建部遯吾(たけべ・とんご;1875ー1945 )は、東京帝国大学社会学講座の初代教授を務めた初期の社会学者です。1923年の初当選以来、衆議院議員(新潟県第6区選出、当選2回)、のち貴族院議員として政界でも活躍しました。建部は詩人でもあり、漢詩や短歌を詠みました(号は、水城)。
詩集は刊行されていませんが、散在する建部の詩歌を集めて編んだとされる田村順三郎編『建部遯吾先生とその詩歌』(横越村、1965年)があります。漢詩を中心に編まれた同書は、建部の従弟で漢学の研究者、諸橋轍次(もろはし・てつじ;1883-1982)の協力を得て出版に至っています。
短歌については、旅先の印象を簡潔に記して、それに歌を添えるというスタイルが多く見られます。例えば、建部は1896年に投稿帝国大学文科哲学科を卒業後大学院に進学し、間もなく社会学研究のため満3年間の海外留学を命じられます。1898年8月3日に横浜を出港し、9月11日にベルリンに着きました。その滞在中にドイツ滞在中に北へ足を延ばしたときのときのことを「此国二千年来の名物とて処々に一里も二里も連続せる森林あり。その梢を突きてゴヂック風の寺塔の尖の見ゆるなど流石に西洋めきドイツめき殊に北ドイツめきたり」と記し、次の歌を添えています。
ゲルマニア森の遠森吾が行けばいにしへ語るヘルマンの児等