ヨガは
激しく動くものや
難しいポーズができるからといって
「上級者」かというと
そうではありません。
もし
体がやわらかいから
ポーズがキレイだから
といって「上級」になるならば、
バレリーナや新体操の選手、
アクロバットの技術がある人たちは
みんな「ヨガの上級者」
ということになります。
でもそれはちょっと違うかな~、、
というのは
誰でも感じられるところではないでしょうか。
本来のヨガは、
熟達していればいるほど
より小さな動き で満足できるようになっています。
人はよくヨガに「癒し」を求めますが、
それはヨガが
「より難しい動き」
を目指しているわけではないということを
何となく感じ取っているからではないでしょうか。
「求める」ことは一種の煩悩です。
つまり
ハードさや難しさを求めるのも
また同じことです。
より大きな刺激を求めるのは、
欲のひとつであることは否めません。
別に「煩悩」がいけないのではなく、
ただ「煩悩である」、というだけです。
話を戻します。
ヨガは、近年でこそ
エクササイズのひとつとして見られていますが、
そもそもの目的が違います。
ヨガは、
修練を積めばつむほど
より、「何もしない」状態でいることが
出来るようになってきます。
いったいなぜでしょう。
それは、
ただ、じーっとしていても、
何かしらの動きが発生していることに
「気がつけて」いるからです。
さて、
「何かしらの動き」とは何でしょうか?
それには色々ありますが、
たとえば肉体の中の生理的活動で見ると、
血液など体液の流れ、
内臓の動き、
などがあります。
これらはとても精妙で
意識を凝らさないと気がつきませんが、
生きている人間であれば100パーセント
間違いなく動いています。
また、体内の動き以外でも、
肌に感じる空気の流れや
耳から聞こえて来る音、
鼻や目から入る情報によって動かされる
ココロや感情。
これらにすべて注目したらどうでしょう。
それはそれは忙しくて、
もう退屈どころではいられません(笑)
ヨガが熟達すると、
あえてカラダを動かさなくても
こんな感じの「精妙な」刺激たちに
気がつけるようになります。
ただ座っているだけでも
寝転んでいるだけでも、
十分に刺激を感じられるようになります。
ただ息をし、
「存在」しているだけで、
とっても刺激的だということを
カラダをもって理解します。
内側の、または外側の
ものすごく小さな刺激を
とてつもなく大きく認識できるようになる。
すると、
ただ、ジーーーーっとしていても
いつも充分に刺激的なのです。
この「微細な動きに気づく」
ということ。
これが進んでくると、
ただ生きて
日々を過ごしているだけでも、
一瞬一瞬がすべて
センセーショナルになります。
つまり、
ヨガのポーズをしていないとき* でも
ヨガを実践していられるようになります。
(*ヨガのポーズをしていないときとは?
~ヨガクラスに出ていたり、
アーサナなどで動いているときではなく、
仕事をしていたり、
街を歩いていたりと、
普通の生活の場にいるだけのときのこと)
そんな「普通」のときでも
いつでも面白い刺激に満たされることになります。
小さな刺激たちを感じとれるようになると、
生活の中で感じる刺激に充分 「気がつける」 ので、
わざわざ大げさなポーズで
刺激を作る必要がなくなります。
もちろん
ヨガを続けていると
すてきな副産物がついてきます。
身体能力は高まるし、
“ワザ" も熟達するし、
肉体の隅々まで意識が行くようになるし、
「気」がまわるので元気になるし、
柔軟性や筋骨の発達も見込めます。
あげればキリがないですが、
とにかく
身体的には良いことづくしです。
ただ、
ヨガを続けるメインの目的は
そこではありません。
そんな「目に見える」ところにとどまっているのは
ものすごく惜しいのです。
「目に見える」次元から
「目には見えない」次元に向かう。
皆さんには、
「粗さ」から
「精妙」へ向かうためのツールとして
ヨガを利用していただきたいところです。