2011年5月14日
今年の研究室
2011-05-14 17:03:30 | 日記
研究室の記録として残しておきたいと思いつつ、なかなか書き続けるのは難しい。
2010年度の学期末に近づいて、今の陣容は:博士4年生張嵐(うちに来てからは3年未満である、呉英良研究史から送られてきた)、博士2年生陽暁艶。
修士3年生は王月、黄澄澄。修士2年生は張笑、朱Tong。修士1年生は崔玉Ting。
2011年入学予定は、博士課程に王一任。修士課程は林音知と張雪城のふたり。
今の卒研生は、徐帥(貴重な男子学生、薬学日語5年生)。楊洋と張微(共に薬学日語5年生)。
2011年3月30日
修士希望者がまた一人落ちた
2011-03-30 17:12:43 | 日記
修士の時にうちの研究室に入りたいといってきた二人のあと、またもう一人の学生から希望があった。
何で今頃と思いつつも会って聴いてみると、もちろん、山形老師のところで研究をしたいからという。
でも、志望していた研究室では、指導教授が直ぐには結論を出さないのだそうだ。志望者は二十人を超えると言う話で、長く決まらないことに不安を感じ、そこを諦めてここを志願したというのが真相のようだ。
会って見ると明るい性格だし、将来も研究を続けていきたいということなので、それなら見込みがあると、良い印象を受けた。もちろん、その指導教授がうんと言わないと話は進められない。
メイルを送ると、この話では二日もしないで返事があった。「彼の決断を尊重したい。好いですよ」ということだった。
それからは、毎週土曜日のうちのセミナーに参加して、2回くらい来ただろうか。とてもいきなりは分からないので、うちの研究室の修士の朱さんなどが、付ききりで解説していたし、その指導を今後も楽しみにしていた。
ところが、今日やってきて、悪い知らせですという。
二日前に大学院入試の国家基準が発表されて、彼はそれに1点足りないことになった。従って志望するこの薬科大学の大学院には、二次試験の受験資格がないのだという。
そんなことなら前から分かりそうなものと思ったが、例年に比べて発表された今年の基準点は思ったよりも高かったので、蓋が開いたら駄目だったということらしい。
気の毒な話だが、これが現実だ。聞くと、今から良い就職を探すということだった。中国の就職は年年厳しい状況が続いているというので案じている。
今年は志願者がこれで二人試験に落ちたことになる。以前は、無試験の推薦組や、試験で一番という人たちばかり来たけれど、今はだいぶ様変わりだ。やれやれ。。。
2011年3月11日
先週、また一人修士に入りたいという女子学生があった。仮に林さんとしておこう。会って見ると林さんは、ちっちゃいけれど生気あふれている。
医学院にいたけれど物足りなくて、薬科大学の3年生に編入したのだという。薬学院と言っても、医学部ではなくて、医療科あるいは看護科という感じだろうか。科学をもっと身につけたくて薬科大学に移ってきて、今では修士を終えたら、きっともっと勉強を続けると思いますなんて言っている。
私が影響を与えたわけではなくても、科学に興味を持ち、生命現象を自分で解明したいと思っている学生は大歓迎である。
4月にある二次試験に通ったら是非いらっしゃい、と林さんに言って面接を終えた。ついでに、第二週の3月12日の度王日から研究室のセミナーを再開するので、よかったら、是非いらっしゃいと言っておいた。
研究室のセミナーは今年度の最初から、今まで通り最新の論文を読んできて紹介するシリーズと、もう一つ新人向けに、今までの糖鎖生物学で重要な研究が沢山出ているけれど、是非知っておいた方がよい論文を過去に遡って紹介するクラシックスシリーズとの二本立てにしている。
3ヶ月研究を離れていたので、私が少しでも早く社会復帰するためにはセミナーで話すのがよいと思って、通常シリーズの初日に立候補した。somite oscillationの論文がとっても面白かったけれどその背景を理解するのが簡単ではない。沢山読まなくてはならない論文があるけれど、多くはここからはアクセス不能である。
それで、ヘパラナーゼがHGFを誘導するという論文を選んで、PPTを作って事前に参加者に配ったところ、張嵐が私が以前紹介しましたという。話を聴いていた論文を選ぶなんて、なんとまあ惚けてしまったたかと慌てたけれど、私が日本に行って不在の間のセミナーだった。それで胸をなで下ろしたけれど、それを話すわけにはいかない。
用意する時間が一日しかない。それで、クラシックシリーズで次の週の演者に指定するはずの論文を話すことにした。昔の私達の論文で、カルモジュリンとカルモジュリン依存性酵素がガングリオシドで制御される機構を詳しく調べた論文である。
よくよく頭に入っていると思っていたけれど、説明するとなるととても難しい。昔から、この話をするとたいていは殆ど分かって貰えなかったっけ。
分かって貰えないのはこちらの説明の仕方が悪いのだ、と思って、カートンを作って色づけして、反応が理解しやすいよう工夫して見たところ、結構よかったみたい。
今のセミナーは公開で、この土曜日は今の4年生が5-6人が来ていたし、林さんも初めて来ていた。これからも、彼らが分かるように話すことを、皆が目指して欲しいと思う。
2011年3月4日
修士課程志望受験生の面接
2011-03-04 09:26:43 | 日記
修士に入りたいという学生が訪ねてきた。黒竜江省の牡丹江医学院の出身の男子学生だ。この学生を張さんとしておこう。
部屋に入ってくるといきなり英語で話し出す。これは珍しいことだ。たいていは中国語で話しかけてくるのに、英語で話しかけてくると言うことは、あらかじめこちらを十分調べていると言うことだろう。
薬科大学を外から受験して、選ぶ研究室は沢山あるだろう。しかも遠方から来ているのだから、ここで駄目と言われるときのためにあちこちの研究室を訪ねるという保険を掛けているだろう。
ところが、聞いてみると、この大学で連絡を取ったのは池島教授と私だけだという。
どうしてここを選んだの?がんの研究に興味がある、という。だってがんの研究をやっているのは、ここ以外にもあるでしょ?
生化学と分子生物学では今の中国は遅れている、外人教授のところの方が進んでいるに違いないから、その二つに志願したという。
この張さんは池島教授にも連絡したけれど、もう断られましたと悪びれずに言っている。どうして?と聞くと、成績が悪かったからだと思います、とはっきり言う。
実際、このことは池島さんから聞いている。池島さんが断った学生を私が引き受ける? 別に抵抗はないので、面接をすることにしたのだ。
今、面接をすると言っても、スタッフの貞子はいないし私だけしかいない。それで、異例だが研究室のシニアである博士課程の二人の学生に同席して貰った。
この張さんにとってこの二人は、面接を受ける試験官というわけだ。
面接はもちろん英語だが、英語が得意ではない受験生にしてみれば、目の前に中国人がいればどうしても中国語を使いたくなるはずだ。しかし、張さんは私の英語が分からなくても、それでも徹底して英語を使おうとして、中国語を使わなかった。私はこれに好印象を持った。
私達の発表した論文を声を出して読んで貰った。GD1a以外は殆ど聞いていても分からない。中国に翻訳してみて、と言ったが、まるで分からないという。英語の力がまだまだである。
と言うわけで、英語に不満はあるけれど、正直さに免じて、入試の二次試験に通るなら私達のところで受け入れることにした。
うちの博士課程の二人さん、ご苦労様でした。
2011年2月27日
生きているブログはGooだけみたい
2011-02-27 14:54:18 | 日記
今まで、ホームページをあちこちに作ったり、ブログをこれもあちこちに書いてきた。
あちこちというのは目的が違うためだけではなく、今暮らしているこの国で見ることが出来なくなったり、アクセスできなくなったりしたからである。
今、春節休みが終わって瀋陽に戻ってきて、なんと驚いたことにこのGooのサイト以外、すべてアクセスできない。Google、Yahoo, Amebloなど軒並み駄目。あと一つ生きているのは、楽天のブログだけである。
南の方の國で、○○花(これは日本では英語、あるいはカタカナで呼んでいるが、この国には漢字がある。でもそれを書くと発禁になってしまう)カクメイが次々と起きているので、当然この国も神経を尖らせている。そのために違いない。
私はこれとは関係ないことのためにこの国に滞在しているので、巻き込まれるとを恐れる。従って、それには触れないでいたい。
昨日、2月26日の夕方、久しぶりに瀋陽に戻ってきた。久しぶりにと言うのは、昨年11月26日に妻が入院したという知らせを受けて、急遽その翌日、瀋陽を離れて日本に向かって以来だからだ。
二ヶ月入院して、妻は1月26日に永遠の眠りについた。山形研究室は二つのエンジンの一つを失った。研究室の学生たちはひとりで戻ってきた私を、遠慮しながら、それでも歓迎してくれた。
昨日で貞子が世を去ってから1ヶ月経った。妻の死にまるまる1ヶ月何もしないで嘆いていられたのだから、いまどきそんなことが許されたわたしは恵まれている。
大丈夫。ここはわたしの、私達の、仕事の場所だ。仕事に没頭できれば、きっと立ち直れる。