ビルクリムの恋心

作者・逢坂総司

最近特にそうだが、彼は朝起きると足を向けるところがある。

そこの名は、ライザー食堂。

ごく一般的な、旅人向けの宿である。経営者のライザーが元冒険者で、時間が空いているときに冒険談などを語って聞かせることもあり、冒険者が良く集まっている。

どちらにせよ彼は、ライザーの話を聞きたいから向かうのではない。動機は、それまでの彼にとっては考えられないものであったし、それからの彼にとっては至極当然のことであった。

石畳が隙間無く敷かれた通りを、西の方角に向かって歩く。

彼の栗毛の髪がさらさらと、彼の歩みに合わせて踊っている。彼の名はビルクリム・バリー。ただ、人に名乗るときビルクリムとしか名乗らない。

余程強く訊かれて、それでもってどうしても必要になれば「バリー」を名乗るのだが、それまでは誰にも名乗らない。だからかもしれないが、食堂の常連は彼の姓を知らない。なぜ名乗らないかは余談になるので、いつか別の機会になる。

ビルクリムが泊まっている宿からは、少し距離がある。わざわざビルクリムが別の宿を借りているのは、長期の宿泊をライザー食堂が受け付けていないからなのだが、それでもライザー食堂は冒険者に愛されている。

アーチ状の看板が通りに掲げられている。ここ、中央商店街が見えてきたら行程の半分は過ぎたことになる。

うまくタイミングが合えば、食堂の看板娘セシリーに会えるかも知れないが、出来ればあまり会いたくないと言うのがビルクリムの心境である。特に「あの人」に会うまでは、出来る限り誰にも一人で考える時間を奪われたくなかった。別に、セシリーに大して何か特別な感情があるわけではなかった。

朝方は良く散歩しているセシリーのことだ。必ずと言っていいほどに、愛犬ラッチーがいることだろう。一方的にじゃれついてくるラッチーは、考え事をしているビルクリムの苦手の種だ。

今日は偶然にも会わなかったが、食堂に行って「あの人」がいたところで、考えの結果が現れないのはいつもと変わらないのだろう。そうならないように祈る彼の祈りが、偉大なる存在に届いたことなど一度もないが。

食堂のいつもの光景といえば、用心棒として雇われているアリエルが食堂に下りてきて、給料を兼ねた朝ご飯を食べる。その後、ビルクリムがアリエルにちょっかいを掛けてくる。更にその後は時間の流れと用事に合わせて、常連が入れ替わり立ち替わりである。

とにかくも今日のビルクリムは早かった。

「あ、おはよう」

セシリーが「営業中」の札をひっくり返したのとほぼ同時に、入り口にたどり着いていた。

「今日は早いね」

と、セシリー。言われてみると今日はやけに早く起きた気がする。

「あ、そんなに早いかな」

言われて空を見上げると、いつもよりも低い位置で太陽が自己主張を始めていた。

「まぁ、いつもの朝ご飯が食べられればいいや」

カラっとした笑い顔で、ビルクリムは定位置の座席に座る。

半分ぐらいの椅子は片づけられていて、せいぜい五組ぐらいのパーティが来れば席はなくなるだろうか。彼は、カウンター席だ。

「まだ、厨房に火が入ったばかりだから、もう少し掛かるよ?」

「ああ、いいよ」

ビルクリムは両手を組んであごを乗せると、しばらく「良い言葉」を考え始める。ビルクリムは、こうしてライザー食堂の利用者でもある「あの人」に言葉を投げかけ、少しでも気を惹こうと躍起だった。

毎日のように、デートに誘おうとするビルクリム。その様子を客観的に観察しながら「あの人」は器用に誘いをかわしていく。

ビルクリムは冒険者で半ば自由業だ。憂鬱ではないが、先が見えない生活である。

冒険をしなければ、必ず無一文になるときが来る。だから、帰ってこれるかわからないことが不安で、だから同じ生活でも何かが違う。何かを求めてしまう。

「おはよう」

感情のあまり籠もっていない、ある種冷たい言葉が投げかけられる。食堂の隅に階段があり、彼女は下りてきた。

まだ朝早いというのに、既に用心棒をするのに十分な装備をしている。といっても、利用者の大半は冒険者で、それ以外は旅行者と一部の常連であり、ライザー本人は元冒険者。重装備は必要としていない。

「あ、お、おはよう」

声が上擦った。気持ちが焦って、まとまり始めていた「良い言葉」が一気に霧散して消えた。

「おはよう、セシリー」

少し髪が伸びたのか、ボブカットだったアリエルは印象が微妙に違う。

「おはよう。今日、ビルクリムったら開店前から待ってるんだよ」

セシリーが笑う。

「そ、そんなことはない。たまたま偶然で……」

「毎日朝早くご苦労なことで──。セシリー、いつものが食べたい」

アリエルはセシリーに朝食を注文した。

「二人ともそうだけどさ、ちゃんと栄養のバランスを考えて食べないと体がおかしくなっちゃうよ?」

それでも、注文は注文で厨房に料理を作ってもらうように伝える。

いつも通り、目玉焼きに、固めに焼き上げたパンと紅茶。他にはサラダが付いた。

「サラダはおまけ。バランスを良くしないと」

ビルクリムの大皿には牛肉の焼き肉がごてごてと盛ってある。

「朝からこれは、胃にもたれない?」

ビルクリムはけろりとして

「これぐらい食べないと、体を保たせられないからな」

冒険者の中では小柄になるビルクリムが、体を維持するのは難しい。

さっさと食べながら、それでいて時々手が止まるのは彼が考え事をしているせいだ。

言葉がうまくまとまらないまま、ビルクリムは朝食を終えた。

「まとまらないなぁ」

言葉がまとまらないことが悔やまれるのではない。

意外と本心を伝え切れていない自分自身に対する、悔しい気持ちが強い。

「どうすればいい……?」

まだ誰にも相談していない。

じつに、ビルクリムを知っている人の大半は、彼の思い人である「あの人」が誰かを知っている、ということを本人は知らない。

どちらにせよ、勝手に屋根の上にのぼって空を眺めることは、悪いことなのだろうと思う。

白い雲が、青い絵の具をたらしたような空に、ふわふわと漂っているのは間違いない。

──あんな感じで、自由に生きられたらどんなに良いだろう。

そんなことを考えたところで、どうにもならないことに気づき、再び彼は考え事を始める。

「恋って、なんなんだ……」

* * *

子供の頃、ビルクリムは神殿で育てられていた。それ以前はあまり覚えていない。

両親が居たかどうかも知らない。とにかく、そんなことに興味は覚えていなかった。むしろ、目の前で繰り広げられている、鍛錬と模擬試合が興味の対象であった。

ずっと、鍛錬と修養と、そして試合とを繰り返すばかりだった。

本当なら、そのまま神官戦士などになるはずなのだが、彼は神殿から出奔し冒険者になった。

──いつ頃からだろう、他人のことを気にするようになったのは。

試合中は、確かに相手を気にはしたが、特に感情はない。叩きのめすだけの対象だ。だが、「あの人」に対しては、どうもいつもと違うのだ。どうも、その辺りがよくわからない。

──好きなのは好きだ。だが、好意か恋かがわからない。

時間を掛けてじっくり具体的に、気持ちの整理をつけていくしかないのだが、まだ熟成期間が足りなかったのは事実だ。

気持ちを押しつけていくのも、相手に対して負担を与えるだけだ。だから、やりすぎることも出来ず、煮え切らない思いを抱えて、そして感情と気持ちの渦に沈み込む。

潮流は早く、渦に巻き込まれるとジレンマに苛まれ、抜け出せない自分の感情と気持ちに翻弄される。生き地獄みたいなものだろう。

相反する気持ちが鬩ぎ合い、考えがまとまらなくなると彼は空を見上げることに専念することにした。

当分の間、堂々巡りの論議を一人で繰り返していた。

そういえば、神殿にいたときよく怪我の手当とか、勉強とかを教えてくれた娘が居た気がする。ビルクリムが怪我をすると、いつも治してくれた。

名前ははっきりと覚えていないが、笑うと太陽のような、そんな明るさを放つ不思議な子だった。

彼女がビルクリムに対して抱いていた感情は、果たして好意だったのか、はたまた恋だったのか。

彼女にだけは、神殿から旅立つと決めたときに相談した。幼なじみみたいなものだったし、持ちつ持たれつの関係は嫌いではなかった。

相談したら、一緒に行きたいと言われた。なぜか、ビルクリムは申し訳ない気持ちで逃げてしまった。彼女は、すでに巫女として、一分の隙もない信仰心を持っていたから。

白亜の神殿を飛び出した彼は、始めて見ず知らずの人だらけの世の中に放り出され、見ず知らずの他人の考えが全く分からないと言うことを知る。

他人と接する機会が異常に少なかった、というのは人と接するという当たり前のことを、苦手にさせるに十分たることである。

そのことをわかっていても、もうどうしようもないほどに彼は成長していた。あとは、時間との戦いだった。

* * *

しばらく食堂の裏手にある中庭で、ラッチーと戯れながら考えを忘れようとしていた。

巫女になった彼女と「あの人」は似ているかも知れない。もう少し「あの人」が髪を伸ばせば、十分似てくるはずだ。

──だが、外見だけで好き嫌いを判断するのか?

いよいよ考えが膨らんできたので、ラッチーを捕まえて芝生の上を転がってみる。

ラッチーは迷惑だったのだろう。もがいてビルクリムから逃げ出した。でも、すぐに寝転がっている彼にのしかかった。

「楽しそうだな」

屈強な男がこちらも困った顔で、中庭の芝生に腰を下ろした。

「よぉ、グレッグ。調子はどうだ?」

ラッチーを撫でると、ビルクリムの横に腰を下ろした。気持ちいいのだろう。

「うむ、どうも調子が出ないな。この悩みが解決できれば、少しはどうにかなるのだが」

二人は同じ様な何かを感じ、同時に黙った。そして、立ち上がると頷く。

「汗でも流してみるか」

ライザーに聞いてみると、適当な木の棒が倉庫に転がっていて勝手に使っても良いらしい。

二人は自分にあった長さの棒を選ぶと、中段に構え間合いを計る。

グレッグは長い棒を両手で構え、隙さえ見出せば打ち掛かろうと身構えている。隙は出していないものの、短めの棒を手にしているビルクリムは先に攻め掛かる糸口が見つけられず、じっと時を待つしかない。

少し気持ちをゆるめると、ビルクリムの心は神殿で腕を競っていた仲間たちを思い起こしてしまう。それを抑えつけながら、グレッグの動きを観察する。

暑いわけでもないのに、二人の額には汗が浮き始めていた。

「いくぞ」

このままではどちらも攻撃できないままだと判断し、ビルクリムは間合いを一気に詰める。ここぞとばかりに、グレッグは棒を突きだし、ビルクリムの攻撃を挫こうとする。しかし、かすらせながらもかわされ、二人の間合いが一気に狭まる。

ビルクリムの棒がグレッグの棒を叩き上げ、体勢を完全に崩させるように策謀を張り巡らせる。

両手で持つ武器は、その長さ故に懐が弱い。だが、グレッグは正規訓練をした猛者である。咄嗟に後ろに下がると、足を踏ん張り体勢を崩さない。

懐に入りそびれたビルクリムはさらに、グレッグの棒を叩き上げようとする。

──同じ手を……!

それは油断だった。

ゆらりと横に棒をずらしてビルクリムの棒をやり過ごしたが、そのまま前傾姿勢のままに、ビルクリムは突進した。

全体重を載せた体当たりが決まり、流石のグレッグも後ろに倒れた。倒れたが、受け身を取り、後転し流れる動きで立ち上がる。

少しだけ、呼吸がつらそうだったが、まったく隙はない。攻め込めば、逆にやられるのは目に見えた。

今度は、グレッグが攻める番だった。

まず、横凪に棒を振りきる。ビルクリムは体勢を低くして避ける。そのまま足下を掬うような一閃を避け、鋭い突きを避ける。

グレッグの腕力から繰り出される棒は、空気を割る勢いで、棒で不用意に防げば、手元の得物が砕かれそうだ。

そして、もう一閃したとき、グレッグは棒から左手を離し、右手のみで棒を操った。一気に間合いを詰めたグレッグの左手が、ビルクリムを捕らえた。

そのまま地面に押さえつけようと力を込めるが、一瞬の体勢移動を行うビルクリムを捕らえきれず、取り逃がしてしまった。

「……さすがだ」

「うむ。本気でやりあってみたいものだ」

二人は同時に棒を降ろすと、怯えてどこかへ行ったラッチーのことも気にせず、お互いの悩みをうち明けあったのだった。

* * *

「最後に言わせて貰って良いならば──」

グレッグは一度息を止め、ビルクリムの顔色を伺い、そして続きを述べた。

「もし相手がわからないと思うならば、まず自分のことを話してみるといい。相手だってビルクリム殿のことがわからないから、不安に思い避けようとしてしまうものだ」

グレッグは、言うことを言い切ったのか、食堂の方へ戻っていった。

──まず、自分を知って貰う、か。

アリエルは、自分自身のことをどこまで知っているのだろうか。

問いは心の中に染み渡り、ビルクリムは再び陥りそうになる堂々巡りから脱するために、一度背伸びをした。

「相手と話をしてみるか」

確かに、あまりグレッグがどういう人間かわからなかったが、棒を打ち合わせることで、真っ直ぐで芯の強い人間だということと、今は迷いがあるということがわかった。

きっと、彼からもビルクリムの迷いが見えたはずだ。

──似たような悩みなのだろうな。

そのままごろんと横になると、洗濯物の取り込みを手伝っているアリエルが目に付いた。

──気長に、俺のことを知って貰ってからでも、この恋は遅くない!

「アリエル、セシリー、俺も手伝うよ!」

ビルクリムは今まで進めていたつもりで止まっていた歩みを、今まさに動かそうとしている。

――幕