10. 地 域
10. 地 域
社会福祉施設は地域から断絶して存在することはできない。これは私の信念である。建設の当初から私
は地域にコミュニティーを作ることを心がけてきた。
昭和三十六年の春紫雲寮の建設工事に際し、日精病院の山上院長よりの紹介で岡山に本社を持つ工務店
に建設を依頼した。その時に現場監督として岡山から上京してきた若い夫婦がいる。この夫婦は朝から晩
まで実によく働いた。工事が終わり岡山に戻ると言うので、町田に残らせ工務店を作らせた。これがコタ
ニ工務店である。古谷氏夫妻は何かと私を頼り、私も陰に日向に惜しみなく援助した。今ではコタニ工務
店は町田に根ざした立派な工務店となり、今は合掌苑の重要な応援者である。
社会事業大学で共に学んだ仲間に、浅井よ志ゑという看護婦がいた。千葉で働いていたが、持病があり
大変だという。町田に来て事業をするようにと奨めていた。やがて町田に来ることになり、できたばかり
の紫雲寮の二階の一室を事務所として家政婦紹介所を開くことになった。開業にあたっては許可を取るた
めに何度も八王子の法務局に通い、私が後見人としてやっと許可となった。その後めぐみ看護婦家政婦紹
介所は日本でも五本の指に入る規模の家政婦紹介所となり、その後継者の浅井徹君は今では合掌苑ケアグ
ループ株式法人の共同事業者である。同じく社会事業大学の仲間に手塚直樹という男がいた。家を探しているというので合掌苑の近くの土地
を世話して家を建てさせた。手塚君は静岡大学の教授などを経て、今では合掌苑の訪問介護員養成講習の
先生をしてもらっている。
このように私は仲良くなり、この人はと目をつけた人をどんどん引き込んで協力者にすることに長けて
いる。このように地域に協力者を増やしていくこと、これが施設がその地域で発展するために不可欠なこ
とである。特に駒沢大学時代の友人である鈴木堅蔵君、坂本忠作君、小島九一君には伊勢湾台風での倒壊
から再建に至る過程において、またその後の最も苦難な時代を一緒に苦労をしていただいた。中でも鈴木
堅蔵君には平成十一年まで合掌苑の役員をしていただいた。このような協力者なしに今の合掌苑はありえ
なかったのである。
また、喧嘩をしないことも鉄則である。昭和四十九年には合掌苑東雲寮について木造の本館及び紫雲寮、
松雲寮の三棟を建替え、養護老人ホーム五十床、特別養護老人ホーム五十床を建築する計画を立てた。近
隣住民との約二年間に及ぶ話し合いの中で、周辺に対しこの計画の建物は大きすぎるとの結論となった。
そして特別養護老人ホームの建設計画を白紙に戻し、老朽化していた本館のみを建て替える計画となった。
施設は常に周辺の環境、近隣住民との友好的な関係維持にも常に神経を張り巡らせなければならない。
現在の合掌苑桂寮の敷地は以前は森であった。この森の地主はSさんといった。この地主の口癖は「俺
の森の木は二千年前からここに生えている。おまえ達は後からここに来たんだから、落ち葉が落ちるの枝
が当たるのと文句を言うならば、おまえ達が出ていけ」とよく言っていた。合掌苑も職員が枝を払えば怒
鳴られ、お年寄りが下草を刈り込めば怒られた。入居者のご家族からは日当たりが悪いので木を切ってほ
しいと何度もご要望をいただいたが、木を切るどころか、枝を払うことさえも許されなかった。でも私は
微笑みを絶やさず決して怒らなかった。「苑長!」と呼ばれればいつも「はい、はい」とニコニコし、森
を見回りに来たと言えばお茶やお菓子をごちそうしていた。そのうちにSさんは手土産に畑の野菜を持っ
てくるようになった。このような関係をSさんとの間に構築できたこと、これが後に合掌苑桂寮を建設す
るときに大いに役立った。その後、この地主の所有する一千五百坪の土地に合掌苑桂寮が建つことになる。
考えてみればSさんは先祖伝来の土地を守ることが自分の努めであると一生懸命になられていたわけで、
そのSさんの思いが合掌苑桂寮の建設用地となったのである。微笑みを絶やさず、決して喧嘩をしないこ
と。地域との調和、友好関係を第一に考えていくこと。これは合掌苑の理念として決して忘れないでいて
ほしい。