2007/07/17 16:39
台北で至福の時間
7月7日に瀋陽を出て、その日のうちに成田経由で台北に飛んで、台北で開かれた国際学会に参加した。数えてみると2002年にHamburgで開かれた学会に参加して以来海外で開かれた学会に参加したことがない。日本で開かれる学会に出たのも2003年の夏が最後である。理由は簡単で、参加する旅費が捻出できない、おまけに仕事が進んでいないから話す内容もなかったのだ。
この学会は第3回国際糖類分子免疫学学術会議と銘打った物々しいものだが、内情は長庚大学の呉明道先生が1988年 にアメリカのテキサスにいたときに開催した会合が回を重ねたものである。集まった人数は多くはなかったが、それでもアメリカ、カナダ、イギリス、オラン ダ、ドイツ、イタリー、フランス、ベルギー、イスラエル、オーストラリア、インド、日本、台湾から人々が集まっていた。このあとオーストラリアのケアンズ で開かれる第19回国際複合糖質会議のプレシンポジウムの形だったが、意外なことにオーストラリアに行く寄り道ではなく、この台北の学会にだけで来た人たちも多かった。
地理的には近いにもかかわらず、中国本土から参加したのは私と妻だけだった。この領域の研究者が中国にはいないと言うことなのだろうか。
学会の開かれたのは台北市の南東にある南港地区の中央研究所の中の施設だった。中央研究所は英語名ではAcademia Sinicaで、同名のものはもちろん今の中国にもあるが、漢字名は中国では科学研究所である。台湾でのAcademia Sinicaは生物化学、分子生物学、ゲノミックス、数学、物理、などの研究所の集合体で、台湾のアカデミックな研究の大きな中心の一つである。
activitiy centerと言う名前の宿泊施設、講堂、体育施設も備えていて、私たち全員は会期中はこのactivitiy centerに泊まり、生物化学研究所内の講堂で開かれる学会に出た。泊まっているところから熱帯樹が植わっている庭を眺めながら歩いて数分のところに生物化学研究所がある。綺麗なたたずまいの施設だがゆっくりと見物できないほど常に暑かったし、おまけに蒸し暑かった。建物の中は常に25度の冷房が効いている。
こ れで台北は3回目の訪問となった。何時も学会に参加するために来ているので街を十分に見学する時間はないけれど、街の喧噪、人々の元気さ、街の底抜けの明 るさ、どれを取ってみても好きである。食事も美味しい。値段は屋台からウエイターの侍る高級レストランまでピンからキリまであるけれど、値段が安いからま ずいと言うことはない。安くても、どれもこれも美味しいのだ。
おまけに台北は足揉みの発祥の地のようだ。足の裏マッサージは1998年に台北を訪れたときにすでに足揉みで名高く、ホテルで紹介して貰っていったところがあまりにも良く効いて気に入ったので、6日間滞在のうち5日間、講演が終わると食事もそこそこに毎晩通い詰めた記憶がある。
最 初の治療の最中は悲鳴を上げ続けた。ここは三叉神経、ここは眼、ここは肝臓、ここは生殖器、などと私が悲鳴を上げる度に治療師は日本語でのたまう。足の痛 みが五臓六腑の不全に繋がるかどうかはともかく、その夜はホテルに帰っても足が腫れ上がった感じで歩行もままならなかった。しかし次の日にも行ってみる と、足を指で押されて受ける痛さが減って快感に替わりかけている。3日目はもっと良い。明日揉まれてどんどん良くなっていると言うことが実感できた。
更に4日目に足揉みに誘った大阪大学タンパク質研究所の先輩の老先生が、初めての治療なのに足の裏を押されて気持ちいいだけで、少しも痛くないという。毎日6kmの道を歩いて研究所に通っていることと彼の75と いう歳には見えない元気さと関係がありそうだ。ここで足の裏は押されても痛くないのが本当なのだ、痛いのは不健康なのだと言うことが実感できたのだった。 実際に足を揉んで五臓六腑の疲れがとれるかどうかは確信がないが、その後自分で足の裏を揉んで足の痛みがなくなるととても気持ちが良い。
2002年 の台北訪問は中央研究院の井上先生による招待で、5日間は講演2回を含めてびっちりと歓迎プログラムが組まれていて足揉みに行けなかった。それで、今回は 何とか足揉みに行きたいと願い続け、日曜日に2回出かけたのを含めて4回治療を受けに通うことが出来た。タクシーで往復600元、30分の治療に400元。日本円にして4千円くらいだろうか。
学 会で久しぶりに出会った日本の友人は日本でも足揉みに行くけれど、日本でこのような良く効く揉み方はないという。今回はこれが主目的で来たのだといって 笑っている。瀋陽にも足療と言う看板のマッサージが沢山ある。しかし1回の経験だが不満が残っただけだったので、その後二度と行っていない。
男として一番の幸せは、アメリカの家に住み、日本人を妻にして、中国人のコックを雇うことだ、と言うが、私はこれに、台湾の足揉み師を雇って毎日揉んで貰って眠ること、と付け加えたい。
2007/07/25 14:42
至福の台北 その二
台北の中央研究院を会場にして開かれた学会は7月12日の昼過ぎまでだったので、大半の人はその日のうちに会場、つまり宿泊所を去った。私たちは急ぐのが厭だったのであと1日の滞在を予定していた。ところが中央研究院では次の集会が開かれるので、宿泊は12日でお終いにして13日は別のところに移ってくれと言う。このような人が私たちを含めて10人いた。学会事務局では私たちのために台北市の飛行場よりのホテルを見つけてくれるという。もちろんお願いした。
13日の朝、事務局が用意してくれたクルマ2台に分譲して私たちは中央研究院をあとにした。直ぐに市内の高速道路に乗る。もう馴染みの風景が車窓に拡がる。左には台北101と言う高さ508メートルで現在世界一を誇るビルが見える。そういえば、この101を見に行かなかったっけ。それより西には台北駅前の46階建てのビルが見える。ここの餐庁では晩餐会があった。
クルマはやがて台北駅を越えて北に向かって走ってから高速を降りた。そしてMRTと呼ばれる電車の芝山駅の近くの瀟洒な建物に着いた。麗敦旅店と書いてある。玄関を入って直ぐのところにフロントがあってロビーはないに等しく、いわゆるホテルとは作りが違う。10人のスーツケースを置くことでたちまち空間が一杯になる。
事務局の人がフロントと話していて、「はい、それじゃ荷物を預けてどこにでも遊びに行ってください、チェックインは夕方の6時です。」と言う。一日遊び歩く 予定なら良いけれど、こっちは台北博物館と足揉みだけの予定である。「それはないでしょう、もっと早くしてくださいな。せめて、4時にしてください。」と 言ったところ事務局から来た人はまたフロントと交渉して「yamagata先生は4時にチェックインできることになりました。」という。
なんだかおかしい。フロントに置いてあるティッシュペーパーにはホテルの広告が書いてあって「休憩680元」と書いてある。成田で買った台北情報誌に、ホテルを選ぶとき、台北にもラブホテルがあるのでそれと間違えないように、と書いてあったのを思いだした。そうだ、それに違いない。じゃなきゃ、チェックイン6時なんて言うわけない。それまでフルに稼ぐつもりなんだ。
妻と私は先ず台北博物館に行って少数民族展を観た。昼は台北名物という牛肉麺を食べてから、繁華街の西門に足揉みの店に今回の4回目の訪問をした。そのあと龍山寺に行こうとしたところ反対方向に歩いてしまった。気づいてから方向転換したけれど強い西日に照らされてばててしまい、龍山寺を諦めてホテルに戻ってきたのが4時前。それでも鍵を渡してくれた。前金である。1880元はたぶん日本円で7-8千円くらいである。
5階の505号室に行くと普通のホテルと同じ作りだけれど全体的に作りが豪華で、濃い天鵞絨色と金色という印象だった。窓が小さく、厚いどっしりとした色合いのカーテンだった。ベッドサイドの机にはコンドームの包みが乗っていたので、私は妻の気づく前に机の引き出しに入れた。
ベッドの横のバスルーム側は巨大な鏡張りになっているが透かして見えるようにはなっていない。バスルームのバスタブはどちらが頭の側か分からない作りというか どちらから入っても良いように、つまり二人が向かい合わせで入れるように作ってあった。なるほど、と感心しつつシャワーを浴びたあと、途中買ってきたパンを食べた。もうご馳走には飽食していた。
丁度台風4号が沖縄に来ていて私たちの帰路と重なる可能性がある。さっさと寝る気になってベッドに入り、ベッドの足下の方にある大きな薄型テレビを付けると、120チャンネルもある。チャンネルをだんだん下げてきて105まで来るとNHKテレビで大相撲をやっていて、やがて7時の天気情報に変わった。今沖縄が台風の勢力範囲で、明日が九州上陸だという。成田に影響が出る前には日本に戻ることができそうだ。
台 風情報を見たあとチャンネルを動かしていくと突然例の、普通では見られない映像が出てきた。びっくりだ。隣では妻も見ている。あれれと言いつつも、あわて ず騒がずそのままチャンネルを変えていくと3つ別の放映があることが分かった。大いに興味があるが今ここで見るわけにも行かないし、ともかく眠い。
寝たのが7時過ぎで直ぐに寝ついてしまったが、夜11時 には目が覚めてしまった。心の中で例の映像が残っていたからに違いない。隣の妻は静かに寝ている。起こさないように音を絞って例の映像のチャンネルを呼び 出すと、中国(台湾?)もの、洋もの、日本ものの3つが選べることが分かった。このようなものを見るのは久しぶりである。東工大にいた頃、若い同僚の助教授が「先生はこのようなものは自分では買わないでしょう。もう自分は見たからあとは好きにしてください。」と言ってアメリカで買ったというビデオを貰って観て以来である。もう15年前になるだろうか。3つのチャンネルを行ったり来たりしてしばらくは興奮して見ていた。他人のセックスを見て興奮するのは人間だけなんだよなあ。でも、やがて飽きてしまった。所詮他人ごとの、絵空ごとである。
と言うわけで夜中にちょっと起きていたけれどまた朝までよく寝た。部屋を出る前には引き出しに入れた包みをまた机の上に置いて、朝6時半には呼んでおいたタクシーで空港に向かった。今回の台北は学会のあと想定外の経験もあって、久しぶりの学会出席はもちろんのこと、楽しい旅だった。
2007/08/05 07:31
日本にいる留学生たちの集まり
7月28日土曜日、横浜で「2007瀋陽薬科大学同窓会」が開かれた。幹事役は薬科大学65期の二人で、慶応大学大学院博士課程2年の朱くんと、同じ研究室の糖鎖研究プロジェクト部門で働いている薛さんだった。
朱くんと薛さんの二人の呼びかけとお膳立てで集まったのは、64期の婁さん(カネボウあらためクラシエ)、65期の胡丹くん(東大大学院)、李さん(千葉 大学大学院)、郭さん(朱性宇くんのガールフレンドで東工大大学院)、66期の秦さん(胡丹くんの奥さん)、沈さん(花王化粧品研究所)、 2000-2001年の日本語教師だった最上先生、それに私たち二人の合計11人。
瀋陽薬科大学から来ている留学生たちは年末年始に最上先生の教会に集まっていたらしいけれど、私たちも参加して開かれたのは初めてのことだった。横浜港クルーズ乗り場の近くのレストランの一画を仕切って貰って11人がぎっしり座った。
この集まりのすごいのは、中国語が分からない私たちがいるので、彼らが互いに話していて私たちが加わっていないときも日本語で話していたことだ。
私たち日本人だとこんなことは出来ない。外国人が一緒のテーブルだともちろん英語を使うけれど、隣の日本人の間の話はどうしても日本語になってしまうのが普通だ。
ここにいる留学生たちは中国にいた頃から日本語が巧みだった。その中で朱性宇くんは65期の同室の四人の中では日本語会話能力がちょっと下だったけれど、日本に来てから磨きが掛かって、今では日本人並みのイントネーションとアクセントでがんがん話が出来る。今では胡丹を抜いている。朱くんの日本語からは彼が日本人でないことは分からない。
語彙も豊富になって、昨年学会に行ったとき「ちょっと気まずいことがありました。」と話し出した。「気まずいこと」なんて言う言葉が普通に使えるのだ。
「仙台で学会があって、先生から、学生3人も研究室から行くので一緒に宿を取って置いてと言われて、私たちの分は宿を予約しておいたのです。仙台に着いて直ぐに学会会場に行って、ずっと講演を聴いていました。初日の集まりが終わってから食事に行くことになって、街を歩く前に宿に寄って荷物を置いていこうと言うことになりました。」
「それで先生に『先生の宿はどこですか?』と訊いたら、先生は『えっ』と言ったきりなので」、ここまで聴いて話の落ちを察した二三人がけらけらと笑い始めた。朱くんは続ける。「初めて私が先生の分も宿を取る必要があったことが分かったんです。この瞬間は、とっても気まずい思いでした。」
悪いけれど私たちは笑い転げてしまった。宿を取るように朱くんに頼んだので当然取ってあると思った先生。一方では先生が自分たちと同じ宿に泊まるはずがないと思い込み、頼まれたとも思わなかった朱くん。ありそうな行き違いだ。
さあ、宿無しの先生はどうなったか。実際にはその宿にちょうど空きがあって先生はここに泊まることが出来たそうだが、このようなエピソードを楽々と話せる朱くんの日本語の上達ぶりに改めて感心した。
それに比べて、同期生の中で随一の日本語遣いだった胡丹くんの日本語は、10ヶ月経って進歩どころか退歩しているみたいだった。この3月に中国から呼び寄せた奥さんの秦さんは日本語がまだまだなので、「何時も彼女と中国語で話しているから下手になったのね」と言って私の妻にからかわれると、胡丹は「いえ、違いますよ。研究室で朝から晩まで一生懸命に実験をしていて、研究室でも日本語を話す機会がないんです。」と必死に弁明していた。どちらも、きっと本当なのだろう。
集まった瀋陽薬科大学から来ている留学生は誰もが陽気で、元気がいい。物事にも対人関係にも積極的であることが、異国での成功の第一の要因かも知れない。
2007/08/08 18:11
入国審査でシステム障害
新聞で、「銀行システム障害、すべての業務が止まる」とか、「全日空でシステム障害 130便欠航、7万人に影響」など見ると、大変だなあと思う。すべてコンピュータに頼る社会になると、コンピュータが動かないと何も出来ないことになる。紙と鉛筆があって記録することが出来ても、その記録だけでは全く意味を持たない社会になってしまったのだ。
でも、これまでは他人ごとだった。今までコンピュータ障害で直接迷惑を受けたことはない。新聞で読んで「気の毒に、たいへんだなあ」といっていれば良かった。それが、昨日8月7日に中国南方航空で瀋陽に到着したときに、そのシステム障害にぶつかったのだった。
外国人として中国に到着すると、入国カード、税関申告カード、健康申告カードの三つをあらかじめ書いておいて入国の時に渡さなくてはならない。飛行機の中で私に渡されたのは税関申告カードだけで、従って私は健康申告カードを書いてなかった。それで、まず最初に検疫所で引っかかった。つまりカードを書いてい なければ通さないというわけである。
仕方ない。カードを貰って書き込んでまた検疫所の列に並んだ。書き込んだカードを渡すだけだが、次の入国審査の所では列の後ろの方に並ぶことになった。
列に並んで見回してみると入国審査は8列くらいになって並んでいるが、ちっとも進まない。改めて入国審査のブースを見ると、ブースの中にはちゃんと係官がそれぞれ座っている。審査を受ける人はその前に立っている。が、ブースの中の係官が何かをしている様子がない。
「この線でお待ち下さい」という線引きは、もちろんここでもある。見ると、そこにはベルトで境が置かれてしまって、次の人が入れないようになっている。
その境とブースの間には係官とは別の、肩に二個の星を付けた10人くらい(警官風のひとたち)が出てきてこちらがなかに入らないように見張っている。何だろう。こういう時言葉が分からないのは困ったものである。数人前の日本人が3人で互いに何か喋っているが、何も情報はない。並んでいる人たちはごくおとなしく待っている。この場所は入国審査の際に通り抜けるだけの所なのでさして広くはなく、人いきれでだんだん暑くなって汗がにじみ出てくる。
15分くらい経った頃、私たちの列の前に立っていた警備員の一人が何か叫びだした。その中に「日本人はこれを聞いても分からないから。」などの言葉が聞き取れた。何だろう?
私のすぐ後ろの背の高い青年が日本語で言い出した。「コンピュータの故障です。そのまま並んで待っていて下さい。水が欲しい人は申し出てくれれば水が貰えるそうです。」つまり、日本人にはアナウンスが分からないから誰か説明しろとも言ったのだろう。私は後ろの中国人の青年に「ありがとう」といって前を向い た。
「銀行システム障害、すべての業務が22時間止まる」みたいなことが頭に浮かぶ。直るまでどのくらい掛かるのだろう。このまま立ちん坊で一晩明かすのか。それからしばらくして、また警備員が何か叫んだ。後ろの青年に尋ねると「外の迎えの人たちにこのことを伝えたから安心して欲しい」と言ったという。そういえば、大学の国際交流所の徐さんが迎えに来ているはずだ。思い出して電話をする。中国のケータイを取り出して電源を入れる、電池マークが3本点いて良いところが1本しか点かない。
幸い電話が徐さんに通じたが、徐さんは「今どこにいるのですか?」と言ってここで何が起きたか知らない様子だった。何時直るか知らないけれど、彼女に去られたら大変なことになる。「もう一寸直るまで待っていて」と頼むしかなかった。
結局入国審査の列が動き出したのは並んで35分経ってからだった。良かった、ここで一晩明かさずに済んだ。私の番が来て、入国カードを書いていないことを 見とがめられたが、貰わなかったと言ったら、それで通してくれた。すべて杓子定規の国でこんなことがあって良いのだろうか。初めての経験である。私たちを 立ったまま35分待たせたからせめての罪滅ぼしなのだろうか。
振り返ってみると、入国審査で列が動かず、コンピュータシステムに異常があって何時直るか分からないと言う状況で、乗客が一人も騒がなかったことが驚きである。ただ、ただ黙って並んでいたのである。説明が十分なされたのだろうか、直るまでの時間もあと20分くらいとか言われていたのだろうか。
あの暑さの中では耐える限度だったような気がするけれど、もしあれが長引いたらどうなっただろうと、それも経験してみたかったのも事実である。「好奇心のある仔猫は長生きしない」という言葉を肝に銘じて私は生きているけれど、私の好奇心、想像力は幾つになってもなかなか衰えないのである。
2007/08/11 12:58
福岡の学会に出て
4 年ぶりに日本糖質学会の年会に顔を出した。今年は福岡の九州大学で伊東信教授を年会の会長として開かれた。伊東さんは私が昔いた三菱化学生命科学研究所の 研究室で、私のところのポスドクから始めて研究員になった人である。手短に言うと私の昔の部下だけれど、今では彼は私などよりも遙かに立派な業績を上げて いて、かつては私の部下だったなどというのは大いに恥ずかしい。
しばらく学会に出ていなかったけれどそれが学会に出かけたのは、もちろん伊東先生から今度自分が責任者として年会を開くので是非来て欲しいと言われたからである。発表する人が一人でも増えればというわけだ。文字通り「枯れ木も山の賑わい」になるだろうと思ったのである。
それに幸い中国での研究も何とかなりつつあるので、発表するのに良いタイミングである。久しぶりに多くの人たちに出会うのだから、やはりこちらも格好が気になる。手ぶらでは出かけられないと思って、今までで学会に顔を出さなかったというわけだ。
8月1日から3日まで開かれた学会は集まったのが600人を越えていたという。一般講演が60くらい。ポスター発表が200を超えていたから、思いの外、というのは記憶にある以前の年会と比べての話だが、盛況だった。若い人が増えていて、知っている顔はぽつりぽつり位しか見あたらない。
昔は学会に出てくる女性の顔を全部知っていたのに、今はほとんど知らない若い人ばかりだ。浦島太郎の心境である。たまに知っている女性の顔を見つけると、皆おばあさん顔になっている。ヤレヤレ、ま、こっちも同じということか。
瀋 陽は情報の過疎地である。過疎地というのは、学術論文にアクセするのが不自由と言うことである。図書館に私の必要とする学術雑誌はほとんどない。つまり読 むことが出来ない。このことを日本でぼやくと、たいていの人は「今では論文はインターネットで読めるから、大丈夫でしょう。」という。
と んでもない。大学や研究所の自分の机の上でインターネットにアクセスして論文が読めるのは、その大学なり研究所がそのジャーナルを購読しているからであ る。図書館でそのジャーナルを購読していなければ、そのジャーナルに載った論文にはアクセスできない仕組みになっている。たいていの研究者はそれなりの大 学にいるから、読みたい論文を読むのに不自由はないわけだ。
こちらは不自由そのものだ。やむなくアメリカのFASEB
だから最新の知識には付いて行っているつもりだったけれど、実際に学会でシンポジウムを聴き、特別講演を聴くと、どの講演も凄いのだ。どの演者も輝いて見える。学問上でも本当に浦島太郎になったような心境だった。
糖質学会のカバーする範囲は多岐に亘っているが、ジャンルは私が長年やってきたような、糖鎖の構造や機能の研究、糖鎖を大量に供給するにはどうするかという研究に加えて、GlycomicsとかGlycoinformaticsと名付けられるような網羅的な研究が増えていた。私たちが中国で始めたような糖鎖シグナル伝達に関する研究はほとんどない。果たして受け入れられるだろうか。
それだから、瀋陽薬科大学における私たちの研究を話し終えたとき会場からさざ波のように初めは静かに(そして万雷の如くとはいかなかったけれど)拍手がわき起こったのは感激だった。シンポジウムや特別講演で演者に拍手するのは当然だが、一般講演では空前絶後のことである。未だかつて聞いたことがない。
「数年のブランクにもかかわらず、よくやっているね」と言う糖の研究者の仲間としての暖かな歓迎の気持ちの表れだったのだろう。嬉しいことである。こうやって励まされて、今浦島もまたやる気になって中国に戻ってきた次第である。
2007/08/16 08:33
機関誌の発行を止めるって?
日本糖質学会の年会に4年ぶりで出席すればいろいろの事情がすっかり変わっているのは当然だが、驚いたことがあった。それは、学会の台所事情により学会の機 関誌の発行を止めたと言うことだ。しかし、お金がないから機関誌の発行を見合わせて支出を抑えましょうという簡単なことではないのだ。
日本糖質学会は70年代に有志が集まって出来た学会である。学会というのは必要を感じた気鋭の人たちが声をあげて作るものだが、80年代の終わりにはかなり形式化して会員の意向を反映していなかった。学会を作った人たちが「偉くなって」会員の意向を無視していた。つまり、話はそのころ,1980年代の終わりにさかのぼる。
その頃、タンパク質、核酸の時代に続いて「糖の時代」が花開こうとしていた。世の中が激動しているのに、学会はその動きに敏感でない。それで私たち学会の主流派でない人間が集まって、日本糖質学会とは全く別の組織を作った。FCCA (Forum: Carbohyadrates Coming of Age) 「糖鎖の時代がやってきた」という名前の組織だ。世の中に糖鎖研究の面白さと成果を還元し、糖の研究をする私たちの間で、そして世界の研究者との間で研究成果の交流を図ろうというものである。
だから会員のためと世の中一般向けにセミナーを頻繁に企画したし、FCCAの機関誌を発行した。機関誌は、Trends in Glycoscience and Glycotechnology (TIGG) という名前のもので、今ではどこでも当たり前の言葉として使われている糖鎖工学(Glycotechnology)は私たちの造語である。TIGGは2ヶ月1回の発行で、初代のTIGG編集長、そして初代のFCCA幹事長には私が就任した。
そのころのFCCAとTIGGの様子がどんなに活気に満ちたものだったかは別に書いているので繰り返さないが、発足して7年以上経ったとき、日本糖質学会から申し入れがあった。「日本糖質学会はかねてより英文の機関誌を持ちたいと思っている。FCCAが同じような目的で機関誌を出しているので、それを日本糖質学会の機関誌として譲り受けたい」というものであった。
冗談ではない。いきなりやってきて私たちの発行している機関誌を「おまえの持ち物が欲しいからそれを寄こせ」、なんて、ふざけた話である。私はそのころは幹事長を降りていたがTIGGの編集長は続けていたので、FCCAの二代目の渋谷幹事長(現在明大教授)、そのほかの幹事と諮って断った。
しかし、一方で私たちは考えた。「世の中の必要性を感じ私たちも必要と思い、糖質科学の発展のためにFCCAという組織を作りTIGGを発行してきたが、これを始めた私たちはいずれ表舞台から引退し、次々と人が変わっていく。二代目三代目に人たちがさらにその先になると、この団体を立ち上げた時の気持ちは続かずそれまでの惰性で活動を続けるだけになるかも知れない。望まれた時期にTIGGをしかるべき学会組織に渡すことは、良いことかも知れない、日本糖質学会もこれで格が上がるわけだし。」
幹事の間で何度も議論を重ねたあげく、私たちは日本糖質学会に、「FCCAと日本糖質学会とはお互い対等の組織である。日本糖質学会の必要に迫られた強い希望に鑑みてこれからはTIGGを両者の共同の機関誌ということにしませんか」と申し入れた。両者は相談して細かく話を詰めて、TIGGの発行の費用を共同で出して、両者の機関誌とすることが決まった。1997年7月発行の第48号が共同の機関誌となった最初のTIGGである。
それから約10年近く、両者から編集委員を出して共同運行は問題なくやってきたはずだ。しかし日本糖質学会は資金がなくなったので「ない袖は振れない」といって共同機関誌の打ち切りを決めたと言う。
FCCAでは、時移り人は去り、立ち上げたときの初期の幹事はいなくなった。最初の頃の熱い情熱は変わってきている。そして共同運行を始めて以来、資金の一部は日本糖質学会に頼る体質になってしまった。
言ってみれば、経済的に自立している有能で魅力的な美女に目を付けて、「一緒になろうよ。良いことがいっぱいあるよ」と口説き、やっと説得して一緒になって10年経ち、美女がいつの間にか男に頼る体質になった頃、「もう金がないから一緒にやっていけないよ、あとは勝手にやれよ」と言って放り出すようなものである。
手を換え品を替えてTIGGを 日本糖質学会に寄こせと言って迫って来た当時の川嵜理事(今は京都大学を退官して別の大学の教授である)の言動を思い出すと、「こんなことでよいのだろう か。先輩たちが学会を良くするために重ねてきた努力をこんな風に簡単に踏みにじって良いのだろうか、君たち、」と言いたくなる。
世代の交代で、糖質学会の理事も昔の人たちがいなくなったので昔のことが分からない。しかし同時に救いは、FCCA幹事やTIGGの編集委員を経験した人たちが糖質学会の理事になりつつあることである。糖質学会が財政を立て直し、機関誌廃止という決断を見直す時期が早く来るように願っている。
2007/08/18 15:20
ビジネスチャンス
日本糖質学会の機関誌が財政上の理由で発行を断念したという。一方、もともTIGGを機関誌として発行している本家本元のFCCA(Forum: Carbohydrates Coming of Age 糖鎖の時代がやってきた)という団体は、TIGGの表紙から「日本糖質学会機関誌」という名前をしばらく削らず、様子を見ようと言う。
いじましい話である。無理矢理言い寄られて結婚して、挙げ句の果て貧乏になったからもう一緒にやっていけない、邪魔だからと言って追い出されたのに、結婚した姓を名乗り続けるようなものである。
さて、私が創設したとはいえFCCAにもういま私は何の関係もない。ジャーナルのTIGGの編集顧問として名前が載っているだけである。もう関係はないけれど、彼らの運命も、日本糖質学会の将来も気に掛かる。
別れ話の発端は機関誌発行に関わる経費である。この経費が安くなれば、少なくとも目先の障害は解決する。日本糖質学会は機関誌発行を断念したことを考え直すだろう。そこで思いついたのは、中国は給料も安いが、物価も安い。従って印刷費も安い、ということである。
印刷については、この大学で2回の経験がある。同じものを印刷したわけではないので日本だと正確にはいくらになるか分からないが、日本の印刷費の数分の一と考えて良い。
機関誌TIGGの印刷原稿をここに持ってきて印刷をして、それをここから発送すれば、郵送費は世界どこでも同じ(つまり感覚としては中国から出す郵送費は高い)だが、かなり経費が節約できるだろう。
日本では100ページのTIGGの1回の編集費が20万円、印刷費が70万円くらい掛かっているらしい。中国で印刷すれば、この70万円のコストが節減できることになる。うんと安ければ、私たちが手数料を取ったとしても、機関誌の発行が可能になるくらい経費が安くなるはずだ。この手数料を上乗せするというのも魅力的だ。何しろ研究費がなくて私たちは貧乏しているから、研究室の学生が手伝うことで何か金稼ぎが出来るなら大歓迎である。
福岡の学会の時に見本となるTIGGを貰ってきたので、これを持ってうちの学生の王くんに隣の図書館の下にある印刷所に訊きに行って貰った。「1000部印刷して、1冊8元だそうです。」というのが答えだった。印刷費が8千元。日本円にして約14万円である。いまは元が上がっているから、これからどんどん高くなるにしても、今は日本での印刷費の5分の1である。私たちが手数料を上乗せして印刷経費を35万円としても、印刷費が半分になり、年間 35x6=210万円安くなる。私たちの方には28x6=168万円(約10万元)という金が研究費に使える。大学から貰う研究費は年間5万元しかないので、いつも本当に苦労しているのだ。こりゃ凄いビジネスになる。
私たちが研究費として印刷費をピンハネしても、こんなに安くできるなら日本側がこの話に乗らないはずはない。しかし、待てよ。中国で印刷するにしても、大量に日本の雑誌を2ヶ月に1回定期的に印刷し、海外の個別の受取人に発送するなら、何処かの段階で「当局」の許可がいるのではないか。
ここの印刷所にはその経験がないそうなので、学生の王くんは東北大学の印刷所、およびそのほかの印刷所に訊きに回ってくれた。その結果、中国で定期的に印刷したものを外国に発送するとき、当局の許可が必要ということだった。この当局というのは遼寧省政府である。ジャーナルの印刷原稿を持って行って審査つまり検閲をして貰う。内容に政治的なことは一切入っていないから何も問題は生じないと思うけれど、文句というものは付けようと思えばいくらでも付けられる。審査期間もどのくらいかかるか先方としても予め返事のしようがないわけだ。1ヶ月か2ヶ月か分からないという。ジャーナルの発行で2ヶ月も遅れたら意味がなくなってしまう。
おまけに発送するときは郵便局ではなく税関を通すのだという。税関というのは厄介な所だ。いくらでも理由を付けて発送の延引が可能だ。いい思い出は一つもない。どちらの機関もこちらと友好的な関係になれば問題は起こらないと思えるけれど、友好的な関係になるためにどれだけの費用と時間が掛かるか、今誰にも分からない。
というわけで、日本糖質学会の窮状を救いながらこちらも研究費稼ぎが出来るという素晴らしい思いつきは、これ以上コミットするといろいろと面倒が起きそうなので、残念ながらここで断念しようと思う。
ただし、どなたか、自分の本を印刷出版(いわゆる自費出版のこと)したいと思っていないだろうか。日本の出版社に頼むと安くて100万円以上の金がかかる。ここで印刷するとペーパーバックの表装しか出来ないが、それでもともかく安い。原稿を受けとって、原稿一部を審査に出して(もちろん通る内容でないと困るけれど)審査結果を待って印刷して、それを日本に税関経由で発送して時間が掛かっても、問題あるまい。そしてなおかつ私たちも金稼ぎが出来る。
もちろん研究費にするために実費の2-3倍をいただくつもりです。それでも日本の半分以下ですよ。希望の方があったら連絡して下さい。
2007/08/21 18:58
9月に新疆ウイグル自治区に旅行?
瀋陽に来てから休みに日本との間を往復するだけで、私たちはほとんど中国のどこにも旅行に行っていない。2004年には日本に戻るときに、誘われたのをいいことにして帰省する沈慧蓮さんにくっついて上海に寄った。沈さんは文字通り一家を挙げて歓待してくれた。何とご両親は、夜になると自分たちのアパートを空けて 自分たちの寝室に僕たちを泊めてくれたのだ。
>年にはアパートのお隣の姚老師が広州、深センの旅行に誘って案内してくれた。この旅 行に一緒に行ってみると、彼女の現地にいるお弟子さんを呼び出して案内と接待をして貰うのだった。中国の老師と弟子の関係なら当然らしいけれど、こちらは全 然おちつかない。なんだか犯罪に荷担しているような気分だ。そのあとも温州の旅行に誘われているけれど、まだお断りしつづけている
つまり中国滞在4年間に2カ所に旅をしたというのは中国にいる日本人としては極端に少ないらしく、大学の呉学長が心配してあちこちで開催される学会に出かけるよう良く勧められる。今年の9月に「ウルムチで学会が開かれるのには是非行きなさい。9月半ばのウルムチは最高の季節だから」と言って、熱心に勧められてとうとう断り切れず、 学会に参加することにした。
6月20日の締め切り日に間に合うよう講演要旨を書いて送ったが、そのあと何も連絡がない。事務局に着かなかったのか、受け付けられなかったのかのどちらかだと思って、1ヶ月後の学会登録費の支払期限が来ても、放っておいた。
すると数日前に、事務局から連絡があって、宿舎の申し込みだという。宿舎の申し込みをしなさいということは、講演要旨は届いているのだろう。同時に学会登録費もまだ払っていない人は払うようにと書いてあって、費用は1ヶ月前に締めきりのあった事前登録に比べて高くなっている。
ともかく要旨が受け付けられたなら学会に行くしかない。というので学生の暁艶に北京の学会事務局に電話をして貰った。「講演要旨を送ったのに受け取り確認が来ないから学会登録費を払っていないのですよ。それが値上がりしているなんてひどい」と言って貰ったら、「そう言うことなら事前登録費でいい」ということになった。
学会登録費は私が700元。妻は子供並みの同行者扱いと言うことにして400元。そして私たちだけでは不自由なので研究室の学生一人と一緒に行くことにして、学生参加費が500元。
さて一緒に行く学生をどうやって選ぶかが頭の痛い問題となった。ウルムチは中国の西にある新疆ウイグル自治区の首都で、日本の面積の数倍大きい。この新疆省から来ている学生は、実は王麗と暁艶の二人がいる。どちらも一緒に行けたら大喜びだろう。でも、王麗が私たちと一緒に研究室を抜けたら研究室の運営で大きな障害となってしまう。暁艶を選ぶと依怙贔屓になる。
それで大学院修士課程の上級生4人に聞いてみた。「9月のウルムチ旅行に誰か一人に一緒に来て欲しいけれど、来る気はある?」すると誰もが目を輝かせて行きたがる。「一人でも一緒に行って、ちゃんと先生たちの面倒を見ます」という。
こちらが決めると角が立つ。抽選と言うことにして博士課程の王麗がくじを作った。王麗は自分が行けないのでクスンクスンと大いに泣き真似をしている。「くじを引く前に、誰が行くことになっても、王麗におみやげにブドウを買って来ると約束する?」と訊くとみな大きく頷く。王麗が「ぶどう一箱だよ」と言いつつ手で大きな囲いを作る。みな頷く。王麗が「ハミグワもだよ!」と叫ぶ。みなうんと言って頷く。
さあ、くじを引いたら陳陽(この秋で修士課程2年生になる)があたった。4人と王麗は大騒ぎである。陳陽は飛び跳ねている。よほど嬉しいらしい。旅行経費は全部こちら持ちだし、何しろ1週間近く研究室を休めるというのだから、嬉しいに決まっている。
くじを引いて陳陽が一緒に行くことになったので、登録費の払い込みや宿舎の申し込みは彼にやって貰うことにした。その午後、陳陽が部屋に来てため息をつく。「昼は、ウルムチに行けることになった私の運がいいというので、みなに焼き肉をご馳走させられました。」「えっ」と驚いて聞き返す私。
「さっきの4人に馬さん(王麗の夫でとなりの研究室にいる)も入れて6人と出かけて160元ですよ、たっかーい。」確かに、学生にしてみれば高いというのは分かる。
そのあと陳陽は、先ほどの抽選にはずれた暁東に「いいね。運がいいね。うらやましい。」と言われて、陳陽は「いいんですよ。わたしは行かなくったって。」とふて腐れて見せた。でも直ぐに気づいて、「あ、そうか。さっきおごって金を使ったから、やっぱり行かなくっちゃ。これで人に替わったら、バカみたい」と言 いつつ、幸せを噛みしめていた。
2007/08/24 13:46
中国版ムーランルージュ
教師会のメンバーの森林好江先生から、観劇のチケットを3枚貰った。彼女がもうすぐ帰国という時だった。「こんな券があるんですけれど、先生観に行きます?」と言って見せられたのは、天幻秀宮という劇場で行われているショウの「ドリンクショウ38元」と書いてあるものだった。
天幻秀宮は元々南湖劇場という名前の貸し劇場で、時々奇術をやったり、映画を見せたり、学校の音楽発表会などが行われていた。1年前に改装して天幻秀宮と言う名の、キャバレーシアターというのか、レストランシアターに切り替わった。私たちはこれを観に行こうと計画していた昨年の8月のその日に妻が急病となって盛京病院に緊急入院した。その8階の病室の窓から見下ろすとこの劇場が眼下にあった。
劇場の壁に大きくラインダンスを踊る踊り子の絵が描いてあり、「パリの夜の再現」などとキャプションが付いている。この劇場は日本語資料室に行き来する通りに沿っているので、少なくとも毎月1度はこれが目に入る。
1年前に調べたときは確か300-400元くらいしたはずだ。それが38元なんて何かカラクリがありそうだ。それでもここのショウを観に行けるのは、大いに魅力的だ。おまけに森林先生が、「この間出演の踊り子とレストランで一緒になったけれど、そりゃプロポーションが良くて、きっと踊りは凄いですよ。」と煽るから、さっと3枚のチケットを彼女の手から受けとった。
3枚というと誰を誘うか。妻の貞子はまだ瀋陽に戻ってきていない。教師の会で仲の良かった男の先生たちはこの夏でみな離任して瀋陽に不在である。教師の会で残っているのは若い女性の先生たちだけだ。そうなると誘えるのはうちの研究室の学生しかいない。
結婚している王くん、ガールフレンドのいるもう一人の王毅楠くんを除くと、独り者の男の学生がちょうど二人いる。卒業したばかりの楊方偉にチケットを見せて訊いてみた。彼は二つ返事で、「ええ、行きます」と嬉しそうだった。もう一人の修士2年生になる陳陽は、「ええ、行ってもいいです」と言ってから「先生、これ、危なくないでしょうね。」という。
「何、それ?」
「だって女の人が脱ぐんでしょ?」とチケットを指す。チケットには少なめのコスチュームを付けた踊り子の写真がバックに印刷してある。それで、気づいた。中国ではいわゆるストリップは公式には禁止である。それでも観たいのが人の常で、それをもぐりで見せて儲ける人もいる。公安に挙げられると新聞種になる。その手のことを心配しているのだった。
脱ぐから観たいのが普通なのに、脱ぐなら観たくないという反応は、こういうことだったのだ。瀋陽にその手のものがあるのかどうかは知らないが、このショウは違う。この劇場のうたい文句は「中国版ムーランルージュ」である。「大丈夫。これ以上脱がないで綺麗な踊りを見せるんだよ。」と言ったら、やっと彼は安心して「じゃ、 行きます。」という。なんだかこちらが誘っているのに、恩を着せられたみたいな感じだ。
1994年にパリで学会があったとき、夜の空き時間を見つけてもちろんムーランルージュに悪い仲間と観に行った。つまり東大、東工大、名大、北大の研究仲間の教授たちである。ダンスの合間に入るトークショウはまったく理解出来ないけど、美しい姿態のダンサーによる踊りが観られれば十分である。席が舞台から遠くだったが私たちはみな堪能した。
次の夜には「クレイジーホース」に同じメンバーで出掛けた。ここはもっと過激で知られているところである。ダンサーは厳選されていて、ここの舞台に立つと言うことはその後の経歴の勲章になると聞いたことがある。ここで踊れるのは若い子だけだ。その日の夕方は劇場の近くのレストランに行き、私たちは3時間くらい時間を掛けてワインを飲みつつ食事をして、クレイジーホースに乗り込んだ。チケットを買ってから案内してくれるベルボーイに確か5000円くらいのチップをはずんだのが効いたのかどうか、舞台から2列目の真ん前の席に案内された。
舞台が始まると背丈のそろった12人の美しいダンサーがいる。直ぐに暗くなった。ムーランルージュと違ってほとんど真っ暗な舞台は、ダンサーが何か身につけているかどうかも判然としない暗さである。美しいボディラインに想像力が刺激されておおいに楽しんだ。
さて、中国の天幻秀宮だ。やはり38元というのは誘い水で、座る席の場所により更にお金を払う仕組みになっている。私たちはかぶりつきの次の次のブロックに座って、一人あたり100元で合計315元の食べ物と飲み物を買った。エビアンの小瓶が20元だから市価の10倍だ。陳陽はしきりに、「高すぎます、もっ たいない」と言うが、こういうところでショウを観ようとすればこんなものだろう。
さて、目玉のダンスはロシア人をメインとする目も覚めるような綺麗な肢体の女性10人、鍛えられた筋肉の男性5人のダンスだった。もちろん開幕はオフェンバッハの天国と地獄の例の曲に合わせて踊るフレンチカンカンである。脚は十分上がるし、前後開脚もぴたりと決まる。誰も美しいプロポーションと動きだ。彼らは本当のプロである。ここでこれが観られるなら十分出費に見合う。
2時間のショウは奇術、歌、トークショウが入っていて、彼らの踊りの出番は合計5回、合わせて30分もなかったようだ。トークショウは大変下品だったと陳楊たちは怒っていた。こういうとき中国語が全く分からないというのもいいものである。天国と地獄を口ずさみながら、私たちは 12時近くの路上を家路についたのだった。そうか、森林先生は明日が帰国の日だ。私は元気いっぱいの彼女の隠れたファンである。彼女の道中無事と何時の日かの再会を祈ろう。
2007/08/29 15:07
西域旅行計画
瀋陽からウルムチまで飛行機で直接飛べるそうだが、何と6時間掛かるという。これは驚きで、中国って本当に広いんだなあ。6時間と言うと、長い。きっと飽き飽きする。しかし一緒に連れて行くことになった陳陽くんは「飛行機では景色が見えなくて面白くないから、汽車にしましょうよ。」と言う。
瀋陽から600 Km離れた北京までは、汽車の種類によって違うが数時間から一晩掛かり、特急だと3時間で行けるとのこと。しかしその先の、北京からウルムチまでは41時間の汽車の旅だそうだ。二日間も汽車に乗っているなんて、私たちせっかち人間には考えられないことだ。ということは、退屈しようが疲れようが、飛行機以外の選択肢はない。
ウルムチの周辺は観光の宝庫だそうだ。北に行くと天池と呼ばれる美しい山の湖があるし、東に行くとオアシス都市であるトルファンがあって、砂漠に水路を引くカレーズと言う地下水路のおかげで、町中の道路はブドウのアーケードで覆われているという。
このトルファンの街から東に車で40分行くと孫悟空に出てきた火焔山がある。ゴビ砂漠の中で強い光に照らされて陽炎の沸き立つさまが火焔のようだという山に興味がある。三蔵法師と時は離れても空(ところ)を共有できるなんて素晴らしい。けれど、見に行くのも暑いのだろうな。
学会は3日間あっ て、私の発表がある日には会場に行かなくてはならない。しかし、「幸いなことに」中国語の分からない身としては自分の講演以外に会場に座っていても意味がないから、もちろん出席を遠慮する気でいる。つまり学会期間中にウルムチおよび周辺の行くべき所は見尽くせる。
帰りにも何処か寄り道して帰ってこよう。せっかくウルムチまで行くのだから、とんぼ返りでは能がない。思いつくのは西安である。西安というと秦の始皇帝の兵馬俑の発掘で有名になっ たところで、昔の名前の長安は前漢から始まって、隋、唐の時代の首都として名高いところだ。今この西安には私の中国人の友人がいて、教授をしている。
私が瀋陽に来る前の研究所にいた頃、研究費でポスドクを雇うことが出来ることになって公募したら、応募した中に中国人の張敏さんがいた。ちょうど名古屋大学 工学部で大学院を終えるところで、化学系という意味では私の研究に一部近かった。けれどもその時は遺伝子に力を入れるつもりだったので、彼女にはお断りをした。しかし、それ以来文通が続いていまでは友人である。
張敏老師は2年前に日本での研究を終えて、西安師範大学の教授となって故郷に錦を飾った。昨年私に電話を掛けてきて、何時か西安に講義に来て下さいと言うことだった。そのあとメイルも来たから本気で招待しているのだ。それで今回彼女 にメイルを書いて、行きか帰りか、そのどちらかに西安に寄って約束の講義をしましょう、ついてはこういうタイトルのどれがいいでしょうと4つばかり講演内 容を書いて送った。彼女の都合を聞いてからこちらは旅行日程を立てるつもりだった。
ところが彼女からは返事が来ない。ウルムチの9月というと最高の旅行シーズンだそうだ。「学会ぎりぎりの12日に瀋陽を出るとしても、あと3週間しかありませんよ。早く航空券を買わないといけません。」と陳陽が私をせっつきだした。確かにそうだ。と言うことなので張敏老師にメイルを書いてから1週間のうちに「お返事がないので今回は西安に寄るのを断念して旅行計画を立てます。」とまたメイルを書いた。通常なら今はまだ夏休みだから、メイルの見られないところで休暇を過ごしているのだろう。
西安が駄目なら洛陽はどうだろうか。インターネットで検索すると春秋戦国時代の東周から始まって後漢、魏、西晋、北魏、隋、唐、後梁、後唐の歴代9王朝、 70人の帝王が都を置いたことから「九朝古都」とも呼ばれるという。子供の頃読んだ芥川龍之介の作品で、洛陽の城門から始まる文章が強い印象として残っている。杜子春だったか。仙人を目指して仙人になれなかった話だ。「洛陽の紙価を高める」という故事もあって洛陽という名前はなじみである。
洛陽を調べてみたら、世界三大石窟の竜門石窟は洛陽の西12 Kmにあり、これは北魏が洛陽を首都としたときに皇帝が仏教を篤く信仰して作らせたものだという。陳陽は北魏なんて漢民族ではないとうそぶくが、北魏の王室の血筋が隋、唐の王室に入っているのは、今では紛れもない事実と言うことになっている。
と言うわけで、ウルムチの帰りに西安あるいは洛陽に寄って観光をして来ようと今は考えている。帰りに寄り道をすると、王麗のためにお土産として生のブドウの大きい一箱を運んでこられない。謝るしかな い。「ごめんね。」と王麗に言ったら「いいよ。帰りに遊んで来ていいよ。」と笑って許してくれた。ホーッ。
2007/09/01 08:24
オープンラボをやった
楊方偉くんという男子学生はこの春私たちの研究室で卒業研究をした。彼は北大大学院進学を希望していて、留学話は進行しているようだがまだ最終的に何時行くことになるか決まらない。それでこの薬科大学を卒業したけれど、まだこの研究室にいる。
その彼がオープンラボをしようと言い出した。これはもちろん、私たちの研究室に学生をリクルートするためである。
研究室が狭いので、学生が50-60人いるという学長や副学長の研究室の真似はとても出来ず、私たちは毎年修士学生を2名くらいしか採用していない。卒業研究の学生も5名採ったこともあったけれど、部屋のスペースからすると2-3名が限度である。
薬科大学では日本と同じで女子学生の比率が高い。全体で7割くらいだろうか。日本語班となるとまず成績で選ばれるから、女子が8割から9割である。試験成績で選ぶと男子は全く形無しである。世界共通のことだ。この時期の男はやましい雑念が多すぎて勉強に集中できないのだ。
瀋陽に私たちの研究室が出来た時の比率は男女半々だったが、だんだん女子が増えてきて、今年度は正規には男子2名。あと1年経つと男子学生が一人になってし まう。また、日本語を話す学生も最初は半分近くいたけれど、あと1年経つとこの男子学生である陳陽くん一人だけになってしまう。
と言うわけで、差別をするみたいで大きな声では言えないけれど、今度のオープンラボの主目的は、日本語の出来る、しかも男子学生のリクルートである。リクルートで も 日本の大学院に行きたいという学生では意味がない。大学院は私たちの研究室に進むという「日本語の出来るしかも男子学生」が欲しいというわけである。来年の秋に私たちの所に進学する学生は、既に基地クラスから来る女子学生が二人決まってしまったが(私がイエスと言ったからだけれど)、男子の希望があれば 是非採りたい。
このための「オープンラボをやりましょうよ」と楊方偉が言い出した。なるほど、いい考えだ。私も直ぐにやる気になって相談をした数日あとには、楊方偉は学生に配るチラシを用意した。みると、「がんの転移機構を解明するあなたを待っている」と最初に横に大きく惹句が書いてあ り、そのあとには
「山形研は貴方の加入を待ってるよ!」
「日本語ができる学生は大歓迎!」
「ここでは貴方を鍛える絶好のチャンス!」
と縦に続いている。大したものだ、日本語だって合っているし、宣伝としても簡にして要を得ている。
さて昨日のオープンラボの当日になった。午後2時前に教授室に続々と学生がやってきた。彼のポスターでは定員6名と書いてあったはずだが、たちまち10人・・・13人、14人。もう一杯だ。楊方偉に聞くと12人で申し込みを締め切ったという。
顔ぶれを見ると半分くらい知った顔だ。薬学日語が2クラスで私は生化学、分子生物学を教えた。残りの中薬院の1クラスは教えていない。日語だから全員日本語が話せる。この14人の中に男子が2名いる。比率からするとこんなものだろう。せめて一人くらいは私たちの研究室を志望する気にしてやろう。
「山形研究室は研究することが好きな人を歓迎します。
好奇心の旺盛な人 好
根気のある人(忍耐強い人) 好
頭を使うことが出来る人 好
学業成績優秀な人 不要? 要?
金儲けをしたい人 不要
従順な人 不要」
と脅かして彼らの不安を煽ったりしながら、私たちの研究テーマについて説明して全部で1時間費った。そのあとかれらは7人ずつ2つの班に分かれて、実験室で先輩たちの実験を見学した。
さて、このあと何人が研究 室に来ることを希望するだろうか。学生に対する私の本音を言ったから、みな恐れて私たちの研究室には来ないかも知れない。せっかく時間を使ったのだから、 ここに来たくなるように、もう一寸甘いことを言っても良かったかかなあとちょっぴり反省が頭をかすめる。
学生が来ても来なくてもともかく楊方偉は、オープンラボをやって研究室に学生をリクルートしようと発想して、さらにそれを実行まで持って行ったのだ。楊方偉は大した男である。彼は数年にやっと一人出会うかどうかの傑物ではないかと思う。
2007/09/04 14:16
アパートの鍵
私たちの住んでいるアパートは大学の敷地の中に建っている16階建てのビルで、築8年になる。元々中国では職住接近どころか、職住一体だった。大学でも敷地には 大学の施設のほか、職員の住宅は勿論のこと、製薬工場、食堂、共同浴場、薬局、宿泊施設(招待所)があった。これはどこの地域の職場でも同じだったはずだ けれど、経済発展とともにだんだん変わってきている。経済発展の一つの極にある上海では、今では勤めに出るのに2時間以上かかるというのも珍しくないとい う。
でも、ここは大学なので経済活動とあまり関係ない。おそらく昔からの形態を保っているだろう。教授の住宅は大学の西側に5階建ての建物が数棟建っていて、先生たちは当然この建物に無料か、安い家賃ではいることができた。大学を定年で辞めても給料は基本給だけとなるがそのまま保証される。さらにそれまでの住宅に住んでいられる。それで、だんだん教授の住居が足りなくなってその建物のすぐ北側に16階建てを建てたに違いない。
私たちは8階にいて、大きさは3LDKである。内法で測って約100平方米ある。私たち二人にとっては十分快適な空間である。電気、ガス、水道、そしてケーブルテレビ代金は個人持ちだが、家賃は取られない。
アパートのセキュリティに関しては、ビルの入り口には鍵の掛かるドアがあって、インターフォンがついている。作りは日本の昔の公団住宅並のエントランスだけれど、それよりもセキュリティはよほど進んでいる。
入り口を入るとエレベーターがあり、それに乗って8階に着くと、エレベーターホールから各戸への廊下につながる入り口にはまたドアがある。つまりここにも鍵が掛かっている。
そして我が家のアパートだけれど、ドアには鍵が二つある。一つは日本の場合と同じようなふつうの場所に付いているドアの鍵で、もう一つはドアの真ん中に鍵穴 が付いていて、これはドアの板を上下の框に二本の鉄棒で棒止めするものである。これで完璧にドアを固定している。はじめの普通のタイプの鍵を壊しても、あるいは蝶番を壊してもドアは絶対に開かない。完璧である。このような防犯のしっかりしたドアは日本から来ると初めての経験で感心するけれど、同時にそれは 中国は治安が良くないと言うことの裏返しだろう。
私が子供の時育ったのは東京都目黒区の都立大学駅(当時は府立高校前)のすぐ近くの平屋建てだったが、入り口の鍵なんて形式的なものだった。掛けてないと同様だった。伝統的な日本の生活スタイルでは、ふすまや障子で部屋を仕切り、これが閉まっていれば中で人の気配がしても、閉ざされた空間としてプライバシーは守られた。同じように、簡単な鍵でもこれで閉まっていますよと言う約束事だったわけだ。その頃はごく悪いやつが鍵を壊して忍び込んで泥棒をしただけだったし、悪いやつは多くなかった。
それが今はどうだろう。今の日本では昔よりも遙かに進んだシリンダー錠をつけていても普通の鍵ではピッキングで開ける泥棒が横行している。グローバル化のつけで、日本の文化が変わったのだ。
さて、中国の話である。その複雑なドアに二つある鍵だが、鍵は日本だと平たくて片側に(あるいは両側に)シリンダー錠を動かすための刻みがある。ここの鍵は 四稜体とでもいうといいのだろうか。断面が十字である。二本の鍵を直角に組み合わせみたいで、しかもその四辺の刻みが全部違う。厳重この上ない。
部屋の内側からは取っ手を回すことによりこれらの鍵が掛かる。一度私の具合が悪くて、妻が朝先に出たことがある。彼女が出るとき私はまだ寝ていたので勿論外から施錠した。日本なら当然内側から開くはずだ。
ところがそのあと起き出した私が外に出ようとしたらその取っ手が回らない、つまりドアが開かない。電話を掛けて妻がわざわざ大学から戻ってきて開けてくれるまで、閉じこめられていたわけだ。
これは逆も真だった。つまり、うちの中にいて鍵を掛けておくと、外からは鍵でドアが開かないことも経験した。私たちはどちらかが先にうちに帰ったときは内側から鍵を掛けてしまってはいけないことを覚えたわけだ。
というわけでドアの二つの 鍵は頑丈だが、内外は連動ぜず独立である。おそらく連動する鍵もあるだろう。まだ発展途上の鍵がうちのドアに付いているのだと思われる。なおこのドアには外側にドアハンドルがない。外から鍵を差し込んで解錠してその鍵をつかんでドアを開ける仕組みである。防犯にはよくよく気を遣っているといっていい。
アパートの入り口には鍵が付いていると書いたが、今まで暮らしていてその半分の期間は錠前が壊れている。これはドアク ローザーの性能が良くなくてドアが思いっきり強く閉まるのだ。ドッシャーン。この錠は各戸のインターフォンにつながっていて解錠できるようになっている。 つまり電子機器製品なのだ。べらぼうな衝撃に耐えて働いても大抵2ヶ月すると駄目になる。直るまでまた数ヶ月。直ると、この次は何時壊れるのかと期待に満 ちてドアを開け閉めすることになる。今はちょうど直ったところだ。さて何時まで持つだろうか。
2007/09/06 10:01
フレンチカンカン
大学は新学期を迎えた。9月1日は新入生の入学式で、その二日前くらいから若い、本当に子供みたいに見える新入生が、両親、兄弟、あるいはお祖父さん、お祖母さんたちと一緒に沢山の荷物と一緒に薬科大学の門をくぐった。大人は大きな荷物を引き、子供は大抵ぬいぐるみ一つだけを抱えている。一人っ子政策なのだなあと思う。
9月2日の日曜日からは校庭で新入生の軍事訓練が始まった。30-50人くらいの20のグループに分かれて、これも若い兵士から命令を受けて分列行進の練習をしている。
私たちは夏休みを早々に終えて8月8日から新学期を始めた。大学もいまは新学期になったことだし、4日の夜研究室全員を招いて近くのレストランで食事をした。湘香餐庁という湖南省の料理の店で、辛みの効いた料理だが美味しいし、手頃な値段なので割合よく利用している。湖南料理で特に気に入っているのは、酸菜焼というもので、漬け物にして酸っぱくなったインゲン豆と唐辛子を細かく刻んで豚の挽肉と炒めたものである。ここに来ると必ず注文をする。
今日は全部で15人。研究室の学生8人とセミナーに参加している学部最終学年3人のほかに、博士課程を終えたがまだ行き先のない王くんと学部を卒業した楊方偉くんが参加している。
7月に台北で開かれた学会に行って講演をした時に、「この研究をした王くんは今中国以外のところでポスドクの仕事を探しているけれど、どなたか心当たりあり ませんか?」と会場で聞いた。するとThe Johns Hopkins 大学の教授が声を掛けてくれた。初対面だったけれどこの若い教授と意気投合した。
炎症が起こると血流中の白血球が炎症部位にリクルートさ れる機構は20年 近く前に解明された。細胞表面にある特殊な構造の糖鎖が、相手の細胞の表面に発現するそれを見分けるタンパク質と特異的に反応するというものである。この ように認識の分子機構は分かったが、その先どうやって白血球が内皮細胞の間をすり抜けて炎症部位に到達するか、詳しいことは分かっていな い。まだまだやることがある。そしてこのような機構はガン細胞の転移の機構とも共通の所があり、研究のホットターゲットの一つなのだ。
先日彼の推薦書を書いて先 方に送ったところ、直ぐに受け入れたいという返事が来た。それで王くんも先方の教授にメイルを書いたら、電話で一寸話したいと書いてきたという、「何時電 話をするのが都合いいですか?」と。電話インタビューである。直接話すことで、本人の英語の実力の程度もわかり、人柄も分かる。大事なことだ。
一方で電話が掛かってくる ことになる王くんにしてみれば、大恐慌みたいである。それで私は直ぐに彼と話をして、鼓舞しつつ落ち着かせた。「貴方の英語なら大丈夫だよ。顔が見えない のだから、黙って居ると印象が悪くなるだけだから、自信を持ってともかく話すことが大事だよ。大丈夫,何時もやっているように話せばいいんだから。」と。
新年会の席上で、現在までの進行状況を皆に披露して「良かったね。」と彼にビール を注いだ。王くんは嬉しそうに、「これも先生たちの指導と今まで沢山助けて頂いたおかげです。」とニコニコしながらお礼を言っている。「おめでとう、カン パーイ。」「でもね、今度電話が掛かってきた時には助けられないから、ともかく平常心で頑張ってね。」とビールをまた注ぎ足した。
もう一人の卒業生の楊方偉くんは北大大学院の先生から受け入れOKという連絡があった。大学院の試験を受けていないのだが、先方は受け入れを決めたようだ。入学の基準がいろいろあるのは、国立大学が独立法人化した効果だろうか。無試験で入れるのは驚きだけれど、判定してそれでいいというのなら結構な話だ。先方か らは日本のビザを申請するために必要な書類に書き込むように言ってきている。
1時間半の食事のあと、私たちは近くのカラオケハウスに行った。日本のカラオケを知らないので比較できないが、綺麗なところだ。12平方米くらいの壁の三方に長いすがあって私たちは思い思いに座った。楊方偉が早速歌い出す。次いで皆それぞれが歌う。新人の趙鶴さんは「時の流れに身をまかせ」を歌い出し、私も途中から「だから お願い そばに置いてね いまは あな たしか 愛せない」「だから お願い そばに置いてね いまは あなたしか 見えないの」と二人で熱く見つめ合いながら唱和した。
陳陽は 蔡 依林の歌をスクリーンに出してそれに合わせて歌いつつ踊り出した。画面でもワンサカガールが踊り狂っている。すごーい。本格的だ。彼の長身が踊りに大変効 果的だ。左隣には楊方偉も飛び込んできて踊っている。ちっちゃくて丸っこい楊方偉の踊りは茶目っ気があって、これまた見ていてはちゃめちゃ面白い。私まで 飛び出して一緒に踊り出し、気づいたら何時かこの3人で見に出掛けたフレンチカンカンになって、脚を上げながら踊っていた。
2007/09/08 09:10
ムーランルージュに行く前に
天幻秀宮というレストランシアターでショウを観る券を3枚貰ったので、研究室の学生の楊方偉くんと陳陽くんを誘って出掛けた話はすでに書いた。この天幻秀宮 のショウは調べてみると二部に分かれている。夕方の5時から8時の第一部はディナーがセットされているDinner Showと書いてあった。森林先生から貰ったチケットは午後9時から12時までの第二部でDrink showとある。チケットには38元Drink showとあるので、ともかく食事は含まれていない。
ともかく9時に間に合うよう、この日は普段より遅めの夕食を途中で摂って行くことにした。普段は5時に学生食堂で夕食を食べる二人を7時過ぎまで待たせた上で、歩いて出掛けた。大体2ブロック 1.5 Kmくらい歩けばよい。途中に二つから三つ星のホテルがあり1階にはいろいろのレストランが入っている。手前のホテルの1階の窓には、ピザ、コーヒー、ス テー キと大きく書いてある。高そうで私はいままでの4年間は見て歩いているだけだった。薬科大学の日本語の先生たちと以前このあたりを歩いたときも、「高そう だね」というので見送ったところだ。でも、今日はパリに行ったも同然のショウを楽しめるのだから、豪遊してもいいだろう。
と言うわけで、大通りの向かいに私のひいきの蘇氏拉麺(一杯7元の牛肉細麺うどん。日本円にして約100円である)があるけれど、それを後ろに見てこのホテルの1階に入った。7時半というのが遅いのか早いのか知らないが、閑散としている。
内部は日本の普通の喫茶店のような造りで、いすはソファである。座るとおしりは沈み込み、おまけに照明は薄暗い。レストランと言うより、ムードを楽しむための場所のようだ。
メニューを見ると、コーヒー30元以上(500円にあたる)、ステーキメニューは180元(2500円になる)、ピザ9インチで50元(800円になる)だから、決して庶民の店ではない。メニューを繰っているうちに幕の内弁当的なところを見つけた。小さなランプステーキにご飯、サラダ、スープを付けて60元 (約1000円 にあたる)というのがあった。これだ。このくらいの大盤振る舞いは今日は仕方あるまい。連れの二人はベーコンステーキセットにした。陳陽はしきりに「高い ですねえ。でもステーキを食べるなんて初めてです。」という。楊方偉は「ぼくも西洋料理は初めてです。先生は日本では西洋料理を食べていますか。」と、答 えに困るようなことを訊いてくる。西洋料理ねえ。生まれたときから、和食と洋食とチャンポンだったし、自分が瀋陽のうちで作るのも、中華、 和食、洋食のどれと限定することなしに美味しい料理を作って食べている。
「アメリカの食事はどうでしたか」と訊かれて、シカゴ大学にいた とき夕食は大学病院のカフェテリアに行くと、ナイトシフトの医者(ドクター)はダブルオーダーで食べることを思い出した。つまり同じ値段でメインディッ シュは2倍貰えるのである。私も博士(ドクター)だから白衣を着てダブルオーダーでマッシュポテトと肉を他人の二倍食べていた。
やがて スープ、サラダが来て、ご飯も来た。そして私の小さなステーキが載った皿も来た。しばらく待ったけれどあとの二人の分が来ない。冷めちゃうので「お先に」 と二人に断って食べ始めた。話は続いていて「先生、アメリカでナンパしましたか?」と陳陽がきく。とんでもない、英語が話せず、胴長短足のぼくにそんなことが出来るわけがない。「じゃ、ナンパもされなかった?」
「陳陽が日本に行くときっとナンパされるよ。おばさんからモテモテなんじゃないかな。」と私。「おばさんじゃあ。」と陳陽は口をとんがらかす。陳陽は背が高くファッションセンス抜群だし、いわゆるイケメンである。いや、今で言う流行 のオトメンの方がぴったりかも知れない。きわめてマンガチックな端正な顔をしている。きっと金持ちのおばさんたちにもてるに違いない。
やがて楊方偉にステーキの皿が来たのは、私が食べ始めて15分くらいあとだった。同じものを頼んだのだから陳陽にも直ぐ来るだろう、と楊方偉も食べ始めた。でも陳陽のところにはまだ来ない。こちらはゆっくり食べているのにまだまだ来ない。こちらが食べ終わってしまうどころか、ショウの開演にも遅れてしまう。
ウエイトレスに催促しても、もう直ぐですと言うだけだ。やっと陳陽にステーキが来たのは私がもう全部食べ終えて、9時まであと20分あるかどうかと言うときだった。私はその皿を持ってきたウエイトレスに、「どうして遅かったのか。こんなに遅れて持ってくると、私たち三人が一緒に食事を楽しむことが出来なかったじゃないか。ご免なさいと謝って済むことではないですよ。店の責任はどうするつもりですか?謝まる気持ちがあるなら彼の分の勘定をせめて半分に負けなさい。」と言った。陳陽が中国語にして話している。
ウエイトレスではらちが明 かず、しっかりした顔つきの女性服務員が出てきた。どうして遅かったのかを訊くと、「今コックが一人きりしかいないので順番に作っていたからです。」とい う。呆れてしまう。私一人だって三人分のステーキを一度に作る面倒は見られる。理由にならない。ともかく私たちの楽しい気分はおかげで吹っ飛んでしまった のだから、料理の勘定を負けなさいと要求した。「わかりまし た。でも15パーセント引きで勘弁して下さい」という。こちらの要求は値切られたけれど、この女性は神妙な顔をして、しかも頭を下げて謝っているのだ。
中国で非を認めて謝るとい うのは私の経験では珍しい。しかも値引きをしたのだ。おまけに陳陽によれば「中国ではこういうときお客は黙って我慢するもの」なのだそうだ。これ以上言っ てはいけない。こちらは要求が一部入れられたことで感謝し、先方はまた申し訳ないことをしたといった風に頭を下げた。
陳陽がゆっくり食べている とショウの開演時間に間に合わない。うんとせかして店をでた。陳陽はサラダを半分食べ残してしまった。「とても美味しかったので心残りですよ。残してしま うのは。」とぼやいている。ステーキを待っている間に食べていれば良かったのに、自分が「イケメン、オトメン」で、日本で「もてるかな」なんてことに心が 奪われて、食べなかったのが悪いのだ。
2007/09/11 12:01
鮭とばと森領事
5月に任期を終えて帰国した森領事が大学の私たちの研究室に訪ねてこられた。彼は大きな身体なので形容がぴったりこないかも知れないが、彼が小一時間部屋にいて帰ったあとは、さわやかな風が吹き抜けていったといった感じである。
私たちは教師の会で3年間お世話になる間に彼の人となりをよく知って、彼に惚れ込んだ。森領事は教師の会も総領事館の文化交流事業の一環と言うことで、領事館を代表して教師の会の毎月の定例会に参加してくれた。
昨年春、日本語資料室が家 主の都合で閉鎖されてしまい、行き先を探した時には率先して心当たりを探し、先方との交渉に当たって下さった。何しろバックが日本国総領事館である。森領 事が交渉に出てくれることは大きな強みである。このように毎月会うだけではなく、昨年のうちに日本語資料室の移転が何と二度もあった ので、私たち教師の会の面々は皆が森領事ととても親しくなった。
彼は総領事館で昨年開かれた日本語文化祭の時の写真を撮影していた。それをホームページに載せたいとお願いしておいたのを、ちょうど瀋陽に用事があるので届けようと言うことだった。森領事から事前に連絡を受けて教師の会では歓 迎会をしようとお膳立てをした。しかし、出発直前のためか連絡が届いていなくて、待ち合わせの時間に彼は現れず、私たち14名は主賓抜きで食事をしたのだったが、この顛末は「瀋陽だより」に既に書いた。
「これが昨年の文化祭の写真です」といってCDを受けとってから、今年の文化祭の話になった。森領事はノーズメディアのビルを借りるところから始まって、帰国直前までその開催準備に関わっていた。
5月16日に開かれた今年の文化祭は大成功だった。準備に奔走した教師会の先生たちの準備、参加した学生たちの熱意、ノースメディアビルの裏方たちの努力、熱心な観客など、沢山の成功の原因があるだろうが、私はまずこのノーズメディアのビルを借りたことが成功の一番の大きな要因だろうと思う。元々日本語学ぶ学生のお祭りとして遼寧大学で企画されたものだったが、ここは管理社会なので学内外の交流が自由ではない。2005年 に領事館で開催されたときも、領事館の敷地の中に入るわけだから、参加の学生は(勿論教師も)事前に総領事館に名前を届けておいて、入るときは身分証を 持って(教師はパスポートを持って)領事館の外で一旦待ち合わせてから一斉に入場するといった具合なので、出入りの自由がない。
だからノースメディアで開 かれた日本語文化祭は、会場は広いし、施設はいいし、裏方の手助けは万全だし、出入りが自由だし、学生にも、教師にも、観客にも大好評だった。会場を借り たのはこの行事の主催者の総領事館だった。あれだけの会場を借りたら大金がかかるだろうけれど、ノースメディアビルができたお披露目と言うこともあり、森 領事の功績かどうかは知らないが、どうもただ同然だったようだ。
今回の瀋陽旅行は夏休みと有給休暇を合わせて「純然たる私用の遊びのつもりだった」そうだ が、いよいよ来るとなると「いろいろ仕事ができてしまいましてね」といって、「これおみやげ代わりなのですが」と言って、「鮭とば」を手提げから取り出し た。というのは、いま港湾局にいて、港湾局は港の設計、管理、船の運航を管理しているだけではなく、今は港湾の利用にも関わっていて、つまり日本から中国 への輸出振興にも大いに関心があるのだという。それで、船が中国との間を行き来する際に、函館港から送り出せるものがあるどうかと言うことで、どんな食品が輸出できるかを調べるのを今回は引き受けたらしい。
一つが今の「鮭とば」で、後二つは「イカの薫製」と「鱈の薫製」だそうだ。見本を実際に中国人に食べて貰って評判を聞くのだという。
鮭とばを食べて、5段階評価で、最高にうまい、おいしい、まあまあ、それほどでもない、まずい、のどれかに印を付け、さらに、この「鮭とば」200グラム入りのパックに、いくら出せますかという質問がある。ちょうど部屋に入ってきた陳陽に、鮭とばをナイフで切って食べさせてみた。
彼は内陸育ちなので鮭になじみがない。だから「特に美味しいとは思わない」が、いくら出すかというと70元くらいしても良いでしょうという。これはかなり高い。私が中国人の身になってみると35〜40元が精々である。それ以上だと出せない。森領事によると評判の良かったのはイカの薫製だったそうだが、これは実際大連では土産物として沢山売り出されているので、あの一帯を中心になじみの味なのだ。
以前牛肉の干物と唐辛子の 炒め物を食べたことがある、めちゃくちゃ辛くて美味しかったが、同じように、鮭とばと唐辛子で新しい料理が作れないものだろうか。鮭の生臭みが消えて絶対 美味しいと思うが、陳陽に言わせると、牛肉の干物と唐辛子の炒め物はビーフジャーキーを使うのではなく、生肉から調理するのだという。そんな面倒なことと は思いもしなかったが、中国料理ならありかも知れない。
とすると干した鮭の「鮭とば」から出発しては駄目なことになるが、せっかく思いついたのだからその内やってみよう、次回の森領事の歓迎の時に是非メニューに加えようなどと考えたりしているうちに時間が来てしまい、再会を約して森領事を見送った。
台北で至福の時間
台北で至福の時間(2)
日本にいる留学生たちの集まり
入国審査でシステム障害
福岡の学会に出て
機関誌の発行を止めるって?
ビジネスチャンス
新疆ウイグル自治区に旅行?
オープンラボをやった
西域旅行計画
アパートの鍵
フレンチカンカン
ムーランルージュに行く前に
鮭とばと森領事