どのような仕事に就くのか、
職種を選ぶのか
選択をするとき、
「“わたし”にしかできない仕事がしたい!」
「“わたし”じゃなければダメな仕事がいい!」
という思いを基準に考える人がいます。
また、若い人ほど
このように思う傾向が強いと思います。
これは
自分の存在価値を感じたい、
という
“認められたい”欲求から
生まれる願望です。
また
私生活の中でも
「個性」を出そうと頑張ったり、
人に憧れられるような
華やかな世界を目指したり、
“わたしらしい”を
表現するために、
努力したりします。
ですが、
身につけようと頑張っている
いわゆる「個性」の表現。
実は
本当はとても簡単だったりします。
何しろ、
「そのままの自分」でいるだけ、
でいいのですから。
それは
いったいどういうことかと言うと。
「そのままの自分」は
自分の親にとって
かけがえのない子供であり、
替えは決して存在しません。
「そのままの自分」は
子供にとって
かけがえのない親であり、
替えは決して存在しません。
「そのままの自分」は
友人にとって
かけがえのない友であり、
“友人”というくくりでは別にいても
「あなた」という友人は
他にありません。
上司にとって
“部下”というくくりでは別にいても
「あなた」という部下は
他に一人もいません。
先生にとって
“生徒”というくくりの子供は
たくさんいても、
「あなた」という生徒は
完全にあなた一人しかいないのです。
もっと簡単に言うと、
その人の仕事や
職種が何であれ
「自分」という存在は
「たった一人」しかいない
ということです。
医者、教師、社長..etc
その「ステータス」こそ
別に誰であっても構わない。
逆に、
その「親」に対する「子」
その「子」に対する「親」など、
「その人がその人である」
ということ以上に
価値があることはありません。
もちろんたしかに、
「あの社長だから成功した」や、
「あの医者でなければ治せなかった」など、
その人の社会的立場において
その人でなければ
不可能だったかもしれない
という例は、
数え切れないほどあります。
でも、
人はいつ急に
この世から
去ってしまうかわかりません。
たとえば、
昨日元気に出勤していた同僚が
昨夜事故で帰らぬ人に・・・・・・
となった場合、
その同僚が
大きなプロジェクトを
メインで抱えていたとしたら、
会社にとってはひとつの危機となります。
でも、
そうは言っても
社会の歯車は
何とか回るようになっています。
もちろん惜しまれるでしょうし、
周囲の人たちは
大変悲しみます。
ですが、それは
その帰らぬ人となった同僚が
抱えていた仕事や、
社会的ステータスに対して
悲しんでいるのではありません。
その人と
直接関わっている人たちにとって
大切なのは、
その人の「社会的立場」ではなく、
「その人自身」が
いなくなったことに対しての悲しみ
なのではないでしょうか。