恒藤恭(つねとう・きょう;1888-1967)は、大阪市立大学の初代学長です。1940年に大阪商科大学教授に就任(46年から学長)を経て、1949年に大阪市立大学の初代学長に就任しました。
「わが青春時代の生活」(京都新聞 1964.4.20、夕刊)の恒藤は、「私は明治39年に島根県松江市の第一中学校を卒業したが、最終学年のころから消化不良症らしいものになやまされて衰弱し、三か年ばかりの間ぶらぶらと暮らした。ところが、ふとしたはずみからすっかり健康を回復して、明治43年の春に上京した。中学生のころから卒業後の3か年ばかりの期間を通して、幼稚な俳句や短歌や、詩や、紀行文や、小説のたぐいを地方の新聞や中央の雑誌に寄稿することを続けていたので、上京した私はいわゆる文学青年らしいものであったかとおもう」と若き日を振り返っています。
歓びて笑みて謳ひてさりげなく過ぎなむほどの一生ならずや
朝顔は垣にしほれて野の茶屋の人はねむれる真昼時かな (1905年作)
相見ねば一と日も長く相見れば百日も足らぬ思なりけれ
あゝ遠き過去と未来とつながれる空よりきたる大はうき星 (1906年作)
山崎時彦『恒藤恭の青年時代』(未来社、2003)収録作品から
学徒出陣、さらには学部学舎の兵舎転用など、戦中の大阪商科大学が直面した多くの苦難を思い起こさせる作品もあります。
或るは帰りあるはかへらぬ教へ子のことを想ひて夜半にさめたり (1946年作)