遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
人は、自分の身体をどこまで自分のものとして語れるのだろう。
そして、自分にはない身体の部位を、どこまで「人間一般」の話として語ってよいのだろう。
隠された身体と、それを思想の材料にする危うさをめぐる――裏思考遊戯。
―――――
A子は、大学で哲学を教えていた。
彼女の授業は、いつも人気があった。
難解な思想を、日常の感覚に引き寄せて語るのがうまかったからだ。
存在とは何か。
自由とは何か。
身体とは何か。
他者とは何か。
A子は、それらの問いを、抽象的な言葉だけで終わらせなかった。
椅子に座る姿勢。
食事をする手つき。
誰かと距離を取るときの身体の向き。
痛みを感じた瞬間に、自分の意識がどこへ集中するか。
そうした具体的な身体感覚から、哲学を立ち上げていく。
学生たちは、その授業を面白がった。
難しい本の中だけにあると思っていた哲学が、自分の足元や手のひらにまで降りてくる感覚があった。
ある日、A子はいつもより静かに教壇に立った。
そして、黒板に大きく二つの言葉を書いた。
肛門。
睾丸。
教室が、一瞬でざわついた。
笑う者。
顔を伏せる者。
隣同士で目を合わせる者。
あからさまに不快そうな表情をする者。
A子は、その反応をしばらく見つめてから言った。
「今日の課題は、この二つの部位について考えることです」
さらに教室がざわついた。
A子は続けた。
「もちろん、刺激的な言葉で皆さんを驚かせたいわけではありません。むしろ、私たちがなぜこの言葉に反応するのか、その反応そのものを見たいのです」
学生たちは、少しずつ黙っていった。
A子は黒板の前に立ち、ゆっくりと説明した。
「肛門は、排泄に関わる部位です。私たちは毎日、食べ、吸収し、不要になったものを外へ出しています。けれど、その行為は多くの場合、一人きりで、扉の向こう側で、できるだけ見られないように行われます」
学生たちの表情が、少し変わった。
「つまり肛門は、身体の中に取り込んだものを外へ出す境界でもあります。内部と外部、清潔と不潔、生きることと捨てること。その境目にあります。しかもその境目は、日常の中で何度も通過しているのに、公には語られにくい」
誰かがペンを動かし始めた。
「一方で、睾丸は生殖に関わる部位です。個人の身体に属しながら、種の継続という大きな流れにも関わっています。個と種、私の身体と未来の生命。その接点にあるとも言えます」
A子は、少し間を置いた。
「ただし、そこには単なる機能だけでなく、恥ずかしさ、からかい、痛みへの恐れ、性別にまつわる期待もまとわりつきます。身体の部位は、医学的な説明だけでは終わらないのです」
学生たちは、先ほどよりも真剣に聞いていた。
A子は、学生たちを見渡した。
「この二つは、普段あまり公に語られません。隠され、恥ずかしいものとされ、ときには冗談の材料にもされます。けれど、人間存在を考えるうえで、隠された身体ほど重要な問いを含んでいることがあります」
その日の授業は、予想以上に盛り上がった。
ある学生は、身体の境界について語った。
ある学生は、恥の感覚について語った。
ある学生は、生命の継続と個人の自由について語った。
最初は笑っていた学生たちも、少しずつ真剣になっていった。
A子は満足していた。
やはり、タブーの中には強い問いがある。
見ないようにしている場所ほど、人間の本質が隠れている。
そう感じた。
数週間後、A子はその授業をもとに論文を書き始めた。
題名は、「隠された身体部位における存在論的境界」。
自分でも少し硬いと思ったが、学術誌にはその方が合っている。
A子は書斎にこもり、資料を広げた。
排泄。
生殖。
羞恥。
境界。
所有。
身体性。
言葉は次々とつながっていった。
肛門は、身体の内と外を分ける場所。
睾丸は、個体と種を結ぶ場所。
どちらも隠されているが、存在の根幹に深く関わっている。
A子は、書きながら興奮していた。
自分は、誰も正面から扱わなかった問いに触れている。
下品さではなく、哲学として。
笑いではなく、思考として。
その手応えがあった。
論文の草稿がほぼ完成した頃、A子はゼミの学生たちに意見を求めた。
学生たちはおおむね好意的だった。
「面白いです」
「タブーを哲学にする視点が新鮮です」
「身体を抽象化しすぎないところが良いと思います」
A子は、内心でほっとした。
そのとき、教室の後ろに座っていた男子学生のCが手を挙げた。
Cは、普段あまり発言しない学生だった。
いつも静かにノートを取り、必要なときだけ短く質問する。
A子は言った。
「どうぞ」
Cは少し迷ったあと、口を開いた。
「先生の論文は、面白いと思います」
「ありがとう」
「でも、少し気になるところがあります」
A子は頷いた。
「どこでしょう」
Cは、手元の草稿に目を落とした。
「先生は、睾丸について“人間存在の一部”として語っています。でも、先生自身の身体には、それはありませんよね」
教室が静かになった。
A子は一瞬、言葉を失った。
Cは続けた。
「もちろん、持っていない部位について考えるな、という意味ではありません。哲学は他者についても考えるものだと思います。ただ、先生の文章では、睾丸が少し綺麗な概念になりすぎている気がしました」
「綺麗な概念?」
「はい。個と種をつなぐ場所、とか、生命の継続に関わる器官、とか。間違ってはいないと思います。でも、それを持っている側の身体感覚は、そこまで綺麗なものだけではありません」
A子は黙って聞いた。
Cの声は落ち着いていた。
責めているというより、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「痛みや不安もあります。からかわれることもあります。男らしさと結びつけられることもあります。子どもを作れるかどうかという圧力もあります。機能の話をされると、自分の身体が“種のための装置”みたいに感じられることもあります」
A子の指先が、草稿の紙の端を押さえた。
Cはさらに言った。
「肛門についても同じです。全員にある部位だから語りやすいのかもしれません。でも、そこにも恥や病気や痛みや、他人には言えない経験があります。哲学の言葉で扱われると、かえって遠くなることがあります」
A子は、小さく息を吸った。
「つまり、私は抽象化しすぎているということですか」
Cは少し考えた。
「抽象化が悪いとは思いません。でも、抽象化するときに、その部位を持っている人の恥ずかしさや痛みや沈黙まで、勝手に片づけてしまうことがあると思いました」
教室には、重い沈黙が落ちていた。
A子は、その沈黙をすぐに言葉で埋めようとした。
「それは、とても大切な指摘ですね」
いつものように、教師として受け止める言葉が出た。
だが、その言葉が少し滑らかすぎることに、A子自身が気づいた。
Cは軽く頭を下げた。
「すみません。うまく言えませんが」
「いえ、ありがとう」
その日のゼミは、それ以上大きな議論にならなかった。
けれどA子の中では、Cの言葉が残り続けた。
先生自身の身体には、それはありませんよね。
その夜、A子は自宅の書斎で論文を読み返した。
自分で書いた文章なのに、少し違って見えた。
肛門。
睾丸。
内部と外部。
個と種。
清潔と不潔。
生と継続。
整った言葉が並んでいる。
けれど、その整い方が、急に白々しく見えた。
A子は、自分の身体に意識を向けた。
肛門は、自分にもある。
だが、普段それについて深く考えることは少ない。
不調があるときだけ、そこに意識が向く。
恥ずかしさや痛みがあるときだけ、急に存在感を持つ。
つまり、それは概念である前に、生活の中の部位だった。
では、睾丸はどうだろう。
A子の身体には、それはない。
ないのに、A子はそれを「人間存在」の一部として、当然のように語っていた。
もちろん、研究者は自分にないものも扱う。
男性が出産について論じることもある。
女性が男性の身体について考えることもある。
健康な人が病について考えることも、若者が老いについて考えることもある。
それ自体が悪いわけではない。
しかし、持っていない身体を語るとき、人はどこかで大胆になりすぎるのかもしれない。
自分の痛みではないから、構造にできる。
自分の恥ではないから、論点にできる。
自分の日常ではないから、比喩にできる。
A子は、論文の一文を見つめた。
「睾丸は、個体を種へと開く象徴である」
美しい一文だと思っていた。
だが、その言葉の中に、Cが言った「種のための装置みたいに感じる」という響きが重なった。
A子は、ペンを置いた。
身体は、哲学の材料になる。
だが、材料にされた身体には、必ず誰かの生活がある。
そのことを、自分は十分に見ていただろうか。
数日後、A子は授業で、もう一度同じ話題を扱うことにした。
教壇に立ったA子は、黒板に再び二つの言葉を書いた。
肛門。
睾丸。
学生たちは、前回ほどざわつかなかった。
すでに慣れたのか、むしろ真剣な顔をしている者もいた。
A子は言った。
「前回、私はこの二つを、存在の境界として語りました。肛門は内部と外部を分ける場所。睾丸は個と種をつなぐ場所。そう説明しました」
学生たちは静かに聞いている。
「けれど、その説明には大きな落とし穴がありました」
A子は、少しだけ間を置いた。
「それは、身体をあまりにも簡単に“意味”に変えてしまったことです」
教室の空気が変わった。
A子は続けた。
「身体の部位は、たしかに思想の入口になります。けれど、そこには持ち主がいます。痛みを感じる人がいます。恥ずかしいと思う人がいます。からかわれたり、隠したり、病気を抱えたり、誰にも言えない感覚を持っていたりする人がいます」
A子は、自分の草稿を手に取った。
「私は、睾丸について語りました。けれど私は、それを持つ身体で生きたことはありません。だからこそ、私はもっと慎重でなければならなかった」
何人かの学生が、顔を上げた。
A子は続けた。
「持っていない身体について語ってはいけない、という話ではありません。語らなければ、他者理解は始まりません。でも、語るときには、自分がそこに直接住んでいないという事実を忘れてはいけない」
A子は、黒板の文字を見た。
「肛門も睾丸も、ただの下品な言葉ではありません。生命や境界や恥や所有の問題を含んでいます。けれど、それを面白い哲学の材料として扱った瞬間、私たちは簡単に、誰かの身体を自分の思考の道具にしてしまう」
教室は、静かだった。
誰も笑わなかった。
A子は黒板に、新しい一文を書いた。
身体を思想の比喩にすることはできる。けれど、比喩にされた身体にも、持ち主がいる。
A子は振り返った。
「今日の課題は、前回とは少し変えます」
学生たちはペンを構えた。
「自分の身体の中で、他人に簡単に意味づけされたくない部位、感覚、経験について考えてください。ただし、それを発表する必要はありません。提出もしなくていい。言葉にできる人だけ、自分のために書いてください」
ある学生が手を挙げた。
「提出しなくていい課題に、意味はあるんですか」
A子は少し笑った。
「あります。むしろ、他人に見せないからこそ見えてくるものがあります」
別の学生が尋ねた。
「哲学なのに、共有しなくていいんですか」
A子は答えた。
「共有できるものだけが、思考ではありません。共有する前に、守られるべき沈黙もあります」
その言葉を言いながら、A子自身が少し驚いていた。
以前のA子なら、すべてを議論の場に出すことを良いことだと考えていた。
語れないものを語れるようにすることが、知性の役割だと思っていた。
だが今は、少し違っていた。
語ることには力がある。
だからこそ、語らない権利もまた必要なのだ。
その日の授業のあと、CがA子のところへ来た。
「今日の授業、よかったです」
A子は頭を下げた。
「あなたの指摘のおかげです」
Cは少し戸惑ったように笑った。
「別に、先生を責めたかったわけじゃないんです」
「分かっています」
A子は言った。
「でも、責められていなくても、私は一度立ち止まる必要がありました」
Cは静かに頷いた。
「身体って、難しいですね」
A子も頷いた。
「ええ。自分のものなのに、自分でも分からないことがある。まして、他人の身体ならなおさらです」
Cは少し考えてから言った。
「でも、考えないよりはいいと思います」
A子は、その言葉に救われた気がした。
「そうですね。ただし、考えるときには、少しだけ靴を脱ぐような気持ちが必要なのかもしれません」
「靴を脱ぐ?」
「誰かの身体の話に入るとき、土足のまま踏み込まないということです」
Cは、少し笑った。
「それ、論文に書いた方がいいと思います」
A子も笑った。
その夜、A子は論文の題名を変えた。
「隠された身体部位における存在論的境界」
それを消し、こう書いた。
「身体の抽象化と当事者性に関する一考察」
以前より、少し地味な題名になった。
だが、研究論文としてはその方が自然だとA子は思った。
そして、論文の冒頭に一文を置いた。
「比喩にされた身体には、常にその身体を生きる持ち主がいる」
論文の内容も、大きく書き直した。
肛門と睾丸を、単に内部と外部、個と種の象徴として扱うのではなく、恥や痛みや所有、そして語る権利の問題として捉え直した。
自分にはない部位について語るときの距離。
自分にある部位についてさえ、語りきれない曖昧さ。
他者の身体を「人間一般」としてまとめることで失われる個別性。
A子は、書きながら何度も手を止めた。
以前より、文章は進みにくかった。
言い切れないことが増えた。
美しい一文でまとめられない箇所が増えた。
だが、それでいいのかもしれないと思った。
身体は、そんなに簡単にまとまらない。
翌月、A子は論文の最後に、こう書いた。
「人間の身体の部位は、存在の意味を探る鍵になりうる。だが、その鍵を手にした者が、他人の身体の扉を勝手に開けてよいわけではない」
A子はその一文を読み返した。
以前のような衝撃的な締めくくりではない。
鋭さも、少し弱くなったかもしれない。
けれど、そこには以前よりも確かな慎重さがあった。
A子は、ふと思った。
哲学は、すべてを明るみに出すためだけにあるのではない。
明るみに出してはいけないものの前で、立ち止まるためにもある。
その日、A子は研究室の窓を開けた。
外では学生たちが歩いている。
それぞれの身体で。
それぞれの恥や痛みや沈黙を抱えながら。
A子は、もう一度だけ黒板に書いた言葉を思い出した。
比喩にされた身体にも、持ち主がいる。
そしてその持ち主は、いつも哲学者の都合よく語られるために存在しているわけではない。
―――――
この話の裏側にあるのは、「身体を語ること」と「身体を奪って語ること」の違いである。
人間の身体には、哲学的な問いが多く含まれている。
食べること、出すこと、痛むこと、産むこと、老いること、性的な部位を持つこと、持たないこと。
どれも、ただの生理的な機能ではなく、恥や尊厳や関係性と結びついている。
だから、身体を思考の入口にすること自体は悪いことではない。
むしろ、普段隠されている部位や感覚を見つめることで、人間について深く考えられることもある。
きれいな言葉だけでは届かない場所に、身体の具体性が光を当てることもある。
しかし、そこには危うさもある。
身体の部位をすぐに「象徴」や「比喩」に変えてしまうと、その部位を持って生きている人の感覚が置き去りにされることがある。
肛門を「内部と外部の境界」と呼ぶことはできる。
睾丸を「個と種の接点」と呼ぶこともできる。
だが、それだけで語り切ったつもりになると、恥や痛みや病やからかい、所有感や違和感といった、生きた身体の側面が消えてしまう。
特に、自分にはない身体について語るとき、人は慎重でなければならない。
持っていないから語ってはいけない、ということではない。
それでは他者理解は始まらない。
だが、持っていないからこそ、綺麗にまとめすぎてしまう危険がある。
自分の痛みではないものは、理論にしやすい。
自分の恥ではないものは、論点にしやすい。
自分の生活にないものは、比喩にしやすい。
そのしやすさの中に、他人の身体を借り物の材料として扱ってしまう危うさがある。
身体を思想の比喩にすることはできる。けれど、比喩にされた身体にも、持ち主がいる。
これは、身体の話に限らない。
誰かの苦しみ。
誰かの属性。
誰かの過去。
誰かの沈黙。
それらもまた、語り手にとっては「テーマ」や「素材」になることがある。
しかし、素材にされたものの向こう側には、実際にそれを抱えて生きている人がいる。
現代では、それらが簡単に「ネタ」になる。
誰かの失敗が笑い話になり、誰かの痛みが考察の材料になり、誰かの恥ずかしさが作品や噂話のきっかけになる。
そして一度ネタとして流通し始めると、そこにあったはずの不安や恐れや沈黙は、見えにくくなっていく。
もちろん、経験を物語や表現に変えること自体が悪いわけではない。
語ることで救われることもある。
誰かの経験が、別の誰かの気づきになることもある。
痛みを言葉にすることで、ようやく自分自身のものとして受け取り直せる場合もある。
けれど、そのときに忘れてはいけないのは、ネタにされたものの奥には、それを生きた人の感覚があるということだ。
面白い話になる前に、そこには痛みがあったかもしれない。
拡散される前に、不安があったかもしれない。
作品の材料になる前に、誰にも知られたくない恥ずかしさがあったかもしれない。
語ることは大切だ。
考えることも大切だ。
表現に変えることも、時には必要だ。
けれど、すべてを語ればよいわけではない。
ときには、言葉にする前に立ち止まること。
相手の身体や経験に、土足で踏み込んでいないかを確かめること。
そして、語らない権利や沈黙のまま守られる領域を尊重すること。
それもまた、思考の一部なのだと思う。
この物語が最後に残している問いは、そこにある。
私たちは、誰かの身体や経験を語るとき、それを理解しようとしているのか。
それとも、自分の考えを美しく見せるための比喩として、あるいは面白く消費するためのネタとして、使っているだけなのだろうか。