作者・南雲
アリエル・ユイオーは『ニーナの店』が嫌いだ。
何よりまず名前がいけない。これではまるで『ニーナ』という商品を扱っているように聞こえる。無論そんなことはなく、『ニーナが経営する店』という意味だ。適当なネーミングにも程がある。
もっとも、その店名も正式な物ではなく、誰かが付けたあだ名だという。ふざけたことに、店には看板も出ていない。扉に『経営中』という小さな看板がぶら下げられているから何かが「経営されているらしい」ということだけは辛うじて判るのだが。
通りに面する壁がすべてガラス張りになっていることだけが、アリエルに取っては救いだ。店の中にいる間、壁や店主の顔を見ていなくて済むから。
「こんにちわー」
アリエルの心中も知らずに、セシリー・バーンスタインは呑気にニーナの店に入った。今のアリエルの仕事は、セシリーの買い物に付き合うことだから、店の外で待っていることもできない。
「やあ、いらっしゃい」
店のカウンターに着いていたのは、奇天烈な頭をした異国の女だった。
奇天烈と言えば、この店自体が奇妙だ。
壁に設置された棚には、アリエルにはタイトルも読めない本と怪しげな色の薬品が詰まった瓶がずらりと並んでいるし、本棚の上には古びた壺が幾つか乗っている。そしてガラス壁の周りには奇妙な姿をした観葉植物の数々──経営者がそう呼んでいるだけで、それが本当に観葉するための植物であるかどうかは怪しいが。店の隅には奇怪な木彫り人形やら曲がった剣、錆びた甲冑などが雑然と並んでいる。
はっきり言って節操のない店だ。本当に何屋なのだか判りゃしない。
そんな店なのだから、店主の頭が少しばかりおかしくても気にすることなどない。アリエルはそう思うのだが、セシリーは違うらしい。
「……ニーナさん、その頭はどうされたんですか?」
「ああ、これかい? 髪染め薬だよ。新薬の試験をしようと思ってね。どうせだから色々と一度に試そうと思ってさ」
数週間前、この女を初めて見た時は確かに黒髪だった。その次に見たら何故か白髪だった。そして今日は、何とも妙な髪だ。
三つ編みをしている。それはいい。しかし三つ編みは十本も二十本も編むものではない。それもまだいい。いや、まだいい、と思える時点でかなり問題なのだが。
最大の問題点は、その色にある。
三つ編みの一つ一つが違う色に染められていた。赤、茶、金、銀、白、緑……同じ色に見えても少々濃さの具合が違う。アリエルはそれほど色の名前を知らない。
表情からアリエルの心境を察したのか、ニーナは口端で皮肉気に笑った。
「ここの言語では、色を表す言葉は五十もないがね。千以上の色を表す言葉を持つ言語もあるのだよ。まあ発音が美しいという点ではこの国の言葉は抜きん出ていて、歌劇等ではよく使われるがね。で、どうだい? 一つ買ってかないか?」
「ははは。遠慮します。ところで、それは何ですか?」
アリエルはカウンターの端にある丸められた布の塊に目を向けていた。ニーナは珍しく渋い顔をする。
「ああ、これかい? これは、なんと言ったものかねぇ」
ニーナの眉が逆に曲がる。その時、彼女の眉と睫毛だけが以前のように黒い事にアリエルは気付いた。
ニーナが広げた布の塊は、エプロンだった。それも花柄。
「あら、可愛いエプロン」
セシリーの感性は、アリエルのそれとはかなりのズレがある。もっともアリエルは不特定多数の者に『お前の感性は女らしくない』と言われることが多いから、もしかするとセシリーの感性の方が真っ当なのかもしれない。
しかしニーナの感性は、どちらかといえばアリエルに近いらしかった。彼女は返答に困ったらしく、ただ「そうかい?」と聞き返した。
「このエプロンも商品なんですか?」
「まあ、そうなんだけどね。買ってくかね?」
「お値段によりますけれど」
ニーナが投げやりな口調で提示した額は、かなりの低価格だった。普通の店でエプロンを買うよりも格段に安い。
セシリーは二つ返事で了承し、金を払った。
彼女が他の商品に目を向けぬ内にと、アリエルは早々にセシリーを連れて店を出た。
アリエルは最初、気が狂ったのだと思った。
そうでないはずがない。
目を擦ってみたが『それ』は変わらなかった。ならば『これ』は事実見えているという事になる。そして『こんな物』が実際に存在するはずがないのだから、『こんな物』が見えている自分は気が狂ったに違いない。アリエルはそう考えた。
今アリエルの目の前では、花柄のエプロンを着けた中年男──ライザーがふんふんと鼻歌を唄いながらくるくると回っている。セシリーの部屋で、だ。しかもスカートをはいている。なかなかに凄い光景だ。
アリエルは自分の頭がおかしくなったのだという辛い事実を確認するべく、声を出した。
「ちょっと、セシリー」
「なあに?」
ああいや、なんでもないんだ、とアリエルは実験の成功を苦々しく受け止めた。この『気色の悪い物体』はやはりセシリーなのだ。
ならば何故、セシリーがライザーに見えるのだろうか。
本当はライザーに惚れていて、報われぬ恋を今の今まで気付かぬ振りをしていたが、ついに自分を騙しきれなくなってライザーの娘であるセシリーに愛おしいライザーの姿を見るようになってしまった……。そうかもしれない。アリエルはそう考えた。もともとアリエルは筋肉質の男が好きなのだ。優男ではいけない。しかし馬鹿は好きはないからビルクリムは対象外だ。そうすると、ライザーは範疇内──
そんなことを真剣に思案していると、セシリーが素っ頓狂な声を上げた。
「ア、アリエル!」
「……そっとしておいてくれない? 私は今、真実の自分を見付け、その衝撃に打ちのめされているの」
自分はもっと論理的な女だとアリエルは思っていた。報われぬ恋に身を費やすなど、理解できない。それは馬鹿な女のすること──そんな考えを持つ女であったはずだった。
「嗚呼、まさか私がこんなにも馬鹿だったなんて……」
「し、真実の姿! これが!?」
何を言っているのかと顔を上げれば、セシリーであるらしいエプロン姿のライザーは鏡を前にして驚愕していた。
「……セシリー。あなたは自分が何に見えるの?」
「お父さん!」
アリエルはすっくと立ち上がった。
馬鹿は伝染病ではない。つまり馬鹿は伝染しない。セシリーはもしかしたら馬鹿かもしれないが、己が馬鹿であることに気付いている様子はない。もし馬鹿が伝染するものだとしても、セシリーの馬鹿に感染していれば、アリエルは自分が馬鹿であることに気付くはずもない。
つまり私は馬鹿ではない。
その結論に達し、アリエルはセシリーの肩を叩いた。
「そのエプロンを脱ぎなさい」
セシリーがエプロンを脱ぐと、彼女の姿は彼女自身のものに変わった。
「あら、まあ」
セシリーはそんな声を上げて、再びエプロンを着けた。やはり姿がライザーに変わる。
二人は呆然と呟いた。
「……変身エプロン」
アリエルはエプロンを返品するべきだと提案したが、セシリーは頑として聞き入れなかった。
「駄目よ。こんな面白い物を返品するなんて」
薄気味悪いの間違いだろう──そう言いたかったのだが、セシリーは何故か上機嫌である。
ライザーに話すべきかとも思ったが、そんなふざけた話を信じてもらえるとも思えない。
結局うやむやになり、一日が過ぎた。
セシリーは相も変わらぬ上機嫌で街を歩いている。アリエルも彼女に並んでついて行く。
今日の目的はライザー食堂で出す料理の食材の買い出しだ。もうすっかり慣れた、楽な仕事だ。
セシリーとアリエルは要領よく店を回り、帰路につこうとしていた。
悲鳴が聞こえたのはそんな時だ。
「てめぇ、どういうつもりだ!」
酔っぱらいだと一目でわかった。
絡まれているのは女性だ。赤ら顔の男が、真っ昼間の往来で巨体を揺すりながら女に迫っていた。
溜め息をつき、アリエルは男の方に向かって足を踏み出した。──と、何故かセシリーがそれを止める。
「大丈夫だ。あれぐらいなら軽く──って、ちょっと?」
セシリーは無言でアリエルに荷物を投げ渡し、そして買い物鞄から何かを取り出した。 花柄エプロン。
「ちょっ、セシリーまさか──」
セシリーは素早くエプロンを装着した。その姿はたちまちライザーへと変化する。
「そこな悪党、待てぃ!」
セシリーが──いや、ライザーが凄みの効いた声を発した。
とう!──そんなかけ声と共にライザーは跳んだ。見事な跳躍。人々の頭上を跳び越え、ライザーは男の眼前に着地する。スカートがひらりと舞い、すね毛が見えた。
「ライザーアッパァァァ!」
立ち上がり様のアッパーが男の顎を捉えた。男の巨体が一撃で宙を舞う。ライザーの跳躍に劣らない高さまで。
どう、と男は道に倒れた。ピクリとも動かない。
ライザーはそれを確認すると、呆気に取られて腰を抜かしている女を振り向いた。キラリと歯が光る。
「お嬢さん、お怪我はありませんか」
「へ? あ、は、はい」
「それは良かった。では──」
やはり、とう、とかけ声を掛けて、ライザーは跳躍した。
ライザーの姿は裏路地に消えたが、遠くからセシリーが手を振りながら走ってきても、彼の姿はアリエルの瞼の裏から離れなかった。無論、その日はスカート姿のライザーを夢に見た。
正義の味方がしてみたかったのだ、とセシリーは言った。
いつもアリエルに身を守ってもらっているが、憤りを感じた時はやはり自分自身の手で正義を貫きたいのだと。
問題はセシリーの言い分ではない。ライザーの耳に噂が入ることにある。
この街でライザーの顔を知っている者は多いし、何より彼女は攻撃名にライザーの名前を含めている。ライザーの耳にセシリーの活劇談を入れるのはまずい。
しかしセシリーは活躍を止めなかった。悪漢を千切っては投げ千切っては投げ──人々が目を疑うような力を発揮し続けた。
ライザーがこの噂を知るのは時間の問題だ。もし食堂内でそんな話をする奴がいたら因縁をふっかけて殴ってでも黙らせようとアリエルは決心した。
しかし、アリエルがライザー食堂で聞いた噂は、ひどく歪んでいた。
「アリエル、知っているかい? 最近、猫男という怪人が街に現れるらしいよ」
「……何、それ」
ビルクリム・バリーが語った話によると、何でも二本足で歩く巨大な猫が街で悪さを働いているらしい。
ライザーの何処を見間違えれば巨大猫になるのだろう。
「まあ悪さと言っても、店から魚を奪うとかゴミ捨て場を漁るとか、そんなところらしいんだけどね」
「普通の猫と変わらないじゃない」
アリエルはそう思ったのだが、セシリーは違った。
「そんな奴がいるなんて許せないわ!」
そう叫ぶなり彼女はライザーに休憩をもらい、店を飛び出していった。
ビルクリムはその後ろ姿を目で追いながら、言う。
「そう言えば、最近街でライザーさんが悪漢を殴り倒しているって噂も聞くんだけど、なんか猫の噂のせいで印象が薄いんだよね」
アリエルは棍を手に、立ち上がった。
「ビルクリム。その噂をこの店で喋る奴がいたら殴り倒しておいて」
「……殴るの?」
「蹴り倒してもいいけど」
「手でも足でもどっちでもいいけどさ。今度一緒に遊びに行こうよ。セシリーとグレッグも一緒にだけど」
アリエルは不承不承頷いた。
猫怪人の騒ぎは、既に街で起こっていた。
本当に二本足で立つ猫だった。本棚よりも大きい、でっぷりと太った猫。汚いボロマントを身に纏い、猫はゴミ捨て場を漁っていた。手には──ステッキだろうか。そんな形の物を持っている。
「貴様が猫怪人だな」
既に花柄エプロンを身につけたセシリーが猫と対峙していた。
遠巻きにして観客もできあがってしまっている。まさかこの輪の中に入って行く訳にもいかない。それでは目立ちすぎる。
今この時間、ライザーは食堂で働いている。ならばここにいるのはライザーではない。そういう論理が成り立つはずだ。そこにライザー食堂関係者であるアリエルが出て行ってしまっては、話がややこしくなるだけだ。
「貴様のような奴を生かしておく訳にはいかん!」
セシリーは疾走した。それは火竜ライザーと呼ばれていた冒険者時代の彼を彷彿とさせる、力漲る疾走であった。
「ライザーアタァッック!」
セシリーの右ストレートが猫の腹に炸裂する。
にやり、と猫が笑った。
爪の一閃。しかしセシリーは危うい所で攻撃を逃れていた。
距離を取ったセシリーと猫が睨み合う。
色々な意味で凄絶な光景を見ながら、アリエルは全く別のことを考えていた。
変身するエプロン。あのエプロンは間違いなくニーナの店の商品だ。あの店の商品だから、装着するだけで変身できたとしてもそれほど驚かない。だってニーナの商品だし、で済んでしまう。
しかし、あの猫はなんだ。こんな化け物は見たことがない。
まさか、あれはニーナに関係のある物ではないのか。
「ふうむ。何とも面倒な事になったものだねぇ」
「え?」
いつの間にか隣にニーナが立っていた。彼女は口元を銀の扇で隠しながら、言う。
「あの猫、何なんだろうねぇ」
「貴様の知り合いじゃないのか?」
「違うよ。まあ、あっちのエプロンは……私の商品だけどねぇ」
いつもと違い、彼女の言葉には苦い物が含まれている。
「あれはね、使用者がもっとも強いと思っているものに変身できるんだよ。その強さも再現できる。まあ、あの娘がライザーに変身したのは妥当だろうね」
「……なんでそんな商品があんな格安で?」
「そんな物だってことをすっかり忘れてたんだよ、本当に」
野次馬達が悲鳴を上げた。
セシリーが猫の手に捕まっていた。猫がセシリーを掴み取り、今にも丸飲みにせんと口を開く──
「くそぉ!」
アリエルは棍を振りかぶろうとした。この距離では人垣を乗り越えて接近するのは無理だ。何かを投げるしかない。
「これをお使い」
ニーナに手渡されたのは、丸い鉄球だった。しかし鉄の塊にしては軽く、手頃な重たさだ。
「感謝する」
アリエルは鉄球を振りかぶり、投げた。
しかし猫は飛んでくる物に気付き、ステッキを振った。鉄球は打ち返され、砕ける。
真っ白な粉が舞った。
「……あれは?」
「マタタビ」
へなへなと猫の手が緩み、セシリーは解放された。
「どぉりゃあぁぁぁぁ!」
セシリーは猫の腕を掴み、力任せに投げ飛ばした。人垣に向かって。
野次馬達が悲鳴を上げて散っていく。
なるほど、蜘蛛の子を散らすとはこういうことかと感心するアリエルの目の前に、猫は背中から落ちた。
そしてアリエルの見ている前で猫はじわじわと縮み、普通の猫に戻ったかと思うと、脱兎の如く駆け出して街の路地に消えた。
セシリーはいつものようにかけ声と共に跳躍し、いずこかへと消えた。
アリエルはニーナと共に猫が落下した所を見ていた。
そこにはステッキだった物が残されていた。ぐにゃりと折れ曲がったステッキ。
ニーナはそれを手に取ると、ゴミ捨て場に向かって投げ捨てた。
それが何であったのか、アリエルは聞かなかった。聞くと後悔しそうな気がしたからだ。
結局、あの戦いで花柄エプロンは破れてしまい、戦うライザーが街に現れる事は二度となかった。
なかったが、真夜中にセシリーの部屋から奇妙なかけ声が聞こえてくることは度々あり、アリエルはしばらく不眠症になった。
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数日前の話である。
店のカウンターで、ニーナは首を傾げていた。
問題が生じた理由は、一冊の本だった。いや、元を辿れば廃棄処分品に原因がある。
この日から更に一日前の話。倉庫の奥から覚えのない商品が出てきたのだ。いや、それが商品であったのかどうかも怪しい。
それは一本の傘だった。花柄の傘だ。商品であったような気もするが、どうにも思い出せない。結局、それは使ったまま倉庫に置き忘れていた単なる日用品なのだろう、という結論に達したニーナは、その傘を捨てることにした。花柄の傘はニーナの趣味ではなかったからだ。
いざ捨てようとした時に、ニーナは以前読んだ一冊の本を思い出した。傘でエプロンを作る方法──そんな意味のタイトルを持つ本だ。これもやはり知らぬ間に倉庫に紛れ込んでいた詰まらぬ本なのだが、ニーナは暇つぶしがてらにその本を読了してしまっていた。
なので、やはり暇つぶしがてらに傘からエプロンを作ってみたのだ。
しかし花柄の傘が趣味でないのに花柄のエプロンが趣味であるはずもない。どうしたものかと首をひねっている時に、客が来た。
買っていってくれたから、良しとしよう。そう考え、ニーナは残った傘の骨組みを捨てるべく立ち上がった。
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その後、猫怪人の噂を押しのけ『悪漢を懲らしめる花柄エプロンを着けたスカート姿の男』という都市伝説がレセフェール街に根強く残ったという。