歩くとき、
足の裏の感覚に意識を向けていますか。
夏の熱い砂浜とかであれば
ちょっと強烈なので
いやでも意識するかもしれませんが。
でも、
そんなに強烈ではなくても
本当はいつもいつも
カラダが刺激に満たされています。
そして
受けた刺激によって反応している
カラダの声は、
本当に本当に
小さいです。
意識を研ぎ澄ませないと
その声は
聴こえないことがほとんどです。
でも
もしそんな小さな声を聴けたとしたら
脳の中では何が起こると思いますか。
脳は外側から、
または内側の感情などから受けた
すべての刺激を感知します。
それらの刺激によって引き起こされるセンセーションを
瞬時に自分にインプットします。
そして
それに相応したアクション(涙を流す、怒る、笑う等)を
瞬時にアウトプットします。
コンピューターみたいに。
しかも完璧な設計図の。
ということは。
インプットされる対象となる
「センセーション」があるから、
脳が活動するのです。
あらゆる感情や感覚から生まれる刺激が
脳にインプットされるので、
さまざまな反応をアウトプットできるのです。
この、
「あらゆる感情や感覚をとらえる能力」のことを
「感受性」 といいます。
この「感受性」アンテナの機能性により、
小さな声を拾えるのか、
または大きな音にしか反応しないのか、
の差になります。
認知症やアルツハイマーなど
脳の活動に制限が出る症状がありますが、
なぜそのようなことになるのでしょう。
高齢の方は往々にして
『どうせトシだから・・・』と
色々なことをあきらめることは多いです。
子供や孫がそばにいない寂しさから、
何も楽しめない状態になっていたりします。
『私を必要としてくれる人がいない…』
なんて悲観的になったりもして笑
「刺激」がなくなってつまらなくなる。
刺激が「なくなって」というより、
「刺激に気づけなくなって」いるだけですけどね。
そもそも生きているだけで
食べて、話して、TV見て、排便もして、
ゴロゴロして、歩いて、寝て・・・
と、色々なことをしています。
それら行為をしているときって、
まったく刺激がないのでしょうか。
そんなわけありません。
いつも無意識に
当たり前のことを当たり前のように
ただこなして生きてしまっているだけです。
たんに感受性が衰えているだけです。
衰えているというより、
放棄しているとでもいいましょうか。
そうすると、
ちゃんと刺激を捉えようとする
「能動的な気持ち」が無くなっているので、
脳が、
『あれ、わたくしもう用済みですか?』と判断し、
働くことを止めてしまうのです。
少しの時間で構わないので
すべての音を消して目を閉じ、
少しの時間で構わないので
そこにじっと座って
呼吸を意識してみる。
いつもと同じような環境が、
たとえば耳から入る音、
鼻から入るにおい、
皮膚が何かに触れている感覚、
これらが “大げさ” に感じられるようになったら
脳が活性していると考えても良さそうです。