あめふらし

作者・南雲

その砦を見付けられたのは、本当にただの偶然だった。

簡単に越えられるはずだった山の中で迷い、山越えを諦めた頃には、辺りはすっかり暗くなってしまった。しかも風が強い。風は西の空から、今にも落ちてきそうな重々しい雲を運んできている。今夜は雨になるだろう。そんな夜に野宿はしたくなかったが、こんな山奥に宿がある訳でもなく、諦める他に選択肢はない。

だから地図に書き込まれていない砦を見付けた時は、妖精にでも騙されたのではないかと半ば本気で疑ったが、騙すのであれば廃墟の砦など用意はするまい──。そう考え、彼女は忘れられた砦の中で一晩を過ごすことを決めた。

砦とは言え、そのほぼ大半が失われていた。主要な物は何も残っておらず、辛うじて残っていたのは幾ばくかの壁と階段が一つだけであった。石の階段には草が生え、壁も苔むしていたが、こうして残っているのならば突然崩れ落ちることもないだろうと判断し、彼女はその下で雨風をしのぐ事にした。

起きていること以外に目的のない夜は長い。

火を焚き、僅かばかりの肉と酒を食らうと、少し眠たくなった。いくら治安が悪くないとは言え、物取りの類がいなくなることはない。このまま眠気に任せて眠ってしまうのは如何なものだろう。

うつらうつらと夢と現の狭間を何度か行き来して、ふと気付くと、炎が消えていた。

そこまで風が強かった訳ではないし、まだ雨も降り出していない。燃料も残っている。

やはり何かに化かされたかと、彼女はもう一度火を点けようとして、気付いた。

ここにあるのは暗闇だけではなかった。薄ぼんやりとした光がある。蒼い光。ステンドグラスを通して聖堂に差し込む光だと、彼女は思った。

光は石畳の隙間から洩れ出していた。

彼女は腰の剣を掴み、光の元へと向かった。剣の柄を光の溢れ出す隙間に差し込む。

脆くなっていた石畳みは簡単に砕けた。

光が辺りを照らした。

ぽつり、と音を立てて、彼女の頬を雨が濡らした。

ついに空が泣き始めたのだ。

夜中に降り出した雨は、ニーナが店を開ける時間になっても降り止まなかった。

しとしとと降る雨が申し訳程度に石畳みの道を打つ。季節外れの雨だ。昨日の強い風が雨雲を運んできたのだろう。この土地にも集中的に雨の降る時季はあるが、その季節にはまだ早い。

店の看板──ドアノブにぶら下げた小さな看板をひっくり返す為に扉を開いたニーナは、隙間から浸み入ってきた湿気に顔をしかめた。

「湿っぽい、嫌な雨だね」

看板を営業中にひっくり返し、ニーナはバケツを取りに店の中に戻った。昨夜の風のせいで汚れたガラスを拭かなければならない。

クリス・シュタイナーは女性の相手をするのが得意ではない。

二十八にもなって浮いた噂の一つも作らなければ、同僚達に憶測混じりのつまらない噂話を提供してしまうのも仕方がないとは思うが、あの噂だけは頂けない。つまり、クリスが休日には欠かさず教会に行くことと、クリスが身を固めない理由とを混ぜ合わせた噂だ。

彼は、どれだけ望もうとも結婚できないような類の男ではない。騎士隊長としての地位もあるし、顔立ちも『怪我をした方が貫禄が出て良いのではないか』と陰口を叩かれるほど整っている。結婚を望むならば相手には困らない。

それなのに独り身でいるという事実を、皆は不思議に思うらしい。

クリスとて女性の扱い方は心得ている。特にあしらい方については、嫌という程経験を積まされた。喋る事自体は苦手ではないので、友人としての女性は嫌いではない。

だが、相手を女として見るとなると、クリスはどうしても一線を引いてしまう。その理由というのは、極々つまらない事にある。

「今日は特に御熱心でしたね」

声を掛けられて、クリスはようやく礼拝堂に自分以外の者がいることに気付いた。

気付かぬ間に隣に立っていたのは、若い修道女だった。若いと言っても、まだ二十歳程度だというだけで、十分に大人なのだろう。しかしそんな彼女ですら自分とは十近くも歳が離れているのだ。

──このような娘に懸想するなど、あり得ない話であるのに。

そう考えそうになり、彼は即座に否定した。

この修道女のことはクリスも覚えている。いつもオルガンを弾いているシスターだ。長年誰にも扱えなかったこの教会のパイプオルガンを彼女が見事に弾き鳴らして見せた時は、クリスは危うく落涙しかけた。そして、彼女の紫色の瞳はひどく印象的だ。もし自分があと少しだけ若ければ、彼女に懸想していたかもしれない。

クリスは祈りの大半を雑念にとらわれていた後ろめたさと、彼女の存在に気付かなかったことを押し隠す為に、少しだけ表情を崩した。

「また髪があらぬ方を向いていますよ、シスター」

「ええっ? そうですか?」

若いシスターは帽子を深く被り直して、恥ずかしそうにはにかんだ。

「毎朝、伸ばすように一応の努力はしているのですが……雨が降るとどうにも上手くいかなくて」

彼女の赤茶色の髪はいつも、彼女の思っている所より少しずれた所で整えられている。特に雨の日はひどい。下手をすると前髪すらあらぬ場所に落ち着いていたりするから、こればかりはもう、身だしなみが上手い下手の問題ではないのだろう。

彼女は拗ねたように眉根を寄せて、見えるはずのない前髪を睨みながら「何故私の髪はいつもこうなのでしょう」と誰にともなく呟く。いや、これは神に対しての不満なのだろうか。

「ええとですね。今日は私の身だしなみの話ではなく、きちんとしたお話があるのです。シュタイナー様」

少女は修道女の顔に戻って、そう言った。

自分の名を彼女に覚えられているのだと知り、クリスは腹部に重たい物を感じた。

「何でしょう?」

「詳しいお話は司祭様から──あ、失礼いたしました」

彼女は軽く頭を下げた。

「名乗りもせずにお名前を……。私、フィオと申します」

フィオ──

彼女の名前を知ってしまい、クリスは胸中で溜め息を吐いた。これで彼女とは今までより少し親しくなってしまった。

クリスは女性が嫌いではない。

女性と関係を続けていくことが面倒なのだ。

アリエルはニーナの店が嫌いである。

嫌いであるからして、彼女がニーナの店を訪ねるのにはやむを得ない理由がある。

「湿気取りだって?」

ニーナはあからさまに呆れ顔をした。

「なんでまたそんな物を」

「ここしばらく雨続きでしょう。客足が遠のくのは仕方がないにしても、パンにカビが生えるのは困るから、って」

雨が降り始めてから、もう五日が経とうとしている。雨足は日を追うごとに強くなり、客足は反対に遠のいていく。

昼間であるにもかかわらず薄暗い、じめじめとした憂鬱な気候に、アリエルはすっかり参っていた。肺の中にまで水滴がつきそうだ。

「それぐらい、ライザーも自分で工夫すればいいのにねぇ」

アリエルもニーナの意見に賛成であったが、たとえこんな他愛ない物事に対する感想一つであっても、彼女と同じであることは納得がいかない。

「皆がそんな風に工夫ばかりしていたら、あなたの商売は成り立たないでしょう」

「ふふん。凡人ごときの創意工夫で補えるほど、私の扱う商品は低俗ではないよ」

「低俗でない代わりに品がないのでしょう」

「失礼な。こう見えてもうちの商品達は機能だけでなく見た目にも気を使っているのだ」

そう言いながらカウンターの裏にある箱の中身をひっくり返している店主の黒髪は、爆発していた。前髪が交差しながら天井を指し、後ろ髪は全て真っ当な方向を向いていない。針の玉というよりは、ささくれ立った毛玉と言った感じだ。よもや湿気を吸ってこんな頭になっているとは思えない。ならばこの頭はとても下品だと思うのだが、当の本人はそう思っていないらしい。

しかしこの店は、相変わらず汚い。通りに面した壁以外の全ての壁が棚に占領されているのはともかく、今ではその棚に入りきらない本が一つの棚の前に平積みにされている。本の山は天井にまで到らんとしており、本屋もかくやと思われる本の多さである。

「ついに古書屋に転職する決意を?」

「まさか。買い取ったはいいけど、あまりに統一性がなかったものでね。ちょっと整理に手間取っているんだよ。一冊買ってくかい?」

「いらない。読書は趣味じゃないの」

カラン、と店の鐘が鳴った。

「おや、珍しい」

ニーナは箱の中から顔を上げて来客者を確認し、驚いたような顔をした。

来客者は剣士だった。

長剣を腰に下げた男だ。外套の胸元にある紋章から、騎士団の者であると知れた。恐らくは隊長程度の役職に就いている者だろう。

男が目深に被っていた外套のフードを上げる。その顔を見て、アリエルは僅かに驚いた。金髪碧眼の優男だったのだ。鋭すぎる眼光が玉に瑕だが、それがまた良いと言う娘はいくらでもいる。

彼の顔に、アリエルは見覚えがあった。騎士隊長を務める、シュタイナー家の御曹子だ。

「物を尋ねるが」

「うちは物売り屋だよ」

間髪入れずに切り返されて、男は間の抜けた顔になった。

なるほど鳩が豆鉄砲を喰らったような顔とはこの顔かと感心するアリエルに目を向け、男は困ったように唸った。

「では尋ねるが、ここは何の店なのだ」

「おたくの欲しい物を教えてくれるかい。大抵の商品は出せるよ」

「では、もう一つ尋ねるが」

男は言葉に呆れたニュアンスを多く含めて、言った。

「その頭は一体、何なのだ」

「ああ、これかね?」

ニーナは前髪を引っ張り、はははと快活に笑った。

「なに、髪の癖を取る薬を作ったのだがね、それを試す者がいない。仕方がないから自分で試そうと思って、癖をつける薬を作ったのだけど、それが効きすぎてね」

男は感心したように「ほう」と呟いた。

「それを自分で作ったのか。凄いな」

「うちは物売り屋だよ」

ニーナは一瞬にやりと笑い、その口元を銀の扇で隠した。

「でも、『お客様』と世間話をするのも仕事の内さね」

「では、もし髪の癖を取る薬とやらが成功したなら、買わせて頂こう」

「それはどうも。それで、何が聞きたいのかね」

「そなた、雨降らしの珠を持ってはいないか」

ニーナは眉間にしわを寄せて、「あん?」と不可解そうな声を出した。

昔々、街の外れに悪い魔法使いが住んでおりました──そんな言葉から始まる話を、アリエルは思い出した。

魔法使いは街を滅ぼさんとして、一つの宝玉を作り出す。それは意のままに天候を操る宝玉だった。街は嵐に見舞われ、もう駄目かと思った時に、英雄が通りかかる。英雄はその知恵と力を使い、魔法使いを倒し、宝玉をどこかに封印した。そして街は平和を取り戻したのだ。

そういう話だ。昔話と言うよりはお伽話である。

剣士は、ある人の願いで異国の女を捜しているのだと言った。

「その女が、雨降らしの珠を持っているのかい?」

「そうらしい」

ふーん、とニーナは興味深そうに唸った。

「その依頼人は中々の占い師だね。そうか、これは雨降らしの珠だったのか」

「持っているのか」

「違う違う」

ニーナは扇を閉じ、何かを払うように振った。

「いや何、この雨はどうもおかしいと思っていたんだ。どうにも湿っぽくていけない。何か魔術がかった雨なんだろうと思ってはいたが、まさかそんな物が実在していたとはね」

「そんな物って、あのお伽噺の?」

「お伽噺ではない」

男は少し怒ったように、強い口調でアリエルの言葉を否定した。

「あの話は事実を伝えている。百年前の話だ。戦争の時、魔術師の作った魔法の宝玉によって、この街は十日の間嵐に見舞われたのだ。魔術師の名前も残っている」

「しかし宝玉の行方が知れない。だから史実はお伽噺になったのさ」

ニーナは再び扇を開き、笑う口元を隠した。

「で、依頼人は異国の女が宝玉を持っていると、そう言ったのだね」

「そうだ。私に思いつくのは、貴女しかいなかったものでね。失礼した」

「別に構わないよ。異国の民は妖しい香りを持っているものさね。ましてや海の向こうの民ともなれば、それは悪魔か邪教徒か──」

「そういうつもりで言っているのではない」

「解ってるよ。だが、異国の者は必ず災いをもたらすのさ。どちらが災いを作るのかは知らないがね」

扇を閉じると、彼女はもう笑ってはいなかった。真面目な顔で言う。

「残念ながら私は持っていないよ。ただ、雨は近付いてきている。明日──いや、今夜にはこの街に届くだろうさ。雨は西から来るよ」

「感謝する」

男は頭を下げ、ニーナに硬貨を渡して店を出て行った。

アリエルはお伽噺だと思っていたことを真面目に話す二人に呆気に取られていたのだが、どうしても納得のいかない疑問が一つだけ残っている事に気付いた。

「一つ聞くけど」

「なんだい。ああ、すまない。湿気取りだったね」

「それもそうなんだけど……さっきの男、何故髪の癖取りを買う約束をして帰ったのよ」

「ああ、なんだ知らないのか」

ニーナはにやにやと人の悪い笑みを浮かべて、再び箱の中に頭を突っ込んだ。

「あんた、教会には行かないのかい?」

「あなたよりは通っているはずだけど」

「そうだろうねぇ。じゃあ、あのパイプオルガンを知ってるだろう?」

教会のパイプオルガンのことはアリエルも知っている。この十数年、街に弾ける者が一人もおらず、飾りになっていたパイプオルガンだ。去年、新しくやってきた若い修道女の一人がその見事な演奏を披露した。

「あれを弾いていた娘、覚えてるかい?」

「さすがにそこまでは……」

「紫色の目をした、ちょいと髪があちこちに向いてる女の子だよ」

「ああ」

アリエルはその修道女を思い出した。もっとも、パイプオルガンを弾いている姿と、普通のオルガンを弾いている姿しか思い出せなかったが。言われてみれば癖っ毛だったような気もする。

ニーナはくふふふ、と含み笑いをした。

「あの騎士様は、その修道女に岡惚れしてるって噂だよ」

雨の夜は客の入りが悪い。

いつもならば冒険者達で賑わうライザー食堂も、今夜ばかりは客がいない。店の前の通りを覗いても、通行人すらいない。宿に泊まっている客も、夕食だけ済ませると早々に部屋に引き上げた。

「今日は開店休業ねぇ」

セシリーの呟きに、アリエルは嘆息で返した。

もちろん客が全くいない訳ではない。店の端に数人、バラバラに座っている。しけた客だ、とライザーが厨房で愚痴っていたのをアリエルは聞いていた。

「冒険者はな、サイコロの出目なんぞで金を奪い奪われる博打打ちじゃねぇんだ。ましてや商売人のように金勘定をする職業じゃねぇ。人生その物を賭にしてるんだ。そんな連中の価値はな、気っ風の良さで決まるんだよ。安酒ばっかり呑んでるんじゃねぇよ」

ライザーの説教とも愚痴ともつかぬ繰り言を聞かされて、アリエルは内心苦笑していた。アリエルは冒険者ではないし、商売人でもない。ただの使用人だ。使用人の価値は何で決まるのだろう。

「このままじゃあ、閉店前に店終いね。まあ私は楽でいいんだけど……」

ありがとうございましたー、と愛想良くセシリーが三人組の客を送り出す。安酒に悪酔いした荒くれ男達が、よろよろと足取りも危なっかしく店を出て行く。

雨音に紛れて、女の声が聞こえた。あまり愉快ではない気配が店の外で膨らむ。

三人組の内の一人にぶつかられたらしい、真っ白い外套を着込んだ女がいた。男に腕を捕まれ、逃げ出す事もできずに抵抗している。

「なんだなんだ、人の店ン前でみっともねぇことしやがって」

カウンターからライザーが腕を組んで身を乗り出す。やはり退屈していたのだろう、不機嫌そうな態度とは裏腹に、顔は笑っている。

「冒険者ってなぁ、古今東西、阿呆だと相場が決まってるんだ。だがな、冒険者が義侠心に厚いのもまた、真実だ」

「私は冒険者でも男でもないですが」

アリエルは仕事道具である棍を取り上げた。一度ブンと音を立てて空を切り、棍を手の中で馴染ませる。

「この店の用心棒として、店の前で起こっている問題を見過ごす訳にはいきませんね」

「旨いコーヒーを煎れておいてやる。やってきな」

「できれば紅茶でお願いします」

アリエルは店の入り口に立ち、啖呵を切る為に大きく息を吸った。そして、ブーツの靴底で派手に床を踏み鳴らした。

ニーナの店は深夜まで営業している。それは往来に人の多い昼間では、この店を表立って利用できぬ用向きを持った客がいるからである。それは雨の日でも変わらない。むしろこんな日の方が夜の客は増える。

「邪魔をするよ」

「おや、珍しい」

今夜の客は、昼間顔を見せた女──アリエルだった。

「あんたがこんな時間に何の用だい?」

「用があるのは私じゃあないよ」

アリエルの後ろから、真っ白い外套に身を包んだ女が店に入ってきた。

フードを取るまでもなく、来客者が誰であるか知れた。

「おや、教会のお嬢ちゃんじゃないか」

「あ、ご存知でしたか」

修道女はフードを脱いだ。あちこち飛び跳ねた赤茶色の髪が現れる。

幸い、髪の癖を取る薬はもうできている。ちゃんと実験も済んでおり、ニーナの髪はきちんと真っ直ぐに戻っている。

この修道女の髪が真っ直ぐになったら、あの騎士様は彼女にどんな風に声を掛けるのだろうかと、ニーナは想像した。

「ご存知も何も、私があのオルガンを直している間、随分と熱心に世話をしてくれたじゃないか。しかし、こんな月のない夜にこんな場所にくるなんて、教会の仕事じゃあないみたいだね」

「はあ……」

少女ははにかみながら俯いた。

「実は、お話を伺いたいと思いまして」

「騎士の旦那ならもう来たよ」

「そうなんですか?」

明らかに落胆して、少女は肩を落とした。

もしかすると、噂とは違ってこの修道女の方が騎士の男に懸想しているのかもしれない。

ニーナはこの少々幼さの残る修道女を虐めたい衝動に駆られたが、一応は客だ。自然な口調で、尋ねた。

「雨降らしの珠なら、あの騎士の旦那が見付けるだろうさ。そう頼んだのだろう? なのに、あんたはどうして夜中に抜け出して調べ物をしているんだい?」

「私はただ、シュタイナー様の力になりたいと思って……」

あっさりと目的の言葉を聞いてしまい、ニーナは急に興醒めした。照れたり慌てたりする姿を見て楽しみたかったのに、これでは虐め甲斐がない。

「雨降らしの珠は今夜この街に来るよ。あんたの教会では、そこまでは調べられなかったのかい?」

「それは本当ですか!」

少女は身を乗り出して、平手でカウンターを打った。飛んだ唾が顔にかかる。

「プレセアの珠は、悪意に満ちた呪いの術によって作られた物なのです! そんな物がこの街に入ってしまったら──!」

「プレセアの珠?」

そう呟いたのはアリエルだ。

「ええ。魔術師カール・プレセアが最期に作り上げた宝玉です」

「カール・プレセアだって?」

ニーナは顔についた唾を拭き取り、聞き返した。

ニーナは雨降らしの珠が『プレセアの珠』という名前だったことを今初めて知ったし、無論その珠の制作者の名前など知らなかった。しかし、何処かで聞いた名だ。いや、聞いたのではなく──

「どうかなさいましたか?」

「確か……この辺だったかな?」

ニーナはカウンターを出て、平積みにしてあった本の山からその一角を削り取った。途端に、山がぐらりと揺れた。

「ニーナさん?」

本の雪崩に巻き込まれ、ニーナは本に埋もれながら、苦笑した。

「ちょっと捜し物するから、待っててくれるかい?」

クリスは雨に打たれながら、西門の前で立っていた。

シュタイナー家は騎士の一族だ。だからという訳ではないだろうが、クリスは門番という役職に就いたことがない。

何とも面倒な仕事だ。

何が来るのかも知れぬ門の前に、ただ立っているだけの仕事なのだ。身体よりも先に精神がやられてしまうそうだ。

雨が少しきつくなった。

絶え間なく降り続ける雨のせいで、何の整備もされていない道は泥の河と化している。クリスの立っている石畳も、泥で汚れている。

雨が降り始めて、もう六日になろうとしている。この街の排水技術では追いつかず、下水は溢れる寸前だ。街外れにある田園も被害を受け始めていると聞く。

炎の光が届かぬ暗闇で、何かが揺らいだ。

青白い光だ。暗闇の中に浮かび上がった光は、雨の中をゆらゆらと漂う。

──妖精か?

ウィル・オー・ウィスプか何かだろうか。いや、あれはどれだけ追いかけても近付けぬはず。ましてや近付いて来ることなどあるまい。

光の正体は旅人だった。外套のフードを目深に被った人物が歩いてくる。淡く青い光は、旅人の背負った荷物から洩れ出している。

背が高い。クリスと同じくらいある。肩から覗いている物は、剣の柄のように見えた。しかし、もし背負っている物が剣なのだとしたら、かなり大きい。大型の両手剣だ。女が振り回せるような物ではない。

男か、女か──クリスは逡巡したが、意を決し、フードを外した。

「待たれよ!」

クリスの声が聞こえたからか、門をふさぐクリスが邪魔だったからか、旅人は立ち止まった。お互いが三、四歩動けば、剣を交えられるような距離。

「我が名はクリス・シュタイナー。この街、レセフェールにて騎士隊長を務める者だ。そなたに聞きたいことがある。そなたは異国より来し者か」

旅人は答えない。しかし、荷物から洩れ出す青白い光は──

「それを渡して頂きたい」

「どけ」

旅人が初めて声を上げた。低い女の声だ。決して大きくはない声は、雨音に掻き消されることなくクリスの耳に届いた。

女は投げるように荷を下ろし、フードを外した。闇に溶けるような黒い髪。油で固められているのか、彼女の髪は綺麗に後へと流されていた。手入れが乱れたのか、右の前髪だけが顔にかかっている。

少々低い鼻と切れ長の目。のっぺりとした観のある顔──一瞬、ニーナなのではないかとクリスは訝ったが、さすがに背丈が違いすぎる。

明らかに異国の女だ。

「その珠は悪しき術により作られた物。渡して頂きたい」

「どけ」

異国の女は剣の柄に両手を掛けた。

「退かぬのならば、斬る」

「ここを通す訳にはいかない」

女は腰を落とし、ずらりと剣を引き抜いた。

雨の中、恐ろしくよく通る声がクリスの耳を打った。

「押し通る──」

女の攻撃を剣で受け止めるのは得策ではないと、クリスは判断を下した。受け流すにしても、あの質量だ。流し切れない可能性がある。そして、斬るよりも砕く事を目的とされた大剣の一撃を鎧で受け止めるのも厳しい。

一撃目を盾で流して、そのまま斬り込む。あの剣の大きさだ。女の腕で振り回して隙ができないはずはない。

問題は、攻撃を受けて体勢を崩さずにいられるかどうかだ。

クリスは十字を切り、剣を抜いた。

先に動いたのは女の方だった。

女は剣を振りかぶり、地面を蹴った。猫を思わせる敏捷さで、女は自分の間合いにクリスを捉えた。

女が剣を薙ぐ。大きすぎる、無駄の目立つ動き。

──いける。

クリスは盾を構えた。まだ女はクリスの間合いに到達していない。この一撃を防ぎ、女の体勢が崩れたところで斬り込む──

投石機が巨石を跳ね上げるような風音を、クリスは聞いた。

そして盾が砕ける音。

クリスは女の剣に押し流され、吹き飛ばされた。

──馬鹿な!

クリスは声に出さずに絶叫した。

盾の重量だけでも女の持つ大剣の重量を軽く凌いでいるはずだ。ましてや鎧を着込んでいるのだ。重量勝負で負けるはずがない。

クリスは倒れそうになるのを必死で堪えながら、痛む左腕を肩で持ち上げるように立ち上がった。

女は剣を振るった位置から微動だにしていない。女の足元で、石畳が砕けていた。

風を切り、女が再び剣を構えた。

──まさか、魔剣か?

そうでなければ、女自身が人外の者か。

どちらにしても、まともに相手をして敵う相手ではない。盾は使えない。腕が保たない。

「退け」

女が低い声で告げる。

「退かねば死ぬぞ」

「ぐ……!」

クリスは歯を食いしばり、立ち上がった。

女は腰を落とす。獲物を狙う獣のように。

再び女が大きく足を踏み出した。

女の間合いに入る。踏み込まれた足が、石畳を砕いた。

必殺の剣が振るわれる。

クリスは盾を構え、全身の力を振り絞った。

女の剣が力無く空を切った。

クリスの盾が女の腕を叩く。クリスは女の眼前にまで飛び込んでいた。間合いを外せば剣は意味を持たない。ただ、これではクリスも剣を振るえない。

クリスは剣を捨てていた。

鎧の肩で、女の顎を狙う──

「待たれよ!」

突然の女の声に、クリスは動きを止めた。

現れたのは棍を手にした女だった。ニーナの店で見かけた女。

「まず、非礼をお詫びする。しかし聞いて頂きたい」

アリエルと名乗った女に案内された場所は、いつもの教会だった。

クリスは夜の礼拝堂が好きではない。

いくつも重なる蝋燭の明かりが照らし出す礼拝堂は、昼の礼拝堂よりも神聖な場のようにクリスの目には映る。しかし美しいはずのステンドグラスが暗く曇っているのが、子どもの頃からクリスは嫌いだった。

シルヴィア・ブラドーと名乗った女は礼拝堂の中で一礼した。

女の持つ剣はクリスの見立て通り、魔剣であるらしい。彼女は剣の銘や出所を明らかにはしなかったが、戦いの後、彼女はクリスに剣を差し出した。手に取ると、見た目通り剣はずしりと重たかった。彼女も全くの無条件であれだけの力を揮っていたのではないらしい。

クリスが剣を返すと、剣を捨てさせた詫びだ、とシルヴィア・ブラドーは呟いた。

「話は、私ではなく、彼女がお聞かせします」

礼拝堂で待っていたのは、暖かな光に包まれたフィオと、この街で最もこの場所が似合わない女──ニーナだった。

「すまないね、騎士様。無粋な真似をしてしまった。しかし、ことは雨降らしの珠──つまりプレセアの珠に関係するんでね」

ニーナは身を包む黒い外套をふわりとなびかせて歩いた。

「正しく言うならば、プレセアの珠はカール・プレセアが作った物ではないんだ」

ニーナは一冊の本を手に語り始めた。

「もちろん、作り方を考えたのはカール・プレセアだけどね。でもね、彼にプレセアの珠が作れたはずはないんだ」

ニーナは愛おしそうに本の表紙を撫でた。

「この街の歴史では、プレセアの珠はこの街レセフェールに災厄をもたらしたとある。それは事実だ。百年前、この街は十日もの間、嵐に見舞われた。それを救ったのはシュタイナー家の騎士、ダイアンだと言われているが、それはただの伝説だ」

フィオが驚いたようにクリスの顔を見た。

「そうなのですか?」

「少なくとも、我がシュタイナー家の系図をどれだけ遡ろうとも、そのような名を持つ者はいない」

「まあ、他にシュタイナーの名を持つ家があるのかもしれないが、そんなことは問題じゃない。確かにこの街に災厄をもたらしたのはプレセアの珠だが、それを用いたのはカール・プレセアではないし、彼の意志でもない」

伝説という物は後から作られるのだ、と言い、ニーナは口端を皮肉げに歪めた。

「戦争があった百年前。その更に五十年の昔、この街が干ばつに苦しめられた事がある」

シルヴィアが荷物から水晶を取り出す。青い光が蝋燭の光を包み、礼拝堂の中は青い光で満たされた。

「彼がその宝玉を作ったのは、その時だ。だがその後、何者かによって盗み出され、かつて街を救った宝玉が、今度は街を苦しめた。今ある伝説が作られたのはその後なのさ。百五十年の昔、男がこの街を救ったことは忘れ去られた。この、彼の弟子が記した日記以外は」

ニーナは手にしていた本をクリスに見せるように掲げた。

「カール・プレセアはさぞ無念だったろうさ」

「山の中、朽ち果てた砦で私はこれを見付けた」

シルヴィアの声は哀れみに満ちているように、クリスには感じられた。

「カール・プレセアに取って、自分が成した事などどうでも良かったのだ。彼はただ、この街に戻りたかったのだ」

「……ですが先程、その宝玉を作ったのはカール・プレセアではないと」

「ああ、そうだよ。作ったのはカール・プレセアの弟子達だ」

フィオの問い掛けに答えて、ニーナはくふふふ、と含み笑いをした。

「雨を呼ぶ魔術には強い力が必要だ。ましてや、晒しただけでこれだけの雨を呼ぶような宝玉、何を材料に作ると思うね」

「まさか……」

「そのまさかさ。その宝玉にはカール・プレセアの全てが注ぎ込まれている。技も、力も、想いも、躰も、全て──」

シルヴィアは宝玉を掲げた。

強い光が宝玉を包み込んだ。青い光はいくつもの泡となり、空へと昇る。

鍵盤が揺れた。

パイプオルガンが重厚な和音を響かせる。

宝玉はいくつもの光となり、礼拝堂にあふれた。

光と賛美歌に満ちあふれた礼拝堂で──

クリス・シュタイナーは天使を見た。

(あめふらし──了)