11. 母の慈愛
11. 母の慈愛
私は昭和十七年に出征し、シンガポール、タイ、ビルマ(現在のミャンマー)と転戦した。昭和十八年
三月二十四日にはメイクテイラー飛行場で敵機の機銃掃射を背中に受け、肩甲骨がばらばらに砕けるほど
の傷を負い、ラングーンの野戦病院で死線をさまよった。一時は故郷に「市原健一戦死」の報が入るほど
であったが、その後、奇跡的に一命をとりとめた。部隊に復帰後、ガダルカナルと並んで大東亜戦争史上
最も悲惨な戦場と言われたインパール作戦参加、十人のうち九人までが戦死したほどの激戦であったが生
き残り、タイで敗戦の報を受けた。連合軍捕虜となり抑留生活を一年ほど送り、昭和二十一年六月、葛城
という排水量一万五千トンの航空母艦に乗り込み日本へ復員することになった。
夢にまで見た日本への帰国である。しかし船内で耳にする日本の情報は著しく良くない。「敗戦の内地、
特に東京、大阪、名古屋、広島など市の名前のつく町は、ことごとく焼け野原になってしまっている。山
も焼けて緑の木もない状態だそうだ。若い男はみな去勢され、娘たちはアメリカ兵の慰み者になっている。
それに、想像もできないほどの食糧難で、餓死者が続出しているらしい」といったものである。百パーセ
ント信ずるわけにはいかなかったものの、大変らしいということは想像できた。
情報を耳にした高橋、田中が早速私のところに来て、こう言った。
「もし内地が今聞いたような状況だったら、どうしようか」
「市原、われわれは生きていくのは並大抵ではないぞ」
「太く短くパッとやるか」
私は二人に、思わずこう答えた。すると高橋、
「それには何をやるか?」
「海賊をやろう!」
こういったのは田中である。
「俺は渥美半島で生活していたことがある。三河湾が格好の場所だ。伊良湖崎あたりで漁船を分捕ろう」
「そうだ、それにはあと二人仲間に入れて、五人でやろうじゃないか」
「集合の日は八月◯日」
こんなことを決めるには時間はかからない。そして、このことは極秘にして、肉親にも言わないと、私
たちは固く約束をした。
私たちを乗せた復員船「葛城」は、順調に航海を続け、七月二十一日の朝には駿河湾に入った。甲板に
出て富士山を遠望した時は感動で涙があふれ、胸が締めつけられた。「葛城」が東京湾に入る。緑の山々
が迎えてくれる。夢にまで見た祖国である。
やがて船は浦賀湾に投錨し、検疫を受けることになった。検疫官や看護婦が小舟に乗り、私たちの船に
近づいてきた。私は目を見張った。内地は食糧難で飢餓状態だと聞かされていたのに、こちらに向かって
くる看護婦たちは、みな丸々と太っているではないか。聞いていた情報と違っていたので、少しびっくり
した。
やがて検疫も終わり、下船の指示が出た。身支度を整え、私は下船者の長蛇の列の一員として、タラッ
プを一段一段踏みしめて降りた。故郷で父母の待つ日本の土が目の前にある。一段、一段と降りるたびに
故郷が近づいてくる。何度も夢に見た故郷まで、あと数段・・・私は最後の一段を降り、足を強く踏ん張っ
た。盲管銃創を右肩甲骨に受けているので五体満足とは言えないが、とにかく生きている。「死ぬときは
一緒に死のう」と誓い合った戦友たちはビルマの荒野の露と消えてしまった。彼らと一緒に帰れなかった
ことに対して、本当に申し訳なく思う。彼らの分までやらなくては。また命がけで何かやろうとあたらめ
て思った。
復員者のための宿舎に向かう入り口で、首筋から嫌と言うほどDDT粉の噴射を浴びせられた。どいつ
もこいつも体が真っ白になった。指示を受けた位置にリュックを下ろし、横になる。ふとまわりを見ると、
みな青畳の上でゴロゴロ転げ回っている。私もさっそくゴロゴロと転げ回る。懐かしい藺草のにおいが心
地よく鼻をくすぐった。やがて夕食。何が出たか覚えていないが夢中で食べた。とにかく美味しかった。
久しぶりに味わう満腹感だ。しばらくすると、大きなおならが出た。私だけではない。あちらでもこちら
でも大きなのをあたり構わず放っている。戦場でも船の中でも、こんな大きなのは一度も出なかった。「材
料不足だったんだから出るわけがないさ」一同大笑いして床に就いた。
翌七月二十二日。私は東海道線に乗り込んだ。名古屋方面は人数が大部隊であったので、何両かの車両
にすし詰めにされて出発した。やがて静岡駅の手前まで来ると駅員が「復員軍人のみなさん、窓はしっか
りと閉めてください。投石の危険がありますから」と言ってきた。初めは意味がわからなかったが、やが
てその意味がわかり愕然とした。私たちは、国を出て行くときには日の丸の小旗と万歳の歓呼の声で送ら
れたではないか。負けたとはいえ、国のために命をかけて戦ってきた人間である。国を思い、郷土を思い、
父母に孝養を尽くすは人の道ではないか。その私たちが石をもって追われるとは何事であろうか。この時、
海賊をやろうと言った戦友と目があった。あれをやろうという合図だ。
その後、列車は順調に進み、名古屋で大半の者が降りた。私はさらに岐阜駅から高山線に乗り、美濃加
茂から越美南線(現在の長良川鉄道)に乗り換えて郡上八幡駅に着いた。夏の日は長い。バスと徒歩でわ
が家に着いたのは夕方だった。真っ先に父母に挨拶をした。続いて、仏壇の前で先祖に帰朝の報告をし、
旅装を解いた。父がひとこと「私たちが日露の役で手に入れたのをお前たちはみな捨てた」と寂しそうに
言った。心配していた兄や弟たち三人について尋ねると、みな元気に復員して、すでに名古屋や東京の出征前の職場に戻っているという。私たちが育った名古屋時代には八人から九人いた家族も、今では父母と
末弟の三人がいるのみであった。
私が帰ってきたことは、村落の親戚縁者にすぐ伝わり、その夜に大勢の人々が集まって、私の復員を祝っ
ての祝宴が開かれた。長良川の鮎や酒などを持ち寄っての宴会である。戦場で何度も夢見たおふくろの牡
丹餅もたらふく食べた。いつ果てるともわからない宴会も、午前零時を過ぎる頃にはみな帰っていった。
やがて誰もいなくなった部屋に寝そべって、頭の中で海賊の計画実行のために伊良湖崎へ集まる日時な
どを考えていた。するとそこへ母がやってきて、私の前に座った。私も起きて座りなおした。母は私の顔
をじっと見てこう言った。
「健一や、私はお前は戦地で戦をしていた四年の間、お前が無事で帰ってくることを信じて疑ったことは
一度もなかったよ」
私はびっくりして 「お母さん、それはどうしてですか」と尋ねた。
母は 「母は、お前が出生した日から陰膳を備え、お前の無事を祈っていたのだよ。そして今日まで、陰
膳を忘れた日は一日たりともなかったもの」と言った。
私は何も言えなかった。母は、私が何かを企んでいることを知っている。なのに、そのことには一言も
触れず、自分の息子を信頼し、ひたすら祈ってきたことだけを言っている。そんな母の気持ちが私の胸に
ジーンと伝わってきた。母と私は、無言のまま互いに顔を見合わせていた。私は、両の瞼から今にもこぼ
れ落ちそうになる熱い涙を必死にこらえた。そして心に誓った。
「いかなることがあっても、生涯かけて私は母が悲しむことは絶対にしない」と。
こう誓った私の脳裏からは、もうすっかり海賊のことは消えていた。想えば、私の第二の人生はこの時
に始まったと言えるだろう。