星に願いを…
作者・南雲
レセフェールの街を出て西に行くと、『丘の湖』がある。
その湖は呼び名の通り丘の上にある湖で、アリエルは子供の頃から丘の湖と呼んでいた。多分きちんとした呼び名があるのだろうが、街の者は皆、その湖の事を丘の湖と呼んでいる。
街の中を西門に向かって歩きながら、アリエルは溜め息を吐いた。顎のラインで切り揃えた黒髪が揺れる。
──何だってこんな事をしているのだろう、私は。
セシリーの手で念入りに梳かされた髪は、今日ばかりは綺麗に整っている。更には化粧までさせられてしまい、まるで年頃の女のようだ──
──いや、年頃の女なのだ、私は。
アリエルは頭を振って否定した。
スカートなどはいたのは何ヶ月振りだろう──思い出そうとして、アリエルはそんな記憶がない事に思い至った。
もう一度溜め息を吐いて、アリエルは鬱々とライザーの反応を思い出した。
いつもは店に降りたアリエルに対してぶっきらぼうと評しても差し障りのない挨拶しかしないライザーが、眉を片方上げて「ほう」と呟いたのだ。「ほう」と。
三度溜め息を吐いたアリエルを、さすがにセシリーが咎めた。
「どうしたのよ、アリエル。憂鬱そうな顔して」
「憂鬱そうな顔じゃなくて、憂鬱な顔なのよ、これは」
「変なアリエル」
セシリーはバスケットを手に、鼻歌混じりに歩く。麦わら帽子まで持ち出して、すっかりピクニック気分だ。
「……あなたは楽しそうね」
「そりゃあもう」
セシリーは目を細めて笑った。少しばかり緩んだ顔立ちの彼女がそんな表情をすると、『可憐な』という言葉がよく似合う。
「だって、夜に丘の湖に行くのって久しぶりなんですもの。アリエルは行った事ある?」
「いいや、初めて」
「ほんと? それはいいわ。楽しまなきゃ。あ、こんにちわー」
西門の前で、セシリーは目的の人物を見付けて手を振った。
金髪碧眼の男と、栗毛を短く刈り込んだ筋肉質の男。二人とも釣り竿を手にしている。
彼等もアリエル等を見付けて、手を振り返した。
「やあ、セシリー、アリエル」
金髪碧眼の男──グレッグが軽く手を挙げて挨拶する。
もう一人の男、ビルクリムは挨拶するよりも早く、顎に手を当てた。
「ほう」
「……その『ほう』って言うのはやめて」
アリエルはもう何度目だか忘れてしまった溜め息を吐いた。
「いや、いつもはほら、男みたいな格好してるからさ。ちょっと新鮮だね。似合ってる、可愛いよ」
「……そりゃ、どうも……」
アリエルはグレッグと談笑しているセシリーから麦わら帽子を奪い取り、目深にかぶった。
そもそもこのメンバーで遊びに行く約束をしてしまったのは、アリエル自身なのだ。ビルクリムに頼み事をした際に彼から提案されてしまい、断る訳にもいかず、こうして遊びに行く事になってしまった。
ゆっくりと丘を登っている間に、空はすっかり茜色に染まった。そして丘の湖に着き、一件だけある貸しボート屋から小さなボートを一艘借り出した頃には、もう空には小さな星くずがまかれ始めていた。
夜の湖は静かだ。湖面に映し出された星空の上をボートが進む。まるで夜空を飛ぶ舟ね、とセシリーは呟いた。
グレッグが微笑する。
「それはまた、随分と詩的な表現だな」
「そう? あたしはお伽噺とかが好きだから。子供っぽいでしょう」
「そんな事はない。私だって、祖母から色々な話を聞いて育ったんだ。多くの話を聞いて育った者は多くの考えを知っている。そして、良い親は多くの話を知っているものだ」
そう言い、グレッグは困ったように頬を撫でた。きっと説教臭くなってしまった事を悔いているのだろう、とアリエルは見当をつけた。彼がセシリーに好意を寄せている事は、普段の彼を見ていればすぐに判る。
「そう言えば、この湖にもお伽噺があるらしいじゃないか」舟を漕ぎながら、ビルクリムが言う。「俺はその話を知らないんだ。聞かせてくれよ」
「そういうのはアリエルが得意よ。ね?」
セシリーが無理矢理に話を振ってくる。
「……丘の湖には、主が住んでいる」
アリエルの言葉に、ビルクリムは頷く。
「うん、それは知ってるよ。まだ誰も釣り上げたことがないんだろう? 今日は俺がそいつを釣り上げてみせるぜ」
「まあ、それは頼もしい」
無邪気に喜ぶセシリーに、アリエルは苦笑した。
「釣り上げて持ち帰れる大きさじゃないと思うよ。何しろ、国の保護指定を受けてるのに、この湖での釣りは禁止されてないぐらいなんだから」
一行は適当に場所を決めて、男達は釣り糸を垂らした。アリエルは空を眺め、セシリーは水に手を浸す。波紋が湖面を何処までも広がっていく──
空を眺めながら、アリエルは呟く。
「この湖の主を釣り上げると、どんな願い事でも叶うと言われているんだ」
「へえ。どんな願いでも?」
「そう、どんな願いでも。それは昔からの決まり事──」
昔々、と、アリエルは吟じるように話し始めた。
昔々、湖畔にある大きなお城に、大層美しいお姫様が暮らしておりました。
お姫様はお城にたった一人で住んでいるのです。何故なら、お姫様はお城から出られないという魔法をかけられて閉じ込められているからです。
ある日、旅の途中にお城の近くを通りかかった王子様が、窓から見えたお姫様に恋をしました。王子様は、このお城から外に出たいというお姫様の願いを叶えてあげたいのですが、その方法がわかりません。
困った王子様は、湖の畔で出会った老人に相談しました。
「どうしたらあの美しい姫をお城から出して上げられるのでしょう」
老人は、姫の願いを叶える方法が一つだけあると言いました。
「星が流れたら願い事を唱えるよう、姫に伝えなさい」
老人はそう言い、また明日この場所に来るようにと王子様に言いました。
王子様は大喜びで、姫に願い事を唱えるように伝えました。
そして次の日、王子様は再び老人の元を訪れました。しかし、王子様は老人の魔法によって大きな魚に姿を変えられてしまったのです。
「それが、湖の主なのかい?」
「そう。この湖の主は、王子様なんだよ」
まるで子供のような目をして話を聞いているビルクリムがおかしくて、アリエルは表情を緩めた。
「王子が湖面で跳ねると、空に星が流れた。星は王子が跳ねる度に流れる。流れた星に、姫は願いをかけた。そして、姫は城を出る事ができたんだ。しかし愛しい王子は湖の中。姫がどれだけ願いをかけても、王子は元の姿に戻れない」
「可哀想なお姫様」セシリーが不満そうに呟く。「せっかくお城から出られたのにねぇ」
「姫は、星に最後の願いをかける。『ずっと王子と一緒にいられますように』と。沢山こぼれ落ちた姫の涙は湖の中で星に、姫自身は湖の花に姿を変えたのです。……おしまい」
ぱちぱちぱち、と三人が拍手をする。
グレッグは不思議そうに訊いてくる。
「その湖の花というのは何なんだい?」
「湖を覗いてみて」
三人が湖を覗き込む。
「星がゆらゆらと揺らめいてない?」
「揺れてるけど……それは波のせいじゃないのかい?」
「この湖にはね、光る小さなクラゲが棲んでいるのよ」
「クラゲ?」
三人が三人とも、驚いて顔を上げる。その素直な反応が面白くて、アリエルは笑った。
「ヒカリミズクラゲ。この湖にしか棲んでいないのよ」
「へえ……うわっ!」
突然、ビルクリムの竿が大きくしなった。
「なんだ? どうした、ビルクリム」
「す、凄い当たりが……!」
ビルクリムは戦士だ。その鍛えられた筋肉が、竿一本を支える為に総動員されているのに、彼の竿はじりじりと引っ張られていく。
「きっと主よ! ビルクリム、頑張って!」
「お、おう!」
沢山の波紋が起こり、今まで静かに星空を映し出していた湖は暗い夜の淵へと姿を変えた。
一際大きな波紋が起こった。
闇の中から、巨大な影が踊り出た。
星と月の明かりに照らし出されて、鱗がきらめいた。
立派な主だ。アリエル達が乗っている舟よりもずっと大きい。
大きく跳ねた主は、舟の上を跳び越え、四人から星空を奪った。
覆い尽くされたはずの空に、星が瞬いた。
虚空で主がもう一度跳ね、ビルクリムは竿を奪い取られる。
そして、星が流れた。
眩いばかりの流星群が主からこぼれ落ち、湖へと降り注ぐ。
大きな水音を立てて、主は湖へと帰っていった。
しばし言葉を失い、アリエルは湖を眺めた。
湖面はゆっくりと静寂を取り戻し、何事もなかったかのように夜空を映し出す。
星の海に浮かぶ舟の上で、四人は静かに空を見上げた。
* * *
「へえ。あんた達、主を見たのか」
珍しくライザー食堂に来たニーナは、アリエルの話を聞いて心底感心したように呟いた。
「それは運がいい。滅多にある事じゃないからね。それで、星は流れたのかい?」
「ああ、流れた。あれは一体、何だったんだろう」
ニーナはにんまりと笑い、いつもの扇を開いた。それで自分の口元を隠し、アリエルの耳に近づける。
「お姫様が姿を変えた湖の花が何か知ってるかい?」
「ヒカリミズクラゲでしょう?」
「そうそう。あのクラゲはねぇ、湖の主と共生関係にあるんだ。卵を魚の鱗に産み付けるのさ」
「……じゃあ、あの流れ星は──」
卵さ、と答えて、ニーナは扇を閉じた。
「まあ、あまりロマンチックな話じゃないからね。広めない事をオススメするよ」
くふふふ、とニーナは笑う。
「ところで、何か願い事はしたのかい?」
「……忘れてたよ、そんな事は」
「それは勿体ない事をしたねぇ」
「はい、お待ち遠様」
セシリーが料理を運んでくる。
もう一度あの湖に行ってもいい、とアリエルは思った。今度はきちんと願い事をしよう。
もちろん、その為にはもう一度主を釣り上げなければならないのだけれど。
星に願いを…──了