8. 再 起
8. 再 起
そんな楽観的な二人であったが、前途は大変厳しいものであった。まず理事会を招集し前途を協議する
が、見通しは何もない状況である。皆さんに土地を分割して出資してくれた分に見合う土地をお返しした
いと申し出るが、理事の皆さんは土地をもらってもしょうがない。市原さんにはぜひ再建してもらいたい
と言う。結論は合掌苑建設をやり遂げることとなったが、資金がない。そのうえ建築法人には支払いが滞っ
た分の借金がある。八方塞がりである。
私は師匠のところに行き、百万円を借金させてもらいたいと申し出るが、師匠はどぶに捨てる金があっ
てもお前に貸す金は無いと言い切ってさっさと出て行ってしまい、まったくとりつくしまもない。冷たい
師匠だとその時は本当に腹が立った。もう借金できそうなところは当たり尽くしている。銀行も相手には
してくれない。協力を約束していた理事も再起不能と思い四散していった。駒沢大学の学友である小島
九一、坂本忠作、鈴木堅蔵が力を貸してくれてはいるがそれでは足りない。本当に首をくくるしかしょう
がないかと思い始めたところにお金を貸してくれる人が出てきた。副苑長が明治記念館で結婚相談所をし
ていたときに息子の結婚相談に来た大村吉乃という婦人が、アパートひとつ処分するのでそのお金を一時
貸してもいいと言ってくれた。これで建設資金の目処は立った。建築法人への借金は小島理事が借りてくれることになった。こうして昭和三十五年四月に再度建設工事に入り、同年八月には木造平屋建ての三百
平方メートルの建物が完成した。昭和三十五年八月十日には百余名の関係者を集め無事に開苑式を挙行す
ることができた。しかし資金不足から総二階の建物は平屋なってしまった。当初の定員五十人は確保でき
ず、半分の三十人になってしまった。このため予定していた社会福祉法人の設立も不可能となり、養護老
人ホームとしての許可も得られなくなってしまったので、個人立の有料老人ホームとしてスタートするこ
ととなった。
有料老人ホームとしてスタートしたので、入居者は自分で探さなければならない。そのため当初は組合
寺院や民生委員宛に三千枚のチラシを作り郵送した。その後に人の集まる所にということで、都内の床屋
や美容院の住所を電話帳から調べ、チラシを郵送した。チラシは結局一万枚撒いた。副苑長と毎晩遅くま
でビラを作り、宛て名を書き、各二十三区の本局ごとに仕分けをし、市内特別郵便で出すためにスクーター
二人乗りをして各郵便本局まで出しに行った。このときに私が考えた条件は、一時金で五十万円支払って
もらえれば一生面倒をみますということであった。この条件で九人の人から入居の申し出があった。この
九人から頂いた一時金で借金を返済し、さらに施設用地を買い増すことができた。このときの九人は、平
成三年に最後のひとりが亡くなるまで、結局全員最後までお世話をした。お客様と約束をしたら命をかけ
てもそれを守り通さなければならない。施設の職員一人ひとりの心構えである。
こうしてやっと施設の建設も終わり、運営についても目途が立ってきた頃であった。中野の龍昌寺で町
内会か何かの集まりがあり、師匠はそれに出ていた。私は何気なくその会場のある二階へ階段を上ってい
くと師匠の声が聞こえてきた。
「うちの秀翁が町田に老人ホームを作ると言っていたが、先の台風で潰してしまった。その後に私のとこ
ろへ来てお金を貸してほしいと言ってきたが私はきっぱりと断った。寺にはそのぐらいの金はあったが、
もしそのときに貸していたら、秀翁は何かのときに人を頼る男になってしまっただろう。だから私は貸さ
なかった。しかし聞くところによると秀翁はその後立派に再建し、今は何とかやっているらしい。私は大
変うれしい。皆さんもこれからは秀翁を応援してやって欲しい」 私はこの言葉を聞きながら、思わず涙が
出た。あの時は本当に冷たい師匠だと恨んだが、このときには師匠のありがたさが骨身にしみた。