時間に「追われる」

人間は

便利さを追い求めて

「発展」してきました。

そして、

いかに怠けるかを追究し続けた結果、

ここまで「時間短縮」することに成功しました。

ネットの普及により、

たったいま出した問いが

一瞬で地球の裏側までとどき、

かつその答えが、

ほどなくして返ってくる。

効率的だ!

なんて時間に無駄がないのだろう!

どれだけ時間を有効活用できるのだろう!

と、普通に思う人が多いと思います。

さて、

時はさかのぼり。

昔むかし、

人が直接手紙をたずさえて

その脚で連絡を取り合っていた時代。

人々は、

自分が出した文書に対する返事の前に、

そもそもその手紙は

相手のもとに無事に届くだろうか?

というところから始まります。

文書を運ぶ人が

険しい山道で足を滑らせたり

獣に襲われないとも限りません。

また、文書はちゃんと届いたとして、

その手紙を受け取った相手は

いったいどのように反応するだろう?

ちゃんと返事をよこしてくれるのだろうか?

相手は今時分、

そもそも生きているのだろうか?

といったようなことに

悶々と思いをはせていたかもしれません。

どんなにあがいても

「結果」をすぐに知ることができない状態、

「待たざるをえない」状況です。

人々は、その消息を待つ間に

あることないことを妄想したり、

熟考したりしつつも、

長時間待たされることを

余儀なくされていました。

そのため自然と、

「考えても仕方がないや」

ということになります。

考えたところで

状況がわかるわけではないし、

思い通りの状況を作れるわけではないですからね。

文書が自分の手から離れた瞬間、

それはもう「神に託す」も同然だった。

なにしろ自分では

どうすることも出来ないわけですから。

彼らは諦めの境地にならざるを得なかった。

つまり、手放しの境地です。

この「手放せている状態」であるとしたら、

ある意味では「心にゆとり」があったことでしょう。

執着がない状態とも言えますから。

振り返って、現在。

たったいま質問したことに関しても、

ほんの数分待てば

答えを得ることができる世の中。

たったいま問いを出したばかりで

すぐに答えが返ってきてしまうことによって、

「待つ」

「耐える」

「思いをはせる」時間が

ほとんど削られてしまうという環境にあります。

一見

「時間が増えた」ように感じるのですが、

そうなってしまったおかげで、逆に

「えーっと、じゃぁ次は次は・・・・・・」

というふうに、

「次にやること」に着手せざるを得ません。

また、

「一時間も前にメールを送ったのに

なんでこんなに返事が遅いの?!」

というように、

ことが早く進んでしまうことによって

その「結果」にも早さを求めるようになりがちです。

「やるべきこと」という「追っ手」

が発生するために、

結局は、自ら捻出した「時間」に

追いたてられることになります。

「1日がすぎるのが年々早くなってくる」

と感じるのは、

単に、歳を重ねているからではないです。

便利になった世の中に

「追い立てられている」のです。