ほんの累積 平成16年3月
平成16年3月29日
「アグネス論争を読む」 アグネス論争を愉しむ会
「愉しむ」という騒ぎではないようだ。先入観でみるとろくなことはないということかもしれない。「自身の偏見」に対する「認識」が、ちくちくとわが身をつつく。このいわくいいがたい「きもちわるさ」がなにを原因とするか、ということ考えるのからして不快。
なんだか、誹謗中傷なんでもありの「掲示板」を読んでいる感覚する。まあ舞台が女性週刊誌だものな。片方に加担する側で居た自分に、居心地悪さを感じる。
よおく考えたら両陣営の方の著作を私は読まない人だったのだった。そう、もともと思考パターンが嫌いなのだった。数年前、PTA地区研修会でA氏の講義に感動して帰ってきたY氏にいちゃもんつけた自分です。以来よそよそしい気がする。
悪うございました。LOVE AND PEACE。まちがっては居られません。きっと善意、なのでしょう。ただ、人間善意だけではやってゆけないのは「神の代理人」を読んでも明らかです。何が目的であれ社会を動かすには「したたか」でいなくてはならない。
上野さん何を狙って参入したのか、その計算は?
両陣営「根元は同じことをいっている」=「女が育児」というのはよい意見でした。深入りはやめましょう。意味がなさそうだ。
平成16年3月26日
「国境おかまいなし」 上野千鶴子 朝日新聞社
有益にして興味深い国外のくらし。「だれも召使になるためにうまれてきたのではない」
「召使というオプションがないゆえに発展しつつある男女共同参画という形態」
人は「当然」のことは記述しない。他所から来たものだけがその「地域の特殊性」を意識できる。
その特殊さを意識できない「地域的学究」は発展を望めない。
上野千鶴子というひとはなんと先鋭的であることか。
言葉を武器に、世界をひろげてくれる。
平成16年3月25日
「スカーレット・ウィザード」1 2 茅田砂胡
茅田流ハーレクイン・ロマンス、ですか。濡れ場?ありといえども、191cmと195cmの肉弾戦なんて
読みたかない。あれくらいが穏当というものでしょう。
エンダーとスターウルフと、マキャフィリーの船シリーズを合体したような感じはしますが、まあ拘る必要はない。ちゃんと別物。楽しめれば文句はない。相変わらず愛らしい?キャラクターのオンパレード。
さっさと寝るはずが朝になってしまった。
平成16年3月23日
「画家・小泉清の肖像 回想と評伝抄」 ワシオ・トシヒコ 恒文社
八雲記念館の展示は観てみる価値がある。フォービズム、日本近代画云々の範疇を越えたところにある。
一点を数年かけて「絵の具をそのまま塗りたくった」油絵。絵画というよりも「タペストリー」にちかい。
このように描かざるをえなかった精神を痛々しく感ずる。
この本の「思い出」なるものを読んで確実にわかることは「小泉清」というひとを誰も理解していなかったということ。かれらとは無関係な世界に生きていたということ。
読んでいてなぜか沢木耕太郎氏の父君「無名」を思い出した。なまじっか「理解しよう」と考えることは不遜なことなのかもしれない。できれば、あんなに無造作にではなく県立美術館の壁にかけてあればと願うのだが。保存環境を配慮してあるのだろうか。
あの絵はどの位の距離をおいて見るべきものなのだろうか
平成16年3月22日
「フェルメールの眼」 赤瀬川原平
「春になったら苺をつみに」 梨木香歩
見たことのないフェルメールの絵が載っている。ワイエスの画集を見てみたいが、見つからない。
観ればみるほど不思議な絵である。どこかの小説に「引退したら世界中のフェルメールを見に行脚したい」
と語る「執事」の話があったなあと、思う。そういう話にうなずける。
思いついて「小泉清」の本を借りてみる。松江の八雲記念館に展示されているが、展示室にくらべ絵が大きすぎ、気の毒なきがする。凄絶な海。
「春に…」
思慮深く、お世話好きのウェスト夫人。フェミニズム、ジェンダーなどと名をつけずとも、心あれば
思いを共有することで知ることができる心の傷の痛み。それをちゃんと書ける人が居るということは、とても嬉しいことである。
モンゴメリの心の傷。
日記公開が遺言により50年間されていなかった、とは。日系収容所の話にここで出会うとは思いもよらなかった。
平成16年3月18日
「冠 (コロナ)」 沢木耕太郎 朝日新聞社
「ノクターン」 87分署シリーズ エド・マクベイン 早川ポケットミステリイー
オリンピックを観なくなったのは何時頃からだろう。ロサンゼルスは確実に見ていない。時間的に余裕がなくなった、というのが理由の一つだが、やはり確かに観ても面白くないというのはある。
競技選手が異常に低年齢化している、というのがひとつ。十代のはじめの子供たち、二十歳代で競技人生を終えてしまうような競技を観ていても、凡齢を重ねた凡人がみてつぶやける感想など高が知れている。
冬季オリンピックのアイススケートなどはその最たるもの。カタリ−ナ・ビットの演技の美しさは絶品だった。
だがその当時、既に「美しさ」だけで上位に食い込めるチャンスなど皆無だった。体操競技しかり。痛々しいほどに痩せこけた「幼児」にしか見えない少女たち。高難易度の技の応酬。
成長期の体を酷使してこれからあの子達の体は、人生はどうなるのか。
沢木さんのいう、「普通の国にもどること」は、難しいのだろう。個人的に言えば、日本がバレーボールで負けてもそれは仕方ない。身長差という決定的な要素は無視できない。
自分が150センチ前後の身長でプレーしようとしても、ネットから手を出すことすらおぼつかない。
ジャンプ? 十代ならともかく40代で50センチ?同様に180センチの人間が200センチに対すれば20センチの差は明らか。他人に奇跡を要求するのは不遜と言うもの。
オリンピック競技の場は、すでに「普通のひと」の競技ではない。
だが、「オリンピックがなくなる」というところまでは考えていなかった。そういう可能性もあるのだ、ということか。この本はずいぶん辛口の読み物になったが、よみごたえがあった。
「ノクターン」
久しぶりに87分署。「フロスト」みたくに迷路の如し。語り口がいいですねえ。安心して読める。
平成16年3月15日
「杯」 沢木耕太郎
サッカーは詳しくない。世代の違いなのだろう。沢木さんも似たようなもので、野球は「ルールが難しい」という原因で敬遠されると聞いて絶句されたそうな。ラグビー、アメフトあたりはながめていることがあるけれど、サッカーの試合を見るのはどうも辛い。どこを観てよいのかわからない。
子供のサッカー試合でヒステリックに喚く大人たちに、思わず「玉拾いしたらどうだ。少しは展開が早くなるだろうが」といってしまいたくなるような性格の自分である。
自身で運動している身だけに、自分が動かずに子供に喚いているだけの人間をみると批判的な眼で見てしまう。「ひとに言うなら、自分で走ってみろ」と。
そういうところで頭に血をのぼらせるのはあまり好きでない。そこが実戦の観戦に向いていない。
「漂流記」と銘うった文章なので、そこの部分ばかり読んでいる。
それはそれでよし。
町民バドミントン大会。小学生の部の審判をしていて「オオボケ」かます。おろおろして、フォローをしていただく。いつもすみません。にっきい、どの(そういう名称似合わないが)
久々にベテラン勢の本気勝負観戦。小泉凡さんのお話を聞けなかったのは心残りだが、またいつか縁があることだろう。
平成16年3月12日
「イノセンス」(映画)
突如思い立ちみてくる。書店のみモニターに映し出されていた予告編の映像に惹かれて。
確かにすごい「映像」である。イメージの氾濫で頭がくらくらする。衒学趣味とも思える「哲学的科白」では、頭が漢字変換モードになってしまう。漢文を習ったことのない「若い人」にはチンプンカンプンだろう。
というよりそれを素直に「音として」聞いていれば問題はないのだろうが、なまじっか文章として再現できる者にとっては、たいそう忙しい情報処理を迫られる。頭の回転がおいつかないうちに話が変わるので、いまいましい。そりゃあ、あんたの頭が鈍いせいだって?どうもお世話様
孔子、モンテスキュー、旧約聖書、ミルトン。引用される「出典」をみれば、原作者は私たちよりひとつ上の世代という感じがする。でなければ「京極夏彦」氏の同類。(おいおい)
バード?と少佐の関係は、エンダーとジェーンの関係に近い?
「マトリックス」も設定を理解するだけで苦労したが(頭悪いだけに)これは理解できた時点でお話が終わってしまった。長い続き物の一篇を特別に上映した、という印象。
アニメ版(サイボーグ版?)ハードボイルド。大塚氏と山寺氏の「おこえ」最高です!「レッドドワーフ号」の乱痴気騒ぎのほうが好みでありますが。「技術」と「お話」とは別物なのだなと考えつつ帰ってきた。
別の言い方をすれば「食材」と「料理」は違うということ。
平成16年3月11日
鳥インフルエンザの影響で、空から突然カラスが落ちてくる
のではないかとびくびくもの。
ついでに、私の頭の中で関連している「本」をつれづれに挙げてみる。「鉄・銃・病原菌」−文明がいかに病原菌変異の温床を作り上げて来たかということがわかる。
「スタンド」ーS・キングの作品。ずばり正体不明のインフルエンザウイルスで文明がすべて破壊されるという設定。蔓延しはじめるところの描写が、キングならではの迫真。鼻水ずるずる、高熱の病状読んでいたら気持ち悪くなるほど。
「アンドロメダ病原体」
多分読んでいないのに印象強い。映画にもなりました。
「ホット・ゾーン」ともう一冊あったと思いますが、どちらも読んでいない。私の頭の中ではロビン・クック?などの範疇に分類されています。あまり好みとはいえないもので。
「伝染病関係」となると、まず「微生物の狩人」
パスツールが自家製の顕微鏡で病原菌を発見するくだり。
「ドウ−ムズデイ・ブック」はペスト?が蔓延する時代へとタイムトラベルする話。
「青い服の少女」もペストだったっけか。これは別の意味で気持ち悪かった。
ユダヤ人収容所に蔓延したのはチフスだった。アンネ・フランク姉妹をはじめ多数がこれで死亡したという話。
昔の青年愛読書定番?武者小路実篤「愛と死」の恋人の死因はスペイン風邪?
だんだん、話が苦し紛れになる。
ははは。
平成16年3月8日
「YASHA 夜叉」8〜12 ? 吉田秋生
「暴走」 フランシス 早川文庫
深夜のまんが喫茶で、人待ち。翌日 県立美術館へ「ドラえもん展」みにゆく。現代アートの旗手。作品についているコメントが可笑しかったりする。グッズがまた見ていて楽しい。さすがに「なりきりセット」を着るわけにはゆかぬが。すべての人がこんなに「にこにこ」しながら見て回る展覧会というのも珍しいかなと思いつつ。
フランシス、読んだはずなのに覚えていない。ボケてますな。
雪が降る。ピンポイントで降っているので、どこで吹雪に出会うか知れない。
平成16年3月6日
「人間のこころを考える こころの病い −不安と文化」 岩波書店
「ルネサンスとは何であったのか」 塩野七生 新潮社
「めぐりあう時間たち」 マイケル・カニンガム 集英社
「人間の…」きたやまおさむ と聞いただけで懐かしいものがある。「戦争を知らない子供たち」と言う本、思春期の私には重い本でした。
「ルネサンス…」読むのが勿体無くて、「迷走する帝国」おいたまま。これは、図書館で借りたのでさっさと楽しんで読みます。聖フランチェスコのくだりは、眼から鱗だった。
愛すべきレオナルドさま。(フイリップ・ルロワなしでは思い浮かべられない)
「めぐりあう…」
ヴァージニア・ウルフの著作を読めないのに、なぜかこの人の「伝記」は読んでいたりする。神谷美恵子さんの影響でしょうか。
それにしても「ミレイ」の「オフェーリア」を装丁に使うのはいいがこの名画を分断されると、私は胸がはりさけそうに痛みます。この本読み終えられるかしら。
平成16年3月1日
「サバイバー・フェミニズム」 りりす
フェミニズム運動における理想と現実。それにしても、ひどい話ではある。「裁判をするか否か」が、セクハラの基準とされては意味がない。
他人に公表できるか否かが「セクハラをうけた」という証拠にされてはならない。「癒されている」ということを判断にされても困る。一時は忘れたかのようにみえたとしても決して「癒される」傷ではないから。
多分その人が一生抱えてゆかなければならない傷であるから。
そして忘れることのできない理由の一つが、加害者に罪の意識がない限りは繰り返される犯罪であることである。いつ何時また繰り返されるかしれない恐怖と一体の傷。だからこそ、賢くならざるをえない、というのが本音。告発することで済むならば、だれも恐れはしない。
逆に反撃された時に対処する方策を持たない人間の恐怖感は筆舌に尽くしがたい。