2. 原 点
2. 原 点
昭和二十年、軍人としてタイ国で敗戦となり、一年ほどの抑留生活を経て復員した。やがて故郷の岐阜で出家し、その後東京都中野区の竜昌寺で修行することとなった。竜昌寺は中野区中野六丁目に現在もある。私の師匠岡本碩翁師は、岐阜県郡上八幡の北辰寺とこの竜昌寺の住職を兼務していた。
中野区一帯は昭和二十年春の東京大空襲で多数の犠牲者を出し、町は焼け野原となった。そんな中で、竜昌寺は奇跡的に完全な姿のまま焼け残った。若葉が萌え出す頃の五月、中野方面はB二十九による焼夷弾攻撃で一面焼け野原となった。ところが、そんな中で竜昌寺は延焼を免れた。竜昌寺を囲むように植えられていた、たっぷりと水分を含んだイチョウの木が水を吹き、火から守ってくれたのである。当時、あたり一面焼け落ちた中に、竜昌寺だけが遠くからポッと見えたという。
竜昌寺は救急救護所として空襲で焼け出された被災者をお世話することになった。最初は八十世帯の被災者のお世話をしたが、やがて親類縁者が見つかり、そのもとへ帰っていかれる方、働き口を見つけて独立される方などが相次ぎ、最終的に残ったのは、戦争で家族を失い、高齢でお金も仕事もないという方たちばかり十六世帯二十人の方たちが残った。
ちょうどこのようなときに私が入っていったのである。この方たちは、雲水寮でお世話をしたが、私はこの方たちになんとか食べ物を差し上げたいという思いでいっぱいだった。とはいえ、日本国中がひどい食糧難にあえいでいる最中である。なかなか思い通りにはいかない。
なんとかこの人たちに少しでも多く食べて喜んでもらえる顔が見たい。私はそのことばかりを一心に考えていた。
何かいい方法はないものだろうか。そんなことを考えながら町を歩いていると、焼け跡の空き地がふと目に留まった。もともと人が住んでいた家だったところが空襲で焼け落ち、そのまま放って置かれたものらしい。
「ここを耕せば野菜や穀物が収穫できるのではないだろうか」
こう思って、ふと隅っこのほうを見ると、焼け残った門柱が立っていた。そこには、タイルの表札が残ったままだった。その表札に書かれた名前を頼りに、早速役所に行き、その人の現住所を調べてもらった。
役所の人も、最初はそんなこと調べて何するんだと言わんばかりの態度であったが、わけを話すと快く教えてくれた。
役所で教わったとおり、立川のそばの砂川までその人を訪ねて行き、これこれしかじかとわけを話すと、
「それはまた奇特なこと。どうぞご自由にお使いください」と快く貸していただけることとなった。
私はその人に丁寧にお礼を述べ、早速畑仕事に取り掛かった。
土地は全部で二百坪ほどあったが、このうち五十坪を畑にすることとした。それから、私は夜が明ける前からここへきて、土地を耕し、下肥をかけて野菜を育てた。収穫したジャガイモ、サツマイモ、小麦やトウモロコシなど、いろいろな穀物や野菜を二十人のお年寄りの方たちに食べていただいた。
このようにこの頃は生きることが精一杯で、僧侶としての仕事よりもこの方々のお世話に明け暮れていた。それと同時に福祉事務所との連絡も段々と増えて行った。
大変だけれども平穏な日々が続いていたが、あるときひとつの事件が起きた。竜昌寺で暮らされている方々の中にOさんという方がおられた。北海道稚内のローカル新聞の社長だった方で、学識も財産もある人だった。戦争末期に法人を退社し東京の自宅で余生をおくっておられたが、家は空襲で全焼、奥さんは爆死、たったひとりのお子さんも戦死した。焼け出されて行くところがなくなり竜昌寺を頼ってこられていた。
このOさんが昭和二十六年の暮れに突然「ご住職のお世話になって、ただ無為に生きているのがとても心苦しい」という遺書を残して玉川上水に入水自殺を図ってしまわれた。
このことに岡本碩翁師は大変なショックを受けた。お年寄りはみな安心して生活しているものと信じていただけに、心に計り知れない大きな痛手を受けておられたようだ。私達は毎日話し合い、ひとつの結論に達した。
ただ善意だけで施しをしたり、お世話したりすることだけでは、それを受ける人たちの心の負担になってしまう。Oさんの死は、このことを私達に教えてくれた。
「個人が行なう慈善事業には限界がある。公に認められた事業であれば、権利として堂々と世話も受けられる。公的な施設にしてその方の権利として利用できるようにしなければ心からの安心は得られない」
Oさんの死は、人それぞれ万人の自己の尊厳として犯しがたいものを持っている。私たちにこのことを教えてくれた。
Oさんの事件を重く受け止めた碩翁師と私たちは、その後協議を重ねて、個人の慈善ではなく公認の養老施設にするべきだとの結論に達した。
こうして私たちは養老施設の建設に取り掛かった。当時は老人福祉法など影も形も無く、施設は生活保護法によって運営されていた時代である。建設補助金などは当然無い。幸いにして建設地は境内にある。建設資金募金に頼ることとなった。私たちは檀家と近隣の町内会に呼びかけて募金を集めることにした。幸い岡本碩翁師が竜昌寺のある町の町会長を務めていたこともあって、趣旨を話すと大勢の人たちが賛同してくださり、積極的に募金に協力してくださった。こうして日夜を分たぬ募金活動が続いた。東奔西走しながら野菜の栽培も続けた。今思い出すと若いというのはまったくありがたい。疲れなど全く感じなかった。こうして募金を約五十万円集め、昭和二十七年の秋、建物が完成した。翌二十八年四月、安井東京都知事より第一種社会福祉事業の運営許可を受け老人ホーム合掌苑はスタートした。