なぜ、野原の松の林の陰の小さなかやぶきの小屋にいるのでしょう。
ようは、住めればいいからです。 目立つ必要も感じていないのです。
そして重要なのは、「東奔西走するためでもある」といっていいかもしれません。
東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、
南に死にそうな人あれば、行って、怖がらなくてもいいといい、
北にケンカや訴訟があれば、つまらないからやめろというために。
「自分の存在」というものは、自分を満足させられた次には、人を助けるために使う必要があるのです。
いつまでも「自分を満足させられない」状態が続くから、いつまでも、他に意識を向けられないのです。
この節で賢治が言いたいことは、生き物が死ぬことは自然なことであり、
争いがいかにおろかであるか、ということをわかってもらいたい希望がこめられていると同時に、
「怒りや悲しみで苦しんでいる心の状態」から解放してあげたい、という思いやりに満たされているように感じます。
日照りのときは涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩き、大自然の驚異になす術も無く、ただただ畏怖する。。。
「自身のチカラではどうすることもできないことを、もがかずに受け入れる」
これは人生で最も大切な処世術であると私は思っています。
みんなにデクノボーと呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、ただただ他の土台になり続ける。
こんなことは、とても高度な魂の持ち主にしかなせないワザです。
「上に立ちたい」という欲が無い。
「認められたい」という欲が無い。
なぜならそれは、すでに自分が愛で満たされているから。
ただ単に、両親からの愛や、周囲の環境から受けた愛情の量のことではありません。
それだけをみて言うならば、人類は完全に「不公平」の上に成り立っています。
ここで言っているのは、そうではなくて、「愛を感知できる能力」の問題なのです。
どんなに、周りの人から不幸だと思われる状況であっても、その「小さな小さな愛の声から、大きな幸福を感じとる」のは、本人の能力次第なのです。
その感知能力を育てる修練のツールがまさに、yogaでもあるのです。
「私」を利用することで「他」が利するならば、それが「私の幸福」でもあると考えられるようになれれば、いつでも幸せだとは思いませんか。
なぜなら、周囲の人たちからもいただいてしまっているわけですから、いつでも幸せがどこかしらから舞い込んで来るのですよ!
そういう者に、私もなりたいです。。