グレッグの決意

作者・逢坂総司

グレッグ・ゴルド・ホワイトホークは時々、ライザー食堂に来て思い悩む。

この食堂を切り盛りしているはずのライザーは、なぜ忙しいとき忙しくないときに関わらず、グレッグのように冒険者に身をやつした者のところに来ては、昔話をするのだろう。ためになることもあるのだが、それを聴くために食堂に足を運んでいる訳ではない。

そして、疑問はいつも解けない。

彼がビルクリムと二人だけで旅することが増えたのも、恐らく心に秘めた片思いのためである。その共通の感覚が心の焦がし、冒険に身を駆り立てているのだ。

彼は、ビルクリムが時々羨ましいと思うことさえある。少なくともビルクリムは、素直な気持ちを好きな人に伝えているのだから。

しかし、グレッグは思い人に気持ちを伝えるどころか、接する機会自体がそう多くない。今現在のように、ライザーがしっかりブロックしている。他の客でも下心があると判断されればライザーが接点を奪ってしまう。

気持ちを伝えなければ始まらないのだ、ということは誰よりもグレッグ自身がわかっている。いろいろな策を練ったものの、いまいちうまくいかない。ビルクリムが気を利かせてくれたりもしたが、数少ない貴重な機会をうまく活かせなかった。

そういうときは後悔するのだが、そのもやもやを消化できず、ビルクリムやアリエルの暇なときに、稽古に付き合わせたりした。剣の腕が上がっても気持ちを伝えられる訳ではない。そのこともわかっている。

やることはただ一つだけと、もうわかっている。

毎日が、からっぽだった。

グレッグとビルクリムは旅から帰ってきた。今回も土産話を欠かしていない。

グレッグの思い人、セシリー・バーンスタインは冒険者が話す冒険話を聴くのが好きだから、今回の土産話を話し終えた後に、気持ちを打ち明けようと思っていた。

ビルクリムが先に食堂に入り、ライザーを牽制する。適当に注文をして、冒険話とかをライザーに話しながらかなり必死で足止めしている。状況はかなり悪いらしく、少しでも時間を浪費すればライザーはあっと言う間にグレッグのところへ来るだろう。

「セシリー殿。注文はよろしいですか?」

「ええ、いいわよ。どれにする?」

グレッグは適当なものを注文する。何を注文したかなど覚えていない。何と言って言葉を切り出すかばかりが頭にちらついている。

「あと、少し時間はありますか?」

「ええ、いまはお客さんが少ないから、少しぐらいなら大丈夫よ」

土産話があると察したらしい。セシリーの機嫌は、悪くない。彼女は早々に注文の料理を作りに厨房に引っ込んだ。

何と言って土産話の後に本命の言葉を繋ぐか、まったく思い浮かばない。本の虫だった子供時代を悔やみ、剣にばかり気を向けていた少年時代を悔やみ、なぜ色々な生の経験をしなかったのかを悔やんだ。

そして悔やんでも始まらなかった。

「とりあえず、パンプキンケーキの蜂蜜和えを持って来たわ。他にも甘いものばかりだけど、あまり甘いものばかりだと体に悪いわよ?」

違和感を抱き、グレッグは注文を確認した。セシリーが怪訝そうな表情を浮かべていたが、この際見なかったことにする。注文の内容は、とてもグレッグでは食べ切れない内容だった。全てが甘みのもの。まともに食事をするよりは、軽食として注文するものや、おやつとして食べるものばかりだった。

「……セシリー殿も食べますか?」

苦肉の策だった。注文を取り消すのは、料理人に失礼なのだ。そして残すことも失礼に値する。だから残さないようにするなら、いっそのこと他の人と食べれば良い。

「え、まぁ良いけど……。お客さんが来なければ」

「それでは、適当に置いておきますので、時間が空いたら来てください」

セシリーが、ほんのわずかだが頬の辺りを緩ませていた。甘いものは好きなのだろう。

しかし、そんな時間は来ないままに夜中になっていった。

「グレッグ、首尾はどうだい?」

ビルクリムがライザーを完全に足止めできたので上機嫌であった。

そう、完全に。

「まったくだめでした。お客の数はそんなに多くないのに、セシリー殿は給仕に調理にと駆けずり回っていました。嫌われてしまったのでしょうか……」

グレッグはため息をついた。

――まさか、親父さんを完全に足止めしていたら、セシリーばかりが動き回ることになるって事を忘れてた、とは口が裂けても言えないなぁ。

ビルクリムはフォローすることにした。

「そんな事無いって。たまたま忙しかっただけじゃないか。まだ機会はいくらでもあるんだし、あきらめるな、くよくよするな、だ」

グレッグは力無く頷いた。

「ところで、なんでこんなに甘いものばかり並べられているんだ?」

その問いに答えられる者など、どこにもいなかった。

グレッグはライザー食堂の二階を宿として借りることができない人である。グレッグだけではない。宿はいつも予約が一杯で、泊まれた試しなどない。部屋数があまり多くないのが主な原因だが、一カ月単位で部屋を貸し切る冒険者が多いのが原因でもある。

だからグレッグは、街の中をしばらく歩いた先にある、借家をレセフェールでの拠点として使うことにしていた。

旅の荷物を床に下ろしていくと、旅の疲れがどっと噴き出し、グレッグは倒れるように寝てしまった。

夢を見なかったと言えばウソになるだろう。

グレッグは夢を見た。セシリーと仲良く談笑している夢だ。それはとても幸せなことだとだと思った。

ふと目が覚めて、いつまでも見慣れない借家の天井を見て、そしてため息をついた。

自分らしくない。

――理論的に、というのが座右の銘であるはずだ。しかし、セシリー殿のこととなると、理論的に思考できない。

精神面に不安があるのだ。

気持ちを告白して、拒絶されるのが怖いのだ。それが戦って命を落とすことよりも、セシリーに嫌われる方が怖いのだ。

うまく頭が回らず、井戸の冷たい水で、何度も何度も顔を洗い続けた。

朝日が首筋にかかり、グレッグは顔を洗うのをやめた。考えはまとまらないし、もやもやした感情も取り去れないが、少なくとも建設的に行動しなければ、次の一歩を踏み出せないことは承知している。

――自然に、声をかけるだけで良いのだ。

グレッグは、今日こそセシリーに告白することにした。

セシリーの自由時間は、食事時を過ぎたあたりである。そんなことはグレッグだけでなく食堂の常連なら誰でも知っている。だから、その時間帯に土産話を聞かせるものもいるし、ライザーに捕まって土産話を後回しにするものもいる。

ライザーに捕まるかどうかは、運だけが頼りだった。

食堂に入るとライザーの姿は無く、セシリーがカウンターに立っていた。

――今しか機会は無い。

グレッグはすべてを理解した。

「セシリー殿、後で時間は空いていますか?」

「忙しくない時間で良いなら空いているわ」

セシリーが質問の意図がわからず首を傾げた。

「それでは、あとで少しばかり付き合っていただけませんか?」

「ええ、いいわよ」

即答。グレッグはあまりに言葉がすらすらと出てきたことに内心驚きながら、事態が思いの外滑らかに動き始めたことに、一抹の不安を覚えた。

ライザーはすぐに現れた。常連のビルクリムはライザーにからかわれているし、アリエルはいつも静かに食堂内を見張っている。

時々現れる占い師が少ない朝食を自分のペースで食べているのは、朝の騒々しさに包まれた食堂とは対照的で、グレッグには興味深い現象だった。

非番なのか、クリス・シュタイナーの姿もある。

今日は大いに賑わっている。

「やぁ、グレッグ。首尾はどうだい?」

「おはよう、ビルクリム殿。首尾は上々、と言いたいところなのですが……」

グレッグは心に引っ掛かる一抹の不安についてかいつまんで語った。

「まぁ、最初はそんなもんだよ。誘い出せたんだから、良いって事さ。これからだよ、これから」

ビルクリムは陽気に語った。

「俺なんか、アリエルを誘い出すことすら難しいんだ。それと比べたら、グレッグは恋愛の才能があるんじゃないのか?」

グレッグは首を振った。

「とんでもない。私にはそんなものがあるとは思えません。才能があれば、もっと賢い選択をしていると思いますよ」

「まぁ、女性関係の才能は、クリスが一番だろうなぁ」

ビルクリムの声が聞こえたか、クリスが視線を寄越した。しかし、目はビルクリムの意見を否定していた。

「まぁ、私なりにやるだけのことはやってみます」

恋愛経験豊富な相談相手など、食堂の顔なじみにはいないのだと思い知らされた。

洗い物が残っているらしく、セシリーは厨房の方に引っ込んで行った。

もうしばらく時間を潰す必要がありそうだった。しかし、良い時間の潰し方など知らない。

「そこの剣士殿。貴方は恋でお悩みであろう。アタシが占ってしんぜようぞ」

高い音を持つ声だが、深みがある。しかし、どうにも商売用の喋り方。呼びかけた声の主を捜してグレッグは食堂内を見渡した。

目が合ったのは、占い師だった。目が合うと、女は頷いた。つまり、占ってやるから近くに来いと言っている。

どうせ、時間が余っているのだから、グレッグは占いをしてもらうことにした。どのような結果が出るか、知りたいという気持ちが心の奥で作用したのも間違いない。

「いくらですか?」

「代価は食事代で良い」

妙に安い占いに思える。

サギだと思ったところで、占わないとわからないのだから始末が悪い。いや、当たらないことだってあるのだから、完全な犯罪なのかもしれない。

「……わかりました。銀貨一枚で足りるでしょう?」

グレッグは財布を改めた。銀貨は銅貨百枚に相当する。

「銅貨で五十枚もあれば十分よ。アタシは小食なの」

双方の合意が揃ったところで、彼女は占いを始める、と宣言した。

何か道具がある訳でも無さそうだ。

「じっとしていてちょうだい。動いたら、やり直しになるんだから」

占い師は、じっとグレッグの双眸をのぞき込んだ。

占い師の瞳はグレッグの瞳の色を返すが、彼女の瞳は虚ろだった。

そこは、雲一つない大空を望む、木々などの遮るものが無い大平原。足元には芝生が見たことも無い青々しさで地平線まで広がっている。

――ここは……。

食堂にいたはずだ、と思ったところで思考は止まった。

平原の遥か向こうから、心に決めた女性が歩いてくるのを感じたのだ。平原の向こうにいるのか、姿は見えない。だが、ほんのわずかずつ近づいてきている。

少しでも早く近づきたい。心が焦がれた。

足は自然と前に進み、心に決めた女性の方に走り始めた。

「真剣な恋。お互いはそれぞれ見合っているようだ。しかし、その距離は思いの外遠い。何か劇的な変化でも無い限り、何年経っても思い人との関係は深くならない。あとは、特技を活かせばいつか報われるときも来るだろう」

在り来りな答えと言えば、それだけだろう。しかし、その割には一瞬の幻覚が表しているものが心に引っ掛かる。

「そなたは走り始めたのだ。もう止まることは出来ぬであろう」

しわがれた老婆の声。声は間違いなく目の前の占い師から発せられたものだ。声だけが外見の年齢と釣り合わない。

「そなたは二度過ちを犯さぬ。自らを信用して、初めて自信は身につくものぞ。心得よ。ここで過ちを犯さば、そなたの先に道はなし」

占い師は沈黙した。頭を垂れ、身動きひとつ取らない。

座ったままで気絶するなどあるとは思えなかったが、白目を剥いていすに座っていた。とりあえず処置に困りライザーに助けを求めた。

「どんな占いをしてもらったかは知らないがどうも解せん。普通、マーガレットが占うのはせいぜい相手の心理を的確に見抜き、自信を付けさせてやることぐらいだ。その程度で気を失うことなどあるはずも無い」

ライザーは意味がわからない、という身振りを見せた。

「とりあえず、アリエルの部屋にでも寝かせておくしか無いな。アリエル、済まないがマーガレットをアリエルの部屋で寝かせておいてくれ」

ライザーはさっさとテーブルや椅子を元通りに戻した。

「グレッグ、マーガレットが倒れたのは、あなたの責任ではないの? もし責任を感じるなら、気が付くまで看病するのが男というものではないかしら」

アリエルはグレッグがマーガレットを背負ってアリエルの部屋に運んだとき、そのように言った。

「そうかもしれませんね。占いも気軽に出来るものではないのだとわかりましたし。このままではマーガレットさんに悪いですからね」

アリエルは何か言いたそうだったが、あえて言わないことにしたらしい。

食堂の二階は宿である。客間は全部で五部屋あり、一番奥の物置代わりを簡単に改装してアリエルの部屋としていた。

元々が物置だっただけに生活するには不便な狭さだった。ベッド一つとクローゼットをひとつ。テーブルに椅子を置いたら窮屈だった。以前、この部屋が大損害をこうむったときは、テーブルや椅子は外に出されていたから、数少ない私物は生き残った訳だが、そのときの衣服やベッドは使い物にならなくなっていた。

グレッグがこの部屋に来るのは、そのとき以来である。

アリエルは慣れているから、ごく自然な足取りでグレッグの足場と、動きの邪魔になるものをどけていく。

「客間に寝かせるとか、他にも空いているベッドがありそうなものですが……」

客間以外のベッドとは、いわばバーンスタイン一家の使っている寝室のベッドのことだが、「家族の空間は、できるだけ家族だけに使ってほしい、と聞いているわ」とアリエルに理由らしいことを告げられた。

「それに、客間が空いているとして、そこのベッドを使うとライザーさんは仕事上お金を取らざる終えないでしょうね」

アリエルは無感動に言ってのけた。

そうなのだろう。それをわかっているから、アリエルは何も言わずにマーガレットをベッドに寝かすことを承諾した。

「もちろん、グレッグの借家には空き部屋があるでしょうから、そこを使うという手もあると思うけど?」

グレッグは肩をすくめてみせた。

「見ず知らずの方を泊められるほど、家財道具が調っていないもので」

言外にベッドが無いと言っているのだが、いまのアリエルも同じである。

「まぁ、いいけど。私は用心棒が仕事だから、食堂に詰めてなきゃならないの。他にわからないことがあったら、食堂にいるから」

アリエルはさっさと扉を閉めて出て行ったが、すぐに戻ってきた。

「言い忘れたけれど、私も家具が調っていないくちだから、日暮れまでにはマーガレットさんに快復してもらわないといけないの」

「わかりました、善処します」

グレッグの返答を聞いて、アリエルは階下に下りて行った。

マーガレットは熱がある訳ではない。外傷は無さそうだが、服の上からわかるものではない。ましてや脱がす訳にはいかない。もっと内的要因か、本人とは無関係の外的要因が考えられる。

最初に考えられる要因は、魔法で操られた、というところか。しかし、それだけならば『告げている』ときのマーガレットの声の変わりようが説明できないように思える。

処置の仕様がない。こういうときは気付で良いのだろうか。

困り果てて、窓の外を眺めた。

小さな戸板窓はぴったりと閉じられている。空気を入れ替えたら、少しはましになるんじゃないかと思い、グレッグは窓を全開にした。グレッグの心を映してか、空は雲に覆われていた。しかし、採光には十分の明かりが入ってくる。

部屋全体が明るくなり、マーガレットの顔色がわかるようになった。といっても、食堂にいたときとたいして変わらない。

打つ手は全くわからなかった。

「グレッグさん、マーガレットの調子はどう?」

セシリーが水を一杯張ったタライを持ってやってきた。扉をノックする音が聞こえなかったので、部屋に入ってきたことに気が付かなかった。

――不覚。もしもこれが戦場での出来事だったら……。

などと思うのだが、困っていたときにセシリーが来てくれたことに有り難いと思う。

「いま、食堂は大丈夫なのですか?」

「ええ、大丈夫よ。その間にマーガレットに回復してもらわないと、アリエルが困るもの。これもお仕事よ」

セシリーは明るく言ってのけた。

手慣れた手つきで濡れタオルをしぼりマーガレットの額に乗せる。

「風邪とは違うけど、頭を冷やすのは良いらしいって父さんが言っていたし、グレッグさんの土産話も聞きたいし」

セシリーは昼頃までここにいるつもりなのだろう。

「土産話、ですね」

グレッグは、ほとんど二人きりと言っても過言ではない状況に、少しばかり興奮した。土産話を語るグレッグの言葉は何度も詰まってしまう。

その話は、ビルクリムとグレッグが魔法学院都市ベルムから帰ってくる途中で起こった事件のことである。その中で得たことや、戦い、そして別れなどを詰まりながら語って聞かせた。

「なんか、物悲しい話ね」

「そうですね。魂がさまよい続けていたのだろう、ということはその間つらい状態だったのでしょうから。しかし、きちんと供養できたのですから、これで救われたのではないでしょうか」

セシリーは土産話を反芻するかのように、何度がグレッグが語った話の一節を繰り返し、一通り確認し終えたときため息をついた。

「グレッグさん、私が冒険話をよく聞いていることは知っているわよね?」

唐突な質問だった。

グレッグはそのことを良く知っているし、知っているから話をしていると思っている。だから、質問ではなく確認である。

セシリーはグレッグが軽く頷くのを見て、冒険話をいろんな人に知ってもらいたいということを語った。セシリーが積極的に物事を語ることなど見たことが無いので、グレッグは口を挟むことを忘れて聞き入った。

セシリーが一人で広めるには限界があるし、だからといって吟遊詩人たちでは、どうしても直接聞いた者と比べると臨場感がわずかにだが欠けた。

「文字で書き広めることは出来るでしょう」

識字率は低いし、代筆家を通さなければ庶民に物語を伝えられない。だから、セシリーはその案に否定的だった。

「少なくとも、セシリー殿が読み書き出来るようになれば、そのときの臨場感をそのまま書き記せるのですから、書き留めたものが無くならない限りいろんな人に冒険話を伝えることが出来ます」

少しだけ、セシリーの表情が動いたが、まだ迷っている感じだ。性急に話を進める必要は無いだろうと、グレッグははやる気持ちを押し殺した。

「私も文字を読み書きできたら、物語を書き留めるのに便利だと思うわ。でも、教えてくれる人は知り合いにはいないし、教師を雇うだけの蓄えを持っていないのよ。少し考えさせて」

「文字の読み書きなら、私が教えて差し上げます」

セシリーは一つだけ頷くと、食堂に下りて行った。これからまた、給仕に調理に駆け回るのだろう。

――セシリー殿が頷いた意味、それが同意なのか何かに対する礼なのか、それがいまいちわからない。

マーガレットを看病するから、といってセシリーが頷いたとは思えないのだが、同意の意味として取るにはちゃんと会話をできていない。

グレッグはマーガレットの額からぬるくなったタオルをどけると、タライに浸して強く絞り、再びマーガレットの額に乗せた。

マーガレットはしばらくして意識を取り戻し、どこを見ているのかわからない視線をグレッグに向け、簡素な礼を述べた。彼女はそのまま宙を彷徨う何かを追うような目線のまま、ライザー食堂を後にした。

大丈夫ですか、と声をかけると商売声と違い、意外に普通の喋り方で受け答えをした。その言葉によどみは無く、大丈夫そうである。

グレッグは赤々と染め上げた空を見て、夕食時なのだと知った。

看病している間、教会からの時を告げる鐘は聞こえなかった。

冒険仲間たちが、旅から帰ってきた。

しばらく見なかった顔触れが一気に食堂にあふれかえる。

クロック・ラザフォードは、南方の街を見聞し、知識が増えたこととそのとき出会った人々の暮らしぶりを生き生きと語る。

いつも一緒に冒険に出ているアリオネア三姉妹は、三人が三人とも違う感受性に従い各々の見方で冒険話を彩る。

シルヴィア・ブラドーは、いつも通りの語り口で、慣れたものでなければ彼女のしてきた冒険話の理解は難しい。

オズワルド・ランドサックとカルツェリア・シャリプールはまだ冒険から帰ってきていない。遠出をしているらしい。

冒険に出ていないが食堂に良く遊びに来る顔触れも、どういう訳だが集まり出した。

いつの間にかすごい宴会になっていた。

グレッグは久しぶりに騒ぎの中に身を投じている自分を考え、そして過去のしがらみを引きずりながらそれでも進もうともがいている自分と、気楽に冒険している仲間たちとが大して変わらないことに気づいた。

みんな、過去のしがらみを引きずりながら、それでも表向き、明るく楽しく振る舞っている。もちろん、それらを克服したものたちも目の前にいる。

心の底から笑い歌い、そして命有る限り全力で生きてやろう、という気構えが肌を通して伝わってくる。グレッグに足りなかったものは、そういうものであるらしい。それを求め、家を出たのかもしれない。ここにはその答えがある。

――それが、自分である、ということなのか。

グレッグは今までおびえていた。ありのままの自分をさらけ出して、セシリーに接したとき嫌われると思っていた。まだ、騎士叙勲を受けそびれて修行の旅に出たのだという事を喋っていない。知っているものはごくわずかだが、セシリーが知る方法はない。

今まで、おびえていた。それを受け止めるために、気構えを用意しなければならない。何を言われても悔いがないように。何を言われても気が沈まないために。

――違う。何を言えば気持ちが伝わるかを考えるんだ。そして、伝われば後悔などしないはずだ。

――占い師はなんと言っていた。自らを信用して、それが初めて自信となるのだ。自らを信じることから、私の真の試練か始まるのだ。

宴会になり、ライザーも何度か昔話を披露することとなった。

聞いたことも無い話ばかりで、その上、作り話にしか聞こえないような大冒険ばかり繰り広げている。語りはうまいから、吟遊詩人になることも出来たであろう。

グレッグはふだんはあまり飲まない酒を嗜みつつ、宵が明けるのを肌で感じるのだった。

心に決めたことを裏切らないために、グレッグはセシリーへの気持ちを打ち明ける。そのタイミングは非常に近いところに迫っている。

ライザー食堂に入る。

今日、告白出来なければ、再び冒険の旅に出てしまうグレッグの気持ちは、やり切れないものとなる。

朝食を食べ終えたら、気持ちを伝えよう。そう、心に決めてきた。

いつもの朝食を食べ、気持ちは否応にも冒険の方に向かう。しかし、セシリーのことがちらついた。

「腕によりを掛けて作ったの。おいしいかしら?」

セシリーが笑顔でグレッグを迎えた。

「ええ、おいしいです」

当たり障りのない返事。

――これではまずい。このままでは気持ちなどいつまで経っても伝えられない。

グレッグは、ナイフとフォークを置いて、セシリーの方を向いた。

「セシリー殿、今まで言えなかった大事なお話があります」

「……なんでしょう?」

グレッグはひとつ深呼吸をした。気持ちが落ち着かない。息が乱れた。

「私には、心に秘めた女性がいます。私は冒険に出るときも、冒険から帰るときも、その方のことを常に考えています。しかし、私はまだその方に今の気持ちを伝えていません。私の気持ちの整理が付いていなかったからです」

セシリーは、突然何を言い出すのか、という表情で困惑している。

「しかし、私は無粋なものですから、女性の好みはわかりませんし、その方にどのようにアピールして良いかもわからないのです」

「ああ、すると何が好きかをアドバイスしたら良いのですね」

セシリーは合点がいったような表情をしたが、グレッグは軽くほほ笑んだだけだ。

「言い方がまずかったようですね。確かに、セシリー殿からアドバイスしていただけるなら、それはもう嬉しい限りです。ですが、それはどうにも違うような気がします」

セシリーは再び困惑した。グレッグが何を言うのか、最後まで確認するしか無い。

「私が冒険に出るとき、その方に無事を祈ってほしいのです。しかし、それは私の傲慢な考えかもしれないのです。なぜなら、セシリー殿が私を好きとは限らないからです」

セシリーは目が点になった。そのあと、皿のように見開いた。

「セシリー殿は、私のことをどう考えていますか? いや、突然にこういう質問をするのは失礼なんでしょうね。とりあえず、忘れてしまってください」

グレッグは言い切ってから後悔した。自分で切り出して、自分で打ち切ってしまうというのはそれこそ傲慢の極みだと思えた。

セシリーは顔を伏せると、厨房の方に隠れてしまった。

――嫌われたかな?

代わりにライザーが現れた。

「何をしたか知らんが、セシリーに何かあったらただじゃ済まないと肝に銘じておいてくれ」

ライザーは顎髭を撫でると、思いついたように右手を出した。

「必ず帰ってくるんだ。騎士はみんな、女子供のために自らを楯にすると言うが、お前さんはただの冒険者だ。そこのところを忘れないことだ。誰も彼も無事で帰って来ることが一番良いんだ。わかったな」

「はい、承知しました」

グレッグは旅立つ。今度の冒険は少しばかり時間がかかりそうだが、クロック・ラザフォードの見識とアリオネア三姉妹の明るさがあれば、必ず帰ってこられるはずだ。

早ければ一カ月ほどでここに戻れる。それまでに、今度こそきちんとセシリーに告白するつもりで。

レセフェールの城門が見える。

砦という側面を持つ街としては、当たり前のように背の高い城壁がそびえている。

ここを出れば、しばらくはこの住み慣れた地に帰ってこれない。

「忘れ物は無いですか?」

クロック・ラザフォードは細い目をさらに細めてにこやかにほほ笑んだ。

笑みを絶やさない、不思議な感じのする男である。

「それにしても、あの人たちは遅いですね」

あの人たちとはアリオネアの三姉妹のことで、馬車を借りた方が旅が楽だということで、借り受けに行っているはずなのだが、なかなか帰ってこない。

「きっと、カリンさんが値切ろうとしているのでしょう」

グレッグは「なるほど、そうか」と呟くと、つい空を見上げた。旅日和の青空。順風満帆に旅が進むような、そんな予感がした。

「あ、忘れ物を思い出したました。グレッグさん、すぐ戻りますから荷物をお願いしますね」

クロックは突然慌てふためいて姿をくらませた。

グレッグは訳が分からず、ため息をついた。しかし、次の瞬間息が詰まった。

「セシリー殿……」

「グレッグさん。あの言葉、忘れられる訳がないです。突然のことで驚きましたけど、必ず帰ってきてください」

セシリーは俯いた。

「私は待っていますから……」

「ええ、必ず帰ります。約束します」

グレッグに、もう迷いは無い。

平成18年8月18日「グレッグの決意」に改題