薬草の森

作者・逢坂総司

一。

交易都市レセフェールの南には、個性的な都市群が連なっている。芸術都市ハーベルトン。石棺都市ロックピーク。森林都市グリンデル――。

一昔も前にはいがみ合っていた国々すらあるのに、今は落ち着いた様相を呈している。戦が収まれば行商が再開され、品物の交流が文化の交流を生む。お互いの文化が溶け合い融合することで、一種の連帯感を生み出すのかも知れない。現在の政情は落ち着いている。

レセフェールから南に向かう街道を一頭立て馬車が南下している。

雨露をかろうじて防げる程度の幌を纏う馬車に揺られて、はや一週間が過ぎていた。

クロック・ラザフォードは目的の街まで、あとほんのわずかであると思っている。昨日逗留した街の地図を見て、目的の街、堤防都市クレーデルの名を確認した。

他にも四人の男女が馬車に乗り込んでいる。金髪碧眼の大男、グレッグ・ゴルド・ホワイトホーク。そしてアリオネアの姓を持つ三姉妹。

アリオネアの三姉妹は突然理由もなく失踪した両親を探す旅をしている。三姉妹の旅にクロックが便乗した。三姉妹は魔法学院都市ベルムから行商人をレセフェールまで護衛し、そのまま南に向かうつもりだった。彼はその行商人の友人であり、そもそもから便乗していた。

彼は御者も出来るというグレッグを誘った。暇そうであった、とは彼の弁でもある。

そういうことで、馬車御者は大男のグレッグか、大女で三姉妹の長女エルザ・アリオネアが担当している。

グレッグは由緒正しい騎士の家系に生まれ育ったらしいが、現在は冒険者に身をやつしている。

反対にエルザは何の変哲もない庶子の家系出身である。冒険者である点はグレッグと変わらない。

両親が冒険者か何からしく、荒事になれている。三姉妹が庶子の家系だからといって、何の特技もないという訳ではないらしい。

次女のカリン・アリオネアはフェルナの称号を持つ。所謂司祭職のものである。司祭と言えば聖職であり、民衆の信用も厚い。彼女が〈忘れられし神〉の司祭だとしても、だ。

三女のシータは鍵などと言った凝った技術に興味があるらしい。恐らくは馬車の車輪などにも興味があるだろうが、それを組み立てるのは一人では無理な話である。すると彼女はどこから取ってきたかも知れない鍵を組み立ててはばらばらにする、という作業を暇つぶしに行う。

三姉妹を見て、三者三様とはよく言ったものだ、とクロックは心中で呟いた。

二。

堤防都市クレーデルは、レセフェールほど人口も人種も富まないが歴史は長い街である、と門を護る守衛が言っていた。門番ではないのか、と問うと管轄が違うと言っていた。土地が変われば制度が変わる。レセフェールと違うからと言って、なんら不思議はない。

西には森が広がり、東には広い海がある。その海を北上すればレセフェールにたどり着くから、そう遠いところまで来たという感慨があまり湧かない。それこそ、クロックの学舎があったベルムの方が徒歩の距離で一週間分遠い。

「さて、私たちは馬車の置き場所を――」

クロックは宿だけ決まっている現状に、どうせなら馬車を止められる宿を選べば楽だったのに、と感想を述べた。

「教会が無料で宿を用立ててくださるのに、拒否する理由がないですから」

カリンはやんわりと理由を述べた。ただ、無料とだけ大いに強調している当たりにカリンの性格が現れている。

「宿代が浮いたのは間違いないですし、馬車宿は馬の世話と飼い葉代だけで済みますから、近いからと言って寝泊まりするよりも安上がりですわ」

金が話題に絡むと、カリンは目の色が変わる。よって三姉妹のお財布をしている。

長女も三女もお金についてはあまり頓着しない性格なのだろう、出費が激しいそうである。

「それでも宿からそう離れていないところが良いですね」

グレッグはそれだけ述べた。

そう離れていない馬車宿に馬車を預ける。グレッグは旅の目的を心の思索と決めているらしい。端から見て積極的に体を動かす気がないようでもある。

クロックは、暇であれば薬草探しに同道してみないか、と声を掛けた。

グレッグは手持ちぶさたになるのも面白くないと思ったらしく、二つ返事で承諾した。

「クロックさんは、薬草の森に用があるのでしたわね」

フェルナ・カリンは微笑みを浮かべて、クロックに聞いた。

「ええ、そうなります。ここの薬草がそれはまた貴重なのです」

薬草は経験的に決められた方法で貯蔵すれば、少しの間枯れずに保存できる。しかしクロックの求める薬草は、保存が難しいもので自分で採取した方が手間が掛からない。

「ねぇねぇ、その薬草って耳を塞いでないと危ない?」

シータはマンドラゴラという危険な薬草のことを言っているようだが、クロックの求めるものは危険ではない。

「三日月草と言いまして、三日月の照る晩にしか花を咲かさない不思議な花なのです」

小さい花びらをいっぱいに広げるその白い花は、指先ほどの大きさしか開くことはなく、その華奢な薬草に好事家たちは喜ぶ。

クロックは魔法使いとして、その薬草に興味がある。

三日月草は強い解毒作用を持つと言われる。それでいて何もないときに摂取すると、劇薬のような効果を発揮する。薬も過ぎ足れば毒になる。しかし三日月草は今まで効果の無かったことに、効く可能性を持っていることは間違いない。

例えば、魔物から受けた傷。

大抵は時間を掛ければ治るのだが、ある種の魔物の爪には毒があり治らない場合がある。

その爪に傷つけられると、傷はじきに膿み、化膿する。緑色の液など、人体からはあまり見られない色が身体を蝕むと、その被害者は死に至るという。

三日月草は魔物に傷つけられ死に瀕した重度の患者に効果があるという。

しかし育成に成功した例はなく、採取してもすぐに使い物にならなくなる。

だが採取後すぐに加工すれば、その薬効は一ヶ月かそこらは保てる。

「興味深いねぇ。行って見ようよ」

「それはクロックさんの迷惑になるわ。クレーデルには観光スポットがあるから、見て回りましょう」

エルザはシータをなだめるように言う。母親の口調そのものである。

クレーデルには戦の跡が所々残されている。西の森と東の海岸に挟まれたこの街は、大軍を南北にしか移動できなくする。すると南北に高い城壁と歩哨を立てることで、時間稼ぎも防戦も、奇襲を掛けることも可能になるという寸法である。

全て水際で攻撃を防ぐことから堤防都市の名を冠することとなった。

シータは戦に興味が無く、ぶー、と文句を言った。

「それに魚介類がおいしいの。特に遠洋で取れる……」

シータの興味は食べることでいっぱいになり、エルザと共に観光に向かっていった。

三。

三姉妹と修道宿の一階――クレーデルの宿は例外なく一階に食堂を持つ――で合流した。簡素な木造の宿。壁はニスが塗られ、防腐だけはしている。その独特の照りは獣脂の灯りに妖艶や輝きを放つ。

「薬草はここから丸一日歩いた森の中にあります。初日は目的地まで歩いて現地で野宿、二日目を採取に当てて、現地で調合に一日、四日目に一日掛けて帰ってくる、この計画通りに行くつもりです」

クロック・ラザフォードは人懐こい笑みを浮かべ、馬車の中で検討していた計画を発表した。ただでさえ細い目がさらに細められ、閉じているようにしか見えない。

誰も異論はない。そもそも全員がその行程の相談を持ちかけられている。

「四日で帰ってこられると思いますが、五日経っても帰ってこない場合巡礼に間に合わなくなるかも知れませんので――」

「ええ、わかっていますよ」

カリンの言葉を遮るように、クロックは断言した。

「その時は自力で追いつきます。あまり早足でなければ、ですが」

クロックは自信があるようで、特に議論の必要もないらしい。

教会特製の薄いパンとワインを振る舞われると、一同は堅いベッドにもぐり込んだ。

なかなか眠れないシータは、建物一つ分小高い丘の上に建つ修道院の宿から、まだうっすらと灯りを残す町並みを眺めた。

決して整然とは並んでいない町並みは、たびたび戦火に見舞われたことを示すようにジグザグに建物が建てられている。レセフェールも戦火を乗り越え造られた街だが、戦火の後に造られた街と、戦火にさらされながら再建された街とでは状況が違うらしい。

雑然とした雰囲気すら感じられるクレーデルは、たくましく生き抜いた人々と同じようにたくましく強かに生き残ったのだろう。

戦の跡を見るのではなく、そのとき人々がどれだけたくましく生きたかを感じるために観光するのならば、少しはためになることもあるだろう。

眠れないながら、ふとんにもぐり込んだ。目を閉じていれば眠たくなるはずだから。

クロックは部屋の片隅で物音を感じた。

顔を上げてみれば、グレッグがわずかな蝋燭の明かりの下で何かをしている。

興味がわき、クロックはグレッグが何をしているのか知るために近づいた。

「何をしているのですか?」

「ああ、クロック殿。起こしてしまいましたか……」

「いえ、眠れなかったので散歩でもしようかと」

言い訳みたいに取り繕う。グレッグは、そうですか、と述べて、日記を書いているのです、と先ほどの質問に対する答えを述べた。

「日記、ですか」

クロックは目の前の騎士崩れも言葉を読み書きできることに違和感を覚える。言葉の読み書きはベルムの学院か、魔法を教える私塾で教えることは常識だが、グレッグが教養を持つと言っても学院か私塾に通っていたように思えない。

グレッグは冒険者である。言葉は知らなくても冒険ができる。遺跡に行くとすればクロックのような識者を同行させればいいはずである。

「失礼でなければ、読み書きをどこで学ばれましたか?」

「私は親から簡単な読み書きを学びました。後は専門の教師が付きました」

クロックはグレッグの素性をよく知らないことに気がついた。

この一週間でどんな人間か、ということはだいたい把握した。だがお互いの過去は不文律、という冒険者の暗黙の了解を意識していたため、グレッグの過去は知らない。ただ、騎士崩れ、とだけ聞いていた。

「なるほど。それなら達者ですね」

「クロック殿にはやはり不思議ですか?」

「魔法使いの身分からすれば、自分しかできないはずのことが他人にできると、やはり不思議な気分になります」

クロックは苦笑いを浮かべた。グレッグは金持ちか何かなのだ。教養があるということは冒険者の身分になっても、そう不利ではない。もし玉の輿を狙うのならば、上品で教養があるものが選ばれるのだし。

「自分の得意なものが他人にも出来てしまうと、どうしても違和感を拭えないものです」

グレッグは何かを悟っているかのように、一人つぶやいた。

四。

翌日。

自給自足を旨とする、〈忘れられし神〉の教会は多神教ではありきたりな自給自足を旨としていたが、菜園も全て神官たちが管理していると聞いた。またお布施の類は一切受けていないと知ると、簡素な食事が有り難く感じられた。

別の神を信じる教会によっては、豪奢な教会を建て、庶民の味わうことまかりならぬ珍品揃いとも聞く。こうなると自給自足はしていない。

薄焼きパンに、米を煮込んで塩で味付けした米スープ。それが使い込まれた木皿と木椀で出てきたときにはさすがに唾を飲み込んだ。クロックは冷たい笑顔を浮かべてしまい、慌てて洗面所で顔を洗ってきた。グレッグは無表情で口を開けなかった。

簡素な食事だが神に感謝する朝の挨拶がカリンから述べられると、シータの腹が賛同の声を上げ朝の食事を全員で食べ始める。

「ラザフォードさんは森に入る準備を整えたのですか?」

エルザは三姉妹の長女らしい大人びた口調で、冒険の準備が整っているかを尋ねた。

「ええ、調達済みですよ」

クロックにとって森に入ることは珍しいことではなく、準備といえばせいぜい学院で手に入る携帯版動植物大百科を持っていくことと、野宿用の毛布と携帯食で十分である。

逆にグレッグは大きな背負い鞄に洞窟探検でもいくのか、と言わんばかりに食料からロープからと色々なものを詰め込んでいる。背中に背負うことになる大剣、それ以外にも長い棒を持っていこうとしている。雨露を防ぐときに使うと言うが――

「グレッグさんは持ちすぎではありませんか?」

エルザは怪訝な表情を浮かべた。

「何が起こっても大丈夫なように。備えあれば憂いなしです」

グレッグは大まじめに言い切った。

「石橋は叩いて渡れ、ということですね」

――石橋は叩いて渡れ、とは用心に越したことはないという意味もありますが、用心しすぎるのも良くないと皮肉が込められているのですが……。

カリンは心の中で舌を出した。グレッグの腕っぷしは強い。もしも森に狼の群れが居たとして偶然遭遇したとしても、その大きな剣で追い払えるだろうと思い特に忠告しようとは思わなかった。

日が昇り始めると、クロックとグレッグは森に向かって歩き始めた。クロックは森を歩き慣れているので、歩きは軽快である。

三姉妹は馬車を牽いていた馬の世話を終えると、男どもの居ない女だけの観光を始めた。

五。

街からは道が延び、まずは下草が道路の脇に目立ち始める。木陰で休めそうな木々が所々、という所で森の入り口が確認できる。森の番人を街の役人が行っている。番所は掘っ立て小屋のように簡単な作りをしている。戸板が上がっていて、中年男性が二人の姿に気づいて顔を出した。

「これから森にはいるのかね?」

「入ります」

クレーデル騎士団の紋章を帯びていることから見て、クレーデルの警邏組織は騎士団が担っている、とグレッグは知った。門番と同じ、と言えばわかりやすい。

「最近は狼の遠吠えを聞いたって、薬草取りが言ってたから素人は行かない方が良い」

「素人ではありませんよ」

クロックは即答した。学院は森に囲まれている。森での生存の術は学院での必修講義。素人であるはずがない。

「あまり奥には行かないのだろう?」

「せいぜい一日もあれば目的の場所に行けるそうですから」

「では安心だろう。二日以上奥に行けば、クレーデル森狼の群れが狩りを行うんだ。くれぐれも注意するように」

中年騎士は言うことを言い切ると、従者と雑談を始めた。もう二人に興味はないようだ。

クロックはグレッグをうながして森に入る。

森は、道がある間は足下が木漏れ日に照らされ比較的明るい。日差しが直接当たらなくなると、空気がひんやりと涼しくなる。

しかし道などというものは人が通ってこそであり、すぐに姿をくらましてしまった。

クロックは方角を確認するための魔法を心得ており、鐘一つ分(およそ三時間)ほど進むと魔法により方角を確認した。鐘の音は番所の辺りまで届いていた、とグレッグは記憶している。

ちょうど朝の勤務を始める時報が鳴り響いていた。

森の奥へと進むうちに、足下は下草から羊歯に変わり、もしくは落ち葉に覆われ湿り気を帯びた。鳥のさえずりが、もしくは動物の生きるための活動が、森の中のどこ彼処から二人に届けられる。

木漏れ日が少なくなってきた。森の木が少しずつ年を経たものに変わっていく。幹の胴回りがグレッグ一人では抱えられない大きさになり、やがて二人がかりで抱えてやっと、という木々が多くなった辺りでちょっとした森の切れ目についた。

「四阿のようにも見えますね」

四本の年を経た木々が幹の中程からお互いに寄りかかり、一つになっているように見える。正確に方角が正しいかはグレッグにはわからない。だが四方向が見渡せてしまう形にグレッグは驚嘆した。

「クレーデル森の四阿、と呼ばれているようですよ。昼食にしましょうか」

クロックは昨日仕入れていた情報をグレッグに告げた。

「この四阿が人の手で作られたものか、神の采配かは我々には関係ありません。ごく普通の目印みたいなものです」

「クロック殿、そうは言われるがやはり素晴らしいものと感じることを禁じ得ないですよ」

「そういうもの、です」

森の切れ目はこの四阿の周辺にだけ起きており、四阿を出発する頃と再び深い森へと誘われることだろう。

こういった目印は、クレーデルの森だけでなく世界中の森全てにある、とクロックは語った。世界は人の解明できることだけではない、それが探求心の芽を育てるのだ、とも言葉を重ねた。

クロックは学者である。

グレッグは、自分は冒険者なのだろうか、と自問したが答えはない。

六。

夜ともなればクレーデルの街は夜型の生活をするわずかな人々以外は家に帰り寝てしまう。灯りが残っているのは酒場と娼館ぐらいなものだ。三姉妹はおのおの宿に戻っていく。

観光は楽しい。商店のおばさんなどに由来などを尋ねると、いろいろな説話を聞ける。

曰く、この橋で恋人に婚約すれば一生二人は結ばれる、この石臼で作る葡萄酒は格別の味になる、など、ちょっとした名所がところどころ見られた。

こういった説話は街や国によって少しずつアレンジが進み、旅の別の楽しみを生む。

質素な食事に飽き飽きしたシータは外食。エルザもシータにつき合い外食。カリンは二人よりも早く教会に戻ってきていたから簡素な夕食。

クレーデルの人々は、戦火に負けない強い心を持っている。それは全体的に明るい、気さくな心を持っているからだ。細かいこと、いさかいはあまり気にする必要がない。彼らなりのコミュニケーションである。

酒樽に手足が生えたような、とはドワーフ族の例えではあろうが、クレーデルの男性には酒樽のような体型を持つものが少なくなかった。この大らかさがあるのに戦火が起こる、ということが三姉妹にはわからない。いさかいが戦争に発展するのは、じつは簡単なことなのらしい。

明日の観光を夢見て三姉妹はベッドにもぐり込む。

グレッグは杖代わりにしていた長い棒をロープと木の枝に上手く結びつけ、そこから布を垂らした。虫除けになる、ということらしい。クロックが魔法で作り出した灯りは、闇夜を煌々と照らした。

昼には昼の、夜には夜の森の顔があり、夜はフクロウの鳴き声が聞こえた。静かな闇。

布地に覆われた簡単な寝床の、わずか一枚を隔てた外側は森。自然であり、それは神の力を具現する媒体であるかもしれない。緑の葉は夜には黒々として禍々しく人々を惑わせる。

夜の番はいらないのか、というグレッグの問いはクロックの魔法の力によって不必要である、と知らされた。一定以上の距離に近づくものがあれば、クロックは魔法の力で目を覚ますのだという。

グレッグは魔法が万能なのか疑問を浮かべたが、それは口に出さない。グレッグが剣も弓も出来るように、クロックは魔法の力を扱う。決められた法則からはずれれば魔法は失敗する。それは弓の取り扱いを間違えて、矢をあらぬ方向に飛ばすことに似ている。

二人が目覚めたのは、鳥たちの朝のさえずりを聞いてからだった。

七。

クロックは薬草取り。グレッグは携帯版動植物大百科を借りて、植物のいろはを学ぶ。 薄暗い森の中で文字を判別するのは難しいが、夜中に蝋燭の明かりだけを頼りに文字の勉強をするのに似ている。

鳥のさえずりは耳に慣れて心地よく、時々森の闖入者を見学に来る森の生き物はグレッグの童心を呼び起こした。

「学ぶことは感ずる事なり」とグレッグの文字の師匠は言ったが、グレッグはその通りだと思った。心の故郷、レセフェールに生活している活発なあの娘にも、この言葉を教える日が来るのか、その姿を想像してグレッグは心躍らせた。

十種類ほど、植物の外見と名前を覚えた頃、森の遠く、奥の方から犬の遠吠えにも似た動物の声を聞いた。背中の剣に手を触れると、いつでも抜けるように心を引き締めた。

「狼、ですね」

クロックは断言し言葉をつないだ。

「随分遠い。まっすぐこちらに向かってきてもしばらくは掛かるでしょう」

クロックは動じず、薬草探しに夢中であった。

言われて狼の声をよく聞けば、確かに随分遠いようである。鐘一つ分、とはいかないまでも随分遠いことは間違いあるまい。耳をお留守にしないように、と気を付けることにした。

遠吠えが聞こえるごとに、グレッグは顔を上げた。遠吠えは近づいてきているようである。

「クロック殿、声が近づいているようだ」

「グレッグさんの言うとおり、遠吠えが近づいている。この辺りはクレーデル森狼の領域ではなかったはずだが……」

クロックは来た方へ戻る、とグレッグに告げた。目的の薬草は見つけていない。

「三日月草は三日月の晩に咲く。今夜は三日月草が咲くはずですから、咲くのを待って今晩中に調合してしまいたいのですが……」

遠吠えがどんどん近づいてくる。

走るわけにはいかないだろう。二人は周りを見渡した。

「登りますか?」

グレッグは木を指した。

「仕方がありませんね」

クロックは応じた。

二人は身の丈よりも高い辺りで幹が二つに枝分かれしている太い木を選んだ。

重い荷物を背負っていたグレッグは、ロープを荷物にくくりつけ、もう一端を腰に結んだ。そのままするすると木をよじ登る。そのロープをたどってクロックは木に登る。

二人は二股に分かれた幹から落ちないように、安全柵としてロープを巻くと、結ばれたままの背負い鞄を引き上げた。

ロープを使い腰掛けられそうなものが作れないか結び先を模索していたグレッグは、人の叫び声を聞いた。

クロックも気がついたらしく、声の元を探した。遠吠えが同じ方向から聞こえる。

「人が襲われている?」

確証がない。だが、そうなのかもしれない。

クロックは即座に魔法を唱え始めた。

自分の五感を魔法に乗せて、遠くの物事を知る魔法。

クロックは薬草取りの男性がこちらに向かっている、と告げ、さらに言葉を重ねた。

「狼がこちらに近づいてきます。男性との距離はあるが、襲おうとしているのかもしれない」

グレッグはロープを垂らし、その姿の見えぬ男性に向かって叫んだ。

男性はグレッグの声に気がついたらしく、安堵の笑みを浮かべて木に向かった。

すぐにロープにしがみついた。グレッグはクロックと共に男を木の上に引き上げた。

引き上げられた男性のすぐ足の裏を狼のあごが通り過ぎた。

幹の上は三人もいると大所帯で、足を滑らせてしまえば、あっという間に狼の中に落ちてしまうと思われた。

男はまだ息を切らしていて状況を聞き出すような状態ではない。

「追い払いますか……」

クロックは事も無げに言う。

グレッグは彼が魔法を使うと思ったのだが、懐から小さな袋を取り出して両手でパンパンと軽く叩いただけ。ちょうど埃を払うような手つきである。

その小袋を狼の中に投げ入れた。

狼はそれが食い物と思ったのか、一斉に群がった。

「に、逃げましょう」

男は弱々しい声で言うと、二人をふりほどいて逃げようともがく。

「まぁ、ご覧なさい。もうしばらくしたら狼は居なくなりますよ」

クロックの予言は見事に的中し、狼は去っていった。

「クロック殿、あの小袋は何ですか?」

「狼を満足させるものですよ」

八。

男は手足に切り傷やら咬み傷やらがあった。

グレッグの手当もあり、化膿して熱が出るといった体調不良は起きなかった。

男は草色の服を身にまとい、数日間ひげを剃っていない無精ひげをなでながら、生きているのが不思議だ、と一人つぶやいた。

「トットと申します。助けていただいてありがとうございます」

トットと名乗った男は、しきりに礼を述べた。

薬剤師兼薬草師という彼は、狼が突然襲ってきたので仕事道具の一式を森の奥においてきてしまった、と説明した。もしも一緒に取りに来てくれれば、街に戻ってから礼をする、とも言った。

「そうですね。一人よりは二人、二人よりは三人、と言います。一緒に行きましょう」

クロックはトットが薬剤師ということで、三日月草のことが聞けると思ったらしい。グレッグもそう思った。

「ありがとうございます」

トットは礼を述べた。

「何を探し求めてこの森の中に?」

「三日月草、という薬草を探しています」

「三日月草……」

トットは心当たりがあるような表情を浮かべた。

「もしかして三日月の晩に咲くという草のことかな」

トットは、それならお安いご用だとばかりに、二人を案内する。

クロックは喉を鳴らした。まだ日は高いはずなのに、目の前には携帯版動植物大百科に模写された三日月草と同じ草が自生している。複数の花が自生している、というのは稀であるはずだ。

クロックは興奮のあまり、鼻息が荒くなった。

「ではここで野営しましょう」

クロックは三日月草が咲くまでの間に、薬液に漬けるための準備を始めた。その薬液に漬ければすぐに萎れてしまう三日月草がすぐには萎れない、という。

「トット殿、そちらを持ってください」

木の枝に棒を結びつけ、昨日と同じ手順で簡単な寝所を作り出す。

葡萄酒に漬けて柔らかくした干し馬肉を頬張りながら、グレッグとトットはクロックのする様を眺めた。

火は使わない。

火を森の中で使えば火事になる恐れがあるし、古い森には「木の人」と呼ばれる知られていない種族が火を使ったものを殺しにやってくる、と言われていた。

目的のものを目の前にして、迂闊なことは出来ない。

羊の腸で作られた、大きな薬液の水筒に用意していた干し草――これも特別な薬草らしい――を入れる。もくもくもわもわと、紫色の煙が立ち上る。クロックは煙が立ち上るのを確認すると、水筒の口をしっかりと締めて、寝所の方に戻ってきた。

「しばらく仮眠します。二人が眠る頃には起こしてください」

それだけ言い切ると、さっさと毛布にくるまってしまった。

狼の遠吠えが森の中を響く中、クロックはまるで襲いかかってこないことがわかっているかのように、いびきをかき始めた。

クロックが起こされたのは、三日月草がその小さな花を輝くように広げている時間帯であった。グレッグとトットは十分にその花の魅力を感じたようで、二人とも陽気なほどにうれしそうであった。

クロックは感慨の湧かない素振りで、決められた方法で三日月草を採取。さっさと羊の腸で出来た薬液の袋に入れた。三日月草は綺麗なまま、その薬液の中に沈んでいく。

次に薬液から出されるときは、三日月草が霊薬と呼ばれる特殊な薬として加工されるときになる。三日月草から出来る霊薬は、物によってはベルムでも重宝されることだろう。魔物の傷に対しての特効薬である。

クロックは三日月草が薬液に浸かったことを確認すると、毛布にくるまった。明日は早い。トットの忘れた荷物を取りに行き、大急ぎでクレーデルへ戻らなければならない。

三人は仲良く寝息を立てた。狼が襲ってくる様子はない。

九。

シータがはしゃぎ、エルザは末の妹に引っ張られて街へと繰り出していく。

「フェルナ・カリン。貴女には簡単な仕事をしていただきます」

クレーデル〈忘れられし神〉教会の司祭は彼女にそう告げた。

「仕事ですか」

「仕事です。トット・フィッシャーマンは降誕祭を妨害する闇の司祭なのです」

「闇の……司祭、ですって?」

神々の中には〈忘れられし神〉のように、人々から本質を忘れられつつある神がいる。だが他にも世界には神々が何柱も存在する。また人々を敵視する神々はいくらでもいる。神々がどのような意図を持って人々に接するかは、それこそ神のみぞ知ることである。

闇の司祭、とは人々を敵視する神を信仰する破綻者とされる。

「今は名前だけしかわかりませんが、お告げがあればもっとわかるでしょう」

カリンが役所に行ってトット・フィッシャーマンについて聞き込みを始めると、鐘一つも時間を掛けずに住んでいる場所を聞き出すことが出来た。

本当に闇の司祭かどうか、調査をする必要がある。

事を荒立てるつもりはなく、穏便に済ませたい。

しかし彼女に身辺などを調査する技術はほとんど無く、大抵は荒事になる。そんなとき、カリンには強力な殺人魔法があった。一気に人間を焼き尽くす炎の魔法。闇の司祭であっても家屋を一瞬で焼失させるほどの炎には耐えられない、とカリンは確信している。

錫杖の形をした魔法の杖をしっかりと握りしめ、自分の自信が揺らがないことを確認した。

エルザとシータに手伝ってもらう必要があるか、しばらく考える。どうせグレッグとクロックが薬草取りから戻ってくるまであと半日以上ある。それまでに火事で一軒の家が燃えるだけである。それならば、一人で十分だろう。

炎は邪悪を清めることが出来る。

だから、カリンは自分が正しい、と信じることが出来る。

カリンは街を観光している振りをしながら──なかば観光をしていたが──トットの家の様子を観察していた。

人気は相変わらず無く、いつになったら帰ってくるのか疑問に思える。

日はまだ高いが、室内を改める必要がある。グレッグ達が帰ってきてからでは、あらぬ疑いを持たれてしまいかねない。そしてその疑いは正しい。

──やってしまいましょうか。

周囲に人の目がないのを確認すると、扉の前にさっと移動する。鍵は掛かっている。

小さな声で呪文を囁いた。鍵を開ける魔法は教わっていない。だから炎の熱で扉のカギを溶かす。全てが溶けたと判断すると、彼女は一気に扉を押し開けた。そのまま中に侵入し扉を閉めた。

これで人目を気にする必要はない。

鍵のことはどうにでもなる。このまま待ち伏せすることも可能。

室内は普通の家のように見えた。特に邪教の類を奉っているわけではないように見える。だが闇司祭は油断がならない。

絵画に描かれるほど魔物は黒くない、とよく言われるが果たして本当だろうか。心の奥底まで神に身を捧げるのが司祭なのではないのか。

平屋の建物は、どこにも神を奉っている雰囲気はない。

──おかしい。ここだと思っていたのに。

思い過ごしならさっさと去るべきだが、どうにも予感がしていた。

地下室があるかもしれない。床板のことごとくを錫杖で突き、おかしな戸板を探す。絨毯をどけて、同じように錫杖で突いた。どこにも見当たらない。

夕暮れ。

鐘が告げた。

随分と長い時を過ごした。このまま何の証拠もないままに、家主を焼き払うわけにはいかない。カリンは一度観光客の身分に戻ることにした。

十。

グレッグは空を振り仰いだ。

森の鬱蒼として黒々とした空ではない。

赤く染まっているが、良く見知った空だ。

番所に詰めている顔ぶれは、森に入る前と代わっているが交代したのだろう。

トットとはここで別れた。

二人は一時の逗留先を目指した。鐘が夕暮れを告げている。建物に反響して、渇いた鐘の音が心地よい。鐘の音。余韻。疲れがとれるわけではない。ただ、安心感。

木造の修道宿は、二人を優しく出迎えているようだ。

久しぶりに獣脂の焼ける臭いを嗅いだ。

「お帰りっ。三日月草採れた?」

シータは待ちかまえていたように、クロックに詰め寄った。

「観光は飽きたらしいね」

クロックはシータの次の行動が起きる前に、疲れを含んだ声で感想を述べた。

「で、どんな森だったの? 妖精とかいた?」

放っておくとずっと質問責めにしようとするだろう。クロックは背中の荷物だけでも、背中から下ろしたかった。

「クロック殿は疲れていますし、シータ殿も少しだけ遠慮してあげてください」

グレッグの顔にも疲れの色が見えた。その表情を見てシータはおとなしく引き下がった。

どうせ、まだ南に向かうとき同道するのだから、そのときにじっくりと聞けばいい。

「夕餉までは時間がありそうですね」

「ええ。もうしばらくは掛かりそうです」

グレッグが時間を確認した。夕方の鐘が鳴ってから修道士たちは夕飯を作り始める。

カリンが浮かない顔をしているのを見て、グレッグは声を掛けた。

「死相でも見えますか?」

「やめてよ、縁起でもない」

カリンは余計に不機嫌な表情を浮かべた。

グレッグは自分には冗談の才能がないのだ、と改めて思い知らされた。

十一。

カリンはいつもとは違う格好をして、深夜の鐘と共に体を動かした。

誰も起きていない。トット・フィッシャーマンが闇司祭かどうかの証拠はなかったが、本人を直接問いつめればわかることだった。

だが侵入した痕跡が残っているのに、そんなところにのこのこと戻って儀式などを行うだろうか。

もう出発まで時間がない。

悠長に構えていられる時間は過ぎ去った。

肩が上がらないように、慎重に歩を進める。月明かりがまぶしい。出来るだけ影の濃い場所を選んで歩く。もしもカリンの歩く姿を見た物がいれば、亡霊が歩いているように見えるかもしれない。

長く黒い裾の中には、魔法の媒体でもある錫杖がしっかりと握られている。

観光客のふりをして何度か行き来した道。それはカリンの記憶にしっかり残っている。

迷うことなく、ただ一途に闇司祭を焼き殺すことだけを願う。

トットの家に明かりは灯っていない。だが帰ってきた気配がある。鍵を壊したのにもかかわらず、トットは中に潜んでいるのか。

カリンは錫杖をしっかり握り直した。

派手で殺傷力のある魔法以外は地味だから、と習得しなかったのは失敗だった、と毎度の事ながら思う。魔法の目や魔法の耳、と呼ばれる五感の一部を魔力で増幅する魔法は、相手が家にいるかどうかを知るのに大変便利である。

慣れないことだ。結局、カリンはカリン。他の誰でもなく、だから自分の学びたいことを学びたいだけ学んだ。

窓は戸板が降りていて、聞き耳を立てても何も聞こえないだろう。だからいつも通り忍び足で扉に近づき、聞き耳を立てた。寝息が聞こえる。

カリンは決心し、静かに扉をずらした。中の様子をのぞき見る。

確かにトットは何かの魔法陣を書いていたらしい。ほんのりと床が光っているのは、何かを召還する儀式に使う魔法陣が光っているからに他ならない。

だがトット自身には魔法を扱えるような雰囲気は見られない。

――このまま焼き殺すか。

トットが寝ている今がチャンスだ。いつも通りやればいい。

カリンは魔法の詠唱を始めた。無防備な相手を殺すことにためらいを感じたが、このまま放っておけば無関係の人々に危害が及ぶかも知れない。

錫杖の先にこぶし大の炎が爆ぜる。

こぶし大の炎は、詠唱を続けると爆ぜながらカリンの頭ほどにまで大きくなった。これを人が受ければひとたまりもない。骨片ぐらいは残るかもしれないが、原形をとどめないことは間違いない。

突如、魔法陣がひときわ輝いた。

カリンは慌てて炎の塊をトットに投げ放つ。だが勢いよく爆ぜていた炎は、魔法陣から現れた羊頭の魔物に食われてしまった。

魔物に気を取られて、トットのことを忘れた。カリンは慌てて屋外に出た。接近して戦うのは苦手だ。既に奇襲は失敗し、このまま踏みとどまっても犬死にするだけ。魔物がどんな魔法を使うかは知らないが、相手が炎の魔法を受け付けない段階で時間稼ぎにもなるまい。

「一人で勝手に行くから、そういうことになるんだよっ」

シータの元気な声がカリンの足を止めた。

「なんでこんなところに」

シータは両手に一振りずつナイフを構えた。

「みんなもいるよ」

「夜更かしする人ばかりでして」

クロックは杖を構えて笑う。グレッグは頷いた。

「姉さんがカリンの行動を読めないと思った?」

口々に好き勝手なことを言う。

魔物が目の前に迫るという緊張は彼らにはない。

十二。

グレッグはその大きな剣を掲げた。それは騎士が騎士道精神を誇示し正々堂々戦うことを示す礼である。

冒険者に身をやつしていても、グレッグは身も心も騎士であった。

「おやおや、みなさんお集まりで」

グレッグとクロックには聞き覚えのある声。

――彼は森で偶然であった薬草取りではなかったのか。

クロックは舌打ちした。グレッグの剣が鈍るのは目に見えている。

「よく見ると、グレッグさんとクロックさんもお出でとは、我が神の与えたもうた試練とは、なんとも残酷なことだ」

男は笑った。紛れもなくトットの声で。

「そちらのお嬢さんは〈忘れられし神〉に仕える司祭か。はて、なぜ炎が爆ぜた?」

男は心底不思議そうであった。司祭の身でありながら魔法を操るものは、ほとんど例がない。まさかカリンが例外的な存在だとは思いもしなかっただろう。

羊頭の魔物は、横に長い瞳孔を細めた。まるで獲物の値踏みをしているように。

クロックは三姉妹に伝染する心の動揺が見て取れた。相手は見ず知らずの闇司祭でなければならない。でなければ剣は鈍るものだ。

フェルナの称号を持つ彼女だけが、人を殺すことに一切の抵抗を感じていないらしい。 他人任せだが、慣れている者に任せてしまうのが一番合理的である。だが――。

「みなさんは羊頭の化け物をお願いしますよ」

クロックは言い切る。あの闇司祭とのけりは、自分で付けたかった。

「クロック殿、私もけりを付けたいですよ」

クロックは仕方がない、と肩をすくませた。グレッグの位置からでは見えなかっただろう。魔法の網でトットを絡め取ってしまう予定だったが、接近戦を挑むグレッグごと絡め取ってしまいかねない。

「姉さんから仕掛けるから、シータはいつも通り。カリンの魔法は効くのかしら?」

「わからないわ。私の炎の魔法は効果がなかったから」

「どうとでもなるよ。ようは相手の攻撃を全部かわせばいいんだからさ」

三姉妹は前向きだ。クロックは魔法の詠唱を始めた。

グレッグは切っ先が小刻みに乱れているのを感じていた。

人を殺す。今まで抵抗がないと思っていた。妖魔を狩る時にもそういうほど抵抗がなかった。妖魔からは憎悪が見えるほどに発せられていた。

しかしトットは憎悪を発しているだろうか。見えない。

彼は崇高な使命を帯びて、この場たたずんでいるようにしか見えない。

「クロック殿、私もけりを付けたいですよ」

そうは言ったものの、いつもの調子ではない。全く知らない相手ではない。己を非常にしなければ殺し合いの場所では殺される。

――相手を殺さないようにするには……。

そんな方法をグレッグは知らない。今手に握る愛剣では相手を惨殺するか撲殺するか突き殺す以外の選択肢はあり得ない。

三姉妹は羊頭の魔物に対して戦意をあげている。彼女たちは魔物を狩る気でいる。

闇司祭が祈りの歌を歌い始めた。

神に祈りを捧げ奇跡を呼び起こそうというのか。

グレッグは雄叫びを挙げた。神の奇跡は神の気まぐれによって街を滅ぼすこともあるという。そんな無茶をさせるわけにはいかない。

迷わず突撃し、トットに斬りかかる。

――たくさんの無関係の人々の危険を見過ごすわけにはいかない。一人の知り合いを殺害することで危険を回避できるのならば、これは容易いことではないか?

グレッグの心は揺れた。迷いが剣に伝わった。剣は空を切り、切っ先は石畳を叩いた。

トットが慌ててグレッグとの距離を離した。

――一人でも犠牲を出して良いというのは、正しい考えなのか?

理想を言えば、誰も犠牲にならないことだ。犠牲を出さないこと。それが真の騎士ではないのか。

グレッグは自分の実力がどこまで出来るのか、試されるときなのだと心に言い聞かせた。トットを殺さずに生かすことが出来る知り合いはいる。

ビルクリムの実力ならば、反撃する暇もなく相手の武力を破壊できる。クリス・シュタイナーならばその速度を持ってして相手の動きを封じることが出来るだろう。

だが、その両方がグレッグにはない。

どうとでもなるかもしれないが、殺してしまう可能性は高い。そこまで手加減できるかは怪しい。

「クロック殿、この愛剣を一時的に切れない剣に出来ませんか?」

「なんですって?」

「切れない剣です。私はトット殿を惨殺したくない」

――何のための剣か。これならば両刃ではなく片刃の剣であれば良かった。

剣は人を殺すのではない、人を守るものだ。グレッグはそう信じてきた。信念を守るためには、愛剣の実力を削ぐことも必要だろう。

「……わかりました。切れ無くすればよろしいのですね」

剣に青白い輝きが灯る。剣を包み込んだ輝きは、一体何の輝きだろう。

「剣の表面にも、魔法の盾を張り巡らせました。本来は攻撃を受けるときに怪我を押さえるものなのですが」

「クロック殿、恩にきります」

グレッグはトットに向けて剣を掲げた。改めて戦うと言うことだろう。

三姉妹はいつの間にやら羊頭の魔物に戦いを仕掛けていた。カリンの魔法は魔物に吸い取られてしまうが、吸い取る間は無防備らしくエルザが剣を振り回して深手を負わせた。

十三。

「いきます!」

グレッグが叫ぶ。クロックは魔法の盾をグレッグの体にも張り巡らせた。

維持する魔法が増えれば増えるほど、クロックの体には深い疲労が刻まれていく。

トットは笑った。彼の手には黒い炎。

すっ、と炎を滑らせる。まるで宙を泳ぐように黒い炎は進む。

グレッグがその炎を切り捨てた。

「まさか。鉄をも溶かす炎だぞ!」

トットの狼狽が街路に木霊した。

「一時の間、休憩なさい!」

グレッグの剣は横から弧を描き、トットをはねとばした。トットは自分の家の壁に叩きつけられ失神した。

グレッグはそのまま羊頭の魔物の方に向かう。カリンは既に魔法の使いすぎで疲労しきっている。エルザとシータだけでは魔物に近づけない。

「加勢します」

グレッグがその大きな剣で突きの構えを見せた。

突きであれば、羊頭の魔物の腕よりも外から攻撃が出来る寸法であるらしい。

「一斉に仕掛けましょう」

三人はほぼ同時に動き、羊頭の魔物が誰に攻撃を仕掛けるか迷っている内に一気に叩き伏せ、斬りつけ、動きを封じていく。そしてグレッグの切っ先が羊頭の魔物の首を叩き折り、エルザの剣が魔物の背中に突き立てられた。

魔物は首を絞めた羊のような声を上げ、身動き一つしなくなった。

十四。

トットの殺害はグレッグの強い意志で阻止された。

だが、〈忘れられし教会〉の一室に監禁したはずのトットの姿は翌日姿をくらましていた。

「また、会うかもしれませんね」

グレッグはつぶやいた。

彼は自分の甘さが結局、危険を取り逃したことになると思った。

クロックは複雑な表情を浮かべたが、誰も怪我が無くて良かった、と語った。

羊頭の化け物は死体の全てが溶けてしまい、後も残さず消えた。夜中の騒がしかったことすらも、誰も彼もが忘れていくだろう。

一行は南に向かう。それぞれの思惑を抱いて。

そして〈忘れられし神〉の司祭の巡礼は続く。

――薬草の森・幕――