成熟と腐敗する四次元
ふと、生まれたときのことを思いだそうとする。だが、よくわからない。思い出せないのではなく、その瞬間とは感覚が違いすぎて、記憶として再生できないのだ。
最初に知覚できる古い記憶は、三歳の頃住んでいた西ノ宮のアパルトマン。だが、その記憶は何度も思い出しては、記憶し直し焼き付けたもの。焼き直す写真のごとき古ぼけたものになっている。
強烈な痛みを伴う記憶は、ふと、あるしきいを越えたとき、ふと目に見えなくなる。
人は、忘れながら生きる。
自らの人生が、小説より希なる瞬間を求めて。
未成熟では、その「偶然」には気がつかず、宗教に目覚めると世の中は「偶然」から「必然」に刷り変わる。だが、成熟した瞬間を知るための指針はない。
いま、十数年ぶりに住んでいた街を訪れ、震災を経て変わり果てたそこを見て、上がさねの記憶は幻だと気づく。
いまだ、自らの成熟を知らず、また、いつ熟しすぎるかを知らず、いつ腐るかを知らぬ。
未熟? 成熟? それらが全て幻で、記憶が空間にあるのだとしても、生きることの幻に何の不自由があるだろう。
会話する幻を介し、空間の一部を共有しているに過ぎない。三次の場に記憶空間と感覚肢を伸ばす、クラゲみたいなものが本当の人間だったとしたらどうなる? 巨大な虚構の場に接続している間、人間はそのことに気が付かない。
記憶は前後し、知らないはずの物事が刷り込まれる。
記憶が空間にあるならば、あらゆる物事に影響され幻のように捉えられないのは、空間を漂うからに他ならない。
記憶の忘却は、空間に対して一定量の進捗を示さない時間という四次が、人間の感覚で言えば「きまぐれ」なせいであり、折りたたまれ引き伸ばされていくうちに、情報がどこかで削り取られていく感覚に近い。
つまり、記憶は、四次元にある。
そのある種の真理を知ると、人はリセットされる。腐敗した瞬間、人はリセットされたことを知る。生きている、と人が言う状態ではこの真理を知ることはない。万が一知ったとして、どの人が信じるというのだろう。
腐敗した果物の中から、新たな芽が出るように、クラゲのような人間は感覚肢を伸ばす。
人生は壮大な暇つぶし。四次元に横たわる娯楽の殿堂。
―幕―