3. 発 展
3. 発 展
こうして定員二十六名でスタートした老人ホーム合掌苑であったが、老人ホーム建設のうわさを聞き東京中から入居希望者が引きを切らない状態が続いた。そのため昭和三十年には娯楽室を増築、昭和三十三年には建物を増築し定員を四十五名に増やした。すでに境内は老人ホームが占領してしまった。この時代にすでに来るべき超高齢社会の兆候が現れていたのである。
この頃の思い出にこんなことがある。当時Nさんという方のお世話をしていた。寮母、調理の職員は口を開けばこの人の悪口をいう。頑固で老人ボケで、誰の言うことを聞かず、ボケもはなはだしいと散々である。履歴を調べてみるとK大学を卒業し、某社に就職、管理職として仕事一筋で無事定年を迎え、定年後は中野で家族と暮らしていたが、空襲で家が焼かれ、妻は爆死、一人息子も戦死して、家財は灰燼に帰し無一文の一人きりになって、合掌苑に入苑されてきた方であった。施設給食が始まって六日目に始めてNさんの部屋を訪ねた。 頭髪・ 髭は伸び放題、衣類は着たきり、鍋などは座机に散乱といった状態であった。 掃除をしますよと耳元で言っても反応はない。かまわず食器を片付ける。 南面が窓でよく日が入る。布団を干そう窓へかけるとシーツがノミの糞で茶色になっている。 私の足にもノミが這い上がってくるのがわかる。つぶしてもつぶしてもきりがない。Nさんにノミを取ってあげるねと言っても無表情。それから毎日殺虫剤を撒き、ノミ取りを続けた。二週間、三週間と続けるとノミもほとんどいなくなり、シーツもほとんど汚れなくなった。Nさんは相変わらず無表情で、部屋の隅に佇んでおられるだけだったが、ある日、私と目が合った瞬間「ありがと」と言ったかと思うと、大粒の涙が幾筋も線を引いて光った。この日以来Nさんは日一日と管理部長時代の生き生きとした生活を取り戻していった。
思えば私が小学生五年生の頃、年老いたお遍路さんが行き倒れて我が家の前で倒れていた。 両親はそのおじいさんを家に泊めて介抱した。 そのおじいさんには帰るところがなく、そのまま我が家で暮らすことになった。 三ヶ月ほどであっけなく我が家から野辺の送りをすることになったが、その間は家族のように暮らした。 私は我が家の風呂が故障し、毎日夕方そのおじいさんと一緒に銭湯に行きふざけるのを楽しみにしていた。
このように私の両親は隣人を全て家族にしてしまう両親であった。 そのような両親を持ったことが私を老人ホームでの高齢者処遇に向かわせたようである。