【あしの下でねむる】二次創作SS01

捏造という名のあ下前日譚 雛乃編

※『あしの下でねむる』の(捏造)前日譚という名の二次創作

※KPCがPCを殺して復活させた、という土台を壊さない程度に改変したり、個人的解釈で書いているところが多々あります。雰囲気でごり押ししてる。

 ——とんとん、と軽く肩を叩かれて意識がハッキリする。


 友人との昼食中だというのに意識がどこかへとんでいたらしい。それを認識した途端に周りのテーブルの会話がざわざわとした雑音に変わる。

 ああ、混んできたんだな、とぼんやり考えてから食べかけのパスタの皿に落ちていた視線を上げれば、心配そうとも、呆れたようとも言える表情で友人が雛乃の顏を覗き込んでいた。ばちりと視線が交わる。


「雛乃、アンタ大丈夫? やばい顔してたよ」

「……えー、ウソ。わたし、白目向いてた?」


 寝起きのようなふわつく思考回路のなか、雛乃がなんとかそう笑って誤魔化してみれば、友人の眉がぐっと下がった。はあ、と少し大きな溜息が彼女の口からあふれ出る。


「白目は向いてなかったけど、うん、うんって生返事で完全に心ここにあらずって感じ。あと目が死んでた。……ねぇ、アンタちょっとバイト入れすぎじゃない?」


 そんなにしんどいなら他を探すのもアリなんじゃないの、と独り言のようにそんな言葉をこぼした友人は、視線を雛乃からアイスティーの入ったグラスに向けた。

 とっくにパスタを食べ終えていた彼女は、こくり、こくり、と透き通った赤茶色の液体を一気に飲み干していく。カラン、と溶けた氷が軽やかな音を立てた。


 そんな友人をぼんやりと見つめていた雛乃は、んー、と返事とも相槌ともとれない生返事をしながらフォークでまだ半分くらい皿に残っているパスタを巻き取りはじめる。クルクルと巻かれて出来た小さな毛糸玉みたいな塊を咀嚼し、アイスティーと一緒に飲み込む。冷めたパスタを水っぽいアイスティーで胃に押しやると、雛乃は苦笑とも言えそうな微笑みを浮かべてみせた。


「……多分、大変なのは今だけだからさ。前に喋ったお客さんとちょっと色々あったんだけど、まあ、多分もう平気だよ。心配かけてゴメンて」


 手にしていたフォークを皿の上に置き、両手を顔の前で合わせる。心配をかけたことを悔やんでいることが伝わる様に眉をぐっと下げて友人のことを見やれば、彼女はじとっと訝しげなまなざしを雛乃に向けていた。


「ホントにぃ? アンタ、ちょっと楽観視しすぎじゃないの」

「え、ナニ。いつもだったら『別に心配なんてしてないし』って言うところなのに。めずらし!」

「ばか。友達が急に人形みたいな死んだ目してたら心配するに決まってんでしょ」


 両手を下してフォークを手に取り、再び食事を再開しながら雛乃がそう笑って茶化せば、思っていたよりも友人は真面目な表情でそう返してきた。予想と大きく違った友人の態度をさらにからかうわけにもいかず、雛乃は少し無理に作った笑みを戻して喉元まで出かけていた言葉をぐっと飲み込んだ。

 カチャ、カチャと、雛乃がパスタを巻き取るフォークがたまに皿に当たる音がだけが二人の間に響く。二人の空気が沈んでいるせいなのか、ざわざわと煩わしかったはずの雑音さえ、ほんの少し静かで遠く聞こえるようだ。


「…………んー、あー、そうだよね。ゴメン。ちゃんと休んで元気になるからさ」

「当たり前」


 沈黙に耐えかねた雛乃が今度こそ心底申し訳なさそうな態度を取れば、キッと眉を上げていた友人の表情が緩む。はあ、と何度目かの溜息が友人の口からこぼれていった。


「……雛乃ってさ、なんかこう人を惹きつける魅力はあるけどそれが逆に危ういから心配なんだよね。だからほんと、気を付けてよ」


 なーんか、ある日、突然会えなくなったりしそうで心配する、とまた眉を下げる友人に「大丈夫だよ~」と今度こそ普段通りの笑みを向けながら、雛乃は最後の一口を頬張った。



 ——なんて、いつかの昼間の光景がふいに浮かんできたのは、目の前の男が血走った目で刃物片手にこちらを見つめているからだろうか。


    ▽


 いつものように営業終了後、店からマンションの前まで車で送ってもらい、運転手に別れを告げて車を降りる。

 エントランスの自動ドアのロックを解除し、郵便ポストに入っている手紙類を選別して不必要なチラシをゴミ箱に捨てる。

 少し酔ってふわつく足で慎重に階段を上がり、部屋の鍵を開けた。


 そこまでは、いつも通りだった。


 疲れと、ほんのわずかな酔いと眠気でふらつく体に、あとちょっとだから、と言い聞かせるようにしてゆっくりした動きで玄関扉を開ける。ギィ、という小さく蝶番の軋む音がシンとした真夜中の廊下に響いた。

 コンクリートの廊下はよく響いてしまうから、靴音が鳴らないよう慎重に歩いて玄関に入る。今度は音もなく扉が締まった直後、パチン、と軽やかな音を立てて部屋の電気がつく。

 雛乃の手は、まだドアノブから離されていないのにもかかわらず。


「え? なん、で…………ひッ……!」


 予想もしえない事態に思わず顔と声を上げた雛乃の目に飛び込んできたのは——。



「ヒナ、おかえり」



 だらんと力なく垂れた右手に鉈を持って、こちらを見つめてにっこりと笑う男の姿だった。


「……ひッ、ぁ……?!」


 思わず雛乃が後ずさるとヒールの部分がくつずりのへりに突っかかる。がくッん、と崩れかけた態勢をもう片足を踏ん張ることでなんとか転ばずに済んだ。

 どっどっどっどっと絶え間なく心臓は早鐘を打ち、呼吸はひゅうひゅうと浅くなり、冷や汗が溢れて止まらない。キーン、と耳鳴りでもしそうなほど冴えきった頭が、本能が、思考が、すべてが目の前の異常を危険だと判断していた。


 だれ?

 なんで、ここに?

 どうやって?


 なんで、という単語ばかりが雛乃の脳みそを占める。恐怖で凍り付いた体は言うことを聞かないが、眼球だけはぎゅるぎゅるとせわしなく動いて目の前のありとあらゆるものをその瞳に収めようとした。

 けれど視線を向けた先を〝観察する〟余裕など今の雛乃にあるはずもなく、ただただ視界が目まぐるしく回っただけだった。


 逃げなきゃ。


 恐怖で煮詰められた思考のなか、ハッとそう思い至った瞬間、雛乃はいまさっき閉めた扉を開けようと男に背を向けてドアノブを捻った。直後。


 ダァンッ!


 大きな音が響いて雛乃の肩がびくりと跳ね上がる。手からは力が抜け、僅かに開きかけていた玄関扉は、かちゃん、と軽い音を立てて閉まってしまった。

 錆ついたロボットのようにぎこちない動きで振り返り、視線を音のした方——男のいる所へ戻せば、にこりと笑みを張り付けた男の左拳が壁にたたきつけられていた。壁を殴った反動で鉈を持つ手はゆらゆらと揺れ、部屋の灯りを反射した刃がギラリと光って見えた。

 雛乃が自分の方へ体と意識を向けたと理解すると壁を殴った腕を下ろして、今度は男の足が一歩前に出る。ぎ、と床が鳴った。


 一歩、男が踏み出す。ぎ、と床が鳴る。また一歩。ぎ、と床が鳴る。

 一歩、男が踏み出す。ぎ、と床が鳴る。また一歩。ぎ、と床が鳴る。


 上がり框までやってきた男はそこで歩みを止めることなく土間に降りて、ドアノブを握ったまま硬直している雛乃の前に近づいてくる。にっこりと笑みを張り付けたままの顏からは、男が何を考えているのか読み取ることはできそうにない。


「ひっ、」


 引きつるような呼吸を繰り返す雛乃の眼前に血走った目をした男の顏が近づき、顔に影がかかる。さっきまで張り付けたような笑みを浮かべていたその顔は一瞬にして怒りでいっぱいになっていた。


「……ただいま、だろ? なんでやっと帰ってきたのにもう一度出て行こうとしてるんだよ、ヒナ」


 表情とは裏腹に男の声は落ち着いている。まるで子供をなだめるかのような猫なで声と言ってもいい。その歪さが雛乃の恐怖を余計に煽った。


「ぁ、……ッ」


 何か言おうと、言わなくてはならないと口を開けるものの、ギュッと詰まった喉から声は出ず、雛乃はただ、はく、はく、とまるで魚の様に開閉することしかできない。

 どうしよう。こわい。声にならない言葉が一筋の涙となって雛乃の頬を伝い落ちていく。ぱたた、とコンクリートの床に丸いシミができた。


「…………」


 つ、と男の視線が地面に落ちる。雛乃の頬に伝う涙の痕を辿って、地面にできた涙の痕を見つめている。

 ——ぽた、と。またひとつ雛乃の目から溢れた涙が落ちて、コンクリートの床の色を変えた。


「…………んでだよ」


 ぶるり、と地面を見つめていた男の肩が揺れた。


「……んで、なんでなんでなんでなんで、なんで! なんでだよ! せっかく、せっかく出迎えてやったのにッ!」


 男が吼える。食らいつくように顔を上げた男の瞳は、彼の持つ刃物のように爛々としていた。ギ、と雛乃を見つめる目が怒りで歪む。


「店に行っても黒服の奴らに追い返されたから、だから、俺は先に家で待ってようと思ってここで待ってたのに! なのに!」

「やっぱりそうなんだ、そうなんだなヒナ。俺以外に男がいるんだろう……ああ、そうなんだろなあなんとか言えよオイッ!」

「ひっ……!」


 ガィンッ!と、男の怒号と同時に何か金属が弾かれたような大きな音が鳴る。視界の端で切られた数本の髪が空を舞った。

 どうやら矢継ぎ早に怒鳴り散らした男は衝動のまま右手を振り上げ、そのまま持っていた鉈を玄関扉に叩きつけたらしい。叩きつけられた切っ先は鉄の扉に弾かれ、男の体もその反動で後ろに引っ張られていた。


「——ヒナは、俺のことを理解してくれたと思ってたのに!!!!!」


 半ば泣き叫ぶように男が再び吠える。その言葉を聞いた瞬間、雛乃の脳裏に誰かとの会話が蘇る。



『——ヒナだけだよ、俺のことを理解してくれるのは』

 就職活動がなかなか上手くいかないと落ち込んでいた男の話を聞いて、アドバイスにも満たないほどの言葉をかけた時にそう言って笑った男がいた。

 その時は「そんなことないよ、きっと他にも居るって」なんて言った記憶があるが、そういえば、そのあと彼はなんて言ったのだったか……——



『俺には、ヒナがいてくれれば十分だよ』

「俺には、ヒナがいてくれれば十分だったのに……ッ!」



「——ッ、あ」


 今にもこぼれ落ちてしまいそうなくらい雛乃の目が見開かれる。いまの男の言葉で、彼が誰だか見当がついた。

 彼は、この男は——ここ最近、店の裏口付近で出待ちしたり、他の客に絡んだりと迷惑行為を行ったとして出入り禁止になった元・客だ。送迎の車の運転手に、ストーキングをしている疑いもあると聞いて引っ越しも視野に入れ始めた矢先、こんな——家に侵入して待ち構えているだなんて誰が想像できるだろうか。

 目の前で「どうして」「なんで」と呟いている存在が、見知らぬ相手から知っている相手に変わり、少しだけ雛乃の頭がクリアになる。


 ——逃げよう。

 このまま直ぐにドアを開けて、階段を駆け下り、通りに出よう。通りには24時間経営の店だってある。駆け込んで警察を呼んでもらうしかない。


 恐怖で靄がかかっていた頭が冴えていくにつれて、血の気が引いていた手足にも熱が戻ってくる。ふるりと身震いすれば、ぐらついていた脚もしっかりと地面を踏めるようになった。

 タイミングを見計ろうとじっと男を見つめれば、ぶつぶつと呟く男と視線が交わった。先程までは怒りに染まっていた瞳はいまや虚ろでドロリとした汚泥のように濁って見える。


「どうしてヒナも俺をそういう目で見るんだよ……ああ、そっかァ……あの時の言葉はぜーんぶ、ウソだったんだな……クソがッ! 俺をだましたな! このアバズレ!」


 そう声を荒げ、離れてしまった距離を縮めるべく、幽鬼のように揺れながら男が近づいてくる。距離が縮まるにつれて轟く雷鳴のようだった声量は急に勢いをなくし「ちがう、ちがうそうじゃない」「ちがうよな」と呟いうつぶやきに変わった。ふらふらとした足取りにも関わらずその瞳はしっかりと雛乃を見つめている。

 突然、あ、という言葉と共にぶつぶつと続いていた男の声が途切れ、にぃ、とその口元が歪んだ。


「ヒナ、俺と逝こう」

「……は、」


「俺と一緒に死のう? 考えてみればヒナが俺のことを否定するなんてあり得ないあり得るはずがないんだよきっと何かに取り憑かれてるんだでも俺はそう言うのに詳しくないから一緒に死ぬしかヒナを助ける方法がわかんないんだごめんごめんなァ。少しでも痛くないようにするからさあ!」


 ——狂っている。そう思う他なかった。

 ともすればまた恐怖で縫い付けられてしまいそうな足をなんとか動かして、震える手でドアノブを捻る。

 僅かに開いた隙間から入る夜風は酷く冷たかった。


「ッあ、オイ逃げるなクソアマ!!!!! ふざけんじゃねェ!!!!!」


 雛乃が逃げ出そうとしていることに気付いた男の瞳にまた怒りの色が宿る。唾を飛ばして叫ぶその声が玄関に反響してビリビリと空気を震わせた。


 今しかない!

 じゃないと殺される。


 鬼の形相で鉈を振りかぶりながら迫る男を前にそんな言葉が脳裏をよぎる。一瞬、ほんの少しでいい。ドアを開けて背を向ける隙さえあればいい。


「ッ……こないで!」

「がッ……!」


 失敗すれば死ぬ——そんな決死の覚悟で放った雛乃の蹴りはどうやら見事、男の腹に決まったようで、ぐにゃりという肉の柔らかな感触が足に伝わってくる。次いで、カランという何かが落ちた音。おそらく、男が持っていた鉈が落ちた音だろう。

 細かく観察している時間はない。今はとにかくこの場から離れなくては。そう考えて、雛乃がドアを開けはなった瞬間——。


「い゙……ッ?!」


 ぶちぶちと髪が抜ける音と痛みが雛乃を襲った。視線を後ろに向ければ、腹を片手で押さえた男がもう片方の手で雛乃の結んでいた髪を握りしめていた。文字通り、後ろ髪を引かれた為に進むことが叶わなかったのだ。

 ぐ、と更に強い力で引っ張られてまたぶちぶちと髪が千切れる音と共に体制が崩れる。後ろに倒れまいと踏みしめた雛乃だったが、無情にもヒールがコンクリートの上を滑りその体は前に倒れてしまった。


「ッう……」


 とっさに手が出て頭を打つことは防げたものの膝を強打してしまい、痺れるようなその痛みに雛乃の動きが一瞬だけ止まった。這ってでも外へ出ようとした時にはすでに遅く、ドンッという衝撃と共に男がその背に馬乗りになっていた。

 逃げる隙もなく男の手が雛乃の首に伸び、ぎゅう、と握りつぶすように首を絞められる。躊躇いもなく力を込めた手を何とか引きはがそうと雛乃の手も己の首へと伸ばされるが、カリカリと爪先で引っ搔く力は弱く意味がない。


「がッ、ひゅ……っ」


 抵抗すればするほど男の手に力が込められていく。フゥーッ、フゥーッと、もはや言葉もなく唸る男は獣のようだった。


 ——視界が白む。

 嫌だ、死にたくない。こわい。

 

 ——意識がとびそうになる。

 しにたくない。


 ——死が、近づいてきている。

 こわい。いやだ。

 

 死にたくない。


 しにたくない。



 ——死にたくない!



 バタバタと手足を動かして男を振り落とさんと暴れる雛乃と、決して離すまいと力を更に込める男。

 天秤が傾いたのは、雛乃の方だった。


「ゔ、ぐぁ……あ゙ッ」


 一心不乱に暴れる雛乃の指先に何かが当たる。つるりとした木の持ち手。耳鳴りの奥で、手に当たる度に重たい金属がコンクリートに当たる音がする。あと少し、もう少しで掴めそうだ。あと少し、もうちょっと、あと——。


 あ、掴んだ。


 そう思った瞬間。雛乃はとびかけの意識のなか重たいそれを背中に向かって振り下ろした。握りしめるようにして掴んだそれが、重力に従って落ちる。


「ぎゃッ」


 急襲に驚いた男がそう声を上げたのが遠くで聞こえる。途端、更に首を絞める力がこもった。

 キンッ、と耳鳴りが強くなり、震える手でもういちど手を振り下ろす。ぐにゅ、とさっきとは違う感触がした。



 そこからはただただ必死だった。


    ▽


「ひゅッ、げほげほげほっ」


 ——ふ、と急に首を絞めていた力が抜けて呼吸が楽になる。物理的に締まっていた喉が急にひらいて新鮮な空気が肺に飛び込んできたせいで、雛乃は大きく咳き込んだ。かぴかぴに乾いた涙の痕の上を新しい涙がひとすじ伝い落ちていく。

 そのまますう、はあ、と何度か大きく呼吸をしたところでようやく呼吸が落ち着いた。と、右側からカラン、と音がして思わず視線を向ける。


 ——そこには、血にまみれた鉈が落ちていた。


 じっとりとべたつく右手も同じく血まみれで、鉈の持ち手は雛乃が握っていたであろう場所だけ素の木が顔を覗かせていた。


「え、」


 ビク、と驚いた雛乃が体ごと後ずさりをすれば、背中の上にあった重たい何かが、ずる、りと動く。重みが消えた次の瞬間、どちゃッ、と水分を含んだ柔らかいものが固い床にぶつかる音がした。

 背中の上のものが落ちたおかげで羽が生えたように軽くなった体をひとまず起こす。砂でざらつくコンクリートの床に血の手形を付けながら立ち上がった雛乃の視界に入ったのは、体中に切り傷を作って絶命した男の姿だった。落ちた時の角度が悪かったのか、死体がごろりと動く。


「ひッ……!」


 血だまりの中で雛乃のを見上げる男の濁った瞳と目が合った——ような気がした。


「あ、あ、ああ、ああああ゙ッ」


 〝目があった〟と思った瞬間に雛乃は玄関扉を乱暴に開け放ち、バタバタとけたたましい靴音を立てて階段を駆け下りてその場から逃げ出していた。

 血だまりで見上げてくる男の姿が目に焼き付いて離れない。

 逃げなくては、逃げなくては。あの男が追ってくる前に、どこか、遠くへ。

 ただ、それだけを考えて雛乃は夜の暗い街を駆け抜けた。

 車も、人もいない真夜中の道には雛乃のパンプスが立てる音だけが響き渡る。シャッターの降りた店の前を駆け抜け、人っ子ひとりいない静かな公園の横を抜け、道路に等間隔に置かれた街灯の前をひとつ、ふたつ、みっつ……。

 信号の色など見ている余裕もなく、ただただ走った。目の前に出てきた道に飛び込んで、走って、階段を駆けあがって——。


 どんっ


「あ、」

「え……?」


 ただ前へ前へと走っていた雛乃の体に衝撃が走る。思わず立ち止まったそこは、歩道橋の長い階段の頂上だった。街灯の光がスポットライトみたいに降り注いで、雛乃の影ともうひとつの影が階段に映し出している。

 ゆっくりと、前を見る。

 階段に足をかけた体勢のまま、ぽぉんと宙に放り出された男が、背を下にして落ちていく姿がスローモーションで映った。


 ドッッッ、ごん、ドサドサッ、どすんっ


 重力に引っ張られて階段中腹に男の体が叩きつけられる。そのまま勢いを失うことなく、ごろん、ごろん、ごろりと全身で階段を下りていく——いや、落ちていく。

 そのまま止まることなく最後の段まで転げ落ちていった男は、そこでピクリとも動かなくなった。


「え、」


 雛乃は足がすっかりすくんでしまって、石像のように固まってしまった。相も変わらず眼だけはぎょろりと動いてずっと下でうずくまっている男の姿をただ見つめている。

 男は、動かない。


「うそ、うそでしょ」


 ぶるぶると震えが雛乃の全身を駆け抜ける。声が震える。喉が締まって呼吸が苦しくなる。男は、動かない。

 生まれたての小鹿の様に震える脚で一段、階段を下りる。男は動かない。二段、三段と階段を下りる。男は動かない。


「ちがうちがうちがうちがう! ちがうって言って!」


 階段を転げ落ちそうになりながら駆け下りて、雛乃はそう叫んだ。それでも男は、ぴくりとも動かなかった。

 ようやく雛乃が階段を下りきって男のもとへたどり着いた時さえも、彼が動くことはなかった。


「ね、ねぇ……」


 祈るような気持ちで雛乃は倒れた男の肩を揺さぶってみる。ぐらぐらごろん、と力なく揺れる男の体。乱暴にゆすったせいか伏せられていた顔が雛乃の方へ向いた。


「あ、ぁ……」


 驚いた表情のまま固まったその瞳に光はなく、ガラス玉のようなその目には怯えた表情の雛乃の姿が反射している。

 男はとっくに死んでいた。


「ぅ゙、ああ、あああ、あ゙ッ!!!!!」


 ——ぱきん、と雛乃のなかの何かが壊れる音がした。