4. 決 意
4. 決 意
昭和二十八年の初秋、身なりの整った五十歳前後のご婦人が、いかにも疲労困憊して弱々しい感じの老
婆を伴って合掌苑を訪ねてこられ、私にこうおっしゃった。 「亡くなった私の父は、生前キスミー化粧品
に勤めておりまして、この方は父の後輩だった方の奥さんです。私の家へ先日見えられて『家を出てきた
けれど、私の行き場がない』とおっしゃるのです。新聞で、こちらが老人ホームをお始めになったことを
知り、何とかこの方をこちらでお世話をしていただけないものかとご相談にうかがったのでございます」
私がこのご婦人から詳しく事情を聞くところによると、
「私には、息子が一人おりまして、三十四歳で主人を亡くしてから、女手ひとつで苦労して大学まであげ
ました。大学ではデザインを勉強して、卒業すると服飾デザイナーになりました。この夏、息子夫婦は自
由が丘の自宅を改装して服飾学園をオープンさせました。この自宅の改装の際に、家族で図面を見ながら
話しておりましたときに、私がぽつりと『畳の部屋がひとつぐらい欲しいね』と言いましたところ、息子
が『母さん、無理してこの家にいることはないんだよ』と冷たく言い放ちました。この言葉はこたえました。
翌日、私は黙って家を出て、知人宅に身を寄せたり、あるときには駅の待合室で寝たりもしました。半月
ほどそんなふうに過ごしてまいりましたが、そのうちいよいよ行くところがなくなり、途方に暮れている
とき、ふと思い出したのが昔主人がお世話になったキスミー化粧品の方だったのです。昔、主人がこの方
のお父様のところによく遊びにうかがっていたものですから、大体の見当をつけてお家の周りを行ったり
来たりしているところへ、この方と出会ったというわけでございます」
この話を聞いて、私は入苑していただくことにし、「それでは十日後の朝、こちらにおいでください」
と言って、二人の女性と約束をした。
ところが十日後、約束の時間が過ぎても二人は現れない。どうなさったのだろうと待っていると、よう
やく夕方近くなった頃にお見えになった。
「どうなさったのですか?」
私は中年のご婦人に尋ねた。
「今朝、さあ合掌苑に行きましょうとお誘いすると、この方は困ったような顔をなさり、ちょっと行って
いきたいところがあるとおっしゃる。約束の時間があるから間に合うように帰ってきてくださいとお送り
したのですが、帰ってこられたのは午後三時を過ぎてからでした。どこへ行ってこられたのですかと私が
伺いましたら『養老院に入ると、もう息子には会えなくなるので、その前にもう一度息子に会っていつま
でも夫婦仲良く、仕事もあんばいようやれよと言ってやろうと思い、自由が丘に寄ってきました。でも、
私が黙って家を出てしまったので、家へは入れてもらえまいと思い、しばらく迷いましたが、家の外から、いつまでも夫婦仲良く、仕事もあんばいようやれようと、手を合わせて祈ってきました。これが母として
私は今できるたったひとつのことなのです』とおっしゃいました。そんなわけで、こちらへ参るのが遅く
なってしまったのです」
何ひとつ見返りを求めず、ひたすら子のためを願う母の心に打たれるとともに、多くのお年寄りが邪魔
にされ、行き場を失ってることを実感した。このようなことが時代の大きな変化とともに超高齢社会の到
来を確信させ、自分が高齢者福祉に専心することを決意させたのである。