C006:G.ビゼーを知ろう

【SJPOジュニアオーケストラ講座】 ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet)解説

【SJPOオーケストラ講座C006】 ビゼーを知ろう

ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet) [生:1838年10月25日 - 没:1875年6月3日(36歳)]

◆パリの音楽家の家庭に生まれたビゼーは、幼少のころからピアノやソルフェージュなどで才覚を表し、オペラ「カルメン」や「アルルの女」など誰もが口ずさめる美しく親しみやすい曲を数多く作曲し、フランスを代表する作曲家として多くの作曲家に影響を与えました。

【ジョルジュ・ビゼー年表】

1838年:パリで音楽家夫婦の家に生まれる。

1848年:9歳の若さでパリ音楽院に入学。

1858年:「クローヴィスとクロティルデ」でローマ大賞を獲得

1864年:オペラ「真珠採り」でオペラ作家の地位を確立。

1869年:師の娘であるジュヌヴィエーヴ・アレヴィと結婚

1872年:劇付随音楽「アルルの女」を作曲

1875年:3月にオペラ「カルメン」初演

1875年:6月3日に敗血症のため36歳で死去

【1838年(天保9年)頃の出来事】

◇第12代将軍:徳川家慶/第120代天皇:仁孝天皇

◇1837年:大塩平八郎の乱

◇1838年:フランスがメキシコに宣戦(『菓子戦争』)

◇1840年:イギリスと中国でアヘン戦争勃発

【他の作曲家たちとの交流】

◆C.F.グノー:ビゼーが学生時代から師と仰ぐ存在で、交流は生涯続きました。

◆L.H.ベルリオーズ:初演が不評だったオペラ[真珠とり]を新聞記事で高く評価しました。

◆F.リスト:ピアノ演奏を披露して高く評価されましたがピアニストとしてでした。

【親友エルネスト.ギローの存在】

〇ビゼーは作曲家として一定の評価はされていたものの、生前は国際的には知られていませんでした。死後ここまで有名になったのには、同じ作曲家で親友のエルネスト・ギロー(Ernest Guiraud)の存在なくしてはありえませんでした。

一歳差のギローとは留学先のローマで知り合い意気投合した二人は、一か月間も一緒に旅行をするほどの仲のよさで、ビゼーが30代になり病気がちになってからも、ギローが励まし支えるなど、交流は生涯続きました。

〇ビゼーの代表作の「カルメン」は初演時は現在と異なるオペラ・コミック形式でしたが評判が芳しくなく、ウィーン公演用に改作を依頼されていましたが、直後にビゼーが病死してしまいました。そこでギローが現在のグランド・オペラ形式として全面的に書き直して大成功をおさめ、世界中に広まりました。 さらにギローが管弦楽用に第1・第2組曲として編集し直し出版したことで、世界での人気を不動のものにしました。

〇また「アルルの女」も元は劇付随音楽として書かれましたが、現在はほとんど組曲版のみでしか演奏されていません。この第1組曲はビゼー自身の編曲ですが、フルートソロで有名なメヌエットやファランドールが含まれる第2組曲は、ビゼーの死後にギローが原曲とはまったく違う編曲をして出版をして、こちらも世界中で大成功を収めてビゼーの名前を広く知らしめました。

【NHKみんなのうた『小さな木の実』は実はビゼーの作曲】

〇1971年にNHKのみんなの歌で発表された「小さな木の実」は日本の歌として広まりましたが、実はビゼーが作曲したオペラ「美しきパースの娘」の中の「セレナーデ」を編曲したものです。

〇この曲はNHKのプロデューサーの若林尚司氏が、日本語の歌詞をつけられるクラシックの名曲を探していた際に、自分が関わった番組で紹介されたこのセレナーデを気に入り、石川皓也氏に編曲を、海野洋司氏に作詞を依頼して完成したものです。

〇ただし若林氏は曲の物悲しい曲のイメージから、たまたま交通事故が多かった時代背景から、父親を交通事故で失った子供を題材の歌詞を依頼しました。そのため歌詞と原曲のオペラのストーリーとは全く関係はありませんが、物悲しいメロディと前向きな歌詞がマッチした『小さな木の実』は大ヒットして日本の歌として定着しました。