ほんの累積 平成16年1月

平成16年1月29日

「陪審評決」 ジョン・グリシャム 新潮社

とんびとんびに走り読みしている。集中して読んでいないのは、面白くないからでは決してない。緻密な構成、明確な描写。リーガルサスペンスを個人的にはあまり好まないだけです。パーカー・パイン、いや、誰だっけ?(ペリー・メイスンだ)ガードナーは好きだったけれども。

雪が消えて、会議(というものでもなし)頭にちがのぼって何を話しているか自分でも分からず。血圧200くらいか。

別にもめたわけではないが。もめるはずがない。結局みな「他人事」で、自分に難がなければ文句はない人たちだ。文句をいいかけそうな人がいたので、おもわず血相を変えそうになったのがわかったらしくあわてて撤回していた。もう二度と会議しないで済むと思うと、命拾いした気がする。

郷土資料の作りかけ目録ファイルを、探検隊見聞録と一緒に置くことにする。講師にメールでひとこと言っておく。明日あうのでお手紙でもお渡ししよう。

平成16年1月25日

「宇宙船レッドドワーフ 2 素晴らしきかな人生」 グラント・ネイラー 河出書房新社

「悪魔の涙」 ジェフリー・デイーヴァー 文春文庫

BBC社の廊下で撮影した宇宙船SFコメデイというのは前代未聞だろう。出来のいいコメデイであると同時に深遠な?ところもある。M・A・S・H(マッシュ)とおなじくらいに笑えて、かつ味のあるおはなし。

ラストには泣けた。ホーリーがどうなったのか気になるところ。なんて英国人というのはひねくれているんだろう。(これは賛辞)

「悪魔の涙」キンケイドのキャラクター、脇役もしっかりしていてよろし。人物描写だけでも充分読み応えがある。さすがデイーヴアー。市長のキャラクター、好感もてますね。きっとこの作者、政治家をどこかで信じたいと思っているのだろうなと思わせる。それって、悪くないでしょ。「わたしの街になんてことをするんだ」のことば。

本当は尻に帆かけて逃げる、と行きたいところだ。むこうさん方は、二回の部会出席だけで一年の義務を逃れられると思って「出席」のつもりなのだろうが。こちらとしてはとても、気持ちが悪い。そんな集団と対峙すると考えるだけで。なにか揉めかけるようだったら、逃げます。ALLほっぽって。きっと今回もみんな押し付けられるのだろうというのが想像できるので。「予算消化」という人質?が今回ないので取引する必要はない。

「あらそう、じゃああと勝手にして」といえましょう。そうはいかのきんたま?(あら、はしたない)

平成16年1月23日

「ナショナリズムとジェンダー」 上野 千鶴子 青土社

道路圧雪、日中もどうやら零下にてパウダースノーが舞う。道路はスケートリンクと化している。今年は雪かきする気もしない。

上野千鶴子を、好む。論説が攻撃的なだけに叩かれるかたのようでもあるが、それでも支持する理由は

「自分の生き難さ」についてその根拠を論理的かつ明瞭に「表現」できるものが学業として学び、自身で読み漁ってきた「学問」の範疇に存在しなかったからである。自分の努力が足りなかった、という意見には同意しがたい。人並み以上には本を読み、学業的成績は中の上くらいにあったはずである。それでも「みつけえない」「あたえられない」というのは、自分の問題ではなく「学問」の領域の問題ではないだろうか。とまあこう開き直れるのも上野氏の言説の端にふれられたせいではある。

平成16年1月18日

「MAZE」 (めいず) 恩田 陸 双葉文庫

美術館のはしごをしてくる。

岡山県立美術館「もうひとつの明治美術」

言ってみれば、明治初期の表舞台であった白馬会の作家たちと対照的な所で活動していた洋画家たちの展覧会。自身は桧舞台にたったとは言いがたい(というより現在知られていない)画家たちではあるが、少なくとも「後進の作家」のための指導にあたったりして荻原守衛などが出てくるための「土壌」になったとはいえる。

歴史画家=戦争画家ということになって戦後不当に無視されたということでもあるのだろうか?同じような風景画がずらりと並んだ作品を見ていて、これいいなと眼を引いたのが「浅井忠」(こっちは対極的なメジャー作家)だったというのが象徴的だった。微妙に視点が違い、それが「決定的」に「凡作」と「佳作」を分ける原因となっている。見ている者を「画面の中に引き込む=画面の中に立たせる」のだ。

とてつもなくすごいデッサン力を持っていながら、しかし描いた作品は「凡作」の作家たち。こちらがみる視点が何を基準として「佳作」と見ているのか、とあらたに考えさせられる。それと同時に「デッサン力=名画」とは限らぬことを見せ付けられる。

個性・理念・視点

言いがたいものではあるが、「思想」がなければ意味がないらしいこと、宗教的基盤、歴史的基盤のない明治日本の「洋画」というのは付け刃でしかなかったのだと見せ付けられた気がした。

だからこそ遮二無二「写実」にこだわらざるをえなく、表現の自由さを潮流としつつあった近代の絵画の歴史の波に乗れなかったのか。偉そうなことをいうけれど、一応感想である。

中村彝(つね)の作品が三点!

華麗な色彩。嬉しい。もう一つ眼を引いた35才で夭折した作家の水彩が痛々しい。「すげえ、青木繁だ!」と鳥肌がたって寄ってみたら「福田タネ?」

どうみても「海の幸」の女の顔なのでよく見たら「青木繁加筆」と書いてあった。いくら妻でも他人の絵に加筆するのってありか?いいけどさ。でもタッチも色もそのまま青木。

「福田タネ」という画家のために哀しむ。

岡山市立オリエント美術館に行ったら丁度「美術館友の会会員」のための展示解説をやっていた。傍聴。何と幸運な。粘土板の実物やレリーフ、タイルが見られるだけで鳥肌たっているのに。

解説されている男性の美声にうっとりする。(おいおい)なにやら妙に「歴史講座」の講師と似たような話し方をされるのが笑える。そういう仕事をしていると似てくるのか。

「県立博物館」にて展示みる。説明文が詳しく分かりやすい。展示の仕方がうまいと思う。これも才能なのだろうなあと思う。

恩田陸「メイズ」

この人の才能に脱帽!

平成16年1月14日

「リリアン・ヘルマン戯曲集」 小田島雄二譯 新潮社

積年のうらみつらみ、あ、いや「積年の念願」であったこの本を県立図書館で見つけた時は目を疑った。

願い続けた甲斐があった。聞きしにまさるとも劣らない傑作。なるほどと思わせられる。

「風と共に去りぬ」を読んでいてもいまいち「南部女性」というものの概念が掴めずいらついたものだが、今回ようやく少し分かったような気がした。

南部アメリカの白人上流階級の退廃と情念について。ここがアメリカの国民性というかアメリカ文学理解のための基盤であるといえそうなのだが、情念的かつ雰囲気・場というものはなかなか「説明」では理解できないものである。

今朝読んだ新聞のコラムで高階秀爾氏が書いていたように、日本の「針供養」の感覚を理解しがたいという外国人と似たようなこと。

「子供の時間」は「噂の二人」(邦題)としてシャーリー・マクレーンとオードリー・ヘプバーンの共演で映画化。シャーリー・マクレーンの自伝的本のなかでも触れられていた。(アウト・オン・ア・リム?)

「ラインの監視」は時代的要素が強い。反ナチズムへの共感を強く押し出している。

人間の生き方について「短絡的に判断することのいい加減さ」を感じつつ読む。自分が現代の規範に絡めとられつつ、物事を判断していることを考えざるを得ない。

そろそろ積雪の季節である。豪雪地帯では全くないが、それでも雪かきしたら小さな「かまくら」くらいは集まる。週末に母に会いに行く予定。山奥なので雪が心配である。かなりの遠出になるので、ついでに初めての美術館など行って見ようかと考えている。

「のぞみ」に乗ってみるかな。新幹線に乗るのは十数年ぶりか。

平成16年1月10日

「神の代理人」 塩野七生ルネサンス著作集 6 新潮社

読むのに時間がかかる。思ったより遅い。キリスト教会の「組織」と「教理」は違うものだと良く分かる。

それにしても生臭い権力欲と、財欲と血なまぐさい歴史の物語ではある。

よくみかける「法王」の肖像なのだが、その「個人」についてはさっぱり知らなかった。

つい最近?なくなった法王の死因には、じつは「未必の故意」的原因があったとかいう本を読んだことがある。真実か否かは知らぬけれども、なんともはや。

それにしても、(一部の人間にしろ)人類皆きょうだいなどという「理想」を本気で信じる振りができるようになったのはじつは歴史的に「つい最近」ではないかという気がしてくる。ここにあるのは殺戮と拷問と強姦、負ければ皆殺しの世界である。

戦勝の傭兵の報償は略奪と強姦なのだから。それを考えれば、最近の意味もなく凶器をふるいはじめる人間の「正気をうたがわれる」行為は別に驚きではないのかもしれない。

平成16年1月7日

「花神」 1巻〜4巻 司馬遼太郎

避寒より帰宅。今年の正月はあちこち遊び歩き禁断症状が出かかったところで帰宅。

避寒先常備の「日本帝国陸軍の最後」や「ノモンハン戦記」を読む気にはならないので、定番は「竜馬がゆく」か「花神」。

「坂の上の雲」の第一巻をすこし眺める。資料として使えないかとかんがえる。明治の学制過渡期に生きた「秋山好古」「秋山真之」「正岡子規」。

「漱石とその時代」(江藤淳)も参考になるか。読んだものの1割も頭に残っていたら上出来の人間ゆえ、こういう時困る。

去年いろいろ災難が降りかかったせいか「今逢っておかねば二度と会わぬかも知れぬ」という気になり二十年来の友人たちと久々に会う。若い時からの友人は話していてなんと気楽か。

「人生いろいろ」などと感じ入りつつ、たくさん「元気」を貰った。

若い頃は「人生の選択」が決定的なものであるように思えたが、じつはそうでもないらしいことに気付く。

事故あり病気あり、一寸先は闇である。未婚、非婚、既婚、子供あり、なしのいずれが正解ということもない。知るほどに「当たり前」なるものは存在せず、「個別の状況」に過ぎないということがわかってくる。

「宇部石炭史話」なにげなく手に取ったら、滅法面白かった。年取ってから面白く感じる本というものの典型か、と思ふもをかし。

平成16年1月6日

「ファイマンさんの愉快な人生 Ⅰ」 ジェイムズ・グリック 大貫昌子譯 岩波書店

「昏き目の暗殺者」(くらきめのあんさつしゃ THE BLIND ASSASSIN)

マーガレット・アトウッド 鴻巣友季子譯 早川書房

さて読むぞといきおい付けてみたが、何故か気分が乗らない。きまぐれにも困ったものだ。サミュエル・ベケット「蹴り損の棘もうけ」挫折。文化的知識人の読み物には、外国文学の基礎知識が必要とつくづく感じる。「神曲ネタで笑える」ほど詳しくないもので。気後れ。

記述は読めても語間が読めないのは致命的。

ファイマンさんはさすがに量子物理学理論も多少出てくる。脳みそかき回されている気分。時代を知るにはいい本である。マンハッタン計画のあたりは辛くて読めないけれど。第二次世界大戦前後の政治状況・戦況と、核物理学の発展が同時進行していたのが良く分かる。

「暗殺者」はカナダの作家。

おぞましく悲しく憤りを感ずる近未来の世界を描いた「侍女の物語」で、興味があった作家。話が半分もすぎないと何が起こっているのかさえも分からないのに、しかし読まずにいられない。

ただ、すごい作家だとおもう。

どのようにしたらこんな錯綜した構成で破綻なく、しかも「よまずにいられない」思いを抱かせる話を作り出せるのか、と思う。神業に近い。

SFにしても荒唐無稽としか言いようのない「とかげ男生物の襲来」をひたすら読みたくなるのが、われながら可笑しい。このばあさん、好きである。それはいえる。

ジョン・ル・カレをせっかく二冊も借りてきたのに気が載らないのは何故?