2007/04/23 11:51
雌の花粉?
2007年04月22日付けのExiteニュースに、花粉対策でポプラの「性転換」という話が載っていた。
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花粉対策でポプラの「性転換」処理 [北京 20日 ロイター]
雌のポプラが発する花粉が原因で、都市部で生活する人々がアレルギー症状やぜんそくに悩まされているため、ポプラの木の性転換処理が行われることになったという。中国メディアが金曜日に報じた。
北京には30万本以上のポプラが植えられているが、樹木の専門家によって花粉を飛ばす雌のポプラの性転換処理が行われる。
CCTV(中国中央電視台)は、専門家が「ポプラの花粉は空気の質を悪化させるだけでなく、人々の健康に害を与える。市当局は何らかの対策を講じなければ ならない」と話していることを報じている。
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人の性転換は大ごとだが、 植物ならその木も周りも文句を言わないから問題は起きないだろうが、性転換手術は人よりも大ごとである。人の場合は性器そのものの形成手術が中心だから、 困難はあるだろうけれど一人あたり一つの手術でよい。しかし植物は花が性器だから、もし一つの木に沢山付く性器そのものを対象に手術をして性転換するとな ると、考えるだけで不可能であることがわかる。
マツ類は雌花と雄花が同じ 木に付く雌雄同株の植物で、雌雄の転換がごく日常的に起こるらしい。仕組みはわかっていないという。ある種の魚では雌雄の密度を感じて雌雄が変わり、年齢 で変わったりするから、雌雄の転換はごく容易に起こっている。マツには雌雄転換が環境の影響で簡単に起こる仕組みがあるのだろう。そしてそれを利用してポ プラにも、ということになっているのだろう。どうやって性転換をするのかの詳細を知りたいものだ。
薬科大学には見事な大木に 育つ木が並木を作っているが、長年名前がわからなかった。中国暮らしの長い遼陽の渡辺先生によると「わからないけれど、満州ポプラと呼んでいますよ」とい うことだった。名前がわからないままというのが気に掛かっていたので、改めて教師の会の先生方に伺うと、南本先生からドロノキでしょうという連絡があっ た。
Internetで調べると、ドロノキ 【泥の木・白楊】. その他の名称として ドロヤナキ 【泥柳】、デロヤナギ、ワタドロとも言う。 ヤナギ科の落葉広葉樹。北海道及び本州中北部の寒地に自生。また、樺太、千島、朝鮮、満州、シベリアに広く生育し、北米のほぼ全域にも広く生育する。北海道記念保護樹木として、以下のURLに写真が出てきて、同じものであることが確認できた。このURLに載っている木は満州開拓記念の木だそうである。
http://www.wood.co.jp/kyoju/hokaido/asahikawa-nagayamakinen.htm
学名がPopulus maximowicziiなので、渡辺先生による通称満州ポプラでもいい線行っていると思う。なお、中国名は楊樹である。
このドロヤナギは雌雄異株 で、雌の花穂の方が大きいと書いてある。薬科大学のドロヤナギは花穂の大きさからするとほとんどが雌の花である。えんじ色の花粉ようのものが落ちてくるの で、これは花粉かと思っていたが、よくよく考えると雌が花粉をつけるのはおかしい。花粉というのは雄の精子を運ぶ装置である。花粉が雌と言うことはあり得 ない。
北京の雌のポプラ(北京の ポプラが北大にあるようなポプラなのか、ここにあるドロヤナギのようなポプラなのかわからないが、いずれにせよ雌雄異株である)が花粉を振りまくから皆の 迷惑だというのもおかしい。雌の花粉と言っているのが、実は雌の小さな花なら説明は付くかもしれない。しかし、今年は花が終わってしまったからこれを証明 することは出来ない。
それに、大体ポプラの「花粉」が北京の大気汚染に貢献しているといって騒ぐのはなんだかおかしい気がする。
実際、中国のニュースで誰でも知っていることだが、北京は大気汚染がひどい。2006年12月17日の発表によると、「アジア開発銀行はインドネシア環境会議で発表された報告に基づき、北京市の空気中の汚染物質は1立方メートルあたり142ミクログラムで、アジアの都市の中で大気汚染が最もひどいと指摘した」。2006年11月22日には北京市環境保護監測センターは、北京の大気汚染は5段階のうちの2番目にひどい「4級の中度汚染」と発表している。さらに北京市西部の石景山区古城という所では、最も悪い「5級の重度汚染」を観測したという。
日本の数倍から数十倍ひどい大気汚染の中で、人が作り出した物質による汚染ではなく、植物が毎年繰り返してきた性の営みをとがめてお金をかけて性転換を行うというのは、なんだか漫画的である。
2007/06/04 18:10
『恥ずかしい』ということ
薬科大学のドロノキの葉は枝先から芽を出した花穂が落ちた4月上旬から、ぐんぐんと伸びて、うっそうとした見事な樹冠を作った。ドロヤナギは6階建てのアパ一トの屋根よりも高く伸びている位だから、大学のドロヤナギ並木は見事である。
このドロノキの葉は毛虫の 好物で春先には毛虫がどんどん増え、やがて下の道が毛虫の緑色の糞で緑色の絨毯のようになる。毛虫は葉を食べるだけではなく、バカだから自分がいる方の葉 を食いちぎってしまい、葉のかけらと一緒に道に無数に落ちている。こういうわけで、いっとき昼なお暗きと言うほど生い茂ったドロノキの並木道では、葉がす かすかになって空への見通しが良くなってきた。今朝もこの並木道を歩きながら妻が言う。「もうすっかり裸になったわね。」
丁度その時私の視線は私た ちの数メ一トル先を歩いている女性の二人連れの後ろ姿に釘付けだった。二人とも半袖どころか肩から先の腕を出していて、一人は膝までの薄いパンツ。一人は フリルの付いた短いスカ一トを穿いている。「ほんと、もうすっかり裸に近いね。」と私は後ろ姿に見とれたまま生返事をした。私が何処を見ていたか妻には直ぐにばれてしまい、慌てた私は
「ドロヤナギ はだかを女性と 競いつつ」
などと急造の腰折れ口ずさ んで誤魔化そうとしたが成功しない。仕方ない。「今の中国の女性の着ている服は日本以上に開放的だよね。これでは、『大学の寮の建物が男性と女性と別れて いなかったら、とってもやっていけません、特に夏はそうです』と陳陽が言っていたけれど、よく分かるって言う感じだね。」と別の方に話を持っていった。
陳陽くんは私たちの研究室 の学生で、背が高く、おしゃれで、いつも人の目を惹きつけて暮らしている。前に学生諸君の何人かとだべっていたとき、大学の中の学生寮が男女別に別れてい ることに対して皆が意見を言っていた。陳陽くんはユニ一クな人なので、学生寮が男女別よりは一緒の方がいいというのではないかと思ったが、開放的な服装の 女性に挑発されたくないと言ったのだった。
「女性の着ているものは日 本よりは遙かに開放的ね。見ていて恥ずかしいと思うようなものでも平気で着ているわね。」と妻が受けたことから私たちの話は『恥ずかしい』と言う言葉の内 容の話になった。お互い思いつくまま話してみると、日本にも中国に『恥』はある。恥は同じように恥と思う。しかし恥ずかしいという観念は中国にはないよう だ。
汚職をして捕まり新聞に載 ればこれはどちらの国の人でも恥と感じる。汚職をしたことを『恥』と思うか、『恥ずかしい』ことをしたと思うかどうか分からない。昔の日本人ならともかく、今の人たちは汚職をして捕まったことを『恥ずかしい』と思っても、汚職したことを『恥ずかしい』とは思わないだろう。
人前で立ち上がって自分の 意見を述べると言う行為は、人目に立つと言う意味で勇気がいる。昼日中大学の構内で二人で抱き合ってキスしている二人連れを見ることがよくあるが、人の見 ている前で抱き合っているのも勇気のいる行為だと思う。人前で意見を述べて人目を惹くのはもちろん、ましてやキスをするなんてそんな恥ずかしいこと出来な いというのは妻の意見だが、次々と例を挙げて考えてみると、日本人にとっては恥ずかしいと思われることでも彼らにとっては恥ずかしいとは受け止められてい ないようだ。つまり『恥ずかしい』と言う言葉は中国語にないのではないか。
私たちの研究室のセミナ一では二人の演者がそれぞれその時の最新のJournalに 載っている興味深い論文を紹介する。新しい知識を紹介してくれるのだから、聴いている方はよい勉強になる。一生懸命話をフォロ一して話されている内容を理 解しないと、セミナ一に出ている時間が勿体ない。人の話を理解しようと思って聞けば必ず疑問質問が湧き出てくる。私はいつもそうやって人の話を聴いてい る。逆に疑問質問が出ないのは、人の話が理解できていない証拠である。
そう思うと、研究室の学生 の態度は生ぬるい。先生が怒るからセミナ一で聴いている振りをしているだけとしか思えない。「何か質問、疑問、意見はありませんか?」と私が穏やかに言っ てるうちに王麗などのシニアが何か訊けばいいが、そうでないと、私のト一ンは段々高まってくる。
”Show your presence at the meeting, please. That you do not speak at all means you are not present here. You are not existing. Is this no-man land? You should be ashamed of not participating in the seminar.”
黙って座っているだけなんて、恥ずかしくないのか?と問いつめても、恥ずかしいという概念がなければ通じるわけがない。私はまた別の言い方で、ぐずの学生達に迫る方法を考えなくてはなるまい。
2007/06/11 20:23
印刷を頼んで覚えたこと
瀋陽には日本語を教えている日本人による瀋陽日本人教師の会というのがある。私は日本語を教えているわけではないが、日本語での講義をしているから、日本語には一寸引っかかりがある。それで2003年秋から教師の会の隅っこに身体を縮めて入れて貰った。それからは東北大学の冶金の先生も増えたので2年経った2005年秋には、会員資格がこの地区で『日本語を教えている日本人』から、『日本語教師および日本人研究者で、専家証あるいはこちらの教育研究機関からの招聘状を持っている人』という会員資格に変わった。今では私たちは晴れて会員である。
昨2006年6月に教師の会始まって以来というバス旅行を計画して瀋陽から3時 間離れた岫岩に玉を見に行った。中国の歴史の古くから玉が珍重されてきたが、その古代からこの岫岩が玉の産地で、今でも玉の約8割を産出しているというと ころである。玉が珍重されている中国にいて、その主要産地の近くにいるのだから是非現場を見学に行こうと思い立って、教師の会の人たちに働きかけた。会員 その家族会わせて26人がバスを使った1泊旅行に参加した。この旅行は楽しかった。お まけに蜂蜜やロイヤルゼリーを道々買うというおまけもあった。岫岩市はアカシアが日本の桜みたいに野に里に咲いている丘陵地帯で、ちょうど満開で白い花を 沢山まとった樹が私たちを出迎えてくれた。全国の養蜂家は花に合わせて全国を移動する。この蜂蜜採集の人たちがミツバチの箱を道路脇の空き地に置いて蜂蜜 を集めているのをあちこちで見かけた。このような養蜂家から直接蜂蜜を買ったことがあるという先生が一行の中にいて、そのおかげで採れたばかりの蜂蜜を買 うという初めての冒険にも巡り会った。
思いがけず出会った蜂蜜は ともかく、この旅行の時に片道3時間を退屈しないで過ごすためにはどうしようかと考えて、歌の本を作った。誰でも知っている懐メロの歌詞を集めてコピーし て製本したのである。歌詞はインターネットで手にはいるのをダウンロードした。販売すれば著作権に触れるだろうけれど、私的目的なので構わないだろう。
バスの中でだれかが『ハ イ、何頁の何々です』と言って歌うと、皆一緒に本をめくってその歌を見ることが出来るので一体感が共有できた。もちろん歌を歌いたくない人には強制はしな かった。バス旅行に参加しなかった会員には、その後同じ歌の本を配ったので、教師の会は集まりの度に、一緒の本を取り出して歌を歌うことが出来た。
戦後の歌で約二百曲、それ 以外の歌で約二百曲集めて作った歌集だが、教師の会の若い人たちには評判が悪かった。今の若い人たちが知っている歌はほとんど入っていなかったからだ。そ れで、歌集の第二版を作ることを考えた。今度の選曲には若い先生達にも参加して貰うのである。こうやって選ばれてきた歌を見ていると、フォークソングの他 にJ-POPという分野もあることが分かったので、私もインターネットでいろいろと歌詞をダウンロードした。
歌詞が全部で二千曲を超えてしまったので。今度こそ本気で選んで第二版に載せる歌を厳選しなくてはならない。若い先生、若くない先生、様々の先生がたにお願いして、歌集に載せたい歌に印を付けて貰った。こうやって選ばれた曲が1254曲あって、若い池本先生に歌の分類をして貰った。この分類ごとに歌をアイウエオ順に並べて、そして目次を作ってという作業を池本先生と手分けして行った。もし彼女の手助けがなかったら途中で放り出したに違いない膨大なそして神経のいる根気作業だった。B5判で目次30ページ、本文480ページと言う大作である。
印刷はそれまでに日本人会の「会員生活ハンドブック」の印刷を頼んだことのある薬科大学の印刷所に頼むことにした。7センチ位の厚さになるプリントアウトを印刷に持っていった。なるたけ薄い紙で印刷すれば3センチ位で出来上がるようだ。200部の印刷をお願いして、期限は1週間。
金曜日に頼んで次の週の火 曜日に印刷所から連絡があった。先方の言うには、印刷してみると、字が薄いし掠れているところもあるという。じゃ、どうするんだ?最初のプリントアウトか らやり直しか?印刷所はどうする気なのか訊くと、今から原版を新しく作って変えることもできるけれど、もう200部分を刷ってしまったので、やり直すなら200部 掛ける 514ページの無駄になる分の紙の値段を払ってくれと言う。
プロなのだから、貰った原 稿を見れば字の濃さが大丈夫か、薄くて心配かは分かるはずだ。それから版下を作れば、先ずは試し刷りをしてそれでいいかどうかをチェックするはずだ。そし てその段階で不満足なら、こちらに連絡してきて原版を新しく作り直すか、このままか訊くのが当然だろう。少なくとも、私たちの常識ならば。
版下を作った後の試し刷りで確認もしないで、200部 を刷ってしまって「これでは駄目です、また作り直しましょう、無駄な分の紙のお金を余分に払ってくれるなら」、なんて呆れて言葉も出ない。日本の職人なら こんなことは言わない。黙々と最高の仕上げをするのが職人の誇りである。字の濃さなどの確認もなく刷してしまったらそちらの責任だ。
200部 掛ける 514ページ分の紙の無駄をするわけにはいかないので、字が薄いけれど我慢をすることにした。せっかくの歌集が読みにくいものになってしまって残念である。試し刷りの段階で、原版が薄いと言ってくれたらよかったのに。
私たちは本が厚くならない ように裏の字が透けて見えるほど薄い紙を選んでいた。薄い粗悪な紙を使うというのが頼んだときの心残りだったけれど、少なくともその見難いということはな くなったわけだ。物事には何でも良い面と悪い面があるわけで、この際プラス面を見て自らを慰めるしかない。ま、この次には用心深く交渉しよう。
2007/06/12 18:54
プレッシャーの下で
今年度の卒業実験の学生は 最終的には2人だった。一人は宋明さんで、半年前から私たちの研究室に来たいと言っていた。彼女は、2年生の時にすでに研究室に出入りしていた学生で、当 時は理科基地クラスという特別の8年のコースの学生だった。理科基地クラスは学部4年修士2年博士3年の合計して9年かかるところを、学部を終えたらば大 学院修士課程入学試験なし、博士課程入学試験なしで8年で終わるコースである。言ってみればエリート養成コースである。大学院の入学試験が免除される代わ りに、日常的に始終ある試験が厳しく、一つでも落としたら即理科基地クラスから追放されるという。
宋明は理科基地クラスの学 生は2年生から自分の好きな研究室に出入りできることになっていると言って、私たちのところに来た。そのような仕組みを知らない私たちはさっさと断ったの だが、彼女が泣き出して、とうとう根負けして引き受けることにした顛末は以前書いたとおりである。
このようにして宋明は私た ちの研究室のセミナーに出るようになったが3年生になった頃から来なくなり、どうしたのだろう。断りもなく来ないなんて、追放しちゃうぞと思っていたら年 末に会いにやって来た。もう先生の部屋のセミナーに出られません。でも、長い間お世話になりましたと言って手編みのマフラーを私にプレゼントして去って いった。
後で事情がわかったが、彼女は理科基地の厳しい選抜の中で振るい落とされて、3年生の時に一般の学生になってしまったのだった。一般の学生は卒業研究の時期になるまで研究室に入ることはない。それで研究室から去っていったらしい。
その彼女が4年生になる前 の夏に、たまたま大学構内で出会った。どうしているの?と訊くと、元気にやっています、4年生になったら卒業研究で先生のところに行きたいけれど良いです か?と言う。まだだいぶ先の話で誰からも申し込みはないし、尋ねると大学院も先生のところに進学したいという。それなら前の因縁もあるというのでOKした。
彼女は理科基地クラスから追放されたから、大学院入試なしという特権がなくなった。1月半ばの全国統一試験を受けなくてはならない。従って、研究室に来たのは今年の3月5日である。卒業研究の発表会は6月半ばにあるから、研究期間は実質3ヶ月しか残されていない。テーマを与えて、王毅楠く んの指導の下で実験の練習を始めた。2週間くらい経つてから言うには、大学院の二次試験の用意をしなくてはならないので勉強に集中させてくださいという。 1月の全国一斉大学院入試は言ってみればセンター試験みたいなもので、自分の点を貰って自分の進学したい大学に志願する。そうすると上から順に切られて いって、やがて落ち着くところに落ち着くというのは日本と同じである。そしてその上で大学独自の二次試験が待っている。
二次試験も選抜試験だから、勉強しないと心配だというのは仕方ない。良いだろうと言ったと思ったら、すぐに来て言うには自分の成績はとても悪くて、先生の研究室に志願できません。済みませんという。来たいと言っていた学生が駄目になったわけだが、仕方あるまい。
次にまた来て、先生の研究室には二つの研究科から進学できることになっています。今度は別の研究科から志願すると(最低点が低いと言うことなので)通ります、という。こちらは、そうですかとしか言いようがない。
すると二三日してまた来 て、別の研究科が要求する試験科目を取っていないので先生の研究室には入る資格がないと大学に言われました。残念です、という。そう言われても、大学の実 力者ならこういうときに横車が押せるのかもしれないけれど、私としてはそうですか、としか言いようがない。
ともかく宋明は自分の取った成績で進学できる大学を探して山西医科大学に志願した。受験志願が通って、今度は二次試験を受けるために早くから現地入りして勉強したいと言う。本人の将来が懸かっている話なので、認めないわけに行かない。と言うわけで彼女は4月10日から26日まで研究室を空けた。その後は連休なので、彼女が卒業研究に本格的に取りかかったのは5月8日からだった。残された期間は約6週間である。
教え込む時間もなく、先の 期待も出来ないので酵素のザイモグラフィを使うテーマに変え、指導する学生も王暁東さんに変えた。王暁東のやっている研究の一部を担当する形にしたのであ る。黒竜江省出身のとてもかわいい暁東さんは、それまではそれなりにボチボチやっていたけれど、卒業研究の学生を指導するという重責に目覚めてとても良い 指導者に変わった。
そのおかげで宋明の仕事も ともかく少し結果が出てきた。もう一寸やれば何か一つ言えることが予想されたので、新しいプロトコルを与えてこれをやるようにと言って別れた週末明けの月 曜日、宋明は朝来たけれど何も言わない。眼はそっぽを向いて白目がでている。そしてなんだかうー、うーと唸って向こうに行ってしまった。そばにいた暁艶が 驚いて追いかけて訊くと紙に書いて、ともかく話せない、寮に帰って良いか、と言っているという。一も二もない。OKである。
翌日気にした暁東が会いに 行った結果、ストレスに負けて精神が壊れたと言っていると言うことだった。それでも、ともかく午後になって会いに来た。もう大丈夫だという。どうしたの か?と訊くと、暁東から聞いていたとおり、肩の重荷で自分は潰れたのだという。元に戻ったかと訊くと、もう大丈夫だけれど後3日間休みたいという。私は、 「もう実験は良いから、暁東に手伝って貰って、今出来ていることで論文を書きなさい」と言うしかなかった。
来週末が論文発表と論文提出である。誰でもプレッシャーとストレスの中で生きているが、こういう学生を見たのは初めてである。一人っ子として大事に育てられた学生は挫折に弱く、大学生の自殺が増えているというYahooで読んだ記事が、頭の中でちかちかと昨日から明滅している。
2007/06/21 16:27
鶏頭となるも牛後となるなかれ
卒業研究生の論文提出は次 の週末だと思っていたら、何と月曜日だという連絡があった。月曜日の4日前である。こりゃ大変だ、宋明さんはまだ休んだままである。宋明が休んだままでは 卒業し損なってしまう。精神的に不安定だからと言ってそれを大きく教務掛に訴えては、彼女にも、そしてこちらにも将来に亘る傷が残ってしまう。
大学院修士課程の暁東さん に頼んで様子を見てくること、そして発表と論文提出が早まったことを伝えて貰い、場合によっては論文作成を大学院の学生に手伝って貰うよう手配をしたとこ ろ、翌日に宋明がやってきて「元気です。もう大丈夫です。」と言うことだった。見たところ元気そうだし結構な話だけれど、彼女のけろりとした顔を見ていて も一抹の不安が残る。これが金曜日の朝。
そして次の日の土曜日には卒業研究発表のリハーサルの日だ。私たちがここに来て最初の年には数回、昨年だって2回のリハーサルをしているけれど、今年は1回しか出来そうにもない。その1回も1回だけで絶対大丈夫という実験内容ではなく、実に頼りない内容なのだ。
宋明は私たちの研究室の伝 統に従って英語でパワーポイントのスライドが用意してあり、英語で話をして、6分で終わった。最初の年は私たちの研究室の卒業研究生は英語で口演をした が、聞いている先生方によくわかってもらえなかったので、次の年から中国語で話をすることにした。つまり私たちの研究室のリハーサルは英語で行って私たち の修正を受けて、それから中国語にして話す練習を改めて行うのである「あなたの話は中国語でするのでしょう?スライドも中国語にするのだよね?」と聞いたのは、口演もスライドも中国語に直すなら、今ここで英語を訂正する必要はないからである。すると宋明は「英語と中国語のどちらにするか、今迷っています。」という。
とんでもない、やめて下さ いよ。こんな英語を聞かせられたら、自分自身がひどい英語遣いでめちゃくちゃな英語に慣れた私でもよくわからない。「中国語で話しなさい。スライド中国語 にして発表に使うように。」と言って、スライドを一つ一つ見ながら発表内容を検討し、直していった。細胞をいくつか変えて、方法はザイモグラフィという手 法だけでMMP-9という分解酵素の挙動を見ているので、内容は決して難しくなく、誰でも容易にフォローできる。
というわけで、土曜日に一 度練習をした発表を、月曜日の朝、本番の前に再度中国語の発表練習をさせた。「どう?用意は?」と聞くと、「何時も英語で考えているので、中国語のスライ ド見てもすぐには(中国語で)旨く話せないのです。」という。発音も構文も何時もひどい英語を喋っているのに、こんなことを言うなんて、かわいくないね。 言ってみれば宋明は、何時も強気の中国人の代表である。
その月曜日午後1時から発 表会というので歩いて2〜3分離れている本館に行った。今は年度末で学部学生、修士、博士の発表があちこちで行われているので場所がとれず、何と学生実験 室の一隅で発表をするのだという。年度末の定例行事なのだからあらかじめ日時を決めて場所を確保しておけばいいのに、これが今の中国式である。決して手回 しの良いことがなく、何でも突然の決定と通告である。
午後1時の15分間くらい前に行くと学生がPCを点けていろいろといじっていたがやがて人々が集まってきた。すると学生たちが追い出されて、残ったのは12人くらいのteacherと呼ばれる人だった。Teacherとは教授、助教授、講師の下の位で、学生に講義をする人たちである。以前は大学を出てすぐにteacherに採用されたが、今では修士号を取っていないと採用されない狭い門である。
学生はすべて追い出されたけれど、私たちの研究室の学生の一人は許されてここに残った。私たちに翻訳して説明するためである。teacherに向かって助教授の一人、小張老師が説明を始めた。今年から制度が変わって、teacherが卒業研究生の発表を聞いて審査するのだという。そしてteacherに向かって一人あたり3つくらいは質問をしないといけないと言っている。つまりこれはteacherの審査でもあるらしい。話は延々となんと20分もつづいた。同じ教室のteacherなのだからあらかじめ話しておけば良いはずだ。ここで私たちまで含めて20分を空費することはあるまい。
ともかく時間となって、最初の演者は宋明だった。落ち着いて話をこなして、ザイモグラフィの手法についての質問にも、Tnfの 効果についての質問にもそつなく応えてほっとした。そのあとは同じく私たちの研究室の楊方偉くんだった。彼は昨年の満さんと同じように実験大好きで凄い ハードワーカーである。修士の業績にも匹敵する内容の成果を挙げている。昨年の満さんは京都大学大学院の進学し、楊くんはこの秋には北大大学院に進学す る。残って欲しい優秀な学生が外に行ってしまうことは残念なことだが、今年博士を終えた王くんに始まって優秀な人材がうちには沢山いるから、ま、よしとす るか。発表会が終わったあと聞い たことだが、生化学の教授の張老師は学生4人の発表を聞いて「何だ、この内容は。大体おまえの卒業研究の間の態度が悪い、怠け者だ」といって叱ったとい う。彼の所の卒業研究の学生は19人いるから「約20%が怒られたのですね」と小張老師に言うと。「ううん。張老師は忙しくて出たり入ったりして、たまた ま聞いた学生すべてを叱ったのよ。だからほとん全部の学生に不満を持っているわ。」ということだった。
私たちは(本当に恥ずかし いことだけれど)中国語を理解できないので、うちの学生の発表のあとすぐ出てしまった。だから今の学生がどのようなレベルなのか判断できないが、これを聞 いて、宋明は平均的なレベルよりも上かもしれないと思い直した。実際、この薬科大学の大学院に入れなかった彼女は山西医科大学に行って、入試の成績優秀で 学費免除扱いになったのだ。
鶏頭となるも牛後となるなかれ。彼女のために私たちは大いに喜んでいる。
2007/06/25 08:36
卒業祝いと送別会 その一
今年度の私たちの研究室の卒業生は、博士の王Pu(僕の人偏が王偏)くん、修士を終える鄭大勇くん、学部を終える宋明さん、楊方偉くんである。昨日の6月22日には上記の4名に寧娜さん、李杉珊さんも加えて卒業のお祝いをした。いつものように、ガールフレンド、ボーイフレンドを招いたが、前回の王Puくんのガールフレンドの関さんは5月に結婚して王くんの奥さんとなっている。王麗の旦那の馬敏くんはこういう時のレギュラーメンバーである。今年の送別会は18名 という大人数になることが予想された。二つのテーブルに別れたくないので、大テーブルのあるところを探して大学のそばの陸軍病院の中の金利賓館を予約し た。5時半に皆で集まって案内されると超豪華な部屋で、みなひそひそと「ここは高そう」と半ば本気でおびえている。私は、特にこのためにお金を用意してく るのを忘れてしまったので、青くなって妻に耳打ちした。彼女も「少しっきゃないわ」と言って三百元を私に渡した。私の財布はこれで合わせて九百元となっ た。
4月に日本から来られた川西教授など4人を招待し、こちらも入れて7人というときに510元払ったことがある。日本円にすると8000円くらいだからたいしたことないようだが、私の月給の1割であると言えば、結構な額であることが分かるだろう。ともかく900元という手持ちの金は、18人ではとても足りないだろう。ま、足りそうもないけれど、これだけあれば手持ちすべてを払って残りはあとでも払うことを許してくれるだろう、と思うことにした。
料理は王毅楠くんが楊方偉くんと一緒に選んでいる。あとで並ぶ皿を見ると、安いものから順番に8皿選んだみたいである。孝行息子たちだ。それでもビールだけはふんだんに注文した。ビールの飲めない私と妻はヨーグルト?と聞かれて頭を振る。節約のためにお茶だけである。18人 という私たちとしては前代未聞の大人数の集まりで、私が密かに決意していたことは、それぞれが隣の人と散漫な話をするだけのものに終わらせないことだっ た。と言うことは、誰かが話題を提供すると言うことである。今日は卒業祝い、となると、座を取り持つのは私である。私が卒業する一人一人にお祝いの言葉を 述べて乾杯をして、そして送られる人が演説をして乾杯をし、送る側が一人一人に贈る言葉を述べれば、とても印象的な集まりになるのではないだろうか。
やがて料理が5皿運ばれて 来てテーブルに置かれた。ここは料理を載せる中央の台は電動テーブルである。5皿では広い円形のテーブルはとても埋まらないが、料理が5皿テーブルに乗っ たと言うことは、中国の習慣では宴会を始めていいと言うことである。まず開会の挨拶をして全員で乾杯をして少し経ってから、私が口火を切った。
最初は何と言っても王Puくんである。博士を送り出すのは今回が初めてで、私たちにとっては特に感慨が深い。王Puくんは2004年秋に生化学の老張老師の研究室から共同研究をしようと言うことで送り込まれてきた博士課程に進学したばかりの学生だった。テーマは老張研究室で研究しているサソリのペプチドの抗ガン作用を、こちらでこちらのやり方で調べようということになった。
ところが、始めて見るとこのペプチドがガン細胞の細胞死を引き起こすのはいいが、どの細胞も同じように殺し、しかもガン細胞でなくても殺してしまう。このペプチドは大腸菌で発現されたタンパク質なので、大腸菌由来のペプチドAと呼ばれるトキシンを含んでいる可能性がある。そう思って、ペプチドから脂質を抽出して調べると、もとのペプチド試料を使ったのと同じように細胞が死ぬ。さらに調べると定性的には確かにトキシンが検出できた。と言うわけで、このような汚いペプチドで研究を進めるわけにはいかない。聞くと綺麗なペプチドは作れないという。彼は博士課程に入ってもう半年経っている。どうしましょうと彼の指導教官の老張先生にいうと、「そちらで好きなようにして下さい。」
(この稿つづく)
2007/06/25 08:39
卒業祝いと送別会 その二
老張老師に何かほかのテーマがあるかと訊くとないという。テーマがないのに彼をそこに戻すのは可哀想だ。こちらのテーマで研究をやらせていいかと聞いて見たところ、構わないという返事だった。それで、私たちは数年前にガングリオシドGM3がB16がん細胞の転移抑制をすることを明らかにしているので、その機構を調べることにした。この時までに分かっていたのは、GM3が転移抑制作用機構に結びついていることだけで、その機構は全く不明だった。
だから、王くんがこの研究を始めるにしても、どのように研究が展開するのかこちらにも皆目見当が付かなかった。
そのころ研究室には様々の遺伝子の発現を追いかけるために約100種のプライマーが出来ていた。王くんは5月の連休を返上して、私たちの作った遺伝子操作細胞すべてを動員して、遺伝子Tnfなどが、GM3で制御されている可能性が大変高いことを示した。この可能性を必然にするには、GM3合成遺伝子の発現を増やしたり抑制したりして、そのときにこれらの遺伝子が動くことを見る必要がある。
GM3合成遺伝子を抑えるにはガングリオシド生合成系の二カ所の遺伝子をSiRNAで抑えた。GM3合成酵素の阻害剤も使った。こうして始めてわずか2ヶ月でTnfなどがガングリオシドGM3で制御されていることが明確になった。
このあとは、ガングリオシドGM3のシグナルが細胞内でどのように伝えられているかの解析に入るわけで、ガングリオシドGM3とくっついていて、ガングリオシドGM3に対する抗体を使って一緒に落ちてくるタンパク質を追跡するのが一つの方法、もう一つの方法は想定されるシグナル経路を阻害剤を使って、経路を一つ一つ調べていくことである。
王くんは実質2年間の間に様々な手法を使って、B16細胞の転移に関係した細胞の運動性、増殖性などの性質がガングリオシドGM3により抑制されていること、その機構を分子的に言うと、サイトカインの一緒であるTnf、タンパク質分解酵素のMMP-9、Gタンパク質のある制御因子がGM3で制御されていることを、新しい細胞内シグナル伝達経路を見いだして明らかにしたのだった。
「こういうわけで、当時は 入り口と出口しか分からない迷路に王くんは挑戦したのです。まだ入り口の仕組みは未解決ですが、それ以降をほとんど明らかにしたのは王くんの努力の結果で す。これが出来たと言うことはとりもなおさず彼が有能であることを示していますが、特に大きなことは、王くんは手を惜しまず、手抜きせず、休む間も惜しん で実験にいそしんだことです。」
「さらに、王くんは自分が 得た実験結果をよく考え、その先どのような実験を組めばその知見が強化されるかを考えて実験を行ったからです。何よりも言いたいのは、王くんは実験を一生 懸命やっただけではなく、自分の頭を使って自分の実験を深く考えながら実験を進めたと言うことです。」と私の話は続いた。今日の私は英語をやめて、すべて 日本語にした。どうしても日本語の方が自由にものがいえる。そして翻訳は修士2年の王毅楠くんが引き受けた。
博士号を取るための資格として、自ら問題を考えそれを解決する能力を持つことが要求されるが、彼は見事にその要求に応えたのだった。
博士の審査では博士論文を読んで意見を述べる教授が6人、審査会当日に発表を聞いて審査に当たる教授が別に6人いた。主査は中国科学院・生態学研究所の老師である。私は審査会当日の審査員の一人だった。
45分の中国語の発表を終えた王くんに寄せられた審査員からの質問は、PCRで遺伝子の発現を追いかけたが、タンパク質の発現をどうしてほかの方法で見ていないのか、RT-PCRをもっと信頼性の高いReal time PCRでなぜやらないのか、などで、本質的な質問は全くと言って良いほどなかった。ある審査員は、論文の書き方が悪い。この中国語ではだいぶ問題があるから書き直せ、さらには引用文献の数が多すぎると言っただけだった。
あとで分かったことだが、 このような研究は基礎科学分野始まって以来最高の内容だったと評価されていたようだ。お世辞半分にしても、認められたことは確かなようだ。この大学での多 くの研究は応用薬学と言うべきものだから、ひょっとして基礎科学分野ではまだ王くん一人しかいないのかもしれないね。一人だけなら、その人が最高の一番に 決まっている。アハハ。ま、一人だけと言うことはないだろうけどね。
(この稿つづく)
2007/06/27 15:08
卒業祝いと送別会 その三 王くん最終話
王くんは卒業を目前にした5月に結婚式を挙げた。 彼の奥さんの関さんは何時も私たちの研究室のパーティに招いているので、私たちとはもう2年 越しの顔なじみである。彼女はここで修士を終わって、中国では上位の3位にランク付けされる上海の復旦大学の博士課程に合格したので彼女はこの秋から上海 に行く。背もすらりと高く、何時も笑顔を絶やさない関さんは何時会っても気持ちがよい。今日はやっとくつろいで穏やかな顔つきになった王くんの隣で、特に 笑顔が輝いている。
王くんは今アメリカにポスドクのポジションを探しているが、まだ返事がこない。ポスドクのポジションが見つかったとしても渡米するまでおそらく時間が掛かるだろうから、その間、復旦大学の医学部の私の友人(の友人)の先生に彼の面倒を見るように頼んでもいい。
王くんは私の挨拶を受けて 「3年前ここに来たときは、研究室の中の話が全く分かりませんでした。今となれば当たり前の細胞生物学や分子生物学の用語が、それが初歩的なものであって も、その時はまるでちんぷんかんぷんでした。言葉が分かっても現実それがここで出来るとは信じられませんでした。研究室の中で英語を使って最新の世界の論 文を紹介するという経験も生まれて初めてで、最初は緊張で声も脚も震えました。ここで三年間貴重な勉強をさせていただいて本当に心から感謝しています。先 生がたの科学に対する真摯な態度と熱意には打たれ続けました。これからも先生たちを目標にして生きていきたいと思います。」と挨拶した。
研究を何も知らないのは私たちの所に来る学生すべて同じだが、「いや、ここまでよくやったよ。これは王くんだからやったんだと思う。」というのが私たちの偽らざる感想である。王くんの能力と努力はそれほどに素晴らしい。
論文は大きく分けて3つの内容を含んでいた。それぞれがfull paperになる内容だった。この大学は博士課程に二つの論文が出版されていることを要求している。そのうちの一つはSCIに載っているジャーナルに論文が出ていなくてはいけない。もう一つは、どこでも良い。
私たちはどれもfull paperにしようと思ったけれどそれでは論文の審査を経て受理されるまでに時間が掛かる。それで、そのうちの一つを二つに分けて、それぞれを速報誌に投稿しようとした。これで博士の要求は満たせるはずである。
一つはBiochemical and Biophysical Research Communicationsにすんなりと通った。もう一つはOncologyに 送ったが、全く返事がない。6週間経ってどうなったか訊くと編集長がまだ投稿論文を処理していない、もう少し待って欲しいという。こんなことでは、博士論 文提出までに投稿論文がどうなっているか分からない。それで急遽、手持ちの実験結果ですぐに中国語で書けることを探してここの大学の紀要に投稿した。別の 英語のジャーナルに同じ内容を投稿することは道義上出来ないので、別の内容にした。幸い同じ大学で、事情が分かっているので、すぐに投稿論文を審査して受 理してくれたので、王くんは論文提出の期日までに、2報の出版論文があるという規定を満たすことが出来た。
Oncologyからは論文を送って3ヶ月以上経ってからレフェリーのコメントが付いた返事が来た。一人のレフェリーはB16細 胞で新しいことを見つけたと言うが、ほかの細胞ではどうなのかやっていないじゃないか、と無茶を言っている。別の細胞を使えば2倍、マウスだけでなくヒト の細胞も使えば3〜4倍の金がかかる。私たちの発見が普遍的なものであることを主張しているのではなく、それまでのマクロファージと違って、このB16細胞ではガングリオシドGM3がTnfの活性を促進していることを見つけたと言っているのだ。
二人のレフェリーから無数の指摘があった。ある指摘はこちらのうっかりしてそれに触れて書いていないことをちゃんと書いたらと言う好意に満ちたものだった。博士の発表も終わったので、あと1ヶ月も実験をすれば論文を書き直して送ることが出来るだろう。そして私の夏休みは、彼のあと二つの論文を仕上げることである。
この送別会の日の朝、王く んは巻物になった大きな絵を私たちに呉れた。拡げると大きく一面に紅梅が描いてあって二羽の鳥が枝にとまっている。「この鳥は先生たちです。」と言う。背 景に大きく丸い月が描かれている。喜上眉梢と書きこんである。めでたい言葉なのだそうだ。早速教授室に飾った。とたんに部屋が賑やかになった。
2007/06/30 09:08
卒業祝いと送別会 その四 鄭大勇くん
鄭大勇くんは錦州医科大学からここの大学院に入って、修士課程の3年間私たちの所にいた。彼もいよいよ卒業だ。2004年春、私たちの所に来たいと言うので面接したときも、そして秋からいよいよ研究室に来たあとも、彼が英語で話すと何を言っているかほとんど分からず、正直なところこの先大丈夫かと思われた。
隣の池島先生はこの大学のレベルはたいしたことないですよと何時も言っているが、ほかの大学からここの修士課程に入る学生を見ていると、大きな開きがあるというのが私の実感である。瀋陽薬科大学の学生の方が程度が高い。
1年先輩になった胡丹に、鄭大勇くんが「とてもやっていけそうにない。別の研究室に移りたい」と相談を持ちかけたという話をあとで聞いた。胡丹は、その学年には大勇が一人だけしかいないので、彼が抜けたら山形研究室は瓦解する。それで一生懸命彼を励まし続けたようだ。
この大学では、と言うかお そらく中国では修士だけで終わる学生は、日本と違って修士課程の年限は3年間である。この薬科大学では修士課程の最初の1年間は講義が沢山あるので、その 1年間学生はほとんど研究をしないのが普通である。私たちも薬科大学の薬学から進学した学生以外は、実験するよう要求しなかった。だいたい鄭大勇くんにで きるわけはないと思っていた。だから彼は毎週2回のセミナーで顔を合わせるだけだった。
修士課程に入って大体1年経った頃、彼に勧めてJ Biol Chem.に 載った論文をセミナーで紹介させた。この論文は東大の多比良教授の研究室から出されたものであった。多比良教授の名前はよく知られているだろう。その後多 比良教授は、これより前に研究室から出された論文がねつ造と言われ、東大から論文ねつ造として告発され渦中の人となった。
ここでついでに書いておく と、多比良教授の助手が論文をねつ造したと言われていつ。彼の論文の実験の再現性がない上に実験記録が残っていないので、ねつ造と言われても仕方あるま い。しかし、多比良教授のそれまでの際だった業績と彼の聡明さを知る私には、多比良教授がねつ造に関わっていた可能性は全くないと思う。管理責任を問われ て罷免されたが、これは東大始まって以来初めてのことであるらしい。ここまで厳しい措置が取られると言うことは、彼がよほど憎まれていたのだろうか。多比 良教授が悪いのか、多比良教授が有能過ぎて妬みを買ったか、私には分からないが、東大を罷免された彼に半年経っても外部から救いの手がさしのべられないの は、とてももどかしいことである。
ともかく、ねつ造とは関係ないこの論文の内容は程度が高くて難しいと思われたが、大勇はこれを読みこなしてセミナーで紹介した。RNAリ ボザイムの話だった。これが彼に大きな自信をつけたのだと思う。人は適切な時期にちょうど良いきっかけがあればぐーんと成長するものなのだ。また、彼が2 年になった時に与えた研究テーマが良かったのだと思う。彼が自分で選んでジャーナルクラブで紹介した論文からヒントを得た研究テーマだった。
私たちにとって全く新しい分野の仕事だったが、それだけに嬉しかったのだろう。私と大勇はこの先の展開をどうしようと一緒になって考え、大勇は積極的に実験を行った。私たちは早い時期から論文をどのように書こうかと何時も頭の中で描きながら実験を進めた。
この春書いた論文は、Biochemical and Biophysical Research Communicationsに 送ったところ、レフェリーに実験内容が不備と言われて却下されてしまった。これは大勇が悪いのではなく、この新しい領域の研究に不慣れだった私の責任であ る。そのあと気を取り直して実験をして、私たちの発見した現象を別の角度から見直した形で論文を書き直している。薬科大学の修士課程の要求するレベルは、 どのようなジャーナルでもいいから論文を1報出すことが条件である。私たちは国際誌に投稿する一方で、別の内容で中国語の論文を書いて、まずは彼が修士の 学位を取る条件を満たしたのだった。書き直した論文はもうすぐ投稿できるだろう。
大勇は北京の製薬会社の研究所に入りたいといって就職活動をしているがまだ見つかっていない。ここの制度では私たちが学生の就職先を世話することはない。もし就職先を見つける責任が私にあったら、どこの就職先も知らない私たちの研究室には誰も来ないに違いない。
2007/07/03 08:12
卒業祝いと送別会 その五 宋明さん
大勇くんへの私の挨拶が終わり、彼がお返しに挨拶をして、また一寸の間をおいて私は立ち上がった。学部の今年の卒業生は宋明さんと楊方偉くんである。このほかセミナーに来ていた寧娜さん、李杉珊さんも今日の送別会には招いている。
まず宋明さんである。薬科 大学の特別エリートコースである理科基地クラスの学生だった宋明さんは、2年生の時から私たちの研究室の活動に参加していた。理科基地クラスの学生の特権 で、そのように研究室に出入りが許されると言うことを知らなかった私は、「山形先生の研究室に明日から来たい」という彼女の要求を理解できず、その場で断 固拒否したのだった。
とうとう、彼女が顔を挙げたまま大粒の涙を流して号泣し始めるにおよび、とうとう根負けして来て良いと言ったのだった。彼女のおかげで私はここにすでに2回エッセイを書いた覚えがある。
私は席で立ったまま「今ま で私は日本にいたときには、何度も女性を泣かせてきましたが」と続けたら、隣で妻が「あんなことを言って、嘘よ。」なんて言い出した。「泣かせる」は「女 性を鳴かせる」という具合にも意味深に使われる言葉なので、これは学生の前で話題にするのにふさわしいことではないだろう。追求されたら困る。私は努めて さりげなく「でも、中国で女性に泣かれたのは初めてです。」
中国の女性をどっちの意味 でも泣かせたことはないけれど、彼らは激してくるといとも簡単に涙を流す。以前、大学院に進みたかったけれど、入試に失敗してやむ泣く就職を選ぶことに なったと言ってきた学生も、言っているうちに大粒の涙がポロポロと大きく見開いた眼からから沸き出てきたものだった。ある博士課程の学生は、自分の研究を 卒業研究の学生に手伝わせないと私をなじりながら,「だから私の研究はちっとも進まない。先生はひどい。中国人の先生ならこんなことはない。」といって、 これまた大粒の涙を流した。涙をがんがん流しながら、大声で私を非難し続けたのだ。
乏しい経験とはいえ、日本 の女性のように彼らがよよとして泣く、あるいは楚々と身をよじりながら涙を流すという場に居合わせたことがない。おおっぴらに泣くのに付き合った経験があ るだけである。この派手な号泣も、これまた乏しい経験だけれど、日本の女性では見たことがない。これこそ文化の違いである。「なかせる」もう一つの意味も 経験してみたいけれど、それはもう無理だろう。
脱線してしまったが、脱線 したのはここだけの話である。こんなことは学生の前では話さない。さて、このような経緯で宋明は研究室のセミナーに出入りするようになったが、3年に進学 した秋頃からセミナーに来なくなった。追及するまでもなく、ついて行くのが難しいからドロップアウトしたのだろうと思っていた。
その年の12月 の終わり頃、研究室に宋明がやってきた。彼女が最初に来て泣いたときその場にいた胡丹が一緒に付いていて、彼女の中国語を日本語にしてくれた。「ずっと研 究室のセミナーに出たかったのですが、制度が変わったので出られなくなりました。山形研究室に出入りさせて貰って勉強になりました。ありがとうございまし た。ついてはこれから冬になりますが、私の編んだマフラーです。どうか使って下さい。」
わたしは、「何さ、今まで ちっとも来ないで。」と思っていたものだから、白と青の毛糸で編まれた暖かそうなマフラーを受けとってもろくに返事をすることが出来ないでいるうちに、彼 女は去っていった。どうして来られなくなったのかを胡丹に訊くと、「理科基地から落第して薬学の普通コースに変わったようです」と言うことだった。気の毒 な話だが、受け入れるよりほかない。
その後ずっと気になってい た宋明が、やがてそのあとの卒業実験で私の所を選び大学院も来たいと言ってくれたのは嬉しいことだった。しかし大学院の入試では成績が悪くて、ここに来る ことは叶わなかったが、山西医科大学の特待生になったことは彼女にとって素晴らしいことである。プレッシャーをはね除けて逞しく生きることが出来るよう、 彼女のために願っている。「卒業おめでとう。この先も元気でね。カンパーイ。」中国の乾杯は文字通り乾杯である。宋明さんは一気にビールを飲み干した。私 はここに来てこの白酒の乾杯続きで体を壊してしまい(というのは嘘、自分でも大好きで飲み過ぎたのだった)、今は一滴の酒も飲まない。乾杯続きのお茶で腹 がだぼだぼしている。
この送別会のあとの卒業式 の日、宋明さんは私の所に別れの挨拶に来た。そして私の書(描)いたものをプレゼントしますと言って、表装された蓮の絵と詩を拡げた。絵は習ったことがあ りませんと言うけれど、墨が主体の絵は力強く幻想的で引き込む力強さを持っている。横に書かれている詩は彼女の作品で、しかももちろん自分で筆を執って書 いたものだ。大意は、「今私たちは蓮の蕾のように清浄な大気の中で露を花びらの上に載せながら開こうとしている、恩師は世界にあまねく名を知られた輝く先 生で(これは白髪三千丈のたぐいだ、気にすることはない)、私たちも花を咲かせて、いつかはその足下に近づきたい」ということらしい。彼女の中国文を日本 語にしていた陳陽くんは途中で投げ脱してしまった。「私には、とても分かりません、すごーーい詩です。」
2007/07/16 12:13
卒業祝いと送別会 その六 楊方偉くん
楊方偉くんは大学を出たら日本に行きたいと言って卒業の1年前半前くらいに私たちを訪ねてきた。そのときには瀋陽薬科大学と提携している日本の某私立大学の試験を受けたいけれど、という話だった。この私立大学は、大学院の入試をこの瀋陽薬科大学まで来て実施している。
薬科大学の卒業は6月末だ から、日本の大学院には早くてもその年の10月入学、普通なら翌年の4月入学と言うことになる。しかし大学間提携と言うことで、入試に通ったらこの薬科大 学はその学生の3月末の繰り上げ卒業を認めるし、その私立大学には4月入学という道が開かれている。薬科大学は授業料を先取りしているから数ヶ月早く卒業 させても痛くも痒くもないし、学生は同級生よりも日本留学の場合で1年、中国の大学院に入る同級生よりも半年早く大学院に進学でき、大学は学生に喜んでも らえるから人気を得て学生募集難のこの時勢に笑いが止まらないという、三方得という落語みたいな頭の良い話である。
しかし、その私立大学の先 生たちが前にここに来たときに直接聞いたことだが、こうやって入る学生の学費は半額にするが奨学金は皆には出ない。だから、アルバイトして学資稼ぎが出来 るように、そのための(授業あるいは実験のない)日が一日空けて設けてありますと言うことだった。
日本の高い物価の中で大学 院の学生が安心して勉学、研究に打ち込めるためには奨学金が絶対に必要である。大学は学生を教育するために存在しているのだから、学生が奨学金を得られる ように大学は最大限の努力を重ねなくてはならないと思う。それなのに、アルバイト出来る日が作ってあるから、安心してこの大学に来てアルバイトして学資を 稼ぎなさいとは何事か、と私は大いに憤慨した。
だから私はこの大学に対し て厳しい見方をしている。薬学部が6年制に変わったのを機に、日本では続々新顔の薬学部が出来た。教授を揃えなくてはならないから、日本の製薬会社の研究 所から研究員がごっそり減ったという話だ。大学学部全入時代を迎えて、このように林立した薬学部すべてが生き残れるはずがない。今はほいほい薬学系大学院 に入れて貰っても、10年もしないうちに母校がなくなっているかもしれないのだ。従って楊方偉くんに聞かれたときも、大学での成績が悪くて、それでも日本 に行きたいなら別だけれど、日本の大学院の入試に通る自信があるなら、別のきちんとした大学にしたら?と返事をした。
すると楊方偉くんは国立大 学でいいところを紹介して下さいという。このような言い方はまだいい方で、私たちの部屋にいきなり入ってきた見ず知らずの学生が、「日本に留学したいので 日本の有名大学を紹介して下さい」と言うことがある。こういう学生には、「ここは有名大学の紹介所ではない。自分がどこに行きたいかを自分で調べて考えな さい」と言って追い返す。彼ら学生は、大体が放っておけば日本の有名大学に行きたいとしか言わない。有名大学に行くのが目的であって、何の研究をしたいか は問題ではない。有名大学だとあとで人に言うとき、名前の通りがいいからだ。
楊くんにも、まず日本の研 究室を自分で調べて、どこに行きたいかを自分で考えて見つけてご覧なさいと言った。行きたいところが決まったら、その先生に楊くんの気持ちをメイルで書い て、受け入れをお願いしなさい。その先生が楊くんを受け入れて良い、そのためには面倒な奨学金申請の手続きをしても良い、と思ってくれたら、日本留学の大 きな関門の一つは超えたことになる。
楊くんは私の示唆に従って、北大大学院の先生にメイルを書いた。ところがいつまで経っても返事がない。「達也先生。まだ返事が来ません。」と時々報告する楊くんの顔がだんだん泣き顔になる。
立場を変えて日本の先生の気持ちになってみると、これは容易に分かることなのだ。日本の大学にいた頃、私の所には年間20-30の メイルが来た。中国、フィリッピン、タイ、インド、インドネシア、パキスタンなどから、日本(の先生の所)に行って勉強したいのでどうかよろしくの言う趣 旨だった。東工大を去って大分経った今でもこのようなメイルが来る。日本の大学院の先生にしてみれば、日本国内から大学院希望者が十分ある状況下で、海外 の留学生まで取らなきゃならない義務はない。たとえ留学生を取ろうかと思っても、国外からの申し込みだから、ここに集めて試験や面接をするわけにはいかな い。つまり、数十ある申し込みの中からどれか一人をどうやって選んだらよいか分からない。来たいと言うだけで、本当の学力も、人柄も、性格も全く分からな い中から人を選ぶことは出来ないことだ。従って、返事を全く出さない先生もいるけれど、私は何時も丁重に断り状を書いていた。「日本の学術振興会など、ど こかの奨学金を取った上ならいらっしゃい」と。
(この稿つづく)
2007/07/21 08:12
卒業祝いと送別会 その七 楊方偉くん最終話
つまり大学にと言うか大学 にいる自分宛に海外から沢山の留学の申し込みがあっても、そのうちの誰か一人の留学生を選びようがないのである。誰かを候補にして留学生を採っていいかな と思うのは、自分の知っている人から強力な推薦がある場合である。知人からの学力保証、人物保証、身元保証があれば初めてその留学生を採ってもいいかなと 思うわけだ。
楊くんの行きたい北大大学 院のその先生に私がメイルを書けばいいと思われるかもしれない。でも、以前に大阪大学大学院の某教授が、ここの薬科大学のある学生の留学を受け入れると 行って手続きを始めたまま途中で音信不通になったと学生が訴えてきた。話を聞くと放っておけないので、メイルを書いた。返事がない。二度書いた、でも返事 がない。全く無視されたのだ。それに懲りて私はこのようなときには薬学界に隠然たる力を持っている某製薬会社の研究所長だった岸先生にお願いしている。彼 は顔が広いので伝手をたぐると、たとえば昔の彼の部下が出た大学の指導教授の今は二代目だとか言う具合に、何らかの経路でその先生にたどり着くのだ。
その岸先生が例年通り9月 に薬科大学に短期集中講義に来られたので、楊くんを紹介し事情を説明してお願いした。「いいでしょう」と彼はメイルを書いてくれた。そしてすぐに北大の先 生から、楊くん宛にも「メイルを見たけれど忙しくて今は何の行動も起こせません。」という返事が来た。
楊くんはそれから何度もメイルを書いて自分のこと、自分のやりたい勉強のこと、将来手がけたい研究をその北大の先生に訴えた。やがて北大の先生は彼の熱意に打たれて、とうとう楊くんを大学院学生として受け入れる気になった。「入試に通れば私の所に来てよいです。」
その半年あとには、その先 生は日本政府国費留学生申請手続きも行ってくれたという。これは大学から、「これこれこのような優れた留学希望者がいますので、是非奨学金を日本政府から 出して下さい」といって文科省に申請し、留学生が日本に来る前に政府奨学生を採用する制度である。これこそ留学生に不安を与えずに日本に留学させることの できる方法であろう。規模が千人くらいで、ずっと長いあいだ国立大学しかこれに応募できなかったが、1年前から門戸が広がって私立大学でもこの申請が出来 るようになった。といっても日本の大学のすべてが奨学金を巡って競争するのではなく、各校何名という推薦枠が設けられている。つまり、その大学から推薦さ れる候補の中に入れれば、まず文科省の承認が出て、政府奨学生となることが出来る。
「楊くんは私たちが朝7時に大学に来るともう実験室に来ていました。研究はArhgdigの 遺伝子を取ってそれをベクターに入れて細胞に強制発現させようというもので、王毅楠を指導者として毎日人一倍実験をしていました。卒業実験に限って言え ば、彼は昨年実験熱心で大いに感心した満さんに匹敵する学生です。満さんも朝7時前から夜は11時まで毎日実験をしていました。実験室に誰がいなくても彼 女はいました。今年の楊くんもそうです。」
「でも満さんと違うのは、 楊くんは人付き合いがとても良いと言うことです。誰とでも付き合い、誰とでもおしゃべりをし、そして次の瞬間にはもう実験に打ち込んでいるのです。楊くん はクラスメイトから新聞記者というあだ名で呼ばれるくらい、身の回りの出来事に精通しています。クラスの誰が何をしたと言うことはもちろん、阿部さんが靖 国を訪問したかどうかを知っていますし、浜崎あゆみの新作も知っています。というわけで楊くんの時間の使い方の能率の良さは驚嘆すべきものがあり、楊くん はご覧のように人畜無害な顔をしていますけれど、この勤勉さで将来きっと大人物になるでしょう。それでは、カンパーイ。」再びがお腹がお茶でぼがぼ。
この送別会の数日あと、楊 くんは学科からの最優秀論文学生に推薦されたと言う話を聞いた。電話連絡は小張老師から私にあったけれど、例によって誰か学生と話したいというので、部屋 にいた敢さんに電話を渡した。どのような電話なのか私には報告なしに話は楊くんに伝わり、彼の行動を見て彼に聞いて彼が推薦されたことが分かったのだっ た。
2年前には同じように私たちの研究室に進学した王毅楠くんが最優秀論文賞に輝き、その指導教官と言うことで私は500元の賞金を手にしたのだった。その時の500元で研究室の学生のほか薬科大学の日本人の先生たちを全部レストラン招待したのは良かったけれど、その金では足りなくて、結局先生たちは自分たちの分は自分で出さなくてはならなかった。未だに思い出すと汗顔の至りである。
2007/07/30 09:58
卒業祝いと送別会 その八 寧娜さんとノーベル賞
寧娜さんは楊方偉くんと同級生で今年の卒業生である。彼女は成績優秀で推薦されて大学院は北京の協和医学院に進学することになり、最終学年の卒業研究も北京 に行って行うことになっていた。しかし寧娜さんは1月に北京に行くまでの数ヶ月、時間のある限り私たちの研究室に来て勉強したいと言ってきた。
彼女が行くことになっているこの協和医学院の教授というのが、一寸した関係で私の知人だったのである。関係というのはこういうことだ。私が東工大に移る前 までは三菱化学(当時は三菱化成)生命科学研究所にいたが、そのときの私の研究室の研究員だった東秀好博士が私の去ったあと独立して採用したポスドクが中 国からの留学生で、それが彼だったのだ。学会で紹介されて顔を合わせた記憶がある。
そのような関係があるので、寧娜をたとえ数ヶ月でも研究室に出入りを許して彼女の勉学を助けて上げなくてはいけないだろう。それに彼女は3年生の時に私の生物化学、続けて4年生で分子生物学の講義を受けているけれど、それ以上に彼女の思い出が深い。
というのは、瀋陽では瀋陽日本人会の主催で毎年4月に瀋陽日本語弁論大会が開かれている。その実際の運営は教師の会が行っている。私は日本語の教師ではな いので日本人教師の会の主要なしごとからは逃れているので、当日司会役に駆り出されただけだが、彼女が作文に応募して審査に通り最終弁論大会に出場した昨 年の会場に私もいたのだった。
作文を書いてその作文審査を通ったとしてもその作文は誰かが手を入れてなおしたものかも知れない、と言うので、最終選考会は即席スピーチというもう一つの 試練が課せられる。これは、大会実行委員会が作成した即席スピーチの題目を目隠しで二つ選ぶ。たとえば、「中国の環境汚染が深刻になっています。あなたは どのようにしたらよいかと思いますか」とか、「あなたは異性の間で本当の友情が育つと思いますか」というようなものである。この二つのうちから好みを一つ 選んで5分という与えられた時間で話す内容を考え、壇上に連れ出されて、そこで制限2分間というスピーチを行うのである。2分を超えたらそこで打ち切られ る。日本語学習で得た実力のすべてがここに出てしまう。最初の作文のスピーチをいかに上手くこなしても、ここで出るのが実力であると思われている
寧娜が選んだのは「もしあなたがノーベル賞を受賞したら賞金は何に使いますか」というものだった。
「もしノーベル賞を受賞して一千万元の賞金を手にしたら、私は基礎的な研究が出来る研究所を作ります。今中国は一生懸命頑張っていますが、まだ生命科学の 研究では世界に大きく遅れています。この生命科学の研究で得られる成果はそのまま私たち全世界の人たちの健康や福祉に役立つのです。大学の先生達は給料も 安く、それでも実験器具も十分ない劣悪な環境の中で研究を一生懸命続けている真面目な先生がたがいます。私は良い研究室を作ってこのような先生たちの研究 も助けたいと思います。」
寧娜の述べた内容はおおむね以上のようなものだった。中国のレベルをそのまま素直に捉えた率直な発言であり、あまりに立派な内容だったので胸にぐっと来て 今でも覚えている。これを聞いていた日本人会長から、あれが一番好かった、感激を言いたかったけれどその後会えなかったから、彼女に伝えておいて欲しいと 後になって頼まれたくらいである。
2005年の弁論大会は反日デモが荒れ狂って直前に中止になったが、審査会の余興として学生が歌を歌うための練習をしていた。私たちも物好きに参加した が、そのとき学生の歌の指揮をしていたのが彼女だった。そんな関係で一番先にその学年の中で彼女を覚えたのだったが、翌年の弁論大会での彼女の即席スピー チでは、研究費の乏しさに泣いている我が身につまされ、彼女が特に印象深かったのである。
彼女は10月から1月の間は授業の合間に研究室に来て鄭大勇の実験を見学し、最後には彼女も自分で同じように細胞を培養して実験をやってみるくらいのこと しかできなかった。寧娜はとても気だてのよい子だ。頭が良いしとても真面目なのでこの先北京に行って優れた設備のある大学院で、良い研究者に育つだろう。 私も彼女がノーベル賞を貰う日が来るのを見届けたい。
2007/08/04 17:48
卒業祝いと送別会 その九 李杉珊さんとKasia
李杉珊さんは楊方偉くんや寧娜さんの同級生で、昨年秋に東京工業大学が国際大学院の入学志願者をアジア各地で募集したときに応募して、みごと生命理工学研究科の7人の国費留学生の一人に選ばれた。
彼女を巡る話は研究室日記に何度も書いた。瀋陽日本人教師の会のジャーナル「瀋陽日本語クラブ」26号にも同じ材料で長々と書いている。
先日の日曜日、私たちは東京のレストランでKasiaと彼女の夫の二人に会った。Kasiaは1994年秋にポーランドから来て東工大の国際大学院に入 り、私たちの研究室で博士課程を修了した女子留学生である。私たちは日本に戻る度にこうやって出会って食事をしながらお喋りをしている。
東京工業大学の国際大学院は、私の記憶では始まったのが1993年だった。国際大学院と言う以上、英語が公式言語となっていて日本語能力は問わないという ものである。英語しか分からない学生が来るなら、大学側も英語環境を整えて受け入れなくてはならないのに、決してそうではなかった。
国際留学生の受け入れの寮の管理人は英語が分からなかった。Kasiaは日本に到着した夜から東工大国際留学生会館という寮に入った。そのときは私の妻が 成田に出迎えていて宿舎まで案内したけれど、大変だったらしい。Kasiaはそれ以来毎日研究室の時間が終わって寮に帰る度に話が通じないので苦労の連続 だった。
学生課の職員にも英語が理解できる人がいなかった。留学生への知らせは全部日本語で、それをKasiaに伝えるため何時も私が呼びだされるか、あるいは研 究 室の秘書である志をりちゃんの仕事になった。大岡山キャンパスの事務とも連絡を取る必要があり、そこに行くのに一人ではたどり着けないので、志をりちゃん がたいてい付き合った。留学生は日本語が分からなくても英語が出来ればよいと言う以上、大学側がそれなりの対策を講じて置いて良かっただろうと思う。
対策と言えば講義も間に合わせだった。大学院修士課程に進学した留学生が受講する講義として3科目が用意されていたが、彼らはほかに選択の余地なくこの3科目だけを取って合格しなくてはならなかった。沢山の講義を用意できなかったのは教官側の事情による。
英語で自由に講義できる人は米国の大学院を出た猪飼さんと、海外との共同研究歴の長い星元紀さんがいるだけだった。彼らはそれぞれが独立に講義を受け持った。それ以外の教官は英語についていえばせいぜい1-2年の留学経験がある程度である。自由に講義できるわけがない。私のいた生体分子工学研究科では、バイオテクノロジーという名の講義を全教官で分担して担当した。一人4時間の出番なので英語の方も何とかなる。こういうわけで、生命理工学研究科は博士課程なので講義を聴く必要はなかったが、星さんの発生生物学の講義は楽しんでいた。星さんの講義は、日本語だけれど、今では放送大学で受講できる。
と言うように大学側の受け入れ態勢はお粗末だったけれど、私の研究室の学生・職員は地球を半周してきた女子学生に対してみな親切だった。博士過程が終わる頃にはKasiaは片言の日本語を喋っていた。博士を取ったあと、東京医科歯科大学の助手に採用されて今では9年。先頃の学制改革で、彼女の職名は助教となった。英語で言えば、assistant professorである。
Kasiaは、日本語を読 むのはスラスラではないのでメイルだけは今でも英語だが、今では英語を使わずに日本語で話している。「教授選挙に立候補できるじゃない。教授になるのを楽 しみにしているよ。」というと、「いえ、いえ、私は教授なんか目指していないです。今やっているようなことが楽しいですし。」とKasiaからは返事が返ってくる。
助教と名前が変わっても学 生実習は彼女の受け持ちだし、この春は「日本語で」講義をやらされたそうだ。これまでは英語で講義していたのに、専門用語を日本語では話すのは「とても大 変ですよ。」と肩をすくめていた。でも、このごろでは私たちは互いの研究の話も日本語でするようになっているので、彼女が日本語で専門用語も自由に駆使で きるのを知っている。
この間は銀座のレストランで出会って、彼女にご馳走になってしまった。「学生の頃は何時もおごっていただいたし、いま私はちゃんと給料貰っていますし」と彼女は言う。そうかも知れないけれど、これでは中国の老師と同じ感覚になってしまう。この次はこちら持ち、である。