2026年1月4日
説教題:恵みと喜びの旅路
聖 書:ミカ書5章1~4a節、マタイによる福音書2章1~12節
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
(マタイによる福音書2:11)
主の年2026年を迎えました。
こうして、本年最初の礼拝を、皆さまと共にささげられる幸いに感謝して、本年も神中心、礼拝中心に歩みを皆さまと共に着実に進めたいと志を新たにしています。
皆さんの中に、もしかすると、今日 受付のところで「あれ?」と思われた方がおいでかもしれません。クリスマスは過ぎたのに、掲示板にまだクリスマスカードが飾られていて、新年という気がしない…そのように感じたでしょうか。これは、片付けるのを忘れたわけではないのです。カードを含め、クリスマスの飾りは1月6日の「公現日」までそのままで良いのです。
公現日は“公(おおやけ)に現れる”という字を書きます。英語ではエピファニー epiphany といい、「明らかになる」ことを意味します。イエス様が私たちと同じ人間としてお生まれになり、私たちにわかる言葉で神さまの愛と正義をあらわしてくださるようになった喜びを記念する日が、この「公現日」です。明らかになっただけでなく、この世の隅々にまで、あまねく主の栄光が輝き始める恵みの記念の日でもあります。
神さまの御子イエス様は、ユダヤ民族のうちに人間としてお生まれになりました。ただ、神さまはユダヤ民族だけの神さまではありません。神さまは天地を創造し、ユダヤ民族だけでなく 私たち全人類を創られました。その真理は、イエス様によって明らかにされました。イエス様は、ユダヤ人ではない人々 ― 聖書では、「異邦人」という言葉を用います― にも、天の父を教え、伝え、異邦人も癒されました。
イエス様がお生まれになった時に、実はすでにその真理は現実にかたちを取っていたのです。公現日・エピファニーを記念して、今日はユダヤ民族ではない異邦人が、イエス様を礼拝した出来事を記した聖書箇所をいただいています。マタイによる福音書2章1節からの御言葉に添って、ご一緒にその出来事を思い巡らしてまいりましょう。
ここに、遠い東の国から占星術の学者たちが、エルサレムに旅をして来たことが記されています。今日の2節には、こうあります。お読みします。学者たちはユダヤの神殿の町エルサレムへたどりついて、こう尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」彼らは、ユダヤ人の王を捜し求めていました。その捜し求める思いは痛切で、そのために東の国から砂漠を越えて、何日も何日も苦しい旅を続けるほどだったのです。その王こそが、人間を苦しみから救うと、学者たちには分かっていたからです。彼らの専門研究分野、占星術によってそれが示されました。
占星術の学者は、今でいう天文学者、宇宙科学者です。時代の最先端を行く知識を持つ、専門家でした。「占い」という言葉が用いられていますが、彼らの その「占い」はおまじないではありません。科学的な根拠がありました。星の動き・天体の動きを観測して、天候を予想し、その年の自然災害やそれに伴っての疫病の流行などを人々に知らせていたのです。現代の気象予報士や、地震の研究者に近いとも言えます。
占星術の学者たちは、星の運行を観測して得た予想と予報を王に伝え、王はそれによって自分が統治する国の農作物の不作や干ばつ、自然災害への備えをすることができました。王が本当に国民のためを思う「真の王」ならば、国民を守るために食糧を備蓄し、嵐や突風の前に何らかの手立てを施すことができたのです。このように、占星術の学者たちの能力と知識によって、また王が真実に人々を思う心を持っていたら、人々は自然の脅威に僅かでも備えをもって臨むことが可能だったのです。
しかし、そうできないことの方が多かったようです。まず、学者たちの予想・予報が、はずれることがあったでしょう。嘆く人々を見て、学者たちは自分たちの力の無さ、ひいては人間の力には限界があることを思い知らされていたのではないでしょうか。こうして、学者たちは人間の限界と弱さを悲しむようになりました。
また、せっかく学者たちが観測の結果を王に知らせても、王が無能で人々を守る方法を考えることができなかったら、人々は助かりません。無能ではなく、王が、自分の治める国の人々のことを思いやらず、自分勝手で自己中心的な「偽りの王」だったら、やはり、人々は助かりません。
今日の聖書箇所には、その「偽りの王」の一人、ヘロデが何を言い、何をしたかも記されています。真の王がお生まれになったと聞いて、ヘロデは自分の王の位が後にその幼子に脅かされると考え、学者たちに幼子の居場所を教えるようにと言いました。彼は、自分もその幼子を拝みたいからと嘘をつきました。イエス様の居場所が分かったら、命を奪おうと考えていたのです。学者たちは、自分のためには幼子を虫けらのように殺そうとする人の罪の暗さを思わされました。
学者たちは、人々が安心して暮らせる良い社会を心から願って、人々のために我が身を削る思いをする真の王が、この世にはきわめて少ないと、あらためて思ったことでしょう。指導的な立場、いわゆる人の上に立つ者になればなるほど、人間の醜さがあらわになるとも感じたのではないでしょうか。この愚かさと罪の闇から救われる道はないか、と学者たちは願い、人間を超える方・救い主を心の底から捜し求めたのです。
そして、彼らは星に導かれました。
今日の聖書箇所9節には、このように記されています。「東方で見た星が先立って進み」。その星を追って、彼らはひたすら砂漠を進みました。神さまは星を通して彼らの望みを叶えてくださいました。今日の御言葉にはこのように記されています。「(星は)幼子のいる場所の上に止まった。」(マタイ福音書2:9)「学者たちは、その星を見て喜びにあふれ」(マタイ福音書2:10)ました。学者たちが家に入ると、そこには幼子イエス様が母マリアと共におられました。
ユダヤの礼拝と決定的に違う、イエス様を主と仰ぐ私たちの礼拝の最初の形がここにあります。ユダヤの礼拝では、神殿の奥・至聖所には、祭司しか入ることができません。ささげものをするにしても、祭司に託して、自分では直接ささげることができません。しかし、イエス様は私たちと同じ人間の体を持ち、見える姿で親しく私たちに臨んでくださいます。学者たちは、ユダヤの礼拝では祭司に託して献げる献げ物を、こうして直接、イエス様に献げることができたのです。
学者たちは、あふれる喜びを、ささげもので表しました。11節の後半で こう語ります。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」ここで、学者たちがささげた宝は、占星術により星の運行を調べ、人を癒やすのに必要な、たいへん卑俗な言葉を用いれば占星術の学者たちの「商売道具」だった黄金・乳香・没薬でした。彼らは、自分たちが「絶対に必要な物」と思っていた物をイエス様にささげました。それらよりも、イエス様に出会った喜びと感謝の方がずっと大切だとさとって、自分たちのすべてを献げたのです。
黄金、乳香、没薬 ― いずれも、当時の占星術に必要なものばかりでした。ただ、このようにも伝えられています。黄金は王様のシンボルで、イエス様こそが黄金にふさわしいこの世の真の王であることを、学者たちは、黄金をささげて表しました。乳香は香油の一種で、香油は祭司が礼拝の時に用います。現代でも、カトリックや東方教会・ギリシャ正教の祭司は礼拝の時にフランキンセンスと呼ばれる香油を使います。学者たちは、イエス様に乳香をささげて、イエス様が真の祭司であることを表しました。
没薬には、特別な意味がこめられています。没薬は、当時のシリア地方で死者の埋葬に用いられ、遺体をミイラにする防腐剤でした。この没薬は死の象徴であり、イエス様が後に十字架で死なれることを表しています。イエス様は、自分の罪のために滅びなければならない私たちを救うために、まったく罪のない方であるにも関わらず、私たちのために命を捨ててくださいました。そのようにご自分の命に代えて、私たちに決して滅びない永遠の命を与える約束を、三日後のご復活で示されました。
没薬がささげられたことを通して、私たちはイエス様が世に私たちを罪から救い、神さまと共に永遠の命に生きる約束を与えてくださっている恵みをあらためて知るのです。
そして、今日の御言葉の最後には、学者たちが来た道とは別の道を通って帰って行ったことが記されています。夢を通して、学者たちは偽りの王・ヘロデのところへ帰るな、と告げられたのです。ヘロデ王は王位を守るために、学者たちが捜していた「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を殺してしまおうと考えていましたが、このヘロデ王の計画を妨げるためでした。
もうひとつ、「別の道を通って…帰って行った」(マタイ福音書2:12)は、たいへん大切なことを示しています。イエス様と出会い、礼拝をささげた人は、これまでと別の生き方をするようになる、という事実です。これまでとは違う価値観にめざめる、ということです。
イエス様と会うまで、学者たちにとって最も大切だったのは自分たちの占星術の道具 ― 黄金、乳香、没薬でした。それらをすべてささげて手放しても良い、これらにもう頼らなくても良いと心の底から、学者たちは思いました。イエス様が世に来られたのだから、なにひとつ持たなくても、ひたすらイエス様を頼りにすればよいとわかったのです。
今日の聖書箇所は最初の礼拝を私たちに語っていますが、それはそのまま、私たちが今日 主の日ごとにささげる礼拝の心そのものです。私たちは本当にたいせつな何かを捜し求め、主に招かれて、教会にたどりつき、日曜日ごとの礼拝に集うようになります。礼拝の中で、イエス様は私たちの心に宿り、大きな喜びと明日からの一週間を新しく生きる力を与えてくださいます。また、私たちはその喜びへの感謝を、主への讃美を歌い、ささげものをすることで表します。
この新しい主の年2026年も、私たち薬円台教会は、その思いを抱いて主日ごとの礼拝をささげて進み行きましょう。この年も、神中心・礼拝中心の信仰生活を送り、心ひとつとされて主を仰ぎ、希望を抱いて歩んでまいりましょう。
2025年12月28日
説教題:真の平安に生きる
聖 書:出エジプト記13章1~2節、ルカによる福音書2章22~40節
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
(ルカによる福音書2:29-32)
今日はご一緒に、イエス様が世にお生まれになった少し後の出来事を語る御言葉をいただいています。イエス様のお誕生後、マリアとヨセフは無事に男子の出産を終えた時のこととして、神さまの掟・律法に定められているとおりを行いました。
マリアとヨセフは赤ちゃんのイエス様を連れて、エルサレム神殿に行きました。二人にとって初めての子であるイエス様を、神さまにささげるためでした。先ほど司式者がお読みくださった旧約聖書 出エジプト記13章1節から2節の神さまの御言葉に、忠実に従ったことがわかります。
親にとって、いとおしくてたまらない子どもですが、神さまが与えてくださった命であることを思い、この命は親の私のものではなく、神さま、あなたのものですとささげて、新しい命への感謝をあらわし、神さまからの祝福を願います。神さまは、ささげられた子どもを親に戻してくださり、親は子を手元で育てることになります。
また、マリアとヨセフがこの時、エルサレム神殿に来たのにはもうひとつの掟・律法の定めのためでもありました。旧約聖書の律法の書、レビ記12章1節から8節にその掟が記されているので、短くまとめてお伝えします。男の子を出産した母親は、四十日の間、家にとどまって清めの期間を守り、それが明けてから一歳の雄羊一頭を焼き尽くすささげものとしてささげます。貧しくて雄羊をささげられない場合は、山鳩ひとつがい、または家鳩の雛二羽をささげます。マリアとヨセフはこの掟に従い、貧しく、雄羊を買うお金がなかったので山鳩、家鳩のどちらかを二羽、ささげました。
二人が祭司にささげものを渡していた時でしょうか、ひとりの男の人が近づいてきました。今日の聖書箇所 ルカによる福音書2章25節後半から27節前半にわたり、この人・シメオンのことがこう記されています。お読みします。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが"霊”に導かれて神殿の境内に入って来た…」
シメオンは赤ちゃんのイエス様を腕に抱き、神さまをたたえました。その讃美の言葉が、29節から32節に記されています。皆さんがこの聖句を読んで、または読まれるのを聞いて、たいへん印象的に感じるのはシメオンのこの言葉ではないでしょうか。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます。」
シメオンはこう、喜びを高らかに語りました。メシア・救い主に今、私は会い、なんとこの腕にキリストを抱いている ― 神さま、あなたがおっしゃったとおりに、私は今、この世での最後の務めを成し遂げました。だからこそ、心安らかにこの世を去って行けます。「救い主に会えたのだから、死んでも良い!」と言ったのです。
実に、シメオンのように神さまを求め、祈り、救いを求めていた人々にとって、「メシアに会えたのだから死んでも良い」と思えるほどに、イエス様のお生まれは深く大きな期待と喜びに満ち満ちた出来事でした。
たびたびお伝えしてきたことではありますが、ここでもう一度、イエス様のご降誕当時の社会・世界のありように目を向けておきたく思います。ユダヤばかりでなく、シリア地方一帯、また地中海地方全体が、長い長い戦いに明け暮れていました。ユダヤについて言えば、実に800年近く、他国または他民族との戦いが続いていたのです。
他の国々・民族も同様で、攻撃されては防御し、防御のために先に攻撃し、互いに報復・復讐を繰り返して実に多くの命が失われ、血が流れ、町は荒れて嘆きの声が地上に満ちていました。それでもなお、地に住む人々は平和という概念を知らず、そのために祈ることも、それを築こうとの志も持てずにいたのです。「平和」は、戦争がない状態をさすに過ぎませんでした。
今の果てしない戦いの果てに、誰かきわめて強力な軍事的かつ政治的指導者が戦いに勝ち抜いてむくろの山の頂点に立ち、すべての国々・民族を支配して統一し、隷属させて、やっと戦争が終わるのが、「平和」だったのです。その「きわめて強力な軍事的かつ政治的指導力を持つ誰か」とは、力で勝ち抜くどこかの国または民族の王だと人々は考えていました。それぞれ、自分の国または民族の王が、その「誰か」であってほしいと願いました。
ユダヤの民はその「誰か」が、預言されている自分たちユダヤの国のメシア・救い主だと受けとめ、期待していました。メシアは、他の国の王であってはなりませんでした ― 今、自分たちを支配しているローマ帝国の皇帝を打ち倒してくれるユダヤの本当の王である「誰か」が、強く激しく求められていたのです。
ところが、まことのメシア、神さまが遣わしてくださった救い主・平和の君イエス様は、人々が考えていたのとはまったく次元の異なる平和を示してくださるために、人間的な意味では強くもなく、軍も率いず、政治の力もお持ちではありませんでした。貧しい夫婦の子として旅先に宿も取れず、馬小屋で生まれ、ごく普通の大工職人として生活の苦労をされ、勝ち負けとは関わりなく生きられました。むしろ、勝ち負けという人間の次元で言えば、十字架に架けられ死刑にされたイエス様は負け組かもしれません。しかし、私たち教会はイエス様の十字架の出来事とご復活を「死に打ち勝つ勝利」と呼びます。イエス様は、この世の勝ち負けを超越したまことの平和を伝えてくださいました。
平和とは、勝った者が世を隷属させて争いを鎮めることを言うのではない、すべての異なる国々・民族が共に手を携え、助け合って前進する道を示すために、イエス様はおいでになったのです。
今日の聖書箇所に戻ります。赤ちゃんのイエス様を抱いたシメオンは、この「平和」を聖霊によって知らされていました。シメオンが神さまをたたえた言葉の後半に、それが表されています。お読みします。「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光。」神さまは、ユダヤの人々だけでなく、まだ神さまを知らない「万民」・すべての人々、異邦人のためにもイエス様を遣わしてくださったと、シメオンははっきりと言っています。
ユダヤの人々は、かつては他民族、特にエジプトで虐げられた民だったからこその「意地」と言っても良い矜持と誇りを抱いていました。神さまを知らない者は、体に割礼を受けていない異邦人 ― 異邦人は野蛮人、とみなして軽蔑し、敵視し、忌み嫌いました。神さまが、その異邦人のためにもイエス様を遣わしてくださったと、シメオンは喜びを謳いあげたのです。
この直後の33節には、このように記されています。お読みします。「父と母(イエス様の地上の父・母であるヨセフとマリア)は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。」イエス様がマリアに宿られることを、ヨセフは夢の中で主の天使にこう言われました。「マリアの胎の子は聖霊によって宿った…この子は自分の民を罪から救う…神は我々と共におられる。」(マタイによる福音書1:20b-23より)また、マリアは天使ガブリエルから、このお告げを受けました。「聖霊があなたに宿り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカによる福音書1章35節より)
ヨセフとマリアへのお告げから私たちが読み取るのは、二人にも、神さまがイエス様を、まさか異邦人のため、ユダヤの民以外の人々のため、世界中の人のために遣わしてくださったとは知らされていなかったということです。だから、マリアとヨセフはシメオンの言葉に驚きました。
が、シメオンが告げたこの恵みは真実・真理、神さまの御心でした。それによって、イエス様の平和、まことの愛と正義は国と民族のへだて、人種のへだて、あらゆるへだてを超えて造られた人すべてに届くようになりました。私たち日本に暮らす者が福音に与り、今、こうして心からの礼拝をささげて救いと永遠の命の約束をいただいているのは、この主の御心によるのです。シメオンの預言を、今、私たちが証ししています。
シメオンは、ヨセフとマリアを祝福し、マリアにさらなる預言を告げました。34節後半からお読みします。「御覧なさい。この子(イエス様)は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。」この言葉のとおりに、イエス様はイエス様を敵視し、憎むファリサイ派の人々によって「反対のしるし」すなわち死刑・十字架刑に処せられました。
シメオンは続けてマリアに言いました。35節です。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。」マリアは、後に我が子・主イエスの十字架での死を目の当たりにすることになります。
シメオンが預言者として、こうしてルカによる福音書に記されていることに加え、もう一人の人物が伝道者として記されています。女預言者アンナです。38節から39節にかけて、アンナについてこう伝えられています。夫に死に別れ、八十四歳になっていたアンナは「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」
こうして、思いもかけない預言を聞き、伝道のわざを目の当たりにして、マリアとヨセフ、イエス様は神さまにささげるべきすべてを成し遂げて、ガリラヤのナザレに帰りました。神さまの祝福を受けたイエス様は、今日の最後の聖句40節に記されているように「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれて」幼少期から少年時代を過ごされました。神さまの時が満ちて、十字架への道を歩み、まことの平和を世に知らせ、死を超えて永遠に生きるまことの平安の約束を私たちに与えてくださるために、イエス様は生き、十字架で死なれ、復活されました。
悲しいことに、まだこの世で、戦い・紛争・戦争が続いています。私たちには何もできない ― 具体的に声を上げ、平和のために働く手段がわからないので、私たちは無力を感じてしまいます。しかし、私たちは主にあって、無力ではありません。御言葉を聴き、信じ、祈ることができます。
旧約聖書の時代から、預言者たちは真理を告げる御言葉を神さまから預かり、語り続けました。ほんのわずかな人にしか伝わらず、受けとめられませんでしたが、黙ってはいませんでした。今日のシメオンの言葉も、そのひとつです。
今日の御言葉には、イエス様を伝える祈りの人、アンナのことが記されています。シメオンとアンナを心に留めて、私たちのそれぞれの務めを果たしてゆきたいと願うものであります。
イエス様の導きを信じて、平和を祈り続けましょう。身近なところから、隣人へのささやかな思いやりから、平和の種まきをいたしましょう。心ひとつとされて主を仰ぎ、主の愛と正義をキリストの香りとして身にまとい、世へと遣わされてまいりましょう。
2025年12月21日
説教題:世の片隅にこそ、光が
聖 書:イザヤ書57章16~19節、ルカによる福音書2章1~21節
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
(ルカによる福音書2:10-11)
私たちの救い主イエス様がお生まれになった恵みに、共に与るクリスマスを迎えました。今日の新約聖書の聖書箇所、ルカによる福音書2章1〜21節は、ご降誕の夜に起った出来事を語っています。
先ほど司式者が朗読された御言葉・聖書の言葉を、ご一緒に読んでまいりましょう。御言葉は「そのころ、」と始まっています。その頃、ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にありました。「全領土の住民」とは、神さまに与えられた土地・イスラエルで暮らしているユダヤ民族をさします。1節と2節に語られている「登録をせよ」との勅令、「最初の住民登録」とは何のことか、しばし、ユダヤの歴史に目を向けなければなりません。
ユダヤ民族は、かつては自らの土地・国土を持てず、エジプトで奴隷として虐げられていました。神さまが造られた諸民族・あらゆる人間たちの中で、ユダヤの人々が他の者たちに踏みつけにされているのを、神さまは、たいそう可哀想に思われました。神さまは、このように世の片隅に追いやられている者に、他の者に抑えつけられ、苦しめられている者に目をとめてくださるのです。命の源である神さまは、人間同士の生存競争に負けてしまう弱い者をも、生かしてくださる方だからです。
神さまは預言者モーセを立てて、ユダヤ民族をエジプトから解放してくださいました。カナンの地、イスラエルへと導き、そこを国土として豊穣と繁栄へと導かれました。ところが、神さまに愛され、こうして恵みを受けている幸いを、ユダヤ民族は自らぶち壊してしまいました。神さまを忘れてしまったのです。
私たちを造ってくださった神さま、そうして命あるすべての者の命を守り支えてくださる私たちの神さまは、人間の目には見えません。見えない神さまを、ユダヤの人々は信じきることができず、預言者たちが伝える神さまの御言葉に従わず、勝手な道を進みました。
勝手な道とは、愛のない道です。自分と、自分が味方だとみなす者しか信用せず、大切にせず、隣の人は他人、他人はみんな敵、敵だからどうなってもかまわない、いっそ脅し、打ちのめし、あるいはだまして、持っているものをすべて奪い取ってやろうとする道です。そうです ― 勝手な道とは、正義のない道です。
ユダヤ民族は、豊かな祖国イスラエルの富と土地を略奪しようと攻め込んでくる他の国・他の民族との戦いを繰り返しました。そして、敗北に敗北を重ねました。700年ほどにわたり、アッシリア、バビロン、ペルシア、そしてローマ帝国が次々とユダヤを支配することになりました。
ユダヤの民は、再び世の片隅に追いやられました。が、踏みつけにされている彼らを、神さまは見捨てませんでした。預言者の口を通して救いの約束を語り続けてくださいました。あなた方を、今の苦難から救うメシアを、必ず遣わしてくださる ― その約束です。
ユダヤの民だけではありません。生存競争に勝ち抜いて生き残るために、愛もなく、正義もなく、遮二無二戦い続け、傷つけ合っている人間すべてを、その悲惨な連鎖から救い出してくださる救い主を与えてくださると言われたのです。
今日の聖書箇所 ルカによる福音書2章1節に戻ります。ここに記されている皇帝アウグスティヌスは、ローマ帝国の皇帝です。イスラエルに住む全住民に登録をさせたのは、出身地ごとに人口を確定して税金を取り立てるためでした。イエス様をおなかに宿し、臨月を迎えていたマリアも、ヨセフと共にヨセフの出身地ベツレヘムへ旅をしなければなりませんでした。
イスラエル全領土 ― つまりはイスラエルじゅうの人々がそれぞれの出身地へと旅をしたので、宿を確保するのが実に難しくなり、競い合う情況になりました。マリアとヨセフは、この宿確保の競争に負けたのです。金貨・銀貨をみせびらかし、宿屋の主人に余計に宿代を払うと言って、貧しいマリアとヨセフの目の前で部屋をかすめ取った人がいたかもしれません。マリアが産気づいているのに、宿を譲ってくれる人はいなかったのです。
ここにも、思いやりのかけらもない、愛のない醜い競争がありました。隅へ隅へと追いやられて、ついにマリアは馬小屋で出産しました。
しかし、まさにこの時・この場で、神さまの約束は果たされました。マリアが「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」赤ちゃんこそ、神さまが約束された救い主メシア、救い主キリスト・イエスだったのです。神さまは、世の片隅・人の目には暗がりとしか見えないところに、そこが暗いからこそ、光を与えてくださいます。
その恵みを最初に知らせるために、神さまが選ばれたのは、羊飼いだったことを、今日の御言葉は語ります。羊飼いたちもまた、世の片隅に生きる者でした。
羊飼いとは、ユダヤの民にとって大事な財産である羊を預かり、その群れを、体を張って野獣から守る務めです。そのために、勇気と知恵、優れた身体能力と精神力が求められました。ところが、人々から忘れられがちな務めでもあったのです。羊飼いは羊を良い糧と水で養うために町の文化的な営みから離れた野原で暮らしました。野宿を余儀なくされて夜通し働き、多くの労力を費やしているのに、もてはやされることのない人々でした。
その羊飼いたちの上に、突然、主の天使が現れました。これが、今日の聖書箇所8節の聖句の出来事です。羊飼いたちが仰ぎ見ると、天使はメシアのお誕生を知らせ、さらに天使の大軍がこう高らかに告げました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカによる福音書2:14)
ここに、神さまがこの世に示された価値観の大転換がありました。勝つことがすべてではない、という価値観です。むしろ、戦わないこと ― 平和をこそ大切に思う心が、ここに初めて示されたのです。また、人間の目にすばらしいと見えるものが本当にすばらしいわけではない、という価値観をも、示されました。
イエス様は、神さまです。神さまご自身が、人に負け、人に踏みつけにされて世の片隅に追いやられる惨めさの真っただ中に、おいでくださったのです。
世の片隅の闇を照らし、隣の人の悲しみ苦しみを自分のことのように引き受け、自分の持っているものを差し出して、自分が犠牲になっても隣人が救われる ― その愛をさししめす光となるためでした。
そうして、イエス様は世の暗闇に引き込まれてゆく私たちすべてを救うために、十字架にかかってくださいました。ご自身の地上の命という、大きな大きな犠牲をはらってくださったのです。救いが成し遂げられたことは、十字架の出来事の三日後、ご復活により明らかとなりました。
今日、この礼拝でご一緒に読んだ聖書箇所は、最初の救い主キリストの礼拝を伝えています。礼拝のことをミサ、英語ではマスと言います。救い主の礼拝は、キリストマス ― クリスマスです。主の日・日曜日ごとに、私たちは礼拝に招かれて、集います。救われた恵みを、礼拝ごとに、新しくいただきます。実は、すべての礼拝が、救い主の礼拝 ― クリスマスです。
この後の聖餐式で私たちは、私たちの救いのために十字架で裂かれたイエス様の御体なるパンと流された血潮なる杯に与ります。イエス様が世の片隅に退いて、私たちに命を譲ってくださった救いの恵みを、そうして私たちは思い起こします。互いに譲り合い、思いやる愛が、真の平和を開きます。そのために、世においでくださった救い主を心に宿して、主の愛と正義による平和への祈りを深めましょう。
2025年12月14日
説教題:心の底から喜び踊れ
聖 書:ゼファニヤ書3章14~17節、ルカによる福音書1章67~80節
主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
(ルカによる福音書1:72~77)
アドヴェント第三主日を迎えました。クランツの三本目のろうそくに火が灯され、私たちはイエス様のお生まれを祝うクリスマスへの歩みを進め、感謝の思いを深めています。
その中で、今日の説教題に違和感というほどでなくとも、「え?」という思いを持たれた方がおいでかもしれません。説教題は「心の底から喜び踊れ」です。
クリスマスは、イエス様が私たちの救いのために世においでくださった、それも神さまでありながら、私たちと同じ人間として共に生きてくださるために、赤ちゃんとしてお生まれになったことを、救われた私たちが心に刻む日です。イエス様は、十字架に架けられ、そこで私たちの救いのために死なれることを使命として、この世に来られました。私たち人間すべてが、生きるために生まれてくる中で、イエス様お一人は、死ぬために誕生されました。
そのことを思いつつ、私たち教会は、主の御前に静まり、心からの感謝をこめてクリスマス礼拝をささげます。
ですから、今日の説教題に記された「喜び踊れ」の言葉を聞くと、いえいえ、私たち教会にとっては、クリスマスはそんな手放しで喜べるようなものではありません、とつい眉をひそめたくなる ― そんなお気持ちがおありかと思います。確かに、私たち教会が、クリスマスを、またクリスマスに限らずいろいろな行事や集会を、いわゆるイベントのように、お祭り騒ぎで過ごすことは決してありません。ただ、この説教題は、本日の礼拝に与えられた旧約聖書の御言葉で、ゼファニヤ書の聖句の言葉そのものです。
預言者ゼファニヤは、イエス様がお生まれになる670年ほど前に、この預言を希望の言葉として人々に伝えました。その預言の中で、救い主が与えられるのだから、心の底から喜び踊れとユダヤの民を励まし、爆発的な歓喜の到来を告げたのです。
紀元前670年頃のユダヤは、悲惨な状況にありました。ソロモン王の時代に栄華を誇ったユダヤ王国 ― 絢爛豪華なエルサレム神殿を建て、国は栄え、小さいながらシリア地方の宝石のようだったイスラエルの国は、滅びの一途をたどっていました。主にあってひとつとされているはずのイスラエルは、ソロモン王の後継者争いをめぐって二つの国に分裂しました。
神さまに従っていれば、ひとつであったものが、自分たちの勝手で主に背き、けんか別れをしてしまったのです。イスラエルの豊かさを我がものにしようとしていた周囲の大国が、この機会を逃さないはずがありませんでした。またたく間に、北イスラエル王国が滅ぼされました。さらに南のユダ王国がアッシリアに攻め込まれました。国土は戦場となり、血が流され、多くの命が失われました。ゼファニヤの預言が語られたのは、その苦難の中でした。預言は、こう語ります。「イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。」(ゼファニヤ書3:15b)
今は苦しく、愛する者を奪われた悲しみは底知れません。自分たちを守ってくれるものは何もない、誰もいない ―自分たちは神さまから見捨てられたのだ、と人々は絶望していました。しかし、ゼファニヤは神さまの恵みの言葉を伝えました。救いの主が人々の中にあらわれることは約束されている、だから、その悲しみの心の底から希望を抱いて立ち上がり、喜び、踊れ、あなたがたは希望によってどこまでも強くなれると、神さまはおっしゃってくださったのです。
その約束が果たされたのが、イエス様のお誕生・クリスマスの出来事です。その恵みは、ユダヤの民だけにとどまりませんでした。造られた人間すべてを救うために、イエス様はこの世に遣わされました。
預言が与えられるのは、苦しみや悲しみに耐えている人々を力づけるためです。救い主が与えられる、災いはすべて消えると知らされていても、私たち人間は弱く、耐えて待っている間に希望を失ってしまいます。旧約聖書の預言の書は、待つ者を励ます言葉です。
そして、旧約聖書と新約聖書の橋渡しをするように、新約聖書にも、救い主の到来を伝えた預言者がいます。そうです、洗礼者ヨハネです。この洗礼者ヨハネの誕生にあたり、旧約聖書 創世記のイサクを連想させる神さまの恵みがヨハネの父となる祭司ザカリアに与えられました。
祭司ザカリアは、妻エリサベトと共に「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった」(ルカによる福音書1:6)人で、人の目から見て、神さまから愛されて当然のように思えました。しかし、残念なことにイサクの父アブラハムがそうであったように、「彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとって」(ルカによる福音書1:7)いました。
このザカリアは、ある日 ― イエス様のご降誕の18カ月前・1年半前の日です ― 実に重要な祭司の役割を果たすことになりました。祭司として、一生に一度あるかなしかの栄誉ある役割で、神殿の至聖所に入って香を焚く務めでした。この役割の祭司の他には、人間はだれ一人として入れない至聖所でザカリアが務めをしていたところ、主の天使が現れました。
天使はザカリアに言いました。「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。(彼は)主の御前に偉大な人になり…既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」(ルカによる福音書1:13b、15b~16)ところが、ザカリアは神さまの恵みを信じず、あろうことか、証拠を見せろと天使に言ってしまったのです。
すると、天使はこうザカリアに告げました。「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(ルカによる福音書1:20)声を使う務めである祭司ザカリアにとって、声を封じられた日々は実につらいものだったでしょう。
天使が告げたとおりに、月が満ちてエリサベトに男の子が生まれました。ユダヤでは、父親が子どもの名を決めます。特に、祭司は親から子へと受け継がれてゆく務めなので、父と同じ名前か、その血筋に伝統的につけられる名前が選ばれます。天使がザカリアに告げた「ヨハネ」という名前は、ザカリアの血筋にはない名前でした。「ヨハネ」は、「主は恵み深い」という意味を持ちます。ザカリアはこの時、天使が告げた「ヨハネ」を選びました。
聖書はその時の出来事をこう記しています。ルカによる福音書1章64節です。お読みします。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」その賛美の祈りが、今日 私たちがこの礼拝にいただいている御言葉です。ザカリアは高らかに告げました。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。」(ルカによる福音書1:68)自分の勝手な思いから神さまを試してしまったザカリアが、再び声を出し、言葉を話せるようになった時の最初の言葉が、神さまへの讃美だったとは何という幸いでしょう。
さらに、ザカリアは成長した後に洗礼者ヨハネとなる我が子が神さまから与えられた使命を告げました。76節が語るように、ザカリアの息子ヨハネは「主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを告げる」預言者となりました。洗礼者ヨハネは荒れ野で、イエス様が救い主がすでにおいでになっていることを叫ぶ声となりました。彼は、こう叫びました。聖書からお読みします。「主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。」(イザヤ書40:3b~5)これは、旧約聖書イザヤ書40章の御言葉そのものです。それが、ヨハネによって新約聖書で再び語られました。(マルコ福音書1:1~8、ルカ福音書3:1~9、15~17、ヨハネ福音書1:19~28)神さまは洗礼者ヨハネを通し、旧約聖書時代に与えられた約束が、時を経て果たされる恵みを知らせてくださいました。
私たちは今、さらなる主の恵みを待っています。それは、十字架の出来事の三日後、イエス様が復活され、そのご復活によって私たちに約束してくださった永遠の命、言い換えると御国・神の国の到来です。それがどれほど輝かしくすばらしいか、私たちはまだ知りません。私たちに分かっているのは、神さまは必ず約束を果たしてくださる方、そして「ヨハネ」の名のとおりに、恵み深く私たちを愛し、大切にしてくださっているということです。たとえ今がどんなにつらくても、神さまの約束を決して忘れず、希望を抱き、前へ、未来へと進み行きましょう。
2025年12月7日
説教題:ご降誕の告知
聖 書:イザヤ書9章1~6節、ルカによる福音書1章26~38節
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
(ルカによる福音書1:28)
アドヴェント第二主日の今日、クランツには二本目のろうそくに火が灯されました。礼拝には、少女マリアが、イエス様の母となることを天使に告げられた聖書箇所が与えられています。皆さんが教会生活を始めてから、毎年 礼拝で聴いて来られた受胎告知の御言葉です。毎年聴いて よく知っているにもかかわらず、厳かな思いと静かな喜びにあらためて満たされ、そして心に、あらためて感動がわきあがる箇所です。
結婚を控えたマリア。彼女は自分をここまで育ててくれた父母のことを思いながら、ヨセフに嫁ぐために自分の持ち物を整えていたことでしょう。その彼女の前に、突然天からの使い・天使が現れ、高らかに、そして厳かに、「おめでとう」と祝福の言葉が与えられました。
ところが、それに続く天使の言葉は、マリアにとってうけとめきれないものでした。天使は、こう言ったのです。あなたは男の子、それも「いと高き方の子」(ルカ1:32)、「神の子」(ルカ1:35) を産むことになっている。
マリアは、自分のおなかに子がいると言われたことに衝撃を受けました。婚約者が決まっている結婚前の身で、そのようなことがあるはずはないからです。動揺しているマリアに、天使は確かなしるしがあると語りかけました。その天使の言葉を記す聖句をお読みします。36節から37節です。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
信仰深く育てられ、神さまを敬い信じる少女マリアは、天使のこの言葉から二つのことを伝えられ、そして、信仰によって、彼女の心は安らぎました。神さまが、マリアを愛して養ってくださった信仰の力を深く思わされる聖句が、ここにあります。それが、繰り返しになりますが、この聖句です。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
マリアが聖書を知らなかったら、天使がせっかく伝えてくれた二つのことには何の意味もありませんでした。この二つのことのひとつは、不妊の女と言われて年老いた親類のエリサベトが男の子を身ごもっていることでした。子どもを産めずに苦しみ悲しむ女性に、あるいは人間の常識ではとうてい子を産める年齢を過ぎた女性に、神さまが念願の子どもを授けてくださる奇跡・私たち人間の思いを超えた神さまの優しいお働きが、旧約聖書には何度も記されています。アブラハムの妻サラも、預言者の母となった母ハンナも、そうして子を授かりました。その同じ奇跡がマリアの身近な親戚、エリサベトにも起きたと聞かされて、マリアはそれを信じ、受けとめました。聖書を神の言葉として受けとめ、信じていたからです。
マリアに安心をもたらしたもう一つのこと、それは、天使が告げたこの言葉です。「神にできないことは何一つない。」マリアはこの事実・真理をよく知っています。私たちも知っています。
大切なのは、マリアはこの神さまの全能という事実・真理をあらためて聞かされて、そうだ!と確信したことです。私たちも同じです。神さまは何でもおできになる全能の方と、心で、自分だけで思うのではなく、こうして御言葉に聴いて、そうだ、そのとおり、アーメン!と確信するのです。
こうして結婚前に、婚約者ヨセフの子どもではない子を身ごもったマリアには、さまざまな試練が降りかかることが容易に考えられました。マリアが天使のお告げを受けたと信じられない近所の人たちは、姦淫を犯したふしだらな女とみなしたでしょう。父母は嘆き、親族はマリアとの関わりを断とうとしたでしょう。姦淫の罪は十戒を犯したことになるので、罪人として石打の刑で処刑されることも、予測できました。
しかし、この時のマリアの心は力と平安で満たされていました。神さまにできないことは何一つないのだから、自分は授かったこの御子を必ず安全に出産する、そう信じたのです。なぜなら、天使はマリアを力づける言葉を、最初に「おめでとう」とマリアに告げた時に、すでにマリアに与えていたからです。28節を、もう一度お読みします。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」神さまが共においでくださる ― この恵みを、神さまは御言葉を通して私たちに繰り返し、繰り返し告げてくださっています。
恐れるな、わたしがあなたと共にいる ― こう、イザヤ書41章10節で、またヨシュア記1章9節で、神さまはおっしゃってくださいます。それを、マリアは聖書を通してよく知っていました。しかも、今、マリアの体の内には、その胎内には、事実として、神さまの御子・神さまであるイエス様が宿っておられます。マリアは、神さまの御子をみごもったのですから。
その恵みを信じる信仰が、これから自分にふりかかるであろうさまざまな誹謗中傷への恐怖をはるかに超えて、強く、確かに、マリアの心を満たしました。
マリアはこの信仰を告白しました。38節の、この言葉です。お読みします。「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。』」「はしため」とは、耳ざわりの悪い言葉ですが、女奴隷という意味です。奴隷は、自分のものを何ひとつ持っていません。体も心も、その未来も、すべて奴隷の主人の持ち物です。マリアは、私は主のものです、神さまのものです、と告白したのです。
続けてマリアはこう言いました。「お言葉どおり、この身に成りますように。」何ごとも神さまのご計画どおりに、自分は従って行きますと、信仰者としての正しく、そしてまさに基本的な姿勢を示し、我が身と自分の未来を神さまの御手にゆだねました。これから待ち受けている試練がどれほど厳しくても、神さま、あなたが私の主なのですから安心してついてゆきます、と言ったのです。その信仰を聞き届けて、天使は去って行きました。
マリアが信じたように、私たちも神さまの全能 ― 神さまには何でもおできになると、知識として知るだけではなく、心と魂で信じたいと思います。神さまにすべてをお任せし、神さまのご計画が成りますように、御心が成りますように願うことに、私たちの真実の安心があります。マリアの祈りに心を合わせ、私たちも神さまの御心が成り、すべてを神さまにゆだねられるようにと祈りましょう。そこにこそ、私たちの真の心の安らぎと、真の幸いがあるからです。
2025年11月30日
説教題:主は、我らと共に
聖 書:イザヤ書7章13~15節、マタイによる福音書1章18~25節
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
(マタイによる福音書1:22-23)
アドヴェント第一主日を迎えました。クランツの最初のろうそくに灯りが灯されたこの礼拝に、私たちはヨセフが見た夢を語る御言葉を与えられています。聖書、特に旧約聖書には、眠りの間に見る夢の話が実に多く記されています。皆さんの心に思い浮かぶのは、まずはヤコブの夢、またヨセフの夢でしょうか。
ヤコブは父と兄をだましたために、家から逃げ出し、親戚を頼って荒れ野で野宿をした夜、天使の梯子の夢を見ました。自分の罪が招いた最悪の事態に打ちひしがれ、絶望の底にいたヤコブは、その夢によって自分が、親しい者たちに見捨てられても、神さまには見守られていると知らされました。夢は、ヤコブの生きる力、前進する力の源となったのです。そのヤコブの息子、ヨセフを兄たちは「夢見るお人」と呼んで陰口を言いました。一生懸命に働いている自分たちは疲れ果ててぐっすり眠り、夢を見ても覚えてなどいない ― 父ヤコブに甘やかされて一日中ふらふら遊んでいる弟のヨセフは、自分の見た夢の話を自慢げにして、いい気なものだと憎らしく思ったのです。ヨセフの夢は、この時は、大きな悲劇の発端となりました。ところが、彼は他の人が見る夢の意味を解き明かす賜物・特別な才能を神さまからいただいていて、後にこの賜物が彼をも、またユダヤの民全体をも、救うことになりました。
私たち人間は意識的に、意志と判断と決断をもって行動し、生活しています。その私たちの精神生活の中で、夢は実に不思議です。私たちは意識して、こういう夢を見たいと考えて、夢を見ることはできません。意識していない ― つまり無意識で夢を見ることに着目して、19世紀のユダヤ人の医師 ジグムント・フロイトは精神分析学という心理学の分野の創始者となりました。未だに、夢の不思議は完全に解明されてはおりません。聖書では、夢はヤコブに希望を抱かせ、ヨセフの人生を導きました。私たちは、神さまが夢を与えてくださると聖書から知っているというだけで、十分なのではないでしょうか。
そして、今日、私たちが与えられている御言葉では、イエス様の母マリアの婚約者ヨセフに、神さまは恵みの夢を与えてくださいました。ヤコブのように、この夢を見た時のヨセフは窮地に陥っていました。どれほど困った事態であったかを、ご一緒に聴きましょう。聖書箇所の最初の聖句18節の後半は、こう語ります。お読みします。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」さらりと記してありますが、この世的な言葉を用いれば、マリアとヨセフはたいへんスキャンダラスな事態のさなかにいたのです。
マリアはヨセフと婚約していました。結婚前なので、互いと身体的な交渉を持ちませんでした。それなのに、マリアはみごもりました。そのおなかの子がヨセフの子ではないのは明らかでした。18節には「聖霊によって」と明確に記されています。しかし、この神さまのみわざは、はじめ、ヨセフにはまったくわかっていませんでした。ヨセフにしてみれば、婚約者マリアに裏切られたとしか思えなかったのです。
ヨセフは血筋としては、メシアが生まれると預言されているダビデの末裔でした。700年以上前、神さまはユダヤの民に、あなたがたを救うメシアを遣わす、そのメシアはダビデの血筋の末に生まれると約束してくださいました。その約束がこのような、人の世では破廉恥としか思えない事態から始まるとは、誰も思っていなかったでしょう。
婚約者に裏切られた ― ヨセフが受けた心の痛手は、どれほど深いものだったでしょう。
彼はとうてい、このままマリアとの結婚へと進むことはできないと思ったに違いありません。
この出来事には、律法に関わる問題もありました。婚約中にも関わらず、婚約者ではない人の子を身ごもった女性は姦淫の罪、十戒の第七の戒めを犯したとみなされます。マリアは石打の刑に処せられ、死をもって罪を贖わなければならない事態も十分に考えられました。ヨセフが怒りと嘆きのあまり、マリアを裏切者として祭司に訴えれば、そうなったことでしょう。しかし、そうはなりませんでした。ヨセフは「マリアのことを表ざたにするのを望ま」(マタイ福音書1:19)ず、ひそかに縁を切ろうと決心しました。
進むべき道をこう考え巡らしていたヨセフは、その夜、神さまに夢を与えられました。夢の中に主の天使が現れ、マリアを花嫁として、妻として迎え入れなさいと語りかけました。マリアのおなかの子は聖霊によって宿った神さまの御子、預言で約束された救い主メシアだと、天使はヨセフに告げました。天使はさらに、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と語りました。ユダヤの言葉、ヘブライ語でイエスは「神は人の救い」という意味を持ちます。また、ユダヤの社会では父が子に名をつけます。
つまり、神さまは天使を通して、この世でヨセフに御子イエス様の父親の役割を果たすようにとおっしゃったのです。
この事柄について、聖書はこう語ります。22から23節をお読みします。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』その名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイによる福音書1:22-23)天使に「神は人の救い」という意味のイエスという名を生まれて来る子どもにつけなさいと言われた時点で、ヨセフの心には「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」と始まるイザヤ書の預言の言葉が鳴り響いたはずです。ヨセフが、聖書を暗記・暗唱することをもって教育とするユダヤ民族の男子だからです。インマヌエルが何を意味するかも、もちろんヨセフには分っていました。さらに、その言葉が神さまから夢を通して直接、自分に語られたことを、ヨセフは信仰をもって受けとめました。
インマヌエル、「神は我々と共におられる」 ― ヨセフが人生の大きな決断をしなければならないこの時に、神さまはヨセフに「わたしはあなたと共にいる」と仰ったのです。ヨセフは、自由な意思により、自由に決断して、夢で語られた天使の言葉を信じ、神さまを信じて従いました。世間の人が何と言おうとも、おなかが大きくなった婚約者マリアを妻として迎え入れ、自分の子ではないそのおなかの子、神さまの御子をマリアと共に育てようと決心しました。この時、ヨセフには夢のお告げを信じないという選択もありました。が、ヨセフは主を信じて従う信仰を選びました。自分の判断ではなく、主に従うことに平安があったからです。
神さまから「わたしがあなたと共にいる」と語りかけられる時、私たちは神さまに信頼され、愛されて、拠り所を差し出されています。さらにその主の呼びかけは、私たちが何のために生まれ、何を喜びとして生きる者か、私たちの役割を語ります。私たちは、神さまが共にいてくださることを最も大きな喜びとする者、地上にあっても、天に召されても、生死を超えて神さまと共にいるクリスチャンなのです。愛されるために、共に生きて神さまと兄弟姉妹、隣人を愛するために生まれて進み続けるクリスチャンなのです。
聖書は、続けてこう語ります。24節から25節、今日の聖書箇所の最後の節です。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」ヨセフは共にいてくださるインマヌエルの主を信じ、その愛を受け入れ、与えられた役割を引き受けました。
この後、実にたくさんの試練がヨセフを襲いました。ベツレヘムへの旅の途中、馬小屋でのイエス様のお誕生。ヘロデ王の、すべての嬰児を殺害する命令。その中、ヨセフは家族の長、マリアの夫として、妻マリアと幼子イエス様を守り通しました。“神さまが共においでくださる”ことの真の意味を、今日、神さまはヨセフを通して私たちに示してくださいます。それは、ヨセフがしたように、神さまから与えられた人生の役割を、神さまの助けを信じてやり通すことです。
心に留めておかねばならないもう一つのことがあります。それは、神さまご自身が私たちとの約束を守り通してくださることです。神さまは、私たちに大切な独り子イエス様を与え、私たちの救いのために御子を十字架に架けて、私たちのためにみわざをやり通してくださいました。その深く激しい愛をもって、神さまは私たちと共においでくださいます。共にいます主を心に、この新しい週も心を高く上げて進み行きましょう。
2025年11月23日
説教題:溢れる恵みへの感謝
聖 書:詩編104編31~35節、マルコによる福音書10章13~16節
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
(マルコによる福音書10:13-16)
今日の礼拝は、子どもさんたちも一緒にささげています。お子さんたちは、神さまと人に愛されて、こうしてすくすくと育っています。心からの感謝をささげます。今日のために、イエス様が子どもたちを祝福された御言葉を、マルコ福音書からいただいています。
この時、イエス様は、弟子たちと共にエルサレムに向かう旅の途中でした。十字架に架かられる御覚悟でおられることは、弟子たちにも伝えられていました。十字架の出来事とご復活の意味の深さを、弟子たちはまだよく理解していませんでしたが、イエス様の使命感の切実さは、受けとめていたことでしょう。弟子たちの間にも、イエス様の緊迫感は伝わっていたと思われます。
そんな旅の途中で、大勢の親がイエス様のもとに子どもたちを連れて来ました。頭にイエス様の手を置いていただいて、祝福を賜るためでした。緊迫した旅のさなかに、何も分からない子どもたちをのんきにイエス様のもとへと連れて来た親たちを、弟子たちは腹立たしく思ったのでしょう。彼らは親たちを叱りつけてしまいました。
この時、まだ誰も、人々はもちろんのこと、弟子たちも、イエス様が神さまの子であり、十字架の出来事によって私たちを救われることを知りませんでした。子どもを連れて来た親たちは、イエス様が ‟人のために奇跡をなさる方・徳の高い偉い人” との評判を聞いて、そんなすばらしい方が自分たちの暮らす町に来られたのだから、ぜひ健やかに育つよう祝福してもらおうとしたのです。ところが、弟子たちは、この親たちを叱りつけました。
最初にお伝えしたほかにも、こんな理由が考えられます。当時、子どもは現代のように尊重されていませんでした。これは、毎年、子ども祝福のある日に申し上げていることのように思いますが、子どもが一人の人としての権利を認められるようになったのは、近年のことです。国連 ― 国際連合 ― が児童の権利宣言で、子どもが子どもなりの権利を持つと宣言をしたのは、1959年です。66年ほど前のことに過ぎません。
今日の聖書箇所の時代、2000年ほど前のユダヤでは、いえ、ユダヤに限らず、比較的近年まで、世界のほぼあらゆる地域で、子どもは軽んじられていました。子どもは権利を持たず、人格を認められなかったのです。それは一人の人間として扱われず、その存在を認められないということです。今日の聖書箇所でも、弟子たちは、イエス様のお話を聞きたいと人々が集まって来た時、弟子たちは子どもの存在を認めようとしなかったのです。親たちがイエス様の祝福を願うと、叱りつけました。
イエス様は、弟子たちが親たちを叱り、おそらく、子どもたちを追い払っているのをご覧になって「憤り」(マルコ10:14)ました。イエス様が憤る・怒りをあらわにされるのは、聖書の中でも珍しいことです。子どもをたいせつにせず、子どもを連れてこようとした親たちを叱った弟子たちは、神さまの御心とは違うことをしてしまっている、神さまに背いていると、イエス様は憤られたのです。
イエス様は、弟子たちに、子どもがご自身のところに来るのを邪魔してはならないとおっしゃいました。続けて、「神の国はこのような者たちのものである」と言われ、さらに「はっきり言っておく」と峻厳に言い渡されました。15節です。お読みします。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
ここでイエス様が「子どものように」とおっしゃっているのは、子どものどんな点をさしているのでしょう。イエス様はどうして、子どもたちこそが神の国・永遠の命をいただくにふさわしい者と言われたのでしょう。イエス様はマタイによる福音書の山上の説教で、心の清い人は幸いである、とおっしゃいました。子どもは純粋無垢で悪を知らず、素直で清らかだから、神の国に入れるという意味でしょうか。
ところが、聖書には、そう記されてはいません。子どもばかりでなく、清らかで無垢な罪のない者・神さまの御心にかなう人間は一人もいないと記されています。使徒パウロはローマの信徒への手紙でこう述べました。罪の報いである「死はすべての人に及んだ」(ローマの信徒への手紙5:12)ので、「正しい人はいない。一人もいない。」(同前書3:10)「すべての人」の中には、生まれたばかりの赤ちゃんも含まれています。
では、イエス様は大人が失ってしまった子どものどんな特徴について、「子どものような者でなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃったのでしょう。
キーワードは「受け入れる」という言葉にあります。今日の聖書箇所の子どもたちは、おそらく乳幼児だったと思われます。親に連れて来られたのですから、自分からすすんでイエス様のもとに恵みをいただこうと来たわけではありませんでした。何もわかっていないし、多くの子どもたちは、自分で歩くこともおぼつかなかったでしょう。親たちが “イエス様という人に祝福してもらいましょうね” と言って抱いて連れて来るのを、ただ受け入れたのが今日の聖書箇所の子どもたちなのです。
また、当時のユダヤ社会では、人間が献げ物をして、神さまからの祝福をいただくのが習わしになっていました。もちろん、私たちの神さまはご利益信仰の神さまではなく、私たちに与え尽くしてくださる方ですから、これは間違った習わしです。一方、子どもたちは、もちろん、献げ物を持ってくることなど、できません。これを献げるから、その報いにこうしてくださいとお願いすることなどできないのが、子どもたちなのです。祭司が献げ物のおさがりを自分のものにして私腹を肥やすようになっていた、当時のユダヤ社会の信仰のゆがみを、イエス様は今日の御言葉で指摘されたとも考えられます。
また、子どもたちは弱く、自分が置かれた状況に立ち向かう力を持っていません。受け入れるしかありません。泣いて助けを求めるしかできないのが、子どもです。子どもは、自分を助けてくれるのが誰かを知っています。それは、自分の親です。
助けて欲しいときに親を求めて必死に泣く子どもの心を、天の父なる神さまはご存知です。子どものその求める心に、目をそそいでくださいます。
人間は大人になると、困ったことになると自分で解決しようとします。もちろん、いつまでも親に頼って親離れできないのは困りものですが、自分で解決しようと自分にだけ頼っていると、神さまに頼ることを忘れて自己中心的になってしまうのが、私たち人間です。本当に困った時には、神さまはご自分が造られた私たちが、助けて!と父なる神さまに向かって叫ぶのを待っておられます。私たちが天の父を求めて、助けて欲しい時には必死に泣きながら祈ることを、神さまは喜ばれ、祝福されます。それをイエス様は、今日の御言葉により、弟子たちに、また私たちに教えてくださいます。
私たちが、神さまのため・教会のために力を尽くし、ご奉仕する時、もちろん、神さまは私たちの働きを喜ばれ、大いに祝福してくださいます。しかし、私たちの働きがあるから、祝福してくださるわけではありません。先ほど、私たちの神さまはご利益信仰の神ではないと申しました。私たちの神さまは、私たちが何かをささげたから、そのお返しに恵みや祝福をなさる方ではありません。ギヴ・アンド・テイクの神さまではないのです。むしろ、ご自身を与え尽くすギヴ・アンド・ギヴの神さまです。神さまは、私たちの救いのために、御子イエス様さえも与えてくださいました。
がんばっても がんばっても 何も報われず、むなしいように思える時、イエス様を通して、天の父なる神さまを思い起こしましょう。子どものように「助けて!」と泣いて良いのです。私たちの神さまは、私たちのその心の叫びを聞いてくださいます。我が子さえも、私たちのために与えてくださった神さまが共においでくださることに感謝して、今週一週間も主を仰いで進み行きましょう。
※11月16日は神学生が神学校から派遣されて説教奉仕をされました。そのため、ホームページへの説教の掲載はありません。
2025年11月9日
説教題:神と人との約束
聖 書:創世記17章1~11節、使徒言行録7章1~16節
「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。」
(使徒言行録7:2b~4a)
今日の主日礼拝にて、講解説教として読み進んでいる「使徒言行録」から7章の御言葉をいただきます。この御言葉には、主の教会が誕生し、その信者の一人、ステファノが語った説教と、その説教が招いたある出来事が記されています。ステファノが誰か、ご記憶にあるでしょうか。
イエス様が地上で弟子とされ、イエス様と働いた十一人に、裏切り者ユダに代わって後からくじで選ばれたマティアを加えて十二人が、教会で「御言葉の奉仕に専念する」(使徒言行録6:4)ことになりました。教会では、イエス様にならう愛のわざとして、共同生活が営まれていました。教会の人々は持ち物も食事も分け合っていたのです。御言葉の奉仕に専念する者とは別に、その共同生活の管理・運営を担う者たちが必要とされました。教会の一同が心を合わせて祈り合い、その役割を互いに選び合って7人が立てられました。ステファノは、この7人のうちの一人です。
前の説教でお伝えしたことですが、この役割と選ばれ方は、私たちの現在の教会の役員の在り方に継承されています。いわゆる使徒と呼ばれる十二人の弟子たちは「御言葉の奉仕に専念」する者たちで、現在の教会の教職・説教者に、役員が教会運営にあたるという役割分担が為されています。
ここで、心に深く留めておきたいことがあります。それは、教職ではないから御言葉の奉仕をしない、または信徒ではないから教会運営に携わらない…というようなことはない、ということです。現に、ステファノの御言葉の奉仕、実に長い説教がこうして聖書に記されています。薬円台教会でも、先月の19日の主日には、教会の一人の姉妹が聖書箇所にもとづく証詞を語ってくださいました。御言葉による伝道・宣教と、教会の営みを進める愛のわざを、教会の誰もが行うよう、導かれています。
さて、ステファノがこの堂々とした長い説教を語ることになったのには、ユダヤの歴史の中の、ある出来事が背景となっています。ユダヤの国は第三代の王ソロモンの後、次第に力が弱まり、攻め寄せて来る多くの国々に征服され、一時は滅びてしまいました。多くのユダヤ人が捕虜として国外に連れ出され、抑留生活を余儀なくされました。
バビロン捕囚の出来事はよく知られていますが、イエス様がお生まれになる67年前にも、同じことがローマ帝国によって行われました。この時、多くのユダヤ人が奴隷として国外に連れ出され、その後、子や孫と共に解放されてユダヤに帰って来ました。帰って来た子や孫は、ユダヤの言葉・ヘブライ語を話せず、当時の地中海地方の共通語だったコイネー・ギリシャ語を話しました。この言葉の問題が大きかったせいか、この人たちはエルサレム神殿とは別の場所・会堂で礼拝をささげていました。それが、使徒言行録6章9節に記されている「解放された奴隷の会堂」だったのです。
この「解放された奴隷の会堂」に集うギリシャ語を話すユダヤ人たちは、律法と神殿を実に大切にしました。エルサレム神殿に集まることができないので、逆に強い憧れがあったのかもしれません。律法については、なんと律法学者やファリサイ派の人々よりも厳しい姿勢で守っていたと伝えられています。その人たちから見ると、安息日にいやしの奇跡を行ったイエス様の弟子たちはとんでもない律法破り・掟破りの者たちだったのです。
実は、ステファノはもともと「解放された奴隷」、ギリシャ語を話すユダヤ人だったと考えられています。ステファノという名前そのものが、ユダヤの名前ではなく、ギリシャ風の名前だからです。「解放された奴隷の会堂」の人たちは、イエス様の教会の一員となり、教会を代表する19人の一人となったステファノを裏切り者だと考えたとも思われます。
彼らは民衆や長老、律法学者たちを扇動してステファノを逮捕させ、最高法院の裁きの場に引き出しました。そこから、今日の使徒言行録7章が始まります。
最高法院で、ステファノは大祭司から「訴えのとおりか」と尋問を受けました。ステファノは、この尋問を自らの弁明の機会ととらえ、弁明するばかりか、神さまがどうユダヤの民を導いて来られたかを正しく聖書から語り、その場で説教を行いました。
今日、私たちに与えられている使徒言行録7章1節から16節までで、ステファノは創世記12章からの出来事を短くまとめました。アブラハムからヤコブに至るユダヤの源となった者たちを、神さまが見守り、常に寄り添ってくださった恵みが力強く述べられています。
ステファノは、自分の仲間であるギリシャ語を話すユダヤ人達から裏切り者とされ、逮捕されたと言って良いでしょう。安息日を守らないイエス様の弟子になったから、ユダヤ人として失格だ、イエス様の教会はユダヤの正統的な信仰から逸脱していると批判・糾弾されたのです。それに対して、ステファノは自らの聖書理解が正しく、また御心にかなっていることをこの説教を通して明らかにしました。
さらに、ステファノが神さまの御言葉を伝えた聖書箇所は、彼を逮捕した「解放された奴隷」の心に強く響いたはずです。6節から7節をお読みします。「神はこう言われました。『彼(アブラハム)の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』」(使徒言行録7:6~7)ステファノを逮捕した者たちは、神さまがアブラハムに告げたように、ユダヤの歴史の中で他国の奴隷とされた者たちでした。しかし、今は解放されてユダヤに戻ることができているのです。それは、神さまがアブラハムに賜った祝福の約束のとおりではないか、あなたたちも、わたしも、その恵みの中で生きているとステファノは伝えたかったのではないでしょうか。
神さまはアブラハムに「あなたを多くの国民の父とする、祝福の源とする」と約束してハランの地からカナンへと旅立たせました。アブラハムはその時、自分がどこに導かれてゆくかも知らず、ただ神さまにひたすら忠実に従って、砂漠を進み続けたのです。
神さまの約束 ― 聖書では、神さまが人と交わす約束を「契約」と呼びます ― は、すぐには果たされませんでした。多くの国民の父となるどころか、アブラハムは子どもに恵まれないまま、長らく連れ添っている妻サラと共に老境を迎えていました。主に忠実なアブラハムでしたが、神さまの恵みの約束を信じきることができず、サラに仕えていたエジプト人の女奴隷ハガイとの間にイシュマエルと名付けられる子どもをもうけてしまいました。神さまの恵みを信じられずに、勝手に行動を起こしてしまう ― これは、神さまに対する背きであり、罪です。アブラハムがこのように罪を犯してしまっても、神さまはアブラハムを見捨てはなさいませんでした。あの約束・契約はなかったことにする、とは決しておっしゃらなかったのです。
アブラハムにはついに、息子イサクが生まれました。イサクは成長して妻リベカとの間に双子の兄弟、エサウとヤコブを与えられました。この二人が、少しも信仰的ではなかったのは、ご存知のとおりです。イサクの財産は長男エサウに受け継がれることが決まっていましたが、ヤコブを可愛がっていたリベカは策略をめぐらし、ヤコブは父イサクとエサウをだまして長男の祝福を手に入れました。ヤコブはもちろん、この時のリベカもエサウも、神さまがおられることすらすっかり忘れているとしか思えません。だまされたと知ったエサウは怒り狂い、ここからヤコブの逃亡とさすらいの日々、そして苦難が始まりました。それでも、神さまはヤコブを見捨てることはなさいませんでした。私たち人間が神さまを忘れて、自分の願いを好き勝手に追い求めている時も、神さまは私たちを守り、支えてくださいます。
ヤコブは十二人の息子を与えられました。ところが、彼らの兄弟仲が良かったかと言えばけっしてそうではなかったのです。生意気な弟ヨセフをヤコブが溺愛するので、それをいまいましく思った兄たちがヨセフを懲らしめようと穴に落として放っておいたところ、エジプトへ向かう商人がヨセフを拾い、ヨセフはエジプトの奴隷市場で売られてしまいました。ヨセフはもとより、ヤコブにとってもたいへん悲劇的な別れとなってしまいました。
ところが、この出来事は、神さまの大きなヴィジョン・ご計画のうちにありました。神さまはヨセフに寄り添い続け、ヨセフも偶像崇拝の国エジプトにいながら、決して神さまを忘れませんでした。彼は奴隷から救い出され、苦労しつつも神さまに助けられてエジプトの大臣となりました。ヨセフは大臣としての立場で、主に導かれて食糧を蓄える政策を立て、それによってシリア地方から中東一帯がひどい飢饉に見舞われた時にエジプトは飢えることなく過ごせました。また、エジプトに食糧を買いに来たヤコブの息子たちも、後にはヤコブも、ヨセフとの再会を果たすことができました。
人間の勝手な願いや自己中心的な思いによって、人と人とは時に憎み合って敵対し、全員が傷つき悲しむ事態を招いてしまいます。神さまが祝福を約束してくださり、恵みの契約を結んでいてくださっても、神さまを見ることのできない人間は神さまを忘れ、契約を信じることができません。神さまが約束を果たしてくださる恵みの時を待ちきれずに、罪を犯してしまうのです。
人と人とは憎み合いますが、神さまはどれほど私たち人間が神さまに背いても、今日のステファノの説教にあるように、アブラハムからヨセフにいたるまで、四代にわたり人間を憎まず、耐え忍んでくださいました。人間が信仰を保てず、神さまを信じきれず、どうしても罪を犯すので、とうとう神さまは大切な御子イエス様として、見える姿で私たちの間においでくださいました。イエス様は私たちの罪を、私たちの代わりにすべて背負って十字架で肉を裂かれ、血を流し、命を捨ててくださいました。
ステファノはその恵みに生きる決意をもって、イエス様の教会に加わったのです。その初代教会で行われていたように、今日はこれから十字架の上で裂かれたイエス様の肉なるパン、十字架で流されたイエス様の血潮なる杯に与る聖餐式を執り行います。
行く手に暗闇しか見えないように思える時も、深い悲しみに沈む時も、私たちが導かれる先には神さまの恵みの約束が待っていることを心にしっかりと留めて、この新しい一週間を、心を高く上げて進み行きましょう。
2025年11月2日
説教題:やすらぎに満たされて
聖 書:詩編23編1~6節、ヨハネの黙示録7章13~17節
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」
(ヨハネの黙示録7:14b)
本日の主日礼拝は、召天者記念礼拝としてささげています。会堂に先に召された方々のお写真を置き、お名前のリストを手元に置き、また何よりも召された方々のご家族様をお招きして共に主を仰ぎます。
今日、特に深く心に留めておきたい主の真理があります。それは、聖書を信じ、父・子・聖霊の三つにして一人の神さまを信じる者は永遠の命を生きるという恵みの真理です。
亡くなられた方々の姿を私たちは見ることができず、そのお声を聞くこともできず、今ご一緒しているご家族も、私たち教会の者も、確かにそれを寂しく悲しく思います。亡くなられた方は、もう私たちの手の届かないはるか遠くに消えて、完全に失われてしまったようにさえ感じます。
しかし、真理の書である私たちの聖書には、そう記されてはおりません。聖書に記されているのは、亡くなられた方々が姿は見えないけれど、私たちと共にいることです。生きていても、亡くなったとしても、神さまに造られた私たち人間は、神さまのもので、神さまは永遠だと記されています。神さまに愛され、聖書を信じ、教会に連なる者は皆、生き死にに関わらず、死を超えて共にいます。みんな、神さまと共に永遠に生きるのです。それを、聖書は繰り返し、繰り返し記しています。
まず、今日の旧約聖書の詩編の言葉に記されています。ここでは、神さまを羊飼いに、私たち人間を、その羊飼いに養われる羊の群れにたとえています。
ユダヤの人々にとって、羊は実に身近な家畜でした。今から8千年から7千年ほど昔、古代メソポタミアで、羊は人間に飼われるようになりました。メソポタミアと言えば、場所は現在のイラク、シリアから地中海地方にまでおよび、聖書の舞台となっている地域です。今日の聖書箇所に限らず、聖書で人間をたとえる動物として羊がしばしば用いられるのは、羊と、神さまの御前での人間に大きな共通点があったからです。
家畜として飼いならされた羊は、保護してくれる飼い主がいなければ厳しい自然の中で生きてゆくことができない、実に弱い生き物です。餌も、清潔な水も、自分で探すことができません。野獣に襲われても、身を守る牙も、鋭い爪も、角もなく、逃げようとしても足が遅いという点が、人間に似ています。また、羊は群れで生きる動物で、群れからはぐれて迷子の羊になってしまうと、その心細さと寂しさだけで生きる力を失うと言われています。神さまがおられなければ、生きてゆけない私たちに、よく似ています。社会の中で生きるように造られている私たちの姿と、群れで生きる羊の姿を重ね合わせることができます。
今日の御言葉を与えられている詩編23編は、こう謳い始めます。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」神さまが私の羊飼いでいでくださるのだから、私は完全に満ち足りて、何の不満も不足もない ― しあわせで、安心していられるという喜びの言葉です。
次に、具体的に羊飼いである神さまが、私に何をなさってくださるのかが語られます。神さまはわたしたちを緑豊かな草原に導いておなかいっぱい、美味しい草を食べさせてくださいます。また、水源に乏しい砂漠地帯にありながら、きれいな水が湧き出る泉・オアシスのほとりに連れて行ってくださいます。栄養満点の食事と水で、身も心も、魂も、私たちは主に導かれてすっかりリフレッシュできます。3節に「魂を生き返らせてくださる」と謳われているのは、その恵みです。
神さまは私たちの必要を満たすだけではなく、私たちを成長させて良い者に育ててくださいます。4節で「正しい道」と語られている言葉は、その導きをさしています。
神さまは必ず私たちに寄り添い、共に歩んでくださいます。「あなたがわたしと共にいてくださる」 ― こう、御言葉には何とはっきりと語られていることでしょう。
私たちが一人でいるのが最も恐ろしく思える時 ― それは、たとえば、命の終わりの時ではないでしょうか。なぜ恐ろしく感じるかと申せば、神さまを知らずに命の終わりを迎えて、再び命を取り戻し、死んだらこんな感じだったとか、あんな感じだったとか、知らせてくれた人は歴史上、誰一人としていないからです。
五十年ほど前に、臨死体験が世間の話題となったことがありました。臨死体験とは、あくまでも、生命体が終わる間際に近いところまで行ったと思われる方々が、その経験を伝えているだけで、本当に死んでしまったわけではありません。私たちは、得体のしれないもの・理解を超えるもの・なんだかわからないものを恐ろしいと感じます。死ぬとはどういうことかわからないから、神さまを知らない方々は死を恐れるのです。
しかし、神さまは、その「死の陰の谷を行くときも」、私たちに寄り添い、私たちの手を取り、時には私たちを抱き、背負って進んでくださいます。「死の陰の谷」を、たとえ・比喩表現ととらえて、恐ろしい災いや苦難と考えてもよいでしょう。
苦難の時も、神さまは私たちのかたわらにしっかりと寄り添ってくださり、私たちを守り通してくださいます。4節の後半には、こう記されています。ここで「あなた」と呼びかけられているのは「主、神さま」です。神さまである羊飼いは、羊が持っていない道具をお持ちです。神さまが私たち人間には行うことができない奇跡のみわざを行われることが、ここに示されています。
4節後半は、こう語ります。「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」鞭と杖を、羊飼いは羊を野獣から守るために使います。羊と同じように牙や爪、角といった武器を持たない私たちに代わって、神さまはご自身の御力を鞭、杖として用い、私たちを襲う野獣 ― 悪や苦難、悲しみや災い ― から守ってくださいます。
さらに、5節は語ります。「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。」苦難の中にいても、神さまは私たちを支え、必要なもので満たしてくださいます。
食卓とは、仲直りのしるし・和解のしるしです。私たちを苦しめる者を私たち自身は「敵」と呼んでしまいますが、神さまは、その敵と私たちの間に仲直りの食卓を準備されます。
憎しみは、私たちの魂を傷つけ、私たちの心をさいなみ、私たちを苦しめます。今も、世界のところどころで続いている戦争が、多くの人を苦しめているのは、そこに競い合い、奪い合い、憎しみ合う敵対関係があるからです。平和が、ないからです。
イエス様は、私たちのすべての憎しみの心・罪をご自身の身にすべて負い、十字架でその罪もろともに地上の命を終えられました。それは、三日後のご復活によって憎しみも罪も、悲しみも、何の不足も欠けもない完全な世・平和な世へと私たちを導かれるとの約束を賜るためでした。聖書は、それを永遠の命の約束と呼びます。また、それを「救い」と呼ぶのです。
私たちは「この世」という限界のある次元に生きています。その私たちを無限・永遠とつなげてくださるのが、神さまです。私たちがただ、ひとすじに神さまに愛されていると信じる、その信仰を通して、神さまは私たちに永遠の命を賜ります。
詩編23編の最後の聖句・6節が語る「命のある限り」とは、「永遠」をさすのです。
どうして、神さまは、はかなく弱い私たちを生かし続け、恵みを注ぎ続けてくださるのでしょう。それは、私たちの命が元々、神さまからのものだからです。天地を造られた神さまは、私たち一人一人をも、深く愛して造ってくださいました。主を信じる信仰に生き、教会に生きるクリスチャンは、神さまの愛を通して、この真実を魂で知っています。限りのあるこの世に生きながら、同時に神さまの御国の永遠を生き続けるのです。そして、この世での生命体としての地上の命の終わりには、完全に神さまの御許・御国で生きるようになります。もう、この世の欠け・罪・悪・病や死にいっさい苦しめられ、悲しむことなく、主と共に永遠に歩みます。それを、詩編23編6節は「主の家にわたしは帰る」と告げています。
そして、生涯 ― 繰り返しになりますが、クリスチャンにとっての生涯は、主と共に生きる永遠です ― 、主の御許でやすらいで幸いに生きるのです。
先に天に召された方々、今日、私たちがその面影をしのんでいる方々は皆、今、そうして永遠を生きておられます。
その真理が、特に明確に書かれているのが、今日の聖書箇所をいただいている書 ― 「ヨハネの黙示録」です。「ヨハネの黙示録」は、これを書いた人がこの世が終わる時のありさまを神さまに見せていただき、自分が見たままを書いた書だと言われています。
「この世が終わる」と申しますと、たいへんおそろしく、まがまがしいことのように感じますが、実はクリスチャンにとっては大きな恵みの時です。十字架の出来事とご復活の後に天に昇られたイエス様が、もう一度、この世に戻ってくださる時だからです。その時、この世は完全なやすらぎと平和の神さまの国・御国とひとつになります。
「この世の終わり」とは、この世が消えて無になる時ではなく、ずっと良い世界・御国と一つになって御国と同じになることをさします。その様子が、今日の16節に記されています。16節をお読みします。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。」「彼ら」とは、御国にいる「白い衣を着た者たち」です。その「白い衣」とは、14節の後半にあるように「大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白く」された者の「衣」です。
「小羊の血で洗って白く」とは、神さまの小羊である御子イエス様が、十字架で流してくださった血によって罪と汚れを洗い流され、まったくきれいに、完全に白く、完全に清くなったことをさします。
聖書の語る「罪」は、「犯罪」「悪行」「悪い行い」をさすだけではありません。私たちが抱く良くない感情 ― 憎しみやねたみ、誰かを嫌いになることや、恨むこと、その他すべての自分と自分の味方だけを守り、関係ないと思う人は切り捨てるという思い ― 、そうしたすべてのネガティブな感情と考えを「罪」と言います。そして、私たちは自分自身でも感情や、湧きあがる考えを消し去ることができません。私たち人間は自分でもいやだと思うその感情・考え・「罪」を、どうすることもできない無力な者です。
イエス様は、その私たちの罪を、私たちに代わってすべて背負って、十字架で命を捨ててくださいました。ご自分の人間としての命に罪を背負わせ、もろともに無くしてくださったのです。
それによって、私たちはありのままの姿で「良い者」になります。神の子、神さまの家族に加えられます。私たちは、イエス様が尊い犠牲となってくださったその出来事を信じる時に、洗礼を受ける決心をいたします。
イエス様が実は神さまの御子・神の子だったことは、イエス様が亡くなられて三日目の復活・死からのよみがえりで明らかとされました。その事実を知り、よみがえられたイエス様に従って、御言葉に聴きつつ、クリスチャンとして生きる決心をして洗礼を受けるのです。
洗礼とは、この世にありながら、同時に御国に生きる者として「白い衣」を着せかけていただくことです。その瞬間から、私たちは一人ではなく、神さまに寄り添われ、神さまの家族・教会の兄弟姉妹と共に歩み始めます。
神さまは、私たちの喜びも悲しみも知り尽くされ、共に苦難に向き合い、共に笑い、つらい時には慰めてくださいます。喜びも悲しみも、教会の兄弟姉妹と共に分かち合います。喜びは増し、悲しみは分けられて少しずつになるでしょう。
先に天に召された方々は、その恵みを知り尽くし、肉体の死の先に「飢えることも渇くこともない」御国の幸いと平安が待っていると信じておられました。私たちは今、御言葉を通して、その希望をあらためて深く心に留めようとしています。
愛する方を失われ、嘆きのうちにおられる方・今もなお続く喪失感の内におられる方がここにおいでだと思います。しかし、今日の御言葉は悲しみに暮れる私たちに、こう語ります。17節をお読みします。「神が彼らの目から涙をことごとく、ぬぐわれるからである。」
決して嘆くこと、泣くことのない日が来ます。その時こそが、イエス様がもう一度おいでになる時、この世が完全に「白い衣」を着せかけていただき、清められて御国となる時です。その希望 ― 永遠を生きる勇気を賜り、今日からの日々をイエス様に力づけられ、心を高く上げて進み行きましょう。
※10月26日は、原田裕子牧師が日本基督教団越谷教会の特別伝道礼拝説教奉仕で不在にて、井上馨牧師が薬円台教会の主日礼拝説教奉仕をささげられたため、HPに主日礼拝説教を掲載しません。
※10月19日は、信徒伝道週間をおぼえて主日礼拝で信徒の証詞が語られたため、HPに主日礼拝説教を掲載しません。
2025年10月12日
説教題:恵みと力に満ちる者
聖 書:詩編37編1~6節、使徒言行録6章1~15節
一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、バルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
(使徒言行録6:5~6)
最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。
(使徒言行録6:15)
ご一緒に読み進んでいる使徒言行録の今日の聖書箇所には、二つの事柄が記されています。ひとつは1節から7節までです。初代教会に「日々の分配」(使徒言行録6:1)・「食事の世話をする」(使徒言行録6:2)奉仕の役割が生まれ、その奉仕者として7人が選ばれたことが書かれています。
もうひとつは、それに続く8節から15節の聖書箇所で、ここには「日々の分配」の奉仕者7人のうちの一人であるステファノが福音伝道の働きのために逮捕されたと述べられています。
さらっと読んでしまうと、どちらの出来事にもステファノが登場するという共通点があるだけで、異なる出来事のように思えます。
しかし、この二つの出来事を同時に、一回の礼拝の中で聴くのは実にたいせつなことです。神さまがイエス様を通して、私たち教会に与えておられる使命は何かを、あらためて考える機会を今、共にいただいています。私たちが何を喜びとし、今こうして地上の命をいただいている生甲斐を実感しつつ教会生活を送るかが、ここに語られています。
さて、まずひとつめの出来事から御言葉に聴きましょう。今日の聖書箇所は、「そのころ、弟子の数が増えてきて」(使徒言行録6:1)と語り始められています。
「弟子」という言葉から、イエス様の十二人の弟子、そして使徒言行録ではまさに「使徒」と呼ばれているペトロたちをさすと思いがちです。ここで、ご復活のイエス様が天に昇られる時におっしゃった言葉を思い出しましょう。マタイによる福音書28章19節の御言葉です。お読みします。「…あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」「すべての民をわたしの(イエス様の)弟子にしなさい」とイエス様はおっしゃいました。直接、弟子になるようにと声をかけたペトロやアンデレ、ヨハネやヤコブたち十二人の弟子ではなく、「すべての民」です。その意味での「弟子」の数が急速に増えたことが、今日の聖書箇所の冒頭に記されているのです。イエス様の十字架の出来事で救われ、ご復活によって永遠の命の約束を信じて洗礼を受ける者が続出して、教会は大きく成長しています。
その成長発展を、祭司長や長老たちといったユダヤ社会の権力者がねたみ、憎んでペトロとヨハネを逮捕して鞭打ち、使徒たちを迫害していました。迫害という苦難は、教会にとっては外からの圧力でした。
「外患内憂」という言葉があります。「外の患い・内なる憂い」と書きますが、迫害は外患、そして今日の聖書箇所では教会の中での「内なる憂い」、もめごとが起きてしまったのです。教会がイエス様の御言葉に従って洗礼を受ける者・弟子たちをふやし、喜びと恵みにあふれているはずなのに、まさにその弟子の数がふえたことが、もめごとの火種になってしまいました。不完全なこの世にある限り、光には影が伴い、善きことには罪がからみつきます。喜び・恵み・幸いには、悲しみ・呪い・困難がつきものなのです。
使徒言行録の2章で、私たちは教会が持ち物を共有し、すべてを分かち合って共同生活をしていたと知らされました。その仲睦まじく、互いへの思いやりに満ちた教会の姿が、ユダヤの人々に感動を与えました。人々は、わけへだてなく人を愛されるイエス様の慈しみに与り、教会の仲間になりたい、神さまの家族になれればと願って、洗礼を受けて弟子になる者がふえたのです。
ところが、互いにわけへだてのないはずの教会が、二つに分かれてしまいました。ひとつのグループは「ギリシア語を話すユダヤ人」、もうひとつが「ヘブライ語を話すユダヤ人」でした。
ユダヤの国は歴史の中で何度もアッシリアやバビロニアなどの大国に攻め込まれ、一度は滅ぼされてバビロン捕囚により現在のイラクにあたる場所に強制連行されました。そこからユダヤに戻って来た者たちの子孫は、ユダヤ民族の本来の言葉であるヘブライ語(アラム語とも言われています)を母語としていました。
一方、バビロンからさらにいろいろな土地に散らされて、地中海地方一帯で商業の言語として共通に用いられていたギリシア語を母語とするユダヤ人の子孫たちで、ユダヤに戻っている者も少なからずいました。彼らも、洗礼を受けて教会の兄弟姉妹となっていました。
ヘブライ語を話すユダヤ人は、自分たちこそが生粋のユダヤ民族だと思い込んでいたかもしれません。彼らは、ユダヤ人でありながら、ユダヤの言葉を話せない「ギリシア語を話すユダヤ人」たちを無意識に差別していた可能性があります。
イエス様のもともとの弟子たち十二人(イスカリオテのユダが滅び、代わりにくじでマティアが立てられました・使徒言行録1:26)は、「ヘブライ語を話すユダヤ人」でした。彼らは、教会に新しく加わった者たちが持ち寄る物や献金を分配して、共同生活の営みを行っていました。また、礼拝や祈りの時に彼ら十二人はイエス様の証しを立てて福音を語り、また神殿の庭や町でも民衆に向けて伝道をしていました。教会が大きくなり、弟子の数がふえると、もともとの弟子たち十二人のしなければならないことは多くなる一方だったのです。
そんなてんてこ舞いの忙しさの中で、「ギリシア語を話すユダヤ人」から、自分たちの中で一番弱く貧しい立場にある「やもめ」 ― 夫に死なれた未亡人をさします ― が軽んじられている、十分に日々の食事の分配をされていないのでお腹を空かせていると苦情が出たのです。イエス様のもともとの弟子・使徒たちには、「こんな差別をして、それでもあんたたちはイエス様を直接知っている、イエス様の証し人なのか」と厳しい言葉が投げかけられたのかもしれません。教会の雰囲気が、とげとげしくなってゆく様子が思い浮かびます。
私たち人間が何事にも ― 時間的にも、肉体的にも ― 限界があり、不完全で欠け・罪のあるこの世に生きなければならないことを、この聖書箇所から思わされます。いくらがんばっても、自分の限界を越えるとどこかにほころびができてしまう、いっぱいいっぱいになってどこかでミスを犯してしまう私たち人間の無力さを、初代教会も経験したのです。
イエス様のもともとの弟子たち・十二人の使徒は、教会の全員・「弟子をすべて」(使徒言行録6:2)呼び集めてこう告げました。使徒言行録6章2節からお読みします。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」ギリシア語を話すユダヤ人グループの苦情に応じて、教会の誰もが満足するように心をこめて、教会に集まった食べ物や品物、献金を分けることに時間をさいていると、御言葉を語る福音宣教の時間がなくなってしまうと言ったのです。そして十二人は、弟子たちの中から七人の「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」を選ぶようにと提案しました。選ばれた七人に、日々の食事の分配などの教会の営みを任せたいと考えを話したのです。弟子たち全員・教会全体が、この提案に賛成しました。
すでにお気づきと思いますが、ここでイエス様の弟子たち・教会の兄弟姉妹が互いに「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」を選び合うことは、私たちキリストの教会で行われる教会総会の役員選挙として、今に引き継がれています。私たち薬円台教会も、毎年2月にこの選挙のために総会を開き、そこで役員が選ばれています。
選ばれた役員は、人間の思いや考えだけによるのではなく、私たちの間で働かれる聖霊・神さまの御心によって選ばれたのです。そして、御心によって立てられたことを、役員任職式で告げられます。こうして役員は、神さまの御前に誓約を立てて、「御言葉の奉仕者」(日本基督教団式文 正教師按手式の「勧告」より)として教会に仕える教師(牧師)と共に「主とその教会に仕え」(日本基督教団式文 役員任職式の「祈祷」より)ます。
ところで、こうして選ばれた七人は教会の日々の分配・食事の世話といった日常の事柄だけに専念したのでしょうか。いえ、違います。教会は大きなひとつの使命を与えられています。先ほどもお伝えしましたが、イエス様が天の父の右の座に昇って行かれる時に弟子たちに語った「すべての民をわたしの弟子にしなさい」が、その使命です。大宣教命令と呼ばれる教会のミッションです。イエス様の十字架の出来事で救われ、ご復活で永遠の命の約束をいただいている福音を伝えるこの使命は、教会にしかできないことです。
人間は誰しも衣食住の必要を満たされ、日常を生きなければなりませんが、教会はそれに加えて、この恵みの使命を生きてゆきます。宣教を使命として、福音を伝えることを喜びとして、日常を生きるのが私たち教会です。
この使命は、御言葉の奉仕者として立てられている教職・牧師だけでなく、すべての信仰者の使命であり、務めです。ですから、日々の分配・食事の世話、教会の営みを任された七人は、また御心によって立てられた私たち薬円台教会の役員さんたちは、証し人としてイエス様の福音を伝道します。
今日の聖書箇所の後半部分、8節から15節にかけては七人のひとり、ステファノが聖霊に満たされ、福音に反論しようとする者たちと議論して、実に力強く論破したことが記されています。そのためにステファノは敵対する者たちから憎まれ、偽の証言をする者によって訴訟を起こされ、逮捕されてしまいました。迫害を受けたのです。
ペトロとヨハネのように、彼は最高法院の裁きの座に着かされました。ステファノは、自分は本来、御言葉の奉仕者ではない、イエス様と言葉を交わし、共に過ごしたイエス様の直接の弟子ではないと言い、教会の日々の分配をする役目の者だと言い張って、逮捕から免れようとしたでしょうか。いいえ、今日の聖書箇所の最後の聖句・15節にはこう記されています。お読みします。「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」ここで「天使の顔のように見えた」とは、もちろん、エンジェルのように可愛らしかったという意味ではありません。ステファノの顔はこの時、神さまからの使いの者・使者のように主のご栄光をあらわして輝いていたのです。
十字架に架けられる前のイエス様を知っていたもとからの弟子も、初代教会の伝道によって弟子として加えられた者も、皆ひとしくイエス様の福音を伝える神の子なのです。それは、今、この礼拝に集められている私たちも同じです。
イエス様は、ヨハネによる福音書15章5節でこうおっしゃいました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」私たちはイエス様を木の幹として、その同じ幹からそれぞれ生え出て伸びて行く枝です。長さや太さ、茂る葉の数や実のなり方が異なっても、イエス様の慈しみに養われ、その喜びに輝いて御国に向かって成長します。それぞれの役割を果たしながら、主に導かれて一本の木、一つの体、イエス様の体である教会を形づくり、永遠の命を生きて行きます。今日から始まる新しい一週間も、主から使命をいただいて歩む喜びを胸に、イエス様の弟子として力強く進み行きましょう。
2025年10月5日
説教題:主のご計画は必ず続く
聖 書:詩編33編1~11節、使徒言行録5章33~42節
「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」
(使徒言行録5:38~39)
今日も使徒言行録から、ご一緒に初代教会の営みと、教会が受けた試練を御言葉に聴いてまいりましょう。この礼拝に与えられている聖書箇所 使徒言行録5章33節には、このような激しい表現が記されています。お読みします。「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。」ここにある「これ」という言葉は、ペトロが語った救いの福音です。司式者がお読みくださった今日の聖書箇所の直前にある29節から32節にわたる御言葉です。イスラエル、ユダヤの人々はイエス様を十字架につけて死刑にしてしまいましたが、それはイエス様が私たち人間のすべての罪を背負って地上のお命を犠牲とされ、私たちを罪から救ってくださるためでした。罪からの解放、救いのみわざが私たち人間に明らかに示されたのが、イエス様のご復活でした。ペトロは神さまに導かれ、聖霊に満たされて、この救いの福音を語らずにはいられないと力強く語りました。
ペトロはこの時、ユダヤのサンヘドリン・最高院と呼ばれる、ユダヤ社会の最高裁にあたるところに引き出されていました。そこに居並んでいたのは、ユダヤ社会で最も権威を持つ議員たちでした。祭司長や長老、また律法学者の中でも特に学識が豊かだと評判の高い人々です。何度も繰り返しお伝えしていることですが、彼らは権威をもつがゆえに、傲慢な思いを抱いていました。自分では傲慢だと気付いていなかったかもしれませんが、自分たちよりもイエス様の弟子たち・使徒たちが民衆に愛され、尊敬されていることに我慢がならなかったのです。
また、彼らには、ペトロが伝える救いの福音が、イエス様を十字架に架けたと自分たちを批判・糾弾する攻撃的な言葉にしか聞こえませんでした。そのため、彼らは使徒たちを殺してしまおう、福音を伝える者たちを皆殺しにして、初代教会を絶滅させようと考えたのです。イエス様が民衆に愛された時も、そして、イエス様の弟子・使徒たちの人気が高まったこの時も、彼らの考えることは同じでした。気に入らない者を敵とみなして、抹殺するのです。
ところがこの時、最高院の一人の発言が、いきりたった議員たちの心を静めました。この一人は、ファリサイ派の律法学者でガマリエルという人物でした。ペトロたちが目の前にいると、議員たちが冷静ではいられないと感じたガマリエルは、34節にあるように、使徒たちを議場からいったん退場させました。そして、議員たちに35節の言葉を述べたのです。
ガマリエルは、こう言いました。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。」(使徒言行録5:35)続いて、ガマリエルは、その頃のユダヤで起こった二つの事件を議員たちに思い起こさせました。二つとも、ローマ帝国に支配されたユダヤの民が、その閉塞感から逃れたいがために起こった出来事のようです。
ひとつはテウダという人物が、もうひとつはガリラヤのユダが民衆を率いて反乱を起こしました。ローマ帝国への反乱、また宗主国ローマのご機嫌取りをするしかない生き延びる道がないユダヤの指導者たち、具体的には最高院の議員たちへの反乱だったのでしょう。しかし、二つの事件のリーダーはいずれも殺され、従っていた民衆もちりぢりとなって運動が失敗に終わったとガマリエルは事実を議員たちに示しました。リーダーがいなくなった民衆運動が、力を失って消えてゆくのを自分たちは目の当たりにして来たと、彼は議員たちに話したのです。
このガマリエルの指摘で、議員たちはハッと気づかされました。議員たちが抹殺しようとしている初代教会は、イエス様というリーダーをすでに十字架で失っています。ペトロは、また他の使徒たちも、決して自分がリーダーだなどと言っていません。議員たちはペトロが語る言葉を救いの福音として受け取れてはいませんが、誰がどんな立場でどう聞いても、ペトロは自分のことではなく、自分を導いてくださったイエス様と、イエス様からいただいた恵みしか語ってはいないのです。
もうリーダーがいないのだから、二つの過去の民衆運動の騒動で指導者のテウダやガリラヤのユダがいなくなったら、従っていた者たちがちりぢりになって運動が消滅したように、初代教会も消えてゆくとガマリエルは主張したのです。そのうえで、ガマリエルは38節でこう彼らに勧めました。「あの者たち(イエス様の弟子たち・使徒たち)から手を引きなさい。ほうっておくがよい。」この言葉には、説得力がありました。
議員たちは、ああ、そうだった、あの者たちのリーダー・ナザレのイエスは十字架に架けられて、とっくにいなくなっているのだから、ガマリエルが言うように、何もしなくても消えて行く者たちだと思わされたのです。
彼らはわかっていませんでしたが、実はイエス様は復活されて、生き続けておられます。使徒たちは、それをしっかりと受けとめ、聖霊として今も共においでくださるイエス様に導かれて教会の営みを続けているのです。
さらに、ガマリエルは創造主なる神さまを信じる者として、議員たちにもうひとつ、大切なことを思い起こさせました。ガマリエルは、旧約聖書の律法を研究していた律法学者ですから、神さまが壮大なご計画をもって天地を創造され、そのご計画にもとづいてこの世が進められている事実をこう告げました。38節後半からお読みします。「あの(使徒たちの)計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」
最高院の議員たち ― 大祭司や長老たち ― は、必死に律法を守ろうとし、また民衆に律法を守らせようと目を光らせています。旧約聖書 ― イエス様がおいでになる前の神さまとユダヤの民の間の約束・契約には、神さまの律法を守るならば、神さまが民をご自分のものとして慈しみ、反映させてくださるという条件がついていたからです。律法を守らない者は、神さまに逆らう者・神さまに見捨てられて滅びる者、と律法学者として権威あるガマリエルに言われて、議員たちは初代教会の使徒たちを殺すことは断念しました。しかし、腹いせのように、使徒たちをその場に再び呼び入れて鞭で打ち、40節にあるように、「イエスの名によって話してはならない」とまた念を押して釈放しました。
ガマリエルが語った言葉は、彼自身が意識していたかどうかは別として、まさに神さまのご計画のうちに導かれた事実でした。初代教会は、神さまから出たものそのものです。そして、人間には誰も、神さまから出たものを滅ぼすことはできません。鞭打たれ、さらに伝道を禁じられても、他の人間による束縛から解放されたこと自体が、ペトロたち初代教会にとっては喜びでした。41節に記されているように、ペトロたちは、自分たちの名ではなく、イエス様の名のゆえに捕らえられ、鞭打たれるという屈辱を受けたことさえ、喜んだのです。
議員たちは、ガマリエルが指摘したテウダやガリラヤのユダの民衆運動と、初代教会が根本から違うことがわかっていませんでした。人間による民衆活動と、教会の営み・働きの違いを、私たちも今日、心に深く留めておかなければなりません。その違いは、今日の聖書箇所の言葉を用いれば、教会が「神から出たもの」であること、神さまのお働きであることです。
「神から出たもの」であるからこそ、教会は人間ではなく、主なる神さまだけを導き手・リーダーとして仰ぎます。当然のことですが、教会の働きの中心は礼拝を通して御言葉を告げる宣教です。人間のわざである平和活動や福祉事業では、けっして、けっしてありません。「神中心、礼拝中心」は、私たち薬円台教会に与えられている宣教基本方針ですが、すべてのキリストの教会の2000年に及ぶ基本方針であり、これを踏み外すと、教会は教会ではなくなります。
今私たちは、使徒言行録を通して使徒たちの働きを伝えられていますが、そのすべてを導いてくださったのはイエス様です。そして、いっさいは天の父なる神さまのご計画のうちにあります。全能の神さまの御手のうちに抱かれているからこそ、私たちには真のやすらぎと、ご計画の先に準備されている恵み・永遠の命への希望があります。
そのやすらぎを与えてくださるために、イエス様はご自身の地上の命を犠牲にして、十字架に架かられました。三日後によみがえられて、永遠の命の約束を示してくださったのです。
今日の聖書箇所の最後の聖句、使徒言行録42節にはこう記されています。お読みします。(使徒たちは)「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・(救い主)イエスについて福音を告げ知らせていた。」この聖句は過去形で記されていますが、現在進行形の事柄として聴きたい事柄です。
今この薬円台教会の、また全世界のキリストの教会で、救い主イエス様の福音の恵みが喜びをもって語られています。私たちは今、その恵みで満たされて、会堂から出発して世へ遣わされてゆきます。
「恵みで満たされる」とは、言い換えれば「大丈夫、どんな時も、この私のために命さえも捨ててくださるほどに私を慈しんでくださるイエス様が、すぐ隣においでくださる」ということです。今日から始まる新しい一週間を、その限りないやすらぎを胸に、安心して進み行きましょう。