郷土資料よもやま

あれはとある団体主催「町内の史跡をめぐるツアー」のこと。

古戦場となった砦あとに案内し、滔々と「尼子と毛利のたたかい」をかたる講師。

(このころはまだ“単なる顔見知り”だった)

とつぜん話の腰を折り、

「で、“とだじょう”っていうのはどこにあるんで」と私。

「え?そんなことも知らないの」と、同行の士。

あれをごらんと指差すかたに、大根島ごし青くかすむ安来の山々。

「へっ?なんであんな遠いとこからここまで」

といいかけ、言葉をのみこむ。

さすがに「もとより“尼子氏”を知らない」とは言いかねた。

郷土意識なるもの甘く見ると身に危険がおよぶ。

毛利側の地からやってきたとわかれば尚更。

(おいおい)

爾来、“出雲地方住人”として知るべき「知識」なるものを、

覚えのわるい頭に詰め込みはじめ、はや数年たちました。

しかしいまだにない、土地勘。

(いや、日本史の知識)

いまにして気がつく

「毛利氏って大内氏と違うんだよね?」

"ふるさとは 遠きにありて 想うもの"

左様、遠くにあるから知らぬことも気にせずにすむ。

生まれ育ったところならば、大きな顔して暮らして行けもしように。

かくしてこの私、際限なき「知識地獄」に

あしを取られているわけであります。

旧制松江中学校のこと

郷土資料のなかに数冊の「学友会雑誌」があります。

明治30年代後半にこの中学校に在籍した、当町出身者蔵書の一部です。

中学校の場所は「松江市奥谷」と奥書にあります。

いまの県庁所在地、松江城の近くのようです。

一般的に旧制中学・旧制高校・大学で学ぶことのできた人間は、

資産家の子息か、秀才で将来を見込まれ篤志家の援助を受けたか、のどちらか。

すなわち“エリート候補生”出世予備軍。

卒業者の名簿には、学校の校長から教職、役人ほか錚々たる地位の名前が並んでいます。

これを眺めていると、面白い。

たとえば、部活動として「柔道部」「剣撃部 けんげき」「短艇漕艇部」「野球部」。

「野球」を日本に紹介したのは明治に生きた「正岡子規」という話だったと思いますが、

30年代に既に部活とするほどの普及が認められる。

野球に限らず浜田中学などと、盛んに中学同士で交流「試合」をしていた様子。

「短艇漕艇」というのは「カッター」でしょうか。

松江城をめぐる堀はそのまま水路として宍道湖へとつながります。

いまはご存知「お堀めぐり遊覧船」が炬燵つきで観光客をのせてまわっています。

なるほど“修学旅行”というのもこの頃からあったらしい。

その「道中記」がありました。

計10日間の長旅で、岡山、四国、広島方面です。

この頃は伯備線が通じていなかったようで、開通はいつだろう。

宍道湖を汽船で出発、鳥取県より中国山地を徒歩で山越えです。(「江府」の名あり)

山を越えたところで、一気に川を船で下る。 (流れが急だと記述あり)

岡山に着いて岡山中学校訪問、紡績工場見学。

瀬戸内海をながめつつ、汽船で四国へ渡って金刀比羅まいり。

広島にて旧大本営ほか(江田島・呉)を見学、厳島神社に参って、

帰路は三次経由の徒歩行。

山中を道に迷いつつ、ようやく宍道町に出て宍道湖を汽船でわたる。

走り読みですので正確ではないかもしれませんが、概要です。

「更迭」というから何か悪いことでもしたのか、と思ったらこれは「転任」ということらしい。

校長や教頭、教師の更迭報告などを見ていると、ずいぶん遠方の中学校に

転任しているのがわかります。

(それほど中学校の数がなかったともいえる?)

そういえば、小泉八雲も東京から松江、熊本へと転居したなあ、と思い出したりする。

漱石が八雲の後任になって、八雲を慕っていた学生からいじめられたという話は有名ですね。

ながめていると、いろいろ疑問もでてくる。

といいつつじつは「目録作り」の真最中、ほんとうはここで立ち止まっている

時間はないのでした。

宗門改め状

だいぶん涼しくなったので、先日から郷土資料で読めない文書を

スキャナーで取り込んでみています。

一番初めにやってみたのが「宗門届け出」書。

(なにしろタイトルからして読めないので適当に表題つけております)

要するに「住民票」あるいは「戸籍」というようなものでしょう。

悪意のある言い方では「葬式仏教」などという言い方がありますが、

それどころではない、住民を一生にわたって管理するための「寺」という組織の

精密さには感心しました。

江戸時代の藩には「宗門奉行」というのがいて、他の職と兼任しながら一年に一度

各浦(郷?)の寺に住民の異動(婚姻・養子縁組ほかによる)を申告させていたらしいのです。

子供が生れれば「手形」をとって寺に納めて戸籍の原本とします。

婚姻ほかで異動すれば、異動元の寺と移動先の寺とが互いに証文を交わします。

明治の戸籍法の無かった時期には、戸主のいない身寄りのない独り者などは寺を住所として

届け出するような方式をとっていたそうです。

ここにある実物は天保時代からのもののようですが。

庶民ですから当然苗字はなし。「○○の娘 ○○」ということになります

この名前のおもしろさ(というより?そりゃあないだろう!)

むめ すて しめ いか ???

「いか」ではなくて「りか」?

江戸時代に庶民が?

実を言うとこの近郷の訛りだと「ひで」は「ふんで」と聞こえます。

いったいどういう風に発音していたのだろう?

どういうつもりで名前をつけたのかしら?

「すす」=「しし」=「すし」の出雲弁の世界ではどうなるのかしら。

聞き取る方もいい加減に書いていたりして…?

ときおり一人で大うけしていたりするのでした

(平成17年10月4日)