私たちの心臓は、一見すると非常に規則正しく動き、安定したリズムで拍動しています。しかし、その裏側、ミクロな世界で支えている「サルコメア」という筋肉の最小単位では、驚くほど巧妙な仕組みが働いています。本論文では、中部大学の新谷正嶺が率いるグループが発見した“高温誘起サルコメア自律振動(HSOs)”という現象について詳しく解説しています。HSOsは、心筋細胞を体温より少し高い温度域(38〜42℃)で観察すると、個々のサルコメアが自発的に高速で振動し、その振幅が大きく揺らぐ「カオス的なゆらぎ」を示す現象です。しかし、不思議なことに、細胞全体としてはしっかりと周期的な収縮・弛緩リズムが維持されており、ミクロなカオスとマクロな秩序が絶妙に共存しています。
この研究では、サルコメア長の変動データを高精度なナノメートルレベルで計測し、カオス理論のリアプノフ指数やリカレンスプロット解析といった非線形解析手法を駆使することで、この現象が単なるランダムノイズや偶然の産物ではなく、生体が意図的に利用している“真のカオス”現象であることを初めて統計的に証明しました。この「秩序(Order)」と「カオス(Chaos)」が同時に存在し、動的に恒常性(Homeodynamics)が維持される仕組みを、著者は“ケイオーディック・ホメオダイナミクス(Chaordic Homeodynamics)”と名付けました。これは、細胞があえて「小さなゆらぎ=カオス」を取り入れることで、外部環境の変化やストレスに柔軟に適応し、高い頑強性を発揮していることを意味します。
この発見は、心臓のリズム障害や加齢に伴う心疾患などの予兆を早期に見つけるための新しいバイオマーカー開発、さらには人工臓器やバイオインスパイアード工学の設計にも応用される可能性を秘めています。生物が「秩序」と「ゆらぎ(カオス)」のバランスを戦略的に使い分けることで、生命現象の高い適応性や柔軟性を実現しているという、新たな生物物理学の視座を提示する研究成果です。
この図は、サルコメア長の時間変動をもとに得られた各種解析結果を示しています。(A)では、5本のサルコメアの動きを平均した全体波形(赤色)と低周波成分(黒色)が示され、細胞全体が周期的な拍動を保っていることがわかります。(B)は個別サルコメアの高周波成分のみを抽出した例で、周期自体は一定でも振幅が大きく揺らぎ、カオス的な特徴があることを示しています。(C)はリカレンスプロット解析による可視化で、周期性とカオス性が同時に存在している様子がわかります。(D)(E)はリアプノフ指数の統計解析で、赤い点(元データ)が青・橙のランダムデータ群より明確に高い値を示し、偶然やノイズではなく本質的なカオス現象であることが統計的に裏付けられました。
論文情報・引用
Seine A. Shintani. Chaordic Homeodynamics: The periodic chaos phenomenon observed at the sarcomere level and its physiological significance. Biochemical and Biophysical Research Communications, 760, 151712, 2025.