2025年11月9日
説教題:神と人との約束
聖 書:創世記17章1~11節、使徒言行録7章1~16節
「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。」
(使徒言行録7:2b~4a)
今日の主日礼拝にて、講解説教として読み進んでいる「使徒言行録」から7章の御言葉をいただきます。この御言葉には、主の教会が誕生し、その信者の一人、ステファノが語った説教と、その説教が招いたある出来事が記されています。ステファノが誰か、ご記憶にあるでしょうか。
イエス様が地上で弟子とされ、イエス様と働いた十一人に、裏切り者ユダに代わって後からくじで選ばれたマティアを加えて十二人が、教会で「御言葉の奉仕に専念する」(使徒言行録6:4)ことになりました。教会では、イエス様にならう愛のわざとして、共同生活が営まれていました。教会の人々は持ち物も食事も分け合っていたのです。御言葉の奉仕に専念する者とは別に、その共同生活の管理・運営を担う者たちが必要とされました。教会の一同が心を合わせて祈り合い、その役割を互いに選び合って7人が立てられました。ステファノは、この7人のうちの一人です。
前の説教でお伝えしたことですが、この役割と選ばれ方は、私たちの現在の教会の役員の在り方に継承されています。いわゆる使徒と呼ばれる十二人の弟子たちは「御言葉の奉仕に専念」する者たちで、現在の教会の教職・説教者に、役員が教会運営にあたるという役割分担が為されています。
ここで、心に深く留めておきたいことがあります。それは、教職ではないから御言葉の奉仕をしない、または信徒ではないから教会運営に携わらない…というようなことはない、ということです。現に、ステファノの御言葉の奉仕、実に長い説教がこうして聖書に記されています。薬円台教会でも、先月の19日の主日には、教会の一人の姉妹が聖書箇所にもとづく証詞を語ってくださいました。御言葉による伝道・宣教と、教会の営みを進める愛のわざを、教会の誰もが行うよう、導かれています。
さて、ステファノがこの堂々とした長い説教を語ることになったのには、ユダヤの歴史の中の、ある出来事が背景となっています。ユダヤの国は第三代の王ソロモンの後、次第に力が弱まり、攻め寄せて来る多くの国々に征服され、一時は滅びてしまいました。多くのユダヤ人が捕虜として国外に連れ出され、抑留生活を余儀なくされました。
バビロン捕囚の出来事はよく知られていますが、イエス様がお生まれになる67年前にも、同じことがローマ帝国によって行われました。この時、多くのユダヤ人が奴隷として国外に連れ出され、その後、子や孫と共に解放されてユダヤに帰って来ました。帰って来た子や孫は、ユダヤの言葉・ヘブライ語を話せず、当時の地中海地方の共通語だったコイネー・ギリシャ語を話しました。この言葉の問題が大きかったせいか、この人たちはエルサレム神殿とは別の場所・会堂で礼拝をささげていました。それが、使徒言行録6章9節に記されている「解放された奴隷の会堂」だったのです。
この「解放された奴隷の会堂」に集うギリシャ語を話すユダヤ人たちは、律法と神殿を実に大切にしました。エルサレム神殿に集まることができないので、逆に強い憧れがあったのかもしれません。律法については、なんと律法学者やファリサイ派の人々よりも厳しい姿勢で守っていたと伝えられています。その人たちから見ると、安息日にいやしの奇跡を行ったイエス様の弟子たちはとんでもない律法破り・掟破りの者たちだったのです。
実は、ステファノはもともと「解放された奴隷」、ギリシャ語を話すユダヤ人だったと考えられています。ステファノという名前そのものが、ユダヤの名前ではなく、ギリシャ風の名前だからです。「解放された奴隷の会堂」の人たちは、イエス様の教会の一員となり、教会を代表する19人の一人となったステファノを裏切り者だと考えたとも思われます。
彼らは民衆や長老、律法学者たちを扇動してステファノを逮捕させ、最高法院の裁きの場に引き出しました。そこから、今日の使徒言行録7章が始まります。
最高法院で、ステファノは大祭司から「訴えのとおりか」と尋問を受けました。ステファノは、この尋問を自らの弁明の機会ととらえ、弁明するばかりか、神さまがどうユダヤの民を導いて来られたかを正しく聖書から語り、その場で説教を行いました。
今日、私たちに与えられている使徒言行録7章1節から16節までで、ステファノは創世記12章からの出来事を短くまとめました。アブラハムからヤコブに至るユダヤの源となった者たちを、神さまが見守り、常に寄り添ってくださった恵みが力強く述べられています。
ステファノは、自分の仲間であるギリシャ語を話すユダヤ人達から裏切り者とされ、逮捕されたと言って良いでしょう。安息日を守らないイエス様の弟子になったから、ユダヤ人として失格だ、イエス様の教会はユダヤの正統的な信仰から逸脱していると批判・糾弾されたのです。それに対して、ステファノは自らの聖書理解が正しく、また御心にかなっていることをこの説教を通して明らかにしました。
さらに、ステファノが神さまの御言葉を伝えた聖書箇所は、彼を逮捕した「解放された奴隷」の心に強く響いたはずです。6節から7節をお読みします。「神はこう言われました。『彼(アブラハム)の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』」(使徒言行録7:6~7)ステファノを逮捕した者たちは、神さまがアブラハムに告げたように、ユダヤの歴史の中で他国の奴隷とされた者たちでした。しかし、今は解放されてユダヤに戻ることができているのです。それは、神さまがアブラハムに賜った祝福の約束のとおりではないか、あなたたちも、わたしも、その恵みの中で生きているとステファノは伝えたかったのではないでしょうか。
神さまはアブラハムに「あなたを多くの国民の父とする、祝福の源とする」と約束してハランの地からカナンへと旅立たせました。アブラハムはその時、自分がどこに導かれてゆくかも知らず、ただ神さまにひたすら忠実に従って、砂漠を進み続けたのです。
神さまの約束 ― 聖書では、神さまが人と交わす約束を「契約」と呼びます ― は、すぐには果たされませんでした。多くの国民の父となるどころか、アブラハムは子どもに恵まれないまま、長らく連れ添っている妻サラと共に老境を迎えていました。主に忠実なアブラハムでしたが、神さまの恵みの約束を信じきることができず、サラに仕えていたエジプト人の女奴隷ハガイとの間にイシュマエルと名付けられる子どもをもうけてしまいました。神さまの恵みを信じられずに、勝手に行動を起こしてしまう ― これは、神さまに対する背きであり、罪です。アブラハムがこのように罪を犯してしまっても、神さまはアブラハムを見捨てはなさいませんでした。あの約束・契約はなかったことにする、とは決しておっしゃらなかったのです。
アブラハムにはついに、息子イサクが生まれました。イサクは成長して妻リベカとの間に双子の兄弟、エサウとヤコブを与えられました。この二人が、少しも信仰的ではなかったのは、ご存知のとおりです。イサクの財産は長男エサウに受け継がれることが決まっていましたが、ヤコブを可愛がっていたリベカは策略をめぐらし、ヤコブは父イサクとエサウをだまして長男の祝福を手に入れました。ヤコブはもちろん、この時のリベカもエサウも、神さまがおられることすらすっかり忘れているとしか思えません。だまされたと知ったエサウは怒り狂い、ここからヤコブの逃亡とさすらいの日々、そして苦難が始まりました。それでも、神さまはヤコブを見捨てることはなさいませんでした。私たち人間が神さまを忘れて、自分の願いを好き勝手に追い求めている時も、神さまは私たちを守り、支えてくださいます。
ヤコブは十二人の息子を与えられました。ところが、彼らの兄弟仲が良かったかと言えばけっしてそうではなかったのです。生意気な弟ヨセフをヤコブが溺愛するので、それをいまいましく思った兄たちがヨセフを懲らしめようと穴に落として放っておいたところ、エジプトへ向かう商人がヨセフを拾い、ヨセフはエジプトの奴隷市場で売られてしまいました。ヨセフはもとより、ヤコブにとってもたいへん悲劇的な別れとなってしまいました。
ところが、この出来事は、神さまの大きなヴィジョン・ご計画のうちにありました。神さまはヨセフに寄り添い続け、ヨセフも偶像崇拝の国エジプトにいながら、決して神さまを忘れませんでした。彼は奴隷から救い出され、苦労しつつも神さまに助けられてエジプトの大臣となりました。ヨセフは大臣としての立場で、主に導かれて食糧を蓄える政策を立て、それによってシリア地方から中東一帯がひどい飢饉に見舞われた時にエジプトは飢えることなく過ごせました。また、エジプトに食糧を買いに来たヤコブの息子たちも、後にはヤコブも、ヨセフとの再会を果たすことができました。
人間の勝手な願いや自己中心的な思いによって、人と人とは時に憎み合って敵対し、全員が傷つき悲しむ事態を招いてしまいます。神さまが祝福を約束してくださり、恵みの契約を結んでいてくださっても、神さまを見ることのできない人間は神さまを忘れ、契約を信じることができません。神さまが約束を果たしてくださる恵みの時を待ちきれずに、罪を犯してしまうのです。
人と人とは憎み合いますが、神さまはどれほど私たち人間が神さまに背いても、今日のステファノの説教にあるように、アブラハムからヨセフにいたるまで、四代にわたり人間を憎まず、耐え忍んでくださいました。人間が信仰を保てず、神さまを信じきれず、どうしても罪を犯すので、とうとう神さまは大切な御子イエス様として、見える姿で私たちの間においでくださいました。イエス様は私たちの罪を、私たちの代わりにすべて背負って十字架で肉を裂かれ、血を流し、命を捨ててくださいました。
ステファノはその恵みに生きる決意をもって、イエス様の教会に加わったのです。その初代教会で行われていたように、今日はこれから十字架の上で裂かれたイエス様の肉なるパン、十字架で流されたイエス様の血潮なる杯に与る聖餐式を執り行います。
行く手に暗闇しか見えないように思える時も、深い悲しみに沈む時も、私たちが導かれる先には神さまの恵みの約束が待っていることを心にしっかりと留めて、この新しい一週間を、心を高く上げて進み行きましょう。
2025年11月2日
説教題:やすらぎに満たされて
聖 書:詩編23編1~6節、ヨハネの黙示録7章13~17節
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」
(ヨハネの黙示録7:14b)
本日の主日礼拝は、召天者記念礼拝としてささげています。会堂に先に召された方々のお写真を置き、お名前のリストを手元に置き、また何よりも召された方々のご家族様をお招きして共に主を仰ぎます。
今日、特に深く心に留めておきたい主の真理があります。それは、聖書を信じ、父・子・聖霊の三つにして一人の神さまを信じる者は永遠の命を生きるという恵みの真理です。
亡くなられた方々の姿を私たちは見ることができず、そのお声を聞くこともできず、今ご一緒しているご家族も、私たち教会の者も、確かにそれを寂しく悲しく思います。亡くなられた方は、もう私たちの手の届かないはるか遠くに消えて、完全に失われてしまったようにさえ感じます。
しかし、真理の書である私たちの聖書には、そう記されてはおりません。聖書に記されているのは、亡くなられた方々が姿は見えないけれど、私たちと共にいることです。生きていても、亡くなったとしても、神さまに造られた私たち人間は、神さまのもので、神さまは永遠だと記されています。神さまに愛され、聖書を信じ、教会に連なる者は皆、生き死にに関わらず、死を超えて共にいます。みんな、神さまと共に永遠に生きるのです。それを、聖書は繰り返し、繰り返し記しています。
まず、今日の旧約聖書の詩編の言葉に記されています。ここでは、神さまを羊飼いに、私たち人間を、その羊飼いに養われる羊の群れにたとえています。
ユダヤの人々にとって、羊は実に身近な家畜でした。今から8千年から7千年ほど昔、古代メソポタミアで、羊は人間に飼われるようになりました。メソポタミアと言えば、場所は現在のイラク、シリアから地中海地方にまでおよび、聖書の舞台となっている地域です。今日の聖書箇所に限らず、聖書で人間をたとえる動物として羊がしばしば用いられるのは、羊と、神さまの御前での人間に大きな共通点があったからです。
家畜として飼いならされた羊は、保護してくれる飼い主がいなければ厳しい自然の中で生きてゆくことができない、実に弱い生き物です。餌も、清潔な水も、自分で探すことができません。野獣に襲われても、身を守る牙も、鋭い爪も、角もなく、逃げようとしても足が遅いという点が、人間に似ています。また、羊は群れで生きる動物で、群れからはぐれて迷子の羊になってしまうと、その心細さと寂しさだけで生きる力を失うと言われています。神さまがおられなければ、生きてゆけない私たちに、よく似ています。社会の中で生きるように造られている私たちの姿と、群れで生きる羊の姿を重ね合わせることができます。
今日の御言葉を与えられている詩編23編は、こう謳い始めます。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」神さまが私の羊飼いでいでくださるのだから、私は完全に満ち足りて、何の不満も不足もない ― しあわせで、安心していられるという喜びの言葉です。
次に、具体的に羊飼いである神さまが、私に何をなさってくださるのかが語られます。神さまはわたしたちを緑豊かな草原に導いておなかいっぱい、美味しい草を食べさせてくださいます。また、水源に乏しい砂漠地帯にありながら、きれいな水が湧き出る泉・オアシスのほとりに連れて行ってくださいます。栄養満点の食事と水で、身も心も、魂も、私たちは主に導かれてすっかりリフレッシュできます。3節に「魂を生き返らせてくださる」と謳われているのは、その恵みです。
神さまは私たちの必要を満たすだけではなく、私たちを成長させて良い者に育ててくださいます。4節で「正しい道」と語られている言葉は、その導きをさしています。
神さまは必ず私たちに寄り添い、共に歩んでくださいます。「あなたがわたしと共にいてくださる」 ― こう、御言葉には何とはっきりと語られていることでしょう。
私たちが一人でいるのが最も恐ろしく思える時 ― それは、たとえば、命の終わりの時ではないでしょうか。なぜ恐ろしく感じるかと申せば、神さまを知らずに命の終わりを迎えて、再び命を取り戻し、死んだらこんな感じだったとか、あんな感じだったとか、知らせてくれた人は歴史上、誰一人としていないからです。
五十年ほど前に、臨死体験が世間の話題となったことがありました。臨死体験とは、あくまでも、生命体が終わる間際に近いところまで行ったと思われる方々が、その経験を伝えているだけで、本当に死んでしまったわけではありません。私たちは、得体のしれないもの・理解を超えるもの・なんだかわからないものを恐ろしいと感じます。死ぬとはどういうことかわからないから、神さまを知らない方々は死を恐れるのです。
しかし、神さまは、その「死の陰の谷を行くときも」、私たちに寄り添い、私たちの手を取り、時には私たちを抱き、背負って進んでくださいます。「死の陰の谷」を、たとえ・比喩表現ととらえて、恐ろしい災いや苦難と考えてもよいでしょう。
苦難の時も、神さまは私たちのかたわらにしっかりと寄り添ってくださり、私たちを守り通してくださいます。4節の後半には、こう記されています。ここで「あなた」と呼びかけられているのは「主、神さま」です。神さまである羊飼いは、羊が持っていない道具をお持ちです。神さまが私たち人間には行うことができない奇跡のみわざを行われることが、ここに示されています。
4節後半は、こう語ります。「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」鞭と杖を、羊飼いは羊を野獣から守るために使います。羊と同じように牙や爪、角といった武器を持たない私たちに代わって、神さまはご自身の御力を鞭、杖として用い、私たちを襲う野獣 ― 悪や苦難、悲しみや災い ― から守ってくださいます。
さらに、5節は語ります。「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。」苦難の中にいても、神さまは私たちを支え、必要なもので満たしてくださいます。
食卓とは、仲直りのしるし・和解のしるしです。私たちを苦しめる者を私たち自身は「敵」と呼んでしまいますが、神さまは、その敵と私たちの間に仲直りの食卓を準備されます。
憎しみは、私たちの魂を傷つけ、私たちの心をさいなみ、私たちを苦しめます。今も、世界のところどころで続いている戦争が、多くの人を苦しめているのは、そこに競い合い、奪い合い、憎しみ合う敵対関係があるからです。平和が、ないからです。
イエス様は、私たちのすべての憎しみの心・罪をご自身の身にすべて負い、十字架でその罪もろともに地上の命を終えられました。それは、三日後のご復活によって憎しみも罪も、悲しみも、何の不足も欠けもない完全な世・平和な世へと私たちを導かれるとの約束を賜るためでした。聖書は、それを永遠の命の約束と呼びます。また、それを「救い」と呼ぶのです。
私たちは「この世」という限界のある次元に生きています。その私たちを無限・永遠とつなげてくださるのが、神さまです。私たちがただ、ひとすじに神さまに愛されていると信じる、その信仰を通して、神さまは私たちに永遠の命を賜ります。
詩編23編の最後の聖句・6節が語る「命のある限り」とは、「永遠」をさすのです。
どうして、神さまは、はかなく弱い私たちを生かし続け、恵みを注ぎ続けてくださるのでしょう。それは、私たちの命が元々、神さまからのものだからです。天地を造られた神さまは、私たち一人一人をも、深く愛して造ってくださいました。主を信じる信仰に生き、教会に生きるクリスチャンは、神さまの愛を通して、この真実を魂で知っています。限りのあるこの世に生きながら、同時に神さまの御国の永遠を生き続けるのです。そして、この世での生命体としての地上の命の終わりには、完全に神さまの御許・御国で生きるようになります。もう、この世の欠け・罪・悪・病や死にいっさい苦しめられ、悲しむことなく、主と共に永遠に歩みます。それを、詩編23編6節は「主の家にわたしは帰る」と告げています。
そして、生涯 ― 繰り返しになりますが、クリスチャンにとっての生涯は、主と共に生きる永遠です ― 、主の御許でやすらいで幸いに生きるのです。
先に天に召された方々、今日、私たちがその面影をしのんでいる方々は皆、今、そうして永遠を生きておられます。
その真理が、特に明確に書かれているのが、今日の聖書箇所をいただいている書 ― 「ヨハネの黙示録」です。「ヨハネの黙示録」は、これを書いた人がこの世が終わる時のありさまを神さまに見せていただき、自分が見たままを書いた書だと言われています。
「この世が終わる」と申しますと、たいへんおそろしく、まがまがしいことのように感じますが、実はクリスチャンにとっては大きな恵みの時です。十字架の出来事とご復活の後に天に昇られたイエス様が、もう一度、この世に戻ってくださる時だからです。その時、この世は完全なやすらぎと平和の神さまの国・御国とひとつになります。
「この世の終わり」とは、この世が消えて無になる時ではなく、ずっと良い世界・御国と一つになって御国と同じになることをさします。その様子が、今日の16節に記されています。16節をお読みします。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。」「彼ら」とは、御国にいる「白い衣を着た者たち」です。その「白い衣」とは、14節の後半にあるように「大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白く」された者の「衣」です。
「小羊の血で洗って白く」とは、神さまの小羊である御子イエス様が、十字架で流してくださった血によって罪と汚れを洗い流され、まったくきれいに、完全に白く、完全に清くなったことをさします。
聖書の語る「罪」は、「犯罪」「悪行」「悪い行い」をさすだけではありません。私たちが抱く良くない感情 ― 憎しみやねたみ、誰かを嫌いになることや、恨むこと、その他すべての自分と自分の味方だけを守り、関係ないと思う人は切り捨てるという思い ― 、そうしたすべてのネガティブな感情と考えを「罪」と言います。そして、私たちは自分自身でも感情や、湧きあがる考えを消し去ることができません。私たち人間は自分でもいやだと思うその感情・考え・「罪」を、どうすることもできない無力な者です。
イエス様は、その私たちの罪を、私たちに代わってすべて背負って、十字架で命を捨ててくださいました。ご自分の人間としての命に罪を背負わせ、もろともに無くしてくださったのです。
それによって、私たちはありのままの姿で「良い者」になります。神の子、神さまの家族に加えられます。私たちは、イエス様が尊い犠牲となってくださったその出来事を信じる時に、洗礼を受ける決心をいたします。
イエス様が実は神さまの御子・神の子だったことは、イエス様が亡くなられて三日目の復活・死からのよみがえりで明らかとされました。その事実を知り、よみがえられたイエス様に従って、御言葉に聴きつつ、クリスチャンとして生きる決心をして洗礼を受けるのです。
洗礼とは、この世にありながら、同時に御国に生きる者として「白い衣」を着せかけていただくことです。その瞬間から、私たちは一人ではなく、神さまに寄り添われ、神さまの家族・教会の兄弟姉妹と共に歩み始めます。
神さまは、私たちの喜びも悲しみも知り尽くされ、共に苦難に向き合い、共に笑い、つらい時には慰めてくださいます。喜びも悲しみも、教会の兄弟姉妹と共に分かち合います。喜びは増し、悲しみは分けられて少しずつになるでしょう。
先に天に召された方々は、その恵みを知り尽くし、肉体の死の先に「飢えることも渇くこともない」御国の幸いと平安が待っていると信じておられました。私たちは今、御言葉を通して、その希望をあらためて深く心に留めようとしています。
愛する方を失われ、嘆きのうちにおられる方・今もなお続く喪失感の内におられる方がここにおいでだと思います。しかし、今日の御言葉は悲しみに暮れる私たちに、こう語ります。17節をお読みします。「神が彼らの目から涙をことごとく、ぬぐわれるからである。」
決して嘆くこと、泣くことのない日が来ます。その時こそが、イエス様がもう一度おいでになる時、この世が完全に「白い衣」を着せかけていただき、清められて御国となる時です。その希望 ― 永遠を生きる勇気を賜り、今日からの日々をイエス様に力づけられ、心を高く上げて進み行きましょう。
※10月26日は、原田裕子牧師が日本基督教団越谷教会の特別伝道礼拝説教奉仕で不在にて、井上馨牧師が薬円台教会の主日礼拝説教奉仕をささげられたため、HPに主日礼拝説教を掲載しません。
※10月19日は、信徒伝道週間をおぼえて主日礼拝で信徒の証詞が語られたため、HPに主日礼拝説教を掲載しません。
2025年10月12日
説教題:恵みと力に満ちる者
聖 書:詩編37編1~6節、使徒言行録6章1~15節
一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、バルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
(使徒言行録6:5~6)
最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。
(使徒言行録6:15)
ご一緒に読み進んでいる使徒言行録の今日の聖書箇所には、二つの事柄が記されています。ひとつは1節から7節までです。初代教会に「日々の分配」(使徒言行録6:1)・「食事の世話をする」(使徒言行録6:2)奉仕の役割が生まれ、その奉仕者として7人が選ばれたことが書かれています。
もうひとつは、それに続く8節から15節の聖書箇所で、ここには「日々の分配」の奉仕者7人のうちの一人であるステファノが福音伝道の働きのために逮捕されたと述べられています。
さらっと読んでしまうと、どちらの出来事にもステファノが登場するという共通点があるだけで、異なる出来事のように思えます。
しかし、この二つの出来事を同時に、一回の礼拝の中で聴くのは実にたいせつなことです。神さまがイエス様を通して、私たち教会に与えておられる使命は何かを、あらためて考える機会を今、共にいただいています。私たちが何を喜びとし、今こうして地上の命をいただいている生甲斐を実感しつつ教会生活を送るかが、ここに語られています。
さて、まずひとつめの出来事から御言葉に聴きましょう。今日の聖書箇所は、「そのころ、弟子の数が増えてきて」(使徒言行録6:1)と語り始められています。
「弟子」という言葉から、イエス様の十二人の弟子、そして使徒言行録ではまさに「使徒」と呼ばれているペトロたちをさすと思いがちです。ここで、ご復活のイエス様が天に昇られる時におっしゃった言葉を思い出しましょう。マタイによる福音書28章19節の御言葉です。お読みします。「…あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」「すべての民をわたしの(イエス様の)弟子にしなさい」とイエス様はおっしゃいました。直接、弟子になるようにと声をかけたペトロやアンデレ、ヨハネやヤコブたち十二人の弟子ではなく、「すべての民」です。その意味での「弟子」の数が急速に増えたことが、今日の聖書箇所の冒頭に記されているのです。イエス様の十字架の出来事で救われ、ご復活によって永遠の命の約束を信じて洗礼を受ける者が続出して、教会は大きく成長しています。
その成長発展を、祭司長や長老たちといったユダヤ社会の権力者がねたみ、憎んでペトロとヨハネを逮捕して鞭打ち、使徒たちを迫害していました。迫害という苦難は、教会にとっては外からの圧力でした。
「外患内憂」という言葉があります。「外の患い・内なる憂い」と書きますが、迫害は外患、そして今日の聖書箇所では教会の中での「内なる憂い」、もめごとが起きてしまったのです。教会がイエス様の御言葉に従って洗礼を受ける者・弟子たちをふやし、喜びと恵みにあふれているはずなのに、まさにその弟子の数がふえたことが、もめごとの火種になってしまいました。不完全なこの世にある限り、光には影が伴い、善きことには罪がからみつきます。喜び・恵み・幸いには、悲しみ・呪い・困難がつきものなのです。
使徒言行録の2章で、私たちは教会が持ち物を共有し、すべてを分かち合って共同生活をしていたと知らされました。その仲睦まじく、互いへの思いやりに満ちた教会の姿が、ユダヤの人々に感動を与えました。人々は、わけへだてなく人を愛されるイエス様の慈しみに与り、教会の仲間になりたい、神さまの家族になれればと願って、洗礼を受けて弟子になる者がふえたのです。
ところが、互いにわけへだてのないはずの教会が、二つに分かれてしまいました。ひとつのグループは「ギリシア語を話すユダヤ人」、もうひとつが「ヘブライ語を話すユダヤ人」でした。
ユダヤの国は歴史の中で何度もアッシリアやバビロニアなどの大国に攻め込まれ、一度は滅ぼされてバビロン捕囚により現在のイラクにあたる場所に強制連行されました。そこからユダヤに戻って来た者たちの子孫は、ユダヤ民族の本来の言葉であるヘブライ語(アラム語とも言われています)を母語としていました。
一方、バビロンからさらにいろいろな土地に散らされて、地中海地方一帯で商業の言語として共通に用いられていたギリシア語を母語とするユダヤ人の子孫たちで、ユダヤに戻っている者も少なからずいました。彼らも、洗礼を受けて教会の兄弟姉妹となっていました。
ヘブライ語を話すユダヤ人は、自分たちこそが生粋のユダヤ民族だと思い込んでいたかもしれません。彼らは、ユダヤ人でありながら、ユダヤの言葉を話せない「ギリシア語を話すユダヤ人」たちを無意識に差別していた可能性があります。
イエス様のもともとの弟子たち十二人(イスカリオテのユダが滅び、代わりにくじでマティアが立てられました・使徒言行録1:26)は、「ヘブライ語を話すユダヤ人」でした。彼らは、教会に新しく加わった者たちが持ち寄る物や献金を分配して、共同生活の営みを行っていました。また、礼拝や祈りの時に彼ら十二人はイエス様の証しを立てて福音を語り、また神殿の庭や町でも民衆に向けて伝道をしていました。教会が大きくなり、弟子の数がふえると、もともとの弟子たち十二人のしなければならないことは多くなる一方だったのです。
そんなてんてこ舞いの忙しさの中で、「ギリシア語を話すユダヤ人」から、自分たちの中で一番弱く貧しい立場にある「やもめ」 ― 夫に死なれた未亡人をさします ― が軽んじられている、十分に日々の食事の分配をされていないのでお腹を空かせていると苦情が出たのです。イエス様のもともとの弟子・使徒たちには、「こんな差別をして、それでもあんたたちはイエス様を直接知っている、イエス様の証し人なのか」と厳しい言葉が投げかけられたのかもしれません。教会の雰囲気が、とげとげしくなってゆく様子が思い浮かびます。
私たち人間が何事にも ― 時間的にも、肉体的にも ― 限界があり、不完全で欠け・罪のあるこの世に生きなければならないことを、この聖書箇所から思わされます。いくらがんばっても、自分の限界を越えるとどこかにほころびができてしまう、いっぱいいっぱいになってどこかでミスを犯してしまう私たち人間の無力さを、初代教会も経験したのです。
イエス様のもともとの弟子たち・十二人の使徒は、教会の全員・「弟子をすべて」(使徒言行録6:2)呼び集めてこう告げました。使徒言行録6章2節からお読みします。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」ギリシア語を話すユダヤ人グループの苦情に応じて、教会の誰もが満足するように心をこめて、教会に集まった食べ物や品物、献金を分けることに時間をさいていると、御言葉を語る福音宣教の時間がなくなってしまうと言ったのです。そして十二人は、弟子たちの中から七人の「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」を選ぶようにと提案しました。選ばれた七人に、日々の食事の分配などの教会の営みを任せたいと考えを話したのです。弟子たち全員・教会全体が、この提案に賛成しました。
すでにお気づきと思いますが、ここでイエス様の弟子たち・教会の兄弟姉妹が互いに「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」を選び合うことは、私たちキリストの教会で行われる教会総会の役員選挙として、今に引き継がれています。私たち薬円台教会も、毎年2月にこの選挙のために総会を開き、そこで役員が選ばれています。
選ばれた役員は、人間の思いや考えだけによるのではなく、私たちの間で働かれる聖霊・神さまの御心によって選ばれたのです。そして、御心によって立てられたことを、役員任職式で告げられます。こうして役員は、神さまの御前に誓約を立てて、「御言葉の奉仕者」(日本基督教団式文 正教師按手式の「勧告」より)として教会に仕える教師(牧師)と共に「主とその教会に仕え」(日本基督教団式文 役員任職式の「祈祷」より)ます。
ところで、こうして選ばれた七人は教会の日々の分配・食事の世話といった日常の事柄だけに専念したのでしょうか。いえ、違います。教会は大きなひとつの使命を与えられています。先ほどもお伝えしましたが、イエス様が天の父の右の座に昇って行かれる時に弟子たちに語った「すべての民をわたしの弟子にしなさい」が、その使命です。大宣教命令と呼ばれる教会のミッションです。イエス様の十字架の出来事で救われ、ご復活で永遠の命の約束をいただいている福音を伝えるこの使命は、教会にしかできないことです。
人間は誰しも衣食住の必要を満たされ、日常を生きなければなりませんが、教会はそれに加えて、この恵みの使命を生きてゆきます。宣教を使命として、福音を伝えることを喜びとして、日常を生きるのが私たち教会です。
この使命は、御言葉の奉仕者として立てられている教職・牧師だけでなく、すべての信仰者の使命であり、務めです。ですから、日々の分配・食事の世話、教会の営みを任された七人は、また御心によって立てられた私たち薬円台教会の役員さんたちは、証し人としてイエス様の福音を伝道します。
今日の聖書箇所の後半部分、8節から15節にかけては七人のひとり、ステファノが聖霊に満たされ、福音に反論しようとする者たちと議論して、実に力強く論破したことが記されています。そのためにステファノは敵対する者たちから憎まれ、偽の証言をする者によって訴訟を起こされ、逮捕されてしまいました。迫害を受けたのです。
ペトロとヨハネのように、彼は最高法院の裁きの座に着かされました。ステファノは、自分は本来、御言葉の奉仕者ではない、イエス様と言葉を交わし、共に過ごしたイエス様の直接の弟子ではないと言い、教会の日々の分配をする役目の者だと言い張って、逮捕から免れようとしたでしょうか。いいえ、今日の聖書箇所の最後の聖句・15節にはこう記されています。お読みします。「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」ここで「天使の顔のように見えた」とは、もちろん、エンジェルのように可愛らしかったという意味ではありません。ステファノの顔はこの時、神さまからの使いの者・使者のように主のご栄光をあらわして輝いていたのです。
十字架に架けられる前のイエス様を知っていたもとからの弟子も、初代教会の伝道によって弟子として加えられた者も、皆ひとしくイエス様の福音を伝える神の子なのです。それは、今、この礼拝に集められている私たちも同じです。
イエス様は、ヨハネによる福音書15章5節でこうおっしゃいました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」私たちはイエス様を木の幹として、その同じ幹からそれぞれ生え出て伸びて行く枝です。長さや太さ、茂る葉の数や実のなり方が異なっても、イエス様の慈しみに養われ、その喜びに輝いて御国に向かって成長します。それぞれの役割を果たしながら、主に導かれて一本の木、一つの体、イエス様の体である教会を形づくり、永遠の命を生きて行きます。今日から始まる新しい一週間も、主から使命をいただいて歩む喜びを胸に、イエス様の弟子として力強く進み行きましょう。
2025年10月5日
説教題:主のご計画は必ず続く
聖 書:詩編33編1~11節、使徒言行録5章33~42節
「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」
(使徒言行録5:38~39)
今日も使徒言行録から、ご一緒に初代教会の営みと、教会が受けた試練を御言葉に聴いてまいりましょう。この礼拝に与えられている聖書箇所 使徒言行録5章33節には、このような激しい表現が記されています。お読みします。「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。」ここにある「これ」という言葉は、ペトロが語った救いの福音です。司式者がお読みくださった今日の聖書箇所の直前にある29節から32節にわたる御言葉です。イスラエル、ユダヤの人々はイエス様を十字架につけて死刑にしてしまいましたが、それはイエス様が私たち人間のすべての罪を背負って地上のお命を犠牲とされ、私たちを罪から救ってくださるためでした。罪からの解放、救いのみわざが私たち人間に明らかに示されたのが、イエス様のご復活でした。ペトロは神さまに導かれ、聖霊に満たされて、この救いの福音を語らずにはいられないと力強く語りました。
ペトロはこの時、ユダヤのサンヘドリン・最高院と呼ばれる、ユダヤ社会の最高裁にあたるところに引き出されていました。そこに居並んでいたのは、ユダヤ社会で最も権威を持つ議員たちでした。祭司長や長老、また律法学者の中でも特に学識が豊かだと評判の高い人々です。何度も繰り返しお伝えしていることですが、彼らは権威をもつがゆえに、傲慢な思いを抱いていました。自分では傲慢だと気付いていなかったかもしれませんが、自分たちよりもイエス様の弟子たち・使徒たちが民衆に愛され、尊敬されていることに我慢がならなかったのです。
また、彼らには、ペトロが伝える救いの福音が、イエス様を十字架に架けたと自分たちを批判・糾弾する攻撃的な言葉にしか聞こえませんでした。そのため、彼らは使徒たちを殺してしまおう、福音を伝える者たちを皆殺しにして、初代教会を絶滅させようと考えたのです。イエス様が民衆に愛された時も、そして、イエス様の弟子・使徒たちの人気が高まったこの時も、彼らの考えることは同じでした。気に入らない者を敵とみなして、抹殺するのです。
ところがこの時、最高院の一人の発言が、いきりたった議員たちの心を静めました。この一人は、ファリサイ派の律法学者でガマリエルという人物でした。ペトロたちが目の前にいると、議員たちが冷静ではいられないと感じたガマリエルは、34節にあるように、使徒たちを議場からいったん退場させました。そして、議員たちに35節の言葉を述べたのです。
ガマリエルは、こう言いました。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。」(使徒言行録5:35)続いて、ガマリエルは、その頃のユダヤで起こった二つの事件を議員たちに思い起こさせました。二つとも、ローマ帝国に支配されたユダヤの民が、その閉塞感から逃れたいがために起こった出来事のようです。
ひとつはテウダという人物が、もうひとつはガリラヤのユダが民衆を率いて反乱を起こしました。ローマ帝国への反乱、また宗主国ローマのご機嫌取りをするしかない生き延びる道がないユダヤの指導者たち、具体的には最高院の議員たちへの反乱だったのでしょう。しかし、二つの事件のリーダーはいずれも殺され、従っていた民衆もちりぢりとなって運動が失敗に終わったとガマリエルは事実を議員たちに示しました。リーダーがいなくなった民衆運動が、力を失って消えてゆくのを自分たちは目の当たりにして来たと、彼は議員たちに話したのです。
このガマリエルの指摘で、議員たちはハッと気づかされました。議員たちが抹殺しようとしている初代教会は、イエス様というリーダーをすでに十字架で失っています。ペトロは、また他の使徒たちも、決して自分がリーダーだなどと言っていません。議員たちはペトロが語る言葉を救いの福音として受け取れてはいませんが、誰がどんな立場でどう聞いても、ペトロは自分のことではなく、自分を導いてくださったイエス様と、イエス様からいただいた恵みしか語ってはいないのです。
もうリーダーがいないのだから、二つの過去の民衆運動の騒動で指導者のテウダやガリラヤのユダがいなくなったら、従っていた者たちがちりぢりになって運動が消滅したように、初代教会も消えてゆくとガマリエルは主張したのです。そのうえで、ガマリエルは38節でこう彼らに勧めました。「あの者たち(イエス様の弟子たち・使徒たち)から手を引きなさい。ほうっておくがよい。」この言葉には、説得力がありました。
議員たちは、ああ、そうだった、あの者たちのリーダー・ナザレのイエスは十字架に架けられて、とっくにいなくなっているのだから、ガマリエルが言うように、何もしなくても消えて行く者たちだと思わされたのです。
彼らはわかっていませんでしたが、実はイエス様は復活されて、生き続けておられます。使徒たちは、それをしっかりと受けとめ、聖霊として今も共においでくださるイエス様に導かれて教会の営みを続けているのです。
さらに、ガマリエルは創造主なる神さまを信じる者として、議員たちにもうひとつ、大切なことを思い起こさせました。ガマリエルは、旧約聖書の律法を研究していた律法学者ですから、神さまが壮大なご計画をもって天地を創造され、そのご計画にもとづいてこの世が進められている事実をこう告げました。38節後半からお読みします。「あの(使徒たちの)計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」
最高院の議員たち ― 大祭司や長老たち ― は、必死に律法を守ろうとし、また民衆に律法を守らせようと目を光らせています。旧約聖書 ― イエス様がおいでになる前の神さまとユダヤの民の間の約束・契約には、神さまの律法を守るならば、神さまが民をご自分のものとして慈しみ、反映させてくださるという条件がついていたからです。律法を守らない者は、神さまに逆らう者・神さまに見捨てられて滅びる者、と律法学者として権威あるガマリエルに言われて、議員たちは初代教会の使徒たちを殺すことは断念しました。しかし、腹いせのように、使徒たちをその場に再び呼び入れて鞭で打ち、40節にあるように、「イエスの名によって話してはならない」とまた念を押して釈放しました。
ガマリエルが語った言葉は、彼自身が意識していたかどうかは別として、まさに神さまのご計画のうちに導かれた事実でした。初代教会は、神さまから出たものそのものです。そして、人間には誰も、神さまから出たものを滅ぼすことはできません。鞭打たれ、さらに伝道を禁じられても、他の人間による束縛から解放されたこと自体が、ペトロたち初代教会にとっては喜びでした。41節に記されているように、ペトロたちは、自分たちの名ではなく、イエス様の名のゆえに捕らえられ、鞭打たれるという屈辱を受けたことさえ、喜んだのです。
議員たちは、ガマリエルが指摘したテウダやガリラヤのユダの民衆運動と、初代教会が根本から違うことがわかっていませんでした。人間による民衆活動と、教会の営み・働きの違いを、私たちも今日、心に深く留めておかなければなりません。その違いは、今日の聖書箇所の言葉を用いれば、教会が「神から出たもの」であること、神さまのお働きであることです。
「神から出たもの」であるからこそ、教会は人間ではなく、主なる神さまだけを導き手・リーダーとして仰ぎます。当然のことですが、教会の働きの中心は礼拝を通して御言葉を告げる宣教です。人間のわざである平和活動や福祉事業では、けっして、けっしてありません。「神中心、礼拝中心」は、私たち薬円台教会に与えられている宣教基本方針ですが、すべてのキリストの教会の2000年に及ぶ基本方針であり、これを踏み外すと、教会は教会ではなくなります。
今私たちは、使徒言行録を通して使徒たちの働きを伝えられていますが、そのすべてを導いてくださったのはイエス様です。そして、いっさいは天の父なる神さまのご計画のうちにあります。全能の神さまの御手のうちに抱かれているからこそ、私たちには真のやすらぎと、ご計画の先に準備されている恵み・永遠の命への希望があります。
そのやすらぎを与えてくださるために、イエス様はご自身の地上の命を犠牲にして、十字架に架かられました。三日後によみがえられて、永遠の命の約束を示してくださったのです。
今日の聖書箇所の最後の聖句、使徒言行録42節にはこう記されています。お読みします。(使徒たちは)「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・(救い主)イエスについて福音を告げ知らせていた。」この聖句は過去形で記されていますが、現在進行形の事柄として聴きたい事柄です。
今この薬円台教会の、また全世界のキリストの教会で、救い主イエス様の福音の恵みが喜びをもって語られています。私たちは今、その恵みで満たされて、会堂から出発して世へ遣わされてゆきます。
「恵みで満たされる」とは、言い換えれば「大丈夫、どんな時も、この私のために命さえも捨ててくださるほどに私を慈しんでくださるイエス様が、すぐ隣においでくださる」ということです。今日から始まる新しい一週間を、その限りないやすらぎを胸に、安心して進み行きましょう。