作者・逢坂総司
交易都市レセフェールから徒歩にして北へ三日ほどのあたり。栗色の毛を短く刈り込んだ男と、この男の頭一つ分背の高い男とが、魔法学院都市ベルムから南下して、レセフェールを目指していた。二人にとって、レセフェールは冒険の出発地点であり、当分の間はそこに住むことにしている。
二人の財布は、ベルムでこなした仕事の報酬で詰まっており、レセフェールでの宿代を滞納しないで済みそうだった。
大柄の方がグレッグ・ゴルド・ホワイトホーク、小柄の方がビルクリム・バリーといった。
ビルクリムがレセフェールに軽い望郷の念にかられていると、グレッグが話を切りだした。
「最近、レセフェールは雨が多いそうです。宿に帰ったとき晴れていれば、換気した方がよいでしょうね」
ちゃんと換気をしなければ、部屋に湿気がこもりカビが生える。グレッグは換気の大切さをビルクリムに語った。
「グレッグ、そうは言うが宿の主人だって部屋の換気ぐらいはしていてくれるんじゃないのか?」
「ビルクリム殿、必ずしもそうとは言い切れないのです。まず、貴方が宿の主人に換気をお願いしているか、という点が実に重要です」
グレッグは少し理屈っぽくカビの生態について語った。
二人はレセフェールから商人に頼まれて、積み荷の護衛を頼まれたのだ。しかし、滞在期間があまりに長いため、片道のみの仕事となった。タイミングが悪く、ベルムからレセフェールへ向かう護衛の仕事はなかった。
護衛の仕事は、儲かった。
確かに街道は整備されていたし、王宮から騎士や正規兵が巡回するなどしている。しかし保安は万全ではない。だから時々山賊が出没したり、盗賊が現れたりした。人間以外のものも旅人を襲ったりした。護身術を身につけていればまだよいが、そうでない人の方が世の中は圧倒的に多い。
「冒険者は食いはぐれない」という格言がある。彼らは仕事があれば何でもするし、仕事に失敗したら土の下に入ることになるので、空腹を味わうことが無いというのだ。
生きているうちは、携帯食を忘れなければ空腹を味わうことはない。
「……確かに頼んだ覚えがない。ということは、かび臭いのは覚悟しないといけないか」
ビルクリムはため息をついた。
空を見上げれば青々として清々しい快晴であり、白い雲がその空をぷかぷかと浮かんでいる。森を抜けてから周りは草原だったので、寝ころんでしまいたい気分である。そうすれば、とても気持ちがよいに違いない。
「ビルクリム殿は気がつかれたかな?」
「何がだい?」
グレッグは空を指さす。その方向にはレセフェールがあった。
黒々とした雲が。厚く垂れ込めてレセフェールの空を覆っている。なだらかな下りが続く道だからこそ、普段よりも遠い場所である、レセフェールの壁が見えた。
黒々とした雲は不自然に滞空し、不吉な印象を与えた。
「街に帰ったら、あれの原因究明するのも悪くないな」
ビルクリムは雲を指さした。しかし、グレッグの視点は別のところにあった。
「人が倒れているようですね。行き倒れならば助けなければ」
グレッグは旅人は助け合わなければならないと思っているらしい。旅を始めてすぐの時に、他の旅人に助けられてそう痛感したのだとビルクリムは聞いた。
グレッグは旅人を抱き起こすと、丁寧に素早く容体を確認した。やや痩せているが、服装などから木こりが空腹で倒れているだけに思えた。
「空腹でしょう。ビルクリム殿は非常用の携帯食料をほぐしておいて下さい」
グレッグは男を介抱すると、ビルクリムと三人で日陰で休息する。
ここで少し休憩をとっても、目的地である村にはたどり着ける算段だった。いざとなれば行き倒れの男を二人で背負いながら歩いても良い。
うなされているのだろうか、男は時々意味の分からない言葉と、うめき声を漏らすようになった。二人は食料を昼ごはんにしながら、容体を見守ることにする。
ただの行き倒れとは思えない。ビルクリムも薄々感じ始めていた。身なりは食うに困るほどひどいものでも無いし、そもそも旅をする格好では無かった。少し近所に出掛けて行って、その日必要な木切れを拾い集めに行くような風体。
引っ掛かりを感じていた。
「グレッグ、疑問があるんだが……」
「多分、私も同じ疑問を感じていると思いますよ」
二人は行き倒れた男に目を向けた。男はうなされている。
「この男はどこから来たんだろう?」
少なくとも、地図上には半日歩かなければ村は無い。それとも、狩人や木こりが逗留する小屋でもあるのだろうか。
「疑問ではありますが、この男性が目を覚ませば尋ねることができるはずです。その疑問を今すぐに解明する必要は無いでしょう」
グレッグはそうまとめることにした。ビルクリムも納得する。
あとは、取り留めも無い話をしながら、青い空と白い雲を眺めた。
それでも、ずっとこのままよりは男を背負ってでも次の村に行くかを考えた方が良いかもしれない。
「今度の冒険は、セシリーに聞かせてもあまり良い顔をしないかもしれないな」
ビルクリムは行きつけの食堂、ライザー食堂の看板娘を思い浮かべた。彼女は毎日食堂で働く傍ら、冒険者たちの冒険譚を聞くのを楽しみにしている。
「そうですね。セシリー殿に土産話は無さそうです」
グレッグは少しだけ寂しそうな顔をした。彼がセシリーに恋をしているのは、ビルクリムと二人だけの秘密である。ただし、態度に出ているらしく食堂の常連には知れ渡っていたが。
傍らから断続的に聞こえていたうめき声に、意味のありそうな言葉が交じりはじめた。
「ここは……」
男が意味ある言葉を紡ぎ始めたとき、ビルクリムとグレッグは特に事件や事故は連想していなかった。だが、男の言葉を聞き逃すつもりは無い。
「あ、あんたたちは何者なんだ?」
男は混乱しているのか、目を白黒させながら後ずさる。
こういうときに言葉をうまく使えるのはグレッグだから、男をなだめて事情を聞き出すのも彼の役目だった。
話をするうちに男は落ち着きを取り戻し、まず二人に礼を述べた。
「あんたたちは、旅人か何かか?」
「一応、冒険者を名乗るものですが」
グレッグが答える。会話の流れから、男が何か事件に巻き込まれているのは明白だった。彼としてはこのままほうり出すのは心情的に許容できないし、何より男を助けることでセシリーへの土産話ができると思った。
「冒険者! 是非とも助けてもらいたいんだ。俺の村が怪物に襲われるようになっちまった。とにかく急いで来てくれ」
男は有無を言わさぬ勢いで、助けてほしいことを述べ続けた。
「わかったわかった、とにかくその村へ案内してくれ」
ビルクリムが大きな声で男を遮った。こうでもしないと止まらなかっただろう。そして、なし崩しに依頼を受けることになった。
男はコリンズ・ストンブリッジと名乗った。
「ストンブリッジさん、その怪物とはどんな奴ですか?」
ビルクリムも相手が依頼人となれば、ささやかだか言葉遣いを改めた。
「とにかく大きな奴で、こん棒とかを振りかざしてた。奴らは夜中に襲いにくるんだ」
それ以外のことは夜中だったことと、月のない晩だったということからわからなかったという。
村人は一致団結して怪物を撃退したというが、次の日には複数の怪物が現れて形勢が逆転してしまったらしい。
結局、コリンズは途中で他の村や王国に助けを求めることにしたと言ったが、道を間違えて行き倒れたらしい。
「でも、冒険者のあんたたちがいれば、怪物も倒せるだろう」
情報が不足している状態では、どんな怪物かも判断が付かなかった。判断が付かないままに戦うのは危険だったが、このまま置いておく訳にも行かない。人の命がかかった危険を後回しにはできない。
コリンズは森の方に二人を案内した。そこから先が村の境界線だという。二人には見えなかったが、片隅に看板が立て掛けられているという。
「夜中までゆっくりしていってくれ。それから、怪物はいつも北の方から来るから、特に北側に行ってもらいたいんだ。俺は村長に報酬金を用意してもらうように頼んでくるから」
コリンズは、一方的にまくし立てて、平屋の小さな一軒家に二人を案内した。一応、ソファが置かれている応接間らしきところに二人を案内し、お茶のポットとマグカップを用意して、村長のところへ向かってしまった。
「手際が良いな。いつもこんな感じなのかな?」
ビルクリムは首を傾げつつ、喉の渇きを潤すべくポットに手を伸ばした。
「確かに手際が良かったですね。しかし、逆にストンブリッジ氏のいう怪物がいなくて、私たちを何かの罠にはめたとして、どのような利点があるのでしょうか?」
謎は多く感じられるが、それを解く手掛かりは無い。
とりあえず、手当たり次第見渡しては、応接間から出ないようにしつつあらゆるものを物色した。
しばらく探した結果、日記を発見した。日付は二十年も昔のところで止まっていた。古いもののはずなのに、あまり綻びが無いところが違和感を感じさせた。それ以外、目に付く違和感のあるものを捜し出すことはできなかった。
怪物が襲ってくるというコリンズの話を信じるならば、少ない情報からでも怪物の正体を看破しておく必要があった。もしも、弱点を見誤れば、地に伏すのは怪物ではなく自分たちかもしれないのだ。
「分かっていることは、人間よりも大きい怪物であること。こん棒を振りかぶれる怪物であること」
「だいたい、トロールかオーガーが該当しますな」
グレッグはそれぞれの怪物を思い出したが、どちらも手ごわい怪物だ。集団で来られるとかなり厄介な相手となる。
「どちらも戦いたくない相手だが、逆に戦い甲斐があるってもんだ。コボルトみたいな弱腰の奴らを懲らしめるよりはずっと戦いやすい」
ビルクリムは鼻息荒く意気込みを語った。
「夜中にしか攻めて来ないのならば、仮眠を取っておいた方が良いのかも知れませんね」
ソファーで寝られる。野宿することを考えれば、十分すぎるほどの寝台だ。一応、コリンズが戻ってきて、依頼と報酬に関する話し合いが終われば、仮眠をすることにする。
二人が話をしているうちにコリンズが戻ってきた。
「とりあえず、金貨にして十枚用意したから、とりあえずこれで手を打ってもらえないか、と村長から金を預かってきた」
金貨一枚で、銀貨百枚分、もしくは銅貨一万枚分の価値がある。四人程度の家族が銀貨十枚もあれば一日生活できることを考えると、二人にはそこそこの報酬と言えた。
「わかった、困っている人をされるがままにしておく訳にもいかないからな」
ビルクリムが依頼を引き受けることを宣言した。グレッグは彼に同意した。
「それでは、神に誓いを立てます。ストンブリッジ殿は、依頼人代理として、仕事成功時には正当な報酬を払うことを誓っていただきます」
ビルクリムとグレッグは仕事を完遂し、依頼人の安全を神に誓う。また、二人の仕事の安全を願う。コリンズは二人が仕事を完遂したとき、正当な報酬を支払うことを神に誓った。
「村の簡単な見取り図はありますか? それから戦うだけの力と勇気をもつ者はいますか?」
コリンズは見取り図を用意するとは言ったが、後者の方に関しては首を横に振った。
「腕自慢たちが徒党を組んで奴らを駆り出そうとしたんだが、結局帰って来なかった。だから、この村に腕自慢も勇気がある奴も残っていないよ。もしかしたら怪物を退治できてもこの村を捨てなければならないかもな」
コリンズは声を低くして、村の現状を二人に伝えた。
「今いるのは腕力の無い女子供ばかり。あとは老人たちだな。隣村まで移動することはできるが、村から離れたがらないものが多いのが現状だ。だから、冒険者を雇うことになったんだけどな」
見取り図を用意してもらい、コリンズが用意した食事を食べながら、ビルクリムとグレッグは戦い方を検討し始めた。
「いきなり接近戦をしなくても、罠を仕掛けて相手が油断したときに弓を射かければ、随分と楽に追い散らせるだろう」
「でも、必ず罠にかかるとは限らないし、罠を過信はできないだろうな。相手が特定できれば良いが」
「地形が分かっていれば、随分と戦いやすいはずですが、森に入れば足元が不安定になるのは分かりきっていることですし……」
「どうすれば有利に戦えるか、知恵を絞らないとな」
二人は簡素な食事を終えて、真剣に見取り図を見た。あまり詳しいものではないが、概要は理解できた。
「森の中で戦うのも悪くないが、西に行けば少し開けた場所がありますね。そこまで誘導して罠にかけるのはどうでしょう」
「村から離れた場所なら、少しぐらい無茶しても大丈夫か」
「そういうことです」
グレッグは具体的な罠は検討していなかったが、カカシとかを立てておくだけでも視覚的な混乱を生むことができると思った。
「ビルクリム殿は弓が使えますか?」
「いや、無理だ。待ち伏せはグレッグに任せるしか無さそうだな。俺は囮になって怪物たちを誘導するよ」
ビルクリムはなにげなく言い放つが、それは大変危険なことだ。もしも、グレッグの弓が届かないところや、視界の届かないところで怪物と遭遇すれば、運が悪ければ袋叩きにあってしまう。それは死を意味する。
「しかし……」
「騎士が必ず前に立って戦わなければならない、って訳でもないだろ? 俺は直接殴り合うしか能がないから、これでちょうど良いのさ」
ビルクリムはさらりと言ってのけた。
「あとは、怪物を撃つための目印があれば良い訳だ。グレッグは夜目が利くかい?」
暗闇でも目が見えるなら、怪物を的確にいることができるはずだ。
「いいえ、あまり。月が出ていれば見えるかもしれないですが、森の中にいる怪物を撃つのはできるとは言えません」
「それじゃあ、松明でも持つかな。それを目印にすれば、なんとかなるだろう」
ビルクリムは松明を持って戦うつもりらしい。さすがにそれは無茶だと分かっているはずだ。
「別に持たなくても、木の枝から明かりをぶら下げておけば十分でしょう。それに、森の中で戦うのはいかにビルクリム殿が強くても危険すぎるというものです」
結局、ビルクリムが囮を引き受け、彼が怪物どもを空き地に誘導する間、弓で援護することになった。その後は、状況を見てグレッグも剣を振ることにする。また、弓は木の上から撃つことになった。足場は悪いが、視界が広がることと、後ろからビルクリムを攻撃しないように、ということなどを考慮した結果だった。
まだ、日は高く、下見には十分な明るさだった。とにかく、ビルクリムの目印となるように火を付けられるような空き地もあるし、グレッグの視界を確保するための松明を吊るせそうな枝もいくらでも見つかった。
「これなら、いくらでもどうにかできそうだ」
二人は仮眠を取る前にコリンズに松明の準備などを頼み、早々に仮眠を取り始めた。
夕暮れになり、コリンズが気を利かせて作っていた早めの夕飯を胃袋に流し込むと、二人は手際よく戦う準備を始めた。
弓の張り具合や、矢の強度確認。武具の手入れは行き届いているほうだ。そして、松明に火を灯す準備を始める。
空き地にたき火をして、夜に備える。この火を目標にビルクリムは走って来ることになった。もちろん、怪物を振り切っては行けない。それでは意味がない。
「どうにかできるかもしれませんが、死んでは意味がありませんし、殺される人を増やしても意味がありません。着実に、確実に……」
「ああ、わかっているよ。グレッグこそ、弓を射ることに夢中になって木から落ちるなよ。それこそ、危険なんだから」
二人は笑い合った。とにかく、これから死を賭けることになるのだ。まだ見ない怪物には悪いが、二人は死ぬ訳にはいかない。
「もうそろそろ松明を貰って行くよ。怪物は夕暮れぐらいから活動を始めるらしいからな」
仮眠を取り思考力が充実したグレッグには、怪物が何かということを考える余裕が出てきた。こん棒を振り回して襲って来る人間より大きい怪物、というと食人鬼とも呼ばれるオーガーが一般的だ。しかし、トロールの長い腕をこん棒と見間違えた可能性だってある。もしも、トロールならば強力な再生力がある。下手な攻撃ではすぐに傷が癒えてしまうのだ。そうならば、ビルクリム一人では危険かも知れなかった。
「ビルクリム殿、もしも相手がトロールなら、一人で戦おうとしてはいけません。必ずここまで戻ってきてください」
ビルクリムは片手を挙げて返事をした。必ず戻る、と。
トロールもオーガーも、共に巨人族の末裔と言われている。しかし、巨人族がもつ英知を受け継がなかった点で、巨人族とは分類されないこともある。が身長が人間の倍に達することもあり、見た目として巨人族と考えるのが一般的だ。
グレッグはいつでも木の上に登れるようにしながら、たき火に木を絶やさないようにする。とにかく、ビルクリムを信じるしか無い。
ビルクリムはグレッグの言葉の意味を考えながら、オーガーとトロールの違いを考えた。しかし、共に大きい怪物である点以外、思い浮かばなかった。見た目の違いも分からない。勉強不足であった。
(とにかく、怪物に出会ったらグレッグの待つ空き地まで、誘導して行けば良いんだ)
相手が何者であっても、最終的には倒すことに変わりは無いのだし、強い方がやり甲斐があるのは変わりがない。
しかし、また神殿で他の神官戦士たちと模擬戦に明け暮れたとき、集団を相手にするのがどれほど困難かも知っている。
森をしばらく進んでいると、かすかだか遠くの方からうなり声が聞こえた。
周囲を見渡し、どこからうなり声が聞こえたかを探るがいまいちよく分からない。
木々の透き間から、淡く白い月の光がかすかに地面を照らす。
ビルクリムは松明に火を灯した。もしも人間相手なら、弓矢を射かけられてしまうところだが幸い相手は怪物。飛び道具を持っていないことは、一般的な知識と、村人の話から推察していた。
(怪物は何匹だ……?)
ブン、と空気を裂く音。
松明を持つビルクリムの足元をかすめて、頭ほどの大きさを持つ岩が飛んできた。
「おい、これはまずいぞ」
思わず声が出てしまうほどに、ビルクリムは狼狽した。相手が何匹だなどと数える余裕は無さそうだ。
怪物は松明の明かりを頼りに、勝手に付いて来るだろうが、ビルクリムはその間投石から身を守らなければならなかった。
来た道がどちらかなど、すぐに分からなくなった。何度目かの投石で、ビルクリムの足元を削り取られ地面に倒れたのは一度や二度ではない。
腰元にぶら下げたメイスが置き去りにされることも無く、松明の明かりが消えることも無く、森の向こうに明かりが見えたのを確認した。グレッグの待つ空き地だ。
ヒュン
鋭い。そして力強い。空気は裂かれ、ビルクリムの遥か後方から悲鳴が聞こえた。
「グレッグ、ちょっとこいつらは手ごわいぞ」
ビルクリムはそう声をかけたかと思うと、松明を投げ捨てメイスを手に握り締めた。
「グレッグ、援護を頼む」
「いや、待ってください。相手はどうもトロールのようです。とにかく再生能力が高く、腕力は恐ろしいものですから、気を付けて戦ってください」
そう言いながらグレッグは立て続けにトロールに矢を射る。しかし、弓がいかに強弓でも、トロールの再生能力ではすぐに傷が塞がるほどに強力だから、イタチごっこが続いてしまう。
たき火の光に照らされたトロールは、ビルクリムの身長をはるかに越えて、悠然と見下ろしている。そんな怪物が三体いる。
「大量だな、グレッグ」
「余裕ですね……」
グレッグは一瞬呆れた声を出したが、腕は全くにぶる事なくトロールの眉間を射る。
頭蓋骨は意外に堅く、矢が突き通らない。
「結構やばいかもしれないなぁ」
三本のこん棒に追い立てられながら、ビルクリムは時々トロールを連れて移動をする。
ヒュンと空気が裂かれた。
次々と矢はトロールを射る。ビルクリムにその剛腕を振り下ろそうとしたときに、決まって弓は放たれた。そして、ビルクリムがメイスの狙いすました一撃を放つ。
ビルクリムの手には、トロールの骨が砕ける感触が伝わってくるのだが、必ずと言っていいほどに、トロールの骨は元に戻って行くのだ。もしも、トロールが一体だけなら、グレッグの大きな剣とビルクリムのメイスとで翻弄することもできると思えた。
「この野郎」
ビルクリムが立て続けにトロールの攻撃をかわす。さすがに囮とは危険なものである。
獲物を駆り立てようとするトロールは三体である。完全に連携している訳ではない。獲物を取り合おうとしているから、協調性は無いようだった。だからといってまったく協力していないとも言えないのが厄介だ。
足元が抉られ、掠ったあとがビルクリムの鎧に、そして露出していた肌に徐々に刻まれていく。出血がほとんどないのが幸いだが、どちらが先に力尽きるかは誰の目にも明白だった。
「ビルクリム殿、少し下がって!」
グレッグの声が飛んだ。
ビルクリムはグレッグの声に従い、焚き火の辺りまで下がった。
グレッグの矢が、正確にトロールの目を狙い始める。いくつかは外れたが、一本、二本、と当たり始めると、トロールが雄叫びを上げてビルクリムに体当たりをしようとする。
「避けて!」
グレッグが叫ぶ。慌ててビルクリムが横に避けると、勢い余ったトロールはグレッグの上っている木にぶつかった。木が折れそうなほどの勢いで、葉がたくさん散った。
「大丈夫か?」
ビルクリムが叫ぶが、グレッグの声は無い。
(落ちたか……)
バランスを崩して落ちたのなら、ケガをしているだろう。運が悪ければ骨を折っているかもしれない。
「怪物どもめ、こっちだ。俺を食えるものなら食ってみろ!」
威勢だけは誰にも負けない。それを裏付けるだけの鍛練を幼いころから重ねてきた。
トロールたちはビルクリムに向き直り、思い思いの攻撃を行ってくる。
ビルクリムは楯で受け止め、メイスで払い、時々トロールの腕や足を叩き砕く。しかし、みるみる回復していく。
「埒が明かない」
一人で戦っては行けない、とグレッグが言っていたのはこういうことであった。回復するのだ、トロールは。それも並大抵のことではない。尋常ならざる回復力をもって、この怪物は無謀な攻撃を平気で行う。
広い空間であるほど、体の大きなトロールは有利である。そして、木々が遮らないこの空間では、トロールがビルクリムを囲むだけの広さがある。まだ囲む知恵が出ていないようだが、いつ偶然に囲まれてもおかしくないほど、トロールは積極的に襲いかかってくる。
「ビルクリム殿、大丈夫ですか?」
グレッグの叫び声が響き渡った。
「大丈夫だ」
まだ、十分声が出る。まだ余力が残っていることをビルクリムは確認した。
グレッグの声を聞き、トロールの一体が木の方に向かう。そのグレッグの手には彼の身長に匹敵するほどの大きな剣が握られている。
トロールの頭目がけて剣を振り下ろす。赤黒い液体が飛び散り、トロールは倒れた。だが生き絶えてはいない。まだ生きている。回復しようとしているのだ。
グレッグは弓では歯が立たないと感じ、愛用の剣に持ち替えた訳だがそのまま下りるのは難しかった。そこで、思い切ってトロールに止めを指すべく飛び降りることにした。
トロールの上に飛び降りた。肋骨が折れる音が響く。仲間のトロールが慌てて救援に向かおうとするが、ビルクリムがそのトロールに強打を浴びせて身動きが取れないようにする。
グレッグは着地の衝撃で足が痛んだが、剣を上段に振りかざすとトロールの頭部に振り下ろした。
頭が割れ、中身が飛び出した。それでもトロールの体は動き続けている。
もう一度振りかざし、今度は首を撥ねた。だが、まだ体はピクピクと動き続けている。
「なんて生命力なんだ、これではいつまで経っても死なない訳だ」
グレッグが愕然としながら、止めを指しあぐねていると、突然腹部に衝撃が襲いかかった。
「グレッグ!」
トロールがグレッグを殴りつけたのだ。ビルクリムが叫ぶが、グレッグは返事が出来ない。目眩がする。呼吸が出来ない。しかし、剣はある。
グレッグは敵を見た。トロールだ。片目はグレッグの放った矢が埋まっている。視界はかなり悪いだろう。しかし、グレッグが動けなければ、確実な観察などしてもあまり意味がない。
とにかく起き上がり、トロールが光を失っている側へ弧を描き距離を保ちながら移動する。剣を正面に構えられるだけの力は回復していない。時間を稼ぐ必要があった。
「グレッグ!」
再び、ビルクリムの声が上がる。
「大丈夫! 目が覚めましたよ!」
止めを指しそびれたトロールの体がみるみる活発になって行く。頭部を失っているだけに、そう簡単に回復しないと思えるし、そのまま朽ち果てると思っていたが、復活する恐怖があった。
「よし、さっさと片付けて暖かいベッドで眠ろうぜ!」
「そうしましょうか」
そう言いながら、グレッグは勝ちを得られる気がしなかった。トロールはどれだけの傷を与えても、みるみる回復した。グレッグの大剣でも、四肢を切断したが効果はない、という結果を作っていた。五体バラバラにすれば、そして燃やしてしまえば少なくとも効果があると思えた。
グレッグが力任せにトロールの体に剣を叩きつけた。剣はトロールの体半分をくの字に折り曲げさせたが、すでになまくら剣になっている。もう切断することは出来ない。
「もう一撃!」
今度は反対側から強打する。トロールは両腕を叩き折られ、肋骨の半分を折られた。複雑骨折したらしく、白いものが皮膚を突き破っている。
だが、それもすぐに回復するのだろう。
空に変化があったのは、ビルクリムがトロールを絶命させたときだ。断末魔の声が響き、全身を叩き折られ、臓器の全てを叩き潰された哀れな末路だったが、ビルクリムは次のトロールに戦いを挑もうとしていた。
「星が……」
ビルクリムが呟いた。
星が夜のときに終わりを告げ、朝に出番を譲ろうと星のカーテンを仕舞い始めた。
「朝だ……」
東が白み始めた。
トロールもグレッグも気づいていないが、朝になろうとしているのだ。
グレッグが首を撥ねたトロールも、どうやって生やしたのか新しい顔でビルクリムを睨む。ビルクリムは睨み返した。このトロールがビルクリムに襲いかかるころには、朝日の光で体を石に変えて仕舞うのだ。それまでに、ビルクリムはメイスで何度かトロールを殴りつけた。
朝の光が二人を包み込んだ。
体には細かい傷がたくさん出来ていた。トロールは動きがにぶいため、ほとんどの攻撃を避けることが出来たが、グレッグの脇腹にはアザが出来ていた。骨に異常は無いが、しばらくは治りそうも無い。
「グレッグ、トロール共は石になったけど、知ってたのか?」
「簡単な知識としてはね。しかし、こうも簡単に石に変わるとは思いもよらなかったですね」
疲れきって、そのまま寝てしまいたかったが、村に戻れば暖かいベッドが待っているのだ。帰らない訳には行かなかった。
村に戻ると、とても静かだった。
人気は無い。
「まるで、廃村に来たみたいだ」
ビルクリムの感想は、グレッグには的を射ているように思えた。
幾つかの家は風化し崩れていた。畑は荒れていたし、家畜の一切が姿を消していた。
「引っ越したかな?」
「仕事を依頼しておいてそれは無いでしょう」
ビルクリムは逗留場所として借りた小屋に向かう。
中に入ると全てのものに白い埃が降り積もり、もう何年も人が入っていなかったのだと分かる。
ベッドのシーツは虫に食われ放題で、寝られるものとは言えなかった。
日記が、二人の帰りを待つかのように、戦う前の位置と同じところに鎮座していた。
その横には、報酬を入れた革袋が横たわっている。
日記のほとんどが虫に食われていた。最後のページをめくったとき、こう綴られていた。
『その日はいつも通りの日だった。一体、何が起こったのか、俺には分からなかった。
朝から狩人達の姿が見えなかったし、畑仕事に出た男達や女達は昼を過ぎても村に帰ってこなかった。
家を飛び出して、一番最初に見たのは燃えた家々で、そのすぐ横には巨大な怪物が俺の妻を殺していた。
俺には戦う力がなかった。
俺は逃げた。冒険者を雇って、怪物を殺さなければ……
それでも、俺の妻は帰ってこない……』
* *
二十年も前に、怪物に襲われた村があることを知ったのは、ライザー食堂に着いてからだった。
「ストンブリッジさんの魂は、ちゃんと神の元に逝けたのだろうか」
「大丈夫。ビルクリム殿がしっかりと葬儀をしてあげたではないですか」
遺体のない葬儀。何もないところに、死体に見せかけた枝を置いて、二人は一晩中火を絶やさなかった。煙りは空に吸い込まれていく。その煙をたどって、天に魂は昇っていくのだという。
涙は出なかった。
――幕――