2009年05月28日(木)
私たちの端午節
5月28日は旧暦の5月5日で、中国は端午節のお祝いの日。今年から三連休の国家休日になった。大学ではこの日は休暇であるという掲示が出ているけれど、私たちの研究室は休暇にしていない。
3月になってから卒業研究を始めた卒業研究生がいると言うのに、この時期悠長に休むなんて考えられないからである。あと3週間で卒業研究の発表なのだ。
日本の端午の節句は、鯉のぼりを掲げ、柏餅と粽を食べて、菖蒲の湯に入る。
子供の頃からわが家には鯉のぼりを掲げる広い場所なんてなかった。結婚して名古屋に住んでいた頃は郊外を車で走って大きな農家の庭に泳ぐ鯉のぼりを見るのがこの時期の楽しみの一つだった。ポールに鯉のぼりをくっつけるのではなく、大きな庭の農家では高く横に張り渡した紐に鯉のぼりを付けて豪快に泳がせている。
私たちが名古屋に行った60年代の初めの頃は柏餅では味噌餡がなくて、ずいぶん悲しかったものだが、それもやがて名古屋でも味噌餡出回るように変わっていっ たのを覚えている。粽の中身のういろうは名古屋が本場と言っても良いくらいだというのは、名古屋で厭と言うくらい知った。名古屋弁で言えば「お値打ちだなあも」なのだが、名古屋土産にういろうは良いけれど、値段の割には重いのが欠点である。
菖蒲の湯に入ると、きつい菖蒲の香りが心地よい。由来は中国に来るまで知らなかったが、この香りによる悪魔よけが元のようである。ヨモギも香りが強く、この日は建物の入口にヨモギの草を掲げる。
街を歩くと数日前から商人が道端にござを拡げて縁起物を売っている。手首に巻く紐だ。色とりどりで、一つでも美しい。
大学の、外国人を管理する部署である国際交流処からは、粽の入った美しい箱が届いた。粽10個。塩卵8個入り。
粽は笹の葉で蒸した餅米をくるんでいる。餅米の中は餡として様々な具が入っている、豚肉、棗、日本で言う餡、鶏肉、卵、ベーコン。。。大きさは大振りのご飯一膳くらいにあたるだろう。二つずつパックに入っている。多分、パックに入れて蒸してまだ熱いうちにシールをしたのだ。製造日は4月とか3月。
願い事をして手首に付ける。そして端午節の終わったあとの最初の雨の日に、河にこれを流すのだという。一つ1元だ。私たちのお隣に住んでいるYao老師と一緒に歩いているとき、彼女が私たちに買ってくれた。 そ れで私も大事な願い事をして手首に巻いている。困ったことには、水に放り込むまでは外せないというのだ。手首に付けていて、ひらひらと気持ちも良いし、見た目も楽しいけれど、手を洗うと、ひらひらが濡れてしまう。シャワーを浴びるときも外さないと言うけれど、ま、それは無理というものだ。ちゃんと願いを込めたから、決まりは守りたいのだが。
塩漬け卵は中国に6年もいながら初めて食べた。からを剥ぐときの手応えがゆで卵とは違う。白身の感じも違う。黄身も違う。そして口に含むと、あっ、塩辛い。 生卵を濃い塩水につけて、塩分でタンパク質を塩析したものに違いない。これは私たちの(生化学)言葉で、タンパク質が塩濃度を高めると溶液から沈殿してくることを言う。あとで学生に確かめたら、そうです、元は生卵です、と言うことだった。実を言うと塩辛すぎて食べられない。
しかし、粽は美味しい。数日前から、お隣の池島先生から貰いすぎてとても食べられないからと言って粽の差し入れがあったし、中国の友人からもこの日は粽が届いたし、私たちは幸せに、粽漬けの時間を送っている。
端午節は、楚の国の政治家にして詩人である屈原を偲ぶ故事から来ているが、今の若い人たちにとっては、単に粽を食べる日として認識されているようで、これは長い中国の伝統文化の中で嘆かわしいと言われている。
端午節の由来など詳しいことは以下のサイトをご覧下さい。
「レコードチャイナ、 中華民族は詩がお好き、端午の節句は詩人屈原の供養が由来 」
http://www.recordchina.co.jp/group/g20145.html
2009年05月30日(土)
傾城荘園いき その一
5月の初めのこと、薬科大学の同じ学部で同僚になる游松老師から、その週末の土曜日に一緒に郊外まで遊びに行かないかという誘いがあった。游松老師は家族連れで友人の家族とクルマで瀋陽から1時間くらいのところにある四つ星ホテルクラスの施設に行く予定だという。直ぐそこのことで近いし、一晩泊まるだけだから是非一緒に行かないかと言う誘いだった。
游松老師は数年前に東大に留学している若手の教授である。英語を使うお付き合いだが気持ちのさっぱりした好漢で、妻もこうやって誘われるのは嬉しいわねと言うことで、誘いを受けることにした。
約束の時間にアパートの下に降りていくと彼は自分の車で待っていた。ご家族はと訊くと友人と会う場所に先に置いてきているという。じゃあと言うので乗ると、車は走り出して1ブロック先の巨大なスーパの家楽福の近くに来る。游松老師は家楽福の後ろに建つ30階くらいの建物を指して、あれを知っているかという。
それはNorth Mediaと言う会社の建てたビルである。ここは2年前、瀋陽日本語文化祭が初めて市内で開かれた記念すべき場所で、もちろん知っている。建物が出来たばかりと言うこともあって総領事館の打診に応じて300人が入る広い講堂を会場として無料で貸してくれたのだ。運営のためのスタッフ10人くらいも込みで。
つづく
楊 貴妃の部屋は二階の西南角に張り出したところで、部屋と言っても、入ったところの12畳くらいの居間、その奥に同じ広さの寝室、そして右隣には8畳くらい の書斎、そして居間の隣には前室付きバスルームが一緒になっているのだ。そして壁のあちこちには書画が飾られ、棚には古代の陶器、置物が所狭しとばかりに 並べてある。
うーーーむ。
話によると客室が10あって、それぞれに中国の十大美女の名前が付いているという。そして部屋の鍵には、その美女の主人の名前が書いてあるという。私たちが案内された部屋は楊貴妃と書いてあった。鍵の名前は玄宗皇帝で正解である。恐らく最高の部屋だと思う。
そのあと紹介されたオーナー夫人は評判通り大型の美女だった。この日の予定は、彼らの小の学友5人とその母親も誘って私たち三家族が彼の会社の持つ別荘に行くという。オーナーが運転するベンツのSUVに私たちは乗せて貰い、あと1台のマイクロバスにほかの人たちが分乗した。目指すは南。
市街の地理には詳しくないが広福時という寺がある方角らしい。普通の道を1時間走りやがて丘陵地帯に入ってから着いたところは、「傾城」という大きな旗が掲げてある小さなお城みたいなところだった。
先ず彼のオフィスに案内され、主要な施設を案内された。2年前に日本語文化祭で使わせて貰った講堂も案内された。その部屋の隣で、あのときは出番を待つ学生が溜まっていたところはVIP接待用の豪華なラウンジになっていた。 ビルの最上階には中国のアンティーク家具が納められたくつろぎの部屋があり、隣にはオーナーの趣味で集めた絵画、仏像、彫刻を展示するための美術館が建設中だった。屋上に出ると、野外ガーデンが工事中で、一番上の屋上にはヘリポートが建設中だった。ここから眺めると高層ビルの林立している瀋陽もさすが平たく広く見える。何時も見上げている私たちの十六階の教授楼は、東の方、遥か下にうずくまっていた。
2009年06月02日(火)
傾城荘園いき その二
目の廻る豪華さである。もちろんこの国では個人の財産として持つことは体制的に許されているわけはないから、会社の活動のための拠点・資産として活用しているのだろう。それにしても施設の豪華さには、私たちの暮らしでは比べられるものを持っていないので、ただ驚き呆れるばかりである。 翌朝いつものように目覚めて外を見ると、オーナーは乗ってきた車に荷物を運び入れているところだった。朝食に彼はいなかった。聞いたところでは、朝の食事前に彼は前日マイクロバスを運転してきた男に空港にまで送らせて、飛行機に乗って仕事に出掛けたという。
朝の食事では小5の男の子たちは眠げである。聞いてみるとここは遊ぶことに事欠かないので一晩寝ないで遊ぶという目標の挑戦しているのだという。学校の勉強 が大変で親も子供もストレスにさらされているという話しが昨晩から持ちきりだったが、この日ばかりは公認で遊びほうけられて幸せのようだ。
食事のあと敷地を見て歩くと、入口の近くには犬小屋があって、3頭のシベリアンハスキー、そして初めて見る2頭のチベッタンマスティーフがいた。以前写真で見ただけだがともかく大きい。威風堂々。しかしこれが咆えるものだから、金網があってもこちとらは尻がつぼんでしまうのを実感する。
20年前くらいのオリンピックで中国から参加した女子陸上選手が次々と記録を塗り替えて世界中が驚いたことがある。この女子選手を率いていたのが馬コーチで彼らは馬軍団と呼ばれていた。この馬さんはその後消息を聞かないが、いまではこのチベッタンマスティーフの飼育家としてひそかに名をなし巨大な蓄財をしたという話しを聞いたことがある。
やがて皆で近くの山に登って山菜採りである。ワラビ、ゼンマイ摘みだ。山裾に広い畑、その上 に傾斜を利用した段々田がありそれを捲いて山に上がっていった。先に山に登った男の子の一軍団が摘んだワラビを山ほど見せびらかして降りていったから、もう大して残っていない。それでもこうやって山を歩いてワラビ取りなんて何年ぶりのことだろうか。
昼はここで取れた小麦粉で打ったうどんにソースを掛けて食べるもので、このソースが二種類。陳さんの故郷の江西省ではこのような食べ方はないという。日本に もないと言って良いけれど、うどんではなくスパゲッティなら大ありである。この美味しいソースを自分でも作ってみようと思って味わっているうちに食べ過ぎ てしまった。
2009年06月05日(金)
極楽とんぼの陰で
ここの薬学日語班の学生に、私は本場の日本語で分子生物学の講義をしている。3クラスで合計90人。 日本語遣いの中国人の先生と半々で受け持ち、私の担当するのは遺伝子であるDNAを鋳型とするRNAの転写とタンパク質生合成である。毎年講義を少し詰めて早く終わらせて最後に2時間の空き時間を作り、複雑なタンパク質の生合成の仕組み、細胞内のシグナル伝達や、がんの生物学などトピックスを選んで話している。
今年は教えている4年生の数人に希望を訊いたら、がんの話しを聞きたいという。がんと言っても、私は網羅的ながんの特徴の話しではなく、20世紀の百年を掛けてがんの研究者ががんの原因をどうやって追い詰めてきたかと言うところに焦点を当てている。
私が研究者になった頃は分子生物学の黎明期だったが、がんの原因はまだ皆目分かっていなかった。多くのがん研究者ががんの原因と治療法を探して血眼になっていたのを、私自身は別の分野にいながらつぶさに見てきたのだ。
もちろん話しには種本があって、一番世話になっているのは、黒木登志夫の「がん遺伝子の発見」である。ほかにも掛札堅「がん遺伝子を追い詰める」とか、沢山の本が書かれているけれど、黒木登志夫の本は素人向けによくぞここまで書いたという本である。
今ではがんは遺伝子の病気であることははっきり分かっている。細胞が増える度に細胞の中のDNAも増やさなくてはならない。そのDNAの複製の時に、二本鎖のDNAはほどけてそれぞれが鋳型になって、塩基対相補性の原則に従い鋳型にAがあればTを、TがあればAを、GがあればCを、CがあればGを選んで新たにDNAを合成していく。
難しそうに見えるけれど、A:Tと、G:Cの塩基対の相補性が分子生物学の根本で、これさえ理解していれば分子生物学は、すい、すい、すーいなのだ。
大腸菌では1秒間に1000塩基を付けるほど合成速度は速いので、DNA合成をするときは1万回に1回くらいは間違えた塩基を入れてしまう。間違えると正常な塩基対ができないから、この間違いは直ぐに直すか、あとで直すかして間違いは1千万回に1回くらいに減らしている。この割合は、細胞が1回分裂する度にその細胞のDNAの何処か数カ所に間違えるという感じである。
したがって、年齢を重ねると言うことは細胞分裂を繰り返すと言うことだから、若いときに比べてがんになる確率は対数的に増していく。20歳くらいの学生に比べて、私は百倍もがんを発病する確率が高い。
遺伝暗号は塩基が変わっても簡単には指令するアミノ酸の性質が変わらないようにできているが、それでも塩基の変異はいつかはアミノ酸の変異を生み出すことになる。タンパク質の一部のアミノ酸が変わっても大丈夫なことが多いが、そのタンパク質の大事な機能を担うアミノ酸が変化してしまうと致命的である。
私たちの細胞には、外からシグナルが来るとシグナルを増幅して次の分子に伝える仕組みがある。この分子に変異が起きて、シグナルが来ないのにシグナルを送り続けたらどうなるか。絶え間なしの指令の連続で現場はたちまち混乱してしまう。これがんの一つの原因である。
このように細胞にとって大事な役割を持つ遺伝子が変化して(新たな機能を獲得して)、積極的に悪さをするようになるのが発がんの一つの原因である。
もう一つは同じように大事な働きをしている遺伝子が、DNAの変異によって、機能を失ってしまう場合がある。遺伝子の機能喪失による発がんで、これが発がん のもう一つの要因である。いずれにしても遺伝子に変化が起き、それがタンパク質の機能に致命的な変異であると、文字通り致命的なのだ。
このがんの講義の最後には、がんの発病は歳をとると避けられないものだけれど、少しでもがんに掛かるリスクを減らすために:過度の日光を浴びない、たばこを吸わない、放射線を浴びない、偏食をしない、などなど、今は常識的な線を述べた。
さらに、がんを発病しないために:ストレスを溜めこまない(ストレスホルモンは免疫細胞の働きを抑えてしまう)、笑いに包まれた健康的な生活を送る(笑いは NKC(Natural Killer Cell)を増やす)ことを心がけよう、と言って締めくくった。がんにストレスは大敵で、くよくよ心配ばかりしているとがんを発病しやすい。
私はこんな歳になったけど、何時も楽天的で、脳天気で極楽トンボなのでがんに掛かりにくいのさ、と私が言うと学生が大笑いして喜んだので、帰ってそれを妻に話した。
すると彼女は「がんに掛かるリスクを減らすためには【ストレスをため込まない脳天気な人とは結婚しない】のが一番って書かなきゃ。だって、そのお蔭でこっちはストレスをため込んじゃうもの。がんになっちゃうわよ」と言うので、二人とも大笑いになった。
『笑う門には福来る』というのを実践している我が家であると思っていた。でも、脳天気人間がこんな弊害を生み出しているとはちっとも知らなかった。これから少しは気をつけなくっちゃ。
2009年06月10日(水)
修士論文のつづき
修士論文の最終提出日が5月19日に設定されて、うちの4人の学生が期限に間に合わせたということは前に書いた。論文一つが提出されると、それを審査する数人の委員が指定されてそれを読む。だからこの時期の教授は、審査をする沢山の論文を抱える。
私は中国語がまだできないから論文審査会のメンバーになることはない。以前、論文審査委員に指定されたとき、論文は中国語で書かれていてSummary以外分からなかった。
それでその論文の指導教授に内容を説明して欲しいと頼んだら、当の論文を書いた本人がやってきたので内容を英語で説明して貰った。当然分からないところを聞き直したりするから4時間くらい掛かったように思う。二人が対象だったので二日掛りだったように記憶している。
実際の審査会の時には、候補者が中国語で論文発表を行う。それに対して、審査委員が次々と質問をしていく中で私にも質問の順番が振られた。英語で訊いて、答 えは満足できるものではなかったのでまた訊く。しかしこちらの訊き方がまずいのか、相手の英語理解力がないのか、段々話しが変な方に行ってしまい、最後は 不得要領のまま諦めた質問もあった。
それ以来、私は論文審査委員に呼ばれることはない。あいつを入れると、面倒が増すばかりというコンセンサスが行き渡っているのだと思う。淋しいけれど、中国語ができない以上仕方あるまい。それにそのお蔭で余分な仕事も増えないと思えば、良い。
ともかくそのような具合なので、私は審査がどのように行われるかを正確には知らない。学生が修士論文を書いて、公式に提出する前に私のところに見て直すように持ってくるのは当然至極のことである。内容と、英語を直してまともな体裁になるようにしていた。ここの修士論文は、中国語で書いても英語で書いても良いことになっている。
締め切りまでに提出した論文はどうなるかというと、学生が指定した審査委員の下に送られる。これは私が 以前所属していた東工大でも同じである。そして、やがて論文の審査会がある。審査委員、その他大勢の前で学生が論文の口頭発表をする。その場で1時間に亘って厳しい試問を受ける。そのあと審査委員が合議してOKなら論文が受領されて、目出度く卒業となる。
薬科大学も、東工大と同じと思っていた。ところが、論文を提出したあと、論文の口頭発表の前に、審査した教授から論文に意見が付けられて戻ってくるのだという。学生は、その意見を入れたうえで口頭発表をして、そして修正した最終論文を提出して受理されるのがこの大学のやり方だということだった。
東工大方式だと、指導教官としてある程度恥ずかしくない論文となるように、学生の書いた論文原稿を読んで色々と手直しをする。もちろんこれが論文作成の指導という教授に課せられた仕事である。そしてそのあとは、それがそのまま審査の対象となる。
薬科大学方式だと、指導教授が論文作成の指導をするところまでは同じだが、さらにそのあと、3人の教授が論文を読んで学生に、ここはこうしたら良いじゃないの?と意見を述べるわけだ。審査会の前にである。とても親切なことだ。その上で行われる公開の審査会は、どういう意味を持つのだろう。
論文内容が学位に適切かどうか、この人物が学位にふさわしい学識を持っているかを審査すると言う厳しい雰囲気になるはずがない。
ところで前に、修士の学生の一人である曹婷が修士論文を書き終わったけれど、結論を導き出すには実験が1回では足りないし、まだクリティカルな実験が残っているとここで書いた。彼女は論文を書いて提出したあと発表の用意をしながら実験をした。そしてその結果、結論が変わったから論文を書き直すという。このやりとりで、前述の修士論文審査のカラクリが理解できたのだった。
彼女の実験結果を見ると、第一回目と違っている。彼女はこちらの結果が本当だという。これが正しいという理由はないが、そうだとしてもそうなると結論が違ってくる。それだけでなく、この実験をやる前に行った別の実験の結果と導き出される結論が全く違ってしまうのだ。相互に矛盾する結論になる。
それを指摘したけれど、彼女はがんとして主張を変えない。2回実験をして全く違う結果となったときはどうするかというと、さらにそれを繰り返すしかない。そしてその実験で得られた結論が、それを行う前の実験と矛盾するなら、そちらの実験を繰り返してみる。どちらも実験として正しく、得られる結論が相互に矛盾しているなら、矛盾しているという考え方が間違っていることになる。両方の結果を同時に説明できる考え方に行き着かなくてはならないのだ。
私たちは同じ実験は 独立に3回繰り返して同じ傾向ならばそれを受け入れることにしている。大体、最後の実験が1回しかしていなかったのがいけないのだ。しかし今は3回目の実 験を繰り返している時間はない。と言うことなら、最初の実験結果を使って矛盾なしに分子の動きを説明しよう。新しい2回目の実験結果を使うと相互に矛盾してしまって結論が出せないのである。
しかし彼女は、頑迷な私が教授だから学生の意見を聞こうとしないという恨みの籠もった目で私を見つめている。この話が分からないなんて、お前さんは頑固以上に馬鹿なんじゃないか、と言ったら返事がない。馬鹿なのはそちらだという目をして私を見ている。
私はこちらが教授だからと言って、自分の意見を押し通す横暴人間ではないと思っているが、人はそうは思っていないようである。これから心しよう。でも、それにしても、これは譲れないところなのだ。
2009年06月12日(金)
留学生が行方不明?
昼前の11時半頃、大学の研究生係のボスである程剛さんから電話があった。「お宅に王毅楠という学生がいましたか?」
「ええ、昨年修士を出ました。」
「今どこにいるのですか?」「日本の慶応大学の博士課程に入りましたが、どうかしましたか?」
「いや、国際交流所の○○所長から連絡があったのですが、王毅楠が何かものを持ったままいなくなったので、彼に連絡が取れるかどうか聞いてくれと言うことです」
びっくり仰天である。聞き返すが、お互い不自由な英語がコミュニケーションの手段なので詳しいことが分からない。ちょうど女子学生の添翼さんが教授室に入ってきたので、彼女に替わって電話を聞いて貰った。
話しを聞いた彼女によると、どこからこの元になる知らせが入ったか分からないそうだが、内容は同じである。王毅楠が行方不明?
まさか。彼と、そして彼の指導教官とは、学会発表のことで先週の金曜日に連絡を取りあったばかりである。大体、日本でhappyに研究を始めた彼には、研究室のものを持って姿を隠す理由がない。きっと間違いだ。
しかし、正体不明の数人に拉致されてしまったのかも知れないし、ともかく確認しなくっちゃ。と言うわけで自分の携帯を使って、日本の彼の指導教官の携帯に電話をした。
しかし、先方で電話が鳴っていても出てこない。ちょうど日本では12時半で、食事時かも知れない。直ぐにe-mailでこれこれしかじかなので、王毅楠は無事にそこにいますか?と書いて送った
その時添翼の実験の面倒を見ている曹さんが入ってきた。添翼は早速今の出来事を曹に話そうとした。「駄目!」と鋭い声が妻から飛ぶ。真相が明らかになるまで 話したら駄目よ」私が引き取って、「人の名誉に関わることだから、本当のことを調べてはっきりするまで完全に秘密を守りなさい。一言でも漏らしたら君は首だよ。今調べている間は、そのままここにいなさい。」
そしてこんどは王毅楠に電話をした。電話は直ぐに通じた。「もしもし、先生、王毅楠です」と普通の声が電話に出た。
私はどうやって話を切り出すか心の準備のないまま電話をしたことに気付いた。「王毅楠?今どこにいるの?」すると王毅楠は「今は、実験室です。大学の実験室にいます」という。私は「元気なの?」と何とも間抜けな質問をした。王毅楠は「ええ、元気にしていますよ。」
こちらは何かまともなことを言わなくてはと、焦るばかりである。「この間の学会発表が無事に出せて良かったね。学会発表のポスター賞も狙えるんじゃないの」などと言っているうちに、妻の姿が見に入ったので、彼女を目顔で招いて替わって貰った。
ちょうどその時、部屋の固定電話が鳴った。添翼が電話を受けてから言うには「学生係の程老師からです。さっきの電話は間違いだったと言っています。」つまり似た名前と間違えて、王毅楠と思い、私たちに電話を入れたらしい。
これが分かって直ぐ、彼の指導教官には事情を書いて送った。すべては間違いだったと。そして添翼には、王毅楠が無関係と分かったから、あとはもし話したければ何を言っても良い、と言って解放した。ちょうど昼食時だから、あっという間に話しは広まっただろう。
間違いでホッとしたが、一方、この大学は卒業生の不祥事にはこのように対応しているらしいと言うことを知った。一寸した驚きである。
日本の大学だったらどうだろう?何かするだろうか。今在籍していない学生のことについては責任を持てませんというのではないだろうか。
話は違うが、日本では何か若者が事件を起こすと親がマスコミによって追いかけられて、何かを言わされる。大抵は良くない事件だから、親が謝らないとマスコミは収まらない。
そのような対応を見て、私たちは密かに、うちの子供が何か社会的事件を引き起こしたらどうするかについて考えを決めている。「うちの子供が事件を起こしたか らと言っても、もう立派な成人です。私たちは彼らの考えと行動に責任はありません。本人のそれなりの見解があって行動したわけで、私たちがマスコミ相手に 謝る必要はありません」、と言ってのけようと決意していたことを、今回の事件ではしなくも思い出した。
もし事件が起こって、こんなことを言ったら日本では村八分であろう。日本では生きては行かれまい。でも中国ならこう言っても誰も不思議に思わず、それがそのまま受け入れられるのではないかと思う。その中国で、自校の卒業生の不祥事を気にしているのだ。
2009年06月17日(水)
南本夫妻の瀋陽再訪
南本卓郎・みどり先生は2年前に瀋陽を去られるまでは3年間薬科大学の日本語教師だった。卓郎先生は後半の2年間は日本人教師の会の会長でもあった。
5月後半に日本語文化祭のことでメイルのやりとりがあったとき、 世界的なインフルエンザ流行について瀋陽薬科大学の対策が出たばかりだったので、それを彼に伝えた。
すると6月9日 にメイルが来て、「6月16日に瀋陽へ行きます」というものだった。 今は彼が薬科大学で教えた学生が、3年、4年、5年生にいる(日本語学科は5年制)。6月の卒業に合わせて瀋陽を訪れたいと言うことだ。
「先日、先生から薬科大学の新型インフルエンザ対策を知って、今回は瀋陽行きを断念しようと思いましたが、これを逃すと夫婦揃って瀋陽へ行くことが難しくなると思い、ダメモトで国際交流処に打診したら、次のような返事が来ました。」
『拝啓 初夏の候、先生にはますますご盛栄のこととお喜び申し上げます。返事がおそくになりましたら、申し訳ございません。
先生がまえ教えた子が卒業する、彼達に会いたがる気持ちをよく了解した。しかし、いま、新型インフルエンザの流行のせいで、外国からの訪問は大体延期するとか、停止することにする。先生達健康のために、慎重に考えて、決めたほうがいいだと思う。
中 国政府は国民健康のために、国際空港便を厳しい検査をします。飛行機が中国に到着したら、まず、飛行機のなかで、お客様の体温を測定する。もし、誰か体温 が高いから、全体のお客様を指定するホテルで隔離されることにする。もちろん、先生たちのご来訪を歓迎いたします。もし、決めましたら、早く限りに教えて ください。
敬具 瀋陽薬科大学 国際交流処』
「迷惑だが来たいなら来てもいいよ、と解釈して決行することにしました。返事はまだですが、もし学内の宿泊を拒否された場合は近くのホテルをとるつもりです。
もちろん、いらっしゃるのは大歓迎と直ぐに返事を出した。そして一緒に食事をするのは何時がいいかと折り返し聞いたところ、ともかく瀋陽に着く16日の夜は空いていると言うことだった。
6月13日の土曜日が教師の会の今期最後の定例会だった。「2年前の会員の南本先生ご夫妻が瀋陽に来られるので、16日の夜には歓迎の集まりを考えているので、その詳細を見て参加希望者はあとでお知らせ下さい」と私は発言した。
初め、場所は薬科大学の近くの素敵なレストランを考えた。人数が増えたので田中先生の時の会場にしようかと思ったが、前と同じなら行かないという人もいたので、文化路と青年大街交差点に近い新洪記を予約した。
その日、南本さんご夫妻は空港に到着したあと、非接触型体温測定器で体温を測られて、幸い誰も危険体温を超える人がいなかったので無事にゲートを出ることができて、そこで教え子に迎えられたのだった。
宿舎は学内の宿を断られて大学の招待所の中にとったそうで、ここは正門の外から出入りする。私たちは5時半に大学の正門前で待ち合わせた。正門に近付くと ちょうど門の両方から双方が近付き、互いを認め合って共に駆け寄った。2月に京都で会っているけれど、瀋陽で会うのは2年ぶりである。
南本さんが教師の会の会長だったとき、私は補佐役としてお手伝いしたので、特に付き合いが深かった。しかもその時期は資料室の最初の移転、二度目の移転と重なったので、苦楽をともにしたわけだ。ともかく会うだけでも嬉しい仲間である。
新洪記は自家製の地ビールを売り物にしているだけでなく、料理も美味しい。この日集まったのは、南本ご夫妻、藤原、池本、多田、瀬井、有川、梅木、山本、山形貞子・達也の11人で、丸テーブルを囲むのにちょうど良い人数だった。
この夏に帰国する藤平さんがパスポートの更新に領事館に行ったら、新しいパスポートを1時間くらいで貰えたのは良いけれど、Visaは無効として穴を開けら れたパスポートにあるわけで、これはどうなるのと聞いたら、領事館側はこれはもう無効になったが、どうしたらいいかの分かりませんという返事だったと言っ て、もう滅茶むくれである。
「今日から不法滞在になっちゃったよ。何でこういう大事なことをvisaを無効にする前に教えてくれないんだろうね。捕まって監獄行きになったらどうしよう」
聞いている私たちは 、監獄城(そういう名前の場所が瀋陽にあるそうだ)に藤平さんが入れられたらきっと見に行くね、と大喜びである。私たちは日本でパスポートの更新をしよう としてこの不都合に気付きパスポート掛りに聞くと、visaは無効になるのであとは中国大使館にきいてくれというだけなので、更新を断念し危なく難を逃れ たことがある。瀋陽に戻ってから領事館でパスポートを更新し、そのあと外事処の人に連れられてvisaの更新をした。藤平さんの場合には、今は帰国する前 なので大学側がvisaの更新を助けてくれる可能性が低いのが気になる。
2009年06月23日(火)
博士の謎 その一
博士の学位は、独自の新しい発見を伴う研究論文を自分の名前で発表して、独立の研究者になる能力を他の人に文句なく認めさせた人に与えられる。つまり、その能力を認められないと博士になれない。
今の世の中は博士になったからと言って直ぐに教授になれるわけでもないし。それどころか職がなくて四苦八苦の生活が待っているが、それでも博士課程にいる人は少しでも早く博士の学位を取ろうと思っている。
指導する立場は、英語だとmentorとかthesis sponsor、あるいはadvisorというけれど、日本では指導教授といかめしい。中国だと博士導師という。
卒業実験生や修士の学生だと導師の私たちが研究テーマを決めて、実験の具体的なやり方だけではなく実験する内容や研究方向を詳しく指導する。
博士となると、独立した研究能力が持てるひとになるように助言して育てる。卒業実験生や修士の学生のように、手取り足取り指導しなくては研究ができない学生だと、将来博士になれる見込みはない。
博士になろうという学生だとテーマ選びから、違ってくる。こちらが最初から用意して与えることは先ずない。学生の希望が優先である。そのテーマがここで出来 れば良し、できなければ他の可能なところに行って貰わなくてはならない。こうやって学生と相談しながら博士の研究テーマを選ぶ。もちろん新しいもの、チャ レンジングなもの、と同時にこの学生がここに3年いる間にできそうなテーマと言うことになる。
今仮に関敏という仮名を使うが、私たちがここに来た秋、この関敏が別の研究科の教授から私たちのところに博士課程の学生として送り込まれてきた。
私たちは新学期に赴任したので、来たばかりの私たちのところに来たいという修士1年生が3人いたけれど、博士課程はいなかった。しかも彼女は大学の teacherだった。1998年以降の大学生急増計画で、教授陣が足りず、大学さえ出ていれば、博士は勿論、修士号なしでも採用して学生相手に教科書を 読ませ、一方で彼らに大学院に入るよう勧めたのである。
関敏は修士を終えたところだった。どんな仕事をしたのか訊いても訳の分からないことを言うだけだったが、他の教授が私たちの新しい研究室の発足の際してどうぞというからには大丈夫だろうと思って採用した。
その後は苦労の連続である。向こうはともかく、こちらが、である。博士に入るということは修士を出ている。それで、日本の修士卒の学生のつもりでいたら、卒 業研究生ほどの知識もないし、意欲もない。しかし、気位だけは高い。ほかに研究室にいた修士1年生に比べて自分は博士の1年生だし、教授陣の一人なのだ。 教壇に立って教える身分だからというわけで知識がないのに威張りかえっているために、学生は寄り付かない。私たちからも謙虚に教わろうとしない。
細胞培養だって修士の学生には一から教えたけれど、彼女は知っているといって教わろうとしなかった。だから、3年経った後、彼女の使っている細胞が単一なものではなく、別の細胞が混ざっていることが卒業実験の学生の勇気ある訴えでわかったのだった。
動物細胞を培養するときはディッシュに細胞と培養液をいれて37度の炭酸ガス培養基で培養する。2日おきくらいに培養液をポンプ付きのピペットで吸い出し て、新しい培養液と交換する。このとき細胞の種類が違えばピペットの先端を換えるのは常識なのに、彼女は換えていなかったために、細胞が相互に混入したの である。当然それまでの結果は疑わしいものとなる。
生きている細胞を使う実験は、物理常数の測定と違って、何かを与えて調べているものが増えたとしても、同じ実験をやっても全く同じ値は出てこない。時には細胞が具合悪くてとんでもない値が出たりする。
従って実験するときはいつも細胞が元気かどうか細胞の顔をみながら、しかも実験を繰り返して同じ傾向が出ることを確かめる。3度繰り返して同じ傾向が出たらこの傾向を真実として受け入れる。
関 敏は細胞が具合悪かろうと、よかろう大して気にせず、阻害剤を使うなら阻害効果が出る必要があると思って濃度を高めて実験を進めるので、ある経路の阻害剤 の影響ではなく、死に瀕した細胞の反応を見ていたりする。毎週仕事の話を聞いているはずなのに、3回同じ実験をやってから結果を持ってきたりするので、 やったことすべてが無駄になる。
おまけに彼女は不思議な性格を持っている。研究というのは新しいことを見つけることなのに、それまでの文献に書いてあるのと違う結果が出ると、自分の実験が間違っていると思って不安に駆られ、どうしていいかわからなくなるのだ。
教育の1つとして行う学生実験なら教科書に書いている通りの結果が出てくる。違えば自分のどこかが悪い。しかし研究をやっていて、それまでの常識を覆すことが見つかれば喜ぶべきことなのに、鷹に狙われたウサギみたいにおびえてしまう。
一つには大学を出てすぐに教授陣の一員であるteacherとして採用されて、学生の一員から今度は場所を変えて教壇にあがって教科書を読んで教える立場に なった人の悲劇でもあろう。教科書をともかく覚えて、ひたすら教科書が正しいものとして学生に教えることをやっているうちに、書いてあることを不思議に 思ったり、どうしてこれが言えるのかなどと疑ったりすることを忘れてしまったのだ。
日本の学生にこのような人はいなかったし、中国の私たちの研究室でも今までいなかった。初めてぶつかった訳だ。となるとその態度を打ち壊すことこそ大学院の教育なのだろうが、何よりもまずこのような人は博士を狙うべきではあるまい。
この稿つづく
2009年06月25日(木)
今年の卒業研究生
卒業シーズンが今年もやってきた。6月半ばをすぎても卒業式がいつ開かれるのか誰も知らないが、学生を含めて私たちの関心はその日程よりは卒業研究の発表がいつ行われるかにある。
今 年度は6月初めには6月25-26日に発表会があるという文書が生命科学院から届いた。こんなことはこの6年間に初めてのことだ。こちらは毎年のことだか ら6月中旬を目指していつ発表会があってもよいように、学生に用意させるが、毎年発表の日取りは数日前に突然知らされる。
今年は早めに知らされていたが、発表日はやがて24日に変更になり、23日には発表日は25日だという知らせがあった。やっといつものような具合だ。
今年は早めに発表日の通知があっていつもと違うと思ったが、卒業論文の書き方という数行の連絡文書も生命科学院から届いた。卒業論文の体裁に関する指令書らしい。勿論学生に渡した。
卒業実験の期間は人によってまちまちである。年明けの1月に行われる大学院受験をしない人は研究室に早くから来て実験が出来る。
昨年の10月から研究室に来た張添翼さんは、一つのまとまった結果を出すことが出来た。細胞に遺伝子発現を押さえるsiRNAを導入しその結果細胞の形質が どう変わったかを徹底的に調べた。曹さんの熱心な指導と相まって、私たちの狙い通りの実験結果となって、こちらにも大いに役立つ結果となった。彼女は東大の柏キャンパスにある大学院に進学予定である。
江文くんも同じ頃から研究室に出入りして実験を始めたが、クラスの班長をやって忙しいのが一つ、もう一つは 張添翼さんと同じような狙いである遺伝子のsiRNAを導入することで、この遺伝子の作用を調べようと思ったけれど、このsiRNAが遺伝子発現を抑えな かったのだ。結果が出るのに最低2ヶ月掛かって、駄目とわかってから、急遽別の遺伝子のsiRNAを導入した。その結果の解析を一通りするだけで終わって しまった。彼は岡山大学大学院に進学予定である。
受験をする学生は3月から研究室に来るけれど、4月初めに大学院入学の二次試験があるので卒業研究はそれが終わってからである。
張笑さんは3月に細胞にsiRNAをいれて細胞のクローニングをする期間を二次試験のための勉強に充てた。4月半ばから研究室に戻ってきて、遺伝子発現を変えた細胞の性質を調べ始めたが、一通りの分析をするだけで終わってしまった。
朱さんも張笑さんと全く同じように大学院の受験をして、4月半ばから遺伝子発現を変えた細胞の性質を調べ始めたが、私たちの予想が外れた結果となった。と いっても私の立てた仮説があわなかったというだけで、彼女の責任ではない。この二人はこの秋から私たちの大学院に進学する。
4人の卒業研究の学生の面倒をみた人たちは、同じようにこの6月の卒業する修士課程の4人の学生だった。彼らの指導がしっかりしていたのだろう、論文発表日の前日までに出すようにと文書に書かれていた卒業論文をしっかりと書いて生命科学院に提出した。
ところが論文の書式に合わないと言って3度も直されていた。25日の発表の日の発表の後もさらに論文を2回も訂正して出し直していた。学院側がすごく神経質 である。驚いたことに、学科主任は、卒業論文をちゃんとやったかどうか、結果が出たかどうかそんな内容は誰も気にしない、卒業論文が書式通りに整えられて いるかどうかが重大なのだと説明したという。
今までと何かが違う。
卒業研究生の 20%が優秀論文に選ばれる。私たちのところは毎年3-5人くるから、いつもそのうちの一人が選ばれる。最初の年に誰を選ぶかと聞かれた。3人とも優秀で きちんと卒業研究を行い、しかもきちんとした結果を出したから、3人とも優秀論文に選ばれるべきで、その中の一人だけを選べないと学院の主任にたてついて 以来、先方で勝手に一人を選んでくる。
ところが今年は、私に4人の中から選べと執拗に言ってくる。今までそっちで勝手に決めていたじゃないか。何故勝手に決めたのかを私に説明して欲しい、私がそれに納得したら、今年の一人を私が選ぼうと返事したら、間に通訳に立っている学生はもう泣きそうである。
うちの学生を困らせても仕方ないので、とうとう私は折れて4人の中から一人を選んだ。張添翼さんである。彼女はおとなしいが頭が冴えている。きちんと実験をした上に、信頼できる良い結果を出した。
それにしても今年はどうして形式、手続き、体裁にここまで異様にこだわるのだろう。上部機関から査察が入るので、教育、学生指導をきちんとやっているという 万全の証拠を残しておくことが必要な事態に直面しているのだろうか。そういえば博士課程の設置に向けて運動を始めたようだったが、その関係だろうか。
2009年07月10日(金)
VIPの来訪
私たちの研究室をVIP二 人が訪れた。どういうことかというと、瀋陽在住日本人会の先の会長で伊藤忠商事瀋陽事務所の代表である高木純夫氏の依頼である。高木氏の以前の上司が政治 学者であった高坂正堯教授の弟の高坂節三氏で、伊藤忠を退社後は経済同友会幹事や栗田工業会長などを歴任し、いまは東京都教育委員でもあるという。今回の 瀋陽の訪問ではいくつかの学校を回って学生と懇談したいということだ。
日本では新型インフルエンザが想定していたほどひどいものではないと分かって、国を挙げての対策はかなり沈静化した。しかし、中国では未だに警戒を緩めていない。大学は依然として日本からの来訪者を認めていない。
それで大学当局にお二人の履歴書を添えてお伺いを立てた。日本のVIP二人が大学訪問を希望している。ついては、入構を認めて貰えるか。私たちの研究室を訪ねて、そこで学生と自由な討議をしてよいか。大学当局への表敬訪問は可能か。1週間くらいして返事があった。入構してよい。研究室で学生と懇談してよろしい。しかし学期末なので大学の要人が二人と会談することは難しい。
というわけで、6月29日朝10時に、高坂節三氏、高木純夫氏、そして通訳のJiaさんの3人を大学の正門で出迎えた。あらかじめ大学から正門警備の人に連絡が行っていて、車はそのまま構内に入った。研究室の人たちには、学生と話したいという日本の教師界の偉い人が来るので、そのとき部屋に集まってほしいと言ってあった。
部屋に入って来られたお二人は「部屋が広いですね。あっ、あれ。伊藤忠美人が並んでますね。」高木氏から毎年頂く伊藤忠のいわゆる美人カレンダーを壁に貼っている。壁が広いからまだ何年も貼れそうである。
学生は学部の卒業生も含めて10人が集まってくれた。最初に高木さんが中国語で伊藤忠とご自分と、そして高坂氏を紹介した。そして私はpptを使って、まず瀋陽薬科大学の中国における地位について述べてから、研究室の紹介をした。
「研究室には『山形研究室は世界一流の研究者を育てることを目的とする』で始まる研究室憲章があるのですよ。」こういう話には誰でも笑う。こういうところで、 こういう大真面目であることはピエロみたいなもので、ひとの失笑を誘う。今日も例外ではなかったが、もちろん外交上の好意的なものだろう。
「ここの学生はとても優秀ですけれど、小さいときからの教育でしょうか、覚えることは得意ですが、考えることをあまりしないみたいです。自分の頭を使って考え るという教育があまりされていないみたいですね。ですから研究室のセミナーでは、『要想成功 要問問題 不提問題 不能成功』という標語を作って、学生が 活発に質問して議論をするようにいつも励ましているのです。」この後高坂氏と学生のあいだで、1時間ばかり質問と回答が飛び交った。高坂氏が求めたものがここで得られたかどうか私には分からない。私は、つい、ここの学生たちと日本の学生を比べてしまう。中国では60年前の私たちのような希望に燃えた目で将来を期する学生たちでいっぱいである。それに引き換え、今の日本の学生の覇気のなさ。彼らを見比べて、日本の学生を元気にする処方薬をぜひ見つけてほしい。
坂氏からは事前に著書「経済人からみた日本国憲法」を贈られていた。経済同友会で憲法問題調査委員会委員長を務めて、タカ派として音に名高い石原慎太郎知 事の東京都の教育委員である。憲法改正を声高に唱える本かと思ったら、とても穏やかに歴史の解説がしてある。引用が豊富で、最後にこのような世界の中で、 丸腰のまま平和が欲しいと唱えているだけで今の世界で生来ていけるのでしょうかという問いかけで締めくくっている。憲法を変えて軍隊を持たなきゃ駄目じゃ ないかと喚いているわけではない。知らず知らずなるほどと引き込まれそうになってしまう。高坂氏と話すと分かる彼の外連味のない真面目さが文体に反映して いる。しかしこの引用はくせ者といっていい。自分の主張に必要な論拠だけを使い、不都合なものは使わなくても、ものを知らない身ではそれとは気付かずに乗せられてしまうわけだ。
教 育の恐ろしさは身にしみている。戦前の軍国少年も教育の成果だった。戦後の価値観が一転した時代に小中の教育を受けた結果が今の私である。教育ほど人の考 えを変えるものはない。つまり教育ほど大事なものはない。高坂氏には国家百年の計を誤らないように、日本の普通の人たちとこれから進む方向を論じて欲しいと思う。
2009年07月14日(火)
中国の西の方がきな臭い。夏休みになるので西の方に是非行きたいと計画していた教師の会の先生たちが予定変更を余儀なくされている。この騒ぎの余波で(としか思えないが)、7月8日からyahoo geocitiesをサーバーにしているHPがすべてここでは遮断されている。
高坂氏の論拠になるほどと感服するけれど、戦前の、国のため、天皇のため、すべてが犠牲にされようとした世界を知っているし、それも財閥や一部の人たちを守 るまやかしに満ちたものだったことも今は分かっている。私は戦前の日本軍を思い出させるすべてのことに対する拒否反応が身体にしみ込んでいる。もちろん私は、自分たちの国は自分たちで守るというのはごく当然のことだと思っている。生きている以上、生きていることに伴う責任だと思う。でも守るべき国は誰のためなの?と、つい疑り深く考えてしまう私である。
私たちの研究室は東北地方の瀋陽にあり、元々清朝の発生した地域であるので、満族の学生が結構いる。研究室で見ている限り、彼らの間に対立も差別もないようだ。しかし戸籍に相当する書類には出身が明記されている。
私たちの大学には論文を発表するための機関誌がある。世間並みに編集主幹も編集員もそろえて論文の審査をしているけれど、基準は甘い。ここに出せばたいてい通る。しかし今までたびたび書いているSCI (Science Citation Index) の対象雑誌にはなっていないのが、投稿する人には泣き所であろう。
私たちはSCIに収録されている雑誌に論文を投稿しているが、そこには載せきれないデータでまとまって論文にできるものは、この瀋陽薬科大学学報に投稿している。
出版されるとその雑誌が送られてくるので開くと、修士で卒業した鄭くんの論文の第1ページの脚注には:
作者紹介:鄭大勇(1981-)、男(満族)、遼寧瀋陽人;山形達也(1937-)、男(日本人)、東京都目黒区人、教授、博士、主要研究方向腫瘍転移制御研究。
と書いてある。
つまり著者の出身民族が明記され、しかも男か女かも明記するのだ。
この大勇の論文の載った雑誌には18編の論文が載っていたが、大勇以外は全部漢族だった。教授では一人が、朝鮮族、女だった。ほかの号をみると、蒙古族、女と書かれた論文筆頭者もいたが、漢族の中の少数民族といわれるだけあって、ほとんどの著者は漢族である。
このように戸籍に出身が書かれるだけでなく、論文でも(あるいは必要のあるごとに)出身を書くということは民族の誇りを守る一方で、民族の間の対立を増す要因ともなるのではないだろうか。
畏友加藤正宏さんから昔の中華民国時代の小学生のいわゆる通信簿を見せたもらったことがある。出身に貧民だったか賤民と書いてあったように思う。江戸時代の日本でも穢多という士農工商よりも下のランク付けがあったし、戦前は華族・士族・平民の身分差別があった。
その区分で言うと私は平民出身だが、この出身区分に人々が敏感であるということを身にしみて知っている。というのは、うちの父方の家系は代々田舎の宮司だっ たのが、明治に入って身分制度が改められたときに「平民」になったと子供の頃聞かされたからである。たかが宮司でも、人と違うというのが、人を支える誇り となっていたのだ。
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=33340
2009年07月22日(水)
博士の謎 その二
そんなこんなで、普通なら3年で学位論文が仕上がるが、関敏の場合には3年どころか4年経っても5年経ってもその気配はない。
といっても学位に無関心ではない。何度も論文を出したいと言ってくる。実験は沢山やっているかもしれないが、結果の信頼性に問題があり、それを正しいと認め たにしても互いに有機的に、そして論理的につながっていないのだ。このような内容でいったい何の論文を書くのかというのが私たちの反応である。
関敏は私の指導が悪いという。私は十分指導してきたつもりである。実際ここでもう二人が立派な論文を書いて博士になっている。彼女には論理的な科学的思考が出来ないからまともな実験が進まないのである。結果と想像、願望とがいつも渾然一体となっている。
彼女は私の前で泣きわめく。「なんで中国人の指導教官の所に自分は行かなかったのか。評価の基準が高いこんなところに来た自分は愚かだった」という。「別のところに行っていれば修士、卒業研究生みんなが助けてくれて2年もあれば学位が取れた」
「お前の指導は間違っている、ほかの大学の先生に訴える」と息巻く。「いいでしょう。どうぞ誰にでも言ってください。公開して討論してもいいですよ。私も自分の言い分を言いましょう」。
前にも書いているが、ここの大学の博士論文提出の資格は、論文2報が出ていること。そのうちの1報はSCI(国際誌と言っても山ほどあるが、Thomsonという会社が出しているScience Citation Indexという雑誌のこと。この中に収録されてもピンからキリまで順位がある)収録の雑誌に出版されていることが必要である。もう1つはどこでもよい。この大学の紀要誌でよい。
いくら実験をやったって、筋道のある結果が出て、論理的に他人を説得する内容がなければ論文とはならない。3年掛かろうが5年であろうが、それが10年となっても、論理的に他人を説得できる結果が出なければ、年月だけでは論文は通らないのだ。この大学の博士課程は3年間で、延びても5年までと明記されている。5年目に彼女はともかく中国語でレフェリーのいない雑誌でもいいから論文を書きたいとい う。もし論文として書ける内容があるなら試しに書いて持ってきてご覧と私は言った。しかし持ってこない。その後も言い続けて今日に至っている。
やがて2008年秋になり、関敏が来てから5年経った。その後は大学の規定により、彼女は自動的に退学・除籍になると思っていた。在籍者が博士を取れずに去るというのは、大声で言いたくはないが仕方ない。当人の素質の問題なのだ。人は自分を知らないと、愚かな行為で時間を無駄遣いする。
という訳で6年目に突入した今年度は、いったい関敏の身分はどうなっているのだろうと不思議に思いながらも、一方では彼女の研究に助言を続けていた。少しで もまともに研究を進めさせるのはこちらの義務であるし、彼女のために何万元という金を投じてきているのだ。それを無駄には出来ない。
2009年に入ると、彼女の研究は3つくらいに大きく分けることができ、そのうち二つは明確な結論を出すにはまだ実験が足りないが、後1年もすれば論文2報くらい書けるかもしれないと言えるようになった。
そのときである。関敏は、博士論文を提出するためには出版された学術論文2報が必要という学内規定に係わらず、博士課程在学5年を超えている人で論文がなくても、その後2年以内に出版可能なら学位が請求できる規則があると言い出した。
びっくりである。まさかと思うが、そのような規則があると言ってやまない彼女を放っておくわけには行かない。この情報のもとは学長だというので学長に会いにいった。
「そうですか。そんな人がいるなんて困ったことですね」と学長は言うが、これで彼女が救われるとは決して言わない。「そう言うことなら学位論文を書いて審査請求を出してくれればその段階で考えることになるでしょう」という。まあ、至極ごもっともである。
状況を彼女に話した。すると元の指導教官はもう退職していたが、その後任である呉英良老師に彼女が話を持っていったら、論文を書いたら審査委員会の方は引き受けるといってくれたという。
というわけで、関敏は学位論文の原稿を書いてきた。論文を今まで書いたことがないから、論理は通っていない、説明不足である、英語は何を言っているのかわからない。それでも百ページの論文を二回直した。3度目は断った。
そして関敏は6月最後の日曜日の発表会を待っている。形の上では正常な学位審査会と同じだから、これに通れば論文が出版されてから書く学位論文を書いたのと同じということになる。外部に論文を発表できる内容ではないのに、それと同じということになる訳で、自己矛盾を抱えた審査会である。
何故、こんなことをするのか。当日ほかにも同じように発表する人がいると聞いてなぞが解けた。何と、正教授なのに学位がなく、しかも論文を発表していないの に同じように学位請求をする人があるという。この措置はその人を救うためだったのだ。その教授のおかげで彼女も一緒に救われることになったということらし い。なるほどねえ。
2009年08月27日(木)
一票の重み
今書かないと間に合わない、と言うことがある。これもその一つである。
朝日新聞に意見広告として最高裁裁判官に対する「国民審査権」を行使しようと言うのが載っていた。目にした方も多いと思う。
ほかの新聞は見ていないので知らない。産経新聞なんかはこのような意見広告の掲載を拒否しそうである。
意見広告は、今度の8月30日に行われる衆議院選挙で私たちは一人一票の権利を行使するけれど、高知3区を基準にすると東京3区では0.5票分の力しかないことを訴えている。ちなみに参議院選挙では、鳥取県の選挙権を1票にすると、神奈川では0.2票にしかならない。
このような一人一人の権利である票が地域によって不平等であるという訴えは最高裁で何度か争われているが、そのたびに合憲という判決が出ている。最高裁判事の定年は70歳で、審査は10年ごとである。今回国民審査を受ける判事9人の中で、2007年の合憲判決に関わったのは3人しかいない。
那須弘平裁判官と、涌井紀夫裁判官は、地域によって一票の不平等があっても合憲だと判断した。田原裁判官は、それは憲法の主旨に沿わないという少数意見だった。
国民は誰もが性別、信条、出身、地域で差別されてはならないと憲法できわめて明快に述べられている(第十四条の一)。投票する権利は国民の誰にも保証されている。しかし一票の価値が、投票する場所で異なっても良いというのが、現在ではまかり通っている。
裁判官はときの内閣が任命する。日本は長い間自民党が権力を握っていた。彼らの地盤は農村だったから、都市住民の意見を軽く農村の意見を重くするのは自分たちの政権維持に必要だった。そして最高裁裁判官の判断はこれを支持してきたと言って良い。
国民審査権は一人一票が保証されている。私たちは、自分の一票が日本のほかの地域と同じ価値があることを求めよう。
那須弘平裁判官と、涌井紀夫裁判官にはバツをつけよう。
この意見広告は、那須判事と、涌井判事が一票の価値の不平等を合憲であると判断したことを公表しているが、これは二人に対する誹謗中傷でないことを明確に述べている。私たち国民はここの裁判官が「一票の不平等」をどうか扱ったか知る権利があるのだ。
8月27日木曜日、投票日の三日前にうちに選挙公報が配られた。それぞれの判事の略歴と自分が関与した主要な裁判心構えが書いてある。自分で記載したものだと考えて良い。
涌井判事は、2007年大法廷の一票の重みについての裁判で違憲ではないと判断したと書いてある。田原判事は違憲であるという少数意見だったと書いている。
しかし驚いたことに、那須判事は「最高裁判所において関与した主要な裁判」の中にこの問題の裁判を全く挙げていない。なぜだろう。
最高裁に上がってくるような裁判ではどの判断も重要である。国民の投票の重みが不平等であると訴えた裁判で、それが違憲でないと判断したことに自信があるなら書かないのがおかしいほど重要な判断が求められた裁判だと思う。
つまり、那須判事は国民の前にしらを切っていることになる。この意見広告がなければ、那須判事の合憲判断を私たちは知らないで終わったことになる(同じ日に朝日新聞の記事に同じようなことが小さく書いてあった)。
私はこの意見広告を出した「一人一票実現国民会議」を畏敬の念とともに支持する。数十人の発起人はそれぞれの分野で名の知れた人たちである。自分の信念を何 ものも恐れず述べる勇気を持つ人たち。私が同じことを言っても何の力もないかもしれないが、国民審査権は一人一票の重みは同じなのだ。
那須弘平裁判官と、涌井紀夫裁判官には×をつけよう。
2009年08月28日(金)
期日前投票に行こう
今日の昼には期日前投票に行ってきた。昔は不在者投票と呼んでいたような覚えがある。そのときは区役所の物置みたいな狭い部屋に投票所がしつらえてあった。
投票日が学会と重なったので投票日には不在が確実になった。そのときは区役所で不在者投票をする理由をしつこく問われたように記憶している。だって投票日にはいないんだから、と言っているのに、投票の権利を邪魔したい口ぶりだった。
不在者投票をしたのは十何年前の一回きりだが、そのときは不在者投票が出来ることを嬉しく思って出かけたのだから、それよりずっと以前にはない制度だったのだろうか。
今回は区役所に出かけると、「期日前投票はこちらです」と立て看が1階のロビーに出ていた。
名称が変わったのかなと思ってインターネットで調べてみると、不在者投票と期日前投票とは違うものだった。
「不在者投票」は、本質的には選挙人名簿(在外選挙人名簿)に登録されている市区町村の選挙管理委員会以外での投票で、投票日前日までの投票になる。
私は殆ど中国にいるから、中国に住んでいるという登録をあらかじめしておけば、不在者投票ができるわけだ。
実際は住所を移していないので日本で税金を払い続けているけれど、幸い、今回は日本にいたので、政治のシステムが変わることが期待される今回の選挙に投票することが可能になった
ただし8月30日という投票日は都合が付かない。それで、期日前投票に出かけたのだった。
「期日前投票」とは2003年から新設されたもので、投票日に投票できない有権者が、公示日または告示日の翌日から投票日の前日までの期間に、選挙人名簿に登録されている市区町村と同じ市区町村において投票することができる制度をいうそうだ。
2003年以前でも、投票日に不在の場合は期日前投票が認められていたが、要件が厳しく、不在者投票になる理由をしつこく尋ねてプライバシーの侵害ということで対応が緩くなり、そして期日前投票が制度として認められることになったらしい。
新設された期日前投票制度は事前投票の方法として浸透しつつあるが、これは本制度の代替制度ではなく、廃止されたわけでもないということだ。
私が国政選挙で投票をしたのは2002年以前のことだが、うちの近くの小学校が投票所だった。そのときに比べて、区役所の期日前投票所は空間が少し狭いだけで殆ど同じと言って良い。
市長選挙、市議会議員補欠選挙、衆議院小選挙区、衆議院比例代表投票、最高裁判事の国民審査と五つが私たちの意思表示の対象である。投票記載台がたがいに近く、勿論順を間違えないようにちゃんと誘導されるけれど、投票箱がくっついている.
何よりも印象的だったのは、投票する人が引きも切らず、正規の投票日のときよりも多かったような気がしたことだ。今までの投票日は日曜日だから、そのときに は見かける働き盛りに見える男の姿は少ないといってよい。しかしベビーカーを押した若い母親も、私たちみたいな年寄りも、列を作って投票に来ているのだ。
今回の国政選挙は政治が変わる可能性に自分が立ち会うという興奮を伴っているので関心が高いのかもしれないが、この期日前投票というのはなかなか良い制度である。
規の投票日と同じ体制と陣容で臨まなくてはならない選挙管理委員会にとっては大変な負担と物いりかもしれないが、投票日が一日だけと限定されずに、それま でなら何時出かけても良ければ、不慮の理由で棄権をすることがなくなる。投票日を一日として告示するのではなく、投票日はいつからいつまでの1週間としてしまうのはどうだろう。
日曜日の結果が楽しみである。
2009年08月29日(土)
日本を良くしよう この夏は自分の健康の検査を受けたら異常が見つかり、その精密検査などがつぎつぎとあって、これと言うこともしないうちに夏は終わってしまった。おまけに、その関係で戻る予定の新学期の期日に瀋陽には戻れないでいる。
以前書いたことがあるが、私は大分前のことだが急性膵炎に苦しんだことがある。1995年2月にアメリカで学会があり、日本に戻って研究仲間の会合で出会った友人の西川先生に「顔色がどす黒い。それはどこか消化器がおかしいんだから見て貰いなさい」と言って彼の友人の医師を紹介された。
そう言われても自分自身では自覚症状は全くない。いつもの通り元気だ。妻も別におかしいことないわよと言う。
それでも友人の顔を立てて、紹介された病院を訪ねた。院長先生の出身は東工大出身のエンジニアで流体力学の専門家なのに、医師を志して転身した先生だった。 私をうつぶせにして背中のあちこちをを軽く叩いた。ある一点で私は飛び上がった。先生はこれは膵炎を起こしていますねとおっしゃる。
その時はそんなことあるんですかと思ったのに、そのあと二日して私は痛みに七転八倒する羽目になった。院長先生の見立て通り急性膵炎だったのだ。
大学の2月と3月は一番忙しい時期なので、絶食し、病院に通って点滴をうけながら大学の仕事を続けた。膵炎にいけないのはアルコールとストレスだと教わった。そのあと1年間はアルコールを断ったけれど、次の年の卒業時期に祝い酒を飲んで膵炎を再発させた。これは私が悪い。
この夏、院長先生の内視鏡検査を受けて、私に消化器の異常が見つかった。観察したところがんと言えるけれど生体染色をするともっとはっきり分かるから、専門の先生を紹介しましょう、と言うことになった。
自分にがんがあると言われてもごく素直に受け入れることが出来た。科学をやっているからか、自分をごく客観的に観察することが出来る。
紹介されて診ていただいた医師は食道がんの世界的権威として知られている専門医である。初対面でしかもこちらは患者だが、私もがんを研究する専門家と言うことでお互いいろいろと話が弾んだ。その時聞いた話にショックを受けた。
この先生によると今は外科医を志す医学生の数が激減しているという。がんを手術で切除できるのも後数年ですよ、ということだ。
数時間立ちっぱなしで指先一つに命を預かる外科医も、機器の診断だけを診て患者を扱うだけの医者も同じ報酬だそうだ。難しいことに挑戦しようという気概を持つ若者が減ってきたという。
おまけに、もし医療事故があると訴訟を受けて大変なことになる。苦労して我が身を削ってまで人の命を救おうという気持ちがなくなってきたのだろう。
「21世紀の終わりまでにがんは薬で治るようになると思いますか」と私は訊かれた。「勿論私たちはそれを目指しているけれど、ともかく現状では早期発見による外科切除しかないですよね」としか言いようがない。
がんの研究がこれだけ盛んに行われていても、絶対確実なのはそれの切除しかない。それが出来る医者の数が激減している。
救急のたらい回し、産科医・小児科医の激減、地方都市病院における診療科科目のカット、と言う医療の荒廃が叫ばれて久しいが、これらの根本的問題に加えて、私たちは外科医の不足にもうすぐ直面するのだ。
一方である医療機関はもうけを増やすために、外国人富裕層の受け入れを始めたという。当然国民の医療を受けるべき人たちへの対応はおろそかになるに違いない。
これが文明国なのだろうか。国民が不安なく暮らせるようにするのが国ではないか。その国を好きなように食い物にしてきた政治家には退場して貰おう。
新しい風が政治を変えても、それが私たちを真に幸せにするかどうか分からない。しかし、自分の投票権を行使することによって、私たちは声を出して要求するこ とが出来ることに気付いてきたのだ。これからも求め続けよう。日本の国は私たち国民のものだ。日本を私たちの幸せな暮らしを実現できる国に変えようではないか。
2009年09月03日(木)
NHKと政治
第45回総選挙で日本の歴史が動いた。長く続いた自民党の独占政治が終わり、日本の政治の風通しが良くなることが確実だ。
新聞、テレビ、雑誌で、これは民主党が政策論争で勝ったのではない、自民党へのお灸であり罰だという。実際、民主党に政治担当能力があるかどうか誰も分からないのだから。
こうやって、自民党はもううんざりだという声がやっと大きくり、その民意が結集して自民党の政治が終わったのだが、ここに来るまでが本当に長かった。自民党政権に反対しても全く効果なく、それでも反対し続ける自分にうんざりするくらい長かった。
ところで、私の学生のころ、親しかった友人から言われたことを覚えている。「NHKがニュースで言うでしょ、『政府自民党は、これこれしかじかで、、。』これって、政府と自民党と一体のもので政府は自民党であり、自民党が政府であるという無意識下の植え付けを図っていると思わない?」
確かに、『政府と自民党』と言えばいいのに、『政府自民党』というのは意図的に、政府は自民党のものですよ、自民党が日本の政府なのですよと言っていると言って良い。
私はこのようなNHKの姿が気に入らなかった。結婚して自分の家庭を持ったときに訪ねてきたNHK放送の聴取料を取りに来た集金人に、おかしいじゃないかと抗議をした。なぜこのように言うのですか?この言い方を変えたら払っても良いけれど、そうでなければ偏向した「公共放送」には払わない。
しかしNHK から返事はなく、「政府自民党は」の言い方も変わらず、私はそれ以来50年近く支払いを拒み続けてきた。
政権が変わってNHKは「政府民主党は」という言い方をするのだろうか。NHKが意図的か、無意識で無邪気にこのような「政府自民党は」の表現を使っていたのかは知らないが、もし、「政府民主党は」と言うようになったら、やはり権力迎合と思う。NHKは公共放送の名に値しない。
もしも「政府と民主党」と言うようになったら、以前「政府自民党」と言ったのは自民党に肩入れした意図的なものだと言うことになり、やはりお灸を据えなくてはならない。どちらにしても私は聴取料を払うきっかけがつかめないことになる。
鳩山さんが首相に任命されるのは9月16日という。その日からNHKが「政府民主党」というのか、「政府と民主党」というのか、どうなるのかを楽しみにしている。
追記:
NHKが今放送でどう言っているかは日本にいないので分からないが、インターネットで『政府・与党の政策決定システム「各省政策会議」新設 小沢氏通達』(9月19日7時56分配信 産経新聞)と書いてあるのを見つけた。
この自民党よりの新聞はいままでの「政府自民党」という言い方に慣れていて、「政府民主党」などとは違和感があってとても言えないのだろう。それで、無難なところ「政府与党」という言い方にしたのだろう。
「政府民主党」といわないということは、意図的に「政府自民党」と50年近く言い続けてきたということになるだろう。これはNHKではなくて産経新聞だから、少しは事情が違うだろうけれど。
学生に民族のことをどう思っているか聞いてみたいが、漢族からは優等生の答えしか返ってこないだろうし、少数民族からは「全く気にしていませんよ、それよりも一人っ子政策で縛られていないこと評価します」というような答えが返ってきそうである。いずれにしても少数民族から本音を聞かされたときに、私に何ができるかの覚悟がなければ聞いてはいけないような気がする。二番目の写真は2009年7月13日のRecord China:
人は人と違うことに生きる価値を見いだす生物なのだ。背が高ければ嬉しいし、美人ならもういうことはない。それだけで人と違うのだ。まして身分が違うというのは、差別の心を生み育てる。人は自分より劣る存在があれば、どんなに苦しくても、生きていける生き物である。 それからみれば、出身部族を書いているだけであって実際中国人の94%の人口を占めている側に言わせれば差別ではないともいえるかもしれない。しかし富と権力を握るのがほとんど漢族だから、残りの少数民族からみると、差別をされていることになるかもしれない。戦前の父は「平民」と書くたびに差別されていると思っていただろうと思う。