遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
道端に落ちた小さなゴミを見て、A男はいつも同じ理屈で笑っていた。
誰かが拾う。
その誰かには、仕事がある。
だから、たいした問題ではない。
けれどある朝、その言葉は、火ばさみを握る自分の手の中へ戻ってきた。
―――――
A男は、ゴミを捨てることに罪悪感を持たない男だった。
もちろん、家の中を散らかすわけではない。
会社の机も、きちんと片づいている。
服装も清潔で、人当たりも悪くない。
ただ、外では少しだけ違った。
飲み終えた缶を、自動販売機の横に置く。
コンビニで買ったパンの袋を、ベンチの下へ滑り込ませる。
ポケットの中で丸まったレシートを、歩きながら指先で弾く。
車を運転しているときには、窓を少し開け、吸い終わったタバコを外へ投げ捨てることもあった。
本人にとっては、どれも小さなことだった。
ある日、同僚がそれを見て眉をひそめた。
「それ、ちゃんと捨てた方がいいんじゃないですか」
A男は笑った。
「大丈夫だよ。清掃の人が拾うだろ」
「でも、迷惑ですよ」
「迷惑っていうけどさ」
A男は、少し得意げに肩をすくめた。
「それを拾うのも仕事だろ。むしろ、仕事を増やしてやってるとも言えるんじゃないか?」
同僚は何か言いかけたが、結局やめた。
A男は、その沈黙を自分の勝ちだと思った。
世の中は、誰かの手間で回っている。
誰かが汚し、誰かが片づける。
誰かが壊し、誰かが直す。
そうやって仕事が生まれ、給料が発生する。
それが社会だ。
自分は、別に悪いことをしているわけではない。
ただ、少しだけ世の中に“仕事”を作っているだけだ。
A男は、本気でそう思っていた。
その夜も、A男は車の窓を開けた。
赤信号で止まっているあいだに、タバコを最後まで吸い、指先で軽く弾いた。
火のついた吸い殻は、道路脇の排水溝の近くへ落ちた。
灰が小さく散った。
A男は、それを見届けることもなく、青信号と同時に車を走らせた。
「まあ、誰かが拾うだろ」
そう呟いて。
―――――
次に目を覚ましたとき、A男は見知らぬ作業着を着ていた。
灰色の上着。
軍手。
腰には小さなゴミ袋。
右手には、先の黒ずんだ火ばさみ。
まだ夜明け前だった。
駅前の広場には、人の気配が少ない。
ただ、地面には紙くず、吸い殻、空き缶、ペットボトルが散らばっていた。
「なんだ、これ……」
A男が戸惑っていると、背後から年配の女性が声をかけてきた。
「今日もよろしくお願いしますね。ここの広場と道路沿い、朝までにきれいにしないといけないから」
「いや、ちょっと待ってください。僕は――」
言いかけた瞬間、身体が勝手に動いた。
腰をかがめ、火ばさみで吸い殻をつまむ。
袋に入れる。
また、紙くずをつまむ。
袋に入れる。
単純な作業のはずなのに、すぐに腰が重くなった。
冷たい朝の空気が、指先から体温を奪っていく。
濡れた紙くずは火ばさみではつかみにくく、何度も滑った。
道路脇には、黒く潰れた吸い殻がいくつも落ちていた。
中には、まだ湿った灰の匂いを残しているものもあった。
「なんで、こんなものを……」
A男は舌打ちをした。
そのときだった。
少し離れた道路に、見覚えのある車が停まった。
運転席の窓が、少しだけ開く。
A男は、息を止めた。
そこにいたのは、昨日の自分だった。
昨日のA男は、タバコを吸い終えると、窓の外へ指先で弾いた。
吸い殻は、A男の足元近くに転がった。
A男は思わず叫んだ。
「おい、そこに捨てるな!」
昨日のA男は、驚いた様子もなく振り返った。
そして、面倒くさそうに笑った。
「大丈夫だろ。清掃の人が拾うんだから」
「それを今、俺が拾ってるんだよ!」
A男は、自分でも分からない怒りを込めて言った。
だが、昨日のA男は肩をすくめただけだった。
「じゃあ、仕事があってよかったじゃないか」
その瞬間、広場の景色がぐにゃりと歪んだ。
―――――
また、夜明け前だった。
A男は同じ作業着を着て、同じ火ばさみを握っていた。
地面には、同じゴミが散らばっている。
道路脇には、同じ吸い殻が落ちている。
「嘘だろ……」
最初のうちは、必死で拾った。
全部拾えば終わると思った。
けれど、拾い終えた頃に、昨日の自分が現れる。
パンの袋をベンチの下に押し込む。
レシートを指先で弾く。
空き缶を植え込みの横に置く。
車の窓から、タバコを投げ捨てる。
そのたびに、A男は声を荒げた。
「やめろ!」
昨日のA男は、毎回同じ顔で笑った。
「何を怒ってるんだよ。お前の仕事だろ?」
日が昇るころには、腰が痛んだ。
膝も笑った。
ゴミ袋の口からは、濡れた紙と古い油の匂いが立ちのぼっていた。
吸い殻だけは、数が多すぎた。
小さく、軽く、拾っても拾っても、なぜか地面に残っている。
何度目かの朝、A男は拾うのをやめた。
火ばさみを地面に置き、ベンチに座り込んだ。
「知るか。俺が捨てたんじゃない」
そう言った瞬間、通勤途中の人々が広場に流れ込んできた。
一人が顔をしかめた。
「うわ、汚いな」
別の人が言った。
「清掃の人、何やってるんだろう」
誰かが靴の裏で紙コップを踏みつぶした。
中に残っていた飲み物が、地面に広がった。
道路脇では、車から投げ捨てられたタバコが、排水溝のそばで小さく潰れていた。
A男は、反射的に立ち上がりそうになった。
だが、立ち上がったところで、また拾うことになる。
拾えば拾うほど、昨日の自分が捨てる。
拾わなければ、汚れはその場に残り、別の誰かが不快そうに顔をしかめる。
A男は、そのとき初めて気づいた。
自分が増やしていたのは、仕事ではなかった。
誰かの朝の重さだった。
誰かの腰の痛みだった。
誰かが何も言わずに飲み込んできた、ほんの小さな疲れだった。
けれど、気づいたところで朝は終わらない。
また、昨日のA男が現れた。
今度は車の窓から、吸い終わったタバコを持つ手が出ている。
A男は、ゆっくり立ち上がった。
「頼む。やめてくれ」
昨日のA男は、不思議そうに首をかしげた。
「なんで?」
A男は言葉に詰まった。
迷惑だから。
危ないから。
大変だから。
誰かが拾うからといって、捨てていいわけじゃないから。
そう言いたかった。
けれど、その全部を、かつて自分が笑っていたことも分かっていた。
昨日のA男は、タバコを指先で弾いた。
吸い殻は、A男の足元へ落ちた。
軽い音だった。
けれど、A男には、それがひどく重たく聞こえた。
昨日のA男は、あのときのA男と同じ声で言った。
「仕事が増えてよかっただろ?」
A男は、何も言い返せなかった。
その言葉は、誰かを黙らせるための理屈ではなくなっていた。
今はただ、自分の足元に落ちた吸い殻のように、拾うしかないものになっていた。
火ばさみを握り直す。
腰をかがめる。
袋の口を開く。
そしてまた、夜明け前の広場が始まる。
―――――
外へ捨てたものは、形を変えて自分の中へ返ってくる。
この話は、ゴミを捨てる人を裁くための話ではない。
問題は、ゴミそのものよりも、そこに添えられる理屈にある。
「誰かがやるだろう」
「それも仕事だろう」
「むしろ仕事が増えていいだろう」
こうした言葉は、軽く聞こえる。
けれど、その軽さは、たいてい自分が受け取る側にいないから成り立っている。
もちろん、清掃の仕事には価値がある。
街を整え、人が気持ちよく過ごせる場所を保つ、大切な仕事だ。
けれど、仕事があることと、余計な負担を増やしていいことは同じではない。
誰かの仕事を尊重することと、誰かの手間を勝手に増やすことは違う。
その違いが見えなくなったとき、人は迷惑を善意のように語り始める。
ゴミを拾う人は、感謝されるために拾っているとは限らない。
仕事として拾う人もいれば、ただ少しでも街がきれいになればと思って拾う人もいる。
そこにあるのは、誰かの利益ではなく、黙って引き受けられている小さな負担だ。
一方で、捨てる側の言葉は、とても簡単だ。
「たいしたことじゃない」
「一つくらい大丈夫」
「どうせ誰かが片づける」
その一つ一つは、小さい。
けれど、小さいものが積み重なったとき、それは環境の問題にも、人間関係の問題にも、社会全体の空気にもつながっていく。
法律だけで、すべての行動を縛ることはできない。
誰も見ていない場所でどう振る舞うか。
バレなければいいと思うのか。
自分には関係ないと思って通り過ぎるのか。
そこに出るのは、知識よりも、肩書きよりも、表向きの立派さよりも、もっと根本にあるものなのだと思う。
この話の裏側にあるのは、ゴミの話だけではない。
ゴミを捨てるという行為は、ただ不要なものを外へ放り出すことではないのかもしれない。
本当は、自分の中で整理できなかったものを、考えないまま外へ置いていく行為でもある。
「面倒くさい」
「自分には関係ない」
「誰かが片づける」
そうした未整理な考えを、そのまま行動にして放置していく。
その結果、外に捨てたはずのゴミは、巡り巡って、自分の内側にも積もっていく。
道端に残るゴミは、街を汚す。
けれど、正当化しながら捨てたゴミは、少しずつ自分の感覚も鈍らせていく。
人は、長期的な痛みを今の痛みとして感じるのが苦手だ。
今ここで捨てた小さなものが、いつか自分や誰かに返ってくる。
その想像が弱くなるほど、人は簡単に「自分だけは関係ない」と思ってしまう。
けれど、返ってこないものなど、本当はないのかもしれない。
誰かが拾っていたもの。
誰かが黙って整えていたもの。
誰かが見えないところで引き受けていたもの。
それを「当然」と思い始めたとき、捨てているのはゴミだけではない。
ゴミを捨てるという小さな行為は、人間性を少しずつ捨てる行為でもあるのかもしれない。
この物語が最後に置いている問いは、そこにある。
自分が「たいしたことじゃない」と済ませたものを、誰が拾っていたのか。
そして、それがいつか自分に返ってきたとき、自分はまだ同じ理屈を言えるのか。
その問いの前では、小さな吸い殻ひとつも、少しだけ重さを変えるのかもしれない。