2010年7月5日
今年の卒研生
2年後の大学の引越のために
専門が増えた
研究室のセミナー
東陵公園のハイキング
慶応大学薬学部・山崎恒義教授の来訪
博士の学生にジャーナルクラブの司会役を
JCB に論文が通った
薬科大学の新学期始まる
奈良先端科学技術大学院大学の楊方偉くん
2009年10月31日
天潤川菜食府で昼を一緒に
土曜日の朝のジャーナルクラブに、新人教育のための講義を入れてこれで二回目。私の「Gangliosides and events on the cell surface」についての話は今日で完了。
貞子は治療の合間に、今学期初めて瀋陽に10日間の予定でやってきた。
引き続き通常のジャーナルクラブでは、暁艶が、PGE2リセプターとPGF2リセプターとのクロストークの最新の論文を紹介した。とても要領よく紹介をした。こちらもとても良い勉強が出来た。
全員のグループ写真を撮ってから、この寒い中を天潤川菜食府にいく。今日の温度は最高が零度で、最低がマイナス12度と予報されている。
黄色の銀杏の葉が昨夜の冷雨と雪でほとんど落ちてしまった。
今短期間ながら瀋陽に来ている妻の歓迎会である。もちろん研究室に新しく参加した新人たちにとっても初めての会である。
参加は、私たち二人と旧人学生:張嵐、陽暁艶、黄澄澄、王月、朱Tong、張笑、それに関さん。
新人学生:女子学生が、方家、林玉家、許雪静、王新桃、姜嘉慧さん。男子が胡忠双、張心建くん。全部で16名の宴。
心身ともに暖まって、帰りは余り気にならず研究室に戻ってこられた。
2009年10月26日
大勇が訪ねてきた
久しぶりに会った大勇は一回り大きくなって、訊くと10 kgくらい増えたようだ。落ち着いた雰囲気を身にまとい、いってみれば大人の風格を帯びたと言って良い。
卒業して北京の製薬会社に就職し、季節の折々にメイルを貰った。昨年は王暁東が北京に就職したので、研究室の人たちが北京を通るたびに二人に会って、彼らの消息を伝えてくれた。この夏のはじめの話では、大勇が北京を去って瀋陽に来たらしいと言う話だった。
夏休みには研究室を訪ねてくれたらしいがそのとき私は日本に行っていた。そして9月になり何時か訪ねてくるらしいと聞いていたが、10月24日土曜日、セミナーが終わったとき突然、暁艶が「これから大勇がここに来ます」という。
久しぶりに会った大勇は一回り大きくなって、訊くと10 kgくらい増えたようだ。落ち着いた雰囲気を身にまとい、いってみれば大人の風格を帯びたと言って良い。
瀋陽のあちこちで見かける何氏眼科を経営している人の持つ生命科学研究所に勤めて、長寿遺伝子の研究に携わっているという。そういえば、C.eleganceで、体内時計に関わる遺伝子Clotoが寿命に関わるといって一時話題になったのを思い出した。
彼は結婚適齢期と言って良い。どうした?見つかった?私たちの質問はそこに集中する。事情を知っている様子の暁艶は、毎週末忙しいんでしょう?とにこにこしている。
瀋陽に中心地である中街に70平方米の広さのマンションを、彼の結婚のために彼親が用意したそうだ。そして毎週末、「相親」という、日本で言えばお見合いをしているそうだ。見つかったの?いえ、まだまだ、と言う返事である。
週日は毎朝6時半には会社のバスに乗り、棋盤山という遠い郊外にある研究所に火曜だけで終わってしまい、週末はお見合いで結構忙しいらしい。
私はその後約束があって外出することになっていたので、この次は相手を見つけて紹介につれていらっしゃい、と約束をして分かれた。お土産に、リンゴ、オレンジ、金瓜などを沢山貰った。
2009年10月19日
山形研究室の公式のホームページは、2004年からYahoo.geocitiesで作りはじめた(http://www.geocities.jp/shanda1962/)。
中国から時々アクセス不能になっていたが、たいていは数日で回復した。しかし2008年10月から続いた遮断は長く、2009年2月にやっと回復した。
2009年7月に入ってまた接続不能となり、それが続いたので夏には、別のサイトに新しく作ることを考えた。ちょうどGoogleがソフトをサーバー側から提供する方式を開始していたので、使ってみると、とても使いやすい。
夏からはじめて、教師の会のホームページ(http://sites.google.com/site/kyosikai09/)、自分自身のサイト (http://sites.google.com/site/tcyamagata/)を作るだけでなく研究室もここに作成した(http: //sites.google.com/site/yamagatalaboratory/)。全部を移すことはまだ出来ないから、移行途上である。
ところが、ところが、である。10月に入るとGoogleへの接続が困難になり、とうとう10月12日から全く遮断されてしまった。
つまり作成しているホームページが開けないだけでなく、作成するサイトにもたどり着けなくなったのだ。
IBMのホームページビルダーを使っていたときは、原稿がこちら側に残っていた。しかし、今は原稿は手元にない。
このGoogleのサイトに完全に移行するまで、このGooに日記ブログを書いていた。山形研究室日記 も、(http://sites.google.com/site/yamagatalaboratory/)に書き込むようにしたので、今は、何が書いてあったか思い出せない。
という現状では、今研究室関連のサイトというとこれだけがアクセス可能である。
これからはここに書いていくことにしよう。
http://blog.goo.ne.jp/tcyamagata/
そして日本に戻る休暇に時に、本来の研究室日記に移植しよう。
なお、掲示板は生きている(http://8529.teacup.com/tcyamagata/bbs)。
2009年10月10日
岡山大学に行く江文くん
10月の国慶節の休みに入ってしばらくした5日に、この夏の修士の卒業生の一人である陳陽くんが、今日これから日本に出発しますという電話が掛かってきた。彼は東京大学大学院の先端生命科学専攻博士課程に入る予定で、日本政府の奨学金が支給されている。
今回の日本行きの航空券から日本政府持ちなのだ。東大は直ぐに入学させることはなく半年間研究生と言う身分にとどめておいて、1-2月頃に博士課程の入学試験がある。この研究生の期間も奨学金が支給される。
合格すれば晴れて博士の学生だが、落ちることもあるらしい。当然入るものと期待されているから落ちたら悲惨を絵に描いたようになる。しっかりと合格してほしい。陳陽も「これから先生の期待に応えてしっかり勉強します」なんて言っている。
それで、思い出したのは卒業生の一人の江文くんである。卒業研究生は卒業時に研究成果の発表をしているが、大学が形のある論文を要求するようになったのは2年くらい前からである。私たちの研究室は、日本だと卒業研究生が論文を作成するのは当然というしきたりを持ち込んだので、彼らは当然書いていた。
2008年度の卒業研究生は4人いたが、そのうちの江文くんが、どうしたことか論文を大学の教務には出していったものの、私たちには出していかなかった。卒業時期の慌ただしい中で、彼らが卒業論文の作成印刷に追われているのを見ていながら、実際に私たちに出さなかったことに気付かなかった。
江文くんは夏の間日本に一度出かけて岡山大学大学院の入試を受けて合格した。そのときは1週間くらいで中国に戻ってきた。陳陽くんと話をしたので、その後の渡航はどうなっているかと思って、電話を掛けてみた。
「はい、先生、江文です。今大学に着きました」なんて言うからびっくり。よく聞くと、岡山大学から入学許可の書類がこの薬科大学宛に届くので、それを受け取りに故郷から出てきたところだという。大学生は大学に入ると戸籍が大学の所在地になるらしい。この許可書類を持って日本領事館に行き、日本のビザを申請するわけだ。「先生のところには明日訪ねていきます」と言う。
訪ねてきた江文くんはお土産を持ってきてくれたのだった。龍眼という果実の干したもので、殻を割ると龍の黒目にたとえられる実が出てくる。そのまま食べても好いし、スープにも入れるという。
彼に会って思いだしたのは、卒業論文がまだ出していないんじゃないの?ということだった。ここのプリンターで印刷して置いて行きなさいと言っておいた。
翌日の昼頃大学の外を歩いていたら、江文くんがいた。青いジャンパーを着ているから直ぐに分かる。彼と一緒にかわいい女性がいた。前にも会ったことのある1学年下の彼の女朋友だ。
「やあ、関東煮を食べているね」と言った後、カメラを持っているのを思い出してこの二人を撮ったのが掲載した写真である。後で卒業論文を印刷するために部屋に来た彼と話していると、女朋友に会えるのは嬉しいけれど、会うのは食事の時だけだという。
だって、いまは8日間もある国家休日の真っ最中じゃないか。どうして?
すると、ちょうど部屋にいた朱Tongと二人が口をそろえて言うには、大学院の試験に備えて勉強が忙しいんですよ。まだ3ヶ月半も先のことだが、良い研究室に行くためには良い成績を取らなきゃならないから必死なのだという。
今年私たちの研究室に合格した朱Tongと笑笑は別々の研究科で受験し、それぞれ1位だったそうだ。そのためか、1位でないと私たちの研究室には進学できないという認識が広がっているらしい。
だから、朱Tongと笑笑が良くできる学生なのは大変結構なことだが、彼らのおかげでうちの研究室への進学希望者が皆ためらってしまったのではないか。今度の卒研生は9人も来るが、悲しいことには大学院進学志望はたったの一人である。待望の男の子だから、ま、いいか。
2009年10月2日
中国では今年から祝日が整理された。5月の日本のゴールデンウイークに相当する労働節が短くなって、代わりに4月に清明節、6月終わりに端午節の休日(それぞれが連休)が正式に出来た。10月の国慶節は8日間の休暇である。
私は春節休暇が6週間もあるのは長すぎると思うが、学生が故郷に帰って家族が集まるのは邪魔できないために、これには手がつけられない。代わりに労働節、清明節、端午節の休暇を一切認めず、国慶節も休みなしという研究室の方針だった。
しかし今年は中国建国60周年というめでたく、かつ国中が大いに意気込んでいる年にあたる。それで、9月に私が瀋陽に戻った後のことだが、国慶節休暇はフルに認めようと宣言した。
実は下心もあった。というのは、8月25日には戻ると言っていたのに実際には9月12日に戻った私は、あまりに長い日本の休暇に心身ともに調子が狂ってしまっていたのだ。ここで休暇によって研究室の学生から解放されて、研究を落ち着いて考えてみたい、と密かに思ったためもある。
10月1日の瀋陽は朝から雨で、記念祝典と大軍事パレードが予定されていた北京の天気はどうだろうかと思いやられた。後でニュースを見ると雨雲を抑えるために432発の消雨ロケットを発射したそうだ。
ニュースには
『建国60周年を迎える中国、天安門で閲兵式やパレード』
『国慶節の軍事パレード、52の中国産新型装備を披露』
『天安門広場はマスゲームに参加する人々で色鮮やかに』
『国慶節の観閲式、天安門上空を飛行する中国空軍』
など国威昂揚に勉めた中国の精華が踊っている。2日には『<建国60年>厳戒態勢の国慶節が無事終了—北京市』という。
テロ対策など徹底的な安全確保の対策が行われたようで、周囲の店やホテルまで営業停止、閲兵式の部隊が通行する道路両脇の住民は窓を開けること、ベランダに出ることが禁止されていたという。
この60周年という節目には、60年の艱難辛苦で中国はこれだけの国力になったということを内外に訴え、国民の愛国心を高揚しているのだろう。60年でこれだけ繁栄したのはたいしたものだと言えよう。
しかし米紙ニューヨークタイムズによると、『繁栄は状態であって価値ではない。北京人民大学のジャン・ミン教授は「かつては革命と社会主義が資本主義にかぶれた金持ちたちへの戦いの旗印であり愛国の象徴だったが、いまは{改革・開放}による経済的享受が愛国の根拠となっている。」と批判している。(10月2日 Record China)報道によると、『同日の北京市内では「治安かく乱の要因は徹底排除する」との方針で、治安要員計140万人あまりを配置。公共の場所で市民が集合することは禁止され、行事を見ようと道路脇などに20人以上が集まると、ただちに解散させられた』という。(10月2日 Record China)
写真を観ると軍事パレードに何万もの人が参加したようだ。これだけの人たちが北京に集まって数週間は練習を繰り返したに違いない。宿舎はどうしたのか。支援体制はどうしたのか。治安要員計140万人あまりをどういうロジテックのもとに投じることが出来たのだろう。どうすればそれが可能なのか、凄いことだ。平和ぼけしている日本人には想像外のことである。私にとって、中国は驚きの国であり続ける。
なお、1日は澄澄、笑笑、午後から暁艶。2日は暁艶、笑笑が研究室に来ていた。
(写真はReutersの "60 years of Communist China" から使わせて貰った。感謝)
2009年9月15日
7度目の新学期
旧暦の新年を祝う春節休暇を大学の規定通りの6週間の休みを取るけれど、夏休みは3-4週間にして研究に励もうというのが私たちの研究室だった。しかし今年は私の体調が悪く規定の6週間どころかそれよりも2週も長い夏休みを終えて瀋陽に戻ってきた。
9月12日の瀋陽の最高気温は23度で、見上げると思ったよりも青くてきれいな空である。懐かしい瀋陽だ。
この時期はもう大学は始まっている。研究室ではいつものように休み明けよりも前に学生が休暇から戻ってきて研究を始めている。博士課程の学生のひとりは、瀋陽在住と言うこともあって休みを取らずにがんがんと仕事をしていたようだ。
中国南方航空のCZ628便で瀋陽桃仙空港到着は午後3時半である。5月6月はインフルエンザの厳戒態勢を敷いていた。飛行機を空港の端に止めたまま非接触型の体温計で体温を測り、もしおかしいと、当人とその周辺の座席の乗客は強制入院という運びだったそうだ。
しかし今回はそんなこともなく、入国管理と荷物のピックアップが簡単にすんで外に出たのは4時前だった。
いつものように迎えに出ているはずの徐寧さんを探したがいない、どうしたものかと思っていると「山形先生?」と若いお嬢さんに声をかけられた。「?」 と見つめると、「薬科大学から私がお迎えです」と英語で言う。
そういえば国際交流処に9月から新人が入ると聞いていたっけ。それまではボスである処長(高名な教授で、もちろん自分の研究室と、学長補佐として大学の切り盛りで忙しい)のほかには徐寧さんという若い結婚したばかりの女性しかいなかったのだ。
「ああ、あなたが新人なのですね。山形です、どうかよろしく。あなたのお名前は何ですか?」「葛丹丹です」
「きれいな名前ですね。それにしてもどうして私のことが分かったのですか?」と訊くと、「先生のことは大学では誰でも知っていますよ」と言うことだった。 中国語が全く分からないトンチキな先生として皆が知っているということだろうか。どこかで具合の悪いことを誰かに見られていなかったかどうか、今までのやましいことが一瞬で脳裡を駈ける。 研究室のある建物の下に着くと、5人のお嬢さんたちが玄関までで迎えに出てくれた。嵐嵐、暁艶、澄澄、笑笑、朱瞳さんである。都合で来られなかったという王月さんを加えた六人が今期の私たちの研究室の院生だ。6年前の研究室の発足当時に戻った感がある。 9月10日は教師節の祝日である。その日には友人の教授から二つの花束が届いたそうだ。もちろん、E-mailでそれを知らされてこちらも花束を送り返した。研究室について土産のお菓子を出すと、学生が、いえ、それよりもお菓子があるのです、という。何かと思うと、教師節の日に学生が不在だった私と妻のために、お菓子を買っておいてあるのだという。 日本のお菓子なのですよと学生は興奮気味である。冷蔵庫から彼女たちが出してきたものをみると、日本の生菓子なのだ。「えっ、日本のものが売っているの?」と思わず叫ぶと、「いえ、ここで作って売っているのですよ、太原街で見つけました」
「太原街には伊勢丹があるじゃない?」というと「いえ、別のところです、笑笑ちゃんが見つけたのですよ」と言うことだった。
大きさは日本の、桜餅、大福、うぐいす餅などと同程度で、私は桃山風のお菓子を戴いたが、美味しい。日本風である。昨年書いたことがあるが、この手の腐りやすい生菓子は中国に存在しなかったのだ。それが、今はこうして食べられる。 彼女たちに会い、研究室にいるとそれまでの長い休みですっかりだれた心がしゃんと引き締まった。私は瀋陽が好きだ。薬科大学が好きだ。研究室が好きだ。学生が大好きだ。ここに戻って来られて良かった。20090915 なお、右の写真の手前に写っているのは、クレヨンしんちゃんである。2004年の卒業研究の学生の瀋さんが卒業にあたって寄贈していった。頭にスリットがあり、貯金箱である。私用のコピー用紙代などをここに入れている。 作者の臼井義人さん(1958年4月21日 - 2009年9月11日)が山で遭難死されたとのことは中国でも大きく報道された。惜しい死である。故人の冥福を祈る。
20090923