郷土資料作業日誌

郷土資料作業日誌

平成22年9月20日

ー「結論」ー

久方ぶりに知り合いに出会い関連の話をする。ご出世なさってなかなかお会いすることもなくなったのだ。

先日作業場にしていた施設の運営委員が二名「予算の陳情に来られたとのでお話をしました」と仰っていた。

資料関係の話もそろそろ大詰めに入り、新しい施設への物品の移送等着々と手続きがされているような様子。

「おかげさまで各所にある資料の確認ができました。担当の者が回って写真にも撮りましたし。」とおっしゃる。

「いいのでしょうか。お渡ししたもの(目録)は全部ではないのですが。」とお尋ねしたが、

「担当者が現物をみて確認したので大丈夫です」と力強く断言されるので納得したことにする。「あなたがして下さったことは無駄にはなりませんでしたよ」との仰せ、ありがとうございます。それから先はまた別のはなしですね、ということで。

平成22年3月31日

ー「補足」ー

今年度担当課長の異動あり。さて状況がそれでどう変化するかはまた様子見。平成21年10月23日

ー「蛇足」ー

箱つめのままでは資料閲覧にならないので、当初印刷して冊子にしていた「画像つき目録詳細」の何冊かを資料展示として置いておいた。印刷したのは2部で、同じもの1部が担当課の方へ行っている。

展示部の部長さんがいらっしゃり「あれはいいですね。支所の職員さんも感心されてました。最近印刷されたのですか」と仰る。

褒めていただき光栄至極にて候。

が、それは二年前自分が回収するまで数年常設していたもの。

担当課のひとがそれを見て「控えを欲しい」といいだしたことからこの状態になったのだが、どうもお二人とも「その場にいて交渉された当事者」であったことについては記憶がないらしい。

自分はあのとき「その場に誰がいたのか」ということの説明を、この部長さんから直に伺った記憶がある。

何をか云はむ。ただ沈黙するのみ。藪蛇とも云ふ。

平成21年9月25日

ー「セキュリテイ3」ー

セキュリテイ作業および領収書清算完了。掛け軸の巾の関係で箱が一つ追加で計11箱にて封印完了。

経費に就いても領収書を納付して終了。これで縁が切れた、と申せましょうか。

平成21年9月11日

ー「セキュリテイ2」ー

ほとんどセキュリテイ作業完了す。

今回N氏が防虫剤予算を出してくださったのでこのお金を使用する。

段ボール箱につめ直して封印。その際タグナンバーは回収。

他の展示の邪魔にもなっていたのだが、今回スペースが空いて喜ばれることだろう。

防虫剤入れて密封してある。有効期限1年間。他に保存のやり方に問題が在れば後日指導してもらえばよい。

数年間の労力の半分方を無にしちゃいましたが、特に後悔なし。今更のように考えついたが「保存管理の手続きと研究は別物」資料を写真記録にするのは研究だろうが、その実物を要求するのは「蒐集活動」という欲望であって研究とは異なる。

近日中に作業を完了させる予定。

平成21年9月11日

ー「セキュリテイ」ー

支所に電話。借りて行った分のリストを見せてもらえないかと交渉。借りて行った側に連絡して貰ってくださいとの返答。話しているうちに何のためにこのようなことをしているのか、だんだんわけわからなくなる。クレーマー認証を受けないうちに(否もうされてるか)「あきらめました」と言って電話を切った。

で、結論。セキュリテイをかけることにした。なるべく早く始動させる予定。

平成21年9月10日

ー「報告」ー

資料の防虫剤手配依頼のためN氏の訪問を受ける。N氏がことのついでのように「資料館の準備室が借りるといって資料もって行って返してきましたが」と、一年も前の事を仰るのでぐったりする。

平成20年9月15日

ー「撤退」ー

展示関係の部長さんの勧めで久しぶりに郷土室を訪れる。

壁の棚を取り外し、遺跡地図を掲示してある。ご苦労が伺われる。机の上に見知らぬ箱があり、資料の一部を今年の1月から3月まで貸し出したらしいことを知る。

(箱に貸借期間の書き込みがあった)

どういう所にどのような事情でどの資料を持ち出したのか、一切知らされていないためにしばし考え込む。

そういうことであるならば、以降特別の事情の無い限りこの件に関して自分は完全な撤退をすることにする。

以上、備忘のため。

平成19年5月15日

ー「撤収」ー

借りている作業所の団体の人と話をしているうちに、相手の要請に応じているとこちらの仕事に支障が生じるようだと思われるようになった。

これは「意見の食い違い」というよりも「立場の認識の違い」によるものと考えられる。

無条件に応じるか、ある程度の条件で応じるか本当は向こうと一緒に検討すべきなのだろうがその「認識」の擦り寄りに必要とされる自分のエネルギーを考えると非常に不毛な気がする。

よって今回一応の作業は終了しているため、暫く「撤退」することに決めた。

以上、報告

最後に。

「本当は出来るとは思っていなかったけれど、やったぜ!!

だれより、成し遂げた自分が知っている。」

平成19年1月25日

ー「製本完了」ー

厳密に記載しても大して意味がないので、

バージョン4の完成年月日を「1月31日」

として終了することにした。

今回の印刷は、表紙・構成内容の説明・構成の詳細・物件目録(題目のみ)

に収録CDを付属する。

印刷した目録だけで28ページ。

CDに記録したものは、計207MBの大きさなり。

平成15年(2003)からの作業だから足掛け4年ということになる。

さて、ひと段落として。

お疲れ様でありました、と自分で自分を褒めてやろう。

前回限界までスキャナーを消耗させてしまったのだが、

デジカメで撮る方が効率はよいのだろうか?

とはいえそこまでの予算はないから、考えるも無駄か。

携帯電話のカメラも馬鹿にはならないけれど、ちと不安もある。

平成19年1月3日

ー「構成完了」ー

第八次資料を追加したバージョン4の構成完了。

2,3細部の仕上げが出来ていないが別に急ぐ必要はない。

今回全てのHTML文書について、PDF版を作成追加した。

PC内部のキャッシュの設定が少ないと画面に画像が表示されない虞れが

あることに気づいたためである。

加えて多分表示がおそくなると思われる。

PDF文書にすればそれが回避できるのではないかと思われる。

但し、当方にPDF文書からのリンクをつける技術を今のところ取得

していないのでリンクに関しては対応できていない。

次期作業はスキャン作業となる。

さてこの整理システムはどのようにしたら良いかと思案中。

バージョン4の大きさは、約200MB

とりあえず、CD1枚に書き込める大きさ。

スキャンで取り込む資料画像は結果的にどれくらいになるやら。

DVD?

平成18年12月14日

ー「自転車に乗る漱石」ー

参考書「自転車に乗る漱石」百年前のロンドン 清水一嘉 朝日選書689

187頁より 絵葉書に関する事項

英国逓信省発行「葉書」は1870年10月1日発行

初日で500万枚の販売

半ペニー切手の印刷、122×88ミリの大きさで裏は白紙

はみ出し防止のため封筒に合わせて122×74ミリに変更

1872年6月17日個人葉書発行許可

大きさや体裁は同じ

但し表に宛名書き以外の記載は認めず

表の切手印刷も認めず

役所に持込で半ペニー切手印刷をするか、押印の必要

1875年国際郵便連盟結成

協定国に葉書を送る事が可能になった

一億五千万枚の発行

1894年9月1日利用者が所定場所に切手貼付の許可

連盟設定最大サイズ140×89ミリの絵葉書が流行

目録記載事項記入 全終了(のはず)

これから暫く整理作業になります。

そろそろ年末のあわただしい時期に入るので、スキャン作業開始は春か。

平成18年12月11日

ー「2箱め終了」ー

最後に残ったアメリカン・マガジンなど。

シアーズのカタログや、コミックまであった。

年代は1953年に集中している。

すなわち、昭和28年。一体誰がこんなものを所有していたのか。

3箱めは往来物から始めた。

思い立ったが吉日で今回反則技を使うことにした。

数日で終われるだろうと思う。

これが終わったらいよいよスキャン作業の予定。

平成18年12月4日

ー「権市のはなし」ー

「嘉永無人島漂流記ー長州藤曲村廻船遭難事件の研究」

小林郁 三一書房 1998/6月 ISBN4-380-98275-0

年貢米を大坂屋敷運送請負などの廻船業者

船主は長州厚狭郡藤曲村出身

兵庫や大坂にて各地出身の水夫を雇い操業。

嘉永3年10月

「浮木丸」を購入、江戸深川を出航したものの荒天のため漂流。

船は沈没、島に流れ着き付近を通りがかった外国船に救助される。

中国の寧波に転送され長崎に送り届けられ、長崎の役人によって詮議を受ける。

許されて、生き残った者は生国に帰って生涯を終えた。

権市はこの一人で、出雲国島根郡七類浦出身

文政7年(1824年)生まれ 嘉永3年当時27歳

当時「キリスト教」との接触の可能性がある漂流者については大変詮議が厳しく

仕置きを恐れて「中国に流れ着き助けられた」というふうに

漂流者自身が虚偽報告することが多かった。

よって役人取調べである「口上書」と、後日生国で昔語りした話が全く違うという

場合がままにしてある。

権市関係では「権市口上書」「嘉永船便加羅物がたり」

長門には「中原家文書」などの史料がある。

船員は雇い入れの契約で乗るので、同じ地方出身とは限らない。

漂流者は「外国文化との接触をした」ということで、生国へ返され

以降その地域から出ることを許されなかった。

生国へ帰ったあとでその地方の役人に再度取調べを受けたりした記録や

身内の者などに語り聞かせた「オフレコ」の話を書き留めた文書が

あちこちに残存している。当然ながら食い違いがある。

当時「漂流者」は頻繁にあったようで、

同時期「栄力丸(えいりきまる)」乗組員がアメリカ商船により救助され

サンフランシスコへと送られた例がある。

浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)

通辞になった人間のはなし

「にっぽん音吉漂流記」 春名徹(あきら)

人名 長州藩主松平膳太夫=毛利敬親

島根奉行市川虎市 下郡 吉田文六 与頭 寺本文十

庄屋徳助 年寄六郎次

平成18年11月30日

ー「役場申請」ー

婚姻届関係が多数にのぼるので、先に表を作った。

しめて50件あまり。

婚姻届・養子縁組・離婚届・養子離縁届などなど。

地区的には広くなく年代は昭和13年から14年にかけて。

印判も署名もないので正式なものではないとおもわれるものがほとんど。

「人生いろいろ」などと唄いたくなるほどにその字間からそれぞれの人生が

たちのぼってくるような気がする。

プライバシー抵触なのであまり微細なところまでは記さなかった。

が、やはり一日がかり。肩が凝る。

インターネットで「往来物」と言う語で検索してみた。

さして今まで興味がなかったこともあり知らなかったが、万の数で種類があるという。

印刷形態が木版の時代でせいぜい数百部しか版木がもたなかったと思えば

それだけの種類が生じる事もありうるわけだ。

ということでこれから目録に入る分は「往来物」という表題でよろしいかと考える。

できれば表紙の表題を読めればよいけれども、あまり保存のよい状態とはいえず

読み取れないものが多い。

専門家でさえ統一した分類法をもたないということだから、

「知識の欠損」をそうひけめに感じる必要はないのかもしれない

と少しばかり安心する。

さっさと終えてスキャン作業に入りたいものだ。

最近さむくなってきたのと、人が出入りするたびに集中がとぎれるので

作業場所を変えてみようかと考えている。

平成18年11月27日

ー「婚姻届」ー

第2箱めがそろそろ終わる。

3箱めをひっくりかえして、ぼろぼろの書籍などをポリ袋に小分けしてみた。

役所の関係なのか「婚姻届」「養子縁組届」などの控えが多数。

さて、地券の場合もこまったがこれをどう記述するかが問題である。

直截に個人情報もよいところ。戸主、名前生年月日本籍地である。

はては子供の認知、所在地不明(出奔)届けなど。

宗門改めの時はまだ「江戸時代」だから良かったが、明治となるとそうもゆかない。

というわけで別格処理とせねばならない。

ほかは「往来物」やそのたもろもろ。

種別を記述しようにも、「知識」がないので記述できないもどかしさ。

一言でいってしまえる「分類知識」がないのは、大変自分に腹がたつものである。

ともあれ、最終段階に突入とゆきたいものだがはてはてそろそろ寒くなってきた。

平成18年11月16日

ー「絵はがきの時代」ー

「絵はがきの時代」細馬宏通著 青土社刊より

概観1

「絵葉書」が成立するためには、いくつかの前提条件がある。

すなわち

1.国による郵便制度の確立

2.葉書という規格の認可

3.官製葉書以外の私製葉書の認可

1870年代 私製葉書使用許可(ドイツ・オーストリア・スイス)

1880年代 風景絵はがきの出回り

1890年代 ボーア戦争をきっかけに絵はがき流行(イギリス)

1900年 パリ万博によって爆発的な絵はがきブーム(フランス)

以上19世紀終わりから20世紀初頭がヨーロッパの絵はがき流行期

日本における郵政

1873年(明治6年) はがき制導入

1877年(明治10年) 国際的な万国郵便連合に日本が加盟(ハガキ統一料金1.25ペニー)

1899年(明治32年) 年賀状前倒し投函制導入により年賀状の増大

雑誌による「附録絵はがき」が考案される

1900年(明治33年) 日本私製はがき使用許可

(但し、それまでは外国から来る分については問題なし)

参考書: 石井研堂「明治事物起源」

1904年(明治37年) 日露戦争以降、絵はがきの消費増大

戦地からのはがき郵便料金免除、出征兵士に大量の絵はがきを支給。

攻略・凱旋記念絵はがき+スタンプの組み合わせ(広告戦略の一巻といえる)

1907年(明治40年) それまでは通信文と絵は一つの面に同居していたが

法の改正により、宛名書きの面に通信文を付加できるようになり

絵が独立した画面として全面使えるようになった

水彩画スケッチブームについて

浅井忠・大下藤次郎・丸山晩霞による水彩絵はがきブーム

清水一嘉「自転車に乗る漱石」(朝日選書)

夏目漱石「三四郎」

巌谷小波(いわやさざなみ)

自家製絵はがきの交換であそぶ「水鳥会(すいちょうかい)」をつくる。

巌谷小波・久保田米斎(くぼたべいさい)・岡田朝太郎(おかだあさたろう)

鳥居清忠・堀江文禄

日露戦争期の絵はがきブームに乗じて発行された「ハガキ文学」(博文館)の

編集にかかわった。

コロタイプ印刷

19世紀半ばからフランス・ドイツに進化した高画質の印刷技術

コロタイプでは、ネガに貼り付けたゼラチン膜上にできる

微細なしわの高低にインクを付着させて連続的な諧調を表現することができる。

概観2

明治期の新聞印刷などのメデイアにおいては、写真の質があまり良くなく

精度のたかいコロタイプ印刷による「絵はがき」の画像は、

「震災」や「洪水」などの事件発生後にすみやかに発行販売された絵はがき

により遠隔地の知人への日常を知らせるメデイアとしての役割を果たしていた。

日本絵葉書会

http://www.edo.net/ehagaki/

「絵葉書の時代」に使用された絵葉書画像関係

http://www.12kai.com/pc/

平成18年11月13日

ー「忠臣蔵」その後ー

怠けているので当然ながら進まない。

「忠臣蔵」は、「赤穂事件」で検索の事。

「忠」とするのはどちらが正義かという問題に関わるのでこういう呼称になるらしい。

「仮名手本忠臣蔵」があまりにヒットしたあおりで、当時のジャーナリズム合戦で

史料の何が「本当」なのかわからなくなってしまい、後世赤穂事件にかかわる

史料を収集して(正しいか偽作かは問わず)ひとつにまとめた著作ができた。

これが10巻にもなるもので、今回見つけたのはそのうちの一巻であるらしい(と今回推測)

県立図書館で本棚の間を歩き回ってようやくそういう結論に達する。

検索するならば、「文学」ではなく「歴史」関係で調査すべきだったらしい。

赤穂事件のみだけで事典がだされているが、「内侍所」では探せなかった。

検索する辞典類について前知識がないとまともに検索ができないと痛感。

朗報は「絵葉書の時代」は、どうも本の修繕をしていたようできれいな状態で

本棚にあったのをみつけた。

さっそく借りたので読んでみる予定。

やたらとおおきな「褒賞状」類を処理する。

「飛魚」「文?(遥の部首が魚扁)魚」=どちらもトビウオ

(出雲地方では「あご」といって、干し物は出汁をとったりする)

「石花菜」=てんぐさ

「繭」

農水産共進会で賞をもらったその褒賞状である。

表彰したほうに「大鳥圭介」の名あり。おもしろい。

品名が読めなくてネットで検索したら、中国語で一杯でました。

たいへん面白い!

平成18年10月30日

ー「忠臣蔵」ー

季節に合わせるわけでもないが、なぜか「忠臣蔵」の写本がでてきた。

といっても「講談」とか「草紙」ではなく。

現代風に言ってみれば「ノンフィクション」タイプの記述本。

家系図から屋敷か何かの配置図、など詳細なもの。

忠臣蔵関係には全く詳しくないのでどういう風に評価すべきかわからない。

保存状態は非常に良好なので比較的近い時代のものとはおもわれる。

県立図書館にて3日間ほど「貴重資料」の展示があって、たまたま訪れたのでみてみた。

ふむふむ。といっても門外漢にはどこをどう見てよいかわからぬ。

とはいえ、今扱っているような和綴じ本がずらりとものものしく並んでいるのを

みていると、非常に雑にひっくり返しためつすがめつ自由にやっている自分の

やりかたになにやら後ろめたさが感じられるのであった。

「出雲の国風土記」の写本が数点あり、時代が経るごとに虫食いなどで

字が不明になってゆく様子がうかがわれて面白かった。

(笑い事ではないけれど)

やはり字は「楷書」で書いたほうがよろしい。

崩し文字や草書でかいたら、あきらかに判読できない部分がかならず出てくる。

奥方様やお嬢様のかいた「文 ふみ」なんて、素養のないものには

まさに「みみずがのたくっている」としか形容できない。

平成18年10月23日

ー「ハガキ文学」と「女子文壇」ー

インターネットで検索してみると、「ハガキ文学」「女子文壇」ともに

明治時代にわらわらと出版された「投稿雑誌」の一種のようである。

どちらも若い女性をターゲットしたものであるが、

主催者は男性の「河合酔名(かわいすいめい」だったり、

載っている文章も男性だったりするわけだ。

島根県立図書館にゆき、書肆検索をしたら「絵はがきの時代」という本があるらしい。

雑誌「ユリイカ」に連載、青土社で出版されている。

おお、「開架」の本棚にある!というので探したら、ない。

だれか断わりも無く持ち出した可能性が高い。やれやれ。

松江市立図書館で忘れずに検索してみる事。

ともあれ「女子文壇」はさすがに日本女子大の肝いり?のせいか、

復刻版全集が刊行されている様子。

(語彙検索「女子文壇」による)

まだデビュー前の吉屋信子など錚々たるメンバーが投稿していた

とか、出版されたとたんに売り切れたなどという記述があるから

メジャーな雑誌といえるだろう。

後に「処女」とか言う名前に改名されたとかあったような。

田辺聖子の書いた吉屋信子の伝記をちゃんと読んでいないから、

ピンとこなかったのだ。

ちゃんと読んでみればこの雑誌についても書いてある可能性がある。

それにしても近世(江戸)の文学やら、明治期でも「男性の文学活動」は

あれこれ記述とかよく見かけるが、

このような、明治になって女性がささやかなりとも文章を書き出した

時期の資料関係がすっぽり抜け落ちているらしいと、今回思い知らされる。

当然ながら「青鞜」はあるのだけれども。

検索の技術に問題があることを認めるにやぶさかではないが。

司書さんの手をわずらわせねばならないのだろうか。

面倒である。

まあ言文一致体でぐちゃぐちゃな時期だしなあ。

今週はとりあえず二時間で15件。

これが多いか少ないかは問題はべつにして、ほとんど第一ケース終了。

次は仏教関係の雑である。

さっさとやらないと雪が降り始める。

できれば今年中に終えてしまいたいが無理だろう。

終えればあちこちひっくりかえしてスキャナーで読み取りの予定。

今回「地図帳」が出てきたので格好の資料になる。

なにしろ「台湾区」という一枚がある。

平成18年10月16日

ー衣装箱1箱めー

衣装ケース1箱めがそろそろ終わる。

秋口のよい天候に恵まれ気分がよろしい。夏場は蜂が迷い込んでくる事が多く、

かといって窓を開けずにはいられないので困る。

夕方になると少なくなったものの蚊がやはり入り込んでくるのは面倒だ。

あれこれ雑誌をみていると、何故ここにあるのか推理しがたいものをみつける事がある。

その例が下記の2件。

B80636 「ハガキ文学第3巻第8号」(雑誌)

洋装丁 225×150×5

94頁 発行明治39 印刷

発行所東京小石川区久堅町108番地 日本葉書会

定価10銭 毎号美麗なる口絵写真版木版数十個挿入

執筆者?小川未明ほか

B80637 「女子文壇第2巻第9号」(雑誌)

洋装丁 220×150×5 120頁

発行明治39 印刷

発行所東京市京橋区大鋸町1、11番地 女子文壇社

定価10銭

日本女学校専攻課第一回卒業生並職員写真

津田梅子

なるほど「ハガキ文学」なるのもの「通信販売」の流行があったのか。

とまではまあ納得するのだけれども、「女子文壇」とは?

載っている写真の説明はいったい何を意味するか?

最後に「津田梅子」閲による英語の歌の邦訳歌詞(楽譜つき)

日本女子大卒業の人が近辺に住んでいたのか、それとも?

書道教室の通信教育版が揃っているのも、現代と余りかわりない。

しかしこの2雑誌の経歴の謎は解くことは可能や否や?

平成18年9月21日

ー衣装箱3箱ー

近年恒例となりつつある別件のイベントも終わり、さて。

調べてみたら残りの書籍が衣装箱3箱に「増殖」していた。

増殖は冗談としても、かなりの数を残している。

救いなのは、いままで処理してきたのはかさばらない物件ばかり

だった。比べて今後のものは嵩張るほうの物件なので

みためほどにはない可能性はあるということ。

谷崎潤一郎の「改訳源氏物語」のなかの2冊などあって、

なかなか面白そうではある。

これがどこの出版かなどといろいろ検索してみると面白いはずである。

山本夏彦の「わたしの岩波物語」(?)あたりを参照すればよいか

とも思うが、記憶力に非常に自信がないのでどこにこの手の本の出版

のいきさつなど書いてあったかおぼつかない。

幸田露伴ならば幸田文の本で見れば大体の事情はわかるけれども。

ともあれ、たのしみ。

あれこれ他の事で忙しかったので暫く集中的にやっておこう。

たぶん早めにめどがつくと思う。

あったというまに雪が降り出しそうな。

降り出したら外に出るのが億劫になる。

平成18年9月5日

ーVersion 3ー

祝!! バージョン3完成

とまあ自分で祝っていれば世話ナイ。

誰も欲しがらないものを創っているのだから仕方がない。

あれこれ細々した物一つ一つは重要ではないけれども、

それらを満遍なく眺めているうちに江戸末期から明治後期にかけての

真言宗住職の生活がおぼろげながら見えてきた気がする。

(あくまで気だけ)

檀家からの収入だけでは苦しいのだという「嘆願書」の下敷きとか

廃仏毀釈の太政官布告で右往左往している様子とか。

真言宗醍醐派寺組織関係の書類もあって興味深い。

組織ゆえに上下関係があるわけで、職によっては「選挙」によって決まるらしく、

選挙運動の葉書があったり。

三代目は旧制松江中学校の卒業で尋常高等小学校の訓導(教師)をしていた。

そのため俸給額の辞令や教育関係の書類が残っている。

松江中学校時代のノート類を眺めていると、新進気鋭?の若々しい

しかしなにやら可愛げな少年の姿が見えてくる。

退職ののち住職になり地元の青年会や婦人会、実業講習会などにかかわり

「地元の名士」としての役割も担っていたらしい。

さて、次回からは残っている「書籍」と「掛け軸」其の他の作業に入る予定。

とりあえず何が残っているかを今一度確認せねばならない。

衣装ケースに詰め込んであるものしか後は残っていないと思う。

完成は近いぞ、さっさと終えて面白そうなものの画像スキャン作業に

はいりたいものである。

平成18年8月17日

ー法螺ー

まんざら法螺といえなくもない。

2箱目の残りが3袋となった。

これが終わればつぎは書籍関係に移ることが出来ると思う。

さらにもう一度残を確認してみる必要はあるが。

仏教の経典については、印刷物として処理することができるだろう。

真言宗醍醐派の総本山に修行して勉学したという後書きのある

「○○法」という和紙手書きのこより綴じ小冊子が何冊もある。

密教であるから当然なのかもしれないがいちいち手書きで相伝したということだろうか。

平成18年8月12日

ー長梅雨のあとの猛暑ー

豪雨のあとは猛暑。

椅子に腰掛けているだけで汗だく。

先週は午前中だけでごめんなさいして帰る。30件くらい。

大正時代に青年団で建築した青年団会館の会計収支関係領収書綴りあり。

当時、日本赤十字社の社員になるのは何かの「特権」と言えるのだろうか。

苗字のちがう戸主の資料が混じっていて疑問に思っていたが、

この人は住職の妹と結婚した(=義弟)であることが初めてわかった。

数日前、藤原定家関係の写本だとかが見つかったとかで新聞に写真が出ていた。

これだよ~んと(暑さで著述が乱れるがお許しを願う)

指し示していたのが「竹べら」だった。

さすが古文書を扱うにはかくあるべし。

と感心したが、その一方自分は滝のように流れる汗を拭きつつ、

べたべたの素手で資料を扱っているのであった。

専門家が知ったら「市中引き回しの上打ち首獄門」だよなあと考える。

かといって、クーラーのない日当たり良好雨漏りありの部屋で

いつ追い出されるか冷や冷やしながらやっている作業である。

涼しくなるまで待ってはいられないのだった。

(ついでに言えば、暖房設備もない)

久しぶりに別件で講師と出会う。

相変わらずの与太話を聞き、こちらは「作業に目星がついた」と

法螺を吹いた。吹いたからにはさっさとやらないと。

耐震偽装関係のあおりもあって、作業場所をいつ閉鎖されるかわからない

と言う話を先日他の人から伺っている。

その件について尋ねたが、とりあえず差し迫った状況でもないらしい。

かといって閉鎖には変わりなさそうである。

先はわからないので急ぐ必要あり。

平成18年7月18日

ーマップ作成ー

画像の複数の指定場所にリンクを貼る作業に挑戦。

座標を指定するという作業がおっくうで今までやっていなかっただけだが

いざやってみると簡単だった。

まずPAINTのソフトで画像を出すとウインドウ下のバーにポイント部分の座標が

出てくるのでメモ。

判明した座標をhtml文書のラインに書き入れればおしまい。

地図は町史の「小地名図」である。

全体の地図にリンクを貼って各部分図の頁を開く構成。

先日苦労して表計算ソフトに入力した小地名番号と呼び名を

別のhtml文書を作って書き入れてある。

よって地図と、小地名の列記を別ウインドウで並べてみる事ができる。

jaba scriptを使えば、開くウインドウの大きさや場所指定ができるのだけれど、

html言語のみで記述したほうが後年扱いやすいかと思い使わないことにした。

遺跡の場所を図の中に書き入れたいと考えて作り出しては見たが、

所在不明の遺跡(消滅したのも含め)もあって難しいものがある。

地図作りというのは難しいものである。

埋蔵文化財センターかどこかの報告書に遺跡所在地図というのを

見かけたようなきがする。

現在WEBにも検索できるサイトがある。

ちなみに今回の地図は、郷土資料の「附録」とする予定である。

単に図をスキャナーで取り入れて小地名を入力しただけだろうが!

というつっこみも出来るが、1000行以上もあったし一仕事だったのだ。

しかも呼び名は出雲弁でなまっている。

「平」=「ふら」とか、上という意味で「空」=「そら」とか、

「谷」=「だん」。

音で聞いていただけではわかりにくい言い回しがよくわかって面白かった。

平成18年7月16日

ーあと1箱ー

一日やって何とか1箱が終わった。

あと1箱である。

一日中雨が降っていた。おかげで梅雨とは思えない猛暑から今日は逃れた。

種々雑多な資料を表にするのだが、ほんとうにこのあとどうやって

分類するかとかを考え始めると終わらないので、

とにかく深く考えないようにして注意事項だけを記入してゆく。

画像をつければ一目瞭然となるのだけれど。

資料のニュアンスが伝わるかどうか難しい。

番号は170まで行った。

明治時代の少年雑誌の附録らしい「卓上庭球」なるものがあった。

一枚のコートの枠を描いた緑色の紙と一緒に、プレイヤーらしい

帽子をかぶった10枚くらいの「駒」があった。

テニス?どうやって遊ぶんだろう

深く考えていると先に進まないので困る。

平成18年7月5日

ー醤油 2ー

資料名 「日本の味 醤油の歴史」 歴史文化ライブラリー187 吉川弘文館

林玲子 天野雅敏 編 2005年 ISBN4-642-05587-8

醤油税は1871年施行、1875年に廃止

1885年松方財政下軍拡財源確保のため復活、

日清戦争後1899年改正で自家醸造も造石高1石以上の場合も課税

醤油の種類

濃口醤油(こいくちしょうゆ) 醤油の基本形。同量の大豆と小麦をそれぞれに蒸し、

炒って砕き混合して麹菌を植えつける。

1週間くらいたってからそれを塩水を入れた桶に注ぎ込み毎日攪拌しつつ約一年醗酵させ、

諸味(もろみ)として熟成させる。

熟成された諸味を布袋にいれて圧搾し「生醤油(きじょうゆ)」を得る。

生醤油を加熱加工したのち、製品として樽につめる。

淡口醤油(あわくち) 関西中心。濃口醤油と同じ製法だが、小麦の炒りを浅くしたり、

塩の量をかえたり、熟成期間を調節して発酵作用を抑え色を薄く仕上げる。

溜醤油(たまりしょうゆ) 東海(愛知・岐阜・三重)中心。

濃口醤油の材料を大豆のみとしたもの。小麦をつかわない。どろりとして味がさらに濃い。

白醤油(しろしょうゆ) 東海(愛知・岐阜・三重)中心。濃口醤油の材料を小麦だけとする。

透明に近く淡白な味。

再仕込醤油(さいしこみしょうゆ) 別名「甘露醤油」。

濃口醤油の製法のなかで「塩」の部分を「濃口醤油」に変えて仕込みする。

仕込み期間が2年間と長い。

起源は、近世後期天明年間に防州柳井(やない)で岩国藩主に献上されたもの。

大手醤油醸造業の発展は江戸への供給量の増大にはじまる。

地方においては自家製醤油も作られていたが、材料としての「大豆」「小麦」「塩」を貯蔵すること

のできる上農あるいは地主であった。

中小規模の醤油醸造元は材料の入手ほか掛売りの関係から地元に根強く、

明治以降の機械化した醸造元の大量生産された製品が販路に食い込んでゆくのは、

軍隊・病院・炭鉱などという人の流入する施設からである。

一年という長期間の醸成期間のうえに、穀物の買い付け資金の確保、製造に関わる設備投資が必要なため、

醸造業として起業するには多額の資本が必要である。

これらの経営者たちは多角経営のひとつとして醸造会社を営む事も多く、

また社会的名士として多く地方に関わった。

注記 間違いがあれば責任は引用者にあり

平成18年7月4日

ー醤油ー

こまぎれ時間ではなかなか進まない感じがする。

資料自体が断片的な紙片が多く余計そういう感じがするのかもしれない。

「醤油醸造の免許」という便箋断片があった。

明治時代に醤油製造は免許制であったのかと初めて知る。

美保関地区に現在籍のある醤油醸造元は2件。

あの狭い地区に2軒あるというのもみても、美保関の栄えた様子がよくわかる。

まあ今回のは別地区ではあるのだが。

町内の電話帳に添えられている「屋号」を見ると、「糀」「鍛冶屋」など

職業に関するものも多い。

ちなみに「糀屋(こうじや)」さんは現在も味噌を製造している。

近年醤油屋さんと知己になったこともあり、あちらこちらで地元の醤油に

気をつけるようになったがこの世界も奥が深そうである。

困った事に醤油の味というのは子供の頃に好みが決まってしまうらしい。

とろりとした濃厚な醤油を好む家人と自分では好みが違っていて、

合わせるのに苦労した。

育った土地が違うとこういう部分は生理的なところも関わるので余計に難しい。

味つけ云々にこだわるような舌を持たない自分はかえって幸いだったかもしれない。

平成18年6月28日

ーバラ資料突入ー

こまぎれ時間でバラ資料を始める。

整理番号はこの際なので新しい桁番号で開始した。(80000番台)

似たような関係で袋にいれてまとめていたのだが、点数としては結構ある。

明治時代の訓導(=教師)の任命書が何枚かあるので、当時の給与もわかる。

準訓導から正教員になれば当然昇給もあるし、特別俸給というのは今の賞与だろうか。

準訓導から講習を受けて指導教科の資格をとって訓導に昇格?する。

教科の名前もなかなか時代をあらわしていて興味深い。(手工科とか)

しかし何と言っても一番面白いのは、学校の履修証明とか卒業証書。

明治16年生れのこの人は旧制中学校まで行っているのだが、

その当時の証書そのものの書かれ方、また履修証明をしている

人間の肩書きがこれまたそれぞれ違う。

証明される方も違うかかれ方なのだけれど。

「何某長男 ○○(本人の名) 当何歳何ヶ月」とか。

学区の区割の制度が変わった頃らしく、「第○学区」などという記載もある。

昭和後期に育った自分には、学制とは不変のような感じがするが、

このようにコロコロ変わるということ自体からして不思議な気がする。

暫く時間をこまぎれで進めてゆくことになる。

暑い気候に入ってきたのでそれも良いか。

強烈な日差しに対して、遮光カーテンが威力を発揮してくれるかもしれない。

それにしても先が又見えない感じではある。

3袋こなして既に30数件の番号を費やした。

手入力オンリーなので指の動きに勝負がかかっているが、下手すれば腱鞘炎か。

痛めていた手首の骨のあたりが重い。

目のほうも見えなくなってきたし。ぼちぼちである。

平成18年6月19日

ー地券終了ー

出来るときにやるべしと土日続けて時間をみつくろってやる。

未入力分済み。

地券(M地区)の地番・所有者・年月日入力終了。

当然ながら明治のものだが、30数名の共有地であるものがある。

山林もあるけれど(薪用の山か)ここは漁港でもあるので「船据場」である。

よって海に面しているということで「○○番地先」という名称。

所有者の名前にあまりバリエーションがないのは、たまたまのことなのか、

そこの大地主にあたる人の分だけ寄贈されたのかは不明。

つぎはT地区の追加分など本当の「バラ」資料。

結構数があるのでやはり目安として番号をつけておいたほうが後探すのに楽かもしれない。

大き目の付箋にいままでより大雑把な「0000-0000番」のような書き方で行く。

それぞれは似たような主題でポリ袋に入れ分け済み。

長期間こういう形で保存できるのか否かは自信ないが、とにかく簡単で安価に済む。

他の本にはハトロン紙の封筒に区分けしてと書いてあったりする例がある。

それだと中身が見えないからいちいち何が入っているか一見してわからない。

封筒ならば付箋をつけなくても番号を書き入れることが出来るので便利。

しかし、これだけの件数あると封筒購入の金額が馬鹿にならない。

ポリ袋が劣化して溶着しなければとりあえず問題ないということで。

さすがに「紙魚」はポリ袋は食わないだろう。

酸性紙問題というのもあるが、それはどうなのかよくわからない。

江戸・明治期は和紙使用が主だから本体自体はさほど心配していない。

封筒はどうなのかしら。かえって汚染のもとになるかもしれない。

出雲地方で、明治期には教科書用とかに和紙製造の注文が殺到して大変だったらしい

というのは、安部榮四郎記念館にあったか?

ともあれ、現在の紙幣も「楮・三椏」(こうぞ・みつまた)を原料とした和紙。

確かに昔の書簡を触っていても「脆さ」はあまり感じない。

自分に和紙の種類まで判定できる知識があればよいけれども、それはないものねだり。

平成18年6月17日

ー地券のはずがー

今回のことによりデータの配布要請に関して

随分対処について考えていたが、一応の方針が決まる。

「原則として応じない」

それを可能にするための方策を考える。

ダイレクト手入力の箱を終了。

次は「地券」をと思い探し出したら、なあんと番号の付箋をつけておきながら

まだ目録リストにあげていない箱を探し当ててしまった!

目を疑ったが、どう見ても未入力。

新しく作った番号と重複していないのがせめての幸い。

というわけでそちらが、先になる。

そろそろ汗で手が汗ばんできた。

真夏や蒸し暑い気候の折は避けたい気もするが、時間がないので仕方ない。

平成18年6月12日

ーいっけん落着ー

講師より身元保証の連絡あり。

そのほかのことは自分に関係外のこととする。

今回はよい教訓になった。

自分の判断力を含めて。

さてさっさとやらないと、終わらないぞ!

平成18年6月12日

ー算段ー

開館予定の資料館準備室の関係者が、先週歴史体験資料館を視察。

自分の作成して製本している目録関係のデータが欲しいという話になったらしい。

展示部責任者のN氏よりうかがう。

そのとき同席した分室の方に電話してみたが、詳細がはっきりしない。

資料のうちの、写真が欲しいのか目録自体が欲しいのか、何に使うのか。

説明してもらうくらいの権利は有しているつもりだが。

分室の方に講師に控えを渡している事を説明し、コピーしたいならばそちらに依頼するようにといっておいた。少なくとも講師相手ならばちゃんと説明くらいはするだろうと思う。

そこで講師がどう応対するかは全てお任せ。責任放棄といえなくもないが。しかし渡してある控えが見つかるだろうか?これこそ運任せ(笑)

平成18年6月4日

ー箱整理ー

先日部屋の中が乱雑で作業が出来ないとの指摘をうけたので、今回大きさのちがう箱を持参して入れ替えてみた。型が違うので棚の中にいくつか収めることができ、少しは整理したような雰囲気になった。

とはいえ指摘者に実際作業する意志が在るか否かは別件。(とは穿った見方か)

久しぶりにあれこれ資料をいじっていたら、まだ前途の長いことをあらためて思い知らされた。

なんだか資料が増えたのではないか、とさへ思えるくらいの数がある。

菓子箱の資料を表計算ソフトにて入力を始めた。

内容はてんでばらばら、ほとんどが一枚ものなので番号付けに要する手間省きのため

見たままダイレクトに必要事項を一行に入力という処理の方法。

もう少し大き目の別箱に、近世の文書の未入力ものがある。

今までは表紙が読めなかったのでスキャンして画像処理していたが、大体目が慣れて

きたのでこの分も同じくダイレクトに目録作成しようと考えている。

但し、形態としては5次資料のつづきとみなした方が考えやすいので、

通しの整理番号をこれらには付箋でつけてゆかねばならないと思う。

他に2箱の雑多な書類あり。追加のものもあるが地区混淆になってしまったような気がする。

地券については、個人情報の問題はあるが地番と所有者くらいは入力してゆきたいと考えている。

戦後の農地解放政策の関係で地主が一気に代わったわけだが、それ以前の「名家」の歴史

を考えるにもそういう情報が欲しい。当然ながら悪用する気はない。

などと考えていると書籍出版物のほうは先になりそうである。

目録作りがひと段落したら、旧制松江高校会報をネットのサイトに

展示したら面白そうだとおもっているのだけれど。

あ、その前に町内遺跡分布図を画像閲覧できるようにしなくちゃあ。

町史の上巻だけが9冊ばかりあって下巻がない。

長い間保管したあった場所を知っていたので同じ数の下巻をそろえようと断わりに行ったら、

タイミング悪く掃除のため移動された後だった。残念だ。

所轄部署が変わった分、説明に行く面倒が増えると考え諦めることにする。

根性がないといえばないが、融通をつけてやろうというより

「検討以前に、いかに断わるか」の方に頭をつかっての応答を聞いていると

こちらが犯罪人のように思えてきてぐったりする。

(言ってはなんだが、この十数年倉庫に死蔵されていた代物なのだけれど)

まあ、それはそれ。これはこれ。

平成18年5月21日

ー資料購入第二弾ー

松江市だるま堂にて、2点購入。

さすがに専門店だけあって、郷土関係古書、浮世絵ほかおもしろい

ものが並んでいて眺めていて飽きない。

資料目録整理についての総論、実際の作業を解説した本を見つけた。

さすがに「柏書房」、こういう全集ものを刊行していると感心する。

半分以上作ってしまったあとでこういうものを見つけても無駄といわれそうだが、

二度と見つけられないだろうから購入。

結局古い文献を扱う作業にはあまり変わりが無いと思うので古くても問題ない。

(この当時はマイクロフィルムみたいだが、今はどうしているのだろう?)

書物の扱い方などもあって便利そうだ。

問題はこれを読む時間の捻出。

それからもう一冊面白い本を見つけた。

不昧公好みの茶室を解説した本で、写真に敷地図間取り。

もうけものだ!と、衝動買い。

本当に売って貰えるかしらと、差出す時にはおそるおそる(苦笑)

「あなたみたいな素人?には売れません」なんていわれたらどうしよう?

ペーパーバックを高校時代に買っていた時もこういう感じだったなあと思い出す。

「松江の茶室 付小泉八雲旧居」 工学博士 岡田孝男著 茶室研究会発行 昭和45

記載内容 「有沢山荘/菅田庵・向月庵・御風呂屋」「明々庵」「普門院観月庵」

「平田国富/康国寺博淵亭」「安来清水寺/蓮乗院古門堂・厳松軒・本坊茶室」

「松江奥谷万寿寺/竹裡亭」「田部邸普庵」「三谷邸万雲亭」「宍道木幡邸伝利休茶室」

「小泉八雲旧居(根岸邸)」「ヘルン当時の中学校配置図」

「松江市富田旅館平面図(現大橋館の場所)」「織原家隠居平面図(現皆美旅館の場所)」

「文献資料 整理の実務」 地方史マニュアル3 林英夫編 柏書房 1977年

以上2冊分代金1,700円也

残高12,188-1,700=10,488円也

平成18年5月17日

ー古写真と遺跡分布図ー

旧町報の表紙になっていた、古い町内の写真をスキャンした。

写真の収集に関わっていたらしい方が他の部署に異動したらしく、

ご返事をいただけそうにないのでとりあえず。

鮮明な写真が欲しいと資料展示の元締めが仰るので、出来るだけ細密な

BITMAP形式で取り込んだら目玉が出るような大容量のかさばり方。

縮小、圧縮のJPG形式に二種類変換してCDに焼いてみた。

牛で引いていた田起こしの犂が丁度写っている写真がご要望。

十年前にもなるか、小学校のPTA研修で町内の遺跡を案内してもらったことがある。

歴史探検隊とはまだ縁がない時期で、講師殿とは別の件で顔見知り程度だった頃の事。

そのときに戴いた「町内の遺跡分布図」があったはずだと、引っ張り出してきた。

これもスキャンしてプリントアウトしてみた。

森山地区周辺の縄文から弥生、古墳時代の遺跡分布図である。

この地区の郷土史研究の当時若かった人たちが一所懸命歩いて調査されたので

これだけたくさんみつかったとのこと。

他の地区にも知られぬ遺跡があるはずだとの解説だったのを思い出した。

記載してあるものでも数があるので、展示しておこう。

もう一枚、これは歴史探検隊の講義の折にいただいた「町内の埋もれた遺跡」

これは中世から近代にわたるおおまかな遺跡の分布図。

これも講師の筆。

今になってこんなもの出されてもとお思いになられるだろうか。

あらためて分布図を作成するのも難しいのでお許し願いたい。

それから、郷土資料リスト「Version2」を作成、印刷しはしたが

どうするか今迷っている。(第5次資料を加えた)

つぎに講師にお会いする機会があるとすれば秋かな?(笑)

平成18年5月13日

ー書籍購入追加ー

興雲館にて

「松江市ふるさと文庫1 お殿様の御成りー近世松江藩主と本陣」

「絵図で見る城下町 松江」

各一部500円 合計1000円を購入。

13,188-1,000=12,188円(残高)

購入物件は一応終了。予備と、防虫剤にまわす予定。

平成18年5月6日

ーカーテン吊るすー

高いところは苦手である。

出窓に踏み台を置いたら丁度手がとどいたので、おっかなびっくり吊るしてみる。

さすがに「遮光一級」である。

ずいぶん暗くなった。とりあえず梅雨時期の紫外線がよほど低減できると思う。

紙製品には紫外線が大敵。

そういえば、「子供より古書が大事と思いたい」(鹿島茂 青土社)に、

ヨーロッパにパルプによる紙が普及する以前は、ぼろ布(=綿)をほぐして

それを固めて紙にしていたということが書いてあった。

だからこの時代の本は修復するときに「漂白液」に漬けて染み抜きが可能だ

というお話だった。

本の修復技能士が書いた本の中に、染み抜きのために特別な液に漬けるという

説明があったが、なるほどもとは「布」だからできることである。

イギリスの産業革命の頃を語っていた「ホームの歴史」には

リネン(=木綿)を織る産業が発展の要として説明されていたのを思い出す。

日本では「木綿」が渡来してくるのはかなり遅く、ほかの植物による織物が

主だったようだ。

「床の間」(岩波新書?)に日本家屋に「綿ホコリ」があらわれるのは

木綿が普及するようになってからだと言う話だったのが面白かった。

というわけでつれづれに綿のはなし。

体が休み状態についてゆけなかったらしく、最終日一日寝込む。

ま、とりあえずカーテン吊るせたからよしとしよう。

平成18年5月5日

ーカーテン購入ー

余分に休みが突然できたが、なにするでもない。

とりあえずカーテンを購入した。が、寸法が丈足らずかもしれない。

吊るすのに背も足りない。(が、今更これは伸ばせない)

島根歴史辞典の新本定価をみたら目が飛び出そうになったので、

「松江の歴史年表」にする。

小泉八雲の著作も欲しいが折角の原本(英語)ならば自分で読んでみたい。

(が、時間がない)

イベント資料用に「日本を伝える!英語で折り紙」を購入。

清算

カーテン(防炎・遮光1級?)100巾×200丈 3枚(4,480+2,880)

150巾×200丈 1枚(3,969)

(サイズが変則的なのは柄無視で予算低減を狙ったため)

計11,329-

書籍 農民生活事典 2,854

英語で折り紙 1,659

松江の歴史年表 1,050

計5,563-

合計16,892-

残高13,188-

平成18年5月3日

ー予算ー

この関係についての予算が設定できたので、すこし環境整備をしたい。

予算は\30,080-

会計簿はつくらないのでここにメモしておく。

とりあえず、カーテンをつけたいと思う。

サイズを測ってからのことになる。

それから、島根県歴史年表を調達しておきたい。

図書館で閲覧すればよいところだが面倒さにまぎれてなかなかすぐにと行かない為。

それでなくとも此の頃忘れ易い。(思いつきとはそういうものだが)

市内に「だるま書房」が、カラコロ工房の近くに店舗をかまえている。

この古本屋さんは老舗だが現在はインターネット販売が主らしい。

先日初めて(店舗を移動してから)行って見た。

店主がパソコン相手に作業中。地元歴史関係の資料などが並べられていて、

雑書がない分わかり易くなっていた。

ここで調達してみよう。

また、郷土資料館にふるさと文庫シリーズ?なるものが発刊されて

置いてあったので(一冊5百円)購入予定。

これからが楽しみである。

それから備忘。

講師にむかし頂いた遺跡位置資料地図をスキャンして

資料CDにおとしておくこと。

平成18年4月21日

ーバージョン2完成ー

第五次資料リストを加えたVersion2を作成完了。

なんだかメリハリなく作業したせいか、どこか落としたところが

あるような気がしてならないが、ま、一応完了ということにする。

菓子箱の中の資料を終えないことには本当はひと段落とはいえないのだが、

そちらにかかる時間がしばらく取れない可能性もあるので今回締め切った。

PDF形式への変換を今回からやめることにした。

表形式のファイルがあるのでそちらを使って検索ほかやってもらおう。

少し作業にブランクがあるとすぐにファイルの構成を忘れてしまうので

(年のせいでかなりボケが入りつつある)

思い出すためにはできるだけ単純であったほうがよいことに今更気付いた。

平成18年4月5日

ー「木の実方」の場所ー

全く別の話だが、たまたま親戚筋の祝いの折に初めて訪れた

「松江宍道湖温泉 太平閣」のロビーに縦横1メートル以上の額装された

江戸時代の松江城下古地図があるのを知った。

島根県の歴史地図帳に多分掲載されているに違いないが、大画面で見ると

老眼の自分にとってはたいへんありがたい。

そこで「木の実方」を見つけた。

どうも位置から言って現在カラコロ工房か、旧山陰合同銀行本館のどちらか

と思われる。南田町とはちがうので移転したのかもしれない。

それとも倉庫だけがちがうところにあったのか

(よく見たらやはり南田町だった)

また武家屋敷に、資料の中にみる事のできる役人の名前がたくさん見つけることができた。

些細なことではあるが心情的に楽しめた。

また、やはり娼家や遊興街などはまとめてなるべく辺鄙なところにおしこめようとする策が

よくわかる。昔は畑の辺鄙な土地がいまや「繁華街」というところが皮肉といえば皮肉ではある。

平成18年4月4日

ー「つづら完了」ー

つづらの残り資料スキャン作業完了。

今度は画像編集と目録作成作業となる。

つづらの中身について「第五次資料」と名づけることにしよう。

次は木製菓子箱内の資料にしようかと考えている。

これらは「件別」で番号をつけることにする。

所有者が関わった「青年会」(明治時代)や「婦人会」関連の規約,会報、

尋常高等小学校の訓導(=教師)であったために保有していた紙片などが

あるのだがこれらを一枚一枚番号付けするよりも子番号で整理した方がわかりやすいと考える。

件数としては数はそうないが、いちいち目録化するのに手間がいるかもしれない。

あと衣装ケースに2箱くらいだろうか。

そろそろ先がみえてきたかな?とは思うが楽観にすぎぬか。

目録ができれば、松江高等学校の会報の画像化を試みたい。

蔵書の中にある大町桂月の著作を読んでみたい気もある。

といいつつ、お経をどうするかなあ。

平成18年3月12日

ー「つづらの中は」ー

つづらの中にある資料のスキャン作業が、大詰めに入る。

G群の半分くらいまで行く。あと一日やれば終了するだろう。

一日といっても一日中やっているわけではない。

自分の「休日」を利用してのことであるから、他に優先順位のたかい事項があれば

当然こういうことは置いておかれる。おかげで数年もかかってしまったわけだ。

スキャン作業というのは単純作業であるから、長時間やっていると気分がくさくさしてくる。

単純作業なのに気が抜けないから、集中力がつづくのはせいぜい2・3時間である。

おかげで遅々とした進み具合なのである。

スキャンして画像を取り込んでしまえば、あとの作業は現場でやらなくてすむ。

つぎはどれをやるかなあと考える。

木製の菓子箱の中に、番号付けをしていないものが入っているはずだとおもう。

それから、一時中断している書籍のカード作成がある。

そろそろ大正から昭和の発行書籍に入るはずである。

それとは別にもう一度仏典関係を確認してから、整理方法を考えねばならない。

先日支所の方が、数年前に町民から借り受けた古い写真がたくさんしまいこんである

という話をされていた。

どれくらいあるのだろう。古い写真は面白いが、さてその「整理」というのが曲者。

平成18年1月23日

ー「第5次資料開始」ー

新年度。

一応今まで完了したものについてを「Version(バージョン)1」として

ひとつにまとめて構成したものをつくった。

講師氏にうかがったところでは「リストだけでもよい」ということだったので、

中間報告として第一次から第四次までの分を一冊にした。

大きさはとりあえず125MBに収まっているのでCD一枚に書き入れ出来た。

2冊製本して一冊講師氏に押し付ける予定

リストをプリントアウト製本の時点で、入力ミス発覚。

思い込みというのは怖いもので「勧化」を「権化」と読んで疑っていなかった。

プリントしたところを手書きで訂正。

CD-Rに訂正したファイルを書き込んだが、ちゃんと全部訂正できたかどうか。

やはり事後訂正は面倒な作業である。

考えるのがいやだったのであえて何年越しでこんなことをやっているのか確認

しなかったのだが今回記録のため確認。あれれ3年越しの作業である。

当然だ。やらなければ進むはずがない。

あらたにスキャン作業を開始した。

寒い方が手のひらに汗をかかずに済んでありがたい。

それにしても、あとどれだけで完成するのか。

T地区文書がAからはじめて、E群にはいったところ。Fまである。

多ければG群まで作った方がよいかもしれない

このほかにまだ大正昭和初期の一般書籍が整理してなくて、

仏教経典関係がわんさかあるがどう分類すべきかよくわからない。

まあ、愉しみながらゆくべし。 別に期限があるわけじゃあなし。

平成17年12月8日

ー「第三次資料関係」ー

第三次資料目録作業のうち画像リンク付け一応終了。

これはM地区の資料でおよそ140点ある。

仕上げは第四次のT地区資料と一緒に考える予定。

第四次分で番号のあるものは現時点ですでに450番台を越している。

このうち画像取り入れ完了は200点に満たない。

約半分といいたいところではあるが、じつは番号さえつけていない物件があるので

前途不明である。

そろそろ資料全体の構成方法について考える必要が出てきた。

T地区分についてはおよそ内容を推測して群れを作って番号つけをしてはみたが、

当然ながら時代順というわけにはゆかない。

時代不明というのも多くあり、なかには内容の推測できるような語彙の判読できる

ものもあるがそれは今回画像としてみて目録の体裁を作り始めてから判明したことである。

とりあえず第四次資料で取り込み済みの画像のリンク付け作業にとりかかる。

単純作業ではあるのだが、時間がかかる。

なにかソフトを使えるのかもしれないが、自分の実力に見合った方法でやった方が

確実であるのと融通が効くので地道にやってゆくことにする。

(多分それが一番単純で、容量を食わないと思う)

今回書簡(明治時代)のなかに「疱瘡」(天然痘)という字をみつけた。

葉書書簡の文面にスペイン風邪(インフルエンザ)らしき記述もみかけたことを思い出した。

「伝染病費割戻簿」(大正時代)などというものもあった。

対応さえ間違えねば死ぬ事は少なくなった現代だが、こういう伝染病はつい最近まで

「死病」という感覚であったのだとあらためて考える。

現代の日本は油断しすぎているかもしれない。

平成17年12月1日

ー「花神」ー

借りてきた司馬遼太郎全集、肝心のところがちょうど巻の終わりになっている。

読むうちに、資料の「京都大戦」は現在でいう「鳥羽伏見の戦い」であることが

判明する。(日本史に強ければ当然知っていて然るべきことだが)

また「触」のなかの一枚は「七卿落ち」に関するものであると思われる。

根気よく積み重ねて考えてゆかないとわからない事が多い。

寺院号が二つ連名でいつも書類が来ているのでこの二軒がどのような関係であったのか

とずっと考えていた。

とある一枚の書簡をみて漸く考え付く。

ひとつは「分家」であるのではないかということ。

次男が分家として得度したということなのだろう。

「宗門改めの触れ」が何枚もある。

これを全部解読していったら、時代のながれがみえて面白かろうと思う。

平成17年11月28日

ー資料参考 維新をめぐる大戦と大峯山登山ー

司馬遼太郎全集の「花神」掲載巻と、松江職制の本を借りる。

書簡資料のなかに一枚「毛利大膳父子」と明らかに読めるものがあった。

また、冊子として多分まわし読みしたのではないかと勝手に想像する

京都から大坂に送った「○○大夫の手紙の写し」というのが「慶応4年」とあり、

「新撰組」「会津藩」「公方様」「薩摩」などという語彙がゴロゴロ読める。

となると、薩長聯合が京都入した折の大戦の様子とうかがえる。

このあたりの様子については「花神」あたりが詳しいはずである。

なにしろ「花神」の主人公大村益次郎は長州の大将である。

(好きでなっていた様子はないが)

司馬さんのしか読んだ事がないので選ぶ余地はないという事情もあるが、

「花神」は何度も通し読みしているのでどこらあたりを読めばよいか

よくわかっているという事がある。

ただし、ここにある「手紙」は松江藩関係ならば当然「徳川方」からみた

戦況ということになる。

松江職制の本については拾い読みしかしていないので、再度。

ちらと開いたら「唐船番」の話がある。

M地区の文書に「唐船番」に徴用された船と水夫の報告書があった。

このあたりのいきさつについても確認ができそうである。

「大峯山権化」

江戸時代の寺社制度についての本を眺めると、

総本山はもちろん奈良の「大峯山」だが、その下の組織に山伏修行の場が各地にあり

そこも「大峯山」と称していた。

出雲近隣の霊場として、三瓶山・出雲大社・鼻高山(どこだ?)ほかあり。

そこには宿泊施設(宿坊)があって、ここで成人式儀礼として登山修行をする。

(当然男子15歳のみ)

というわけで、奈良までの観光旅行というわけではないらしい。

表紙にある「卯の月」とは?雪深い山に行くのは難儀。

奈良は遠すぎる。田植えのじきに重なったら明らかにまずい。

近場にあったとすれば一応納得。

平成17年11月23日

ー目録記入ー

スキャンは終わっていないが、現場でしか出来ないので限度がある。

暇にまかせてぼつぼつ画像整理にはいりつつある。

以降の作業は、現場を離れたパソコン操作。

1 文書整理番号と画像番号とを対応させた表を作成

2 画像をみて表に件名・年代・検索に使えそうな用語を記入

3 閲覧用にHTML文書を書く。表に記入した事項を貼付、

参考画像および、各画像へのリンクを記述する。

第三次資料は「M地区文書」第四次資料は「T地区文書」として

整理しつつある。

が、完成したあかつきには(いつのことやら)

こんどは閲覧や検索の方法が問題になると考えられる。

ファイル構成の仕方についてもどこかで資料を探す必要がありそうである。

平成17年11月21日

ースキャン強化週間終了ー

スキャン強化週間が終了。おかげで大分はかどったが、

それでもやっと「D群」にはいったところである。

ながめていて、寺社の制度について知識が必要である事をひしひしと感じる。

図書館でその手の本を探すにも迷うくらいに無知である。

江戸時代の寺社制度に関しての本を一冊借りてみた。

なになに「五山」?

とお~いむかしにそんな言葉を聴いたことがあるような、という程度の知識。

身につまされなければ知識は身につかないという典型である。

情けないのは「習っていないとはいえない。が、そもそも覚えていないものを

思い出すわけがない」ということ。愚痴っていても仕方がないけれど。

(何しろ自慢ではないが、日本史は五段階評価で2をとった科目の一つ)

ボウとした単なる「知識」より、眼前に「具体的証拠」があれば忘れる事はない。

「そのどこが面白い?」という問いについてはいまのところ黙秘。

作業していたら「手結の変 たゆいのへん」の当事者の縁故であるという方と話す機会があった。

鹿島町歴史資料館で購入していた資料をお見せしたら興味を持たれ、借りて行かれた。

「手結の変」とは?

維新前夜、鳥取藩の藩吏を襲い殺した十数人の若者たちが

山陰の海岸伝いに船で長州藩を頼って逃れようとこころみた。

途中「手結浦」にて追っ手と斬り合いになり、生き残った五人が捕縛される。

結局この五人も切腹したという顛末の事件らしい。

(自分の理解したところでは)

とうことで、ここにも「歴史の身近な証人」。

歴史とは漠然としたものとは限らないわけである。

とりあえずスキャンを優先しているのは、これから雪の降る季節にはいるため。

暖房のない室内は耐えられるけれども、凍結した道路は御免したい。

ひょっとしたらこれで3回目の春を迎えるような気がする。

気が長いというより、グズといったほうがよいかも。

平成17年11月14日

ー木實方ー

松江市立図書館にてM地区文書の中にあった「木實方」(=「木実方」きのみかた)

についてなにか記述はないかとさがそうと考えたが、まだこの図書館に慣れていないため

どこを探してよいか迷ってしまう。

とりあえず各藩の解説がかいてある本を除いてみると記述があった。

やはり読めないでいた木偏の文字は「櫨 はぜ」であるらしい。

殖産として栽培を試みていたらしいが極端な赤字事業と併設したために頓挫したらしい。

インターネットで検索してみると、櫨の実から取れる「木蝋」はすすがでない

最高級品の灯明であるそうで、四国でさかんに特産として栽培されていたらしい。

江戸時代輸入された木だということを知り驚いた。

殖産事業としては高級品でよい発想ではあっただろうが気候があわなかったのかも

知れないという気がする。また、実の採集に木登りしなければならないのと

採取量に比してとれる蝋の効率がいまいち見合わなかったのかもしれない。

M地区の「櫨実」上納の帳面が数冊あるのだが、一冊の裏表紙に庄屋が

年々採取の量が減っているというような事を書いているようである。

地区としてはかなり離れたところのT地区と合わせての帳面がある。

この「櫨の畑」が広範囲に作られていたわけではないようである。

ー書籍検索ー

島根県立図書館にて「きのみかた」で検索、うち出てきた本のうちの二冊

「旧制松高校物語」 朝日新聞松江支局編 今井書店版 昭和43

「木實方秘傳書」 アチック ミューゼアム彙報 第十 稲塚和右衛門 1936

松高とは旧制松江高校の意。

これと「木の実方」がどこで合致するのかと不思議に思っていたら

大正末期に開校したこの高校の「仮の寮」=「自習寮」が

「木の実方役所」であった蔵屋敷を借りて開かれたということらしい。

このような些細な事項を検索語にいれる県立図書館おそるべし。

33ページより抜粋

蔵屋敷跡につどう

「高校生」になじみのなかった城下町だけに、開校早々、下宿を引き受ける家は少ない。

松江市西川津の校舎も寮も、まだ建設中。

そこで旧藩主松平伯爵家から、現在、朝日新聞松江支局のある

同市南田町鍛冶橋北詰一角の建物を提供してもらい、仮寮とした。

松平不昧公(ふまいこう)が財政再建のため建てた「木の実方役所」という蔵屋敷で、

明治以後、私塾修道館や工業学校の校舎に利用されていたところ。

寮舎には、ハゼやツバキの実がいれてあった東向き2むねの倉庫を

戸だなで5室に仕切って活用した。(以下略)

あれま、この「私塾修道館」はT地区の資料関係者が一時在籍していた学校である。

よくよく縁があるとみえる。

(註 無断引用おゆるしください)

平成17年11月10日

スキャン作業にとりかかってようやく一地区分のものがひと段落した。

当初読もうにも読めない文字ばかりで腐っていたのだが、数をながめているうちに

詳細はともかくどういう性質の文書であるか多少憶測がつくようになった。

書籍については寸法をいちいち測っていたが、和紙文書に関する限り

あまり重要ではなさそうなのと迅速化のために、計測していない。

この地区を「M地区」と借りに呼ぶ事にする。

ここに残されていた文書は住民を管理する「庄屋」の保存していたもののようである。

江戸時代上のお役人に訴え出るにはこの「庄屋」「年寄」(各浦に各一名ずつ、計2名)

をとおして文書を提出せねばならなかったらしい。

ゆえにかならず文書の最後にはこの役の連署捺印がある。

宛先には「与頭○○」様と宛名がやはり数名書かれ、

また藩の担当役名(例 木實方)が書かれる。

これらの人名を見るだけで時代の区別ができる。

何か事件があればとりあえず書簡で報告、のちに何部も調書を提出せねばならなかったようだ。

なるほど今も昔も変わらずと思ったのは、書式が決まっていたらしいことである。

残された「扣 ひかえ」をもとに後年その数字や人名だけを訂正(盗用?)し、

そっくりそのまま提出したらしき気配がある。

それだけ「役場に文書を提出」するということは骨折りだったにちがいないと苦笑した。

資料の多くは「年貢」を徴収するための資料である。

田畑の持ち主(あるいは耕作者)耕作地別の石高、新たに開作された田畑の申請の帳面が

何冊もある。ほかに、「蛮国船あるいは他国船」が流れ着いた時に

御用で徴用された船や水夫の報告書らしきものがあった。

明治の役場用係を勤めた人の資料は大体読めるので有り難い。

この中の資料に明治政府の要人「西郷従道」「榎本武揚」など高名なひとの名を

見るにつけ感慨深い。

ここでも重要なのは「地租」「税金」の資料。「倉庫税」というのは初見。

M地区をひとまず終えて、T地区の資料のスキャンを始めたらその違いが目に付く。

これは「寺住職」の所有文書だけあって巻紙の書簡が多い。

日常的に文字を書くといっても、地籍簿などという決まりきった書式の帳面に

決まった文字ばかりを書く「役人(武士)」の文字と違って教養職?にあたる

寺住職の相互書簡などは書き方も内容も大違いである。

昨日スキャンした冊子はどうも維新前夜(慶応2年正月大戦の事?と表紙にある)

の京都から大坂へ送られた書簡の写しと書いてあるが、どういういきさつの

資料なのかと想像するとわくわくする。

といいつつ、番号だけでもすでに500番台くらいあるので先は永いぞ。