子供は自分の親を決められないという。
これは生命の根元に触れる難しい問題だ。
先天的には選べない。
だが、後天的な親は選べる。だから、親の問題は難しい。
制度上、法律上、道徳上……どんな定義でもお互いが親子と認識すれば、それは親子。
もし、時間の流れを視ることができたら、自らに降り懸かる災難を回避出来得るだろうか。
おそらく、できるし、おそらく、できない。
自らの行動を変化させることで、状況を変化させるには限度がある。
その変化は有限だが、人の一生を最大限効率化すれば、水爆数千発にも及ぶエネルギー的影響を発する。
単純に破壊エネルギーなら、人類を何百回も絶滅させられるし、何百回も繁栄させられる。太陽の一瞬に等しい。だから、人は輝く。
現実には、完全な効率化はできないだろう。
人生はできないことによって積み上げられる。
失敗によって、その挽回を行うことで短期的長期的に効率化できても、最大効率を生むわけではない。
その最大限度や、平均的な行動可能な限界が規定できてしまう。
人生がおよそ最大の価値上昇を繰り返したとしても、どうにもならない限度がある。
それは水爆数千発よりも激しい、エネルギーの奔流であるかもしれない。それが限度だ。だが、人間の一日に消費するエネルギーは、水爆の数億分の一にも満たないだろう。
満たないが、人の消費するエネルギーは一定ではない。
瞬間的に無限大に等しくなることがあり、瞬間的に無限小になる。その瞬間の境を振り動かして人は生きている。
限度の境が日々変化することに気づかず生きること、それは不幸を知らぬが故の幸福。人類を最大限効率化しても、X=X+1を解くことはできない。人が真理を知るには、あまりにもまだエネルギーが小さすぎる。一人一人のエネルギーでは飽き足らず、真理は総体としてのエネルギーを望むだろう。
だから、「わたし」は人を無限として創る。
―幕―