2025年10月12日
説教題:恵みと力に満ちる者
聖 書:詩編37編1~6節、使徒言行録6章1~15節
一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、バルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
(使徒言行録6:5~6)
最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。
(使徒言行録6:15)
ご一緒に読み進んでいる使徒言行録の今日の聖書箇所には、二つの事柄が記されています。ひとつは1節から7節までです。初代教会に「日々の分配」(使徒言行録6:1)・「食事の世話をする」(使徒言行録6:2)奉仕の役割が生まれ、その奉仕者として7人が選ばれたことが書かれています。
もうひとつは、それに続く8節から15節の聖書箇所で、ここには「日々の分配」の奉仕者7人のうちの一人であるステファノが福音伝道の働きのために逮捕されたと述べられています。
さらっと読んでしまうと、どちらの出来事にもステファノが登場するという共通点があるだけで、異なる出来事のように思えます。
しかし、この二つの出来事を同時に、一回の礼拝の中で聴くのは実にたいせつなことです。神さまがイエス様を通して、私たち教会に与えておられる使命は何かを、あらためて考える機会を今、共にいただいています。私たちが何を喜びとし、今こうして地上の命をいただいている生甲斐を実感しつつ教会生活を送るかが、ここに語られています。
さて、まずひとつめの出来事から御言葉に聴きましょう。今日の聖書箇所は、「そのころ、弟子の数が増えてきて」(使徒言行録6:1)と語り始められています。
「弟子」という言葉から、イエス様の十二人の弟子、そして使徒言行録ではまさに「使徒」と呼ばれているペトロたちをさすと思いがちです。ここで、ご復活のイエス様が天に昇られる時におっしゃった言葉を思い出しましょう。マタイによる福音書28章19節の御言葉です。お読みします。「…あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」「すべての民をわたしの(イエス様の)弟子にしなさい」とイエス様はおっしゃいました。直接、弟子になるようにと声をかけたペトロやアンデレ、ヨハネやヤコブたち十二人の弟子ではなく、「すべての民」です。その意味での「弟子」の数が急速に増えたことが、今日の聖書箇所の冒頭に記されているのです。イエス様の十字架の出来事で救われ、ご復活によって永遠の命の約束を信じて洗礼を受ける者が続出して、教会は大きく成長しています。
その成長発展を、祭司長や長老たちといったユダヤ社会の権力者がねたみ、憎んでペトロとヨハネを逮捕して鞭打ち、使徒たちを迫害していました。迫害という苦難は、教会にとっては外からの圧力でした。
「外患内憂」という言葉があります。「外の患い・内なる憂い」と書きますが、迫害は外患、そして今日の聖書箇所では教会の中での「内なる憂い」、もめごとが起きてしまったのです。教会がイエス様の御言葉に従って洗礼を受ける者・弟子たちをふやし、喜びと恵みにあふれているはずなのに、まさにその弟子の数がふえたことが、もめごとの火種になってしまいました。不完全なこの世にある限り、光には影が伴い、善きことには罪がからみつきます。喜び・恵み・幸いには、悲しみ・呪い・困難がつきものなのです。
使徒言行録の2章で、私たちは教会が持ち物を共有し、すべてを分かち合って共同生活をしていたと知らされました。その仲睦まじく、互いへの思いやりに満ちた教会の姿が、ユダヤの人々に感動を与えました。人々は、わけへだてなく人を愛されるイエス様の慈しみに与り、教会の仲間になりたい、神さまの家族になれればと願って、洗礼を受けて弟子になる者がふえたのです。
ところが、互いにわけへだてのないはずの教会が、二つに分かれてしまいました。ひとつのグループは「ギリシア語を話すユダヤ人」、もうひとつが「ヘブライ語を話すユダヤ人」でした。
ユダヤの国は歴史の中で何度もアッシリアやバビロニアなどの大国に攻め込まれ、一度は滅ぼされてバビロン捕囚により現在のイラクにあたる場所に強制連行されました。そこからユダヤに戻って来た者たちの子孫は、ユダヤ民族の本来の言葉であるヘブライ語(アラム語とも言われています)を母語としていました。
一方、バビロンからさらにいろいろな土地に散らされて、地中海地方一帯で商業の言語として共通に用いられていたギリシア語を母語とするユダヤ人の子孫たちで、ユダヤに戻っている者も少なからずいました。彼らも、洗礼を受けて教会の兄弟姉妹となっていました。
ヘブライ語を話すユダヤ人は、自分たちこそが生粋のユダヤ民族だと思い込んでいたかもしれません。彼らは、ユダヤ人でありながら、ユダヤの言葉を話せない「ギリシア語を話すユダヤ人」たちを無意識に差別していた可能性があります。
イエス様のもともとの弟子たち十二人(イスカリオテのユダが滅び、代わりにくじでマティアが立てられました・使徒言行録1:26)は、「ヘブライ語を話すユダヤ人」でした。彼らは、教会に新しく加わった者たちが持ち寄る物や献金を分配して、共同生活の営みを行っていました。また、礼拝や祈りの時に彼ら十二人はイエス様の証しを立てて福音を語り、また神殿の庭や町でも民衆に向けて伝道をしていました。教会が大きくなり、弟子の数がふえると、もともとの弟子たち十二人のしなければならないことは多くなる一方だったのです。
そんなてんてこ舞いの忙しさの中で、「ギリシア語を話すユダヤ人」から、自分たちの中で一番弱く貧しい立場にある「やもめ」 ― 夫に死なれた未亡人をさします ― が軽んじられている、十分に日々の食事の分配をされていないのでお腹を空かせていると苦情が出たのです。イエス様のもともとの弟子・使徒たちには、「こんな差別をして、それでもあんたたちはイエス様を直接知っている、イエス様の証し人なのか」と厳しい言葉が投げかけられたのかもしれません。教会の雰囲気が、とげとげしくなってゆく様子が思い浮かびます。
私たち人間が何事にも ― 時間的にも、肉体的にも ― 限界があり、不完全で欠け・罪のあるこの世に生きなければならないことを、この聖書箇所から思わされます。いくらがんばっても、自分の限界を越えるとどこかにほころびができてしまう、いっぱいいっぱいになってどこかでミスを犯してしまう私たち人間の無力さを、初代教会も経験したのです。
イエス様のもともとの弟子たち・十二人の使徒は、教会の全員・「弟子をすべて」(使徒言行録6:2)呼び集めてこう告げました。使徒言行録6章2節からお読みします。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」ギリシア語を話すユダヤ人グループの苦情に応じて、教会の誰もが満足するように心をこめて、教会に集まった食べ物や品物、献金を分けることに時間をさいていると、御言葉を語る福音宣教の時間がなくなってしまうと言ったのです。そして十二人は、弟子たちの中から七人の「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」を選ぶようにと提案しました。選ばれた七人に、日々の食事の分配などの教会の営みを任せたいと考えを話したのです。弟子たち全員・教会全体が、この提案に賛成しました。
すでにお気づきと思いますが、ここでイエス様の弟子たち・教会の兄弟姉妹が互いに「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」を選び合うことは、私たちキリストの教会で行われる教会総会の役員選挙として、今に引き継がれています。私たち薬円台教会も、毎年2月にこの選挙のために総会を開き、そこで役員が選ばれています。
選ばれた役員は、人間の思いや考えだけによるのではなく、私たちの間で働かれる聖霊・神さまの御心によって選ばれたのです。そして、御心によって立てられたことを、役員任職式で告げられます。こうして役員は、神さまの御前に誓約を立てて、「御言葉の奉仕者」(日本基督教団式文 正教師按手式の「勧告」より)として教会に仕える教師(牧師)と共に「主とその教会に仕え」(日本基督教団式文 役員任職式の「祈祷」より)ます。
ところで、こうして選ばれた七人は教会の日々の分配・食事の世話といった日常の事柄だけに専念したのでしょうか。いえ、違います。教会は大きなひとつの使命を与えられています。先ほどもお伝えしましたが、イエス様が天の父の右の座に昇って行かれる時に弟子たちに語った「すべての民をわたしの弟子にしなさい」が、その使命です。大宣教命令と呼ばれる教会のミッションです。イエス様の十字架の出来事で救われ、ご復活で永遠の命の約束をいただいている福音を伝えるこの使命は、教会にしかできないことです。
人間は誰しも衣食住の必要を満たされ、日常を生きなければなりませんが、教会はそれに加えて、この恵みの使命を生きてゆきます。宣教を使命として、福音を伝えることを喜びとして、日常を生きるのが私たち教会です。
この使命は、御言葉の奉仕者として立てられている教職・牧師だけでなく、すべての信仰者の使命であり、務めです。ですから、日々の分配・食事の世話、教会の営みを任された七人は、また御心によって立てられた私たち薬円台教会の役員さんたちは、証し人としてイエス様の福音を伝道します。
今日の聖書箇所の後半部分、8節から15節にかけては七人のひとり、ステファノが聖霊に満たされ、福音に反論しようとする者たちと議論して、実に力強く論破したことが記されています。そのためにステファノは敵対する者たちから憎まれ、偽の証言をする者によって訴訟を起こされ、逮捕されてしまいました。迫害を受けたのです。
ペトロとヨハネのように、彼は最高法院の裁きの座に着かされました。ステファノは、自分は本来、御言葉の奉仕者ではない、イエス様と言葉を交わし、共に過ごしたイエス様の直接の弟子ではないと言い、教会の日々の分配をする役目の者だと言い張って、逮捕から免れようとしたでしょうか。いいえ、今日の聖書箇所の最後の聖句・15節にはこう記されています。お読みします。「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」ここで「天使の顔のように見えた」とは、もちろん、エンジェルのように可愛らしかったという意味ではありません。ステファノの顔はこの時、神さまからの使いの者・使者のように主のご栄光をあらわして輝いていたのです。
十字架に架けられる前のイエス様を知っていたもとからの弟子も、初代教会の伝道によって弟子として加えられた者も、皆ひとしくイエス様の福音を伝える神の子なのです。それは、今、この礼拝に集められている私たちも同じです。
イエス様は、ヨハネによる福音書15章5節でこうおっしゃいました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」私たちはイエス様を木の幹として、その同じ幹からそれぞれ生え出て伸びて行く枝です。長さや太さ、茂る葉の数や実のなり方が異なっても、イエス様の慈しみに養われ、その喜びに輝いて御国に向かって成長します。それぞれの役割を果たしながら、主に導かれて一本の木、一つの体、イエス様の体である教会を形づくり、永遠の命を生きて行きます。今日から始まる新しい一週間も、主から使命をいただいて歩む喜びを胸に、イエス様の弟子として力強く進み行きましょう。
2025年10月5日
説教題:主のご計画は必ず続く
聖 書:詩編33編1~11節、使徒言行録5章33~42節
「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」
(使徒言行録5:38~39)
今日も使徒言行録から、ご一緒に初代教会の営みと、教会が受けた試練を御言葉に聴いてまいりましょう。この礼拝に与えられている聖書箇所 使徒言行録5章33節には、このような激しい表現が記されています。お読みします。「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。」ここにある「これ」という言葉は、ペトロが語った救いの福音です。司式者がお読みくださった今日の聖書箇所の直前にある29節から32節にわたる御言葉です。イスラエル、ユダヤの人々はイエス様を十字架につけて死刑にしてしまいましたが、それはイエス様が私たち人間のすべての罪を背負って地上のお命を犠牲とされ、私たちを罪から救ってくださるためでした。罪からの解放、救いのみわざが私たち人間に明らかに示されたのが、イエス様のご復活でした。ペトロは神さまに導かれ、聖霊に満たされて、この救いの福音を語らずにはいられないと力強く語りました。
ペトロはこの時、ユダヤのサンヘドリン・最高院と呼ばれる、ユダヤ社会の最高裁にあたるところに引き出されていました。そこに居並んでいたのは、ユダヤ社会で最も権威を持つ議員たちでした。祭司長や長老、また律法学者の中でも特に学識が豊かだと評判の高い人々です。何度も繰り返しお伝えしていることですが、彼らは権威をもつがゆえに、傲慢な思いを抱いていました。自分では傲慢だと気付いていなかったかもしれませんが、自分たちよりもイエス様の弟子たち・使徒たちが民衆に愛され、尊敬されていることに我慢がならなかったのです。
また、彼らには、ペトロが伝える救いの福音が、イエス様を十字架に架けたと自分たちを批判・糾弾する攻撃的な言葉にしか聞こえませんでした。そのため、彼らは使徒たちを殺してしまおう、福音を伝える者たちを皆殺しにして、初代教会を絶滅させようと考えたのです。イエス様が民衆に愛された時も、そして、イエス様の弟子・使徒たちの人気が高まったこの時も、彼らの考えることは同じでした。気に入らない者を敵とみなして、抹殺するのです。
ところがこの時、最高院の一人の発言が、いきりたった議員たちの心を静めました。この一人は、ファリサイ派の律法学者でガマリエルという人物でした。ペトロたちが目の前にいると、議員たちが冷静ではいられないと感じたガマリエルは、34節にあるように、使徒たちを議場からいったん退場させました。そして、議員たちに35節の言葉を述べたのです。
ガマリエルは、こう言いました。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。」(使徒言行録5:35)続いて、ガマリエルは、その頃のユダヤで起こった二つの事件を議員たちに思い起こさせました。二つとも、ローマ帝国に支配されたユダヤの民が、その閉塞感から逃れたいがために起こった出来事のようです。
ひとつはテウダという人物が、もうひとつはガリラヤのユダが民衆を率いて反乱を起こしました。ローマ帝国への反乱、また宗主国ローマのご機嫌取りをするしかない生き延びる道がないユダヤの指導者たち、具体的には最高院の議員たちへの反乱だったのでしょう。しかし、二つの事件のリーダーはいずれも殺され、従っていた民衆もちりぢりとなって運動が失敗に終わったとガマリエルは事実を議員たちに示しました。リーダーがいなくなった民衆運動が、力を失って消えてゆくのを自分たちは目の当たりにして来たと、彼は議員たちに話したのです。
このガマリエルの指摘で、議員たちはハッと気づかされました。議員たちが抹殺しようとしている初代教会は、イエス様というリーダーをすでに十字架で失っています。ペトロは、また他の使徒たちも、決して自分がリーダーだなどと言っていません。議員たちはペトロが語る言葉を救いの福音として受け取れてはいませんが、誰がどんな立場でどう聞いても、ペトロは自分のことではなく、自分を導いてくださったイエス様と、イエス様からいただいた恵みしか語ってはいないのです。
もうリーダーがいないのだから、二つの過去の民衆運動の騒動で指導者のテウダやガリラヤのユダがいなくなったら、従っていた者たちがちりぢりになって運動が消滅したように、初代教会も消えてゆくとガマリエルは主張したのです。そのうえで、ガマリエルは38節でこう彼らに勧めました。「あの者たち(イエス様の弟子たち・使徒たち)から手を引きなさい。ほうっておくがよい。」この言葉には、説得力がありました。
議員たちは、ああ、そうだった、あの者たちのリーダー・ナザレのイエスは十字架に架けられて、とっくにいなくなっているのだから、ガマリエルが言うように、何もしなくても消えて行く者たちだと思わされたのです。
彼らはわかっていませんでしたが、実はイエス様は復活されて、生き続けておられます。使徒たちは、それをしっかりと受けとめ、聖霊として今も共においでくださるイエス様に導かれて教会の営みを続けているのです。
さらに、ガマリエルは創造主なる神さまを信じる者として、議員たちにもうひとつ、大切なことを思い起こさせました。ガマリエルは、旧約聖書の律法を研究していた律法学者ですから、神さまが壮大なご計画をもって天地を創造され、そのご計画にもとづいてこの世が進められている事実をこう告げました。38節後半からお読みします。「あの(使徒たちの)計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」
最高院の議員たち ― 大祭司や長老たち ― は、必死に律法を守ろうとし、また民衆に律法を守らせようと目を光らせています。旧約聖書 ― イエス様がおいでになる前の神さまとユダヤの民の間の約束・契約には、神さまの律法を守るならば、神さまが民をご自分のものとして慈しみ、反映させてくださるという条件がついていたからです。律法を守らない者は、神さまに逆らう者・神さまに見捨てられて滅びる者、と律法学者として権威あるガマリエルに言われて、議員たちは初代教会の使徒たちを殺すことは断念しました。しかし、腹いせのように、使徒たちをその場に再び呼び入れて鞭で打ち、40節にあるように、「イエスの名によって話してはならない」とまた念を押して釈放しました。
ガマリエルが語った言葉は、彼自身が意識していたかどうかは別として、まさに神さまのご計画のうちに導かれた事実でした。初代教会は、神さまから出たものそのものです。そして、人間には誰も、神さまから出たものを滅ぼすことはできません。鞭打たれ、さらに伝道を禁じられても、他の人間による束縛から解放されたこと自体が、ペトロたち初代教会にとっては喜びでした。41節に記されているように、ペトロたちは、自分たちの名ではなく、イエス様の名のゆえに捕らえられ、鞭打たれるという屈辱を受けたことさえ、喜んだのです。
議員たちは、ガマリエルが指摘したテウダやガリラヤのユダの民衆運動と、初代教会が根本から違うことがわかっていませんでした。人間による民衆活動と、教会の営み・働きの違いを、私たちも今日、心に深く留めておかなければなりません。その違いは、今日の聖書箇所の言葉を用いれば、教会が「神から出たもの」であること、神さまのお働きであることです。
「神から出たもの」であるからこそ、教会は人間ではなく、主なる神さまだけを導き手・リーダーとして仰ぎます。当然のことですが、教会の働きの中心は礼拝を通して御言葉を告げる宣教です。人間のわざである平和活動や福祉事業では、けっして、けっしてありません。「神中心、礼拝中心」は、私たち薬円台教会に与えられている宣教基本方針ですが、すべてのキリストの教会の2000年に及ぶ基本方針であり、これを踏み外すと、教会は教会ではなくなります。
今私たちは、使徒言行録を通して使徒たちの働きを伝えられていますが、そのすべてを導いてくださったのはイエス様です。そして、いっさいは天の父なる神さまのご計画のうちにあります。全能の神さまの御手のうちに抱かれているからこそ、私たちには真のやすらぎと、ご計画の先に準備されている恵み・永遠の命への希望があります。
そのやすらぎを与えてくださるために、イエス様はご自身の地上の命を犠牲にして、十字架に架かられました。三日後によみがえられて、永遠の命の約束を示してくださったのです。
今日の聖書箇所の最後の聖句、使徒言行録42節にはこう記されています。お読みします。(使徒たちは)「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・(救い主)イエスについて福音を告げ知らせていた。」この聖句は過去形で記されていますが、現在進行形の事柄として聴きたい事柄です。
今この薬円台教会の、また全世界のキリストの教会で、救い主イエス様の福音の恵みが喜びをもって語られています。私たちは今、その恵みで満たされて、会堂から出発して世へ遣わされてゆきます。
「恵みで満たされる」とは、言い換えれば「大丈夫、どんな時も、この私のために命さえも捨ててくださるほどに私を慈しんでくださるイエス様が、すぐ隣においでくださる」ということです。今日から始まる新しい一週間を、その限りないやすらぎを胸に、安心して進み行きましょう。