そういえば、祖父が亡くなったとき、家族で僕だけが涙を流さなかった。
心の底から冥福を祈り、自分なりに喪に服したつもりだ。
だが涙を流さない限り、冷血漢に取られるらしい。それがたいそう不思議に思えたものだ。
悲しいと思い、経を唱え、冥福を祈る。遠方に住む祖父母とは、二、三年に一度会うぐらいの関係であった。だが、両親にとってはやはり両親であり、年に一度会うことすらなくても時々は会いたくなるだろう。
喪に服すという行為、それらを形だけにしないように、自らを律するように頑張った。
だが、体力的に限界があっただろうし、伝統的な形式などほとんど知らない。
どこかに喪に服すということの本質を欠いていたのかもしれない、と思う自分もいる。
それが、時というものだ。
保育園前を通りかかったとき、泣き声が複数響いていた。ちょっとした一軒家の敷地ぐらいの運動場、というよりは庭ほどの空間で幼児たちが遊ぶ。
泣く子の横で平然としている子がいる。ひどく滑稽に見えた。喧嘩の結果には見えず、つまり泣いている理由がわからない。それが、滑稽に思えたのだ。
すると、涙は悲しいときに無条件に流れるわけではないらしい。そのことを思い出した。
きっと涙は自分のために流れるのだ。
そう考えて納得している僕は、やはり冷血漢なのだろう。
―幕―