2004/04/02
神風(かみかぜ)はここでも
昔の日本には神風タクシーという言葉があった。第二次世界大戦の末期に、彼我の間の破壊兵器に歴然とした物量の差があって為す術のない日本の軍部が、片道燃料と爆弾を積んだ戦闘機を敵艦に体当たりさせるという戦術を編み出し、その最初の攻撃隊に付けられた名前が神風特別攻撃隊だった。
この戦術は日本敗戦の日まで続けられ、アメリカ海軍はこの自爆攻撃法を「カミカゼ」と呼んで恐れたという。
1960年代の高度成長期の頃の日本のタクシーの運転は乱暴だった。互いに道を譲るどころかホーンを音高くならし人や車を蹴散らして走り回っていた。誰が名付けたのか、神風運転とか神風タクシーとか呼ぶようになった。
我が物顔に走り回るタクシーに畏怖と恐怖の念で神風タクシーと名付けた気持ちは分からないでもないが、自分の身は国のためと信じて体当たりして果てた人たちを指す神風の名前を乱暴運転に使うのは良い気持ちがしない。20歳になるかならないかの若者が、自分の命と代えても祖国を救おうと念じた気持ちを傷つけるように思う。
それはともかくとして、今は日本でもカミカゼ運転という言葉は死語になっているけれど、瀋陽に来た途端に、それを思い出した。
日本ではタクシー或いは運転手付きの車に乗るときは運転手の後ろが上席、その隣が二番目、そして運転手の隣のいわゆる助手席が最下位となる。ところが場所が変わって中国では、この助手席が最上席である。タクシーを止めるために瀋陽の道端に立っていると、前に二人乗ったタクシーが結構多い。つまり、ほとんどの場合乗客は助手席に乗っているのである。
私も瀋陽では「入郷随俗」で、タクシーを止めたときに運転手が開けるままに助手席に座ったことがある。そのあとは、もう言うまでもなく察して頂けると思うけれど、本当に生きた心地がしなかった。
私だって日本では毎年2万キロメートルくらいの運転を何十年も続けてきたのだから、運転の腕には覚えがある。ところが「ここでブレーキを踏む」と思ってもタクシーはぐんぐん前の車に接近する。人が先の方の交差点を渡っていて「減速しなくちゃと思うのに」アクセルをグイと踏みこみ、ハンドルを大きく切る。慮外の動きにすっかり翻弄されて、アドレナリンだけ無駄に放出されていくので、目的地に着いたときは体中が疲れ果てて、立ち上がるのもやっとだった。
別の機会でタクシーに乗ったときに、連れの中国人の学生にこの話をしたことがある。「瀋陽のタクシーの運転は乱暴で、日本の昔のカミカゼ運転という言葉を思い出すけど。」
日本語ペラペラの学生だけれどカミカゼ運転は知らない。その説明をすると、学生は声をひそめて「そんなことを大きな声で言うと、殴られますよ」と囁く。よくよく聞いてみると、ここではどうやら、批判は悪口を言っていると取られるから気をつけなさいよと言うことらしい。
なに、驚くことはない。日本だって本音を言って通る社会など皆無といって良い。もちろん、私の属する科学者の世界では、相互批判は日常的なものである。研究は互いの厳しい批判にさらされているが、これは当然のことで、国民の税金を使って支えられているのだからtax payerになりかわって(あるいは神になりかわって)その研究の意味を批判・評価するわけである。けれども、「何をつまらないことやってんだよ。あんたバカじゃないの」なんて言う本音は決して口にはしてはいけないことぐらいは誰でも知っている。でも、「このタクシーの運転は乱暴だね」というと、殴られる危険を冒しているとは知らなかった。
私たち日本人は生活の道具に始まって、文字、漢語、儒教に発するものの考え方、つまり文明も文化も(幸い宦官と科挙は輸入しなかったけれど)、長年にわたり多くのものを中国から学んだ。私の高校の頃は漢文の授業があって、「鼓腹撃壌」、「陳勝呉広」、「連城の璧」、など多くの成句を学びその情景を心に描いてきたので中国の文物に対して違和感は全くないけれど、やはり文化的背景が異なるのだから、もの考え方も違うはずだ。まずは現代の中国の人々の行動の規範と原理を理解することに努力しよう。
<別の学生に「瀋陽の印象がどうですか」と聞かれて「瀋陽の交通事情は世界で最悪だ」と思わず本音を吐いたことがある。道を勝手に横断するのはこちらの責任だとしても、ここでは交差点を信号に従って渡っていても命がけなのだ。ところが、この学生からは「瀋陽の運転手は運転がうまいから速度が沢山出せるのです」という得意げな返事が返ってきた。
やれやれ。でも、これも文化の違いである。互いの考えの違いを受け入れるところからお互いの理解が始まる。交流はまだ始まったばかりだ。相互理解が真に可能になるまで、車に跳ねられることもなく、この瀋陽で生き抜きたいものだ。
2004/04/11
人は見かけによらない
中国の床屋は大変安い。大学の近辺の「髪」と書いてある店が5元で、日本円にして65円位のものである。大学の食堂では一人3-5元で食べられるし、繁華街のキャフェテリアでも10元でOKだから、日本の標準の昼食代の半額である。
この店には理髪の椅子が4脚あって、若い男の職人が2人、あとは若い女性が数人いる小型の店である。まず最初に店の奥に導かれて髪を洗ってくれる。そこには理髪の椅子がその背中を思いっきり後ろに寝かせて置いてあり、椅子に仰向きに寝ると、首の後ろから首かせみたいなのが嵌まって来て、襟に水が伝わらない仕掛けである。トイレの便座みたいなものだと思えば正解である。
理髪の椅子に導かれた後は、何しろ漢語がまだ話せないので、手真似で髪の毛をこの辺まで切ってと意志を通じさせたつもりになった後は、若い職人任せである。 この若い床屋さんは二人とも長髪にしていて、しかもカットの具合が大変格好良い。二人ともお互い上手な技術を持っているに違いない。私は日本では髪を長めにしているけれど、中国の床屋では、同じようにという注文も出来ないので、職人任せになる。
<その後は運を天に任せて目をつぶる。先ず髪の毛を持ち上げ手先を切って短くし、それから全体を揃えていく手順は日本の美容院と同じである。そう、私は日本ではいつも美容院に行っていたのだった。そこのマスターと店の雰囲気がすっかり気に入っていてもう20年もの間、床屋も含めてほかの店に行ったことがない。このなじみのマスターに会えなくなったことだけが私の瀋陽生活のマイナス面である。
やがて刈り終わったというのは感じで分かるので目を開けると、鏡の中の私に向かって職人が「もう出来たよ。どうだい?」という顔をする。「ハオ、ハオ」とニコニコして(それしかやりようがないのだ)、又髪を洗って貰い、ブロウして撫でつけられてきわめて格好良く見える髪を頭頂に戴いてうちに帰る。うちに帰ってから再び髪を洗うと、そのあとは短い毛が突っ立って、どう見ても若い学生並みとなる。
私たちの研究室は8時から6時まではコアタイムとなっている。私たちは毎朝7時にはうちをでるので、その15分後にはオフィスに着いている。学生は夜遅くまで実験室にいるらしく、ほとんどは8時直前にやってくる。彼らは先ずオフィスに来て私たちに朝の挨拶をするしきたりだ。
「早上好」といいながら入ってきた魯くんは「おっ」といって自分の頭をさして笑い出す。次の王麗さんは挨拶するどころか、私の頭を指さして笑い転げる。次の沈さんも朱くんも同様である。謎解きは胡丹くんがしてくれた、「それじゃ若者ですよ」と。
この胡くんは私たちに漢語を教えている。先日は「今度の連休は○○と一緒に何処に旅行しますか?」「私は泳ぐのがうまい」のたぐいの表現を教えてくれた。何 時も表現をいろいろと変化させて教えてくれるが、このときは「山形老師は泳ぎがうまいけれど、女の子は誰も一緒には行かない、なぜなら老師は老人だから」という。「うそ、そんなことないよ」と心の中で叫んだが、すとんと腑に落ちたのは、中国では特に「○○らしくする」とか「歳を取ったらこうでなくてはいけない」という類型化が普遍的なのだ。
つまり私は老人の老師だから、ここでは若者らしい髪型をしていてはおかしいのだ。真冬に日本のユニクロで見つけた耳覆いをしていたら、これも「それは年寄りの女性がするものですよ」と言って散々笑われた。
老人らしく振る舞えだって?だけど、そんなことは私には無理である。見かけは如何ようであっても、心は希望に燃える青年なのだ。大体がそうじゃなければ、ここにいるわけないじゃないか。
2004/04/21
ほんとに見事だね
「シンデレラ物語」はあまりにも有名だ。たとえ貧しい家の出身でも、美しければ女性ならば突然運が開けることがある。女性なら誰でも、シンデレラに我が身をな ぞらえて、私を探している素敵な王子様が居ないかな、白馬の騎士が私をここから救い出しに来ないかな、と夢想した幼い時代があったに違いない。
しかし、シンデレラ物語は今はあまり流行らないようだ。身の回りに「玉の輿に乗った」話もあまり聞かないし、昔ならそう思ってもおかしくない話でも今では 「玉の輿に乗った」などと言う表現は使わなくなった。実際、数年前にある国の有能な女性外交官が雲上人と結婚したとき、おおかたの反応は「羨ましい」では なく、「可哀想に」だった。
これは、何と言っても女性が力を付けてきたからに違いない。自分で仕事をする能力がある。経済的にも自立できる。それなら、男に選ばれるしかない「玉の輿」を待つなんて「関係ないわよ」ということだろう。
今、 私たちは中国に暮らしている。中国の街を歩いて最初に目に付くのは、女性が皆揃って背筋をしっかりと伸ばして歩いていることだ。歩幅も広いし、闊歩しているという表現がぴったりとくる。この大学の中でも、日本の薬大と同じく女子学生が多いためか、女性の方が伸びやかに見える。
日本の研究所にいる私の悪友が中国に遊びに来たとき、「中国の女性はみな背が高くて、すらっとした姿勢で歩くから、胸がぴょんと前に突き出ていて、ほんとに見事だね」と、文字通り垂涎の眼差しでセクハラ的なことを言った。私は女性の姿勢から形而上的問題を論じられるが、この悪友は形而下的にしかものが見られず、何時も私を下に引っ張っている。
胸を張って歩く女性の姿勢からは、中国の女性が古いしきたりから解放されていることが感じられる。女性の解放は共産党革命の時以来だし、日本では女性の大学教授が2〜3%しかいないのに比べて、この薬科大学には女性の教授がずらっといるので、日本よりはずいぶん女性の地位が高いと思っていた。
しかし、ジュネーブで4月初めに開かれた第60回国連人権委員会で、中国は女性の人権の全面的な推進に向けて努力していると代表が発言したという。これは、中国でまだ女性が完全に平等には扱われず、女性を差別する見方がまだあることを意味している。
実際、別のニュースでは、「中国で男児偏多が顕著、1.3倍も」というのがあった。昨年の全国の男女出生比率は女児100人に対し、男児約117人に上り、ある地域では130人になるという。世界何処でも自然の出産では妊娠時の男女比は1.10であり、出生時には1.05となる。男性の方が成長時期にある程度脱落するので、結婚年齢までにはちょうど良い比率となるのが今までの例であった。
したがって、人為的にこの高い男女比が生み出されているわけで、これは建前とは別に中国の大部分では男尊女卑が生きていることを意味していよう。しかし、女 性よりも男の数が多ければ男は結婚難に直面し、女性は売り手市場となる。このような土壌なら、シンデレラ物語を読んで夢馳せる女性もまだたくさんいるかも 知れない。
さて、シンデレラ物語とは逆の、男が玉の輿に乗るという話は聞いたことがないと思っていたが、日本の皇室でもいずれ女子が位を継ぐ時代になるだろう。そのとき玉の輿に乗る男子は大いに注目を集めるに違いなく、今から気の毒に思ってしまう。
<しかしこのように書くことは、私が実は男性優位の視点でものを見ているからに違いない。情けないことに、私もあの悪友と考えることは大して変っていないようだ。
2004/05/01
生まれ変われるものなら女子に?
瀋陽では日本語弁論大会が毎年4月に開かれている。今年がもう8回目だそうだ。瀋陽に進出している日本企業の人たちが中心となって作っている「瀋陽日本人会」が主催し、日本語を教えている日本人教師が作っている「瀋陽日本人教師の会」が協力という立場で、実質的な運営をしている。
私は日本語の教師ではないけれど、今期は生化学を日本語で教えているから無関係ではないということでこの会に入っている。会員には当日何かの役が割り振られて、私は発表会の日は午前の司会をすることになった。
3部門のうち日語専攻の大学生の出した作文から選ばれた18名が5分の持ち時間で発表をするのである。想像付くように、どの学生も十分な練習をしてきているので、誰もが落ち着いて、身振り手振りを使い、会話の入ってくる話では落語家みたいに声のトーンも首の位置も変えて、堂々たる熱演である。
これではどうやって順位をつけるのだろうと思わず心配する出来である。しかし、弁論大会も歴史を重ねているので、その心配にはちゃんと答えが用意してあっ た。即席スピーチと名付けられているその仕組みは、大会主催者が用意した質問ふたつがひと組となった紙が沢山箱に入っている。これを発表する学生が引いてそのうちから好きな方を選び、話をきっかり5分間で用意し、2分間の持ち時間で即席の話をするという仕組みだ。
2分を超えると直ちにストップが掛かる。発表者の交代時間を考慮して2分半ごとに一人が発表するという時間割になっているので、時計係は勿論、この時間は司会も時計とにらめっこで忙しい。しかし、密かに心の中で採点したものがほとんど審査員による最終成績発表と一致していたので、作文発表をする学生のうまさが付け焼き刃だと、ここでそれが剥がされて実力勝負となることがよく分かる。
ともかく、この午前の部の発表者18名は全員女子だった。司会をしてすべて心得ているはずなのに,この直ぐ後に男性の発表の部があるのではないかと思ってしまったくらい、鮮やかに女子だけだったのである。その後の発表者も含めても全部で39名の発表者中、男子は3名だけだった。最後の入賞者9名の中に男子は一人もいなかった。
聞くと第一次作文選考の時には、学校名、名前を伏せて(つまりは性別も伏せて)審査するそうである。したがって、作文を書いて出すのは圧倒的に女性が多いの か、文章の上手なのは男性よりも圧倒的に女性なのか、このどちらかか、両方なのだ。いずれにしても女性が優勢であることには変わりない。
男女平等の建前からすると、男女に生理的な違いがあることを唱えることは長い間禁物だったが、男と女とでは脳の出来が違って言語能力は圧倒的に女性で発達し ていることは、もう常識となっている。脳の作りが違うのだから、作文を書こうと思う数も女性が多く、上手な作文を書くのも女性に多く、したがって、成績順に選べばすべて女性ばかりという結果になるのは当然だろう。
このように中国の日本語弁論大会では女性が圧勝であるが、中国はまだ男尊女卑の傾向が根強いので、男性に将来生まれ変わるとしたらどちらの性が良いかと訊く と、圧倒的に男性が選ばれる。日本でもつい最近まで女性は生まれ変わるなら男に生まれたいと言っていた。しかし、日本の昨年の調査では、ついに女子の8割近くは次に生まれてくるなら、やはり女性がよいという答えを選んだそうだ。
今や日本ではやたら元気なのは女性だけだ。中国では今こそまだ男性優位だが、これだけ元気な女性を見ていると、女性にこそ生まれ変わりたいと願う男性の数がこの中国でもいずれ増えるかも知れない。
男の子の欲しい中国のご両親、女子を産むことが子供への最大の贈り物かも知れませんよ!
2004/05/16
皇太子妃の健康問題で考えたこと
日本の皇太子はこの5 月13日にヨーロッパ諸国の訪問に出掛けたが、皇太子妃の雅子さんを同伴できなかった。新聞報道によると雅子さんは体調が良くなくて旅行を見合わせたとのことで、皇太子は出発に先立つ11日に記者会見をして、結婚後の皇室生活で雅子さんが精神的に痛めつけられてきて、それが今回の不調に結びついていることをはっきりと述べた。
誰のことにも批判めいたことを言わないという今までの皇室の有りようを見ると、この発言はずいぶんと思い切ったものである。結婚を渋る雅子さんに、皇太子が「君のことは私が必ず守るから」と固く約束したという昔の報道を思い出して、大いに微笑ましかった。
瀋陽にいるために、細々とつながるinternet を通じてしか日本のニュースに接することが出来ないので、日本における雰囲気は十分には分からないが、この記者会見は様々な反応を惹き起こしたらしい。宮内庁の役人は、皇太子の発言を全面的に認めれば自分たちの落ち度になるし、そうかといって皇太子の発言を否定することも出来ないので狼狽している様子が読みとれる。
5 月12日のニュースには、ロンドンの新聞はもっと明快に、皇太子妃は「男子出産まで外遊は禁止されている」と報道したと書いてあった。なるほど、実はそうなのか知れないと納得できる。皇室典範では、皇位継承権は男子にしかないと決めていると言う。周囲の関係者が、雅子さんが早く男子を産むように望み、昔の「子なきは去れ」と同じ気持ちで雅子さんに接していることも想像できないことはない。子供は女性にしか産めない。しかし、「私は子供を産む道具か」と思ったら今はどんな女性でも耐えられないであろう。
皇太子は、女子の皇嗣問題についての発言を避けたが、娘がまだ幼いうちに議論して将来を決めた方がよい。私たちには関係ないことだが、皇位継承権を男子に限っているというのでは、日本の男女同権はまだまだ偽ものである。
しかも現行の日本国憲法に立脚すれば、皇位継承権を男子のみに限る法律は、明らかに憲法違反である。本来は憲法の精神に沿って皇室典範が改定されなくてはならないであろう。これは難しいことだろうか。
おまけに、保守的な為政者は何時でもどこでも「前例がない」といって古来世の中の変化に抵抗をしてきたものだが、この問題に限っては、女帝が日本の古代に多 く出現しているのだ。女子の世継ぎを認めれば、皇太子夫妻への廻りの圧力がなくなる。しかも天皇家の可憐な娘がいずれ皇位に就くという期待が、今の日本を 覆う閉塞感を一挙に吹き払って日本に新生の息吹をもたらすのではないだろうか。
今は傷だらけの小泉さんだが、最後のスタンドプレーとして取り組んだらどうだろう。女性の熱狂的な支持を得て、再度小泉ブームがわき起こるに違いない。
2004/05/31
お熱いのがお好き
講義をするために初めて瀋陽薬科大学を訪れたのは2000年の6月終わりだった。70人くらい入る教室だったが、その蒸し暑さといったらなかった。窓は二重にして冬の寒さに備えているだけあって窓が小さく、これを全開にしても暑さを追い出す風が入ってこない。
学生は片手にうちわを持って扇ぎながら聴いている。人によってはこの暑いのに隣の人にべったりと寄りかかり、相手の身体に片手を廻しているので、空いた手でうちわを持って互いに扇ぎっこをしている。つまり、講義を筆記する手が空いていないから、それはお預けである。
大 学に来てまず驚いたのは、この暑いのに教室に冷房のないことと、汗だくになりながらも熱心に勉学に励む学生がいることだった。しかしそれ以上にびっくりし たのは、この暑いのに、そして衆人環視の中で、しかも私という外国から来た「偉い」先生が「ありがたい」講義しているのに、それを無視して、教室の中でひ しとばかりにくっついている二人がいることであった。
大学構内を歩くと、手をつないでいる多くの男女二人連れにすれ違う。日本では、高校生かあるいは中学生にはこのように仲良く手をつないで歩いているところを見ることもあるけれど、まず普通にはあまり見かけない光景である。
大学の庭のあちこちの木陰にベンチが置いてあるが、ベンチはいつも二人連れで占領されている。感心したことには、このベンチが二人しか座れない仕組みになっているので、大学も粋な計らいをしているといって良いかも知れない。
学部の学生だけで5,000 人以上の若ものがこの薬科大学にいて、しかも学部のうちは全員が大学構内にある寮住まいである。昔の若かった頃の自分のことを振り返ってみると、異性のこ とが気になって仕方がない時期に数年間、朝から晩まで一緒の生活をするのだから、好きなもの同士が出来ても不思議ではない。当然の成り行きであろう。
しかも、寮では男女が厳しく別れているし、大学の外で公然と二人だけの時間を持つことも許されていないので、逆に大学の中では二人だけの世界をおおっぴらに 持つことになるのだろうと思う。大学の先生に聞くと「私たちの若い頃と全然違います。私たちはいつも離れて歩いて寮のところまで彼女を送って、お辞儀して別れていました」ということであったが、ま、世代が違う。
構内にはこの5,000人分をまかなう5階建ての大きな食堂がある。彼らは、ふつうは朝昼晩をこの食堂で食べている。その食堂で、恋人同士の二人が差し向かいに座って「アーン」と相手の口をあけさせて食べさせるという行為が、私たちの赴任する数年前に流行ったそうだ。
それを聞いて「えっ、その写真撮りたい」とわたしは張り切ったのだけれど、「いくら何でもそれは」ということで大学が禁止したそうだ。それを禁じた張り紙が食堂の壁に最近まで残っていたと聞いて「せめてその写真でも」と思ったのだが、見つける前にはがされてしまったらしい。
私たちの研究室の大学院生の胡丹くんは長い間「ひとりもの」だったが、やっと最近すてきな恋人が出来た。毎日が楽しくて仕方がないという顔をして研究室にやって来る。彼女は1階上の別の研究室にいる。胡くんは11時半になると「じゃ、先生、食べに行ってきます」と昼食にいそいそと出掛ける。5時半になると、「じゃ、先生」がまた始まる。この状態だと何を言ってからかっても、彼を喜ばせるだけなのだ。
「アーン、して食べさせているの?」と聞くと「ええ、彼女に食べさせて貰いました」と笑いが止まらない。うまくすると、食堂で禁断の「アーン?」をしている胡くんたちを見る機会があるかも知れない。見たからどうってことがある訳ではないけれど。
2004/06/03
不思議の国の山大爺-1
瀋陽薬科大学の私たちの研究室に入って大学院博士課程をやりたいという学生から連絡があった。入学試験を受けたいという。それは試験まで半年以上ある昨年の秋のことだった。その後何度もmailのやりとりをして、もし大学の筆記試験を通り、かつ面接で合格すれば研究室に入っても良いという返事を送った。
このやり方は本質的には日本でも全く同じである。博士課程によその大学から受験生がある時に、試験の日まで誰が自分の研究室を受けるか知らなかったと言うこ とはない。あらかじめ希望者が会いに来て、「いえ、結構です」、あるいは「試験に通ったならば研究室にどうぞ」と言うことになる。
その後も彼とは時々mail を交換していたが、3月終わりになって、4月半ばに入学試験があるので、その時私のところに寄ってもいいかと言ってきた。彼が受験するということを大学か らまだ何も聞いていなかったけれど、ここに来たらば寄ってくれと返事を出した。すると折り返し彼から、審査会はいついつ、審査に当たるのは私を含めて教授 3名だと書いてきた。へえー、こちらの知らないことを知ってるんだ。
彼が受験のため瀋陽に来るという1週間前になっても、まだ大学からは私のところに受験者があるという連絡がない。それで大学の教務課相当の部署に、私の研究室の受験者がいるのか、いるなら受験者の履歴や成績などの書類を廻して欲しい、さらに面接はどのような形式でするのか、と問い合わせた。
しかし、いくら催促しても返事が全然来ない。それでもやっと筆記試験の前日になって教務課から封書がとどき、受験者の名前の書き入れてある表が一枚入っていた。これは面接をしたあと、採点を書いて送り返す書類である。
書類を見ると、受験者が2人もいるのだ。面接予定日の3日前に、受験者のいることを知らされたわけで、これには大いに驚いた。しかし、ほかの書類は全然入っていない。名前以外は、履歴も、成績も、論文リストもない。資料なしでどんな面接をするのだろう?
教務課に電話を掛けて貰ったら「先生は特別だから」ということで、受験生が大学に提出した書類がやっと面接に間に合うよう届けられた。筆記試験が土日の二日間あって、その翌日の月曜日に受験生一人が面接に来た。事前に連絡のなかったもう一人は、案の定、筆記にも面接にも来なかった。書類だけ何かの用心のため に出していたらしい。
さて、面接の成績表を教務課に提出して一件落着したあと、受験生は指導教官となる教授には必ず事前に連絡するのだから、大学当局が知らん顔をしていても、別 に問題は起こらないことに気付いた。できの悪い学生を採って困るのは教授自身である。全部任せておいても、大して問題は起こらないはずだ。
この一件の間、うちの研究室の学生たちは大学当局から全く連絡がなくて驚き呆れる私を見て、これが当たり前なのだと言って笑っていた。結局のところ、受験者からは連絡を受けていたから、大学から正式に聞いていなかっただけであって、私は受験生のあることは勿論知っていたわけだ。実害は全くなかったと言える。
そ れで今や私も、一寸やそっとのことでは驚かない人間になりつつある。そうでないと生きていくのにストレスが溜まる。ま、誰も困らなけりゃ、それで良いじゃないか。でもね、突然、学位審査がいま始まるからと言って呼び出されるときは、ここは本当にどうなっているんだろうとは思うけれど。
2004/06/05
卒業研究のはたらき足
瀋陽薬科大学の学年歴は8月〜7月である。それで卒業研究の発表が6月半ばと聞いているけれど、正確には何時なのか、私たちはまだ誰も知らない。それでももちろんその頃かと思って、学生は準備を進めている。
私たちはまだこのあたりには詳しくないだろうというので、最近、別の研究室の先生から週末に郊外に遊びに一緒に行かないかと誘われた。研究室の学生三十数名 のためにバスをチャーターしているので、少し空きがあるからという親切な誘いである。誘われたのは大変嬉しいけれど、土曜日は研究室のセミナーがあるし、突然のことで変更もできないし、丁重にお断りした。
すると今度は、隣の研究室で来週はじめに郊外の植物園に遠足に行くと聞いた。瀋陽市から東に20kmくらい行った郊外に広大な植物園があり、これは遊園地も兼ねていて、本物の銃が撃てる射撃場まであるという。市民の物見遊山に何かと人気を集めている。数年前に市の中心から動物園がやはり郊外に移ったけれど、動物園は臭いという理由で植物園ほどは人気がない。
どこの研究室でも学生の卒業研究の発表前で忙しいのに、どうして今の時期に出掛けるのだろう?修士の発表や卒業研究発表が終わってからにしたらよいだろうに。日本の大学にいたときも、年度末は1月初頭が博士論文の発表、2月初めが修士論文発表、そして3月に入って卒業研究の発表があり、それが終わってやっとしばしの休息期間が訪れる。
日本の学年末はさらに1~2 月には研究班会議があるし、年度末の研究報告も目白押しで、3月半ばまでは息をつく暇がないくらいだ。いつだったか学科の先生の一人が外国に行ってしまい、帰国を待ってから3月21・22日に発表会が開かれた。やはり学生は発表直前まで実験でがんばるので、学生もこちらもへとへとになったものだ。
このように日本ではすべてが終わるまで研究室のメンバーがどこかに揃って出掛けるなんて考えられなかったが、薬科大学ではお別れ前の遠足も卒業研究発表前の時期にきちんと教室行事として組み込まれているみたいである。
私たちの研究室はどうしようかと皆に聞いてみた。一緒に何かすることに全員賛成だったけれど、出掛ける時期は卒業研究の発表の前ではなく後ということ になった。じゃ、どこに行こう?瀋陽は大きな街だけれど、出掛ける候補はあまりない。植物園以外は北陵くらいしかない。北陵は清朝のホンタイジの墓で瀋陽きっての広大な公園だけれど、皆飽きていて行きたがらない。
それで、候補の番外として「うちに来てうちで作ったカレーを食べる」というのを出したら、一斉に賛成の声が上がった。女子学生の沈慧蓮さんなどは「四つの足をあげて大賛成です」と飛び上がっている。「諸手を挙げて」以上の歓喜を表しているんだろうけれど、手が足であるところがおかしい。沈さんと一緒の研究チームの胡くんは「なるほど。沈さんはいつも足で実験をしているから、失敗ばかりしているのね」というので、またまた皆で大笑いをした。
カレーは瀋陽でも一般に好まれている料理だけれど、私たちの舌には味は薄いし、塩味は濃いし、どこの店で食べてもあまり感心しない。ひところ学生食堂でも日本の味と銘打ってカレーが出されたけれど、大学の外よりもさらにシャビシャビの薄味で、さすがに1ヶ月も持たずに姿を消した。
うちのカレーの評判は高いけれど秘密も何もない。牛肉を惜しまず使い、ジャガイモなしでニンジンとシイタケを入れて、日本から持ってきたカレールーを何種類か混ぜて入れるだけである。それでも先日は耐圧鍋一杯作って6人で食べきってしまった。今度は学生の恋人たちも来るとするとその倍の人数だ。
どうやって作ったらよいだろう?学生たちは一緒に手伝いますよと言ってくれるけれど、何しろ手でなく足では、何本あってもね。
2004/06/10
孝行娘に囲まれて
私たちの新設研究室にも卒業研究の学生が3人いる。研究室に2月半ばの後期の初めから来て培養細胞を使って研究に取りくんでいる。日本でも卒業前には研究発表をして無事卒業できる仕組みなので、中国でもそうに違いない。初めてのことなので、どのようなやり方で、しかも何時発表をすることになるのか、とても気になる。
卒業研究発表の後にあるはずの今年度の卒業式が何時かも知りたいところだ。しかし、卒研発表が何日なのか、卒業式が何時かについての正確な情報がちっとも入らない。昨年の卒業式は6月末にあったので、発表は6月半ばくらいだろう。やっと、5月31日になって卒業研究の発表は12-14日らしいこと、そして研究室の学生は薬学院に所属しているが私たちは製薬工程学院所属なので、発表は製薬工程学院所属の先生たちの前で行うこと、発表は口頭でしかもポスターを使ってすることが分かった。
3人とも培養細胞を使った研究をしているので、細胞の顕微鏡写真を見せなくては話しにならない。ビラに手書きするわけにはいかない。ビラに書いて発表をするなんて聞くと、今から何十年も前の自分の卒業研究の発表を思い出す。
<大きな白い紙に、そのころ出回ってきたマジックインキで、一枚がその後のスライドの一枚になる感じの内容で字を手書きし、T字型の横のバーに重ねて止めて発表をしたものだ。話が進むごとに1枚ずつ引き落として下にある次のビラが現れる仕組みである。
今は国内外の口頭発表以外の学会ポスター発表は、1 x 1.5メートルくらいの紙に作製するが、ポスターに近寄ってみることが出来るので、字はさほど大きい必要がなく、コンピューターを使って綺麗に仕上げることが出来る。口頭発表では、PCから直接プロジェクターで映写する仕組みになっている。
今度のポスターは、演壇に立って口頭発表をするために使うから、大きな字で書かなくては遠くから読んでは貰えない。
私たちの研究室のセミナーは、このPCとプロジェクター方式を使って、何時も英語でやっているので、卒業研究発表も当然これでやりたいところだ。手書きビラで発表するというので、PCとプロジェクターでは出来ませんかと聞いたら、即座に断られた。おまけに私たちが中国語を理解できないことが分かっているので、発表会に出席することは苦痛でしょう、別の発表会をやっても良いのですよ、という。
聞いてみると,うちの研究室だけで卒研発表会を開き、そこに製薬学院の先生を二人呼べばよいと言う。これをすればほかの学生たちの発表を聞かずに済むわけだけれど、逆に言うと私たちの研究室の学生の発表をほかの教授や学生たちに聞いて貰う機会を失ってしまう。それは惜しい。
そこでさらに交渉した結果、PC とプロジェクターの備え付けてある講義用の教室を借りて製薬学院の卒業研究発表会が開かれることになった。内輪ではなく、学生は別の学院の先生たちの前で発表をすることになったわけだが、結構平気な顔をしている。こういうところは中国の学生は肝が据わっている。おまけに全員が優を貰って卒業できる気でいる。
さて、発表の日が12日であることが9日になって知らされた。彼女たち全員が優を貰える気でいるので呆れていたが、私たちは新設研究室なので全員が優を取って先生の顔を立ててあげなくっちゃというのが真相らしい。本気だとしたら、大変思いやりの深い孝行娘たちだ。
2回のリハーサルをしたが、熱意に応えてまだまだ繰り返ししごかなくては。。。
2004/06/12
いざ出陣の彼女たち
「あと14 時間で新しい人生が始まります。今までのすべての苦痛が消えて輝く人生の始まりです。」後半は「椿姫−ラ・トラヴィアータ−」の最後のせりふに似ているが、これは、夕方一緒に食事に行こうと言って出掛けた一群の学生の中の沈さんの発言である。時は卒業研究発表の前の日の夕方。
<彼女たちが卒業することで、こちらも節目を迎えて1年のサイクルを終えて新しいサイクルに入ることになる。大学のいるおかげで、この毎年日々新らたという気持ちがもたらされる。
特に彼女たちはそうだろう。今までの生活から解放されて、未知の人生に乗り出すというわくわくとした気持ちに満たされているのは当然だけれど、もっと強い開放感を感じているに違いない。
特にこの大学の日語班の彼女たちにしてみると、この5年間(通常コースは4年間)、一部屋に4人という寮生活をしてきたのだ。寮生活の良い面もあるだろうが、プライバシーのない生活には多くの苦労が伴うだろう。
寮の部屋は下が机で上がベッドという組み立てセットが個人の城だけれど、火事をおそれて部屋ではスタンド照明と、ラジオくらいしか使用が許されていない。お茶くらい飲みたいと思って湯を沸かすヒーターをつなぐと、自分の部屋の電気容量が越えてブレーカーが飛ぶ仕組みになっているという。
それで各人が魔法瓶を持っている。大学の構内で魔法瓶を持って歩いている学生に良く出合う。時には両手に持っている人を見かける。これは恋人のために尽くしている男の子であることが多い。食堂の近くに湯を売るところがあって、彼らは昼か夜の食事の時に魔法瓶を持っていって、それに一杯の湯を買ってくる仕組みである。
寮の部屋には勿論、冷蔵庫もフリーザーもない。食べたい盛りなのに、自分の身の回りに自由に調理できる食べ物を置いておくことも出来ない生活を5年間してきたのだ。ああ、この卒業研究発表が終われば、今までのくびきから解放されると思うのも当然であろう。
「カベオリンって何種類あったっけ?」
突然、気付いて大恐慌である。彼女の話に出てくるのはカベオリン-1だから、聞いている方は、彼女の話が分からなくても、カベオリンには幾つかあることが分かる。だから、聞いている先生方には質問の餌をあげるようなものだ。
「カベオリンはどうしてガンの抑制物質なの?」
「カベオリンは細胞のどこにあるの?」
次々に模擬質問が飛ぶ。残り時間が短くなってきて、浮き足立ちながら、彼女たちは最後のおさらいをしている。
カベオリンがどうしてガンの抑制をしているか正確なところはまだ謎だが、ガンになるとカベオリンが減り、ガンを抑えるとカベオリンが増える。逆も真である。メカニズムが分からないから研究をやっているのだけれど、学生にはどこまでが分かっていて、どこからが分かっていないかが難しいところだ。
日本での卒業研究発表では、学生は先生たちの質問の十字砲火に曝されたものだ。究極の質問は「そんなことやって何になるの?」というのだった。指導教官は質 問に答えてはいけないと言う不文律があるために、指導教官は真っ青になって震え、それをほかの教官が楽しむという構図だった。
今日はどうなるだろう?彼女たちは十分用意をした。彼女たちの健闘を祈ってやまない。
2004/06/14
卒研発表を待ちながら
「さあ、今日の発表で私たちのブルーカラーの生活は終わるでしょうか」などと先頭に立って歩いている沈さんはぶつぶつ言っている。「研究者は労働者だって先生言っていたけれど、今日はともかくハレの日ですよね。」
<三人娘の誰も、おしゃれをしているわけではないけれど、いつもよりはきちんとした服装をしているように見える卒業研究発表の日だ。
「そうだよ。卒業研究の発表をする日なんて人生に一回きりしかないんですよ。特別のことですからね」なんて言って、彼女たちの緊張をあおっているのは私。その横で「人生何でも初体験」と言っているのは私の妻だ。「初体験」という言葉は今では特定のことにしか使わないのかと思っているけれど、まあ、そんなことは口にしない方が安全だ。
今回の卒業研究発表会は、私たちの研究室と張先生の率いる生化学研究室との合同で行われた。私たちの研究室には3人、生化学研究室には15人の卒業生がいて、それぞれが10分発表、10分質疑応答という持ち時間で発表に臨んだ。
生化学研究室は教授一人、ティーチャー9 人の部屋で、計10人で全学の生化学の講義を行っている。今は私が入ったから11人という計算だけれど、薬学院には3年生になってから日本語を1年間勉強して、4年5年と日本語で専門科目を勉強する日語班という特別コースがある。私は日本語を半年学んだだけの学生に日本語で生化学を教えるという試みをしているので、数には入っていないかも知れない。
ティーチャーは大学を出て直ぐの学生が採用され、教室の中の今までいたところを変えて講義をする立場に立っている人たちである。生化学のティーチャー9人のうち博士号を持つものは2人だけだという。明治初めの日本を思えば、大学を出て直ぐ教授になった人たちが沢山いたはずだから驚くほどのことではない。
でも、大学の講義は、先生が教科書をただ声を出して読めばよいというものではないから、研究経験のある人とない人が教えるのでは学生の得るところが全く違うのではないかと思われる。しかし、先生の数が乏しいのだから仕方ないのだろう。
発表はコンピューターとLCDプロジェクターの用意してある視聴覚教室である。なお、2001年に来たときにはもうLCDプロジェクターが講義室に設置されていたから、教室でのLCDプロジェクターの導入は日本より中国の方が早かったように思う。
私たちの座っている向う側に生化学研究室の卒業生が控えているので、数えてみると3人が男子で残りの12名は女子である。気付いてみると何と女子の全部が眼鏡を掛けている。驚いて私の研究室を見ると、うちの3人の女子卒業生全部が眼鏡だった。長い間、眼鏡、金歯そしてカメラが日本人を描くカリカチュアに必ず付き物だったけれど、中国人では何だろう。眼鏡の次にはケータイが来るだろうか。三つ目は何が良いだろうと考えているうちに、張先生が話し始めた。
張先生はこれから発表会をやるという挨拶、それに続いて私の紹介があったらしい。私は全く分からず隣の麦都さんにつつかれて、あわてて立ち上がって、にこにこした。次に紹介された妻の貞子は、直ぐに分かって立ち上がって挨拶して、中国語が分かることを態度で静かに示したので、王麗さんが私に「貞子先生に1点」とささやいた。
研究室の学生が面白がって、ことごとに私たちの中国語の点数付けをしているのである。私は何時も、良く言うと二番。はっきり言うとビリ。紹介の順番が逆なら私だって分かったのに。
さて、うちの研究室の発表が始まる。
2004/06/16
ハレ舞台の彼女たち
土曜日が卒業研究発表と知らされたときには、既に私たちは午後には外せない予定が入っていたから、私たちの研究室の発表は午前9時の一番最初ということになった。
その中での最初は沈慧蓮さんの発表である。沈さんはきちんと英語が話せるひとなのに、結構緊張していて言い間違えている。普段は全くあがることのないようなお嬢さんだと思っていたので、密かにおかしかった。初体験には沈さんでもやはり緊張するらしい。発表内容は勿論起承転結がはっきりしていて、3ヶ月半の研究にもかかわらず、とても面白いことを見つけている。
10 分間の講演のあと質問の時間になった。張先生の中国語の質問に英語で答え始めたので、急いで連絡して中国語で答えるよう伝えた。その途端にこちらはちんぶんかんぷんになったけれど、隣の王麗さんが要所要所は日本語にしてくれる。生化学研究室の教授はじめティーチャーの人たちから結構鋭い質問が飛ぶ。
「その化合物がカベオリンを増やすと言うけれど、証拠が足りないじゃないか?」といわれて、「独立した別の細胞培養を使って調べても同じように増加したので、増加することは確かです。けれどもっと別の条件も、これから試さなくてはいけません」と沈さんは元気に応えている。ごもっとも。その通りである。だけど、もう自分は実験をしなくて良いから、余計元気に答えられるのかも。
二番手は沈春莉さんで、細胞凝集の研究の発表だった。細胞が集まってくっつき合うときの原理にある因子が効いているかというまだ初期段階の研究で、単調だけれど集中力の要求される実験を繰り返さないと答えが出ない。彼女は根気よく実験を繰り返し明らかな傾向を掴んだ。発表ではリハーサルよりも格段によく、堂々たる話しぶりであった。
彼女は実験の後半では細胞を凝集させる因子を調べようとしていて、細胞からRNAを抽出しRTPCRを始めたが、そこで時間切れになってしまった。発表では抽出したRNAの量と純度も見せたのだが、何と質問はここに集中した。抽出したRNAの260/280nmの吸収の比が2.0というのは最高純度のRNAを意味するが、彼女の試料はどれも1.9-2.0なのだ。
みんなびっくり、しかも収量がとても良い。生化学研究室の人たちが純度の高いRNAの抽出に苦労しているのが良く分かる。瀋さんがやると簡単に取れてしまうのだから、どこがどうと言って教えることは出来ない。
最後は煩煩さんの登場で、腫瘍の抑制因子を見つけたという発表である。ある種の分子を腫瘍細胞に作らせると、腫瘍細胞の特色が消えることがわかったので。その分子を作るのを阻害してみると、期待通り腫瘍マーカーが消えない。これにその分子を加えるとマーカーが予期通り消えた。したがって腫瘍の抑制因子を見つけたという筋書きだ。
見事な発音の英語で滔々と話されたことに皆が威圧されたのか、内容に付いていけなかったのか、しばらくシーンという状態が続いてから、「PCRのゲル電気泳動をどうやって定量的に解析したか」とか、「タンパク質の発現をmRNAの発現で見ているけれど、どうして抗体染色をしないのか」と聞かれていた。
もっともな質問で、これは論文にするときには必須だけれど、何しろ4ヶ月という短い間に、初めての実験を始めて、論文を沢山読んで、そして研究の結果を出してまとめなくてはならないのだ。毎日朝から晩までブルーカラーとして働いても、四つ足をフルに使って実験しても、なお出来ないこともあるさ。
それにしても、先輩からの伝承も蓄積もなく、研究費も設備もない山大爺と山太太の研究室で、君たち本当に良くやったよ。
4ヶ月で、ふくよかだった沈春莉さんは5kg、普通の体型の沈慧蓮さんは2kg、元々ほっそりした体型の煩煩さんでも1kg痩せたという。短期間に減量したければ、どうぞ山形研の卒業研究を試してみて下さい!!!
2004/06/18
花子さんの時間ですよ
<「花子さんの時間がはじまりますよ」と王麗さんか、沈慧蓮さんがオフィスにいる私を呼びに来る。ちょうど妻の貞子が所用で2週間日本に行っているときのことで、普段私たちは二人で食事を作って食べているから学生と一緒に食事をすることはあまりないけれど、今は私が一人で居るので、皆で私の食事に気を配ってくれる。
実験室に行くと窓際に置いてある電磁ヒーターの上の鍋から湯気が出て、良い匂いをまき散らしている。魯くんがインスタントラーメンのカップくらいの深皿を渡してくれて「お皿を持って並ばないと花子さんではありませんよ」と言う。それにしたがって、皿を持って研究室の胡くん、煩煩さん、沈さんたちの後ろに並んで列を作り、順番を待つ花子さんのひとりになる。ご飯を盛ってくれるのは魯くん、その上に鍋からカレーをよそって呉れるのは王麗さんだ。
「花子」は中国では乞食を意味する。大抵の中日会話の本には、「花子さん」という名を持つ人は中国で名乗るときは気をつけなさいと書いてある。名前だから変えようがないが、せめて別の字を使えということだろう。ただし、英語のJohn Doe、Jane Doeに当たる日本の太郎、花子は、太郎は結構あるけれど、実際には花子という名前の日本人はまだ見たことがない。
私の研究室の学生たちは、自分たちに「花子さん」という名前を付けて楽しんでいるのだ。仲間の間に序列を作らず何でも分け合って食べる仲間という意味だろう。おまけに私が山大爺で、山にこもった山賊の頭目が呼ばれる名前だから、花子さんの頭目としてもぴったりなわけだ。こうやって、わいわいがやがや言いつつ、分け合って一緒に食べると、また一際おいしい。
卒業研究の彼女たちは、2月半ばに研究室に来て以来、寮には寝に帰る以外はほとんど実験室で時間を過ごしている。寮に戻れば4人部屋で、部屋には冷蔵庫もなく、お湯すら沸かせな い。一方で、実験室には冷凍庫も冷蔵庫もあるし、冷暖房もある。電磁波のヒーターもあるし、電磁炉(マイクロウエーブオーブン)もある。実験器具を洗うた めに、流しにはお湯だって豊富に出るようになっている。
勿論すべては実験用だけれど、教授の目を盗んで食事を作ることなんて実に簡単なことだ。だから彼女たちにとって、研究室は夢のような生活の出来る場所となる。電磁波のヒーターを使って広州名物煮込み料理を作ったり、日本式カレーを作って皆で分け合って食べ、今までの単調で窮屈な寮生活とは違う新たな気分で卒業実験に励んでいたに違いない。
カレーを作ると鍋にカレーがどうしても残る。魯くんたちはこれを洗って捨てたりせず、カレーを作ったあとの鍋には羅宋湯(ボルシチ)の元と水を入れてカレー味の残るスープにしてしまう。余すところなく利用するとはまさに花子さんの生活である。
青年時代に4 人部屋の生活をすることの好悪は人によって分かれるだろうけれど、他人に対する思いやり、寛容の精神は培われるに違いない。互いに協調して生きていくすべも学ぶはずだ。もし寮生活で他人との関係を築くことに失敗したら生き地獄となろう。彼らの優しさの一部は寮生活のおかげかも知れない。
今日もそろそろ「花子さんの時間」が始まる頃だ。山大爺は手下の花子さんたちの上がりをかすめて生きているみたいで気が引けるけれど、頭目なんだから、堂々と構えなくっちゃ。
2004/06/20
山大爺は有名人?
オフィスの入り口でノックがあった。部屋の入り口の上には「山形達也教授弁公室」と書いてあるので、このオフィス(弁公室)は日本で言えば教授室である。この部屋はなんと、60平方米の広さだ。何時か訪れた日本の某大企業の社長室くらいある。昨年夏に初めてここに案内されたときは、まだ中に何も入っていなかったから、その茫漠たる広さに絶句して、ただ呆然としていたものだ。
部屋は東に面して大きな窓があり二重ガラスが入っている。5階にあるので見下ろすと大学の広い校庭が見下ろせ、眼下の構内の主要道路は、何時も学生たちの往き来でにぎわっている。
そのオフィスの設計をするように言われて、私と妻の机セット二組、ソファーセット、会議机セット、コンピューター類を置くコーナー、入り口の所の本棚のコーナーで、部屋には大体6箇所の区分があることになった。入り口のコーナーの6個の本棚を含めて、90cm幅の本棚が全部で11個あるけれど、部屋の広さにはみじんも影響しない。60平方米というのは恐るべき広さである。
ここは私たち二人だけで使うには広すぎるし、逆に実験室は狭くて学生の机を入れるゆとりがない。したがって、このオフィスの中で私たちの二つの机の占める面積以外は、学生のために解放している。三好街というコンピューターの店が集まったところに行って買った最新で最高速度のWindowsコンピューター2台はここに置いてある。勿論、実験書、学術書,JBC、Natureなどのジャーナルもこの部屋に置いてある。したがって学生は、実験する以外はこの部屋に来て、コンピューターの前に座るか、会議机の前に陣取って勉強をしている。
私もコンピューターに向かっていることが多いが、このコンピューターは日本から運んできたiMacである。丸い本体から出ている腕の先にディスプレイがあり、発売当時このデザインには世界中が息をのんだiMac800である。中国でMacはほとんど使われていないけれどAppleの名前は知られていて、人によってはオフィスに入ってきて私の使っているMacに目をとめて、その美しさに「おお」と息をのむ人もいる。私の至福の瞬間である。
さて、ノックに答えて私も、私に向かい合ってPCを使っていた沈さんも同時に「請進」と叫んだ。沈さんは入って来た客が中国人であり、しかも見かけない人であることを一目で見て取って直ぐ立ち上がり、客人を迎えて何か言葉を交わした。
話しは直ぐに済んで客人はつかつかと私の横にまで来てなにやら言い始めた。が、しかし、互いにちんぶんかんぷんである様子が分かった沈さんは客人に話しかけ、互いに会話を交わしたあと客人は帰っていった。狐につままれた感のある私と、笑っている沈さんを残して。
沈さんによると客人は「山教授はいますか」といって入ってきたという。沈さんによると、「先生のことを山教授というなんて、互いによく知っている人と思いました」とのこと。それで客人が私の近くに行くに任せたという。
ところが、見ていると互いに初対面で話は全く通じない。沈さんが割り込んでみると、モニターのプロテクターのセールスに来た人だった。私たちは液晶モニターを使っているのでこの手のものは不要である。それで彼は帰っていたのだが、「山教授」と私を呼んだのは「山大爺」という名前が、この薬科大学でもう一般に広く通用しているからに他ならない。
大学のどこかで、それならあの「山大爺」のところに行ったらと言われてここに来たけれど、本人に向かってはそうは言えないので「山教授?」となったのだろう。
沈さんは「山大爺は有名人ですよ」といって喜んでいるが、山形達也としてはチョッピリだけれど、複雑な気持ちである。。。
2004/06/20
今日はヂヂの日
朝起きてコンピュータを立ち上げると、山ほど来ているjunk mailsの中に、メッセージカードが一つ入っていた。
「To: 山大爺
大爺の魅力が、ものすごく、好きですよ。メッチャ楽しい「花子さん」の生活をずっと胸に大事にする。
ありがとうございます。
孝行娘タチ」
<きっと送り手は研究室の女子学生たちだ。
<今日の6月20日は父の日だった。うちの子供たちが小さい頃には祝ってもらったことがあるけれど、彼らが長じてからは全く相手にしてもらえない。でも、その心境を察してか研究室の女性が優しいメッセージを呉れることがあった。そのたびに胸がジーンとして、そして今もまた。
カードはYahooのものでナンバークイズが付いている。貞子はナンバークイズが大好きで今は超上級2の難易度でも物足りないほどの上級者である。後は自分で作るしかないとぶつぶつ言いながら、それでも飽きずに次々とナンプレという本を買ってきてやっている。
わたしは頭が雑に出来ているので、頭の中で足したり引いたりかけ算をしたりして論理的に計算を進めるのが苦手である。いつだったか全日空の読み物の中にこの手のものが付いていて、「何だ、こんなの。原理が分かれば簡単じゃん」といって始めたら直ぐに行き詰まって、それ以来敬遠している。
美人の誰かさんが「あの人は馬鹿なのに良くお喋りするわね」なんて言われるのは、お喋りするから雑な頭がばれちゃうのであって、黙っていれば美人チャンで通るのだ。これと同じである。出来ないことには手を出さず、単に好きでないという顔をしていればよい。でもナンプレで頭を使うことはきっと彼女の頭の訓練に役立ち、口惜しいけれど、老化がわたしより遅いに違いない。
ナンバークイズが苦手とは言っても可愛い娘達からのメッセージなので、16個のマスの中の1から15までの数字をきちんと並べるクイズをやらないわけにもいかない。というわけでやることしばし、やがて最後の数字がきちんと収まってめでたく出来上がった。バラバラの数字がきちんと並ぶと、メッセージが浮かび上がり、横にはFather's Dayと書いてある。
いつも照れるから「ありがとう」って言えないんだ。
<でも本当はたくさんたくさん感謝しているよ。
何時までも元気でいてね。
うまいねえ。きっとこれを父親に送る子供の気持ちはこの通りなのだろうけれど、こうやって出来上がったメッセージが手軽に使えると、日本の子供達は自分の気持ちを自分の言葉で表せなくなるだろうね。
その点、中国で日本語を勉強している彼女たちは、熱心に教えている日本人教師からまじめに日本語を勉強するから、言葉はきれいだし、語彙がとても豊である。わたしが貞子と瀋陽の街の印象を話していると、隣から「差し出がましいことですが、一つ言わせて頂くと」なんて、口を挟むことも出来る。
おまけに「メッチャ」なんて言葉も正しく使えるのだ。こちらも一つ言わせて貰うと、君たちがいてメッチャ楽しかったよ。君たちも、これからの人生、メッチャ楽しく生きようぜ。
2004/06/23
初めての端午節
今日6月22日は旧暦五月五日にあたり、中国では端午節である。日本の5月5日の端午の節句は子供の日となっていて、第二次大戦前までは男の子のたくましい成長を願う日になっていた。端午の節句は中国から入って来た風習に違いないけれど、元の意味とは変わってきている。
戦国時代に生きた屈原は大変有能な人だった。当時は人の才能は政治の世界で生かすしかない時代だったので、当然のこと彼も楚の朝廷に使えたが、余りにも潔癖すぎた。政治の世界は今も昔もどろどろとした権力闘争の場である。彼の言うことはまさに正しいが、融通が利かず楚王の寵臣からは嫉まれ、愚かな楚王からは疎まれ、とうとう朝廷から追い出されて、世に入れられない恨みを抱いて、汨羅(べきら)に身を投じたという。
詩経は孔子がまとめたといわれるが、屈原はその後楚の地方の歌をまとめて楚辞文学を集大成した人である。その後二千数百年にも亘って人々から慕われていて、彼を記念してこの日には 粽(ちまき)が作られる。日本の端午の節句にもこの習慣が残っているけれど、粽の中身は今では「ういろう」になっていて、中国の とは大分違っている。
中国の粽は餅米を使い、笹の葉で正四面体に包んで蒸したものである。中にはナツメ、パイナップル、、などがそれぞれ別々だけれど入っている。餅米に黄米(粟だと思う)を入れて作るときもある。いずれにせよ、この粽を作るのは、水に身を投じた屈原が魚に食べられないように、水中に投げ入れて「屈原さんの代わりにこれを食べて下さい」と魚に願って作ったのが始まりだという。
その端午節の日のことである、暦には今日の22 日は初五と赤で書いてあるけれど、勿論休みではない。ついでながら、中国の休日は日本より遙かに少ない。晴れて休めるのは、労働節と国慶節だけである。い つものように7時頃大学に着いて仕事をしていると、普段より早く出てきた沈さんと陳さんが「おめでとう」といいながら持ってきた皿を差し出した。
見ると大きな粽が数個、湯気を出して皿に載っている。「今日は端午節で、粽を食べる日です」という。ワーオ、美味しそう。というわけでご馳走になる。ザラメ 砂糖も一緒に皿に置いてあって、甘い方が美味しいので砂糖をつけて食べるという。ナツメも、パイナップルも甘いし、砂糖は不要と思うけれど、端午節の粽は 主食ではなく、すでにお菓子の扱いになっているためだろう。その点は日本並みである。
手に付いた餅米を歯ではぎ取って呑み込みながら、端午節と粽の由来を聞く。彼女たちに聞いて書いたものがこの文の冒頭に来ているものである。
路漫漫其修遠兮
吾将上下而求索
というのは彼の長編の詩「離騒」の一部で、この部分は誰もが暗唱できる。「自分のたどる道はまだ遠い、まだやることが沢山ある。やりたいことを沢山探そう」という意味だそうで、人を送る言葉としても使われるという。
こんなことを教わっているうちに、今度は煩煩さんと彼女の恋人の葛くんが鍋を捧げて「おめでとう」といいながら部屋にやってきた。葛くんがいうには「中国の風習に従って、先生たちも端午の日には粽を食べて下さい。これは私のおばあさんのうちで一緒に造ったものです。」そういえば、二人とも瀋陽育ちで瀋陽にうちがある。
「良いムコどのがいて先生たち幸せですね」と沈さんがニコニコしている。うちの女子学生たちはうちの娘みたいなものなので、彼女たちの恋人は必然的にうちの婿となる。本当にいい婿どのを持ったものだ。これも娘たちがよいからに違いないし、良い娘が育ったのは私たち親がよいからに違いない?!?こちらはジジとババなんだけれど、この家族ごっこは結構楽しめる。
ワーオ、今度は王麗さんがムコどのとやってきた。今日の山大爺のお腹は餅米づくめになっちゃうね。
2004/06/24
不思議の国の山大爺-2
うちのアパートのトイレはタンクと便器が一体になった陶器製である。中国にもTOTOが進出しているけれど、うちのは馬桶印だ。言われてみると確かに飼い葉桶の格好だよね。そのトイレが使えなくなった。
アパートの中の水流が弱いために、トイレのタンクが水で一杯になった時に水流を止める装置が働かないことがある。そのたびにタンクの上の陶器製の重いふたを動かさして手動で止水しなくてはならない。4月のある朝、この蓋の動かし方が悪くてふたをタンクの横にぶつけてしまった。ドバンという音とともにタンク内の水が床一面に流れた。陶器製のタンクの側面が大きく割れて外れてしまったのだ。
トイレが使えないというのは大変なことである。国際交流処の係に連絡したら、この日は土曜日だったけれど、直ぐに修理の手配をしてくれた。便器ごと全部取り替えるには、新品を手に入れなくてはならないから早くて1週間掛かるらしい。それで、外れた部分をのり付けすれば応急に使えるのはないかと提案したところ、職人を呼んで、とりあえず外れたタンクのかけらをのり付けしようということになった。
その結果午後3時には職人が来てくれた。生活の必要性の緊急度が高いと、ここでもそういうときは素早く人が動いて呉れるみたいだ。職人は丁寧にのり付けをして、「タンクに水を貯めて使うのは、のりがしっかりと付くように48時間経ってからにして欲しい」という。
こういう話が私たちに分かるはずがないから、このときは学生の沈さんにうちに来て助けて呉れている。のり付けがはずれたら困るので、私たちは4日間タンクに水を入れずに我慢した。我慢したのは水を入れないことであって、洗面所に置いてある洗濯機の洗濯槽に水を入れて、その水を水洗に使っていたのだ。
洗濯機に水をためるというアイデアは、苦い経験からである。ある日、瀋陽で暮らし始めて1ヶ月経ったくらいの頃、夜八時半に帰るとうちの水がでない。あっ断水だ。手が洗えない。夜の食事が作れない。シャワーが使えない。何よりも困ったのはトイレが使えないことだった。その日はやむなくそのまま寝て、朝4時頃必要に迫られて目を覚ましてトイレに行くと水が出たので、文字通り生き返った気分だった。 それ以来、洗濯したあと最後のゆすぎの水を捨てずに残している。
緊急にトイレの修理を頼んだ国際交流処をその後訪ねると、便器の具合はどうかと聞かれる。彼らは交換用のトイレを手配していたので新品と交換したいらしい。でも、接着したものでも使える限り問題ないので、大丈夫と言い続けていたが、交流処では使う当てのない新品トイレを自分のところに置いておくわけにも行かないためだろう、とうとう6月に入って、トイレを交換するという通知が突然来て工事が始まった。
<それでうちのトイレは新品と交換されたのだが、問題はその後である。修理業者が、新しい便器を入れていた段ボール、外した便器をうちから出して、8階のエレベータホールまで持っていったのはよいのだけれど、そこにずっと置いたままなのだ。工事の翌日、3日後、そして1週間後、どうにかしてよと連絡したけれど、いまだに片づかない。2週間たった今でもエレベータを下りると便器が面前に鎮座している。
「うちのトイレが使えなくなっても、外にあるからいいね」何てふざけているうちはよいけれど、もし本当に誰かが使ってしまったら?と思うと、これは本当は怖い話しだね。
2004/06/25
巣立ちの日
卒業式の数日前から、薬科大学の主館の前の広場はガウンを着た卒業生でにぎやかになる。この広場には3年前の薬科大学創立70周年の記念として卒業生有志が無限と名付けた金属オブジェを寄付したので、ちょっとした趣のある空間となっている、したがって卒業生がそれをバックにして写真に収まるには絶好の場所だ。
ガウン姿の学生が卒業式前の数日間、午後になるとこのあたりに群れているので今まで不思議に思っていたけれど、今年その理由がやっと分かった。ガウンは借り着で、写真を撮るためにクラス単位で1時間だけ借りてくるのだという。
学部卒業生は黒のガウンと黒の帽子で、彼らはカラスと呼んでいるけれど、修士学生の全身青のガウンよりも格好良い。博士になると、黒色のガウンの上に袖と身ごろに赤がついて荘重かつ華やかになる。
25日の卒業式の朝、沈さんから電話が掛かってきて「卒業式が始まりますが、先生見たいですか?」と誘われて卒業式見物に行ってきた。建物はクラブと呼ばれているが、私たちには講堂と言えば直ぐにイメージが浮かぶ造りで、全部で1000人くらい入ると思われる。
壇上には二列に机が並んでいて、それぞれ12人分の名札が書いてある。講堂の席が普段着の学生で大体埋まった8時30分に、校長をはじめ見知った先生たちが一斉に壇上に入ってきて着席した。まずこの先生たちの紹介があり、次に司会者が何か言うと皆立ち上がって、国歌の演奏を聴く。
次は教務係が卒業生全員約800人の名前を読み上げた。20分掛かる。その間講堂の上の方に座っている私たちのところには監督とおぼしき先生が廻ってきて、下を向いて何かしている学生に注意をしている。結構規律がやかましいみたいだ。
卒業免状授与はクラスの代表12人に渡される。日本の大学の何処でもやるように、校長が免状の内容を読み上げて、代表ひとりひとりに渡していく方式である。免状を渡されるときに代表はそれぞれ校長に向かって深々とお辞儀をした。中国でも今はあまり見かけない風景である。
次は例のカラスのガウンを着た12 名が壇の下で呼ばれるのを待っている。何のことかと聞くと沈さんは「さっきのは在学証明書で、今度のは学位証明書です。800人のうち学位を貰うのは83パーゼントです」という。日本では学位と卒業証書は同じだから、学位が取れないけれど卒業したという人は聞いたことがない。しかし、卒業生が入学者より20パーセントも少ないということも聞かないから、日本の方が卒業について甘いのだろうか。
カラスのガウン姿の代表は,やはり黒と赤のガウン姿に着替えた校長から学位記を貰うことになった。今度はそれを読み上げた校長に一礼して学位記を受け取ると、まず校長に学生の帽子の中心から顔の右側に垂れている房を左側に移して貰ってから、握手をしている。房が顔の左にあるのが卒業したしるしらしい。そういえば、二日前の卒業生のガウン姿の写真を撮ったとき、誰もが帽子の房が顔の左に来るように気にしていたっけ。
その後は、遼寧省優秀学生や瀋陽薬科大学優秀学生が記念品を貰ったあと、壇上の先生たちの中から女の先生が学生に贈る言葉を述べ、ついで学生を代表してこれも女生徒が感謝の言葉を述べた。内容はまるで分からないが、そんな雰囲気だ。最後が副校長の挨拶だった。力強い言葉で話していたから、卒業生にこれからもしっかり頑張れよという励ましの言葉だろう。一路平安というのが結びの言葉で、これは私にも聴き取れたし、卒業式はこれでお終いというのも分かった。時間は1時間ちょうどだった。
卒業生のほとんどがTシャツという普段着姿のためか、荘厳な雰囲気はなかったけれど、それでも卒業生の胸にはそれぞれ感懐を呼び起こしたに違いない。沈さんでも「5年前ここに来たときはほんの少女だったけれど、もう23歳になりました。これから先生がたの期待に応えて立派な人間になろうと思います」なんて殊勝なことを言っていたくらいだから。
2004/06/26
カレーパーティがうちで出来ないわけ
卒業実験が済んだらお祝いにうちでカレーを作って皆を招こうと約束をしたけれど、その三日前にうちの洗面所で換気扇が故障してしまった。洗面所というのは分かり易いからそう書いているけれど、風呂場である。といってもバスタブはなくて、その代わりにシャワーだけがある。
湯は壁に取り付けた150Lの電気温水器から供給される。この部屋は床も壁も特に仕切っているわけではなく、タイル張りの部屋に、洗面台、トイレ、それにシャワーの水栓があり、空き地に洗濯機が置いてあるだけの部屋である。
シャワーを浴びると部屋中びしょびしょになる。幸い床に切ってある排水口のところが一番くぼんでいるので、外に水があふれることはなく、いつかは乾くという寸法だ。
外に面している部屋ではないので、窓がない。したがって使うときは明かりと換気扇が必要である。換気扇は洗面所を使っていなくても、湿気をのぞくために常時つけている。数日前から換気扇の音が耳につくようになっていたけれど、三日前にその換気扇の音が急に大きくなってきたかと思うと、突然静かになった。「な んだか音がしなくなっておかしいわよ」と貞子が洗面所で叫んでいるうちに、うち中の明かりが消えた。
換気扇の軸受けが汚れて回らなくなって、過電流が流れたためにヒューズが飛んだに違いない、と素人ながらも判断をして、暗闇で洗面所のスイッチを切った。アパートの階段室まで行ってヒューズボックスを探すと、案の定うちの配電盤のスイッチが落ちている。これを入れるとうち中の明かりが回復したので、判断は正しかったに違いない。
洗面所のスイッチは明かりと換気扇が連動しているので、そのまま明かりをつけるのは厳禁である。それでスイッチには触らずに、大学の国際交流処の人に修理を依頼した。直ぐにどこかに修理を手配してくれたらしいが、まだ修理はそのままになっている。この手の修理には時間がかかり、数週間はこのままと覚悟した方 がよい。
そのようなわけで、今では仕方なしに、換気扇なしで洗面所を使っている。驚いたことには、シャワーを使った後で換気扇をつけていても、あるいは今度で明らかになったように換気扇が回っていなくても、夜のうちに洗面所はすっかり乾いてしまう。それだけ瀋陽では、湿度が低いということだろう。今は夏だから悩むこ とはないが、冬の間は皮膚が乾いて困ったものだ。今度の冬は、シャワーを使ったあと換気扇を使わないようにして、うちの湿度を高めてみよう。それでも洗面所は乾くだろうから。
さて、洗面所は明かりが点かなくても薄明かりで使えるけれど、トイレに関しては換気扇なしではお手上げである。十人を超える来客をうちに呼ぶ訳にはいかない。うちのアパートは8階にあって、前に書いたように、そのエレベータホールにはまだトイレの便器が置いてある。いざとなったらそれが使えるねと冗談が口から出るけれど、まさかね。仕方ないからカレーはうちで作って、パーティは大学の教授室で開くことにしよう。
2004/06/27
胡丹くんの善行
卒業実験が終わった祝いとしてカレーを作ることになった前の日には、街なかの大きなスーパーマーケットまでタクシーに乗って買い物に出掛けた。
今では瀋陽にも、カルフールがあり、ウオルマートがある。どれも巨大な店構えで売り場が3フロアに広がり、そのうちのワンフロア全部が食料品売り場になっている。瀋陽北駅近くにある一番の老舗のカルフールは何時も人が多くて混雑しているので、私たちは中街の新マートがお気に入りである。冬は近くの青空市場に出掛けられないので、どうしても街中の巨大なスーパーマーケットに野菜を買いに出掛けることが多い。今では何処に行けば何があるなどということが大体分かってきている。今は牛肉を買うなら新マートと思っている。
<荷物が多くなりそうなので、王麗さん、胡丹くんも一緒についてきてくれた。肉売り場でショーケースに入っている肉のかたまりを指さして係員に重さを量って貰う。10人を越えるので、肉を3kg買って約60元だった。ざっと800円くらいに当たる。肩肉よりもすねの方が3割方高い。圧力釜を使って煮込むので、すね肉の方がよい味になる。このほかにタマネギ、ニンジン、ニンニク、椎茸、そのほかうちで必要な食料品などを沢山買い込んだ。「
「えっ、何だって?タマネギが嫌いなんだって?」驚いたことに王麗さんはタマネギがだめなのだそうだ。
「タマネギの入ったカレーは食べられない?」「形が残っていなければいいんでしょ?煮込んでしまうから大丈夫」いろいろ言ってみても、王麗さんはダメの一点張りだ。困ったもんだ。一人っ子政策のおかげでここにも小皇帝が出来てしまった。いや、小女帝か。仕方ない、タマネギ抜きのも作ることにするか。ほんとのことを言うと、私もずっとタマネギが苦手だったのだ。
新マートでの全部で支払いは145元、つまり日本円にして2000円もしなかった。日本にいてこれだけ買ったら2万円を軽く超えていると思う。食料品に関してはともかく安くて中国は暮らしやすい。
帰りもタクシーに乗ったけれど、このタクシーはうちの近くの交差点で左折してくれなかった。大抵のタクシーは平然と交通規則違反を犯すけれど、先日から道路交通法が改正されて罰金の増えた法律が施行されたためか、交差点の手前で下ろされてしまった。仕方なく重い荷物を皆で手分けして提げて歩いたけれど、胡くんは特に重いのを持ってがんばっている。
うちに着くまでの100メートルを歩いていると、何と、前の方から来る人は天然薬物化学の権威である姚先生ではないか。「姚先生!」
姚先生は胡くんの指導教授で、今は遠いシンセンに研究室を構えておられる。胡くんが今私たちの研究室で研究をしているので、瀋陽に来るたびに私たちのところを訪ねていらっしゃる。
二日前にも研究室に来られて「日本から瀋陽に来られた先生たちを、何時も心して助けなさい、特に買い物には不便がないように助けてあげなさい」と見事な日本語で、胡くんに説教しておられた。胡くんは神妙に「ハイ、ハイ」と返事をして聞いている。
私たちに向かっては「ウン」という返事しか出来ない胡くんなので、如何に姚先生を尊敬しているかが分かろうというものだ。この1年間胡くんは僕たちを沢山助けてくれたけれど、買い物に付いてきて荷物を持ってくれたことは一度もなかった。
それが何と、初めて買い物を持ってくれた胡くんが、助けてあげなさいと言った先生にその姿を見て貰えたのだ。胡くんは感激のあまりか、荷物の重さのためかボーッとして、その後うちに入る門を通りすぎてしまうところだった。
善行をすれば神様はきっと見ていらっしゃるというのは、本当のことだったんだ。
2004/06/30
禁色なんて出来ません
カレーパーティの翌日は流石にまだお腹が一杯の感じで、残っていたカレーとご飯をどうしようかと言い出した人は誰もいなかった。それでその次の日の昼は、残ったカレーを電磁炉で暖めてカレーご飯を食べることになった。私たちを含めて研究室の人たちが数名集まった。「うーん、美味しい」と魯くんは3人前くらい入れた大皿を真っ先に抱え込んで、食べ始める。
沈慧蓮さんは、「今日はキンショクです」なんて、はじめは訳の分からないことをいっていたが、「結局食べることにしました」と言っているので、「そのキンショクは禁食のつもりでしょう?」「ええ」「でも、それを言うならダンジキ、断食っていうのですよ」と教えてあげる。
ついでに「キンショクなら、禁色となって、君なら男断ち、男だと女断ちという意味になるんだけど」と教えた。「つまり君なら男に手を出さないこと。男と付き合っていても、付き合わないということ」と念を押す。
すると沈さんはにこっと笑って「私にはやっぱり断食も出来ないし、禁色も無理です、どっちもできません」と言うので、私たちは笑い転げて、口いっぱいのカレーを危うく吹き出すところだった。
王麗さんも「私も禁色はダメ」と言ってひとり赤くなっている。今日は用事があって彼女の恋人はここに来ていない。彼女の恋人は同級生の優しい力持ちの馬さんで、隣の研究室にいる。私たちの研究室は人手が少ないないものだから、何かというと真っ先に駆けつけて手伝ってくれる。遠方の南の広州に恋人のいる魯くんは、にやにやしながらひとりカレーを食べ続けている。
お腹が一杯になったところで、「過ちを犯してしまいました、お腹がふくれるような過ちは二度と繰り返しません」と煩煩さんが言って、それで皆が笑い転げている。これは危ない行為に引っかけた言葉の遊びだ。みんな若いんだなあ。それにしても、日本語の達者なのには驚くほどだ。
ついで胡くんが「日本語で笑い話をしましょうか?」というので「是非聞かせてよ」と頼んだ。
<「ある精神病院で、各階の入院患者の中で班長さんを選ぼうと言うことになり、何か物を見せて名前がきちんと言えた人に班長さんになってもらうことになりました。1階の患者を集めて、看護婦さんがラジオを見せました。すると、ひとりの患者が<ラジオ>と言ったので、<よくできました、あなたに班長さんをお願いしますね>」
「2階に行って同じように患者を集め、本をポケットから出したら、患者のひとりが直ぐに<いつもの本だ>と叫んだので、<よくできました、あなたに班長さんをお願いしますね>」
3階に行って患者を集めて、ポケットから」と言いかけて、胡くんはちょっと言い淀んでしまった。「ほら、あの、歯を磨くものですよ。エーと」そこで私と妻が異口同音に「歯ブラシ?!」と叫んだ。すると胡くんは、ニヤリと笑って、「じゃ、お二人に班長をやっていただきましょうか。」