C005:G.F.ヘンデルを知ろう

【SJPOジュニアオーケストラ講座】 ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル 解説

【SJPOオーケストラ講座C005】 ヘンデルを知ろう

○ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel)

[生:1685年2月23日 - 没:1759年4月14日(74歳)]

◆ヘンデルはバロック音楽を代表する重要な作曲家であり、特にイタリア語のオペラ・セリア

や英語のオラトリオの作曲など著名な曲を数多く作曲して広く知られていて、後の作曲家

たちに大きな影響を与えました。

【ヘンデル年表】

1685年:ザクセン=アンハルト州のハレに生まれる。

1702年:ハレ大学に入学する。ハレ大聖堂のオルガニストに就任。

1703年:ハンブルクへ進出。

1706年:イタリア各地を巡り、4年間で数々の作品で大成功を収める

1710年:イギリスのハノーファー選帝侯の宮廷楽長に就任。

1712年:ロンドンに移住。

1717年:『水上の音楽』初演。

1720年:「王室音楽アカデミー」の設立とともに芸術部門に就任。

1727年:イギリスに帰化。

1741年:『ハレルヤコーラス』を含むオラトリオ『メサイア』初演。

1749年:『王宮の花火』初演。

1752年:失明して演奏活動はできなくなるが、作曲活動は継続。

1759年:体調悪化により74歳で死去。ウェストミンスター寺院に埋葬。

【ヘンデルの生まれた1685年(貞享2年)頃のできごと】

◇第5代将軍:徳川綱吉/第112代天皇:霊元天皇

◇1685年:J.S.バッハが生まれる(3月31日)

◇1687年:「生類憐れみの令」が発令される

◇1688年:英国で「名誉革命」が起こる

【音楽を始めたきっかけ】

〇医者の家に生まれたヘンデルは、幼少の頃から、ヴァイオリンやオルガンなどを学び

才能を現していました。

〇しかし父親に音楽に進むのを反対され、法律専攻で大学に入学しましたが、音楽をあきらめきれず、最終的には親の反対を押し切り、音楽の道に進みました。

【ヘンデルの主な作品】

◇『水上の音楽』(管弦楽組曲)HWV 348-350

◇『王宮の花火の音楽』(管弦楽組曲)HWV 351

◇『ハレルヤコーラス』(オラトリオ『メサイア』 HWV 56より)

◇『オンブラ・マイ・フ』(オペラ『セルセ』HWV 40より)

◇『調子の良い鍛冶屋』ホ長調 (ハープシコード組曲集HWV 430より)

◇合奏協奏曲集 など

【バッハとヘンデルの比較と二人の関係】

〇バロック音楽を代表する二大巨匠のバッハとヘンデルですが、その生涯や作風などは表のように大きく異なります。

〇二人は同じ年に現在のドイツのわずか130kmの距離の都市に生まれましたが、実は二人は生涯

一度も会っていません。

当時一宮廷音楽家のバッハには、ヨーロッパ中で有名だったヘンデルはあこがれの存在で、実は

1719年と1729年と2度バッハがヘンデルに会おうとしましたが、1度目は行き違い、2度目は予定が合わず面会はかないませんでした。

〇一方でヘンデルもバッハの曲は認めていてお互い自分の曲に相手の曲のフレーズの一部や技法を取り入れた形跡が数多くあります。

【ヘンデルはどこの国の作曲家?】

〇ヘンデルがイギリスに帰化したのに伴い、ドイツ語名のゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel)から、英語名のジョージ・フレデリック・ハンデル(George Frideric Handel)に変わりました。

日本では、ドイツの作曲家と習うので「ヘンデル」が一般的ですが、作曲活動は英国の方が長く、欧米では「ハンデル」と(※発音は「ハンドル」に近い)と呼ばれることが一般的になりつつあるようです。

ただしドイツでは、ドイツの作曲家と主張して現代でも取り合い(?)が続くなどへンデルの人気が表れています。