キミは今日も鏡の前で笑ってみせた。ぎこちなく、それでいて何かに媚ていた。気持ち悪い。キミはそこから離れ、白に黒を重ねた。自分がもう何物にも混ざらない黒に包まれれば、少なくとも安心は得られた。
身支度が終わったキミは、十字架を象った腕時計を見て大学に向かった。
蜃気楼が見えそうなアスファルトは、キミの黒とは違って不可侵性を持たない。徐々に色あせる。
友人の下宿を訪ねてから大学に行くのがキミの習慣。
友人のサチは長屋の二階から勢いよく下りてきた。
彼女は色んな服を持っているが、大学には明るい色のシャツ、ジーンズにスニーカーと決めているらしい。
今日は短めの髪を後ろで留めている。キミの美的感覚だと尻尾みたいに見えた。
「キミはいつも白いからいいよねー」
夏らしい小麦肌で、サチは言った。四角いフレームのメガネを中指で押し上げ、サチはマジマジとキミを見る。
「この夏に、なんで汗一つかかないの。不公平だっ」
「私は、サチが羨ましい。私は小麦色になったことはないし。それに、陽に当たり過ぎるとやけどみたいになるから」
「だからって、黒い日傘はないでしょ」
「黒は好きなの」
サチはキミの手をとる。サチの尻尾が揺れた。
「ゆっくりしてたら、講義に遅れそう。急ごう」
サチは人と関わるのが不得意なキミにとって大事な人。不思議な友人でもある。キミにはまったくわからない世界に連行してくれる友人は彼女だけだ。
チャイムが鳴った。二人は教室に飛び込んだ。
太陽が真上を少し通り過ぎ、少し西に向かっている。
「キミはこんなにいいのに、何で笑わないのかな」
サチはキミの頬をいとおしそうに撫でて、それから思いっきりつねった。
「こんなに目鼻顔立ちがいいのに、勿体無いと思わないの?」
「え、なんで?」
「これだからキミは羨ましい。美しさって親から与えられる部分でしょ」
「そうなんだ。私、サチみたいに笑ったことない。笑い方を教えてよ」
「笑い方を?」
サチはキミを見て、どうするか考えた。だがまったく思いつかなかった。
「そんなの、私だってわからないよ」
サチの困った顔もまたたまらなくいい、とキミは思った。
キミは薄暗くなった部屋に戻った。高かった洗濯乾燥機には、黒い服が綺麗になったまま数着分入っている。キミはそれらの服を重ね着する。黒い服は何物にも染まらないが、キミ自身は何色かに染まるかもしれない。ひとりでに染まるのはイヤ、キミはそう考えて服を重ねる。けれど、洗濯が終わっただけの着衣はしわになってしまうかもしれないから、まずはクローゼットにしまう。
一人で家にいるときも、キミは黒くあろうとする。不安を覆いつくすための黒い家具は必須だった。
サチと一緒にいる内はイメージしなかった赤色。脳裏に強く押し付けられる。キミはそこに赤色の蝶が羽ばたいているような気がした。手を伸ばせば届きそうな距離で羽を休めている。
手を伸ばしても、その蝶はさわれない。手をすり抜けて、視界の外に飛び去る。
呼び鈴が鳴り、キミは目を見開いた。宅配便だった。中には有機野菜。キミの食事に欠かせない一品は有機野菜のサラダと決まっている。いつもお気に入りのドレッシングでそのサラダを食す。
人は生きていて、食べなければ生き続けられない。
一人に戻ると、脳裏にあの色が押し付けられる。その色は体内を流れる血の色と同じ。早く有機野菜の地味な緑を見たかった。キミはカッターで丁寧にダンボールを開く。蝶が目の前を横切った。手が滑る。
呼び鈴が再び鳴った。
扉の外には鍋を持った友人が一人。
「サチ?」
「カレー余っちゃった。一緒に食べよう」
キミはサチの笑顔を見て安心感を感じた。張り詰めていた糸がほどける。そして、左腕に違和感があることに気付いた。
「キミ、血が出てる」
「本当だ。舐めれば治る、かな」
「絆創膏貼っておこう。ばい菌入ったらやばいもん」
勝手知ったるとばかり、サチはキミの小さな部屋の救急箱を探しあて、そこから大きな絆創膏を取り出す。
カレーの鍋はいつの間にかキッチンに溶けこんで、中身を見てみなければサチの持ってきたカレーであることに気が付かない。
ターメリックの黄色が目に眩しい。まだカレーに少し温もりが残っている。
サチの取り出した消毒液が傷に染みる。
「駄目だよリストカットなんて。流行らないし」
「手が滑ったの」
「冗談だよ。キミはそういう人じゃないし。傷は浅いから痕は残らないよ」
サチは絆創膏の上からいとおしそうに腕をなでる。そして、痛いの痛いの飛んでいけ、と呟いた。
「あ、ご飯ある?」
「いつもパン」
「炊飯器もないか。電子レンジで作ろう。じゃあ買い出しに行こう」
「着替えるから、ちょっと待って」
サチは複雑な表情を見せた。
「可愛いけど、スーパーにそれは気合い入りすぎ……」
サチはキミの髪飾りを元の場所にしまい、ほどけたキミの髪を自分のゴムバンドで留め直した。
「これなら力が抜けた感じ」
キミは黒い服を。サチはラフな服を。二人が並ぶとキミだけが別の世界からやってきた住人のようだ。
二人はそれを気にする必要はないと考えている。自分の生き方を他人からどうのこうのされるのはイヤ。他人を見て、どのように変化させたいか選びたい。
けれど、キミはサチからの行為だけは受け止めることが出来た。
「暑いね」
「うん」
「キミの手、冷たくて気持ちいい」
メガネの奥でサチの目が笑っている。
「楽しい」
「そりゃあ良かった。お米は少なくていいからフンパツしてササニシキにしよう」
一キロの袋をカゴに入れる。
さらさらと乾いた音がする。キミにはそれがささやきに聞こえた。内容はわからなかった。
「お、安売り」
サチは赤色の詰まった瓶をカゴに入れた。
「お酒飲める?」
「わからない」
「じゃあ試してみよう」
キミはうなずいた。サチがいれば不安はなかった。
その安売りのワインは時期が過ぎただけで、元々十分に高価なもの。普段ならばまず買うことはない。
キミはそのワインに目がいくたび、腕の傷がうずくのを感じた。実際にはうずくようなことは起こっていないと知っているのに、その感覚は拭えなかった。
「痛む?」
「大丈夫」
「袋は私が持つから」
耐熱容器に水と米を入れてしばらく温めたりむらしたり。サチは料理をよく知っている。
既に外は真っ暗になっていたが、今日のキミは何も不安を感じなかった。
野菜の具を浮かせ沈ませしながら、サチはカレーを煮込んでいく。香辛料の香りが食欲を促進する。
テーブルに配膳されたサラダが彩りを増やす。
いつもはパンとサラダしか食べていない晩の食事、サチが用意したカレーによりいつもとはまったく異なる様子になった。
「おいしそう」
「残り物なんだけどね。口にあえばいいけど」
照れるサチを見るのは初めてではなかった。けれど新鮮。
「キミはいつも晩の食事はロウソクの灯りで?」
「うん、おかしいかな」
「いや、雰囲気出るね」
キミは部屋を見回して、いつもと変わらないことを確認した。
「そうかな」
「そうだよ。さ、食べよう」
サチは余っていたクッションを自分の席として確保。
「家電、あまり無いよね」
「テレビもラジオも煩いだけだもの。蛍光灯は……目が痛くなるから」
「痛くなる?」
「ならないの、サチは?」
「うん」
キミの表情に翳がつきまとう。それはロウソクのせいだけではない。自分と他人が違うという認識。その違いが一つ明確になるたび、キミは翳りを背負う。
「冷めないうちに食べちゃお」
キミはうなづく。
カレーとサラダを食べる間、口の中が大火事のように感じられる。サラダで鎮火を。けれど、カレーを残したくない。
じきに火事にも慣れた。すると、違う風味が感じられるようになる。
「おいしい?」
「うん」
「辛いでしょ?」
「うん」
サチはキミの空になったコップに水を注ぐ。キミは一気にコップを空にした。
「ありがとう」
「そんなに辛いかな?」
「あまり食べたことないから」
「そっか。じゃあ貴重な経験だ」
サチは微笑んだ。キミもつられて笑う。
「キミ、ちゃんと笑えるじゃない」
「え……」
キミはどんな顔になっているか知りたくて手鏡を探したが、なかなか見つからない。
「キミ、いつか自然に笑えるようになるよ。だから焦らなくていい」
キミの借りている部屋はそんなに大きくないが、家具が少ないお陰で二人寝ることは可能だった。
「月が綺麗だ。ほら、見てごらん」
サチの指差す先には半分に欠けた月が浮かぶ。
「つまみも用意しておけば良かったな」
「ワインだけで十分」
「キミは趣きがわかっているね。月が綺麗ならそれで酒も旨くなる」
月明かりが部屋を白くする。キミは自分の部屋もまた、染まらない幻想を満たしているのに白くなったことを知る。
「キミ、どうしたの?」
キミの口元が緩む。けれどすぐに緊張して口元が歪む。
サチは、なんて冷たい微笑みだろう、と思った。キミはいつも冷たい世界に生きている。
「どうかした?」
「いや、なんでもない。キミはあまり飲んでないな。ぐぐっといこう」
白と黒が半分ずつの月は、星一つ見えない暗い夜空にキミと同じように浮かんでいる。
ロウソクに照らされた部屋。寝るために、マットとシーツを敷く。黒い部屋に白は目立つ。
本棚には年頃なら置いてありそうなファッション誌はなく、海外文学らしき本がずらりと並ぶ。
「マザー……グース……?」
「読む?」
「いいよ、読めない気がする」
暗いけれど、キミは赤色の幻は見なかった。サチと一緒にいれば、赤い幻は見ないで済むらしい。ベランダに現れる狼も、部屋の中を飛び交う蝶も、窓から覗きこんでくる赤い瞳だけの何かも。何もかもが今日は出てこない。
キミはうっすらと思考が遅くなるのを感じた。緩やかな眠りを味わうのは本当に久しぶり。サチはまだ寝つけない様子だったが、一足先に眠らせてもらう。
サチはキミが眠ったことをうっすらと感じた。
「キミはなんて可愛い円環を生きているんだろう」
キミがなぜほとんどの生活を一人で過ごすのか。それは、彼女が認識出来るほどの高い潜在能力を持つ人がいないから。ポテンシャルが高いならば、キミはその相手を知覚できる。
一応、物体は見えるらしいから、服で誰がいるのか予想はしているらしい。けれど、日常生活の大半はそのようにフィルタを掛けて生活している。サチはメガネを外した。世界がぼんやりする。メガネはあわないピントを合う位置まで矯正する。そこにフィルタはない。人を感じるのは、たぶん、脳なのだろう。
キミが怖いと感じているのは、自分も見えなくなる存在となり消えること。全ての人々が見えるようになるのか、それともまったく見えなくなるのか、サチはもうしばらくキミと共に生きてみて、結果を知りたいと感じている。
そうすることが幸せなのかそうでないのかは、思い出話になってから決めればいい。
キミはゆっくりと寝息を立てる。
サチは一言呟いて丸くなった。
「キミにサチあれ」