ニーナの店

作者・南雲

セシリー・バーンスタインが、その真新しい店に気付いたのは、その建物の奇妙な外観だけが原因ではない。

バーンスタイン家の愛犬・ラッチーを朝の散歩に連れて行くのはセシリーの日課で、歩く道は決まっているから、セシリーはもう景色を覚えてしまっている。

だから確かに昨日までは空き地だったはずの土地に新しい店が建っていれば、気付かないはずがない。

「あらら。お気に入りの芝生がなくなっちゃったわねぇ」

突然の変化を理解できないのか、ラッチーは昨日まで空き地だった場所を不思議そうに眺めている。セシリーはその頭を撫でてやりながら、できたばかりの店を見た。

「何なのかしらね、このお店」

二階建てで、一階の通りに面した壁はすべてガラス張り。こんな豪華な外観の店が何屋なのか、セシリーには思い付かない。店の中からカーテンが閉められていて中は覗けないし、まだ看板も掲げられていないから店の名前すら判らない。上の階には普通の小さい窓があるきりで、やはりカーテンが閉められているので中は覗けそうにない。

しかし、昨日までは空き地だった場所に、一晩で店が立つとは……。タチの悪い魔法使いにでも騙されているのではないかしらん、とセシリーは店を見上げながらぼんやりと考えた。

と、物思いに耽っていたセシリーは、突然ラッチーに引っ張られて危うく転びかけた。何を思ったのか、ラッチーはその怪しい店に寄っていく。

「こら、ラッチー。ここはもう空き地じゃないんだから――」

サッと衣擦れの音が聞こえたような気がして、セシリーは顔を強ばらせた。

ゆるゆると顔を上げると、ガラス越しに女性と目が合ってしまう。丁度ガラスの向こうで女性がカーテンを開けたところだったのだ。

仕方なく、セシリーは微笑んで見せた。あまり上手く笑えた自信はなかったが、女性は微笑み返してくれた。

そして、二人の間に勢い良く水が流れた。

「まあ、今から拭こうと思ってたところだから、別にいいんだけどさぁ」

「……すみません……」

バケツでガラスに水を掛けながら、明らかに不満そうにぼやく店主に、セシリーはとりあえず頭を下げた。

女店主が異国の生まれであることは外見から知れた。真っ直ぐの黒髪と、ぬばたまの瞳はこの国でもそう珍しい特徴ではないが、少々低めの鼻と、細くやや吊り上がり気味の目は異質だ。

歳はまだ三十路には届いていないだろうと、セシリーは見当を付けた。

「新しく越してこられたんですか?」

「まあね」

背中まである髪を耳が出るように掻き上げながら、女は微笑む。笑うと少しばかり愛嬌が出て、皮肉げな印象のある顔の作りが手伝って美人顔になる。ふとセシリーは彼女の手元を見た。セシリーと同じくらい小さい左手の、セシリーよりも細く長い薬指には指輪がない。

セシリーは女店主のにおいを嗅ごうとするラッチーを押さえながら、言う。

「もしよろしかったら、二つ向こうの通りに食堂がありますから、来て下さい。おわびに御馳走します」

「おや、お嬢ちゃんもお店を持ってるのかい?」

「まさか。父の店です。ライザー食堂っていうんですよ」

「ふーん?」

女店主は曖昧な笑みを浮かべて納得して見せた。そしてセシリーの思いを察したのか、店を横目に見ながら、言う。

「私の店は、ニーナの店っていうんだ」

「はい?」

間の抜けた声で聞き返すセシリーを、女店主は口端で笑う。

「店の名前がないもんでね。みんなニーナの店って呼ぶのさね」

「はあ……なるほど」

つまりこの人の名前はニーナなのだ。納得しながら、セシリーは店を見上げた。しかし店に名前がないとは、少々ふざけていないか?

今度はセシリーの思いを察した訳でもないだろうが、ニーナはバケツを地面に置き、顎で店の中を指し示す。

「扱う物が色々ありすぎて、良い名前が思い付かないものでね。どうだい? 何か一つ買っていかないかい?」

「えーと……」

ラッチーの一件があるので断る事もできず、セシリーはガラス越しに店の中を覗いた。まだ整理は終わっていないらしく棚には何も並んでいないが、ガラスのすぐ向こう側には鉢植えの木が並んでいた。土いじりは嫌いではない。

「何か珍しい木はありますか? 観賞用の」

「珍しい木はないけど、珍しい花ならいくつかあるよ。見て行くかい?」

アリエル・ユイオーは手に馴染んだ棍を携えて、やはりもう馴染んだ部屋を出た。彼女がこのライザー食堂の二階にある部屋に住み込みを始めてから、もう一年になる。

アリエルの仕事はライザー・バーンスタインが経営する食堂の用心棒だ。血の気が多い冒険者が集まるこの食堂に於いて、彼女はコックと並んで重要な存在だ──というのは言い訳であって、実際はそうではないとアリエルは思っている。目に入れても痛くない愛娘を持ってしまった父親の言い分など、真面目に聞いていられない。

つまり、可愛い娘に『変な虫』がつかないようにするのがアリエルの本当の仕事なのだ。

自分はいつまでこんな仕事を続けるのだろうかと考えて、アリエルは胸中だけで嘆息した。アリエルは冒険者ではない。だが用心棒など、どう考えても冒険者の仕事だ。

しかし今の自分にはこれ以外に選択肢がない事もアリエルは解っている。自分の特技は父に仕込まれた武術しかないのだ。

何か別の技術を身につけなければ――そんな事を考えながら廊下を歩いていたアリエルは、窓の外から聞こえてきた声に足を止めた。

窓からは食堂の裏側にある庭が見えた。庭ではライザーの愛娘セシリーが、楽しげに鼻歌を唄っている――いるように見えた。しかし実際は違った。セシリーは本当に唄っていた。胸元で手を組み、ひどく音程の外れた声で。

「…………」

この時、アリエルは何故ライザーが愛娘にウェイトレスなどという仕事をさせているのかを知った。歌姫にはなれないし、金を扱わせるには少しばかり『おつむ』が足りない。

「セシリー」

呼びかけると、セシリーはアリエルに気付いて顔を上げた。先程の姿に対して一言「馬鹿みたいだぞ」と忠告しておくべきかとも思ったが、それはまた今度にしておく。

「セシリー、何をしているの?」

「アリエル、おはよう」セシリーは下から手を振る。「すごいのよ。あなたもこっちいらっしゃいな」

「ちょっと待ってて」

朝の店の支度はどうしたのだろうと思わなくもなかったが、アリエルは階段を足早に下り、セシリーの待つ庭に出た。

「これこれ。この花すごいのよ」

セシリーは鉢植えの花を指さす。まだつぼみも付いていないその花は、朝顔であるようにアリエルには思われた。そのツタはハート型の葉をつけクルクルと螺旋状に巻いていたからだ。

ただ、鉢には棒も何も刺されていなかった。ツタは、自分の力だけで空中に輪を描いているのだ。

「……何なの、この花」

「見ててね」

アリエルの見ている前で、セシリーは童謡を歌い始めた。その音程と姿に、やはり一言忠告しておくべきかと悩むアリエルの目の前で、ゆるゆると何かが動いた。

「うわっ!?」

アリエルは思わず仰け反った。動いていたのは奇妙なツタだった。ツタはセシリーの歌に合わせて動き、そしてゆっくりとではあるが、目で見ても確実に判る早さでそのツタを伸ばしていく。

「あら」セシリーは満足げにパンと手を叩いた。「アリエルでもそんな驚いた顔をする事があるのね」

「……セシリー、何なのこの草は」

「草じゃないわ。花よ、お花」

不満そうに腰に手を当てるセシリーに、アリエルは思わず大声を出す。

「そういう事を訊いてるんじゃない! こんな怪しい植物、どこで――うわっ!?」

怪しい植物を指し示したアリエルの指は、その『怪しい植物』に巻き付かれていた。ツタは見る見る伸び、太くなり、アリエルの腕に巻き付いてくる。

それを見て、セシリーは一瞬、大切な恋人を泥棒猫に盗られたような顔をした。

「なんでアリエルに懐くの!?」

「だからそんな話をしてるんじゃ――うわぁぁ!」

「おはようございまぁす」

朝一番、まだ開店すらしていない時間にライザー食堂を訪れたビルクリム・バリーは、脳天気に挨拶した。

カウンターを拭いていたライザーが、少し不機嫌にビルクリムを睨む。

「お客さん、まだ準備中なんですがね」

丁寧な言葉の奥に潜む威圧になど怯える事もなく、ビルクリムは笑う。

「それなら何か手伝いますよ。――って、あれ? 娘さんとアリエルは?」

いつもなら開店準備を手伝っているはずの看板娘二人が見当たらず、ビルクリムは短く苅った栗色の髪を撫で上げた。

ライザーは不機嫌に鼻を鳴らす。

「さてね。今日は二人とも寝坊してるんじゃないのか」

「珍しいですね。じゃあ俺は二人を起こしに……」

歩き始めたビルクリムは、顔めがけて投げて寄越された布巾を危ういところで受け止める。

ライザーがにやりと笑う。

「約束だぜ。そっちのテーブルを拭きな」

「ちぇ」

ビルクリムはと布巾を手に渋々とテーブルの前に屈んだ。

「邪魔するよ」

いきなり女の声がして、ビルクリムは店先を振り返った。

異国の女だった。口元に曖昧な笑みをたたえ、鋭い目付きで店内を見回した彼女は、カウンターのライザーに軽く手を挙げて挨拶する。

「やあ。お見限りじゃないか」

「ニーナ……!」

「なんだ。知り合いですか?」

ビルクリムの問い掛けには視線も返さずに、ライザーは女に向かって訊ねる。

「……こっちに来てたのか、あんた」

「まあね。ちょいと向こうの通りで店を出すから、その宣伝にと思ってさ」女は意味深な含み笑いを銀の扇で隠す。「あんたの娘さんにも誘われたし」

「セシリーに会ったのか!?」

古い友人との再会には見えない光景に、ビルクリムは全く口を挟めずにいた。ライザーの握る拳には明らかに必要以上の力が入っているし、ニーナと呼ばれた女はどう見ても三十路には届いていないように見える。これは、つまり――

「ライザーさんの隠し子ですか?」

「ンな訳があるか!」

ライザーの怒号と、彼の拳の下で軋むカウンターに圧倒されるビルクリムを見て、ニーナと呼ばれた女はくつくつと笑う。

「面白い子だね。次に出てくる予想は、さしずめ愛人ってところかな?」

「あ、当たり」

「恐ろしい事を――」

ライザーの怒りに満ちた声は、目に見えない何かによって中断させられた。カウンターを殴ろうとして拳を振り上げた体勢のまま凍り付いた彼の後ろには、何故かフライパンがあった。天高く掲げられたフライパンは、何の迷いもなくライザーの頭を殴り倒す。

「あんた、その話詳しく聞きたいわ」

「い、いや、クッキー……」

厨房から出てきたライザーの奥さんを見て、ニーナは視線をビルクリムに寄越した。そしてその視線を店の外に投げる。外に出ようという事か。

「いやいや、遊んだ遊んだ」

扇を閉じてくっくっと笑うニーナに、ビルクリムは嫌悪感を感じなかった。むしろこの意地悪い笑みは彼女を魅力的に見せている。

「あんた、ライザーさんの……知り合い?」

「昔の客と店主。それだけさね。あっちの通りで店を開いてるから、気が向いたら寄っとくれ」

「ふーん。どんな店?」

「まあ、色々と扱ってるんだけど……」

ニーナは扇を閉じ、それを手品師のような手付きでどこかにしまった。そしてライザー食堂を見上げた。つられて、ビルクリムも建物を見上げる。

「まあ、ああいうのも、うちの商品の一つだね」

「……は?」

ライザー食堂の屋根の上――青い空に、巨大なツタに巻き付かれたアリエルがぶら下がっていた。

「どうなっているんだ、これは」

アリエルは上下逆さまのセシリーに問いかけた。もっとも、上下が逆転しているのはセシリーだけではなくライザー食堂や天と地も同じだから、世界から見ればアリエルの方が逆転していることになるのだが。

この植物の成長振りは凄まじく、既にライザー食堂の屋根を越えている。奇跡的にもツタに巻き込まれずに、大きなツタ――それはもはや木の幹のようだ――にへたり込んでいたセシリーは「ええと……」などと声を上げながら、言葉を探すように虚空に視線と指を漂わせた。

「その、何て言うの? よくある魔法植物らしくって……」

「よくあるのかどうかは知らないけど、それは見ればわかる」

「うーん……つまりね、歌を聴いて成長するらしいんだけど……」

「まあ、普通はここまで一気に育つ事はないんだけどね」

聞き慣れない女の声を振り仰ぐと、庭に異国の女が立っていた。女は苦笑いしているのか嘲笑っているのか判然としない曖昧な顔付きでこちらを見上げている。その横では、いつもライザー食堂に顔を出すビルクリムが阿呆のようにぽかんと大口を開けていた。

「あら、ニーナさん! 丁度良かったわ! このお花――」

「ちなみにだね」ニーナと呼ばれた異国の女は、困った顔をして何処からともなく扇を取り出した。「そいつはある程度大きくなると、大声にも反応して成長するのだが……」

大風が木々を揺らしたような騒々しいざわめきと共に、景色がさらに広くなった。

「ひっ――!」

アリエルは悲鳴の出かかった口を手でふさぐ。セシリーに至っては、舌でも噛んだのか、もんどり打ってツタの上を転がっている。

大声を出すと成長する。ならば声を出さなければ良い――。簡単なルールではないか。アリエルは自分にそう言い聞かせた。高いと言ったところで、せいぜい四階建て程度。このぐにぐにと捻れたツタならば掴める所も多いし、元々木登りは得意だ。ツタに掴まれた足さえどうにか抜ければ、降りるのはさほど難しい事ではない。

しかし次の瞬間、アリエルは世の中に筋肉馬鹿と呼ばれる、おつむまで筋肉で出来ている人種がいる事を思い出した。

地上からその筋肉馬鹿が叫ぶ。

「アリエルー! 大丈夫かぁー!」

「いっぺん死ねぇ!」

アリエルの絶叫は瞬間的に遠のく。

四階建てが五階建てになった。

アリエルは半眼になって、すっかり見通しの良くなった景色を眺めた。通り八つも向こうにある水路がよく見える。水路を上っていく船が積んでいる荷物は、木材だろうか――

ライザー食堂の回りは野次馬で一杯だが、そんな物はアリエルには見えない。

「ねえ、アリエル。あたし思い出したわ。子どもの頃、こんなお話あったじゃない。大きな豆の木を登って雲の上のお城に行く話」

「…………」

アリエルもその話は覚えている。最後には豆の木が切り倒され、全てが落ちる下りも覚えている。どうせ落ちるのならあの筋肉馬鹿がいない大地にしてもらいたいものだが、日頃から健全な行いしかしていない私がこんな状況に陥るようでは願い事を叶えてくれる神様はいなさそうだとアリエルは考えていた。

下で、ニーナがふうむと唸る。

「そろそろ成長しきった頃かね」

奇妙な植物には、ついに巨大なつぼみがついていた。つぼみはアリエルが見ている前で、ゆっくりと花を開いた──汚れたドブネズミのような色の。花びらの数は八枚もあり、全体は水をすくえそうなお椀形をしている。その花を支えるツタは、下の筋肉馬鹿の胴体より太そうだ。

ニーナは音を立てて扇を開いた。

「ここまで育てば、もう伸びないね」

「よおし! そうと判れば!」

ビルクリムは巨大なメイスを振りかぶる。

ひどく嫌な予感がアリエルを襲った。予感は奇妙な植物を通じて現実世界に具現化し、物理的にぶるんと痙攣した。

ビルクリムが叫ぶ。

「叩っ切るのみ!」

「ここまで成長するとだね――」巨大植物に突進するビルクリムの背中に、ニーナは呟く。「音に反応して襲ってくるのだよ」

アリエルの世界は再び激動した。

「ぎゃあああああ!」

アリエルの身体は跳ね上がり、そして急降下した。一瞬だけビルクリムの顔が見えたような気がしたが、それが幻覚かどうかを判断する間もなく口元を扇で隠したニーナの顔が見え、そしてアリエルは空へと舞い上がった。

「うおお!?」

くぐもった悲鳴のような気合いを発しながら、ビルクリムは首から下を動かした。首から上はつぼみの状態に戻った毒々しい花にすっぽりと吸い付かれている。

「ふむ」

メイスを振り回すビルクリムの首から下を見てニーナが発したのは、そんな声だった。明らかに期待外れで不満だと言いたそうな様子だが、足を掴まれたまま空中を振り回されたアリエルに取ってそんなことはどうでも良かった。更に言えば、花に食われたビルクリムですらどうでも良かった。どうせなら、何かと声を掛けてきて鬱陶しいこの筋肉馬鹿をこのまま消化してくれないものか――そんなことさえ考えた。

「うおおおおおっ!?」

アリエルがそんなことを考えている間に、ビルクリムはペッと空に向かって吐き出され、食い直された。今度は首から下が飲み込まれる。

ビルクリムはどうにか動く首を振り回しながら、わめく。

「死ぬ! 死んでしまう!」

「な……何なんですかこれは」

ニーナの横で、さっきまでのビルクリムのように、誰かが呆気に取られた声を上げた。

「ああ、グレッグ! 助けてくれ!」

野次馬をかき分けて出てきたのは、大柄な金髪碧眼の剣士だった。彼も店の常連の一人だ。何かの遣いの帰りなのか、両手と背中には大荷物がある。

助けを求めるビルクリムを見上げながら、ニーナは他人事のように説明する。

「元々は育てて番犬代わりに植えとくもんなんだけどね。普通、呪歌を知らない一般人がこんな育て方をできる訳はないのだが……」

ニーナは音を立てて扇を閉じた。バチン、と一瞬扇に紫電が走る。そして彼女はその扇を振り上げた。

晴天に霹靂が走った。

轟音と共に地面から駆け昇った雷は、ビルクリムをくわえ込んだ花を食いちぎる。

ぼとん、とみっともない音を立ててビルクリムは落下した。彼は首から下を何とか花の中から引っこ抜き、ニーナに掴みかかる。

「殺す気かぁ!」

「あんたは死ぬ気なのかい?」

アリエルの頬をかすめて巨大なつぼみが疾走した。そしてビルクリムは、何食わぬ顔のニーナの前から姿を消した。言わずもがな、再び食われたのである。

「まあこんな風に音に反応して侵入者を食っちゃうんだ」

「なんともはや……。あっ、セシリーさん」

「あらどうも。お騒がせして申し訳御座いません」

遠くから聞こえたセシリーの声に、アリエルは地上を振り仰いだ。果たして、グレッグの前にちょこんとセシリーが立っている。

「……う、裏切り者……」

「何にしても、大声を出さなければ襲われないのでしょう?」

グレッグは両手に下げていた蓋付きの大きな桶を地面に下ろした。グレッグの手により蓋が開かれ、中身が何であるかを察したらしいニーナは扇を広げて「ほう」と感心したような声を出す。

セシリーは臭いに眉をひそめる。

「油ですね、それは」

「はい。やっぱり、こういうのは燃やしてしまうのが一番ではないかと」

背中から松明を一本取り上げ、グレッグはそれを油に浸した。

「とりあえずアリエルさんに下りていただいて、それから燃やしてしまいましょう。火、貸して頂けますか」

「火を貸すのは構わないんだけどね」

ニーナは扇を閉じ、小さな稲妻を松明に這わせた。一瞬青い火柱が立ち上がり、松明に火が付く。それを見届けて、ニーナは再び扇を開き、口元を覆った。

そして、告げる。

「もし真っ当な成長を遂げていた場合、あいつは火気にも反応するのだが……」

「え?」

間の抜けた呟きの後に彼の言葉が続く事はなかった。彼の言葉の後を続けたのは、ニーナだ。

「どうやら、真っ当に成長していたらしいねぇ」

忽然と消え失せたグレッグの姿を探して、セシリーは空を仰ぎ見た。魔法植物はライザー食堂の屋根の上で嬉しそうにブンブンとつぼみを振り回している。そのつぼみの口からはみ出している足には、見覚えがあった。

そして二つの悲鳴が上がる。

「ぎゃあああああ!」

「うわぁ! ビルクリムが燃えてる!?」

不意に魔法植物の動きが止まった。

ボッと音を立てて、さっきまで元気に踊っていたつぼみから赤い炎が上がった。

「本当なら、只の火で燃えるほどヤワな植物ではないのだが……やっぱりきちんと育てなきゃ駄目だね」

「ぎゃああああああ!」

炎はあっと言う間に花を包み込み、ツタを舐めていく。

人々が呆然と見守る中、巨大な魔法植物は呆気なく灰と化した。

幸いにも炎がライザー食堂に燃え移るようなことはなく、魔法植物だけが焼き尽くされて事態は収まった。無論、アリエル、ビルクリム、グレッグの三人は植物と一緒に燃やされたのだが、奇跡的にも植物から落ちた時に打撲を負っただけで済んだ。

そして、この事件の後しばらくの間、ニーナの店の前を散歩する愛犬家は一人もいなかったと言う。