耳輪というのはイヤリングだが、酔っぱらいたちの耳にはイヤリングは耳輪に聞こ えてしまう。牛や羊の放牧をしているモンゴルの人たちにとっては財産である羊に所有の印として耳輪を付けるというのは当たり前のことに違いない。つまり、 「俺のものだと表明したことにはなるんじゃないの?」
「モンゴルで占いに見て貰ったのですがね。今年の7月から11月の間に結婚すると言われましたよ。」と田中さんがいう。「物理学で博士の学位を持っている 人が占いに頼ってよいのですかねえ」と誰かが混ぜっ返すけれど、「もし駄目なら二年後の5月には必ず結婚できるって言うんですよ。そして、もう一人別の、 良く当たるという占いも同じことを言うんです」と田中さんは言いつのって嬉しそうである。
2年前田中さんは教師会に現れたとき、「私には夢が二つあります。一つは外国で働くことで、これは今回中国に来たことで叶いました。もう一つは結婚することです。まだ結婚できませんが是非良い相手を見つけて結婚したいです。」と最初の自己紹介で話した。
そのあとも何かにつけて「結婚したい」というので、教師の会の若い女性の先生たちはどん引きしてしまった。私たちも最初はびっくりしたけれど、多少変わっ ているかも知れないが、中国に来るような人は皆それぞれが一風も二風も変わり者である。そしてやがて田中さんは、とても率直な人で体面とかあれこれ上辺を 飾る計算をしない人なのだと言うことが分かってきた。現代ではとても貴重な人物である。と言うわけでそれ以来、お互い飾り気と混じり気のないお付き合いを して来ている。
田中さんがよい人を見つけるよう皆で願いつつ、9時過ぎに私たちの集まりはお開きになった。翌日勤め先だった瀋陽大学で歓迎会があり、火曜日には2週間の滞在を終えて日本に戻ると言うことだった。彼の幸せと無事を祈りつつ、さわやかな夜風の吹く中山公園の前で別れた。
2009年05月26日(火)
今年も修士論文の時期が来た
毎年6月は卒業期なので私たちにとって瀋陽の春は一番忙しい時期となる。学部の卒業研究生は、3ヶ月で結果を出さなくてはならない。その間に発表時に人前で格好の付く研究データを出させるために、こちらは大奮闘である。
そして修士の院生も同じく発表である。でも、修士の院生は準備期間に2-3年あるわけだから、最後の春に頑張るというものでもない。コンスタントな努力が必要である。
この修士の人たちは今までの慣例から、大体5月半ばには大学に修士論文を出すという見当が付いている。博士過程に在学している学生が博士論文を書いて、審査 員の前で発表して試験を通って学位が授与されるためには、国際誌に論文を投稿して受け付けられているのが条件であるように、修士にも条件がある
昨年は、修士を卒業する学生の半分が論文を発表していれば良いというものだった。今年はどうなのだろう。と私たち、つまり妻と私はずっと気にして来 たけれど学生は大して気にする様子もない。まるで今年はそのような条件がないみたいだ。そのまま4月が来て5月が来て、とうとう大学での修士論文提出締め 切りという時期になった。
はじめは5月15日が締め切りと言うことだった。その前の週末から私は次々と4人の修士候補生の論文を見ては直し続けた。論文は論文題目と抄録が中国語で二重になっているが、すべては英語で書く。
直す必要もない流麗な箇所は、大抵は序論で、研究の背景や今までの知見が書いてある。見たような内容だねと思うと、私が書いてきた論文そのままであ る。そうでなくても、これまで発表された論文からコピーペーストして持ってきたに違いない。コピペをするな、それでは自分に英語の力が付かないぞと言い続 けているが、楽ができるという誘惑に勝てる学生はまずいない。
序論も大事だが、実験内容ではないから、まあいいことにする。こちらも楽が出来る。そして実験内容の記述になると、さあ大変。こちらは日本人の書く 英語の流れや間違いはよく分かっている。しかし中国人の書く英語は思考法がまた違うためか、書いている学生の思考を辿るのに大分苦労する。書いた学生も苦 労したろうが、こちらも四苦八苦といってよい。
私が二回は見直して、学生は印刷製本してそれを大学に届ける。期限が15日だと思ったら18日でも良いことになった。そして最終的には19日中でもOKだった。決まりはあってもないがごとし、と言う中国流である
ともかく、それが済んでから曹婷が、論文を出さないといけませんと言ってきた。この論文とはジャーナルに投稿して受け付けられた学術論文のことである。 「だから、前から卒業資格で必要かどうか訊いていたでしょ?今頃言い出したって間に合うはずがないじゃない。」と妻はお冠である。
曹婷によくよく話しを聞くと、どうもほかの学友は投稿論文があるのに自分はまだない、口惜しいと言うことらしい。そんなことよりも卒業資格で論文が必要なら、何が何でも投稿論文を仕上げなくてはならない。それで生化学院に訊いた。論文発表が条件なのですか?
二日後に主任から知らせがあった。昨年と同じ規定が適用されるという。つまり私たちのところには修士学生が4人いるので、50%に当たる2人が論文 を出していればよい。この論文は、名前がトップにあることが必要で、まだ出版されていなくても受理されていて、2年以内に公刊されることが条件だ。論文が SCI収録の国際誌に載っているなら、名前がトップでなくて2番目でもいい。ただし、最初の著者が薬科大学の人でなくてはいけない。
陽暁艶は、今はJohns Hopkins 大学のポスドクをやっている王璞がOncologyに2007年に出した論文の二番目の著者になっている。陳陽は今年の初め、中国語で薬科大学雑誌に彼がトップネームの論文を送って受理されている。
曹婷は昨年投稿した論文の中に名前が載っているけれど、これはいちゃもんが付いてまだ受理されていない。ともかくこの二人のお蔭で、要求の最低限は満たしているわけだ。となると、慌てて論文を書くことよりも、しっかりした内容の論文を書くことが大事である。
大学に修士論文を書くことと、国際誌に論文を書くこととは全く別のことである。修士課程はその期間努力をしたことで成果として報いられれば良し、成果が出なくても良しなのだ。しかし学術論文にそんな斟酌が一切あるわけがない。論文の国際基準は厳しい。 彼 女の研究の最後の方は1回しか実験をしていない。つまり確実にそうだと言うには証拠が足りない。更にほかの方法も使って調べないと、言いたい結論を導くわ けにはいかない。このままでは論文にならない。あと1-2ヶ月は一生懸命研究をして、そして互いに矛盾しない結果が出たら、超一流とは行かずとも立派な国 際誌に投稿できるだろう。 もう一寸頑張れよ。できあがれば、秋から予定している彼女のイタリア行きによい餞(はなむけ)となるだろう。もちろん彼女自身が頑張っての話だけれど。