9. 発 展
9. 発 展
当初はそうでもなかったが、やがて施設のことが知れ渡ってゆくにつれ、入居の希望者が増えてきた。
私たちは当初空いている居室に住んでいたが、だんだんと居室が埋まってきたので、屋根裏部屋に移り住
むことにした。
この頃の思い出にこんなことがある。ある時四谷で経理事務所を開いているという若い男性がやってき
て、お母さんを入居者させたいと言う。いろいろと事情を聞き、それではいついつに入居という約束をし
た。その当日、二人でやってくるものとばかり思っていたら当のお母さんがひとりで小さな手荷物を持っ
てやってきた。その方はNさんといった。どうぞどうぞと歓迎したが、Nさんはいぶかしげである。よく
お話を聞いてみると、Nさんは息子に騙されたと言う。Nさんの話によると息子さんはNさんに町田の温
泉付き旅館に行って来いと言って送り出したのだと言う。そう言われて来てみるとそこは老人ホームで
あったというわけであった。まあまあと言って話をし、とりあえずここに泊まりましょうと言って荷物を
入れ、毎日私とお話ししているうちになんとなくNさんも落ち着いてきた。そのうち牛乳を隣室の男性の
分までとって、毎日に差し上げようになった。やがて三ヶ月もすると老人ホームに住むという決心もつき、
荷物を送ってほしいと息子に頼むこととなった。特にNさんが望んだのは仏壇である。大切なご先祖様を
早くきちんとご供養しなければとNさんは仏壇が届くのを楽しみにしていた。
やがて仏壇が届き、私が何気なく包装を解いた。仏壇を開くと中に詰め物がしてあり、それを何気なく
出した。すると後ろでそれを見ていたNさんが突然「あっ、あっ」と驚いたような声を出し、パタンと倒
れてしまった。何が起きたのかと思ったが、布団に寝かすと、Nさんは「下着が、下着が」とうわ言のよ
うに言っている。私が何気なく出した詰め物を見ると、それは下着であった。大切な仏壇に息子が下着を
詰めて送り、それを苑長である私に見られてしまった。Nさんはそのショックで倒れてしまったのだ。そ
れからNさんは一週間ほどであっけなく死んでしまった。人間は尊厳を無視されては生きていけないのだ
ということを思い知った。個人の尊厳は千差万別である。処遇にはその人その人の緻密な心情を把握する
必要がある。昭和二十五年の中野時代と四谷のNさんでそれぞれ違った意味での尊厳を知った。
昭和三十六年には紫雲寮の一階部分、翌三十七年には二階部分を建設した。昭和三十七年三月には軽
費老人ホームの経営許可を受け、軽費老人ホームとして新しいスタートを切った。このときの最重要課題
は、護送船団の中に入ることであった。もちろん最終の目的は社会福祉法人となり養護老人ホームとなる
ことであったが、それよりも前の段階として、財団法人を目指していた。軽費老人ホームの経営許可を得
ることによって、護送船団への第一歩を踏み出したのである。昭和三十八年十二月には財団法人の許可を
得ることができた。そうして昭和四十年に松雲寮を増築し、昭和四十一年四月に念願の社会福祉法人の認可を得ることができた。こうして合掌苑は、当初の予定より十年遅れたが、定員五十名の養護老人ホーム
として軽費老人ホームから切り替えることとなった。
これより前の昭和三十七年には合掌苑診療所の許可を受けている。この当時、軽費老人ホームで診療所
の許可を受けているところはなかったが、私は早くから施設サービスは複合化することが必要であると考
えていた。これは今の合掌苑の経営にも綿々と引き継がれており、その後の昭和四十五年の高齢者ケア付
きアパート青雲寮の建設にもつながってゆく。
昭和三十年代は苦難の十年であった。しかし私たち夫婦は健康に恵まれた。泣き言ひとつ言わず、今日
一日いっぱい尽くそうと励まし合って、朝暗いうちから夜中まで働いた充実した十年間であったと振り
返っている。
「日に新たに、日々に新たに、また日に新たに」