セシリーの冒険
作者・逢坂総司
遠くまで見渡せる青々とした空が、今日は快晴だと教えてくれる。
三日間雨が降り通しだったため、いざ晴れるとなると洗濯で大忙しになるのだろうと娘は思う。
水気を帯びた風に、南から吹き寄せる乾いた風が交ざりあい、それが心地よい気分を与える。
呑気にぷかぷか高みを泳ぐ雲が、一人の娘を見下ろしている。まだ幼い顔つきにそばかすを残した娘は、その雲を見てそう実感した。
「今日こそは洗い物を済ませないと……」
朝も早く、客が来ないうちの出来事である。
* * *
街道が西に向かって延びている。それはある地点にたどり着くと北西と南西に分岐した。北西には厳しい山並みを見せる鉱山が。南西には貿易港として栄える港町がある。この街は、そのほぼ中間点に存在する。
街の中心には領主の館があり、そこを中心に蜘蛛の巣状に道が伸びている。その道の端の方に、ライザー食堂というものがある。
ライザー食堂は出来てから十数年の歴史がある、まだ新米といっても良い食堂だ。旅人が泊まれるように、二階には部屋を何室か用意している。
旅人も利用するのだが、最近の常連といえば顔なじみになりつつある冒険者たちだろう。食堂を切り盛りするライザーとクッキーの夫妻は、元々冒険者で娘が生まれるまでは現役だった。冒険者たちは彼らの経験談や共通の話題を求め、ここに集まるのだった。
娘がテーブルを拭きに店内を見回しただけでも、朝早い者は席に着いていた。
テーブルが九脚に、椅子が予備を含めて百脚近く。そのうち十はカウンターに備え付けである。その常連でも一番早いのは、黒髪の女性、アリエル・ユイオーだろう。容姿は端麗だが、表情を全く表に出さない。それが蝋人形のようでもあるし、他人から見れば欠点のようでもあるが、本人は感情を出さない。無いわけではないのだが、感情の起伏を表に出さない理由をセシリーは知らない。
アリエルは規則正しい生活をしている。だが、珍しく彼女の姿はなかった。用心棒としてこの食堂兼宿屋に雇われて以来、初めてのことではないだろうか。
セシリーはやや首を傾げつつ、珍しいな、と思ったが、手際よくテーブルを拭いていく。これから何時間かは朝食づくりに忙しくなるだろう。
そう思っているうちに、厨房には火が入り、いつでも調理が出来るようになると、それに合わせるかのように、あっという間に席が埋まっていった。
鼻歌混じりにまた一人、冒険者が入ってくる。彼もやはり常連で、顔なじみと言えるぐらいには付き合いもある。
「おはよう、ビルクリム」
彼の名前はビルクリム。苗字で呼ばれるのを嫌うため、彼はそうとしか名乗っていない。身長自体は、小柄なセシリーよりも少し高い程度。戦士としては低い部類にはいるが、引き締まった体つきを見て「小柄」とは言えない。
「おはよう、セシリー」
と挨拶したところで、店内を隅から隅まで見渡して、
「アリエルはどこに隠れたんだ?」
セシリーに問いかけた。セシリーも知らないから、首を傾げて「さあ」と答えるのだった。
「……じゃあ、いつものでも食べながら待つよ」
いつもならアリエルが座っているカウンター席辺りにビルクリムは腰を下ろす。後は、いつもの朝食を食すばかりだ。
必死でアリエルを誘う算段を考えているのだが、それはいつも失敗している。その光景は、第三者から見れば滑稽な喜劇でしかない。
(今日もその喜劇が演じられるのね……)
心の中で舌を出しながら、その様子を楽しみにしている。
だが、本格的にアリエルが寝坊している。困りものである。
「セシリー、アリエルを起こしてきてくれ」
厨房から、店長にしてセシリーの父親、ライザーが顔を出す。セシリーがアリエルを起こすまでの間、カウンターで注文を取りつつ給仕もやるつもりなのだろう。
はい、と明るい返事を残してセシリーは二階に上っていった。食堂はむさ苦しい男どものため息で一杯になった。
食堂の二階部分は客室が何部屋かと、その一番奥に元物置部屋がある。アリエルは寝泊まりしているのは物置部屋を片付けた部屋だ。
軋む廊下を歩きながら、燃え残った蝋燭を消していく。蝋燭の灯は黒いすすを棚引かせて最後の抵抗を試みるが、セシリーの息一つでふっと消えていった。
などとやっている間にもアリエルの部屋にたどり着いた。
扉には「物置部屋」と書いたままになっている。なんとも寂しいものではあるが、一般客が客室と間違えるよりは良いとそのままにしてある。
その扉をセシリーはノックする。乾いた音。中からの反応は、無い。
(あれ? 寝てるのかな)
もう一度ノックしてみて、初めて中から反応があった。
ゴソゴソという物音。目の下に隈を作ったアリエルが扉を開けるのに、そう時間は掛からなかった。
「あ、おはよう」
セシリーが来たと分かると、少しだけ微笑む。滅多に感情を表に出さないアリエルの、セシリーに対する感情表現。いつもこんなものである。
「うん、おはよう。……どうしたの、その顔」
セシリーがアリエルの顔を覗き込むようにすると、アリエルは目の辺りを撫で、しばし思うところがあるのだろう、考え込む。
それ以上追求しても、何も出ないだろうと判断し、セシリーはアリエルが着替えるのを待つ。アリエルは寝間着のままだったから。しばらく物音だけが部屋の中から聞こえ続けた。
(夕べ、何かがあったんだわ)
最近、街中を騒がせる事件がある。真夜中に騒ぎ立ててみたり、酔っぱらいに悪戯をするなど、軽犯罪が続出しているらしい。それとアリエルがどう関わっているのかは知らないが。
目元に隈は残っていたが、それ以外はいつもの寡黙な女性に戻る、アリエル。セシリーは昨晩のことを、仕事が一段落したら聞いてみようと思うのだった。
朝の忙しさが一段落した。
たいてい、時間に余裕が出来るとやることがあるはずなのだが、今日は無さそうだった。そういうことで、セシリーはアリエルの座るカウンター席の一番端を見てみた。
静かに店内を見張る気配がありありと伝わってくる。
こういう用心棒仕事は、一日ずっと座ったままというのも無い訳ではない。休暇は無い。休憩時間は、やはりこういう客のいない時間になるのだろう。
セシリーはたまに思うのだが、アリエルはどんなことを考えて仕事をしているのだろうか。気になることは気になる。しかし、今は寝不足になった原因の方が知りたい。
「アリエル、ひとつ聞きたいんだけど……」
アリエルはいつもの無表情でセシリーを見つめると、口を開きかけてそこで止まった。聞こうとしたことが何であるか悟ったのだろう。
(まずい)
と思った。このままでは何も語らない、そんなパターンだと思う。
「気になる」
と言ったところで教えてくれるものではないだろうが、良い案が思いつかない。
「今日も徹夜なの?」
ふと聞いてみる。アリエルは答えるかどうか迷っている、という様にも見えた。
(しまった)
きっとアリエルは夜中に何かしていても、決してセシリーには悟られないようにするだろう。こうなると、いよいよ何か策を考えなければならない。
「ラッチー、アリエルの様子が変だわ」
愛犬ラッチーと散歩に出かけると、セシリーはラッチーに語りかけた。と言っても、彼が聞いているのかは甚だ謎ではあるが。
石畳の町並み。煉瓦造りの家々。さらにその上には、井戸から汲み上げた水よりも透明で澄んだ空の青色。そこにホイップを溶かしたような雲が漂う様子は見ていて心が和む。
「どうすれば、アリエルから話が聞き出せるのかしら」
ラッチーがセシリーの問いに答えることはない。ただ、いつも通り陽気に飛び跳ねたり、じゃれついたりするばかりだ。
セシリーは一人、アリエルの行動パターンというものを考えてみることにする。
朝方、彼女は身支度を整えると食堂に降りてきてカウンターで朝食を摂る。三食昼寝付きの契約なので、用心棒と言うよりは居候という感じがする。
昼頃まで、彼女は静かにそこに座っている。昼頃になると、グレッグという青年剣士が現れるので彼を相手に、剣の稽古を行っているらしい。そして、遅めの昼食。
夕暮れ頃になるとアリエルはいつもの席に着き、静かに食堂の様子を見守っている。そのまま夜になると夕食を胃に収め、閉店と共に部屋に戻る。
ここ何日か、グレッグは一人で昼食を食べていることが多く、アリエルが何をしているか分からない。実際、セシリー自身店の手伝いをしている間、決して暇ではない。アリエルの行動パターンを掴むなど、そう簡単にできるとも思えない。
「他の話題なら、ほいほい聞き出せるんだけどね」
首を傾げても、そう簡単に良い案が出てきたりはしなかった。
街路樹が作る木陰でしばしの休息。ラッチーもセシリーの横で寝そべり、くつろぎ始めた。往来を行き来する人々、大声を上げる商店の店主。それ以外にもたまに通る馬車の音や、それこそごく希に見る冒険者たち。見えるもの聞こえるもの、そして匂うもの、意識しないで感じているものがたくさんあり、セシリーはその中からヒントになるものを探した。
街の中で育ったセシリーが、困ったときによく行うことだ。
ヒントが見つかるとは限らないが、立ち止まって周りを見てみれば少しは自分の場所が見えてくるものだ。
(アリエルが食堂にいないのは、だいたい決まって昼頃)
探すとすれば、今ぐらいがちょうど良いはずだ。だが、不用意にアリエルを呼び止めたとして、ただ警戒されては何をしているのか、いよいよ教えてくれないだろう。
目を閉じて、しばらく雑踏に耳を傾ける。
サワサワという葉の音、人々の話し声。奇妙に混ざり合った音は、気持ちを不思議と落ち着かせる。しかし、何も思い浮かばなかった。
「ま、そういうときもあるかな」
セシリーは休憩を終え、ラッチーを伴って食堂に帰っていった。
夕方になると、アリエルはいつもの席に戻ってきた。
特に表情は無く端正な顔は、見るものに冷たい印象を与える。
「ひゃー、危ない危ない」
ビルクリムが食堂に入ってきた。朝方にも見たのだが、食堂でずっと座っているのも暇だと思ったのだろう。出て行ったのだが、また帰ってきた。
「また厄介事を運んできたんだろう?」
ライザーがカウンター越しにビルクリムへ声をかける。
「そんなことはないさ。ただ、商店の親父に勘違いされただけで……」
すぅっと、ライザーの目が細まる。まずい、とビルクリムが思ったときにはライザーに追い撃ちされていた。
「厄介事を解決するまで、ここへの出入りは禁止だ。他のお客に迷惑をかける訳にはいかないからな」
ビルクリムは久々に問題を抱えてしまった。彼は何としてでも、食堂に出入りしたい理由があった。他人には語っていない、明確な理由が。
「わかった、必ず解決して見せる」
ビルクリムは決心すると、踵を返して食堂から出て行った。
「問題事が起きると、何でもかんでもビルクリムのせいになる。何かと不幸な男だな」
ライザーは楽しそうにあごをなでた。
一連の流れを見ていたセシリーは、商店で揉め事の種が蒔かれていると知った。ビルクリムは誤解だと言っているようだ。だが、詳しい話は知らない。
「何か問題でもあったのかな」
セシリーは父親に聞いてみるが、さあ、と肩を竦められるだけだ。
アリエルが夜中に何かをしていたことと、商店に起こった問題を容易に結び付けることは出来そうにない。アリエルが商店街で何かをしていたのなら別だが、そうだとしても動機が分からない。
考え事を始めようとしている矢先、食堂にどっと客が入ってきて、仕事に忙殺されることになった。夕食時になると、決まって人が増える。それだけ繁盛しているのだろうが、常連も少なくない。
酔っ払いが暴れようとしたのをアリエルが体術で捌いたこと以外、特に問題なく時間が過ぎていき、夜中になった。店じまいの後で、寝る準備をしているアリエルを見、セシリーは朝方のは勘違いだったかと思う。納得の行かないものを感じつつ、部屋に戻る。
夢は見なかった。
日が昇り、窓から朝日が差し込むころに、セシリーはラッチーと散歩していた。
ラッチーを散歩に連れ出せる時間はかなり限られているので、行ける時に行っておかないと太ってしまう。それに、きっと暇だろう。
「おう、おはようさん」
と、町中で声をかけられて、一瞬、誰か分からなかったがビルクリムであった。
目の下に隈を作っているということは、夜通し何かをしていたらしい。
「おはよう、ビルクリム。あのね……」
と、セシリーは両手の人差し指を目の下を撫でた。その仕草でビルクリムも気が付いた。
「あらら、隈が出来てんの? 朝ごはん楽しみにしてたのに……」
などと陽気に言いつつ、口から漏れ出す欠伸をかみ殺す。
「ま、明日か明後日にも食堂に出入り出来るようになるさ」
解決する見通しが立ったらしい。
ラッチーがビルクリムにじゃれつくのを止めると、別れを告げて、セシリーは散歩の続きを始めた。きっとビルクリムは昼頃まで仮眠を取って、問題解決に勤しむのだろう。
商店街に来た。ついでに噂話でも聞いておこうと思ったが、さすがに朝は忙しそうなので、挨拶するにとどめておく。
「なかなか情報収集も難しいわ」
セシリーは手にいれた情報を整理しようとしたが、何も手にいれていないに等しかった。
アリエルはちゃんと起きて来たが、目の下にうっすらと隈があるのは変わらなかった。
結局、意外と時間が取れない。その上、思うように情報が手に入らない。
アリエルが夜中に何をしているか分からない、ビルクリムは関係あるのかどうか、などなど、メモを書き出してみたが接点が何も見えない。
「この二人はきっと関係ない事件をとり扱っているんだわ」
そう判断することにした。早計だというはわかるのだが、セシリーの勘はそう言っていた。
昼が過ぎれば、時間に余裕が出来る。夕食に足りない材料を買い足すついでに、商店街で噂話も聞くことにする。
カウンターでそんなことをしていると、アリエルがセシリーを見ている。
「何?」
「お茶頂戴」
「どれにする?」
「一番安いの」
「暖かいので良い?」
「いいわ、でも出来るだけ早くして」
ほとんど溜め口の接客になるのだろうか、などと思う。でも、用心棒として雇っているのなら従業員ということで、それぐらいの対応でも良い気がする。いや、そもそも常連が多いせいで、あまりに他人行儀な対応をしたことが無い。
湯はすぐに出来上がる。すぐに料理に使えるように、薪がくべてあるから。茶を煎る香りが心地よい気分にしてくれる。
「はい、お待たせ」
カップに注がれた茶が、アリエルの元に置かれる。
「うん……、ありがとう」
アリエルが何か考えてごとをしている。当然のことながら、アリエルの考えはセシリーにはわからない。
アリエルの持ち物が減っていることに気が付いたのは、昼の忙しい最中であった。
(あ、いつもの短剣が無い)
かわりに短槍が傍らに置いてある。
聞く時間は無い。注文を聞いて、そして作って、持って行く。食べ終わったテーブルから食器を回収する。そして会計。繰り返し繰り返し。
昼を過ぎたころ、食堂には客はほとんどいなくなった。そんな中でやはり夕食用の材料に不足がちなものが出て来た。それをメモすると、セシリーはラッチーを連れて散歩がてら商店街に買い出しに向かった。
アリエルが何をしているのか。夜中にしていること。内容はよく分からないが、最近町中で起こっている軽犯罪。そして噂話。ビルクリムが目の下に隈を作った理由は、アリエルと関係があるのか。
それらのことを調べられたらと思うが、うまく行く自信は無い。
商店街に着き、材料を注文して行く。セシリー一人でもって行ける量ではない。そもそも、食堂が注文するので夕方までに商店の方が運んでくれたりする。彼らにもサービスする時間はある。それなりに大口の顧客ということになるのだろうか。
ライザー食堂は市場で仕入れてはいるが、どうしても客の好みにばらつきが出て、残るものと足りないものとが出てくる。そういうことで、商店街に買い出ししたりする。
「おう、こんにちは。何か買って行かないか?」
八百屋の親父がセシリーに声をかけた。
確か、いくつかの野菜が足りなかった気がする。それから肉類も幾つか。
「特に、今日入荷した今年一番のこれなんか、いい感じだぜ」
その赤いプリプリとした実を見せて、自慢げにセシリーに売り込む。だが、まだ時期は早く、旬とは言えないだけに今回は遠慮することにする。
「また、今度にしますね。ところで……」
「噂話ねぇ。そんなこと突然聞かれたって、俺はあんまり興味ないしな。ビルクリムはいつも騒動起こしてるから、それの事かい?」
八百屋の親父は、その毛深い腕を組む。セシリーは考え事に没頭したいところだが、そうも言っていられない。メモ書きから野菜類の注文を一通り告げ、次の注文先に向かう。
「うまいこといかないわ」
最初から、そんなに早く事が進むとも思えない。ある程度、気を長く持つことは必要だと思う。しかし、早くしなければ、あっという間に事件は解決して、何も知らないままと言うことも考えられる。
焦れば焦るほど、事はうまくいかないものだ。それは分かっている。しかし、そう簡単に好奇心が抑えられるなら、もっと別の人生を歩んでいるはずだ。
とりあえず、めげないように自分を励ましながら、商店街での注文を片づける。空を見上げると、太陽がゆるゆると沈み始めている。まだ夕方と言うには早いが、客が増え出す時間だ。まごまごしていると食堂は忙しさに押しつぶされてしまう。
「急いで帰らないと……」
ラッチーはセシリーに合わせて、嬉しそうに走り始めた。
非常とも思える忙しさ。
忙殺されるような、難しい料理をたくさん注文されてしまう。時間が掛かりますよ、という一応の対応は、エールでも飲んでゆっくり待つから、という言葉でかき消される。厨房で必死に料理を捌いている両親の悲鳴が聞こえてきそうである。
「ありゃ、一杯だな。少しぶらぶらしてからまた来るわ」
そんな客も出てきてしまう。
アリエルはいつもの席を立って、階段の脇ぐらいに持ってきていた小振りの椅子に座って、食堂内を見回している。さすがにビルクリムの姿はなかったが、他の冒険者たちは席を譲り合いながら、きっちり夕食を食べていた。
「そういえば……、賞金が掛けられるんだって?」
そんな言葉が聞こえてきたのは、忙しい最中の、ほんの偶然だった。
「町中に怪物が……? そんなことはないだろう?」
「いや、そうでもないらしい。どうにも衛兵の目を盗んで、悪さをする奴らしい」
「物騒な世の中になったもんだな」
怪物という言葉に、セシリーの胸は高鳴った。まさか、アリエルは怪物を退治するために、夜な夜な寝床を抜け出しているのではないか。そんな気がしてきた。
「すまんが、これのおかわりを貰えるかい」
「は、はい。少々お時間掛かりますが、よろしいですか?」
「ううむ、まぁ、忙しいようだから今日は止めておくか。勘定は?」
「ええと……」
気が付けば、かなりの時間が経ち、熱気に包まれたホールは、夜の落ち着いた静寂に支配されようとしていた。
「なんか、寒いぐらい」
セシリーは熱気に当てられた体に、夜風を感じてアリエルに同意を求めた。
「確かにね。明日も雨が降るから、かもしれないわ」
「明日は雨なの? 困ったなぁ、洗濯もの溜まってるのに」
言われてみると、風に湿り気が混じり始めている。
昼には降り始めているだろうか。
「部屋の中に干して、乾くかなぁ……」
「少しはましだろうけど、止めておけば? カビが生えるかもしれないから」
カビと聞いて、セシリーは眉を寄せた。
「どうしよう。今のうちに洗えばどうにかなるかな」
「……賭けてみる?」
アリエルは口元を少しだけ緩ませた。
じゃぶじゃぶと洗い物をする音が、部屋の音全てだ。
その後、思い出したように、セシリーはアリエルが部屋を抜け出していないか、部屋の明かりを確認するのだ。うっすらと蝋燭の明かりが漏れているのを確認すると、再び洗い始める。
食堂の裏側にある井戸で、ラッチーが興味津々で見つめる中、黙々と洗い続ける。
一通り洗い終わり、手で絞る。その後はかごに入れていく。ふと、自分の腕を見て、筋肉が付いたな、と嘆息しつつ離れの自室に戻る。
食堂は木造二階建ての食堂兼宿、そして廊下で繋がってはいるが、離れと呼ばれる寝床がある。セシリーもそこで寝泊まりすることになる。最後にもう一度、アリエルの部屋を見て、セシリーは部屋に戻っていった。
朝早く起きて、夜中のうちに干した洗濯物がどうなったか確認してみる。部屋中が湿っぽくなった割に、大して乾いていないようだ。窓を開けて換気する。落とし戸式の窓だから、すこしぐらい雨が降っても大丈夫だろう。
「さて、今のうちに散歩に行きましょう」
背伸びをして、寝間着から普段着に着替えると、セシリーはさっさとラッチーを連れて散歩に出かけた。
しばらく歩いていると石畳に、所々シミが出来ているところがあった。領主の館辺りで、噴水が街に潤いを与えているところだ。
最初は噴水の水滴が飛んで出来たものだと思ったが、どうも違うらしい。恐る恐る触ってみると、すり減った石畳はすべすべしているのに、シミのところだけ、石独特のざらざらした感じになる。
どういうことかよくわからないが、家に帰って両親に聞けば何か分かるだろうと思い、記憶するに留めておく。
しばらくして朝日が顔を出すと、セシリーは食堂に戻り支度を始める。
「おはよう」
アリエルが下りてくる。隈はなくなって、いつもの顔に戻っている。
「どう、賭けの具合は?」
「まあまあね。雨が降ったら負けかしら」
セシリーは昼頃まで、天気が持てば洗濯物が乾く気がしていた。
朝日が顔を出したのだから、その望みも叶うかも知れなかった。
実際に雨が降ったのは、昼前の忙しくなり始めの頃だった。
ぽつぽつ……、と地面に落ち、シミを作り始める。空は灰色の雲に覆われ、しばらく膠着状態があり、いよいよ雨を貯める樽を、ひっくり返したような土砂降りになった。
「あー、ひどい。もう後少しなのになぁ」
外を見ると、人も通らなくなるほどに、雨が降り注ぐ。賭けには負けたらしい。
「次は勝てるでしょう」
アリエルはセシリーを慰めた。といっても、二人の顔には別に落胆も嘆きもない。こんな事になるだろうと言う予想をしていた、という顔だ。ああ、やっぱりね。そう言うのが相応しい。でも、そうは言わない。それは言わなくても分かるような気がするからだ。
きっと、セシリーが考えていることの断片ぐらい、アリエルは気が付いてきているだろう。
ばれないように動いているつもりでも、きっと感付き始めているはず。セシリーは何となく、そう思った。アリエルが何をしているか知るには、時間が残されていない。セシリーが知ろうとしていることは、先日ばれている。
「うん、次は勝てるよね」
セシリーは、元気に頷いた。
この日の昼から客足は遠のいた。雨は客を遠ざける。
「次は勝てるでしょう」と言う言葉が、セシリーの胸に留まっている。
つまり、次に問題と対峙すれば、必ず勝つという意味に取れた。そうすると、ここ何日かの経験はいったん無に帰すだろう。
焦りは募る。
どうすればいいだろう。
考えれば考えるほど、焦りは募り、良い案は浮かばなくなる。
深呼吸したが、あまり考えはまとまらない。
「今夜かも知れない……」
そういう考えが強くなったのは、昼過ぎぐらいだった。
夜中になると、セシリーは雨の降る中、余り目立たない傘を差し、アリエルが出てくるのを待った。必ず出てくる、そんな予感があった。
昼間は地面に叩きつけられるように降っていた雨も、夜中になると力尽きたのか、静かに降る。
空気はじめじめとした鬱陶しさを帯び、気分を憂鬱にさせる。
夕飯を食べてからしばらく経ち、やや空腹感と、孤独感が芽生える。その空腹感は、いよいよ気持ちを沈ませた。
しかし、好奇心であるとかが、そこにセシリーを釘付けにした。まだ、出てこない。
しとしとと降る雨。夜空は分厚い雲に覆われて、月どころか星一つ見えない。
時々、ランプを持った街の警備兵の、微かな明かりが見える以外、大した明かりもなくなる。人が寝静まると、いよいよ明かりがついているのは、夜を相手にする店だけだろうか。
忍耐強く待っていたセシリーが、三回目の警備兵を数え、もう諦めようかと思ったときである。
蝋燭のかすかな明かりが消え、人影が廊下に現れた。シルエットを見れば、それがアリエルだとセシリーには分かった。
すぐにでも追いかけたいが、すぐに行動開始するとアリエルに気が付かれると思い、ゆっくり慎重に尾行を始めた。
アリエルはそっと食堂の裏口を抜けて、人目に付かないように辺りを見回し、人がいないのを確認すると通りに出ていった。簡素な雨具は身につけているようだ。それから、短めの槍と、新しく買ったらしい短剣がセシリーに見えた。
足音を立てないように、慎重にセシリーは歩き出した。通りに出たときに、アリエルはかなり先の方を歩いていた。向かっているのは、どうも領主の館の方で、噴水との辺りの石畳のことを思い出した。
──関係があるのかな?
ふと、疑問が浮かんだ。そうだとしたら、石畳がおかしくなったのは、怪物のせいである。
スタスタと、足音を立てるかのようにアリエルは早かった。実際はというと足音など一切立てず、セシリーには不思議でならなかったが。
そうこうして体が温まってきた頃に、アリエルは噴水前にたどり着いていた。
木陰でアリエルの様子を観察する。彼女はじっと何かを待つように、立ち続けている。耳を澄ませているのだ。
何かをじっと待っている。
きっと、今日は怪物が現れるのだ。だから、その怪物が現れるのを待っている。怪物に後れをとらないために、耳を澄ませ、不意を打たれないように、そして、すぐに戦えるようにしているのだ。
セシリーは、そう思った。
アリエルが本気で戦う姿勢というのを、まだセシリーは見たことがない。用心棒としてライザー食堂にいるが、彼女は大体武器を使わず、体術でもって簡単に相手を叩きのめすだけだ。
雨が静かだった鼓動を止め、ため息混じりの霧雨に変わる。
口の中が、緊張からか乾き始め、体が寒くなってくる。
それは、ほんの前触れもなく、突然の出来事だったと思えた。
アリエルは突然に噴水の前から離れた。
その瞬間に、何かがアリエルのいた空間に、何かを仕掛けた。セシリーには全く分からない。それが、ある種の攻撃だったと気が付くのは、もう少し時間が経ってからだった。
セシリーが洗濯物を洗うのに使うたらいに入りきらないぐらいの、たっぷりの水が噴水から立ち上がった。それは噴水から出ると、ゆっくりとアリエルに向かって進み始める。
質感がヨーグルトを透明にした感じで、それは奇妙な怪物だった。
セシリーは怪物の名前など知らないから、それがいったいどの様なことをするのか興味があった。それと共に、アリエルがどのように戦うのかも、興味があった。
霧が立ちこめ始めた。
そんな中で、アリエルが槍を怪物に一度、突き入れる。
怪物はその程度では効かないのか、悠然と地面を這っている。
二度三度、槍を繰り出して、アリエルはそこから離れる。じゅう、と音が微かに、セシリーに聞こえる。よく分からないが、この音が石畳の変化と関係があるかもしれない。
ダンッ
鋭い踏み込み、繰り出される槍。横にステップして、攻撃をかわし、さらに一度。手首を返してさらに一撃。流れるような動きの中で、的確にアリエルは怪物へと仕掛ける。怪物は必死でアリエルに追いすがるが、動きは鈍く、まったく歯が立たない。
そして、何度目かの攻撃を最後に、怪物は動かなくなった。
それ以降、アリエルが攻撃しても、反応を示さなくなった。
アリエルは怪物を倒したのだ。
アリエルは槍を足下に置くと、腰の辺りから何かを取り出し、怪物の死体に掛けた。その後、カチカチッ、と石か何かを打ち合わせる音が聞こえ、静かに怪物の死体は燃え始めた。
緩やかな火。それを見ながら、アリエルが何をしていたのかが分かった気がした。
夜な夜な、怪物が何かをしているのをアリエルは知り、退治するためにわざわざ食堂を抜け出していたのだ。
火は消え、辺りには怪物の燃えた焦臭い匂いが残された。
アリエルは槍を拾うと、くるりと向き返り、木陰へと歩いてきた。慌てて木陰の裏に隠れ、アリエルに見つからないように息を潜める。
「セシリー、帰ろう。風邪ひくわよ」
「……いつから気が付いてた?」
「最初から」
後は、興奮してしまった心を落ち着かせるのに苦労しながら、セシリーは眠りにつくだけだ。色々と話したいことはあるが、それは朝でも出来ることだ。
「アリエルの冒険、明日からでも聞かせてくれる?」
「ええ、いいわ」
* * *
いつも通りにセシリーはアリエルと話をしていると、ビルクリムは顔中に引っ掻き傷を作って食堂にやってきた。
「お、問題解決か、ビルクリム」
「おう、長い戦いだったよ。誰が万引きなんてするか、って話だったんだ」
悠々といつも通りアリエルの隣に座り、いつも食べている朝食を注文する。
「もう、昼だよ?」
「いいよ、これが朝食だから」
ライザーは注文を聞いて、早速調理に掛かる。
「んで、どんな奴が相手だったの?」
「んぁ、相手か。相手はな……」
にゃー。
「こいつだ。手間とらせやがって」
腰に吊していた革袋から、一匹の猫を出した。ビルクリムの革の手袋にガリガリと爪を立てている。
「野良ネコみたいなんだよな。最近は、ネズミばかりじゃなくて、肉屋も狙うみたいでさ、俺は危うく商店街に出入りできなくなるところだった」
いやがるネコを再び、革袋に突っ込むと出来立てほやほやの朝食を食べ始める。
「いろんな冒険があるんだね……」
セシリーは、ふと呟いた。