7. 試 練
7. 試 練
建設工事は順調に進み、建物の形が見えるところまで出来上がってきた。私たちは合掌苑の近くにアパー
トを借り住んでいた。ところが八月に入ると突然工事が中断され、職人達が引き上げ始めた。私達は驚い
てどうしたのかと現場監督に抗議すると予想もしなかった答えが返ってきた。「市原さん、あんたはひど
い人だ。約束の工事代金をちっともくれないじゃないか。このままじゃ工事を続けることはできない」こ
う言って職人達は引き上げていった。屋根が乗り、壁が片面だけついた建物を放置して。
私たちは理事のひとりのYを信用して、建設資金を全部渡していた。Yのところに行き、どうしたのか
と詰問すると、Y夫婦は土下座をして申し訳ないと謝るだけであった。使い込んだと言う。Yの手元には
もうすでにお金は残っていなかった。建設法人にはほとんど支払われていなかったのである。残りの理事
を急遽召集し事後策を検討したが、たとえ告訴したところで資金の回収ができる見通しもなく、告訴の費
用がもったいない。それよりも工事の継続が急務であると結論となり、私たちは再び資金集めに走り回る
こととなった。
そうして九月になった。昭和三十四年九月二十六日、紀伊半島潮岬に上陸した大型の台風は名古屋市西
方をかすめ日本海へ抜けていった。名古屋地方では六千人の死傷者を出し、のちに伊勢湾台風と命名され
る昭和史に残る大災害である。この日私は秋の彼岸中のこととて、龍昌寺の檀家をスクーターで棚経を唱
え回向のために回っていた。朝から土砂降りの大雨であった。ずぶ濡れになりながらなんとかその日に予
定の檀家をまわったが、龍昌寺に戻ると寒くてしょうがない。四十度を超える熱が出て、町医者の宮路医
師が往診してくれたが、ジフテリアだと診断され薬を飲んで寝込んでしまった。外は雨風がどんどん強く
なり、大荒れの天気となった。翌朝、町田のアパートにひとりでいた副苑長より龍昌寺に電話が入った。
何を言っているのかよくわからないが、とにかく大変なことが起きたからすぐに戻ってこいと言う。台風
一過で空は晴れ上がり、熱は嘘のように下がっていた。急いで町田に戻ると、建設中の建物は見事に倒壊
していた。崩れた建物の横に皮肉にも作事小屋だけがちゃんと残っていた。屋根を乗せ北側だけ壁をつけ
た建物がまともに風を受けた形となり、ひとたまりもなく倒壊したのだった。私たちは声もなく、ぼうぜ
んと眺めていた。ふと気がつくと、近所の人たちがリヤカーをひいて集まってくる。何をしているのだろ
うと見ていると、崩れた建物の木材をみんなで持っていく。最初は片付けてくれているのかと思ったが、
そうではなかった。当時はどの家も燃料は薪であった。そのうち建物は基礎だけ残してきれいに無くなっ
た。
一週間ほどして私たちのアパートに町内会の人がやってきた。伊勢湾台風で被害を受けた人達の援助の
ために寄付をして下さいという。私たちも大変な被害を受けたのだから援助してもらいたいぐらいだった
が、寄付をした。考えてみればあの日私が熱を出したのは仏様が守ってくれたのだ。もしあの場に私がい
れば一晩中建物を支えようとしていただろう。そして倒れる建物の下敷きになって死んだか大怪我を負っ
たであろう。伊勢湾台風では六千人もの死傷者が故郷の名古屋地方だけで出ている。それに引き換え私た
ちは怪我ひとつ負っていない。二人とも元気である。二人が元気ならばなんとかなるさ、そんな楽天的な
気持ちであった。この頃はよく二人でスクーターに乗りあちこちにドライブした。そんな場合ではなかっ
たが、二人にはそれほどの悲壮感はなかった。明るさを失ったら人は死んでゆく。これは戦地で私が学ん
だことだ。副苑長に、お前が元気で、私が無傷だ。これに勝る宝どこにある。二人で力を合わせればこれ
から何でもできると言ったことを覚えている