2月9日に日本人会幹事会が開かれたが私は出席できなかったので、池本先生に代わりに出ていただくよう、池本先生と幹事会の双方から了解を取った。
2月11日には池本先生から幹事会の話しについて、教師会の役員にメイルで報告があった。
幹事会の前に世古会長は「幹事会は人数も多いし、もし、反対意見が出て混乱したら、教師会の代表で来ている方が、教師会と日本人会の板ばさみになるかもしれないから、教師の会の申し入れを今回は議題にはしない」と池本先生に言われたとのことである。大人としての暖かな思いやりが感じられる。
4月に始まる新年度の日本人会事業計画では、新規活動案の1つに「社会貢献事業・生活インフラ向上事業への支援(日本語資料室等)」という1文が入っていて、もちろん、まだ日本語資料室への支援が決まったわけでないけれど、次年度には資料室についても考える可能性が盛り込まれている。
さらに「3月に入って、日本人会幹事会の一部のメンバーと教師会の代表が集まって、話し合いの場を設ける」ということを世古会長は提案されて、それが承認されたと言うことである。
2月28日付けで世古会長から、3月10日の午後6時から日本人会幹事会三役会議をする予定なので、その前の4時に、教師会の代表メンバ-と日本語資料室で会って話しをしたいという申し入れがあった。
(山形達也)
2007年3月10日 (金)
3月の定例会
今年の春節が2月18日という遅い日だったので、2007年の新学期は薬科大学では3月5日に始まった。東北育才学校では1週間早かったらしいが、おおかた は今週が始業だったようだ。しかし3月4日に1951年以来という吹雪を伴う大雪が瀋陽に降って、月曜日は市内の学校は公式に閉鎖されてしまった。空港も 48時間閉鎖されて、日曜日に日本から戻るつもりの先生方は飛行機の欠航のために、早くて火曜日になってやっと瀋陽に到着した。同じように、月曜始業のつもりでぎりぎりに故郷から帰ってきた学生は汽車が途中で止まってしまい、早くて火曜日、遅くて木曜日に瀋陽に戻ってきた学生もあるという話しなので、今年 の新学期は学校によっては、全員が揃うのに時間が掛かっただろう。
ともかく、新学期の教師の会の定例会は3月 10日土曜日だった。この集智ビルの日本語資料室で定例会が開かれるのは今回が初めてである。秋は資料室がなくて、ずっと領事館の一室を借りて開かれてい た教師会である。やっと、12月に新しいところが見つかって12月9日に引っ越したので新しい場所で開催が出来た。昨年9月まで借りていた開元ビルの 150平方米はもちろん、昨年4月までいた小北関街の一室よりも狭い所である。
いつもは2時から始まるのだが、今回に限って1時開催だった。というのは、日本人会の幹事会の三役の方たちが、この日の4時に教師の会の役員と会談を持ちたいと申し入れてこられたので、教師の会の開催時間を繰り上げるより他なかったのだった。
1時からの繰り上げ開催ですよという知らせは木曜日の夜になって会長から届いたけれど、10日の1時には総出席者26人のうち何と24人が揃っていたのだった。瀋陽在住の教師の人たちにとって教師の会が大切な存在になっていることを意味していよう。
出席
森信幸、安部玲子、池本千恵、石原南盛、宇野浩司、岡沢成俊、片山皚、加藤正宏、加藤文子、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄、中田知子、中野亜紀子、鳴海佳恵、野崎勉、藤平徳雄、松下宏、南本卓郎、峰村洋、森林久枝、山形達也、山田高志郎、渡辺京子、渡辺文江
欠席
石井みどり、河面弥吉郎、南本みどり、若松章子
瀋陽に不在
坂本豊、林与志男、林八重子、山形貞子
4月22日に予定されている弁論大会の準備が一番大事な通達事項だったが、教師の会としては、日本人会との関係が最大の関心を持って討議された。
これは、日本語資料室が12月から集智ビルに部屋を借りたことに伴って、部屋の管理費約3100元と、光熱費900元をあわせて4000元という出費が増え たことによる。昨年4月までいた小北関街の一室は日本企業の借りていたビルの一部で、関西NPOのご好意により、部屋代、管理費、光熱費は全てその関西 NPOが負担してくれた。5月から移った開元ビルは、オ−ナ−の好意で提供されたもので、部屋代は無料だった。教師の会は、部屋を維持するのに当たってい ま初めて年間4千元の出費を工面するという問題に直面したのである。
私(山形達也)は教師の会と日本人会との 橋渡しをしているが、正確に言うと日本人会幹事会のオブザ−バとして幹事会に参加している連絡係という立場である。これは2005年秋にその時の代表だっ た多田先生が都合で出られないというので代わりに出席するように頼まれ、その後多田先生が南に移転されて2007年3月に南本先生が新たに代表になったと きに、教師の会の正式な決定で幹事会に派遣される連絡係となっている。私はそれ以来幹事会で教師の会の立場をのべ、要望やお願いを述べてきたが、12月の 日本人会幹事会の席上では、教師の会にとって予想外のこの出費の出所を日本人会に求める発言をしたのだった。
12月の教師の会では、教師の会として日本人会にお願いするという形で意見が纏まっていたけれど、会員一人一人が、この事態をどのように考えているかの充分な 話し合いはなかった。それで、午後4時からの日本人会との会談に先立って、会員が今後の4千元という出費にどのように対処したら良いと考えているかを話し 合った。
日 本人会に出費を負担して貰えばきっと見返りに何か要求されるだろうが、今以上に何が出来るだろう か。それくらいなら、自分たちで会費を値上げしてもやっていこう。と言う意見もあれば、この資料室を拠点に書籍を貸し出して、日本語の普及を図っているこ とこそ、日中友好の地域貢献の社会活動そのものだから、この意義を日本人会に理解して貰って堂々と支援を受けたらいいじゃないかと言う意見もある。日本人 会に支援を受けられるなら言うことはないが、受けられないなら、会費が上がっても自分はいいですよと言う意見もある。
ともかく会員の意見を聞いたことで会員諸氏の後押しを得て、私たちは日本人会の幹部諸氏との会談に臨むことになった。
(山形達也)
2007年4月22日 (日)
第11回瀋陽日本語弁論大会 その一
高校の国語の教科書で読んだ「読書は経験を予想する」という言葉は高名な人の言葉のようだが、それが誰だったのかいまは覚えていない。たとえば小説を読んで、出てくるシーンに書かれていることは、読者にその経験があってこそよく理解できる、というものだろう。
これは読書に限らない。物事にぶつかったときにどのようにそれを受け止めるかは、その人の経験に懸かっている。今日の第11回瀋陽日本語弁論大会に出て学生の日本語のスピーチを聴いた人は、これを初めて聴いたか二度目なのか、聴いた人が中国の学生なのか日本人なのか、日本人でも、日本語の教師なのか、大会の 主催者の日本人会の側の人なのか、そうでないかなどの様々の立場に分けられるが、それぞれに受けた印象が違うだろう。
だから人によって評価は違うだろうが、あえて一言で総括すると、日本語のスピーチをする学生の日本語のレベル、話し方、内容は実に見事なものであり、大会運営も大成功だった。
第11回瀋陽日本語弁論大会は五つ星ホテルの一つである州際飯店で開かれた。日本語を専攻する大学生(大学一部15名)、それ以外の大学生(大学二部15名)、高校生の部(8名)の3部に分かれて日本語スピーチを競った。
審査はそれぞれ6名の審査員により行われ、大会の最後に入選、入賞の発表があって表彰が午後5時半から行われたが、それに先だって審査員を務めた日本人会会長・伊藤忠商事(株)瀋陽事務所の高木純夫所長から講評があった。
この講評の中で印象に残ったのは、今日の弁論大会でスピーチをした学生に、「それぞれ話し方も内容も素晴らしかった。君たちの努力と成果には感銘を受けたし、それを指導した先生方の努力にも大いに感服した。さらに言うならば、この先三つのことを念頭に置いて日本語と自分にもっと磨きをかけて、中国のため、 日中友好のため、そして自分自身のために研鑽に励んでほしい」という言葉だった。
その第一は、日本語には日本語の語調という特徴があるので、それを覚えてほしい。英語の強弱のアクセントおよびイントネーションの感じを取り入れたり、中国語の四声や抑揚を日本語の話し方に持ち込むと、それは日本語としては正当な話し方ではなくなる。アメリカ大統領ブッシュの英語を話してみせて「この語調で日本語を話すとやはり違うでしょう?」と言う実演もして見せた。「日本語の語調は英語とも中国語とも違うことを知って、少しでも日本語の語調をマスターするように努力すると、それは料理の最後の一振りの味の素みたいなもので日本語が格段によくなるのですよ。」
第二には、「言うまでもなく 言葉は最終的な目的ではなく手段なのだから、日本語が話せるようになったら、話すことがあるよう自分の教養を高めることが必要ですし、それを使って将来どうしようかという目標を高く持って欲しい。」自由に使えるようになった日本語を仲立ちにして日本人との付き合いに、そして国と国の理解に「どのように貢献 できるか、どのようにしたら役立つかをよく考えて自らを高めて欲しいのです。」
第三に、日本語には多くの外来 語、特に英語がグローバリゼイション、言語思考の共通化というボーダレスな波に乗って取り込まれている。これらの外来語は日本語的な発音のカタカナとなって使われているので、カタカナで外来語に出合っても英語を知らないと意味がまるきり分からない。「だから日本語だけではなく、英語もどうか一生懸命勉強し て覚えて下さい。これも日本語の上達には必要なことです。」
高木所長は演説ではなしに目の前の学生たちに平易 な言葉で語りかけ、日本語を学習している学生にさらにモチベーションを与えることに成功したと思う。彼らが習得した日本語をさらに向上させ、日本人と接して日本人と個人的にも友人となり、日本を理解し、そして両国の真の友好の礎となることを期待してやまない。
(山形達也)
2007年4月23日 (月)
第11回瀋陽日本語弁論大会 その二
第11回日本語弁論大会は主催者の日本人会が資金を出し、瀋陽市人民政府府の承認を取り付けて、会場と交渉した。協力の瀋陽日本人教師の会は実行委員会を作って半年前の前年の11月から計画を練り、12月には各学校に通知を出し、2月には弁論大会の詳細を知らせ、3月には応募作品を集め、3月終わりにはそ れらの審査をして4月22日に州際飯店で開かれる最終審査(壇上での発表)に臨む38作品を選んだ。日本人教師の会はさらに最終選考会当日の運行すべての 責任を負った。
私は今回は大学一部、高校生の部、表彰式の司会役だった。初めて弁論大会に臨んだ2004年の 第8回のときも司会、2005年は急遽中止となって、2006年の第10回の時も司会だった。司会というと目立つので大変な役だと思われるが、実際は原稿が実行委員会の手により作られているので、発表者の順番や読み違えたりしないよう気を遣うけれど、さほど大変ではないと思われる。弁論大会には当然審査員がいるわけで、司会としては審査に影響を与えてはいけないから、自分の思うことは一切述べられない。司会をやるなら「欣ドコ」の欣ちゃんみたいその場を仕 切って喋りまくりたいところだが、それは禁じられている。実行委員の作った原稿通り粛々と読み進めなくてはならない。
ところが人生が思ったように進まないのと同じように、弁論大会も台本通りには進まなかった。
司会者原稿では、9時に司会が開会を宣言すると最初に主催者を代表して瀋陽日本人会長の挨拶が予定されていた。主催者の挨拶なので、話しが終わっても司会は「ありがとうございました」とは言いませんよと、一番前に座っている高木会長に言うと、「え、最初に私の話があるんですか、終わりにもあるので初めのはないと聞いたけれど」というのである。あわてて実行委員に聞くと「当然挨拶が予定されている」という。話がどこでどうなったのか知らないが、後10分で大会 が始まるという時になって高木さんは挨拶をすることを知ったわけだ。
開会5分間になって、開会の時の来賓として挨拶が予定されていた在瀋陽日本国総領事が遅れるらしい。10分、いや20分遅れそうだという情報が入った。開始予定時刻の9時5分前のことである。急遽集まって、と言っても高木会長、森領事のほか誰がそこにいて一緒に相談したのか、今となっては思い出せないくらいだから、だいぶ私も慌てていたと思う。それでは会の開始を総領事の到着に合わせて延ばすか、いや、時間通り始めて、時間に未着ならそこは跳ばすしかない、それなら、森文化担当領事が代わりに挨拶をするかを急遽話し合った。森領事は総領事が後で来られるなら絶対代理で話すことは出来ないともっともなことを言われるので、二者択一の中で、大会は時間通り始めて、もし総領事が挨拶時に未着ならそこは跳ばすと決めた。開始1分前。総領事は来られないことになって、必然的に森領事が代わりの講演をすることが決まった。
9時の時間通りに、第11回瀋陽日本語弁論大会を司会の言葉で開会した。最初は主催者を代表して高木会長の挨拶である。「急に挨拶をすることになって、学生の即席スピーチ並みの5分間で話を用意することになりました。」と言って皆を笑わせての挨拶だった。引き続き来賓として森領事も、「総領事がやむなく急に来られないことになって、急遽私が挨拶をすることになり、私も5分の猶予しかもらえない即席スピーチです」と言って皆を笑わせた。
この後瀋陽市人民政府外事弁公室の郭副主任の挨拶があり、それは同じく外事弁公室の閻副主任によって見事な日本語に翻訳された。これを思うと、「即席スピーチ」では難しいけれど、この次は日本語の挨拶は中国語にも訳して話した方がよいのではないだろうか。
挨拶と来賓紹介が済んだ後、一部の来賓が退場し、会場の一番前の机が審査員席に模様替えになった。これに3分くらいの時間がかかり、おそらくこれは予定していないハプニングだったろう。
想定外のハプニングというと、午後の大学生二部の時だった。発表が15人いるので審査結果の集計を8名の後で行うために審査用紙の回収が行われる。そのためのちょっとの中断の後、また次の学生が壇上で話を始めた。小学校の時彼女の同級生が盗みの疑いを受けてとうとう自殺したという話だった。話は佳境だった。突然この部の司会が叫んだ。「突然のことで申し訳ありませんが、審査員が席に戻っていません。ここで止めて、また再度初めから始めて下さい。」なんと、ほんの一寸の間を利用して審査員二人が席を外していたのだった。
このほか、二部の審査員の所属大学を間違えていた、最後に入賞者の名前を読み違えた、アトラクションの時に下げた演台を講評のときに戻すのを忘れたなど、いくつかの小さな不備があったけれど、総合的にみれば満足のいく大会だった。
(山形達也)
2007年5月12日 (土)
5月の定例会 その一
文字通り風薫る5月12日土曜日、好天に恵まれた5月の定例会は青年大街と文化路の交差点の南200mに29階建てで聳える新築のNorth Media Buildingの4階会議室で開かれた。これは5月末に開かれる予定の在瀋陽日本国総領事館主催のジャパンウィークがこのビルを借りて開かれることに なっていて、教師会ではこの日の定例会のあと会員の野崎氏が講演を行うことになっているので、それならばよい会場が必要だろうと言って、森領事が私たちの ために借りて下さったものである。
定 例会の始まる前にビルの見学会があり、4階の一部には約300人が入る平土間の会場があった。ステージも広い。これがジャパンウィークの時の『日本語文化 祭』会場になるもので、メディアビルの名に恥じず、ビデオ収録のための照明、音響施設が万全のように見受けられた。昨年度までの日本語文化祭は総領事館内 の施設で行われたので、出場者、参加者は事前登録と当日のチェックがあり、決してオープンな催しとは言えなかった。人々の出入りが自由なら、今年の日本語 文化祭はきっと賑やかなものになるだろう。
た だし、私が1時半頃このビルに来ると、外には身分証を付けた女性 二人がいて中に入る人をチェックしている。つまり用事がないと入れない。回転ドアの中に入っても屈強な男性3人がいて、同じように用向きをチェックしてい る。私はたまたま一寸先にビルに入った田中先生を見掛けていたので、彼の後ろ姿を指さして『一緒ですよ』といったら、それだけで中に入ることが出来た。 ジャパンウィークの時は、一般の入場者をどうするのだろうか。4階で開かれるジャパンウィークに出たいと言うだけで、入れて貰えるのだろうか。
4階の私たちの定例会の開かれる会議室は、120平 方米くらいの広さで会議でも、講演会でも使える。スクリーンと講演者の机を中心に放射状かつ階段状に机が 設けられていて、約40人の席があった。机には二人に一つのマイクロフォンが設置してある。マイクの下のスイッチを押すと赤いランプが付いてこのマイクが 生きる。となりにもう一つランプが付いていて、こちらには招請と書いてある。これは議長が『あなたに発言をお願い』とでも言って手元で操作してマイクをア ライブにするのだろうか。
ともかく教師の会の5月の定例会でこの豪華な会議室を使えるのは、森領事とNorth Media側のご好意のおかげである。
この日の出席:菊田悦二領事
安 部玲子、池本千恵、石井みどり、石原南盛、宇野浩司、岡沢成俊、片山 皚、加藤正宏、加藤文子、河面弥吉郎、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄、 中田知子、中野亜紀子、鳴海佳恵、野崎勉、林与志男、藤平徳雄、前田節子、松下宏、南本卓郎、峰村洋、森林久枝、山形達也、山田高志郎、若松章子、渡辺京 子、渡辺文江、小柴裕子(新入会)、長谷川宗武(新入会)
合計33名の出席
欠席:林八重子、南本みどり(在日本)
山形貞子(この日3時半に瀋陽空港に戻ってきて、食事会にのみ参加)
このほか、読売新聞瀋陽支局長・末続氏が傍聴。
1.南本会長から資料室係への要望
『先般の教師会で説明したように「瀋陽日本語文化センター」等へ名前を変えること等も含めて「日本語資料室の今後の展望」について資料室係と教師の会役員の間でご検討いただきたい。
そして、出来れば6月の定例教師会に「改訂版、日本語資料室の今後の展望」と「年間計画」的なものを出していただき、皆さんの了承が得られたら瀋陽日本人会へ提出したいと思うので、よろしく。』
2.日本語弁論大会の反省
すでに鳴海実行委員長のもとにそれぞれから今回の大会の反省が集まっていて、それが要約されて発表された。これは来年度の実行委員に渡されて再度検討される。
そのほかに、すでに日本人会側からの改革案として以下の提案が出されている。
○ 最後の御礼の挨拶は日本人会代表者が行うのが筋だろうし、講評は日本人会メンバーよりは教師の会の方が行うのが筋ではないだろうか?
○ 即席スピーチは与えられるテーマの運不運もあるので、例えば即席スピーチをやめ、舞台でパネルディスカッションを行わせるのはどうだろうか?あるいは、テーマを絞って、おなじテーマを話させると違いが出るだろう。
○ せっかく日本人会がスポンサーなのだからアトラクションをやめ、例えば約1時間ほどを法人企業の会社説明会にあてることもできるだろう。
○ 終了後にビユッフェスタイルで、たとえば上位入者の学生との交流会を行うのはどうだろう。
(山形達也)
2007年5月13日 (日)
5月の定例会 その二
3.日本語文化祭
日本語文化祭は元々が遼寧大学で毎年一度開かれていた日本語学習効果の発表会だった。10年前までさかのぼると聞いている。それが年々発展して瀋陽のほかの日本語学習校からも参加して、劇、踊り、歌などを発表するお祭りとなっていた。
しかし、反日デモの高まった2005年に遼寧大学の日本語文化祭は中止に追い込まれた。さらに弁論大会も中止され、その代わりに総領事館でジャパンウィークの中の一日として弁論大会最終選考会出場者が作文の口演をした。
そ の年の夏にそれまでの中心だった遼寧大学の石井康男先生が寧波へ転任されたこともあって、日本語文化祭はもう遼寧大学で行われることはなくなってしまっ た。そのかわり2006年5月には在瀋陽日本国総領事館主催のジャパンウィークの催し物の一つとして開かれた。瀋陽から8校、遼陽から1校の9校の参加 だった。このときの準備期間は10日間しかなく、それを仕切った岡沢先生と石井みどり先生の努力と貢献の活躍ぶりは、未だに皆の語りぐさになっている。
在瀋陽日本国総領事館主催の今年のジャパンウィークは長春で開かれると言うことである。じゃ、日本語文化祭は?ということになる。その日本語文化祭はやはり 在瀋陽日本国総領事館が主催して瀋陽で今年も開くという。5月26日土曜日にNorth Media Buildingが予約してある。つまり日本語文化祭は在瀋陽日本国総領事館主催の催し物として定着したのだ。実際には日本人教師のいる学校が動かないと 出来ないので、日本人教師の会は協賛というかたちになっているという。それで教師の会は手回し良く、すでに日本語文化祭担当委員を決めて用意をしてあっ た。今年度の委員長は9月から新着の田中先生である。
田中先生によれば、今年も昨年と同じく、東北育才学校、東北大学、遼寧大学、瀋陽薬科大学、瀋陽大学、瀋陽師範大学、中国医科大学、遼寧航空学院、遼寧大学 外国語学院、の9校の参加だそうである。午後1時から5時までの4時間なので、1校あたりの持ち時間は約25分。約300人が会場には入れるので1校あた りの出場者は40名、とアナウンスされた。
今回は昨年までの総領事館とは違って出入りが自由なので、各校からの参加者に40名という上限を設けなくてもいいのではないかという質問があった。田中先生の返事は『立ち見が出てもいいですから、大丈夫ですよ。薬科大学は90名ですね。』
『消防法で立ち見の数の制限があるのではないですか?』という質問に、田中先生は『大丈夫ですよ』。このメディアビルに誰でもどんどん入れるのですか。田中先生は、これにも『大丈夫ですよ』。。
4.旅行
昨年の初めての玉見学のバス旅行が楽しかったので、今年もまた行きましょうと言うことになって、行き先は朝陽の化石と決まった。峰村先生が係を務めて旅行社 と私たちの間に立って折衝を重ねておられる。6月9-10日の土日。今のところ参加希望者は26名という。昨年の旅行の立役者で、夏に帰国された中道先生 ご夫妻も、このためにわざわざいらっしゃるとのことである。
今年度初めての、そして最後の瀋陽フィールドワーク『瀋陽歴史探訪』が6月17日(日)午前10時-午後1時に計画されている。講師は何時もの薬科大学加藤先生。この催しは教師の会の主催だが、日本人会にも呼びかけることになっている。その場合は共催か、後援か、協賛か。
5.教師会主催第2回セミナー
題:「共生循環型社会を目指して」
演者:野崎勉氏(東北大学)
4時15分から1時間、同じ会議室で研究セミナーが開かれた。
教師の会の33名のほか、日本人会からの参加者、東北大学、メディアビルからの参加者約30名近くが集まって、合計約60名の聴衆で会場は一杯だった。
内容要約
『二十世紀は人類がかつて経験したことのない変革の世紀であり、科学技術が急速に発達し、それが人類に与えた恩恵は測り知れないものがある一方、これは科学技術とは無縁の人類以外の生物にとっては、最悪の受難の時代でもあります。
粗大ゴミで代表される大量消費時代の中で、地球温暖化、オゾン層の破壊、水質汚染、酸性雨など、環境問題は地球全体の問題として考えなければならないとき が来ています。科学技術はそれを享受する人々の総意によって発展してきました。地球環境に優しい技術も、また、人類の総意によって生み出されねばなりませ ん。先進国はこれまでは地球に厳しい国であり、発展途上国は今までは地球に優しかった国なのです。
私たちの生活の中でも、日々多くの資源とエネルギーを消費しています。この美しいかけがえのない地球を守るには、一人ひとりのこころがけが必要です。少しでも地球へのいたわりを考える一助となるよう、地球温暖化と沙漠化についてお話します。』
6.終了後近くの新洪記で食事、23名参加。一人30元。
(山形達也)
2007年5月26日 (土)
第3回日本語文化祭
日本語文化祭を見に行って帰ってきたところである。地元の情報誌コンシェルジェのために写真を撮るよう頼まれたので、今日は大きな顔をして一等席に陣取った。ステージに向かって第1列の、通路を挟んで右隣が菊田領事で私は左という最高のかぶりつきの席に座って4時間、歌と踊りと劇を楽しんだ。スピーカーも近いので音も大きく、今でも頭の中で、『夢のしずく』が、『未来』が、『世界の約束』が、リフレインしている。『太陽の一日』のダンスが、『ロックソーラン』の踊りが目に浮かぶ。奇想天外な仕掛けを作った『小林ピンポン』の黒子で動かされる舞台転換が脳裏によみがえる。『蛙の王子』の達者な台詞と凝った演出を思い出して改めて感心する。日本語を習ってよかったと喜び、心の底から楽しんでいる学生たちののびやかな声と笑顔にどっぷり浸かって、私も心から楽しんだ午後だった。
空の隅々まで晴れ渡った5月26日の土曜日の午後、第3回日本語文化祭が開かれた。遼寧大学で開かれていた時代の文化祭を数えると何回目になるのだろうか(遼寧大学の2005年に予定されていた日本語文化祭は反日デモのあおりで中止された後企画が消えた)。開催母体が日本国総領事館の主催となって開かれた2005年の文化祭を新生第1回と数えると、第3回となる。
会場は青年大街と文化路の交差点東南側に建っている新築29階建てのノースメディアビルの4階ホールだった。昨年までは総領事館の敷地内の別館で開催され、それはそれでとても立派なところだったが出入りが自由でなかったので、出演者も参加者も今回は遙かにのびのびと楽しんだようである。
最後に総括した南本会長によれば、
第1回の参加は7校で、演目が15。
第2回の参加は9校で、演目は17。
今回の参加は10校で、演目は31という具合に、飛躍的な発展と充実だった。
参加した教師会のメンバーは口々に今回の文化祭は大成功だったと言っていた。私は文化祭を初めて観に行ったが、出演する学生たちの輝きに目を奪われ、彼らの 習得した日本語を使って自分たちを演出している喜びに心を奪われた。日本語文化祭の試みは完全に成功したと言っていいだろう。
これは第一に、何よりも会場が圧倒的によかったことがある。約300のいすが用意してある会場の正面には大きなステージがありステージ環境がよいだけでなく、ノースメディアが受付も用意し、照明、音響、ビデオ、マイク係などのスタッフ(合計20名)が総出で演目の進行を助けて呉れたことが大きい。ノースメディア側の十全な協力が第一の成功要因である。
したがってこの会場を借りて文化祭を主催した総領事館の判断 は、称賛すべきもので、これが第二の成功要因である。実際に学生を出演させた日本語教師の作っている教師会は、共催者としてなくてはならぬ存在ではあるけれど、教師の会は総領事館とノースメディアに今回の成功のお膳立てに心から感謝の意を表明している(最後の南本会長の挨拶はこのように締めくくられてい た)。
第三に挙げたいのは準備に当たった文化祭実行委員(勿論教師会)の準備の良さである。出演者が10校 の、しかもクラスを考えればもっと多い単位になる出演者による31も の演目を何一つの滞りもなく進めることができたのは、事前の準備に当たった田中、渡辺 (京子)、藤平、石井先生の委員会の功績であろう。発表を劇や合唱などのジャンルごとで分けていた最初のプログラムにそれでは面白くないと文句が出て、組 み替えられた最終プログラムの送付が前日だったことを考えると、ますますその感を強くする。瀋陽に赴任して初めて文化祭の開催を担当した田中、藤平両先生 には特にお疲れ様でしたとその労に感謝したい。
勿論、歌、踊り、劇の発表に参加できる嬉しさで弾む心を通奏低 音として、真剣さ、ひたむきさと熱意をもって演じられた内容こそが、この文化祭の成功の最大原因であったことは言うまでもない。全体で、独唱が4曲、合唱 20曲,器楽3,エアロビックスなどのダンスが7曲、劇が5つあった。どれも楽しかった。どの出演者も輝いていて、4時間の熱演に堪能した。
遼 寧大学主催の時代の文化祭を知らないが、それが形を変えて総領事館主催の文化祭となって良かったに違いない。しかも、世の中の空気が変わってきた。昨年は 領事館の敷地内で開催され外部からのアクセスが自由ではないので外の会場を借りて出来ないかという意見が多かった。しかし日本人の団体が瀋陽市内に場所を 借りて、不特定多数が参加する集会を開くなんてとても考えられないのが一年前だったのだ。それが、今はこうやって街の中の普通の施設を借りて文化祭が開か れた。ご尽力頂いた森領事に改めて感謝する次第である。
来年も是非この熱気を再現させてほしいと心から願いつつ、初夏の瀋陽の街を家路についた。
(山形達也)
2007年6月2日 (土)
教師の会の歌の本
瀋陽日本人会が3年毎に出している会員生活ハンドブックが丁度この春新版となって発行された。薬科大学で印刷出来ないかと頼まれて、大学の印刷所を利用している峰村先生に案内をお願いして印刷所の張主任に会ったのが昨年12月だった。
見 積もりを取って編集委員会に報告すると、それまでの所よりも大分安く半額に近いという驚きでもって迎えられた。それで、薬科大学の印刷所に頼みに行った が、実際は中国も堪能な全日空の高山さんの交渉を見ているだけだった。印刷所の張主任は、高山さんや同じく全日空の牛さんがすっかり気に入ったみたいだっ た。高山さんが「この紙をもっとよくするといくらになるのですか」とか「カラー印刷ページが1枚増えるといくら高くなるのでしょう」などと言うと、「あな た達みたいな若い美しい女性は値段なんか気にしちゃいけないよ。大丈夫、心配しなくても、うーんと負けてあげるから」などと相好を崩している。
会員生活ハンドブックは700部印刷。134ページで3,808元。カラー6ページで400元。表紙350元。糊など製本代72元。合計4830元で、1冊あたり6.9元と言う計算である。
このやりとりに同道して、本の印刷は意外に安くできることを知って、日本人教師の会の歌の本の第2版はここで頼もうと思い決めていた。
教師の会の歌の本というのはこう言うことである。2006年の春に教師の会初めてという1泊バス旅行を計画して、瀋陽から車で3時間離れた岫岩市に出掛け た。中国は玉を産し、玉は高貴な印として古代より尊ばれている。中国の玉の約8割はこの岫岩近辺で産出される岫岩玉であることを知って、その産地を訪ねる ことにした。会員に声を掛けてみると合計27名の参加希望があった。
それで最終的には中道先生経由で旅行社に 頼んで、岫岩市に出掛ける計画が出来た。その片道3時間のバス旅行を退屈しないで過ごすには、歌が欲しい。しかし中国のバスには日本の歌のカラオケは用意 されていない。各自が歌の本を持っていくと言ってもそれぞれてんでバラバラだと、一緒に歌うというのに難がある。どうしたらよいかと考えているうちに、歌 の本を編集してしまおうと思いついた。
思いついた歌をインターネットで集めたが、私だけの選曲では限られてし まうので、中道秀毅先生、小林豊朗先生にも歌を推薦して貰って追加した。戦後の歌と、それ以外の歌でそれぞれ二百曲を集めてコピー製本して、旅行に間に合 わせたところ結構楽しめた。旅行に参加できなかった会員にもその後で配って、集まりの時には全員が同じ本で一緒に歌えるようになった。
ところがこの歌の本は教師の会の歳の若い会員には評判が良くない。「何ですか、これ。歌の本って言ったって、知っている歌は『仰げば尊し』だけですよ」という具合である。今の人気の歌を知らない私たちが作ったのだから当然だけれど、若いお嬢さんたちにそっぽを向かれたくない。
それで教師の会の全員が知っている歌を入れて第二版を作ろうと私は皆に約束をして、若い人向けの歌集めを若い中村直子先生や、池本千恵先生にお願いした。槇原敬之「どんな時も」や、井上陽水・奥田民生「ありがとう」などがあったので、私も新しいジャンルの集曲に力を入れた。そうこうするうちに2000曲近く 集まったが、もちろん最大公約数の歌を選んで曲を減らさないと多すぎる。
2000曲近く集めた候補の歌の中か ら最終的な1254曲を選びだすのに、林先生、安部先生、南本先生、そして昔は長髪のフォークシンガーだった森領事も協力してくれた。池本先生は曲を演歌、フォーク、ニューミュージックなどの種類に分類する作業を引き受けた。峰村先生は漏れている童謡を集めてくれた。学生の王毅楠くんには中国語の歌を集めてもらった。
ここまでは年末に出来上がったけれど、その先が私の手元で進まない。そうこうする中に年度末も間近になり、今年度のバス旅行も6月9-10日と決まった。歌の本はそれに間に合わせるしかない。最後には池本先生と手分けして、印刷のための編集作業に当たった。印刷所に届ける日の前の10日間は、池本先生は忙しい中を2回も午後いっぱいを薬科大学で過ごし、二人で文字通り眼を腫らして頑張った。
苦労はあったけれど、多くの方々の協力を得てこうやって出来上がった歌集が役に立てばとても嬉しいことである。
印刷原版を作るための最終打ち出し原稿を印刷所に運んだ昨日、張主任は厚い名刺の束をめくって、高山さんの名刺を嬉しげに見せて「とても綺麗な人だね」と眼を細める。私は「彼女は美人で、しかも私の朋友さ」と自慢した。すると張主任はあっさりと、「高山さんは昨日もここに来たよ」という。張主任は『昨日彼女に会ってもいないお前が朋友のはずはない。』とは言わずにニコニコしていたけれど、嘘がばれた私はすごすごと退散するしかなかった。
(山形達也)
2007年6月3日 (日)
日本語文化祭の慰労の会
5月31日の木曜日、教師の会の田中先生からメイルが入った。『明日、6月1日(金)午後5時、新洪記で、ノースメディアの趙さんのご苦労さん会を、文化祭係りの先生方で、行う事になりました。その後、ノースメディア側から、さらに、御三方参加したいとの連絡が有りました。これは、この会が、歓迎されている事の証拠です。ですから、私の経験から言っても、中国人は日本人以上に酒宴を大切にする事を体験しておりますので、来年も友好的に事が進むように、有志の先生方に御参加いただければ幸いです。』
5月26日に開かれた日本語文化祭は、その日の係の日記に書いたよう に大成功だったと思う。それを受けて慰労会を持とうというのは大変結構なことである。教師の会はこの文化祭の主催者ではなくあくまで協力者のはずだが、世 話になったノースメディアの方達を招いて食事をするという案はなかなか良い。
私は5月27日から6月3日までの1週間、日本から友人の教授が薬科大学を講演と研究交流のために訪ねていて、6月1日の夜には彼の講義が予定されていた。それで、残念だったけれど出席出来なかった。
この慰労の会の翌日の土曜日には田中先生からメイルが入っていた。内容は以下の通りである。
『目的:ノースメディアの趙さんの教師会に対する親身の御協力への感謝の気持ちと今後の友好増進のため
参加者:菊田領事、趙さん、ノースメディアの美女軍団御二方。教師会からは南本会長など9名
出費:瀋陽日本人教師の会から(470元)
6月1日、5時半より、新洪記にて、文化祭担当係り主催の、趙さんのご苦労さん会を開催。菊田領事をはじめとして、有志の先生方の御出席もいただく。会は、極めて友好的に進み、趙さんの方から、お願いもしないのに返礼のお言葉をいただきました。そして、来年は、今年以上に良いものにしましょう、と言う事でした。その後、会員は、南本先生の宿舎にお寄りし、同宿舎の峰村先生と共に、宵の宴を通じ、家族的雰囲気の中、先生方相互の親睦を深めた。』
このメイルを貰って、ご苦労さん会で集まった人々が互いに親睦を深めたと言うことはとても結構なことだが、『出費:瀋陽日本人教師の会から(470元)』と言うのが気になる。
新洪記の料理は美味しいが決して高い店ではないので、470元というのは13人全員の分だろう。教師の会を代表して世話になったノースメディアの人たちと歓談したのだから、教師の会が持つというのは恐らく世間的常識だろうと思う。
しかし、しかしだ。教師の会は親睦のための集まりで、親睦のための経費しか集めていない小さな会である。教師の会では誰かが教師の会の活動を代表してどこかに出掛けたり、折衝したり、場合によっては相手と食事をしている。しかし、交通費は会から出すことがあっても、会員の食費までは出したことはないはずであ る。理由は簡単で、教師の会にそのようなゆとりがないからである。
私の場合を書くと、私は日本人会幹事会に教師の会を代表して2ヶ月に一度開かれる幹事会に出席している。毎回往復のタクシー代が掛かっているし、時によっては1回200元位の食費も出すけれど、今まですべて自分で払っている。
せっかくの楽しくそして実り多かった集まりに文句を付けて済まないと思ったが、私たちは小さな会にはそれを払うゆとりがない。招いたノースメディア側の3人の 分は教師の会が持ち、会員は一人一人自分の分を自分で払うというのが現状では筋ではないか、と田中先生に書き送った。
日曜日になって田中先生から電話が掛かってきた。考え直して、慰労会に出た会員9人はそれぞれ自分の分の勘定を持ち、菊田領事とノースメディアの合計4人分は教師会から出したいと言うことだった。ま、こんなところが落としどころだろう。
(山形達也)
2007年6月4日 (月)
ノースメディアの人たちとの交流
6月2日の土曜日に、山田先生から会員にE-mailで連絡が届いた。金曜日の夜の日本語文化祭慰労会の席上で、ノースメディアの趙さんから以下の二つの提案があったという。記録のために日記に残すことを山田先生に了承して貰った。
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日本人教師の会、会員のみなさま
6/1(金)の晩、5月の定例会と日本語文化祭でお世話になりましたノースメディアの趙さんを始め、ご協力いただいたスタッフの皆さんへの慰労会へ出席いたしました。その場で、趙さんから教師会の皆さんがご希望されればと、下の二件の申し出がございました。
少しでも早く日程をご検討いただきたいこともあり、趙さんと同い年で、隣席にいて会長とともに直接お申し出を伺った山田が、本件の連絡係を買って出ることとなりました。レク係の皆さんを差し置いた対応で誠に申し訳ございません。
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【航空博覧会 + オリンピックスタジアム観覧1day ツアー企画】
北陵公園北で開かれる航空博覧会と、オリンピックスタジアムの事前観覧を取り計らっていただけるとの申し出を受けました。移動のためのバスも North Media から出していただけるとのことです。
うろ覚えで恐縮です。誤りがございましたらご訂正ください。瀋陽は中国で初めて航空(戦闘!?)機を造ったり、ボーイング社の工場があったりと航空機技術が盛んな街でもあるそうです。
そこで南本会長とお話した上でお伝えいたします。予定が立て込んでいることを考慮し、6/30(土)か7/1(日)に昼食を挟んで1day ツアーとして二箇所を周ろうと企画してます。尽きましては、当方では6/16(土)の定例会の場で日程をいずれかに決定し、翌17(日)に趙さんへ日時と人数をご報告する運びで考えております。
尚、定例会をご欠席される方は、どなたかにご伝言をしていただくか、6/16(土)午前10:00までに山田宛でご連絡ください。
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【プレオリンピック観戦】
プレオリンピックとして7/4-7/11に開かれ
国際女子サッカー大会観戦についても、ご希望が揃えば、話をつけていただけるとのことです。本件は後日、もう少し日時や料金等を調整し、上記1day ツアーとは別件として詳細を流したいと思います。
試合は複数ございます。が、分散してお願いするのは、趙さんや先方の皆さんにご迷惑をお掛けいたします。また、会員の皆さんで揃って観戦した方が楽しいでしょうし、記憶にも残ると考え、団体行動をしたいと思います。ご理解とご協力の程、よろしくお願い申し上げます。
夏の二弾企画係 山田 高志郎
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ノースメディアの人たちは日本語文化祭の時、椅子や机を並べるという会場設定や受付から、本職の照明、音響、ビデオ撮影まで20人というスタッフを動員して文化祭成功に大きな力を与えてくれた。
さらにこのように日本人教師会に積極的に接近して、私たちとの友好関係を築こうとしている。
どうしてだろう。いろいろと聞いてみるとノースメディアは日本の電通のような広告作成会社でもあり、TV作 品の製作会社でもあるようだ。将来は日本語の情報 発信も視野に入っていて私たちとの連携を重視しているのかも知れない。教師の会は教師一人一人が自分の考えで日本語教育に従事していることだけが共通項 で、教師の会としての高邁な理想や目標はないが、会員の親睦と日中友好も旗印になっている。ノースメディアの人たちと仲良くすることは、会員の親睦と日中 友好の促進に役立ちそうである。
(山形達也)
2007年6月14日 (木)
化石見学旅行 その一
今年の教師の会の1泊2日バス旅行は、遼寧省西部にある朝陽市近辺の化石を見るのが目的だった。なぜ化石か?この一帯は恐竜と鳥をつなぐ孔子鳥と呼ばれる化 石の出土で世界中から注目されている地域なのだ。ドイツで昔出土した始祖鳥なんか眼じゃないのだ。遼寧省は恐竜のほかにも、哺乳動物のプロトタイプなど沢山の出土がある。
参加者は28名:
1加藤正宏・文子、2林与志男・八重子、3山形達也・貞子、4中道 秀毅・恵津、5佐藤るみ子、渡辺京子、6安部玲子、石井みどり、7中田知子、森林久枝、8池本千恵、鳴海佳恵、9前田節子、若松章子、10藤平徳雄、田中 義一、11辻岡邦夫、長谷川宗武、12松下宏、石原南盛、13南本卓郎、14峰村洋・尚代、15渡辺文江
計画を立てて旅行社と交渉に当たったのは、レク係の峰村先生を中心として石原、渡辺(文江)両先生。旅行社は昨年と同じ、「世紀国旅」(遼寧世紀国際旅行社有限公司)で、添乗のガイドさんはこれも昨年と同じく陳瑞濤さんをこちらから指名してお願いした。
今年の旅行でもう一つ特記すべきことは、昨年4年間の瀋陽滞在を終えて帰国された中道恵津・秀毅ご夫妻がわざわざこのために中国に来て参加されたことである。恵津先生は昨年の、教師の会の歴史で初めてという岫岩市への玉見学旅行を企画したとき、旅行の間中皆の気持ちを盛り上げた立役者だった。
6 月9日土曜日の朝7時に中山広場の遼寧賓館(昔の大和ホテル)前に集まり、40人乗りのデラックスバスに乗った。一人あたりの費用は560元。昼ご飯の朝陽市まで二本の高速道路(沈京高速および錦朝高速)で約3時間だった。その間、私と池本先生の用意した歌の本を配った。思った通り一番最初に「僕は歌いたいよ」と言ってマイクを握ったのは秀毅先生だった。秀毅先生が話し出すと皆がほんわかと楽しくなる。以前とちっとも変わらない雰囲気だ。その後指名を受けてそれぞれ好きな歌を歌って楽しんだ。
朝陽市はのどかな地方都市といった感じだが人口は340万人とのこと。行政区としては日本の四国よりも広い(2万平方キロメートル)と言うことで、広すぎて私の掴みうる感覚を越えている。昼ご飯の後はまたバスで北票市に向かった。約1時間半掛かって「四合?化石基地」に到着。台状の起伏が見渡す限り広がっている。バスを降りた場所の足下から二百メートルくらい帯状の低地があり、向かいには掘られた形跡のある10メートルくらいの高さに層状の岩盤が露出していた。それと向かい合った手前にある建物は化石の展示場だ。
層状岩盤の足下には破片が散らばり積み上がっている。ガイドさんの話では、中国の化石は国法で勝手に掘ることも、国外持ち出しも止されているが、ここで落ちている岩石の破片を拾って持って帰ることはここの許可を得ているので自由だという。皆の声にならない声がさざ波のように間を走り、それぞれが下を向いて歩 きながら岩石の破片を拾い始める。
表面に貝の化石が出ているものもあり、割ると出てくるときもある。頁岩と 言って、薄く堆積が積もって出来た岩の地層である。道具もないので、ほかの石にぶつけるしかない。思ったところの頁岩を剥がして割るのは難しい。横に割れ てしまうことが多い。それでも、貝のほかに、ゴカイのような虫、シダの葉のような跡の化石など出てきて、皆それぞれに夢中だった。広場の一角には木の化石 が集められていた。
40分くらいそこで化石探しをしただろうか、ガイドさんにせかされて展示館に向かった。左手の大きな空間では、奥は堆積岩をそのまま利用した10メートルくらいの壁が露出している。部屋の内部には、始祖鳥と今の鳥類を結ぶという孔子鳥の化石が数体置いてあった。右手の展示場は、草食の恐竜化石の骨格標本が組んであって70%は本物の化石だという。この展示場専門のガイドさんの説明を陳さんが日本語で繰り返してくれた。今改修中で本来は見せないというこの化石展覧館の入場料は50元。この建物は綺麗で、展示もよく、期待以上だった。アメリカのDinosaur Museumに行ったことがあって、恐竜の骨の発掘現場そのものが博物館になっている。実際に人々がそこで骨の発掘作業をしているように見えるのが楽しかった。毎日掘っては、毎日埋めているのだろうけれど。
この化石基地には1時間半いてから朝陽に戻った。朝陽市も北票市も5-6階建ての住宅団地の屋上に、太陽熱温水器が沢山置いてあったのが珍しいものとして記憶に残った。
(山形達也)
2007年6月15日 (金)
化石見学旅行 その二
北票市の化石基地から朝陽市に戻って、「三燕古生物化石展覧館」にバスが着いた。団体一人10元である。綺麗な額に入れた化石を壁に掛けて展示しているが、聞くと展示品を売るという。試しに訊いてみると10センチくらいの魚の化石が400元だという。「高いよ」と言うと額に入っていない、そして少し見劣りするのを持ってきて150元だという。二つを100元にしたら買っても良いというと、大いに軽蔑した顔をしてさっさと手から引ったくって行ってしまった。
ガイドさんはここは自由市場じゃないのだから値段の交渉は出来ませんよと私をたしなめる。しかし化石を商売をする店が展覧館という看板を掲げて入場料を取るなんて、私たちの感覚では信じられないことだ。教師の仲間は皆同じ思いを抱いたようで、それぞれ憮然としていた。
そのあとは10分くらいバスは走って郊外に近い緑色生態苑に着いた。体育館よりも広い建物は内部には背の高い植物が生い茂り、中のそれぞれの部屋のしきりは全部植物である。瀋陽にあるこの手の店は独自の畑を持っていて、無農薬野菜の供給が売りである。私たち一同は3つのテーブルが入っている一隅に案内され て、食事を楽しんだ。美味しかった。仲間とのおしゃべりも楽しかった。
泊まりは朝陽駅からまっすぐの目抜き通 りにある聖都酒店だった。二人一部屋200元。バスタブはなく、電気湯沸かしによるシャワーが付いていた。ベッドは硬かったけれど、すぐに寝てしまった。 翌朝聞くと、南本先生の部屋は相方がいなかったこともあって、私たち一行の半数に当たる14-5名が集まって酒を飲みながら遅くまで楽しんだという。
翌日8時に宿を出たバスは市内を北東に向けて少し走り、止まったところは北塔博物館の駐車場だった。建物を回り込むと北塔が見えた。13層の仏舎利塔であ る。まず博物館の中に誘い込まれて、前燕か後燕時代のこの街の模型を見た。瀋陽よりも遼陽が古いとは知っていたが、その遼陽よりもこの朝陽は古い街なのだ そうだ。その時代には今の北塔の場所に木造の塔があったという。
大修理をしたときに12層目の中にあった大き な石の箱(天宮と言うそうだ)の中の宝物も取り出したようだ。一緒に出てきた舎利の入れ物の一つは天宮に残し、あとはこのあと案内された博物館の地下階に展示してあった。その舎利の入っていた瑪瑙の壺が納めてあった箱の外側に描かれていた釈迦の涅槃像が、この博物館の1階に巨大な仏像として安置してあっ た。絵は10センチくらいの小さなものだったが、仏像は5メートルくらいの大きなものである。
こ の地下室には 多くの宝物が展示してあった。イラン渡来のギヤマンの壺もあった。係員が5人くらいいて、私たちの挙動を見張っている。誰かがフラッシュをつけて写真を撮ったら早速撮影禁止が申し渡された。地下室の奥には特別室があって、そこには本物の舎利が展示してあるという。靴を脱いでまるで法事みたいに畏まって中には拝礼できるような座布団敷きになっていて、正面のガラスの小さな入れ物が中の照明で光っていた。これが舎利らしいが、きちんと見えるわけではないし、ちかちかと明るいのはどうも戴けない。
外に出て正面に北塔に臨む。ゆったりとした塔はそれだけで落ち着いた存 在感を持っていた。100元払った地下宮殿に入るという。入ってみると何のことはない。礎石の周りを巡るだけであった。礎石の間に、北遼の時代の煉瓦、とか、前燕時代の礎石とかの説明が書いてあった。裏に回ると細い通路が塔の中心に伸びていて、これは盗掘者が掘ったあとを固めたものだという。やれやれ。
そのあと階段を上ると北塔の二階に出た。北塔の南側には昔の建物の結構が作られている。さらに目を上げて南を臨むと遠くに南塔がみえる。昔を復元して今後の観光に資するという考えのようだ。実際のこの博物館の作りと展示は大変凝った金のかかったものである。中央政府、遼寧省政府、朝陽市政府が金を出したと言 うが、半端なものではないだろう。
このあとすぐ近くの「関帝廟」を見学した。あとでわかったことだが最初は もっと遠くの「鳳凰山」山麓にある「関帝廟」に行くはずだった。どこかでごまかされたらしい。近くだったため時間が節約できて、これも市内の住宅団地の中 の普通のアパートにある化石の卸商のもとに行った。ちっちゃな化石が一つ70元にまで下がったので二つ買った。「この箱から出して持って行けば大丈夫かも」なんてガイドさんが言っている。
食事を済ませて瀋陽に向かったのが1時で瀋陽の遼寧賓館についたのが5時過ぎ。ずっと高速道路だったので蜂蜜は買えなかった。
皆さんお疲れさまでした。特に、旅行計画を立て旅行社と交渉し、皆に知らせて準備万端整えた峰村先生、そして道中皆を楽しませようと努力して下さった石原、渡辺先生、本当にありがとうございました。
(山形達也)
2007年6月16日 (土)
7月1日航空博覧会+ オリンピックスタジアム観覧ツアー企画 6月17日瀋陽歴史探訪ツアー企画
山田先生によると、ノースメディアからの提案による【航空博覧会+ オリンピックスタジアム観覧ツアー企画】が次のように進んでいる。
ノー スメディア社の親切な申し出は、会員からは過剰とも感じられて戸惑いが隠せないが、ノースメディア社(国際事務部)としては自社のメセナ活動の一貫として 日本人との交流を深めていきたいという考えがあるらしい。すぐに成果を求める接近ではなく長期戦略にもとづくものだろう。お互いが個人的に知り合い仲良く なることは、企業の間でも国家の間でもそれが商売・友好の基本だから、こちらもそれに乗ろう。
今回は【プレオリンピック 女子国際サッカー大会の観戦】は別にして、今回は【航空博覧会+ オリンピックスタジアム観覧1day ツアー企画】のみの企画を立てることにした。先方は全額ノースメディア社負担との申し出だったが、すこしでも対等であるために、こちらが博覧会のチケット代とバス代を持つことで話がまとまったという。
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[五輪競技場見学]
五輪競技場の見学は、人脈を通じて行われるものなので、「経費はゼロ」とのこと。
[車について]
希望者が14名以下であれば、ノースメディア社のワゴン車を二台、無料で出してくれるので、チケット料金30元程度が参加者の負担。
[スケジュール]
10:30 North Media 出発
航空博覧会 見学
昼食 (見学後/ノースメディア社・ドライバー分負担)
五輪競技場 観覧
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6月16日の定例会で調査したところ、教師の会の参加者の数はワゴン車で十分間に合い、7月1日の日曜日にこのツアーが実施されることになった。
私は7月1日の日本語資料室の当番なので、ツアーには参加しない。
「ひとりさびしく 資料室
あなたのおいでを まってます」
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なお6月17日には瀋陽歴史探訪ツアーが計画されている。
主催 瀋陽日本人教師の会
「2007年度 瀋陽歴史散歩」について
1 日時 6月17日(日)午前10時?13時 雨天中止
2 集合場所 三経路と中山路が交差する角
(大きな建てかけのビル、瀋陽日報社、遼寧日報社がそれぞれの角にある)
中 山路を277、220、125、環、129、114路バスで来られる人はバス停「遼寧日報」下車。。三経街を265、280、221、258路バス利用の 場合はバス停「遼寧日報」下車。三経街を265、221、220、280、114路バス利用の場合はバス停「八一公園」下車。
3 講師 加藤正宏先生(瀋陽薬科大学日語教師)
4 内容
北 の市府大路から南の十一緯路までの間、東の青年大街から八経街及び和平大街の間に点在する、旧郵政管理局、旧領事館(現存は日本及びフランス、ロシ ア?)、旧新聞社跡、満州電信電話株式会社跡、公館、倶楽部(張学良関与、満州国時代には洋画の映画館)、旧張作霖の第五夫人宅、旧(満州国時代及び最近 まで)博物館、旧満州航空株式会社、旧独立守備隊本部、最後にイギリスの匯豊銀行を見学。(十一緯路を挟んで、この銀行向かい側の「新南国美食」で、会食 後解散予定)。
なお、これらの内容は以下のHPに紹介していますので、御覧ください。
http://www.geocities.jp/mmkato75/ の「瀋陽史跡探訪」の『湯玉麟公館(奉天独立守備隊本部)』『旧遼寧省博物館と張作霖の五姨太太の別荘』『各国の旧領事館及び界隈の公館』
5 出欠
当日参加も歓迎しますが、おおよその人数を把握したいので、6月10日(日)までに下記宛ご連絡ください。
担当係り:瀋陽薬科大学 峰村洋 E-mail TEL 携帯
◎交通上の危険も考えられますので、小さいお子様の参加はご遠慮ください。
今の時期の大学は年度末なので、学部生の卒業論文発表、修士学生の論文審査、博士の学位審査会が目白押しである。わたしは、17日日曜日には私たちの修士学生の学位審査会が開かれることがその数日前に決まり、ツアー参加を断念するしかなかった。
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6月18日月曜日、山田先生経由で、ノースメディアから「2007年日本語文化祭DVD」および「写真集」が教師会に届いた。DVD制作には5千元掛かって いるけれど無償で私たちに下さるという。先方でコピーすると高いので、教師会の方で必要なだけ自分たちでコピーして皆に配布して良いという大変ありがたい メッセージが添えられていた。非常感謝。
(山形達也)
2007年6月17日 (日)
今期最後の定例会
6月16日は今期最後の定例会だった。 2時に会議が始まる前、コンシェルジェの田中さんが6月号の雑誌を持って現れた。3月に第二子を日本で出産して、今小学生と赤ちゃんの子育て真最中の母親である。
さらに先日の日本語弁論大会の会場だったインターコンチネンタルホテルのマネージャーが南本さんの紹介で訪ねてきて、ホテルの宣伝。五つ星のホテルなので 7-800元くらいするところだけれど、「日本人会の先生方とその紹介者は朝食、サービス料込みで500元にします。私に直接電話してね」と激安の売り込 みである。「400元にしたら?遼寧賓館は今290元くらいじゃない?」と言ってみたけれど、「五つ星ですからね。」とかわされてしまった。でも、「隣の 四つ星のホリデイインは350元でいいね。これも直接連絡を呉れればいいですよ。」ということだった。
今日は 鳴海さんが初めての司会だった。いつもは弁論大会の連絡があるの、弁論大会のやり方の討議があるの、など言って司会を逃げていたが、とうとう回ってきたわ けだ。もっとも彼女が司会をしたら、今日は沢山討議することがあったはずなのに、休憩を入れても2時間足らず。何と4時前に終わってしまった。
出席者(33名):安部玲子、池本千恵、石原南盛、宇野浩司、岡沢成俊、片山皚、加藤正宏、加藤文子、河面弥吉郎、小柴裕子、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄 、中田知子、中野亜紀子、鳴海 佳恵、野崎勉、長谷川宗武、林与志男、林八重子、藤平徳雄、前田節子、松下宏、南本卓郎、峰村洋、森林久枝、山形達也、山形貞子、山田高志郎、若松章子、渡辺京子、渡辺文江
このうち新参加者:小柴裕子(東北育才外国語学校)、長谷川宗武(東北育才外国語学校)
特別参加:峰村夫人、加藤さんの妹さん
欠席:南本みどり(在日本)、石井みどり、菊田悦二
日本語文化祭の反省: まとめ役は田中先生だった。今回の文化祭がいろいろな面で評判が良かったので、皆から褒めそやされて嬉しそうだった。実行委員会の石 井、藤平、渡辺先生はもちろんほかの先生たちも文化祭演目に大いに協力したけれど、それにしても新人の田中先生はよくやったと全員が思っている。
弁論大会会計報告:会場費などを除いて、教師の会で引き受けた分だけで約3万元の支出明細の報告があった。ただしこの中には、賞金171,000元も含まれている。文集作成費が300部で3600元。このような明細が教師会で報告されたのは今回が初めてのような気がする。
日本語資料室の今後の取り組みについて:6月8日に日本人会幹事会が開かれたので、それに合わせて資料室係、セミナー係が集まって今後の方向を打ち出して幹 事会に出した資料が皆に回された。文化発信を年2回、さらに2ヶ月に2回程度のビデオ鑑賞会をして日本文化を紹介したり、折り紙、茶道、華道などの紹介を すると書いてあって、皆鼻白んだみたいで、はかばかしい意見も出ない。
この資料室の目玉というか中心は日本語図書だから、皆で知恵を出し合ってどのようにして図書を増やすか有効な方法を練ることがまず必要ではないかという気がする。
次期執行部:この7月に現会長が帰国するので、現会長から9月に正式に決めることだが次期会長を決めたいと言う発言があり、石原先生(遼寧大学)が推薦された。会長予定者の意向で、次期副会長として、安部玲子、池本千恵、松下宏、山形達也の4人が仮に承認された。
このあと、歓送会が5時から8時半まで、資料室近くの川韻蜀香3階で開かれた。歓迎は菊田領事、小柴、長谷川両先生。
すでに、中村、金丸の両先生、森領事が今期半ばで帰国したが、この夏、あと15名が帰国する。今までにない大量の入れ替わりを迎えることになった。今まで一 緒に資料室の苦難を乗り越え友情を培ってきた仲間の別れに、去るものも、送るものも、心引き裂かれる思いでこの会に臨んだ。会費ひとり60元。
日本語クラブの印刷で大変お世話になったキャノンの秋山さんをこの会に招待したところ、快く出席されただけでなく、彼の至芸が披露された上に、この送別会の時に彼が撮った写真のアルバムがあとで皆に送られるという嬉しい出来事があった。
今期でこの瀋陽を去る人たち:
加藤正宏、加藤文子、河面弥吉郎、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄、鳴海佳恵、林与志男、林八重子、南本卓郎、南本みどり、峰村洋、森林久枝、若松章子
みなさま、大変お世話になりました。どうか、どうかお元気で。ごきげんよう。
(山形達也)
2007年6月24日 (日)
瀋陽を去る仲間に贈る(替え)歌
教師会2006年度送別会に当たって送る側の替え歌を作るように、レク係の渡辺文江先生に頼まれた。軽い気持ちで引き受けて作っているうちに、妻も参加して以下の30曲からなる替え歌ができあがった。6月16日の送別会の最後に送る側全員が皆の知っている「オタマジャクシは蛙の子」の節で一緒に歌った。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
曲は「幼なじみの思い出は」を頭に置いて作りましたが、「鉄道唱歌」の方が良いかもしれません。「オタマジャクシは蛙の子」でも元気があります。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
1.
瀋陽来てみて おどろいた
日本語教える 日本人
北関街(ベイグアンジエ)の一部屋(ヒトヘヤ)で
仲むつまじく 教師会
2.
月に一度の 定例会
みんなまじめな 顔をして
弁論大会 文化祭
命をかけて 話し合い
3.(女声のみ)
こんな真面目な 会合に
私はついて いけないわ
わたしがほんとに 欲しいのは
みんなと気楽な おしゃべりよ
4.
そうこうするうち 突然の
資料室の 立ち退きで
途方に暮れる 私たち
路頭に迷って すべ知らず
5.
それまで何も 知らないで
皆で集まる 一部屋(ヒトヘヤ)も
歴史を開くと 大勢の
好意が支える 資料室
6.
日本人会の 総会(アツマリ)で
寄る辺のない身を 訴えて
それまで知らない 中国の
人たちが寄せる 好意の輪
7.
多くの人に 助けられ
振興街(ジェンシンジエ)の 六階の
以前の倍の スペースに
のびのびくつろぐ 私たち
8.
好事魔多し 半年で
再び悲しい 家なき子
日本人会 領事館
総出で 会の 場所探し
9.
一緒に集まる 場所もなく
月に一度の 領事館
二階で開く 定例会
忘れてならない パスポート
10.
総領事からの 手紙にも
受け入れ渋る お役人
良いと言っては 駄目と言い
手玉に取られた 私たち
11.
困ったときは お互いね
助け合うのが 朋友(ポンヨウ)さ
中国人も 日本人も
区別はないよと 親切に
12.
言ってくれたの 思いだし
半年ぶりに 電話して
頼んでみると あっさりと
どうぞ 使って 無料(タダ)でよい
13.
新華(シンホア)広場の 八階に
安住の地を 与えられ
放浪生活 幕引いて
みんなで協力 引っ越した
14.
艱難(カンナン)汝を 玉(タマ)にする
苦労は 仲間の 潤滑油
定例会の 最後には
いつも一緒の 食事会
15.
毎年(まいとし)巡る 四月には
こころを合わせて 日本語の
弁論大会 運営は
表に陰に 教師会
16.
日本語学ぶ 学生が
演じる劇や 歌 踊り
市内で開いた 文化祭
楽しく笑って 大成功
17.(女声のみ)
半期に二回の お当番
来る当てのない 学生を
待って一日 資料室
アシ アゴ 全部 自弁です
18.(女声のみ)
初めは嫌々 教師会
何時の間にやら みな仲間
今では二胡に 中国語
書道に 篆刻 食べ歩き
19.(女声のみ)
老辺(ラオビエン)餃子は 一押し(イチオシ)で
馬家(マアジア)シュウマイお値打ちで
緑色(リュウサア)生態 自然食
雪花(シュエホア)ピイジュウ 欠かせない
20.
老いも若きも 勢揃い
心ときめく バス旅行
行くは岫岩(シュウイエン) 玉(ギョク)産地
アカシアの里の 別世界
21.
道々拾うは 玉石(ギョクセキ)か
宝を集めて 帰り道
蜂蜜売りの 兄さんに
急に感じる 恋ごころ
22.
一億五千 万年の
太古の恐竜 思い馳せ
貝やゴカイや 木の化石
夢中で拾う 一時間
23.
小学唱歌に J-ポップ
民謡 童謡 賛美歌も
英語の歌に 中国語
千曲越える うたの本
24.
緑の表紙の 厚い本
歌が好きでも 嫌いでも
思いの丈を 歌に載せ
みんなそろって チイパッパ
25.(男声のみ)
歴史好きの 先生が
率いて歩く 瀋陽市
60年の 時を経て
歴史の静かな 証言者
26.(男声のみ)
頭(コウベ)を挙げれば 丸い屋根
満鉄マークが くっきりと
足下見れば マンホール
蓋には 右書き 「電信」と
27,(男声のみ)
土曜日曜 路上市
一元二元の 石を買い
喜び勇んで 彫る判子(はんこ)
世界に一つの 芸術品
28.
鬼の厳しい 催促に
渋々書いた 原稿も
一年三度の本となり
気づけばわたしの 滞在記
29.(送る人たちのみ)
いよいよ別れの 日が迫り
一緒に支えた 教師会
皆さん ほんとに ありがとう
どうか どうか お元気で
30.(帰国する人たちは)
二年契約 月満ちて
帰国に思う 教師会
私の第二の ふるさとよ
皆さん ほんとに ありがとう
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
教師会を知らなければ意味のない歌ですが、一緒だった仲間はこれで楽しかった一緒の時を思い出してくれるでしょう。。。
(山形達也)
2007年6月30日 (土)
日本語文化祭の記録を載せて
今年の瀋陽日本語文化祭は民間の施設である北方伝媒ビルの4階ホールを使って開かれた。席が出場する学生の総数320名にあわせて設営されていたので、ほか の誰でもが座れるわけではなかったが、原理的には市民の解放されていた。このようなことは画期的と言って良い。その開放感も手伝って日本語文化祭は日本語 学ぶ学生ののびのびとした楽しい心が会場いっぱいに発散して、大成功だったと評価されている。
このように日本 語文化祭は歴史を重ねているし、今では教師の会も関係しているので、これを教師の会のホームページに記録として残したい。昨年は日本語クラブの中道編集長 の音頭の下に、文化祭関係者の間に交わされたメイルが日本語クラブに収録された。今年からはもう少しきちんとした形で記録を残したらどうだろう。昔の記録 を出来るだけ集めて残しておきたい。
というわけで、文化祭の前に今回の実行委員長の田中先生にお願いして、今回の文化祭の記録すべてを残しておいて、先生が最後にまとめを書いてそれらと一緒に送って欲しいと頼んでおいた。
文化祭のあと田中先生から文化祭の反省も含めて資料が届いた。そして幸いなことに北方伝媒が総力を挙げて作成した写真CD(とDVD)もたまたま私の所に来ていた。山田先生が北方伝媒の作成した映像記録を受けとって南本会長に届けようと言うとき、彼が不在だったので私が受けとるという偶然があった。そのため これらのコピーを作成する責任も負ってしまったが、それは別の話だ。
ともかく文化祭の資料と、写真があったの で、ホームページ用の原稿を編集した。写真は私が撮った中からも選んで使った。今年の文化祭の記録の中心は、田中先生の書いた「日本語文化祭を終えて」という一文が生き生きと躍動感があり、これが目玉となった。このほかにプログラム、議事録、反省などを加え、写真を鏤めて出来上がった。そしてもちろん、 ホームページの記録なので、今年の分が載れば、昨年、そしてその前と記録を加えていくことが出来る。
日本語文化祭のホームページが出来たことを27日水曜日に会員に知らせたら、すぐに山田先生からメイルがあった。「せめて田中先生の文章の出典を示して欲しい」と 書かれていた。私の手元に「日本語クラブ26号」はなかったが、6月16日発行の「日本語クラブ26号」が日本語文化祭の感想を集めて載せているので、同じものが載ったのだろうかと心配になった。
加藤編集長に確認すると、全く同じだという。「日本語クラブ」も4 年前からは紙の出版物だけではなくwebにも載せている。と言うことは、同じ教師会のホームページに、片や「日本語文化祭」の今年の分の記録として、そして片や「日本語クラブ26号」の一部として、田中先生の書いた全く同じ文章が載ることになる。
私は、それぞれ目的が違うし、読む人の目的も違うだろうから(実際、「日本語クラブ26号」を私は見たはずだが、同じものであるとは思いもしなかった)、同じものだとしても良いと思った。
聞いてみると会員の中には同じでも良いという意見もあった。しかし、ケチが付いてしまったので田中先生の名文を載せるのをあきらめて、ほかの実行委員からそれに相当する今回のまとめ的な文章が欲しいと思ってお願いしたけれども誰からも返事がない。
仕方なくたまたま会った南本会長に状況を話して、彼が文化祭の最後にした挨拶を原稿にして書いて欲しい、それを載せたいとお願いした。この挨拶は短く、かつ要を得た名演説だったことを覚えていたのだ。北方伝媒に対するお礼の気持ちが見事に込められていた。
幸い快諾されて、帰国を控えて忙しいのに南本先生がすぐに原稿を届けて下さった。それで、日本語文化祭の今年の記録の中のまとめの目玉を取り替えることが出来たわけだ。忙しい数日間だったけれど、ほっとしたところである。
と同時に、ホームページをほとんど一人で切り回している私がいろいろと弊害も生んでいるのかもしれない。「確かによくやっているけれど」と思われていることにしたいが、それだけに「誰も何も言えなくなってしまう」という状態となっているのではないか?それが爆発すると今回のようなとんでもない言いがかりにな る?
ただし、私の言い訳は、この瀋陽日本人教師の会は日本語弁論大会とか、日本語文化祭とかいろいろな行事に責任を負っているけれど、本質的は親睦の団体である。日本から中国の瀋陽地区に来た人たちが互いに異境の地の生活を助け合おうというものである。そのような会が成り立つためには、会長にしろ、ホームページにしろ何にしろ、何も代償を求めずに一生懸命に働く人も大事なのではないだろうか。
とまた自己陶酔に浸っている。バカに付ける薬はないと世で言う通りだ。
(山形達也)
2007年7月15日 (日)
異例の臨時教師の会
教師の会にはいろいろの役がある。年度は学校のカレンダーに合わせて9月から始まるのでその最初の会合の時にいろいろの役を選ぶ。しかし今年度は南本先生が7月のうちに帰国することが分かっていたので、次期会長を決めて置いた方がよいねということになった。
次期会長が今の副会長から出れば良かったのだろうけれど、私も、もう一人もそれぞれ理由があって現会長から頼まれても固辞した。それでこれを根回しというのだろうが、現会長が努力して日本人補習校の校長をしている石原先生が引き受けてくれることになった。
6月16日の今期最後の定例会で、石原先生が推薦を受けて新会長に選ばれ、彼が副会長を指名してこれも承認された。ところが、ところが、である。6月末に山 田先生からメイルが来た。公開質問状と題して「今度の会長は会にどのような貢献があったのか、どんな実績があって選ばれたのか説明をしてくれ。」つまり現 および新執行部に対する不信任案がぶつけられた。
今の会長の先生にしてみれば会長職のあいだ公私をなげうって 会のために奉仕をし、次の会長のなり手を探すのに苦労してやっと引き受け手を見つけたのだ。次期会長は人物識見十分と見てお願いしたのに、彼の判断も、新 会長そのものも、あるいは今の会員全体の信頼感もすべて根底から否定する反対意見である。
次の日曜日、私は資 料室の当番で、その時の相棒がこの山田先生だったが、彼は午後用事があって朝のうちだけ出てきた。それで現会長が資料室にやってきて、私もあとで加わって 3人で話をした。話してみれば彼は納得したふうで、話のあとで私たち二人はこれで問題は済んだと思っていた。
ところがまたメイルが来た。話では駄目だ、文字がいる、密室政治は見たくない、という。まだ納得していない。一方で現および新役員は不信任を言いつのる山田 先生にどのように対処するかを考え、メイルのやりとりでは話はこじれるだけだから早急に集まれる人たちだけでも集まって臨時会議を開こうと言うことになっ た。石原先生はすっかり嫌気がさして、もう会長をやる気がなくしている。
それで7月5日木曜日夕方6時、山田先生も含めて19人が集まった。彼がいないと話にならないのだから彼の出席を確認してから開いたわけである。
会議では現会長の南本先生が状況を説明し、どのように対処しようか皆さんの意見を伺いたいということで始まった。山田先生が主張を述べ、ほかの人たちがいろ いろな意見を言った。1時間半の話で、結局山田先生は自分の主張が間違っていたことを全面的に認め、関係者に謝り公開質問状を撤回した。したがって、先日 選ばれた新役員は改めて全員一致で認められたのである。
今の規則では9月に新年度に新しいメンバーで決めることになっているが、来たばかりで会長を選べと言われたって難しい。これからは、会長は前年度最後の定例会で決めるとした方が良いのかもしれない。
こ の教師の会は利益団体というわけでもなし、根回しがあっても何の差し障りもないだろう。もし問題があれば後からメールなどでなく、その場で発言するべき だっただろう。こういうことの発言はし難いのかも知れないが、顔が見えないから言うことが出来るとしたら、メールは怖い。このメールは日本人会長事務局長 にまで飛んでいったのだ。
通常2,3年で入れ替わるメンバーなので、1年もここにいれば会長の資格は十分である。何を功績というのか分からないが実績も功績もあるはずがなく、会長になって本当に苦労を背負うことになるわけだ。会長を引き受けて下さった方には本当に感謝、感謝、感謝なのである。
教 師会は初めて瀋陽に来て困っている時に、生活の面でも授業の面でも助け合うことが目的である。その為に月1回、集まって知り合いになることは大事なことで ある。集まるための資料室も必要である。部屋を借りるとなると資料室を管理したり会計が必要だ、人数が30人もいれば会長も必要になってくる。
皆が、集まってそれぞれが出来ることをして会を成り立たせている。ここは会社の営業所ではない。一番働いて功績を挙げた人が会長にふさわしいなんて考えられないことだ。人物がこの会の会長にふさわしいかどうかの判断基準だ。
互いに助け合おうと集まっている人たちの気持ちが連綿と続いて、この会には20年近くの歴史がある。それを壊すのは一瞬でいい。大昔のことは知らないがここ 十年の間、石井康男先生が根気よく育て、そして多田先生、南本先生がそれを引き継いで発展させた教師会がこれからも”気持ちの良い出席したい会”として維 持されるよう、願ってやまない。
(山形達也)