回帰する幻影

作者・南雲

山の中から声がする。

穴の中から声がする。

声を聞いてはいけない。

会話をしてはいけない。

お前も連れて行かれてしまう。

あれは妖精に連れ去られた者の声──

* * *

一日中、山の中で穴を覗いている。

それが男の仕事だった。

山には黒い『穴』が空いている。

馬ぐらいならば簡単に呑み込めるほどに巨大な穴が、山の岩肌に、ぽっかりと空いている。まるでそこだけ神が造り忘れたかのように──。

その比喩は、あながち間違っていない。この穴は世界の裂け目だ。穴の向こうからは、見知らぬ生き物が這い出してくるのだ。

そいつらは人間に懐かないし、どういう訳か人間を襲う。奴等はトロールやオーガーとは違う、というのが教会の出した結論だった。

教会は奴等を『魔物』と名付けた。

その魔物を退治するのが、男の仕事だった。

奴等は必ず『穴』から這い出してくる。ならば『穴』さえ見張っていれば、必ず奴等を殺す事が出来るという訳だ。

もっとも『穴』は世界中の至る所に空いている。山の中、空の上、海の底──全てを見張っている訳にはいかない。だからどうしても世界の何処かを魔物が徘徊している。しかし減らす努力は必要だ。

男は自分の仕事に誇りを持っている。神を信じている訳ではない。もし彼等が本当に存在するのだとしたら、彼等はあまりにも怠慢だ。

男は一人で『穴』を睨んでいた。

昨日、この『穴』から這い出した魔物は蜘蛛のような姿をしていた。どうにか始末したが、彼以外の者は皆、殺されてしまった。

警戒を知らせる鐘を鳴らしたから、今日中に見回りが来るはずだ。交代が来るまでの間、この『穴』を見張っていられるのは彼だけだ。

彼とて無傷ではなかったが、使命感は失っていない。

しかし、まるで呼吸するかのように『穴』が震えた時には、さすがの彼も逃げ出したい衝動に駆られた。

立ち上がり、男は剣を抜いた。

魔物にやられた利き足が痛む。しかし、ここで逃げれば、身を守る術を持たない者が死ぬ事になる。

『穴』が大きく震えた。

『穴』が真っ黒い障気を吐き出す。腐った肉の臭い。

ずるり、と『穴』からそれが落ちてきた。

一瞬、剣を持つ手から力が抜けた。

奴等は普通、狼や、熊や、蜘蛛の姿をしている。

しかし、今回『穴』から這い出してきたものは、人間の姿をしていた。そんな話は聞いた事もない。

男は、人間を殺す為に剣を覚えたのではなかった。魔物のみを殺したいが為に剣を手に取ったのだ。

なのに、今目の前にいる殺すべきものは、人間の姿をしている。

それは女──少女の姿をしていた。薄汚れた黒髪。みずぼらしい衣服。そして心臓を鷲掴みにするような、いつか見た天使の顔──

地面に叩き付けられ、少女の身体が痙攣した。

少女は吐いた。

それが彼女の産声だった。

荷馬車の影に座り込み、シルヴィア・ブラドーは草を食べる馬の首を撫でていた。

レセフェール街から馬車で半日移動した所にある村に、シルヴィアは来ていた。もちろん観光に来た訳ではない。

「──鉄は田農の本、葡萄酒は天の美禄。今より後、水を飲まず、しばしば病にかかる故に、少しく葡萄酒を用いよ──」

修道女であるフィオのありがたい言葉を聞き流しながら、シルヴィアは土の香りを楽しんでいた。

今日は感謝祭だ。感謝祭には教会からワインが振る舞われるのだが、教会のないような村もある。そういった所には、教会の者が出向いてワインを届けるのだ。

シルヴィアは、村々にワインを届ける任を持つフィオの護衛として、この村に来ている。レセフェールの教会には、ある一件以来ずっと世話になっていて、その恩が返したかった彼女に取って、今回の仕事は丁度良かった。

馬が急に頭を上げて、シルヴィアは剣を手に馬が見ている方へと目を向けた。

一人の男が村に入ってきたところだった。

金髪碧眼の男だ。男は腰に帯剣している。

男──クリス・シュタイナーは騎士だ。彼も教会から依頼されて護衛の任に着いているのだが、今日は甲冑を着込んではいない。こうして見ると、彼の整った顔立ちはとても騎士には見えない。ただの金髪碧眼の優男だ。

クリスはシルヴィアに向けて軽く手を振った。

「何も問題はなかったかい?」

「フィオが二度ほど舌を噛んだ以外は」

クリスが苦笑いする。シルヴィアも少し頬を緩めた。

「早かったな。もっと時間が掛かると思った」

「いや、途中で引き返してきたんだ」

馬の頭を撫でようと伸ばされたクリスの手は、宙を漂った。馬はシルヴィアに頭をすり寄せていた。

金髪碧眼の優男は、行き場をなくした手を苦笑いと共にシルヴィアに差し出した。シルヴィアもその申し出を謹んで受ける。

立ち上がり、シルヴィアは声をひそめる。

「何か判かったか?」

「ああ。魔物はあの山から降りてきたらしい」

クリスは村から最も近い山を目で指し示す。

レセフェールからこの村に来る途中、シルヴィア達は二体もの魔物に出会ったのだ。それはまともな数ではない。

「危険だな。新しい『穴』が空いたのかもしれない。知らせを出さないと」

シルヴィアの提案を、クリスは即座に否定した。

「いや、それはまだ早いよ」

「何故?」

「あそこが、私達の次の目的地なんだ」

クリスの言葉の意味が解らず、シルヴィアは眉を片方だけ上げた。

「あの山には、教会が監視する『魔物の巣』があるんだ」

何故私の髪はいつもこうなのでしょう、というのがフィオ・バイオレットの口癖だ。

彼女は印象的な紫色の瞳を上目遣いにしながら、話す。

「それでですね、話している間に、こう、目のはしに自分の髪が見えたんですよ。そうなると気になるじゃないですか。ああ、また髪が変な風になったかなぁ、って思ってる時に、言葉を間違えちゃうんですよ」

彼女の赤茶色の髪は、いつもあらぬ方向を向いている。そして、白を基調とした正装服を着ている今日は、特にそれが目立った。

教会の正装服は、スカートにも上着にも、縫うべき所全てにホックとボタンが縫いつけてあるのではないかと思うほど多くの部品がついている。そのほとんどは飾りや彫刻の施されていない質素なものだが、それが何百と並んでいれば独特の美しさを持つ。何にしても、教会の衣装にしては贅沢な物である事は否めない。

彼女の姿を見てクリスは溜め息をもらしたものだが、シルヴィアの感想は一言、「大変そうだな」だった。

「着るのはそう大変でもないんですよ。そんなに重たくもないし」

否定するフィオに対して、シルヴィアは首を振り、クリスを見て言った。

「脱がすのがだ」

その後にシルヴィアが浮かべた悪魔的な笑みをクリスは一生忘れまい。自分が彫刻家であったならば、その笑みを悪魔の顔として石に刻むところだ。

「教会では身だしなみについての教えはないのか?」

「あるにはありますけど……それは、こういう身だしなみではないんですよ」

「それは勿体ない」

御者をしていたクリスは反射的にそう答えて、自分が何を言いたくてそんな言葉を口にしたのか解らずに困った。

「クリス。お前、他人の髪型や服装なんかをとやかく言うのが好きだろう」

「そうだね。子供の頃、服の仕立屋になりたいと言って親に殴られた事がある」

「そりゃあいい」

シルヴィアは例の悪魔的笑みよりは僅かにマシと言った程度の笑みを浮かべる。

「修道女はほとんど服を持っていないそうだ。フィオ、今度見立ててもらうといい」

「え? いえ、でも私、お金を持っていませんから……」

「そんな物、この男に出させればいい。この男には着せ替え趣味がある」

「いや、私はだね……」

否定しながら、クリスはシルヴィアの言葉に納得していた。

確かに、クリスにはフィオに色々な衣服を着せてみたいという欲求がある。もっともそれが恋愛感情に類する物なのかと言われれば疑問は残るが。

「クリス」

「なんだい」

少しきつい口調になったクリス対して、シルヴィアは低い声を出した。

「血の臭いがする」

「……え?」

クリスは周囲を見回した。

整備されていない山道と木々しか見えない。しかしシルヴィアの鼻は信用に値する。

「どっちだい」

「道の先。近いぞ」

シルヴィアは剣に手を掛ける。クリスも剣に手を掛ける。

緩くカーブを描いた道の先に──

木で組まれた小さな砦が姿を現した。

魔物が這い出てくる『穴』を監視する仕事がある。

魔物が這い出た場合は鐘を鳴らす決まりとなっている。鐘が鳴らされれば、近くの教会から巡回班が出される。そうすれば怪我人や死人、最悪の場合は魔物が世界に這い出したとしても対策が取れる。

門の前で、クリスは声を上げた。

「誰か、誰かいないか!」

砦の中からクリスの声に応える声はない。

「入ろう」

そう言い、シルヴィアは閉じられたままの門に向けて剣を構えた。それにクリスは溜め息を吐く。

「いくら魔剣とは言え、ずっとそんな扱いをしていたのでは長くは保ちませんよ」

「ではどうすると言うんだ」

「ここは魔物を外へ出さない為の砦なんだ。入る方法がない訳じゃない」

「あ、私、そういうの得意です」

「え?」

フィオは嬉々として手を挙げると、いきなりスカートのホックを一部外し始めた。果たして、スカートの内側からナイフが二本、取り出される。

ナイフを手に、フィオはへへへっと笑った。

「実は私、夜中に時々抜け出すんです。そんな時はこれを壁に差して──」

「いや、それは解ったから、できればホックを閉じてくれないか」

クリスはフィオからナイフを受け取り、溜め息を吐いた。そのナイフを一本、シルヴィアが横から手に取る。

「私が行く」

「いえ、ですから私が──」

「それは駄目だ」

まさかこの状況でフィオを砦の中に行かせる訳にはいかない。

シルヴィアはナイフを門の木の隙間に差し込み、それを足場に軽い身のこなしで門を跳び越えていった。

「はー、凄いんですね」

「まったく。剣士とは思えない身の軽さ。まあ、あなたがこんな物を持ち歩いている事ほどは驚きませんが」

「あはは。この事は、どうかご内密にお願いします」

本来ならば説教の一つでもするべきなのだろうが、こんな格好の彼女に手を合わせられては何も言い返せない。

──どうやら私は、相当に参っているらしい。

どうせなら、さっき言っていた買い物に行く約束を今ここで取り付けてしまおうか──

シルヴィアが門を開くのが遅い事に気付いたのは、そんな葛藤を振り切った後だった。

門を乗り越え、着地する。シルヴィアは剣を引き抜き、砦の中を確かめた。

交代要員が泊まり込む為の宿舎。危険を知らせる為に鳴らされる鐘が掛けられた塔。どこにも異常はない。血の臭いが漂い、人間がいない事を除けば。

まずは門を開くべきだろう。そう考え、シルヴィアは門を振り返った。

奇妙な音が耳に入ったのは、その時だ。

ずるり、ずるりと何かを引きずる音。いや、これは物を引きずる音ではなく──

シルヴィアは砦の中を振り返った。

宿舎の影──そこに、足が見えた。

シルヴィアはゆっくりと移動する。

少女が一人、座り込んでいた。少女は地面に屈み込んでいる。

「……何を、している」

声に少女が振り向く。一糸纏わぬ少女。

少女の前には男が一人、倒れていた。剣を握ったままの千切れた腕と、切り裂かれた腹。その腹からぬらぬらと光る臓腑が引き出されていて──

少女の顎と胸は、血に染まっていた。

にまり、と少女は嗤った。

「────!」

シルヴィアは剣を手に後ずさった。

これは、何だ。

少女が、人間を喰っている。人間が、人間を喰っている。嗤いながら喰っている。

──これは人に見せるべき光景ではない。

咄嗟に思った事は、それだった。

フィオ。彼女にこの光景を見せてはいけない。彼女は幸せにならなければならない──彼女にこんな世界は必要ない。

クリスはこの光景を見たら、神を呪うだろう。そして、この少女の命を一生背負って生きて行くに決まっている。

こんな物は、人に見せるべき物ではない。

シルヴィアは剣を振り被った。

少女は落ちていた剣を取り上げた。

それを振り被り、投げる。剣は目にも留まらぬ速さで空を切り、シルヴィアの頬を掠めて門に突き立った。その衝撃で柄を握っていた男の腕が飛ぶ。

「……貴様、魔物か」

少女は鼻をひくつかせる。

「臭う、臭うぞ」

シルヴィアは自分の耳を疑った。

言葉を持つ魔物など、聞いた事がない。いや、それ以前に、人の形をした魔物も知らない。

では、この目の前にいる少女は──

「同胞か? 同胞の臭いに似ている。仲間か。いや、違うな──」

シルヴィアは剣を構え直す。

「ああ、わかった」

少女はクツクツと嗤う。

唐突に、シルヴィアは悟った。

シルヴィアの悟った回答を、少女が口にする。

「汝は、我だ。さあ、今こそ一つとなろうぞ」

──彼女は、私に似ているのだ。

* * *

目を覚ました時、私は記憶を失っていた。

そんな私に、男は優しく接した。

私は男に聞いた。何故私を助けたのか、と。

お前は似ている、と男は答えた。

子供の頃、妖精に連れ去られて帰ってこなかった、俺の初恋の人によく似ている──

男は私の髪に触れ、寂しげに呟く。

もう何十年も昔の話だよ──

* * *

シルヴィアは一気に少女との距離を縮めた。

少女は人間離れした距離を跳躍し、シルヴィアから逃れる。

シルヴィアの脚は止まらない。一気に少女までの距離を埋める。

剣は鐘塔の足を叩き斬った。

少女は倒れる塔を登っていく。

「さあ、一つになろうぞ!」

「うるさい!」

シルヴィアは跳躍した。

剣の一撃に鐘が悲鳴を上げる。

壊れた鐘と共に、少女は落ちる。シルヴィアを嗤いながら。

「知りたくはないか。自分がどのような者達と共に生き、どのような生活をしていたのか。我は汝。我は全て知っている──」

「黙れ!」

踏ん張りの利かない突きが少女の腹を捉えた。剣は少女の腹を貫く。

少女の驚愕に歪んだ顔。

シルヴィアは腹部に痛みを覚えた。

痛みのせいで着地に失敗する。左肩から地面に落ち、鈍い音がした。

打ちつけられた衝撃と共に吐いた息に、大量の赤い物が混じった。

病院の中で、若い修道女は不思議な威厳を醸し出していた。その原因が、ここが病院である事は確かだろう。

ただ、病院内だからこそフィオが修道女としての役目を果たしているのか、シルヴィアが気弱になっているのかは判らないが。

「では、あなたは自分と同じ顔をした少女を斬ったのですね」

フィオは修道女の顔でそう呟き、寂しそうな顔をした。

「あなたのように、妖精に連れ去られ、帰ってきた子供は何人かいます。ですが、彼等の多くは言葉や記憶を失ってしまうのです。彼等は、魔物の穴に落ちたのではないかと、そう言われています。生きて帰れただけでも幸運と言わざるを得ません」

シルヴィアは、十年前に『穴』から生まれたのだ。それ以前の記憶はない。両親の記憶も、住んでいた家の記憶も。何も。

「……魔物とは、何なんだ」

フィオの返答は普段と違って淀みない。

「魔物は、悪しき者の心から生まれると言います。あの穴は、我々にわかりやすい形を与えているに過ぎません」

「──私は、その悪しき心なのか」

「いいえ」

フィオは首を横に振った。

「きっとあなたは悪い心を切り捨てられたのです。だからあの中から帰ってこられたのです」

悪い心──そんな物、自分の中にはいくらだってある。どうせなら、全ての悪しき心を奪い取ってくれれば良かったのだ。

病室の扉がノックされる。

入ってきたのは、クリスだった。

「もう動けると聞いてね。お見舞いだ」

彼の見舞いの品は花束だった。どうせならフィオに買ってやればいいものを──そう思いはしたが、さすがに好意の品物に対してそんな事を言う訳にはいかない。

「これだけ大きいと、大きな花瓶がいりますね。私、探してきます」

花束を飾る為の花瓶を用意しにフィオが病室を出たのを確かめてから、シルヴィアは唇の端で笑った。

「もう買い物には誘ったか?」

「……いいや」

「それは申し訳ない事をしたね。私がこんな事にならなければ、誘っていただろうに」

「……君は親切心とお節介の間にある大きな差違について学ぶべきだ」

先程までフィオが座っていた傍らの椅子に腰を下ろし、クリスは大げさな咳払いをした。

「ところで、君はベッドから動けないぐらいに弱っている事だし、ここは一つ、復讐でもしてみようかと思うのだが、どうだろう」

いきなり何を言い出すのかと目を丸くするシルヴィアに、クリスは苦笑いを浮かべた。

「もし彼女の服のサイズを知っていたら、教えて欲しいのだが」

「……これはフィオには秘密だぞ」

傷の痛みを堪えながら、シルヴィアはクリスに秘密を伝えた。

《回帰する幻影──了》